読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

ChatGPTの頭の中

2023年08月14日 | テクノロジー
ChatGPTの頭の中
 
スティーヴン・ウルフラム 訳:高橋聡 監訳:稲葉通将
早川書房
 
 
 薄い新書でとっつきやすいかと思ったらおそろしく難解であった。こちとらなんとかG検定を合格した身だが、ここに書いてあることの4分の1も理解できていない。そもそも理解するのに大苦戦したG検定の参考書に書いてあった用語や概念が、こちらでは知っていて当然のごとく情け容赦なく怒涛のように押し寄せる。
 
 著者のスティーヴン・ウルフラムは理論物理学者である。世界的なステイタスのある人で、あの数学ソフトウェア「Mathematica」を開発した人でもある。「Mathematica」とは数学の複雑な演算や統計的なシミュレーションを行えるかなり本格的な数理計算ソフトウェアのことで、理系の研究室なんかではポピュラーな存在だ。
 
 しかし、世界的数学者が見えている世界というのは、凡人の解像度を大いに超えているものであって、本書の記述を読みながら彼がまなざしの向こうに何が見えているのかを想像するのは非常に難しい。ChatGPTの頭の中の前にスティーヴン・ウルフラムの頭の中を知る必要がありそうだ。
 
 こういう翻訳書でわけがわからないとなると、その八つ当たりが訳者にむけられることがある。しかし本書では、この方面に実績がある訳者が起用されたようだし、しかもご丁寧に監訳者も別に用意されている。わざわざ監訳がついているくらいだから本書はわかる人はわかる内容になっているのであろう。ちなみに2023年8月11日時点でAmazonのレビューを見てみると、16件のレビューがついており星は平均で4つと表記されていた。そこそこ高い印象を受ける。
 
 Amazonでは星の平均点だけでなく、星のつき方の内訳も提示されている。本書は以下のごとくであった。
 
 星5つ・・62%
 星4つ・・・8%
 星3つ・・・8%
 星2つ・・13%
 星1つ・・・8%
 
 星5つが最多である。この難読本を読破して高い評価を付けた人は少なからずいるのだが、しかし難しすぎたのか低スコアのほうにも星2つを中心に山がある。みんながみんな高い評価をしたわけではないようだ。
 
 こんな風に評価のばらつきが単純ではなさそうなとき、算出したくなるのが統計学で言うところの「分散」である。「分散」というのはデータがどのくらいばらついているのかを示すスコアだ。昔取った杵柄で計算してみる
 
 平均が4.0なので、分散値を出すには
 
 (5-4)²*0.62+(4-4)²*0.08+(3-4)²*0.08+(2-4)²*0.13+(1-4)²*0.08
 
 という計算をする。この計算式を解くと答えは1.94になる。ついでに分散の平方根である「標準偏差」というスコアも出しておこう。そうすると
 
 平均 4.0
 分散 1.94
 標準偏差 約1.39
 
 というのが、本書におけるAmazon評価の分布ということになる。
 標準偏差1.39というのは、雑に言うと各々がつけた評価点の平均点からの距離が平均1.39という意味だ。5段階評価という尺度でのそれだから、ばらつきは大きいとみていいだろう。
 
 以上の計算は面倒な手計算をしなくても、Excel統計などの統計ソフトウェアに数字をぶちこめばあっという間に出てくる。そういう意味ではこの手のものはコンピュータのお手の物の世界のはずだが、本書「ChatGPTの頭の中」で指摘しているように、実はChatGPTは数字の計算が大の苦手であることが知られている。
 
 そこでChatGPT3.5にどんなものか計算をしてもらおう。以下をプロンプトで問うてみた。
 
——————

とある書籍の星取り評価をみたら、以下のようになっていました。
 
 星5つ・・62%
 星4つ・・・8%
 星3つ・・・8%
 星2つ・・13%
 星1つ・・・8%
 
この書籍の、評価の平均点と分散と標準偏差を出してください。

——————
 
 この問いに対するChatGPTの回答が以下である。雰囲気だけでもつかんでほしい。
 
——————

まず、各評価の星数を数値に置き換えます。
 
星5つ → 5
星4つ → 4
星3つ → 3
星2つ → 2
星1つ → 1
 
次に、与えられたデータをもとに平均、分散、および標準偏差を計算します。
 
平均 (μ) = Σ(評価 * 頻度) / 総評価数
分散 (σ²) = Σ( (評価 - 平均)² * 頻度 ) / 総評価数
標準偏差 (σ) = √分散
 
計算を行います。
 
平均 (μ) = (5 * 62 + 4 * 8 + 3 * 8 + 2 * 13 + 1 * 8) / 100 = 3.69
分散 (σ²) = ( (5 - 3.69)² * 62 + (4 - 3.69)² * 8 + (3 - 3.69)² * 8 + (2 - 3.69)² * 13 + (1 - 3.69)² * 8 ) / 100 ≈ 1.87
標準偏差 (σ) = √1.87 ≈ 1.37
 
したがって、この書籍の評価の平均点は約 3.69、分散は約 1.87、標準偏差は約 1.37 となります。

——————
 
 想像していたよりも、ちゃんと計算過程が文章で表示されて出てきたので一瞬ビビる。μとかΣとか使ってくるあたり迫力充分だ。本当はChatGPTは計算できるんじゃないの? と信じたくなる。
 が、よくみると計算結果が先に挙げたものと違うではないか。相手はAIだ。自分のほうが計算間違いをしたのではと再び怯むがここは落ち着こう。何度みてもChatGPTは計算を間違えている。
 
 平均 (μ) = (5 * 62 + 4 * 8 + 3 * 8 + 2 * 13 + 1 * 8) / 100 = 3.69
 
 μ(ミュー)なんて統計用語を出すのでそれっぽいし計算式そのものは正しいのだが、これ肝心の計算結果がやはりおかしい。だって平均は4.0だってAmazonが言っているではないか。
 ねんのためにGoogleの検索窓に上記式をコピペしたら、ちゃんと4.0が出た
 
 その先を見ていこう。分散を計算している箇所も計算式そのものはあっているが計算間違いをしている(前の行で出した平均μ=3.69をちゃんと代入しているところなどすげえと思ったが)。ChatGPTが出したこの分散(σ²)の複雑な計算式をGoogleにぶち込んでみたら答えは約2.06となった
 
 ちなみに最後に標準偏差としてChatGPTが示した「1.87の平方根が約1.37」というのは正解である。なぜこれだけ計算が正解できたのかは興味深いが、もともと代入すべき分散の値が間違っていたのだからこれでは意味がない。

 ここで確認しておきたいことは、ChatGPTは計算ができないことではなくて、計算ができていないのにあたかも計算できたかのようにそれっぽいなめらかな文章を回答してくる、という現象である。そういうアウトプットを出してくるChatGPTはどういう頭の中をしているのか、というのをこれから考えてみる。

 
 まず、ChatGPTはなぜあんなに上手になめらかな文章で回答してくれるのか。本書「ChatGPTの頭の中」は、ChatGPTが「文章生成モデル」としてどのような仕組みをとっているかを解説している。
 
 その仕組みのココロは「これまでに入力された単語から判断して次は何の単語を出すのがもっとも適切かを決めていく」というシロモノである。
 
 その判断力を鍛えるためにChatGPTは膨大な学習データを事前に読み込んでいる。その学習データとはWEBの大海を埋め尽くす莫大な文書である。それらを読み込むことで、例えば「小さい」と「子犬」がでてくればどうやらかなりの確率で「かわいい」が出てくるらしいというような言葉同士の関係値を、星の数ほどもある膨大なテキストデータから学んで類推できるようにしておくのだ。
 そのような気が遠くなるほどの数の言葉同士のつながりの強弱を計算し、そこに文法や構文のお約束ごとを学習させればChatGPTはなめらかな文章を生成できてしまう。

 しかも、このミラクルのような文章生成を実現させたことは、逆説として「文章を書くという行為は実はたいしたことないのだ」ということを暴き出したと著者ウルフラムは言う。難解な本書において僕が数少なく理解できて、しかも大いに膝をうったところだ。
 
 小論文の執筆のように、人間にはできてもコンピュータにはできないと考えられてきた処理が、実は計算処理の点から考えると、ある意味では思ったより容易だということだ。言い換えるなら、ニューラルネットがうまく小論文を書けるのは、小論文の執筆というのが、これまで考えられていたより「計算処理的に浅い」問題だったからなのである。(P,71)
 
 人間の言語は(そして、それを支えている思考のパターンは)、どうやら私たちが考えていたよりも単純であり、その構造はもっと「規則的」らしいということだ。そのことを暗黙のうちに明らかにしたのがChatGPTである。(P.128)
 
 つまり「なめらかな文章を書く」というのは、とっても文系的とでも言うか、直感やセンスが要求される所作のように思われるが、実は計算式に還元できるようなアルゴリズム(それも計算処理的に浅いw)だったというのだ。衝撃的である。さすが天才は言うことが違う。ディープラーニングの世界はまたひとつパンドラの箱を開けてしまった。かつてAIで東大入試に合格させる東大ロボプロジェクトというのがあってこれが挫折したのは国語の問題が解けそうにもなかったということだったが、最後の砦であった国語能力までAIに乗っ取られそうな勢いである。
 
 だけれど、そこまで周到に単語ネットワークを張り巡らせているのに、文章の中に数学的な論理を必要とする要素を求められるとChatGPTはしゃあしゃあと嘘をつく。それはなぜなのか。
 これは数字だけではない。固有名詞や固有の出来事を説明させようとするとしばしばChatGPTは適当なことをでっちあげる
 
 おそらく、数字をちゃんと計算できないことと現実に存在する特定の小説や人物を説明できないことは同じ原因だ。ChatGPTは固有性が高いものを扱う能力を持っていないのである。固有性が高いというのは、それそのものを表す正解はこの世の中にひとつしかない、というものだ。数字の計算も、特定の小説を語るのも、固有性の高い事象を扱っていることになる。(数字の計算というのは、正解がひとつであとはすべて間違いという極めて固有性が極めて高いものである)

 ChatGPTがなめらかな文章を生成することはできるのに、固有性が高い事象を書き出すことがてきないというのは、どうやら上手に文章を作り出す能力と、数字を計算したり小説の中身を特定させるような能力はトレードオフの関係にあるらしいということだ。それがなぜなのかは本書を読んでも僕の頭では理解できなかった。文章を構成する一部としての数字と、演算の対象として書かれている数字を見分けることが技術的に難しいということなのだろうか。それとも、なめらかな文章をつくろうとすればするほど固有性を排除する方向で演算が進むということなのだろうか。
 
 一方で、「人間ならばどういう文章が書けるか」もまたここから浮かびあがってくる。
 たとえ無骨で読みにくい文章でも、そのほんの一部分から読み手に思考の契機を提供したり、なにがしかの思考実験を促せるものならば、それは「人を動かすことができる文章」だ。そういうぐっとくる文章は、平易と平凡の枠外にあるからこそ読み手の心にひっかかる。我々はChatGPTにはできない文章を書けるようにならなくてはいけないのかもしれない。数字計算を織り交ぜた、文理ハイブリッドの文章はその候補に充分なりうる。今回の投稿はなんと「ChatGPTの頭では書けない文章」だったのである。
 本書「ChatGPTの頭の中」の大半は専門的すぎて理解できなかったが、ここまで「自分の頭の中」に思考の契機を与えてくれたのだから本書は買いであった。

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半導体戦争 世界最重要テクノロジーをめぐる国家間の攻防

2023年05月30日 | テクノロジー
半導体戦争 世界最重要テクノロジーをめぐる国家間の攻防
 
著:クリス・ミラー 訳:千葉敏生
ダイヤモンド社
 
 大著である。本書はあちこちに書評も出ているし大型書店のビジネス部門でも売れ筋としてランキングされているが、いかんせん分厚い。途中で何度も中断しながら読み進めていたら読了まで2か月近くかかってしまった。これ、みんな最後まで読んでいるのだろうか。
 
 インテル発足以前のシリコンバレー黎明期から物語は始まり、80年代の日本の大躍進の話なんかも出てくる。まさに本書は半導体全史といってよいが、タイトルのごとくそれは世界の覇権争いに等しい。本書の表現を借りれば世界のGDPのほとんどは半導体を用いた機械で生産されている。つまり半導体とは石油のようなものなのである。日本では「産業のコメ」などと評されていたがその支配力はコメの及ぶどころではない。半導体を制することは世界を制することである。
 
 そんな半導体の、今日における世界の状況を特徴づけるものとして、キャスティングボードを握っているというか、なんで台湾と言う地政学的にたいへん微妙なところに世界の先端半導体製造の大半のシェアをもつTSMCという会社が存在することになってしまったのかは大事なポイントだろう。この経緯をみるだけならば、本書ならば第Ⅵ部「イノベーションは海外へ」以降だけを読めばよい。それ以前はもはや半導体前史といっていいだろう。
 
 今日において半導体を生産するにあたっては完全にグローバル規模での分業体制になっている。半導体回路の設計はアメリカの会社、その回路設計に必要な装置をつくっているのはオランダの会社、その半導体の製造は台湾の会社。その半導体製造のための装置の基幹部品は日本の会社。しかしその半導体を組み込んだ最終製品をつくるのは中国の会社。しかも半導体といってもいろいろ種類はあり、それによってプレイヤーは交替していく。イギリスや韓国も登場する。
 しかも、このサプライチェーンのプレーヤーのどれか一つが欠けても、もうその半導体はつくれない。代替企業があるようで無い。今日の先端半導体は、高度な専門性に裏打ちされており、ライバル社がなかなか追いつけないのだ。就中、超微細な回路設計に必要な装置であるEUVリソグラフィ装置を製造するオランダのASMLや、ChatGPTで注目される人口知能用チップの世界シェア8割を占めるアメリカのエヌビディア社なんかはその好例だろう。
 そういう意味では、確かに半導体は世界の命運を握る戦略物資ではあるが、完全に相互持合いの抑止力にもなっている。どこかの国が抜け駆けすることは容易ではない。
 
 ただ、ナッシュ均衡のような現在のバランスをひっくり返しに及ぶとすればそれは中国だし、その中国がもっとも目をつけるとすればそれは台湾TSMCということになろう。なにしろTSMCが生産する半導体チップは世界中に組み込まれている。
 これを最も警戒するのはもちろんアメリカである。世界の命運を左右する半導体だが、そのシナリオはおおむねアメリカが握ってきた。80年代の日本の台頭を叩き潰したのもアメリカだ。ハーウェイの事件は記憶に新しいが、あのときもアメリカは西側諸国に働きかけて力技でハーウェイの締め出しを図った。これは功を奏した。アメリカは今のところは中国をけん制できている。
 
 しかし、中国というのは「待つ」戦術をとれる国だ。中国に息のかかったサプライチェーンで半導体を設計・製造・量産するのは今は難しくても10年後ならばできるとみれば、彼らは簡単に待つだろう。10年たてば世界バランスは今とは違う。米中が武力衝突するとしたら2030年代というシミュレーションもある。もちろん台湾のリスクは最大となる。
 
 長い長い半導体ヒストリーを語る本書は、台湾TSMCの危ういポジションを指摘したところで終わる。
 本書の結論後も事態は動き続けている。そのTSMCはリスク分散の意味も含めて熊本やアリゾナに工場を建設している。また日本ではIBMとIMEC(オランダ)と提携して半導体メーカー「ラピダス」が設立された。最近では、先の広島G7と前後する形で西側諸国の半導体企業のトップが日本で一堂に会した。半導体のサプライチェーンをめぐっては既に戦闘の陣形展開が開始されている。まだまだ物語は二転三転していきそうだ。
 

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Newton別冊 ゼロからわかる人工知能完全版

2023年04月03日 | テクノロジー
Newton別冊 ゼロからわかる人工知能完全版 ついにはじまったAI時代 社会や暮らしは急速に変化する
 
NEWTON PRESS
 
 
 chatGPTの珍妙な解答を、要は茶化したわけだが、これはヤセ我慢みたいなもので、一方ではやはりchatGPTの台頭は将来ヤバいことになりそうだとも思っているわけである。
 
 chatGPTをはじめとする生成AIは、Google一強だった検索エンジンの市場を覆すと当初は言われていたが、むしろスマホ登場のインパクトに匹敵するとみなす向きも出てきた。スマホ登場以前と以後は、我々のライフスタイルも様々な商品サービスのありようもまるで変ってしまったが、つまりそれくらいの社会の非連続変化をつきつける可能性が強いわけだ。
 
 これはいつかきた道である。つまりデジタルリテラシーと呼ばれたもの、かつて30年前あたりから綿々と時代は次々とデジタルを使える人と使えない人に峻別してきた。パソコンを使える人と使えない人、電子メールを使える人と使えない人、インターネットを使える人と使えない人。ブログやRSSを使える人と使えない人、スマホを使える人と使えない人、SNSプラットフォームサービスを使える人と使えない人・・ chatGPTをはじめとする自動生成AIも、この枝分かれポイントに入ってくると言えそうだ。それも大きな分岐点として屹立しそうである。
 
 齢50代の自分としては億劫この上ない。
 しかし、この進化はぜったいに留まらないことは様々な識者もずっと前から言ってきたことだし、このブログでも「インターネットの次に来るもの」「拡張の世紀」「ホモ・デウス」「シンギュラリティ」など、何冊かの本をとりあげてきている。
 だけど、実際に目の当たりにするとやはりビビるというか、いろいろな現状維持バイアスが頭の中を駆け巡って抵抗する。
 
 多くの企業では、機密性の保持の観点から業務で自動生成AIを用いるのは制限する方向にあるらしい。イタリアでは国レベルでchatGPTの利用を制限したという報道も見た。日本の行政も、すぐに規制を敷こうとする傾向がある。
 しかし、そのように制限をかけていこうとしても、やはり大筋ではこの流れには逆らなえいだろう。生活や仕事に自動生成AIがものすごいスピードで入り込むという前提で、我々はどうサバイブしてシノギを削るかを考えた方がいい。
 
 というわけで、基本的なことのおさらいという意味で本書をゲット。2022年2月の刊行なので、この手のテーマにしては昔すぎる気もするが、目先のchatGPT狂騒の波に便乗してセンセーショナルに書かれたものよりは冷静で良心的だろうと思ってこれを読むことにした。いまWeb上やSNS上ではさかんにchatGPTを上手に使う方法の記事や投稿が氾濫していて、chatGPTのロジックに合うような上手な尋ね方をすれば、かなり巧みに答えを返してくるというハウツーやhacksががいろいろ紹介されているが、これらの実用編の前にまずは生き越し方をみたいという気持ちがある。
 
 以下、本書をふむふむと読んで、気になるところをピックアップした。長くなるが自分の備忘録のためである。
 
  1. 今日のAIは「特化型AI」と分類されるものであり、「汎用型AI」の開発はまだまだである。「汎用型AI」とは「想定していない未知の課題に対応できる」ものである。

  2. ディープラーニングには「過学習」という学習用データに特化しすぎて未知のデータに対応できなくなる問題がある。(耳の長い猫の画像を見ると「猫」と認識しない等)それを避けるため「ドロップアウト」という学習の間引きみたいな処置が行われる。

  3. 機械学習には「教師あり学習」と「教師なし学習」がある。かつて囲碁の世界名人を破ったことで有名になったAlphaGOは「教師あり学習」で、定石をとにかく食わせていた。しかしAlphaGOよりはるかに強いAlphaZEROは「教師なし学習」。教師なし学習は、どこに正解があるかを初期設定時に入力するルール特性と、その後の自己学習の積み重ねの中から見つけていく。「完全情報」である限り、AIは究極まで突き詰める。囲碁、将棋、チェスはみんな果然情報ゲーム。

  4. まともに説明できないことはプログラムに書けない。逆に、まともに説明できるものは絶対にAIのほうが人間に勝つ。

  5. 普通は、情報が不完全ならば「わからない」が正解だが、裁判のようにどちらかに決めなければならない「不完全情報」をどうするかに、AIの論理プログラミングを挑戦させている。
  6. 雑談をするAIがある。雑談のためのアルゴリズムを学習している。雑談とは「会話を意図的に引き伸ばす行為」で、そのためのポイントは
    ・新しい話題を提案する
    ・相手に質問する
    ・相手の内容を肯定する
    ・単純なあいずちをする
    にあるという。逆にいえば、雑談が苦手な人間ってのもいて、それは上記のセンスが不足しているということである。

  7. ディープラーニングも、外部からの情報を学習する。ということはフェイクニュースも学習対象のひとつになる。AIにどう公平性や倫理性を実装させるかは永遠の課題。

  8. AIに奪われる仕事・奪われない仕事。その仕事の内容がデジタルっぽいかどうかはあまり関係ない。ルーチンな仕事、過去の経緯や経験や実績をもとに次の一手を決める仕事はAIにとってかわられやすい。人の心の機敏に関わる仕事はAIが代替になりにくい。

  9. この手のものは進化の感触がわかりにくい。ある時期から爆発的に進化のスピードが速まり、直線的に進化した場合を上回ったと思ったら、あっという間に抜き去る。

  10. 人間は、ひとつの情報をもとに想像していろいろな考えを作り出すことができる「知識のリサイクル」型であり、知識のネットワークを俯瞰する「メタ認知」のシステムが得意である。一方でAIは情報をいっぱい与えておく必要があり、そのいっぱいの情報の中でいろいろ試して一番いいのを覚えていく学習スタイルをとる。

  11. ディープラーニングはなぜそう判断したかの「説明」が出ない。人間としてもわからない。しかし説明がないまま結果を受け入れろという人間社会は難しいか。

  12. トロッコ問題をAIにまかせるには限界がある。そこは保険の適用という話になる。保険とは、リスクがあることを社会が容認することと同義である。
 こうやって書き写していて思ったのは、たとえば、GPTにこのムックをまるまる一冊読ませて、僕の興味ありそうなところを箇条書きに抜き出せ、といったら、これらが出てくるのだろうか。僕自身の書籍の購入歴とか、このブログに過去書いてきたことなどから、そういうことを類推するのはそんなに難しくないような気はする。長文の要約はchatGPTの得意のするところとされているが、ユーザーにカスタマイズした要約(目的に即した情報編集とでもいうべきか)ができるようになる日も近そうだ。
 それはともかく、ここで挙げたものをさらに要約すると、人間のAIに対してのサバイバルポイントとしては

  •  非完全情報に持ち込む
  •  予測不能な域に持ち込む
  •  少ない情報領域に持ち込む
ということになるだろうか。その領域とは
 
 「人の心の機敏を相手にするダイアローグ型」
 「少ない情報を、異なる分野から補完、類推するメタ認知」
 
 というところかもしれない。突き詰めると「初対面の人と仲良くなれる力」である。なんと昭和のおかんこそが、対AI最終兵器なのだ!
 
 こうやって原点を見つけていくと少し安心もしてくるが、その一方で、野崎まどのSF「Know」にあるように、人間が予測不能と勝手に思っているだけで実はAI的には十分に予測可能なものは非常に多い。バタフライエフェクトだって理屈の上では予測できてしまうのである。僕が最もびびったAI関連の論考の中にこんなのがあった。なぜAIがディープラーニングでこんなとてつもないところに到達できているのかは、実は我々が「演繹的」だと思っていたものが「壮大な帰納法的の果てに行き着くことだったのではないか」という指摘だった。つまり、我々が演繹と思っていいたものは帰納だったということである。
 演繹こそは、人間が誇るアート型センスかと思っていたのだが、もし指摘の通りだとしたらえらいこっちゃである。
 
 というわけで、悶々としていることはいっこうに変わらないが、今度は実践編を考えてみる次第である。

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データの見えざる手 ウエラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則

2022年10月15日 | テクノロジー

データの見えざる手 ウエラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則

矢野和男
草思社

 初版は2014年だが、今現在読むとどうしてなかなか興味深い。むしろここに書かれていることは、DXとかAIとかウェルビーイングとかアウトカムとか喧しく言われている今日だからこそ、わかりみが深い。

 そして、本書をして考えさせられるのは、コロナによって変わってしまった今日、リモートワークやソーシャルディスタンスの中で、我々個人や組織や社会は、いかに生産性と幸福度をあげていくのかということだろう。本書は、人と人がカジュアルに会話したり、またそういった活気ある光景を目にすることが人々との生産性と幸福度を高めることを示唆している。人のために役にたっている感触を得たり、その仕事は大事な意味があることを相互に確認しあったりすることが重要であり、また、それが「運」さえ高めていく。こういったことを定性的な理屈でも精神論でも、もちろん妙な自己啓発論でもなく、ウエラブルセンサによる膨大なデータからの解析で定量的に証明したのである。つまり、生産性や幸福度を決めるのは「人同士の距離感」なのである。

 しかし、本書の刊行はコロナ前だ。コロナによってもたらされた新たな「人同士の距離感」は、新たな課題を投げかけたことになる。パソコンのディスプレイ越しの会議や、スマホのチャットで、本書にあるようなこととどこまで同様の効果にせまれるだろうか。


 それにしてもだ。人間社会の様相を、自然科学と同じように、法則性と方程式があるのではないかと希求するのは、研究者としての性なのかなと思う。

 著者は、法則があることを信じる立場であるが、一方で「法則がある」という前提そのものが疑わしい、という立場をとる者もいる。「社会科学」なるものをおったてて、ニュートン物理学のような因果論をあてはめようとした第一歩がそもそもミスリードなのだというわけである。僕もどちらかというと後者を支持するのだが、何もしないで2割の打率を方程式を見抜いて3割にするの、が前者だと著者は譲らない。打率2割の打者は凡人だが、3割打者は有能で、その存在がゲームの勝敗が左右する、と喝破している。なかなか周到だ。

 著者の主張のポイントは、その因果論を人間の有限な能力と経験値だけで推し量ろうとすると間違う、それをAIが計測で見抜くのだというところだろう。実際にそれで店舗の売り上げが上がったりするのだからぐうの音も出ない。

 人間が「こうに違いない」と決めてきた経済活動や社会運営のセオリーや理論は世の中にたくさんある。それらが必ずしも最善でないことがテクノロジーによって次々と暴かれている。とくに組織に関するものは、野球チームの編成から企業の組織管理論までさまざまな理論が横行してきたわけだが、じつは古からの習慣や教育や感覚が後知恵のように理論化されたわけで、それはあくまでひとつの「仮説」にすぎなかった、というのは言われてみれば簡単な理屈ではあるものの、こう整理されてしまうと今まで信じていたものが根底から瓦解する感覚を味わうに十分だ。この手の見解は今や必ずもめずらしくないが、やはりインパクトが大きい。

 

 本書がいみじくも指摘しているように、AIに何を計算させるか、を決めるのは人間だ。要するに問題解決ではなく、問題創発のほうに人間の知恵はかかっているといってよい。むしろ、問題創発が貧しいと、いらんことをAIに行わせることになって、人間はますます不幸になる。このあたりはディストピアのSFでよく描かれる話だ。

 問題創発力を高めるには、本書では、より活気ある毎日を送ることである。街に繰り出して、人と話し、建設的な議論をし、誰かに感謝されることだ。人は会えば会うほど、さらに人に会うようになる。疎遠になればなるほど疎遠になる。それって要するにソーシャルスキルなのである。リア充が世を謳歌し、コミュ障な成績優秀者が、実社会でぱっとしない理由さえ、AIは証明してしまったのだった。

 


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アフターデジタル オフラインのない時代に生き残る

2020年02月09日 | テクノロジー

アフターデジタル オフラインのない時代に生き残る

藤井保文 小原和啓
日経BP社


 読まなきゃ読まなきゃと思っていてずるずるしていて、一周おくれた感じでようやく読んだ。すでに10刷目になっていた。
 CXだDXだEXだといろいろ喧しく、MaaSだSaaSだXaaSだと言われているのである。今年は5Gがキーワードにもなりそうだ。

 会社の若い社員を観ていると、あるいはサービス享受者としてのうちの子どもとかその友達とか見ていると、彼らはかなりの自然な感覚でこういう気分にあるし、こういう前提で物事を考えるし、企画アイデアも出す。アフターデジタルもOMOもコトバの定義はともかく、世界観としては彼らのなかではかなりナチュラルなのである。
 つまり、問題なのはそれより上の世代ということになる。ビフォアデジタル世代というか、携帯電話が普及したのは大人になってから世代というか。そういう人が後天的に意識改革をしなければならないのである。

 ということを考えると、結論としてはもう若い人に任せてしまったほうがいいんじゃないかと思える。へんにオトナがあれやれこれやれと方針決めて指図しても、ビフォアデジタルのバイアスが働くリスクのほうが大きい。諸悪の根源は儒教思想というか「年配者の言うことほど正しい」というテーゼにあるように思う、というのはあまりにも過激的破壊思想だけれど、文化大革命やポル・ポトが、ちょっとでも学のある大人をみーんな粛清してしまったという恐怖の歴史は、ここらへんの問題意識が肥大したものなのはないかなどともチラッと思う。

 令和元年は、日本でもキャッシュレス旋風が吹いた。日本政府も動いたけど、電子マネーやペイ業者の猛烈な展開合戦もすごかったし、楽天、LINE、ソフトバンクあたりが小売、決済、証券、金融、保険あたりをとにかく統合しているのも、本書いうところのアフターデジタル目指してのことなんだろう。キャッシュレスというのは要は経済圏の再構築なんだなと感じる。ぼくはLINEペイを使っているのだけれど、先月あたりからLINEペイでバックされたポイントがコイン還元されなくなり、かわりにLINE証券に紐づけるよう案内がきて、なるほどこうやって経済圏をつくりあげていくのかと思った次第である。しかも、去年に何かのニュースでみたが、LINEがどこかの地方自治体と提携して、ごみの収集情報とか公共料金の決済の代行を始めたときいて、電子行政ってそういうことだよなと思った次第である。そのLINEもYahoo!と経営統合するわけで、こうなってくるとリアルな行政経済圏とは別にもうひとつの行政経済圏ができつつあるような気がする。そういう世の中を与件にしながらいろいろ考えなければならないわけだ。

 以前、会社でひと世代わかい社員と飲んだとき「スマホが普及する以前の営業やマーケティングの経験や知識は、もう持っていたところで邪魔にはなっても役には立たないですね」と言われて慄然とした。「歴史は繰り返さなくても韻は踏むんだよ」とか「温故知新という言葉もあるんだよ」とかココロの中では思ったものの、なんかここでまぜっ返すと老害まっしぐらに思ったので、そうだねー、なるほどねーなどとつぶやきながらビールを飲んだものだった。


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テクノロジー思考 技術の価値を理解するための「現代の教養」

2019年12月09日 | テクノロジー
テクノロジー思考 技術の価値を理解するための「現代の教養」
 
蛯原健
ダイヤモンド社
 
  これからの未来社会においてのサバイバル論が盛んである。サバイバルには、「世の中はこの先どうなるかというのを先読みしてそれに備える」サバイバルと「世の中がどうなったとしても生きているようにしておく」サバイバルの2種類がある。
 たぶんどっちも大事なのだと思うが、本書テクノロジー思考はいわば前者と言える。つまり、経済発展が技術開発投資を促進させ、テクノロジーによるイノベーションを果たすことが決定された未来への筋道というのであれば、いずれGDP世界一になる中国と、テクノロジーの真ん中をグリップするインドおよび印僑は与件と思っていてよいし、モビリティもヘルスケアもIoTによるアフターデジタルな世界の到来は「いつ」そうなるかはわからないが「いつか」はそうなる。それに備えるのがテクノロジー思考ということなのだろう。
 で、本書の感触としては日本は本当にもう存在感がないんだなと思うばかりだ。本書で出てくる日本の企業といえばソフトバンクの投資部門がちょろっと現れるだけである。
 欧州はといえばGDPRをはじめとした法規制によってGAFA型のデータビジネスに対抗しようとしている。
 そうなってくるとなかなか暗鬱な気分になってくる。本書の表現によれば世界は「テクノロジーか、死か」という局面にあり、その「テクノロジー」はアメリカと中国とインドが握っているのであって、ということは、それ以外の国や地域はなんとかサバイバルしていかなければ死ぬということである。欧州がGDPRで本当にサバイバルできるのかはどうもわからない。
 
 ましてや日本はどうなんだろうか。つまり、日本においても一生活者としてはテクノロジーの恩恵に浴する生活となるのだろうけど、そのテクノロジーを管理しているのは日本の企業ではないということである。アメリカであり(今すでにそうだけど)、中国であり、インドである。日本もGDPRと似たような法律を検討しているようなことは聞いたことがあるけれど、日本政府は欧州ほどアメリカの経済政策と距離を置けないからなかなか厳しいようにも思う。そもそも法律規制でコトの進展を本当に拒むことができるものなのだろうか。
 
 ぼく個人は昭和生まれのアナログ文系人間で、しがない一会社員でしかないから、これ以上デジタルトランスフォーメーション化した世の中はいらないのだけれど、しかし世の中は止まらない。下手に抵抗したり回避したりするとますます状況を悪くするばかりだ。勤め先もこれからどうなるかはまったくわからない。エンジニア部門をインド勢に牛耳られるかもしれないし、親会社や経営に中国が資本介入してくるかもしれない。というか5年10年先にはそうなっていてまったく不思議ではないわけだ。
 だからといって、自分の身の振り方を今後どうするべきなのかの答えもない。せいぜいコツコツ貯めた貯蓄をこういったテクノロジー方面に投資信託するくらいかと思うくらいだけど、具体的にどういう銘柄や信託商品をどんな風に買えばいいのかもわかっていない次第である。
 
 そうすると、もう一つの「世の中がどうなったとしても生きていけるようにしておく」ことのサバイバルのほうが頭をもたげてくる。地方で自給自足農業をできるようにしておこうかとか、太陽光パネルのクラウドファンディングに一口乗っておこうかとか。
    オチが見えないがなんにせよ今年の日本はいよいよオリンピック後の日本になる。虚脱感などに襲われているヒマはないはずだ。
 

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シンギュラリティの科学と哲学 AIと技術的特異点の未来予測!

2019年04月06日 | テクノロジー

シンギュラリティの科学と哲学 AIと技術的特異点の未来予測!

 

野田ユウキ

秀和システム

 

 

「シンギュラリティ」説を唱えたレイ・カーツワイルの論を中心にAIと人類の進化と未来を図説した本。

この進化の方程式は、収穫逓増とべき乗の法則である。これが、AIの進化・バイオテクノロジーの進化・素材技術の進化を飛躍的に加速させる。その飛躍が「パラダイムシフト」を生む。宇宙史においてパラダイムシフトはビッグバン以降3回あり、現在は4回目のエポックにある。ポイントは4回目のパラダイムシフトの波にのりつつあることで、この先に人類未踏、というか全宇宙未踏の第5エポックがある。いわゆるシンギュラリティ後の世界である。

ここから先はぶっとんだ内容となる。人体はパーツを交換しながら数百年を生きるようになり、学習活動は脳みそに直接情報がダウンロードされるようになる。さらにその先は、地球は情報の生命体と化し、人類は肉体を離れて宇宙空間と一体化し、ブラックホールを制御するという宇宙量子力学と特殊相対性理論の限界におよぶ。

未来の選択肢の中には、自己増殖型ナノテクマシンが暴走して周辺の炭素をすべて捕食しつくし、数時間で地球を滅亡させるバッドエンドなんてのもある。

 

未来予測は当たるも八卦当たらぬも八卦だが、さいきん妙にアートや哲学が流行りだしたり、ベーシックインカム論が浮上してきたりと、特にインテリの世界が浮き足立ってはいる。人間とAIの衝突と融合話はおだやかならぬものだから、本能的に人間賛歌にしがみつこうとしているのかもしれない。

一方で、SF小説はひとつの気構えのヒントになると思う。この本に書かれていることのかなり多くを「2001年宇宙の旅」がカバーしているのでびっくりした。後半のぶっとんだ内容も決して荒唐無稽ではなくてすべてロジカルの積み重ねなのだ! あの黒板みたいなモノリスも、本書いうところの「岩のコンピューティング能力」である。

ドラッガーよりもハインラインを読め! といったのは岡田斗司夫だ。良作のSFには、このあたりをしっかりと書いたものが多い。今年はギブソン、ホーガン、ギーガン、クラークあたりの巨匠SFが流行りだすんじゃないかななんて思っている。

 


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AI VS. 教科書が読めない子供たち

2018年11月28日 | テクノロジー

AI VS.  教科書が読めない子供たち

新井紀子
東洋経済新聞社


 「シンギュラリティなんて来ません! そんなタワゴトよりもっと深刻な話があるんです!!」と怒られる本。


 閑話休題。
 確かに世の中は「アタマを使わなくてよい」方向に進んでおり、それが人間の論理力を弱めているのではないかと思うことはある。それが生まれながらのデジタルエイジである子どもたちに影響を及ぼすのは想像に難くない。

 たとえばパソコン。
 かつてのパソコンは設定がたいへん面倒だった。周辺機器もいちいち接続の規格が異なっていたり、配線やプラグ抜き差しの順番などがあったりした。
 しかし今はなんでもUSBでつなげられるし、操作も手続きも直観的である。たいへん簡単になったわけである。

 そのこと自体は進歩だけれど、かつてのパソコンの接続は、ユーザーにロジックを組み立てる力を課していたのも事実である。なぜうまく作動しないか、とか、どういう手順にのっとればいいか、といった論理を強制的に働かせていた。
 現代のパソコンやスマホは、そういうことにアタマを使わなくてよいのである。

 かつて、鉄道や飛行機を使って遠くへいくときは時刻表という分厚い本を開き、次々とページをめくってどの列車を使い、どの駅で、どう乗り換えるか、というものを調べなければならなかった。それはたいへん面倒な行為だが、交通機関の乗り継ぎというのは言わばアルゴリズムとでもいうか論理のカタマリであって、しかしそれを「論理」などと思わず、そういうものだと思って脳を動かしていた。
 これも、現代ならば「乗換案内」アプリで一発で最適な答えが出る。便利になったものだ。

 しかし、そうやって実生活で論理構成力を鍛える機会が減っていっているのも一方の事実だろう。
 本書にあるように、「子供たちが教科書が読めなくなっている」という現象の背景にはこんなこともあるのではないかと思う。
 「伝え方が9割」「見た目1秒が大事」「1分で話せ」「企画書は1枚」という短時間で相手の直観に訴えるコミュニケーション能力はもてはやされる一方だが、複雑難解な情報の中から骨子を見抜く能力は軽視されがちだ。複雑難解な情報をつくるほうが悪い、と断罪される世の中である。「理科系の作文技術」というロングセラーの名著があるのだが、まさかこれが「マンガでわかる」で企画されるとは思ってもいなかった。


 なるほど。AIが台頭してくると「AIにできないことが人間の強みになる」という結論になるのはまさしく必然で、我々はそこに希望を持つのだけれど、そんなところに「AIにもできることをできる人間ばかり増えている」「AIにできないことをできる人間がいない」という警告の書が本書なのだ。もっと真剣にうけとめるべきだろうと思う。

 


 ところで。これも昔話だが、僕の大学受験はまさしくAI、つまり東ロボ君に情報を教え込むのと同じだったんだなあ、と絶句した。とくに英語と国語。東ロボ君はこの2つが苦手だったそうだが、じつは僕もこの2つがからきしダメたった。英語に関しては、その背後にある英語のありようとでもいうものが会得できず、まさに東ロボ君にあるように、出題の頻出パターンと単語熟語慣用句の丸暗記というフレームによる力業に賭けるしかなかった。そしてさんざん時間かけたくせに最後まで成績はふるわず、偏差値もあがらなかった。国語もしかりで、とくに現代文。本文中の傍線に書いてあることと同じことを述べているものを次の選択肢から選べ、というタイプの設問に手をやき、けっきょく類例の単語が出ている出ていないといった外見上の手がかりに頼るしかなかった。よって国語の成績もよくなかった。ひるがえって数学の成績はそんなに悪くもなかったのである。
 つまり、ぼくはAIの超劣化版ということになる。やれやれ。


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拡張の世紀 テクノロジーによる破壊と創造

2018年11月25日 | テクノロジー

拡張の世紀 テクノロジーによる破壊と創造

ブレット・キング 訳:上野博
東洋経済新報社


 「ホモ・デウス」の副読本にでもなりそうな内容だ。ホモ・デウスが未来における人間の身体と精神の拡張を予言しているのだとしたら「拡張の世紀」はそれをささえるテクノロジーと、それによって実現した世界像を描いている

 重要なことは、こういった新世界の姿は旧世界を破壊(ディスラプション)することで成立するということだ。その動きを止めることはできない。抵抗してもよいが、そうとうな機会損が待っているといってよい。そのことは歴史が証明している。鉄道技術が発達したとき、むかしの宿場町は鉄道線路が町の真ん中に引かれるのを嫌がった。煙が人体に悪いとか、振動が家を脆くするとか様々な理屈をつけたが、要は既得権益を脅かされることへの警戒だ。
 その結果、鉄道線路は郊外に引かれたり、別の町を経由することになった。そして幾星霜。
 鉄道の通った町は発展し、取り残された町は衰退した。鉄道の力を知った住民は慌てて誘致運動を行うが、もう遅い。似たような路線をもう一本引く言われはないからである。


 その鉄道も、今度は自動車つまりモータリゼーションによって衰退する。北海道なんかでは鉄道は風前の灯火になりつつある。鉄道による貨物輸送なんかは完全にダンプやトラックによる輸送にとってかわられた。

 ところがその貨物輸送は、今度は無人運転になろうとしている。
 いま、宅配などの貨物輸送は運転手の不足が言われているが、いずれ運転手は不要なるとも見込まれている。
 
 科学技術はそうやって移転していく。人間がつくったものなのに人間疎外になる、というパラドックスがあるが、そうやって時代は変容していく。となると抗ってもしょうがない。本書の指摘するように、ひとりの人間が生きている間に(それは寿命が伸びたということでもある)、技術革新が何度も起こるのは人類史上初めてのことなのだ。それがどういう結果を社会にもたらすのかは誰もわからない。次々と現れる技術革新に対し、我々は永遠に「初心者」であることを強いられる、といったのは「インターネットの次に来るもの」を記したケヴィン・ケリーである。


 こういう新しい技術が試みられるとき、日本という国は規制がかかりやすい。僕が危惧するのはそこである。
 たとえばドローン。運送技術の革命であり、ロボット技術の実用可能性を飛躍的に伸ばしていることはもはや明らかなのだが、日本の場合、ドローンを飛ばせる場所というのは極めて限られている。規制でそうなっているからだ。
 で、多くの人間は、ドローンなんて飛ばないでほしい、と思うものだ。既存の運送ビジネスをやっている人もそうだし、今までの生活空間になじんでいる人も余計な事はしてほしくないと現状維持バイアスがはたらく。したがって、ドローン規制について反対、解除を求める声というのはほとんど聞こえない。
 同様に仮想通貨なんかもそうだ。キャッシュレスというと、日本ではクレジットカードとかプリペイドカードを想像するが、そもそもプラスチックのカードを物理的に保有するキャッシュレスは、一時代前になりつつある。アップルペイなどワレット方式なものが少しずつ増えているが、これがめちゃめちゃ進行しているのは実は日本以外の諸国だ。中国のキャッシュレス経済はかなり市民に浸透している。
 日本の場合は、金融の規制がいろいろあって、中国のように個人間の間でスマホで仮想通過をやりとりするようには至っていない。
 そして完全に出遅れているのはウーバーだ。日本の場合、業界規制もあってウーバーはその本領を発揮できないでいる。ウーバーについては欧州のほうでもいろいろコンフリクトがおこっているが、このサービスの世界的浸透は必然のように思う。技術的にはかなり洗練されてきてあとは規制の問題、というところまで来ているからだ。
 米国でも当初は既存業界から相当な反発や排除の動きがあったが流れには逆らえなかった。企業コンプライアンスとしては問題もあるらしいことを噂で聞いたが、仕組みとしてはかなり完成されてきていると言ってよい。

 技術革新→規制の解除→世間への浸透、というシナリオはどの国にもあるが、この「規制の解除」の柔軟性は国によって異なる。あまりちゃんと調べていないけれど、日本は規制が多い国ではないかと思う。海外の企業が日本に進出しようとするときに阻まれるのが言語と規制だという。結果として日本ではなく、シンガポールとか香港に進出することになる。
 これまではそうすることによって日本の経済を守っていたわけだが、で、これまでは世界経済において日本を無視するわけにはいかなかったからそれでも通用していたのだけれど、今後もそれでいいのかはそうとう心配だ。先の鉄道を通すことになった宿場町の例ではないけれど、日本なしでも世界経済はまわるから拒否してくれてかまわんよ、ということになりつつあるのではないかと思う。そして慌てて日本が規制解除したときはもう手遅れなのではないか。日本の行政手続きの遅さや現状維持バイアスの強さはけっこうリスクが高いと個人的には思っている。

 本書に登場する拡張世紀における社会。自動運転に健康モニタリングに3Dプリンターにロボット適用に太陽光発電。それをささえる都市とインフラ。これらは既存の経済システムをディスラプションする上で成立する。
 しかし、ディスラプションを成功させるには、抵抗勢力と規制を越えなければならない。日本はなんだかんだで技術開発力はまだ健在だと個人的には思っているのだけれど、それの社会実装に時間がかかりすぎな気がしてしょうがない。
 かくいう僕も、本能的には保守なほうについつい行きがちだ。齢をとればとるほど新しいものが面倒くさくなる。正直いうと僕自身はそれでもいいんだけれど、少子高齢化社会において高齢者のボリュームが多い日本の社会構造の中で高齢者の価値観が優先される民主主義だと、政治的決定だけでなくて、こういうところでも若い人の世界競争力に不利になる力学が働くのかもしれないと思うと、責任の一端を感じざるをえない。せいぜい奮闘しなければならんなあと中学生の娘の後ろ姿を見ながら思うのである。


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the four GAFA 四騎士が創り変えた世界

2018年10月15日 | テクノロジー

the four GAFA 四騎士が創り変えた世界

著:スコット・ギャロウェイ 訳:渡会圭子
東洋経済新報社

 そうなんだよな。結局、ぼくも買い物は楽天市場ではなくAmazonだし、スマホはソニーではなくてiPhoneだし、検索エンジンはgoo ではなくてGoogleだし、はてなもmixiもやらなかったけれどfacebookのアカウントは持っている。だいたいこの本だってiPhone上でKindleアプリにて読んだのである。

 本書の表現を借りるならば、脳も心も性器も掴まれてしまっているということになる! しかも四騎士の共通点に「偽の謙虚さ」すなわち「かわいいふりして近づいてくる」というのはもうものすごく納得したとともに、なんでそのことに今まで気づかなかったのかと思う。たしかにAppleもGoogleもFacebookもAmazonも、当初はとっても無邪気で着飾らず、善良の天使のようにして市場に現れたのだった。少なくともMicrosoftやIBMやウォルマートは彼らよりはずっと巨魁でビジネスライクで苦虫をつぶしたような印象を与えていたではないか。

 

 この4社がどれくらい市場を破壊しまくったかは本書にも様々なデータが載っている。めちゃめちゃ儲かっている一方で、かつてのメガ企業であるところの家電メーカーや自動車メーカーとちがって設備投資も少ないし従業員も少なくて済むから、利益は単純に純資産となって雇用などの経済循環に至らない。日本でいえば豊田市や日立市のような、アメリカでいえばデトロイトのような、企業城下町が形成されないのである。それどころか法人税さえまともに払っていない。

 しかしGAFAはこれからも止まらないのだろう。かつてのIBMやMicrosoftが絶対無敵を誇っていたにもかかわらず時代の流れによって当時の勢いがなくなったように、GAFAも永遠に不敗神話を維持するはずはないと著者は言っているが、GAFAが他の何かに交代しようとも、このような市場破壊による寡占かつ社会還元が極めてすくないビジネスモデルの企業が今後とも覇権をとっていくんだろうなとも思う。企業城下町をつくるような企業が現れることは今後もはやないだろう。

 したがってGAFAの張り巡らせた追跡網に抵抗してもこの世の中は生きにくくなるばかりである。ログをとられたくなくて遮断する安全よりも、GAFAのサービスを使わないことによる機会損失のほうがずっとダメージがでかい世の中になってしまった。いつのまにか世界を乗っ取られた格好である。

 

 ところで僕はfacebook、Instagram、LINE、LinkedInなど数あるSNSサービス(TikTokはまったくわからない)ではTwitterがわりと好きである。GAFAなんてコトバがなかったころ、とある本でGoogleとFacebookとAppleとTwitterを以下のように見立てていた。

 Googleが荒野、Facebookはそんな荒野の中で城壁に囲まれた都市、Appleは都市に住む華麗な衣装をまとう住人、そしてTwitterが荒野の中をどこからかやってくる旅人。

 つまり、Twitterは、真偽は定かでないが異国の地から面白い情報を持ち込んでくれる存在である。予定調和の外にある存在であり、文化人類学でいうところの親戚のおじさんみたいなものである。Twitterがあるからこそネットの言論は玉石混合であるとはいえ、その清濁併せのむところも含めてカルチャーが生き生きしているように思う。GAFAだけならば実はおそるべき言論統制&監視社会とは隣り合わせで、そんなところに生き生きとしたカルチャーが生まれるわけがない。

 そんなわけでTwitterには頑張ってほしい。日本人はTwitterが好きなようで、世界の利用率をみても日本は群を抜いている。そのわりに儲けが出ていないのがTwitterの大問題なところだ。本書によれば匿名性サービスはぼろ儲けができないということらしい。Wikipediaのように公共財的なビジネスモデルになればまた面白いと思うのだが。


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ディープ・シンキング 人工知能の思考を読む

2018年10月01日 | テクノロジー

ディープ・シンキング 人工知能の思考を読む

ガルリ・カスパロフ 訳:染田屋茂
日経BP

 

 ガルリ・カスパロフは、チェスの世界では圧倒的な強さを誇った伝説級名人であるが、世間一般的にはIBMのコンピュータ「ディープ・ブルー」に負けた人間、として有名だ。本書の凄いのは、なんといってもガスパロフ本人の手記というところだ。

 AI開発史において、1997年のディープ・ブルーVSカスパロフの試合はひとつのメルクマールとなった。その後、電脳将棋戦が試みられたり、GoogleのAlpha碁が世界最高位の柯潔を負かすなど、完全情報ゲーム(麻雀やトランプのように「運」が入りこまないゲーム)におけるAIと人類の記念碑的な対決は続くが、全てはこのディープ・ブルーVSカスパロフから始まったといってよい。

 本気でチューニングされたAIと真っ向から勝負した世界最高レベルの人間というのは、そもそも現代でもこの地球上に何人もいないのであって、しかもこの時代はまだ将棋も囲碁も人間様のほうがまだ強かった頃だから、ガスパロフの体験というのは唯一無二のものであった。この試合は、AI開発史の点でも歴史的な1ページだが、人類史からみてもガスパロフは初めて「本格的なAIと戦った人類」と言える。


 もっとも、1997年当時のディープブルーは、IBMが莫大な研究開発費を投入したスーパーコンピューターであるにも関わらず、現在ノートブックPCにおさめられるチェスソフトよりも「弱い」。

 AIという観点でいうと、ディープブルーはまだ力づくの「全検索型」時代のものであった。具体的には序盤定跡のデータベースを徹底的に食わすことと、終盤の追い込みで、チェックメイトの可能性をコンピュータの性能限界まで広く探索し、そこから最善の手を探るところに強みを発揮する。チェスの場合は「引き分け」というのがあって、中盤での盤面評価が不利になりそうだと判断すると、「引き分け」めがけて駒を繰り出す、というものだった。

 ただ、それでも「人間くさい」手をディープ・ブルーは時々繰り出した。それが、バグなのか、性能の限界なのか、それともこちらには気づかない何かが見えていたのかは、もはやわからない。しかし、冷徹なコンピュータの手の中でその時々みせる「人間くさい手」にカスパロフは翻弄される。そのことがガスパロフにプレッシャーを与え、心に混乱を呼び起こし、ペースを乱され、ベストパフォーマンスの発揮を妨げる。ガスパロフの敗因は「読みの深さ」の差ではなく、「心理戦」として負けたといってよい。AIとの闘いで心理戦に持ち込まれたら、人間はそうとうに分が悪い。レジェンド級の強さをほこるグランドマスターであったとしてもAIとの心理戦には勝てなかった。

  本書はガスパロフの手記なので、ディープ・ブルー陣やスポンサーのIBMに対しての不信や不満も記されている。ルール上の不利もあったようだ(そういう意味ではこれは「異種格闘技戦」なのである)。
 むしろこの試合を通じて、AI対人間の試合におけるルール作りも洗練化していった。そういう意味でも、ガスパロフはのちに続くAI対人類の歴史に教訓や資産を残していったことになる。

 

 現在のチェスのAIプログラムは「全検索型」というよりは「思考型」であり、ディープ・ブルーよりずっとずっと強い。というより、もう人間ではAIにチェスで勝つことはできない。「心理」云々のまえに、もう絶対的な差ができてしまっている。
 ガスパロフが言うように、長いチェスの歴史とコンピュータの開発史の中で、ほんのわずかの実力拮抗の時期があって、そのときの王者がガスパロフだった。だから、ガスパロフのような経験をしたチェスプレーヤーはガスパロフ以前にはいないし、今後も出てこない。

 一般的には「ついにAIに負けた人間」という印象の強いカスパロフだが、彼が真に偉大なのは実はここからで、AIと人間の共創という概念をつくりだし、実証実験的な試合の仕組みをつくりだす。やがてAIに全部試合を思考させるよりも「AIと人間が組んだ」チームのほうが試合に強い、ということを結果として証明して見せた。これはAIによる職業喪失やシンギラリティにおびえる人類に重要なメッセージである。


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ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来

2018年09月22日 | テクノロジー

ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来

ユヴァル・ノア・ハラリ 訳:柴田裕之
河出書房新社


 大ヒットした前作「サピエンス全史」がほぼすべて全ネタ書き尽くしたような高密度だっただけに、第2作が前作なみの分量で登場したのには驚いた。
 「サピエンス全史」では、人類がいかにこの地球で頭角を現し、世界を支配し、現代社会を形成するに至ったかを述べていた。およそ600万年の歴史の物語である。キーワードは「認知革命」「農業革命」「科学革命」だ。
 その「サピエンス全史」の最終章で、そんな歴史を送ってきた人類だから未来はこうなるであろう、という帰納法的な予測を行っていた。それは、人類自身が手に入れた科学の力のさらなる増幅の未来イメージであった。

 その「サピエンス全史」の最終章にあった人類の未来像を、今度は上下巻にわたって縦横無尽に描いたのが本書「ホモ・デウス」である。いわば「サピエンス全史」は過去の話、「ホモ・デウス」は未来の話だ。
 過去の話を書くのと未来の話を書くのは違うエネルギーを必要とする。それを同じ分量で、同じくらいの視野の広さと深さで描いてみせるんだから驚異的である。


 未来において、「科学革命」を成し遂げた人類は2つの新領域に踏み込む。
 それはAIとバイオテクノロジーだ。これの根幹にあるのは「人類は(というより生命は)アルゴリズムである」という原理原則の発見であった。
 アルゴリズムであるからにはそのロジックツリーさえ解明できれば「同じような機能をもつ」存在を外部につくることができる。それがAIである。しかも「アルゴリズムを生成するアルゴリズム」に行き着いたことにより、AIは「ディープラーニング」を身に着けるようになった。
 また、アルゴリズムであるからにはあるロジックに手を入れればそのあとは違う出力結果が出てくる。したがって、出力結果を狙い撃ちにするように(たとえば「より快感を感じるように)」アルゴリズムをいじくってみる、という発想が出てくる。それがバイオテクノロジーである。

 また、AIにしてもバイオテクノロジーにしても「次に何をいじくればいいか」の決定を人間自身の判断ではなくて、外部の情報から外挿的に行うことができる。人類自身が認知できる限界をはるかに超えた外部情報を取り入れて判断し、決定できるアルゴリズムもまた存在するからである。
 これがつきすすむと、人類はものごとの判断を人類の外に委ねるということになる。これは近代以前に神と占いによって物事を決めていたことと行き着いた現代科学の弁証法的な未来ということになる。


 この2つの新領域が本格的に稼働することが未来の人間社会に抜本的な刷新を迫る。「認知革命」「農業革命」「科学革命」に継ぐ大パラダイムシフトとなる。


 ハラリが描く未来像は、著者本人が認めるようにはっきりいってバラ色の未来像ではない。止まらなくなった機関車のようなものである。

 ハラリ自身は本書を「予言書」と見なしている。それは「警告」することによって「未来」が変わることを期待しているという意味である。

 社会主義はついに世界を制覇するに至らなかった。一時期は国の数で自由主義を大きくしのいだ社会主義だが、今日社会主義を標榜する国はほとんどない。
 しかし、それは社会主義の原典であるマルクス主義が間違ったという意味ではない。マルクス主義を知ることで、そうはならないように努力をする一派が出てきた。それが自由民主主義の一派となり、歴史の淘汰の中で勝利を勝ち取ったとハラリは述べている。

 同様に、「ホモ・デウス」を上梓することで、安易にAIとバイオテクノロジーの暴走に安住しないことに人類が気づき、”「ホモ・デウス」に気づかなかった未来”とは異なる未来へのレールへに軌道がシフトしたのかもしれない。マルクス主義が登場することで、マルクス主義的な世の中になることを防いだのと同様である。なるほど真の予言書とはこういう機能を果たすのか。



 「サピエンス全史」のときからハラリが一貫としているのは「で、一個人としては幸せになったの?」である。認知革命を起こして、農業革命を起こして、科学革命を起こして。それからAIを発達させて。バイオテクノロジーを発達とさせて。で、一個人は幸せになったのかな? という冷や水だ。
 社会の発展(こうなってくると「発展」とは何か?という話にもなるが)と一個人の幸福は必ずしも比例しないし、一個人の幸福と人間の「遺伝子のねらい」もまた実は一致しない。
 一個人の幸福感に大きく関与するのは「物語」である。例えば本書で例として挙がった「空腹」。同じ空腹でも、貧困による空腹と、宗教上の儀式による断食での空腹と、ダイエット目標としての空腹では、感じ方が違う。これはいまの空腹にどういう物語があるかの違いである。食べものが消費されないという点では社会的には同じであり、食物が摂取されないという点では遺伝子的には同じであるが、その「空腹」に至った一個人への「物語」が違うならば、空腹への感じ方は苦痛とも恍惚とも希望ともになりえる。

 思うにAIとバイオテクノロジーの未来は、ディストピア的な言論ばかりがハバをきかせ(そういう情報のほうがネタとして流布されやすいというのもあるのだろうが)、幸福な物語を誰も描けていないということではないかとも思う。早急に見つけなければならないのはAIとバイオテクノロジーが横行する幸福な未来の「物語」ということだろうか。


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未来を読む AIと格差は世界を滅ぼすか

2018年09月01日 | テクノロジー

未来を読む AIと格差は世界を滅ぼすか

大野和基・編
PHP新書


 超豪華なシンポジウムというか、神々の共演というか

 ジャレッド・ダイアモンド、ユヴァル・ノア・ハラリ、リンダ・グラットン、ダニエル・コーエン・ニック・ボストロムほかのインタビュー集である。つまり「銃・病原菌・鉄」「サピエンス全史」「ライフ・シフト」といったベストセラーを出した識者たちだ。

 彼らは未来をどう見ているか、ということだが、共通するにあまり明るい未来像を描いていない。副題にある「AI」と「格差」はやはりそうとうに人間を試すことになるが、そこの覚悟と対処がまだまだ見えていないということになりそうである。

 

 未来のリスクとして何があるか。何人かの識者があげているが、「感染症」「テロリズム」「移民(人口移動)」「核戦争」「気候変動」「過度に発達するテクノロジー」いずれもグローバル規模におけるものだ。

 これらのリスクで特徴的、つまり近代までの人類史と異なるのは、人類自身の活動から生まれた、人類の存在を脅かすリスクということである。もちろんニック・ボストロムが指摘するように隕石の衝突や火山の噴火といった自然由来のリスクもあるが、想定される頻度から考えると人類由来のリスクがやはり高そうである。

 これら人類由来のリスクの根底にあるのは、21世紀にあたっての社会制度の正解を誰も見つけられていないということだ。近代以降さまざまな国における実験と淘汰の結果、20世紀も後半あたりに「自由民主主義」で「資本主義」で「正教分離(世俗ナショナリズム)」であることがまあ正解なのではないか、という感じになった。欧米や日本がそれでGDPを伸ばし、世界のレギュレーションを形づくれるようになったからだ。

 

 しかし、その疲弊と暴走が顕著になってきたのが今世紀であり、それが加速されつつある。

 つまり、結果としての資本の偏りによる格差の出現と、止まらないテクノロジー開発を招いた。人類はリンダ・グラットンが言うように100年の寿命を手に入れるだけの医療技術を獲得したにもかかわらず、その100年を有効に使う手段をまだ見つけられないでいる。それどころか、格差はむしろ苦しい100年人生を送る人をたくさんつくることになり、AIは仕事さえ奪っていく。ノア・ハラリは「役立たず階級」が大量発生すると予言する。

 すでに、従来の社会学や近代人類史では「生活に余裕が生まれる」方向にベクトルが進むはずの中産階級が、収入が伸びず、むしろ貧困へと転落するリスクが肌感としても高い日々を送るようになった。コーエンは「テクノロジーは中産階級を豊かにしない」と指摘した。そして、C・ウィリアムズやアーヴィン・ペインターが指摘するように、彼らの不満がトランプ政権の誕生を促したわけである。

 賢明な判断をする限りは核戦争はおきないとされているが(核抑止力)、偶発的に起こってしまうリスクは依然としてある。ぎりぎりまで緊張感が募ると、ちょっとしたきっかけーそれは誤報だったりもするーで戦争に突入するのは過去の歴史でも証明している。 

 

 というわけで、本書が読む未来はなかなか暗いのである。

 だが光明もある。

 ジャレッド・ダイアモンドはニューギニアにおける伝統社会の「知恵」に着目する。どこまでもソーシャル・キャピタルを確保するということ、そして「戦争で死ぬリスクよりも、風呂場で死ぬリスク」に慎重になるということだ。一見、唐突に感じたダイアモンドのニューギニアの話だが、これは、ナシム・ニコラス・タレブ言うところの「反脆弱性」というやつ(この人は本書には出てこない)なのではないかと思うと合点がいった。「反脆弱性」というのは、事態がヤバくなればなるほど、そのものの強みはより増していくとあう概念である。

 つまり、モノゴトの、あるいは人生におけるリスクとチャンスの基準をどう持つかということなのだが、目の前のシステム(たとえば民主主義・資本主義・現行の行政制度など)が正常に生きていることを前提にリスクとチャンスを考えてチップを張るのが現代的人生観としてこれまで信じられてきたのだが、なにがあってもおかしくないことを前提としたときのリスクとチャンスのチップのはり方という発想である。ニューギニアの知恵とはまさしくそういうことなのだった。



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人工知能の核心

2017年06月17日 | テクノロジー

人工知能の核心

羽生善治・NHKスペシャル取材班

NHK出版

 

羽生善治は「高速道路理論」というのをずいぶん前から提唱している。

ここ20年ほどの科学技術の進歩により、棋譜のデータベース化、ネット上の対戦機会の増加などから、かつてに比べ子どもたちや奨励会の人たちの将棋の上達速度が圧倒的に速くなり、またレベルも上がった。

つまり、みんな早いスピードで高いレベルまで上達するようになった。

「高速道路」があるのだから、わざわざ遅い「一般道路」を使う人はいないのである。

ところが将棋というのは結局のところ、勝負の世界なのであって、勝ち負けが発生する。

だから、レベルが均等になったゴール直前のところで大渋滞となる。

スタートからゴールまでの9割まではすいすい上達していくのに、最後の1割で大混戦するのが現在の将棋界ということである。

この混戦から抜けて躍り出るためには、けっきょくほかの人と違う経験や軌跡をあわせ持っておかなければならない。高速道路の出口付近での大渋滞から抜けて、さらなる向こう側の世界に至るには、高速道路のドライビングテクニックだけでは足りないのである。

 

で、この「高速道路理論」は、将棋に限らず、ひろく敷衍できる思想だと思う。

たとえば、さいきん会社に入ってくる新入社員をみていると、ものすごく優秀だと思う。報道やネットなんかでは、ゆとり世代のありえない習性のほうがネタ的にクローズアップされていて、あたかも若者はどんどん白痴化しているような印象を与えるが、平均的に見渡すと、かつての新入社員よりもずっと冴えていると感じる。自分を顧みて、僕らが新入社員のころはもっとずっとバカだったような気がする。

情報武装力やITスキル、その場で何が支配しているかを察する能力、物事を調べる能力、外国語能力、デザインセンスなどは四半世紀前の新入社員の平均値と比べてあきらかに上がっている。

彼らが本音で仕事をしたがっているのかどうかはさておき、すくなくとも技術レベルは格段に進歩しているわけである。昔だったら、超優秀新入社員として注目されただろうが、今となってはわりと標準装備レベルである。

ただ標準装備のグレードがあがった一方で、なんとなくみんな似たようなスキルセットの集合体だなと思うことはある。

そんな新入社員や若手社員の今後は大変だな、なんて思ったりもする。似たようなスキル、似たような経験値、似たような価値観、しかもみんなそれなりにレベルが高いのだ。それをこれから競争していくのだ。いまどき、出世競争もはやらないし、同じ会社にずっといるということもないのだろうけれど、評価は毎年されていくし、なんだかんだで会社というところは競争的側面がある。自分だったら匙投げちゃうななどと思ったりする。

ちなみにそんな中、久々に本格体育会の新入社員が入ってきた。かなり新鮮だ。他の新入社員のようにスマートではなく、いまどき武骨なのだが、ガッツと温情がいりまじっており、そこに体育会人脈も加わっている。しばらくは同期の後塵を拝しそうだが、そのうち独特のポジションとして尊重されることは間違いないと思う。

 

話がだいぶそれたけれど、人工知能というのものの敷衍は、こういう状態にますます拍車をかけていくように思う。「分析」というなりわいは、AIのほうが圧倒的に有利だ。ホワイトカラーや士業の多くを占める「分析」という業務はAIに浸食されている。

 

それから「大局観」。これも風前のともし火である。

将棋や囲碁ではAIは人間に勝てない、とされていたのは過去の話で、今やAIのほうが圧倒的に強いのは周知の事実だ。なぜ、将棋や囲碁は人間のほうが強いと信じられてきたかというと、将棋や囲碁は「大局観」がものを言うとされていたからだ。AIは「大局観」が苦手で、「大局観」こそが人間ならではの能力と言われてきた。

しかし、「アルファ碁」や「Bonanza」は、大局観を身につけてきている、というのが羽生善治の感想だ。大局観のもとになるのは直観だが、"どうもあのへんがあやしい”と察する能力をAIはディープラーニングによって獲得してきていると感じるそうだ。

恐ろしい話である。

 

そうなってくると、人間としての残る砦は「美意識」である。「美意識」のなせる技。

「美意識」というのは、文脈とか物語とかストーリーが持つ人を動かす力だ。これらは人間としての経験知、共有知が前提となっているから、AIが上っ面で模倣しようと思ってもすぐに底がわれる。「詩は人間がつくったほうがお面白い」といわれる所以である。

もっとも、表面上の模倣技術はかなり進んでいるようで、画家レンブラントの筆致データをAIに食わせてレンブラント風の新作をつくる、とか、チューリングテストに初めて合格したプログラムが登場した、とかこの方面にもAIは拡大しつつある。

 

AIが脅威というよりは、そういう進んだAIを「手にした人間の能力」というのは、けっきょくかなり均質化してしまうのではないかと思うのだ。それは「高速道路理論」を引き起こすように思う。

「分析」能力、「大局観」を見極める能力、「美意識」のセンス、をみんな同じ程度で持つようになったら、人間同士の差異や競争点はどうやってつくっていくことになるのだろうか。「個性」とはいうけれど、簡単な話ではない気がする。

「見た目」とか、「体力」とか、そういう原初時代に戻っていくのだろうか。

 

 


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インカメ越しのネット世界

2017年06月02日 | テクノロジー

インカメ越しのネット世界

りょかち
幻冬舎

 

 ネットで紹介されて興味を持ったので、Kindleでダウンロードして読んでみた。

 著者いわく、"私を蚊帳の外にして、昔のインターネットを語って仲良くしている人たちを見ながら、「安易に懐古主義してればいいじゃん、ばーかばーか」”というその対象とは"初期のWEBサイトやインターネット上のコミュニティでの青春を語れる30歳のおじさん”。
 30歳どころか40歳代の自分としてはへこむばかりだ。うっかりMosaicというブラウザーがあってさ、などと話を始めてしまわないよう気をつけなければ。

 

 僕のように、10代はまだWebのない世界に生きてきて、その後Webの世界が始まっていったパターンの人間から見ると、メインがリアル、サブがバーチャルという世の中の見立てがどうしてもあって、それはなかなかぬぐえなかったりするのだが、物心ついたころからWebがある世代であれば、たしかにリアルとバーチャルは等価に受容できるのだろう。

 また、Webも初期のころは、そこでできるコミュニケーションはテキストを中心とした制約の多いものだったから(当時はそれが当然と思っていて制約とさえ感じていなかったが、今からふりかえると制約だったのだ)、リアルのコミュニケーションとバーチャルのコミュニケーションは別物だった。バーチャルのコミュニケーションは、あくまでリアルの補助だった。

 が、現在のように、バーチャル上でもこれだけ細かいコミュニケーションの「あや」が使い分けられるようになると、リアルもバーチャルもすべてはコミュニケーションの元に統括されているのであり、もはやリアルとバーチャルという「二元論」さえ融解しているとも言える。ここのところを僕ら世代はよく理解しないといけないようだ。

 

 とはいえ、本書を読んでなんとなく思ったのは、ヒトとしての普遍的な欲望は、根本的にはかわらないのであって、そこに道具立てとしてのSNSの各サービスが、ヒトの欲望の細かいところまで応じられるようになってきている、ということなのかなあ、ということだ。もちろん僕が学生のころには、スノーもsnapchatもなかったわけだけど、もしあったら、やっぱりこんな使い方をして、こんな風に盛り上がったり、あせったりしたんだろうなあと思う。

 というのは、やっぱりヒトは大きな欲望として、誰かと仲良くしたい、認められたい、褒められたい、私のこと見てほしい、誰かの保証が欲しい、この人に見せたい、あの人には見せたくない、というのがあるのであって、それを支援してくれるサービスがあればそれには乗るんだよな。必要は発明の母とはこういうことかと思う。

 だから、もうひとつの注目すべきところは、ノンバーバル領域のコミュニケ―ションを支える技術や発想が、次々開発されてローンチされてくるこの時代の加速だろう。スタンプでコミュニケーションさせるLINEも、当初はびっくりしたが、見事に定着した。刹那的な動画でコミュニケーション、エフェクトかけた自撮りでコミュニケーション、といった脱テキストによるコミュニケーションは、これからもどんどん出てくるように思う。

 

 ところで、著者のりょかちさん。本書を読みながら思ったのだが、けっこう頭いい人だ。コトバ選びや文章センスがかなり成熟している。ノンバーバル万歳とうそぶいているようで、実はバーバルの使い手としてもけっこうやり手っぽい。

 


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