読書の記録

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コンビニ人間 (ネタバレ)

2016年11月23日 | 小説・文芸
コンビニ人間 (ネタバレ)
 
村田沙耶香
文芸春秋

 
 「コンビニは現代の教会である」という説がある。
 
 24時間誰に対しても開かれており、闇夜の中ではそこだけが煌々と光り輝き、中に入れば暖かい飲み物や食べ物がある。仕事や家庭や生き方を指南し、エンターテイメントを提供してくれる雑誌コーナーがある。当座生活に必要なものはなんでもある。室内は万事清潔であり、夏は涼しく冬は暖かく、そのうえ音楽もかかっている。
 住宅街にあるコンビニは、平日の午前中ともなると、弁当やおにぎりを手にした高齢者でいっぱいになる。駅近くのコンビニは、終電間際の時間帯にもなると疲れたサラリーマンやOLがなにか気分転換になるものはないかと足をむける。日中は引きこもって家から出てこない人も、深夜にのっそりとコンビニに顔を出す。
  
 お客さんがだれであっても、店員は笑顔で快活にいらっしゃいませ、温めますか? と声をかける。
 金融機関ならばかなりめんどうくさい振り込み手続きをちゃっちゃとやってくれるし、揚げたてのから揚げを出してくれる。
 
 そんなのはお金があるからじゃないかというかも知れない。お金がないのならばコンビニで働けばよい。雇用の面からいってもコンビニは開かれている。高校生でもバイトができるし、外国人も雇用される。おばさんのパートだっている。雇用の多様性という意味では、この日本にあってコンビニはかなり先端的だ。しかもコンビニはいつもスタッフを募集している。

 コンビニは現代の教会である。
 
 
 そんなコンビニは、おそらくアスペルガー症候群なのであろう古倉恵子さんにも開かれている。
 
 古倉さんからみれば不条理に満ちたこの世の中はたいへんに生きづらい。彼女も、自分の思考や立ち振る舞いがどうやら社会にとって受け入れられないらしいということは経験を経て自覚しており、軋轢を起こすのは本意ではないから細心の注意をはらって言動を選んでいるのだが、それはなかなか至難なことで、恋愛も就職も避け、人々とのつきあいも限定的なものにならざるを得ない。
 
 そんな古倉さんにとって、完全にシステム化されたコンビニという世界で働くことは、社会と適合できる接点だった。適材適所とはこのことをいう。周囲のみんなは、君子危うきに近寄らずの姿勢で、無難な距離感をもってしか古倉さんに接しないが、コンビニがなかったら、いまごろ古倉さんはどこかできょとんと重大な事件を起こしていたかもしれない。
 
 
 だから、これで何もなければWin-Winだったのだが、古倉さんがコンビニ人間になって18年、ここに白羽くんという「現代は縄文時代から何も変わっていない」を主張する社会不適応な男が登場することで、いろいろバランスがおかしくなっていく。この白羽くんの理屈は、縄文時代とはムラにおける競争と選別と排他の社会であり、現代においてなお、その社会環境はなくなっていないというものである。(白羽くん、かなり無茶苦茶な人間だけど、作者の世の中への憂いを代弁させてるのは古倉さんではなく、この白羽くんなのではないかとも思っている)
 
 しかし、考えてみれば縄文時代に教会、いやコンビニは無い。コンビニがなかったから縄文時代はあんなに荒んだのだ。競争と選別と排他があったのだ。
 
 だけど、現代にはコンビニがある。コンビニの外の世界は、競争と選別と排他の世界かもしれないが、一歩コンビニに入ればそこは聖地だ。白羽君は、コンビニの「教会性」に気づかなかったため、縄文時代の敗北感に苛まされるのである。
 
 
 コンビニは24時間だれに対しても開かれている。白羽くんのような人間でも完全には門戸を閉ざず、一度は就労の機会を与えたではないか。まして、多幸感いっぱいにコンビニに戻ろうとする古倉さんの帰還を拒むわけがない。
 
 

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