読書の記録

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ムーミンパパ海へいく

2018年01月18日 | 児童書・絵本

ムーミンパパ海へいく

 

著:トーベ・ヤンソン 訳:小野寺百合子

講談社

 

先の大学入試センター試験で出題された地理の問題に、ムーミンはどこの国のものかを当てさせるものがあった。もっともこの言い方は少々乱暴であって、正確には問題文なり提示された図なりに様々な断片の情報が隠されていて、ダイレクトに「ムーミンはどこの国のものか答えよ」と問うものではなかったのだが、センセーショナルにニュース化し、日本のムーミン公式サイトも声明を出すような事態となった。

これがそこまでニュースになってしまったのは、大学入試センター試験にそのような問題が出るんだ! という意外性もあるし、ムーミンって架空の世界の生き物なんじゃないの? という素朴な疑問もあるだろう。

ところで、正解は「フィンランド」である。

いや、「ムーミン谷」はみんなの心の中にあるものであって断じてフィンランドではない! 日本政府と文部科学省はそんなんでいいのか、とか、なまじ「ムーミン谷」は架空であると知っている人のほうが不正解する、とか批判も起こっている。

なかなか微妙な問題ではあろう。たとえば「スヌーピー」はどこの国のものか、といえば、みんな十中八九アメリカと答える気もするし、「ドラえもん」はどこの国かといえば、やはり「日本」であろう。外国人がドラえもんを指してあれはアジアのどこかの国のお話であって断じて日本ではないと主張してくれば日本人としては弁明したくなる。スヌーピーは、ドラえもんは、架空の国である、とはもちろん言えちゃうわけだけれど、これらをアメリカだ日本だと言っても、それほど目くじらはたてられない気がする。フィンランドの人にとっては「ムーミン」は自分の国のものだと胸を張って言うだろう。

つまりは日本においては、ムーミンにまさか所属国があったのか、という意外性がコトを大きくしたと思う。日本の公式サイトが「まだまだ認知が不足だった」とコメントしたそうだが、忸怩たる思いだっただろう。

もっともムーミンはどうも北欧のほうらしい、というのはそれなりに知られていたようである。北欧デザインとか北欧スタイルが流行した際に、ムーミンも一緒によく取り上げられていた。だから、ムーミンをデンマークとかスウェーデンとかと考えた人がいたとしてもおかしくない、ムーミンは北欧一帯をイメージしたファンタジー世界の物語なのだ、というのが大多数の見解だろう。

ところで、ぼくはムーミンはどこの国かと問われれば、それはフィンランドだ、とすぐに答えられる。原作者トーベ・ヤンソンによる童話小説のほうで馴染んでいたからだ。ヤンソンがフィンランド人ということもあるのだが、9巻あるムーミンシリーズの童話のうち、第8巻にあたる「ムーミンパパ海へいく」の扉絵に作者自身の描画による地図があってそこに「フィンランド湾(The Gulf of FINLAND)」とご丁寧に書いてあるのだ。

もっともこれはもうトリビアの世界の話であって、大学入試センターも「地理」としてこの問題を設問した本意はもっと違うところにあったのだろうとは思う。物語の舞台というよりは、どの国のコンテンツ産業かと問うているのが「地理学」としての真意だと思う。 

ムーミンシリーズについては一度ここで書いている。ムーミンシリーズの日本での受容の歴史はわりと不運と不幸があって、今回の騒動の原因も、遠くでつながっているような気がする。

改めて全9巻のムーミンシリーズをざっくり説明すると、ムーミン一家はもともと人間の住む家のすみっこに言わば借り暮らしのようにひっそり暮らしていたが、洪水を機会に流浪の身となり、やがて心地よい谷間の地をみつけ、そこに定住するようになる。これがいわゆるムーミン谷である。物語の舞台はこのムーミン谷が主となって仲間もどんどん増えていくのだが、このムーミン谷というところもなかなか厄介な土地柄で、彗星がかすめたり、大洪水がやってきて水没したり、冬は雪に閉ざされたりする。そんな地での生活だったが、やがて生来の飽きっぽさがたたったムーミンパパが一家を無理やり引き連れてムーミン谷を出て海原に乗り出し、とある島に引っ越しをする。表題「ムーミンパパ海へいく」はこの物語である

で、この島がどうやら「フィンランド湾」に存在する。

ちなみにこの島は、ムーミン谷から帆つきの小さなボートで「まる一晩とつぎの一日、旅をつづけて、また夜になり」到着するくらいの位置にある。

ムーミン一家の話は基本的にこれで終わる。つまり、他所からムーミン谷へうつり、そしてムーミン谷を去って島での生活が始まる。これをシリーズのメインストリートとして、そこにムーミンパパの若いころの話や、ムーミン谷に残された仲間たちの話がサイドストーリーがくっつく(もっとも最終巻「ムーミン谷の秋」によると、最後の最後にムーミン一家はふたたび島からムーミン谷へ戻ってくるかのような終わり方をするのであるが)。

この物語の中で、主人公であるムーミンは無邪気な子どもから思春期へと成長する。中二病っぽかったスナフキンは円熟したオトナになる。子育てが終わって燃え尽き症候群になるムーミンママ。承認欲求に苛まされるムーミンパパ。

ほかにも様々な伏線や配慮が北欧の自然風土を舞台に繰り広げられ、ムーミンという架空の生き物を通じて、人間本来に通用する哲学に迫るのがムーミンシリーズなのだ。その思索思弁的な内容はとても子どもむけ童話の枠に収まらない。最終巻「ムーミン谷の秋」全体に漂う虚無感は、子どもむけを完全に逸脱してしまっていて、前衛的とさえ言える。

センター試験におけるこの一連の騒動は、問題作成者自身が、ドラえもんが日本のもののように、スヌーピーがアメリカのもののように、ハリーポッターがイギリスのもののように、ムーミンはフィンランドのコンテンツ産業、くらいの感覚だったんではないかと思うが、ムーミンという物語がその土壌を「フィンランド」と固定させる必然性は、ムーミンシリーズの物語や主意を構成する上では確かにあまり無いといえる。トリビアとして確かにムーミンの世界はフィンランドなのであるが、本質的には宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」はどこの国を舞台にした物語かくらいのいささか無粋な、無遠慮な問いだったと言えるかもしれない。



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こんとあき

2014年03月27日 | 児童書・絵本

 こんとあき

 林明子

 絵本である。このブログでは、絵本をとりあげたことはまだなかったはずだが、ちょっと面白く、なかなか感じる内容だったのでここにとりあげてみる。

 「絵本」と呼ばれるものの中で、その多くは確かに「子供」を対象としたものだ。しかし中には子供だけでなく明らかに「大人」を意識したもの、あるいはもう完全に子供は忘れて「大人」を中心読者と考えているものもある。
 よくできた絵本は、「子供向け」と侮れない。単なるひとつの解決や結論、二元論的な善悪や悲喜に終始せず、一種の諦観、あるいは無常とでもいえるような重層的な読後感を残す傑作が多い。
 この類で僕が学生時代に触れてたいへん感銘を受けたのがシェル・シルヴァスタインの「大きな木」で、最初は先輩から口頭であらすじだけ聞き(また、その先輩の語り口が巧かったせいもあって)、そのコトバだけで思わず涙が出そうになり、あわてて本屋で探した。その後マスコミが紹介したりして、いまや「大人向け絵本」のスタンダードレパートリーである。
 日本の作家でいえば佐野洋子「100万回生きたねこ」がよく知られている。

 さて、ここでとりあげるのが「こんとあき」。作者は林明子である。もっとも林明子については、筒井頼子との共作による「はじめてのおつかい」や「あさえとちいさいいもうと」のほうがよく知られている。いずれも長年に渡って支持されている絵本だ。
 「はじめてのおつかい」や「あさえとちいさいいもうと」も、日常の中の子供のわくわくどきどきがシンプルなストーリーで描かれ、舞台となる世界の大きさも、物語の進行のスピードもきわめて常識的だ。荒唐無稽なところもなく、万人に通じやすい。
 これらに比べると「こんとあき」は、なかなか奇妙で野心的である。子供に読み聞かせてみたものの、数ページ先からの意外な話の展開にあっけにとられてしまった。
 が、なかなかどうして、個人的には「はじめてのおつかい」や「あさえとちいさいいもうと」を大きく凌ぐ感銘を残してしまった。これは子供にも十分に面白く、しかし、まったく違うところで大人にも強烈なメッセージを放っている絵本なのである。

 ここからはネタばれである。

 ストーリーをはしょって説明すると「あき」という4-5才くらいの女の子がいて、おばあちゃんにつくってもらった大事なきつねのぬいぐるみの「こん」の腕がほころんでしまい、それをおばあちゃんに直してもらうために電車に乗っておばあちゃんの住んでいる町まで行く、というものである。
 が、「こんとあき」を読んだ人ならば、これが何の説明にも本書の特徴を示しているわけにでもなっていないとすぐにわかるだろう。

 では、これは4-5才くらいの女の子「あき」と、きつねのぬいぐるみ「こん」の「ロードムービー」である、といえば、当たらずも遠からずではないだろうか。
 よくできた「ロードムービー」には、ある種の人生の葛藤や試練、そしてそれを超克して到達する心境というのが凝縮されて描かれていたりするが、「こんとあき」にもまさしくそれがある。
 「あき」は「こん」によって育ち、「こん」に守られ、率いられていく。しかしやがて「あき」は「こん」を抜かなければならなくなり、「こん」を助けなければならなくなる。そして遠からず「あき」は「こん」を必要としなくなり、独り立ちし、別れなければならなくなるところまで気配を与えている。

 「こん」によって守られてきた「あき」が自分で歩まなければならなくなる転機が“砂丘での出来事”である。
 おばあちゃんの住む町の駅まで着いたものの、おばあちゃんの家に行く前に砂丘に行ってみたいと「あき」は「こん」に言う(今更補足すると「こん」はぬいぐるみだが、自分で立って自分で動き、しゃべります。)。そして「こん」と「あき」は砂丘に立つ。この部分、見開き2ページで広大な砂丘の明るい光景が広がる。
 だが、この砂丘で「こん」は野良犬にさらわれ、砂の中にガラクタといっしょに埋められてしまう。「あき」は埋められた「こん」を助け出すが、ボロボロになっている。にも関わらず、「こん」は「あき」に“だいじょうぶだいじょうぶ”という。以後、「こん」は「あき」に何を尋ねられても小さな声で“だいじょうぶだいじょうぶ”としか言わなくなる。この“だいじょうぶだいじょうぶ”はことあるごとに「こん」が「あき」に言ってきたセリフなのだが、ボロボロになった「こん」は、そう呟く以外に「あき」に対して何もできない。だが、「あき」は「こん」を背負って夕闇の砂丘を下りていく。ここがまた見開き2ページで描かれるのだが、このシーンによって、「あき」は「こん」に依らず人生を歩んでいくことが示唆される。広大な砂丘は世の中そのものであり、社会であり、その後の人生のメタファであろう。

 生まれたときから「あき」につきあってきた「こん」はボロボロになったものの、おばあちゃんの手によって再び新品同様のぬいぐるみに戻る。が、新品に戻った「こん」は、言わば「普通のぬいぐるみ」に戻ったことの象徴とも見える。
 困難を前にした「あき」が「こん」の力を借りなくても自分で「だいじょうぶだいじょうぶ」と思えたとき、「こん」は安心して、喋りも立ちも歩きもしない普通のぬいぐるみに戻るのだろう。


 


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あんぱんまん

2010年05月08日 | 児童書・絵本
 あんぱんまん

 やなせたかし

 どこの家でも、小さい子供がいるところでは「アンパンマン」の浸食は大なり小なり避けられないだろう。よほど覚悟してかからないと、「アンパンマン」は忍びこんでくる。玩具や衣類に限らない。タオル、歯ブラシ、コップ、ハンカチ、ふりかけ、カレー・・・

 「ウチでは絶対にアンパンマンが描かれたものは買わない!」と決意しても、保育園や幼稚園からやってくる。友達の家でDVDを観てしまう。じいちゃんばあじゃんというリソースもある。だいたい、ちょっと街を歩けば、アンパンマンはすぐにいる。いちどアンパンマンの存在を知ってしまった子供は、もう黙っちゃいない。

 それだけ、幼児の心をわしづかみにしてしまう「アンパンマン」だが、よくよく考えてみりゃ、僕が子供のころ、すでにアンパンマンは存在していた。大判の絵本で、そのときは、今のようなカタカナ表記ではなくて「あんぱんまん」だった。
しかし、設定はほとんど同じで、お腹をすかせた子供に、あんぱんまんは自分の顔を食べさせ、首から下だけになって、飛んで帰っていく。世界広しといえど、自分の顔を食べさせるヒーローはアンパンマンだけである。この点で唯一匹敵するのは「幸福な王子」かもしれないが、さすがに自分の肉体の一部をちぎって渡すことはしない。武田泰淳の世界である。

 このアンパンマンの特異性については、やなせたかしがしっかりとコメントしていて、古今東西のヒーローは誰一人、“飢え”を救わなかった、という指摘である。腹を空かした子供に食べものをあげたヒーローは誰もいない。やなせたかしは“飢え”を救うヒーローをつくりたかった。それがアンパンマンである。


 その原点から始まったアンパンマンも、いまやそのキャラクター数のあまりの多さがギネスブックに載るほどになり、主戦場は絵本から完全にテレビになった。
 テレビで放映されるお話そのものは、実にシンプルで他愛のないもので、キャラクター設定も単純明快である。アンパンマンはどこまでも正義の味方だし、バイキンマンは心底わるもんである。ジャムおじさんは親切で温厚であり、メロンパンナちゃんは明るい優等生であり、食パンマンは紳士であり、カレーパンマンはやんちゃであり、ドキンちゃんはツンデレキャラである。物語は、誰かがバイキンマンの仕業で困っているところをアンパンマンと仲間たちが助け、バイキンマンは制裁を受け、めでたしめでたし、である。

 そういったアンパンマンの世界の中で、例外ともいうべき、もっとも複雑なキャラクター設定を持ったものが一人だけいる。ロールパンナである。1800近くあるキャラクターの中で、ロールパンナだけが一筋縄ではいかないポジションにいる。

 ロールパンナというのは、アンパンマンの彼女であるところのメロンパンナの「姉」である。「姉」であるが、生まれたのはメロンパンナのほうが先である。ここからしてすでにねじれている。
 このロールパンナは、勧善懲悪のアンパンマンの世界において、正義と悪の2つの心が共存しているキャラなのである。これは、ジャムおじさんの手によって作りだされるときに、「真心の種」と「邪悪の種」の2つが混在してしまったからだ。
 ロールパンナはこの引き裂かれる正邪の心に翻弄され、苛まされる。まるで人造人間キカイダーのようではないか。したがって、アンパンマンや「妹」であるメロンパンナとは一緒に住めない。しかし、「邪」であるバイキンマンのところにいくこともできない。ロールパンナは、岩肌の露出した荒野に、ひとり孤独な生活な生活をしている。

 妹思いであってメロンパンナを助ける。しかし、アンパンマンによって傷ついたバイキンマンを介抱して去っていく。この矛盾の相克は、アンパンマンの世界においてきわめて異彩を放つ。

 というわけで、オトナならば、ロールパンナのありようというのは、要するに人間は善と悪の二側面を合わせ持つということを表しているということはすぐにわかるのだが、当の子供達は、このロールパンナの宿命をどう受け取っているのだろうか。

 僕は自分の4才の娘に、ロールパンナちゃんが持つ悲しみや喜びがわかるかい、と尋ねてみる。興味深いので、ロールパンナが何を思って、どう行動しようとしているのかはとくと観察し、考えてみなさいと促す。だが、うちの娘はなぜかアンパンマンにもバイキンマンにもにらみを利かす史上最強キャラと認識しているようだ。ダーティヒーロー好みなのかもしれない。




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