読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

暇と退屈の倫理学 増補新版

2023年02月18日 | 哲学・宗教・思想
暇と退屈の倫理学 増補新版
 
國分功一郎
太田出版
 
 
 おいおい。今頃かよと言われてしまいそう。
 そのうち読んでみよう、とは確かに思っていたのだ。朝日出版社から出た初版が書店で平積みされたときは。
 ところが、この「暇と退屈の倫理学」、職場の先輩いわく“ひまりん”、あれよあれよと話題になった。そのうちに増補新版なるものが太田出版から出て、つい先ごろは文庫本化されたものも新潮社から出た。気が付けば一干支まわる年月が過ぎていた。著者はいまや脂ののった現代の論客として名を馳せている。本書登場のインパクトを感じるには完全にタイミングを逸してしまった。要するに読む気を無くしてしまっていたのである。
 
 そんな“ひまりん”、先日ようやく読んでみた。古本で投げ売りされていたのを発見して、これも僥倖と手にしたのである。太田出版の「増補新版」だった。
 
 もちろん面白かった。これからすげえ話してやるぜという空気を醸し出すもったいぶった導入は、水村美苗「日本語が亡びる時」や、福岡伸一「動的平衡」を思い出させた。傑作を予感させるイントロだ。マルクスやハイデッガーを捕まえてこいつは勘違いしている呼ばわりするのは爽快だし、哲学の名に恥じず何度も問いと答えを確認しながら慎重に論を進めているのに、冒頭まえがきで示された中島みゆきの「地上の星」の違和感の正体が何だったのかにけっきょく言及しないのも確信犯的で愉快だ。「倫理学」を名乗るからには「ではどうすればいいか」を示さなければならないと自ら律しているのに感心したが、「本書は通読しなければ意味がない」と、だいぶ通読しなければならない終盤近いところで宣言するところなど、なかなか破調で痛快だ。
 
 いずれにしても本書はすでにあちこちで言及もされている。なので今回は、増補新版部分で指摘されていることについて思ったことをここに記してみる。
 
 
 退屈しやすい人と退屈しにくい人がいる。「飽きっぽい人」と「はまりやすい人」と言ってもよい。
 本書の増補新版部分によると、その個性差は幼少期に味わった「サリエンシー」、すなわち新奇な刺激の量によって決定するらしい。毎日めまぐるしく新しい人に出会ったり、住む環境が変わったり、事件や事故が立て続けにおこるような幼少時代を送った人は退屈センサーが敏感になるという。そのからくりはある種のPTSDみたいな作用らしい。次々と色々なことがおこることを脳がスタンダード視するようになる。なので平静な状態が続くと、持て余した脳が刺激を要求するのだ。幼少期の記憶で防備された脳が自己免疫疾患アレルギーを起こすようものらしい。逆に幼少期に低刺激な毎日を過ごすと、その人は退屈を感じにくくなるそうだ。細部の違いに関心を寄せやすくなる。幼少期のこのような違いは、兄弟姉妹の数、家庭の中の雰囲気、家の周辺の環境、家が自営かどうか、来客の出入り頻度、転勤転校はどのくらいあったか、などなど、このあたりの変数はいくらでも考えられる。
 こういった幼少期の経験が、どれだけ時間が経ったかという脳の感覚知をつくっていく。そしてそれは「退屈」を感じやすいかどうかとも密接に関係する。磯野家のタラちゃんなんかはそうとう退屈しやすい体質になってしまうのではないか。反対に塔の中のラプンツェルは退屈しにくいタイプに体質になるであろう。
 
 ということは、傍からみて、この人ホント飽きっぽいなとか、じっとできないなとか、イラチだな、という人は、もしかするとなかなか大変な幼少期を送っていたのかもしれない。逆に、辛抱強くずっと集中できる人、待機ができる人は、平穏な幼少時を送ることができたのかもしれない。
 
 また、最近は内向的な人と外向的な人の違いなんかも注目されている。内向的な人が、外向的な人が居心地よいと感じる環境に引きずり出されると、情報過多になってストレスフルになる。反対に外向的な人が、内向的な人にとって理想的な環境に連れ込まれると刺激が足りな過ぎて不安になってくる。
 本人がいちばん落ち着く内外のやりとり密度というものが、内向的タイプと外向的タイプで異なるというのは、退屈に強い弱いとも連動した話のような気がする。外向的な人は、幼少期に刺激の強い毎日を送っていた可能性があり、脳がそれ用にセットアップされているのだ。
 
 そもそも、現代人は昔の人に比べて飽きっぽくなったのかもしれない。1日に出会う人も、右から左へ通り過ぎる情報の量も、眼前で展開される街の光景も、現代と昔とでは多いに異なるだろう。本書によれば人間の「一瞬」とは0.056秒らしいが、三倍速で動画を早送りする現代の若者は、脳の情報処理速度がもっと進化している可能性がある。彼らの「一瞬」はもっと短いかもしれない。我々だって黎明期の動画はかくかくして見えるではないか。たしかに人間にとって退屈は宿命かもしれないが、令和の若者は人類史上もっとも飽きっぽい可能性がある。

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鬼谷子 中国市場最強の策謀術

2023年01月28日 | 哲学・宗教・思想
鬼谷子 中国市場最強の策謀術
 
高橋健太郎
草思社文庫
 
 荘子、孫子、老子、孔子。諸子百家の古典は数あれど、そのあまりの危険な内容に禁断の書とされ、戦後日本においては封印された異端の教え、それが「鬼谷子」である。もはやその存在を知るものはいない幻の書のはずだったがここにその悪魔の術を復活させたのが本書――おお、魁!男塾やキン肉マンのようではないか(1970年代生まれでなければわからないネタ)。しかも本書は民明書房ではないのである!
 
 なんちゃって。いまはテレビドラマ化もアニメ化もしているようで、Wikipeidaにもしっかり「鬼谷子」の項目は存在した。
 とはいえ「鬼谷子」というもの、ぼくは書店の草思社文庫の棚を何気に眺めていて初めて知った次第である。鬼谷子という字面からして怪しいにおいがぷんぷんするではないか。おにたにし? いや、これは「きこくし」とよむそうな。
 
 言うならば、中国流弁論術だ。春秋戦国時代の中国には諸国をさすらうフリーの論客がたくさん存在した。司馬遷の史記列伝なんかにはそういう食客みたいな人がたくさん登場する。彼らのことを「縦横家」と称するそうだ。読んで字の如くだが、いわば流しの参謀である。現代ならば、いろんな企業の経営層を渡り歩いてるCXOみたいなものだろうか。
 春秋戦国時代というのは、人の命もなかなかに軽くて、ちょっとしたミスをしたり、あるいは恨みでも買おうものなら、一族郎党まで残酷な処刑の憂き目にあう時代だった。史記や三国志なんかでもその手のエピソードはいっぱいある。そういう剣呑な世の中にあって、さすらいの縦横家は、その舌先三寸だけでサバイバルしてきた。この「鬼谷子」はサバイバル弁論術なのである。
 
 その弁論術の神髄を一言で済ませると「陰陽」につきそうだ。
 すべての行為・思想・現象・世界は「陰陽」である。相対と循環のエネルギーで成り立つ。
 こう書くとオカルトだが、実は中国ではこの思考形式はかなり一般的に人々の心にセットされているようだ。たとえば近代中国における大規模水利開発プロジェクトのことを「南水北調」(南の水で北を潤わせる)と表現したり、習近平が唱える中国の高速大量データインフラ網開発を「東数西算」(都市沿岸部のDX拡大を内陸部のデータセンターで支えていく)と言ったりする。これらは大陸の構造を陰陽の流れに見立てている。ポイントは単なる二元論ではなくて、そこに原因と結果とか、右からきたものを左に受け流す、のような流れの因果を示していることだ。習近平がアメリカの講演で語ったセリフは「我想更近距离地了解中国,也让更多外国人了解更加真实的中国」(中国は世界に学ばなければならない。また、世界は中国に学ばなければならない)。これも陰陽のレトリックと言えよう。ほかにも中国の有名な格言「上有政策下有対策(お上から無理難題な政策があれば、下々はなんらかの対策ですりぬけてみせる)」は現在でも普通に使われるというが、これなんかも単なる二項比較ではなく、合気道のような円の受け流しをする庶民のしたたかさを彷彿させる。
 
 鬼谷子の弁論術における陰陽としては、まず「話すこと」と「話さないこと」が陰陽として等価に扱われている。
 弁論術というと喋り方ばかりフォーカスされるが、実は話さない時間、話さない手間、話さない手段という「話さない」ときのコントロールが「話す」のと同じくらい重要なのである。
 まずは「口を開いて話す」ことを効果的になすためには、下準備としての「話さない時間」に何をするか、というのが極めて重要なのである。相手のことを良く調べ、相手は何を本心で思い、何をコンプレックスにしているのかを徹底して考え、最適なタイミングで効果的な一言を話す。そうすれば効果的な弁論になる。つまり、話さないときから弁論の勝負は始まっている。このあたりは孫子の兵法あたりにも通じるものがある。そして話したあとはさっと「話さない」モードに引き返す。
 また、こちらから話すときは単に一方的に説得するのではなく、相手の発言を引き出すものである。また、その引き出した発言内容から相手を与する手がかりを得てさらにその話題をコントロールしていく。その手がかりは必ずしも明瞭で声高に現れるものではなく、むしろ明瞭の裏にある不明瞭で多くを語らない部分、大きな物語の中にちらとみえる例外の小さな物語に真意の芽があったりする。これらはみんな陰陽だ。表に見えるもの「陽」には必ずなにかの「陰」が支えている。そういうところを捕まえるのが鬼谷子である。
 つまり鬼谷子によれば、弁論とは一方通行ではなく、陰陽を用いて相手との相互作用をどうコントロールするか、という世界なのだ。そこにおいて弁論における「陰」つまり「話さない」ことの重みは大変重要なのである。言われてみれば、能ある鷹は爪を隠す。秘すれば花。沈黙は金雄弁は銀。風林火山。「話さない」ことをコントロールする諺や格言は数多い。
 
 まあ、ディベート術や交渉術のノウハウがいくらでも明らかになっている現代においては、これらのことは当たり前な気もする。言うならば、論客とか弁が立つ人というのは、天性のセンスのようでその場をこなしているように見えるが、実は準備が周到なのだというなのだろう。プレゼンテーションを上手にこなすには、パワーポイントのスライドづくりにぎりぎりまで時間をかけるよりは、どこかのタイミングでしゃべりの練習、つまりリハーサルをたくさんやったほうがいい、という話をどこかで聞いたことがある。それと同じかもしれない。

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夜と霧

2022年12月14日 | 哲学・宗教・思想
夜と霧
 
V・E・フランクル 訳:霜山徳爾(旧版)・池田香代子(新版)
みすず書房
 
 
 前からやってみようと思っていたが果たせていなかった読書に挑戦した。
 
 それは、フランクルの「夜と霧」(みすず書房)を新旧ふたつの訳で読み比べてみよう、という試みである。
 
 みすず書房の代名詞とも言える「夜と霧」には旧訳と新訳がある。
 旧訳は1956年に刊行された。故・霜山徳爾氏が訳したもので、公立図書館や学校の図書室におさめられている多くはこれである。
 「夜と霧」というのは日本独自のタイトルで、フランクルがもともと1946年に書いた本はには"Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager"とつけられていた。直訳すると「一人の心理学者が強制収容所を体験する」という如くのものになる。
 正確に説明すると、1956年の「夜と霧」というのは、この「一人の心理学者が強制収容所を体験する」というフランクルの手記を真ん中にして、前後する形で配された「解説」と「写真図版」の3要素から成り立つパッケージである。この「解説」は本文なみの分量がある特異なもので、みすず書房にて用意されたオリジナルだ。イギリスで記録された戦後裁判での証言をもとに構成されている。その内容はナチスによるホロコーストの生々しい実態である。旧版「夜と霧」は、この「解説」による洗礼を最初に受けてから本文に入り、最後にショッキングな「写真図版」で終わるような構成になっている。
 この構成については当時もいまも賛否両論がある。強制収容所のリアリティがあるのとないのでは、本文を鑑賞する際の重みが違うのは確かだろう。ユダヤ人ともナチス帝国とも縁が遠かった日本において、当時は今ほど情報が流通していなかったから、この「解説」と「写真図版」は相当なインパクトを与えたようである。
 一方で、フランクル自身は決してナチスの蛮行を告発しようという意図があったわけではなく、みすず書房に対してもこの構成は本意ではないことを伝えたらしい。
 後に、フランクル自身が原稿を改訂したこともあり、みすず書房は2002年に「夜と霧」(新版)を刊行した。訳は池田香代子氏である。旧版にあった「解説」と「写真図版」は取り除かれた。
 
 同一出版社で新訳が出た場合、旧訳は絶版になることが通常だが、みすず書房は霜山氏への敬意もこめて、新旧両方の刊行を続行した。したがって、大型の書店に行くと「夜と霧」は新旧ふたつの版が並んでいる。
 
 
 というわけで、新版と旧版の最大の違いは、「解説」と「写真図版」の有無にある。
 一方で「本文」については細かい加筆訂正箇所もあるにはあるが、最大の違いはなんといっても翻訳を担当した霜山氏と池田氏の文体だろう。旧版支持者は霜山氏の厳格な文章になじんだため、池田氏の文章に食い足りなさを感じるようだ。ネット上の評判などをみると霜山訳のほうが格調高く、池田訳が平易に過ぎるような論調をみる。また、霜山氏の本職が臨床心理学者でもあることから、専門的な説明の信頼力が池田氏よりもあるとするむきもある。
 
 一方で、霜山氏の文章はたしかに現代感覚からするともはや使われなくなったコトバや言い回しもあり、ある程度年季の入った読書好きでないと読みにくいかもしれない。
 
 
 で、ぼくは旧版をベースにして、ちょっと意味がわかりにくいなというところや、ここは重要だと思った箇所は新版でも確認するような手続きで読んでいった。「解説」も「写真図版」も読んだ。
 そうすると、霜山訳と池田訳の特徴というものが浮かび上がってきた。
 
 
 たとえば、収容所の囚人たちが夕焼けの光景に感動する有名な個所。
 
 【霜山訳】
 そしてわれわれはそれから外で、西方の暗く燃え上る雲を眺め、また幻想的な形と青銅色から深紅の色までのこの世ならぬ色彩とをもった様々な変化をする雲を見た。そしてその下にそれと対照的に収容所の荒涼とした灰色の掘立小屋と泥だらけの点呼場があり、その水溜りはまだ燃える空が映っていた。感動の沈黙が数分続いた後に、誰かが他の人に「世界ってどうしてこう綺麗なんだろう」と尋ねる声が聞えた。
 
 【池田訳】
 そしてわたしたちは、暗く燃えあがる雲におおわれた西の空をながめ、地平線いっぱいに、鉄色(くろがねいろ)から血のように輝く赤まで、この世のものとも思えない色合いでたえずさまざまに幻想的な形を変えていく雲をながめた。その下には、それとは対照的に、収容所の殺伐とした灰色の棟の群れとぬかるんだ点呼場が広がり、水たまりは燃えるような天空を映していた。
 わたしたちは数分間、言葉もなく心を奪われていたが、だれかが言った。
 「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」
 
 霜山訳はかなり抑制的で、フランクル自身の目や耳に入り込んだものをそのまま再現しているようだ。それに対し、池田訳のほうは、効果的なストーリーテーリングを意識した語り口である。「静の霜山、動の池田。」である。
 
 では、この箇所、原文ではどうなっていたのだろうか。
 
 Und  wenn  wir  dann  drausen  die  duster  gluhendenWolken im Westen sahen und den ganzen Horizont belebtvon den vielgestaltigen und stets sich wandelnden Wolkenmit ihren phantastischen Formen und uberirdischen Farbenvom Stahlblau bis zum blutig gluhenden Rot und darunter,kontrastierend, die oden grauen Erdhutten des Lagers undden sumpfigen Appellplatz, in dessen Pfutzen noch sichdie Glut des Himmels spiegelte, dann fragte der eine denandern, nach Minuten ergriffenen Schweigens: ≫Wie schonkonnte die Welt doch sein!
 
 ぼくもドイツ語は読めないのでじっと眺めたり、Google翻訳の助けを借りたりしてみていった結果、むしろ逐次訳に近いのは池田訳のほうだなということがわかった。Horizont(地平線)、blutig gluhenden Rot(血のように輝く赤)は、池田訳には直接反映されているが霜山訳では捨象されている。最後のくだりにおける誰かの声は、霜山訳では本文にさりげなく溶け込ませていて、小さくつぶやかれたかのような印象を受けるが、池田訳では段落を改めて独立させ、夕日に向かって叫んだかのような印象を与える。
 
 ここらへんは是非の問題ではなく、翻訳の美意識の領域であり、読者にとっては好みであろう。霜山氏はフランクルに直接会って話をきいているし、文面よりも彼自身の雰囲気を念頭においてここまで刈り込んだのだろうし、池田氏はフランクルと直接会ったことはないが原文の文面の印象を大事にした感がうかがえる。
 
 
 もう一つ有名な箇所。人生の意味とは何かという永遠の問いをコペルニクス転回させ、人生から何の意味を見出すかこそが重要というくだりである。
 
 【霜山訳】
 ここで必要なのは生命の意味についての観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。
 
 【池田訳】
 ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。
 
 
 文章の長さはどちらもほぼ同じだ。
 大きな違いは、霜山訳では「生命の意味」「人生」と訳したのに対し、池田訳では「生きる意味」「生きること」としたことだ。こちらも霜山訳が静的(名詞)なのに対し、池田訳は動的(動詞)である。
 
 原文は以下のようになる。
 
 Was hier not tut, ist eine Wendung in der ganzenFragestellung nach dem Sinn des Lebens: Wir mussen lernenund die verzweifelnden Menschen lehren, das es eigentlichnie und nimmer darauf ankommt, was wir vom Leben noch zu erwarten haben, vielmehr lediglich darauf: was das Leben von uns erwartet!
 
 ここで霜山が「生命」や「人生」と訳し、池田が「生きる(意味)」「生きること」と訳したドイツ語はLebenという単語である。Lebenは英語でいうLifeにあたる名詞形で、したがって「人生」とか「生命」と訳せる。動詞としては「生きる」という意味になるから。池田が「生きる」という日本語を当てるのも順当の範囲である。
 
 しかし、「あなたにとって人生とはなにか」と尋ねることと、「あなたにとって生きるとはなにか」と尋ねることは、けっこうニュアンスが異なる。まして「生命の意味」と「生きる意味」はかなり印象が違う。
 この感覚の違いを冷静に考えてみると、池田訳の「生きる」「生きること」というのは日本語として動詞だから主語が蓋然的に必要となる。その主語とは当然「自分」である。つまり「生きる」という言葉は必然に「自分」という存在を引き寄せ、しかも能動的な自動詞ということになる。生きることはほかならぬ自分の意思決定の連続である。
 
 一方で、霜山訳である「生命の意味」「人生」という言葉をあらためて噛みしめてみると、「自分」というものの主体性が及ぶ範囲から若干の距離感がある。はからずもこの世に生を受けてしまった以上それはあなた次第である、という受動から始まる義務と責任とでもいうべきものが見え隠れしまいか。それは「生命」というやや突き放したような客観的な訳語がまず象徴的だ。また「人生」という名詞は、主語が必ずしもまとわりつかず、単語として完結する。つまり「人生」とは「自分」のままならない別個の概念という前提がここにある。池田訳の「生きる」という、自然に(自分という)主語とつながろうとする動詞が持つコトバと性質が異なるのである。
 つまり、霜山訳は、人生とは自分の意とは関せずにふりかかるものという見立てがまずあって、にもかかわらずそこから意味を見出すのだ、という受動から能動への転換がある。この劇的さこそが霜山訳の特徴である。
 
 これはフランクルと同時代に生まれ、太平洋戦争を実際に体験して特攻隊の生き残りとなり、開放されて間もないアウシュヴィッツを見学し、フランクルにも実際に対面した霜山と、戦後世代の池田の立場の違いが現れたところと言えるだろう。
 強制収容所という局面は、受難以外のなにものでもなかった、その「受難」さえ、意味あるものにと能動的な態度に替える強さこそがフランクルの唱える「態度価値」の真骨頂であった。したがって、霜山訳の「生命の意味」について「観点を変更」し、「人生」というやや客観めいたはずのものが自分に何を期待するかと急にせまってくることがまさにコペルニクス的転回なのである。この凄みに霜山は震撼し、なんとかしてそれを翻訳として引き出そうとしている。
 霜山の訳は、壮絶な収容所経験をしてきたにもかかわらず、冷静さを失わずに人生の意味を見出したフランクルの臨床心理の凄みをなんとかして日本語にしようとしたものだ。それは思想をゼロから言語化するに等しい、石板に刻み込むような仕事だ。
 
 とはいっても霜山訳はやはり堅い。現代となっては日本語としてのレギュレーションを超えている箇所が随所にあるし、フランクルの原文そのものはそこまで凝ったレトリックではない。むしろフランクルの芸風は文体もタイトルのつけ方も非常にさりげない。池田訳は、もう一度本来のフランクルの原文が持っていた平静さを戻したものである。だからフランクル本来の文章の味わいとしては池田訳のほうが近いのだ。しかし、一見そのさりげない文体に隠れたその思想の凄みの何たるかは、霜山訳くらいに厳粛に、そして高貴な態度で訳されたものでなければ、我々はシンクロできないものなのかもしれない。
 
 池田訳があくまでフランクルの文章の翻訳であるのに対し、霜山訳は霜山が信じたフランクルの思想そのものを日本語にしていたと言えるだろうか。

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Humankind 希望の歴史 人類が善き未来をつくるための18章

2021年08月11日 | 哲学・宗教・思想
Humankind 希望の歴史 人類が善き未来をつくるための18章
 
ルトガー・ブレグマン 訳:野中香方子
文芸春秋
 
 
 近年の社会学や心理学は、人間は環境や条件が整うと極めて邪悪な――暴力的で無慈悲で残忍な行動をとることを指摘してきた。ホロコースト以後、なぜ人間は残忍になるのかというのは人間を考える上で大きなイシューとなった。スタンフォード監獄実験、ミルグラムの電気ショック実験、あるいはキティ・ジェノヴィーズ事件は、人間に潜む邪悪性を浮き彫りにした社会実験や事件としてセンセーションを巻き起こした。
 実際、日々の社会事件や、WebやSNSでの書き込み・炎上など見ていると、人間の邪悪的な側面を嫌というほど見る思いがする。まして歴史を追いかければ、近代以後でも、一般市民の虐殺、無差別殺戮、ジェノサイド、粛清、密告と裏切り合いの酸鼻極まる史実がいくらでも出てくる。
 
 なので僕自身も、人間というのは本来的には邪悪な側面を持っている、という思いでいた。その邪悪さをセーブするのが、近代的理性であり、倫理であり、法の精神であると思っていた。
 
 いや、そうではない。人間が本来もつ遺伝子は「善良」なのだ、というのが本書である。
 実はスタンフォード監獄実験も、ミルグラムの電気ショック実験も、あらためて検証するとあれは言わばでっちあげであったことを本書は告発する。「傍観者効果」を有名にしたキティ・ジェノヴィーズ事件も、あらためて捜査記録を調べると、決して近隣の住民は見て見ぬふりをしたわけではないことがわかる。あれを人間の冷酷性の物語にしたのはひとえにメディアの牽強付会であると喝破する。それどころか、スタンフォード監獄実験のような仕立てを再度実験しても劇的なことは何もおこらなかった事例(よってお蔵入りになって陽の目をみていない)、キティ・ジェノヴィーズと真逆の結果になった実際の事件を探り当て、人間は本来善良であったとするエビデンスを次々と見せていく。
 ジャレド・ダイアモンドの「文明崩壊」や、スティーブン・ピンカーの「暴力の人類史」でとりあげられた人間の邪悪な側面についても反論する。それどころかリチャード・ドーキンズの「利己的な遺伝子」にも異を唱える。権威相手に切り込む姿はカッコいいが、相手があまりにも大物ばかりなので本書が「トンデモ本」扱いされないか心配になるほどだ。
 一方、本書のカバー帯には、ユヴァル・ハラリが推奨、斎藤新平が推奨とこれはこれでかなりインパクトがある。
 
 
 本書を読了して、そうか、人間はそもそも善良なんだ、と開眼したかとか目ウロコだったかといわれると、まだ半信半疑な自分がいる。スタンフォード監獄実験はでっちあげだったかもしれないけど、似たような現実例は程度の差こそあれいくらでもあるように思う。傍観者効果だって心当たりある。ヤフコメの心無い書き込みはいやでも目に入る。なによりも悲惨な歴史的事実は動かしようもない。
 
 しかし、本書は必ずしも人間は性善説か性悪説かの原理論だけに拘泥はしていない。むしろ本来は善良であるはずの人間がなぜ時と場合によって邪悪な行為をしてしまうのか。このからくりについて深追いしている。反対から見れば、このからくりさえ見抜けば人間はダークサイドに陥らないのだ。
 
 本書ではいくつかの考察が述べられているが、その中でも人間が邪悪に陥る究極の原因は「いいことをしたつもり」というやつである。いわゆる「正義の暴走」だ。戦争とはどちらも自分が「正義」と思っている。粛清もジェノサイドも加害者側は「正義」のつもりでやっている。SNSの書き込みも本人は正義感でやっている。あおり運転もいじめも「正義は自分にある」と思ってやっている。つまり「善良」ゆえの正義感が暴力的行為及ぶのだ。この邪悪な行為において、当人の「善良」な精神はいっさい棄損していないというパラドクスがここにある。
 
 ここでのポイントは「正義」とはどこまでも相対的で主観的なものだというところだろう。アメリカの正義と中国の正義とロシアの正義と日本の正義は必ずしも利害はかみ合わない。市民と部外者と企業はそれぞれ己が信じる「正義」が異なる。運転者と歩行者と住民の「正義」はそれぞれ違う。まして、キリスト教とイスラム教と仏教とユダヤ教が「正義」と信じるものは多いに異なる。そして正義は習慣だけでなく、教育と洗脳によってつくりあげられる。(本書では「ホロコースト」をドイツ国民が許容したのはナチスによる周到な「教育」があったからとしている)
 
 人はなぜ「正義」に弱いのか。「正義」はなぜ人を動かすのか。本書はそこに人類史――ホモサピエンスの特徴を見る。究極的には「仲間」と「部外者」という線引きの概念がある。本来「善良」たる人間は、仲間思いの遺伝子を持っている。なぜならばホモサピエンスという集団社会で生きていく生命体にとって仲間内から浮くことは生存確率を大いに下げることになるからだ。したがって、仲間を集め、仲間の機敏を察し、仲間から支持され、仲間と助け合う能力に長けるタイプが生き残り、それが子孫をつないでいった。仲間思いは生存戦略なのである。現代においても「孤独」は寿命を縮めるとされている。
 ただし、問題はその「仲間」の範囲だ。多くの場合それは限定的だ。同じ家族、同じ血筋、同じコミュニティ、同じ村、同じ種族、同じ国、同じ民族、同じ人種。あるいは同じ性別、同じ年齢、同じ価値観、同じ生活様式。「仲間思い」の因子を持つ我々人間は、「仲間」かそうでないかにきわめて敏感である。そして「仲間」思いであればあるほど、その「仲間」を守るために排他的になっていく。「仲間」を守り「仲間」を発展させるのが「正義」になる。そのように生存本能にプログラムされている。「共感」という感情は排他と表裏一体なのである。
 
 であるならば「邪悪」に陥らない秘訣は、いかに「仲間」という範囲を広く設定できるかということだろう。ダイバーシティにSDGs。宇宙船地球号。やなせたかし作詞「僕らはみんな生きている」。仲間の範囲を無限抱擁していく思想や試みは続けられている。
 しかし、この仲間の拡大は相当に理性的克服がいるのだというのも肌感的にわかる。多様性を受け入れるというのは直感的にはなかなかに苦痛であり、強い意思がなければ貫徹しない。それくらい本能に反しているのだろう。「差別じゃない、区別だ」という言い分をみたこともある。これに対して「区別が差別の温床になる」という反論もある。さらには「その区別さえしない意志がまず必要なのだ」という意見もある。多様性の受け入れは強い意志のなせるわざである。
 
 本書においては、なぜ「部外者」をネガティブに感じるのか(本書では「外国人恐怖症」という言い方をしている)について、「多元的無知」によるものと指摘している。
 「多元的無知」とは、「自分はよく知らないけれどまわりがそういうからそうなのだろうと思う状態」のことだ。実際において我々の日常生活で得る情報のほとんどは「伝聞」である。スマホを通じたりテレビや新聞や電車の吊り広告で見聞きした情報である。本当に自分自身の目と耳と足で得た一次情報というのは非常に限定的だ。昨今においては情報環境においてフィルターバブルやエコーチェンバーといった「信じたい情報だけどんどん接し、興味ない情報にはどんどん触れなくなる」傾向はますます強くなっている。
 それどころか。そもそも宗教や教育はどこかの誰かによってつくられたストーリーを「伝聞」として我々にインプットしていく。北朝鮮の教育では国語も数学もすべて「アメリカをやっつける」という設定で組まれているそうである。
 また、我々の脳はポジティブなエピソードよりもネガティブなエピソードのほうが強烈に印象や記憶に残るという性質がある(生存本能的にそれは正しい)。よってニュースや口コミネタは、ポジティブネタよりもネガティブネタに衆目が集まり、話題は走る。つまり、伝聞情報はネガティブなものが多く、ネガティブなイメージのほうがストックしやすい。「多元的無知」に依存すると、必然的に「仲間」と「部外者(すなわち敵になりやすい)」の線引きが峻別化しやすくなるのだ。(本書が言うには、ニュースをよくみるエリートがむしろ邪悪面をこじらせやすい)
 
 したがって、「多元的無知」の陥穽にはまらないようにするには伝聞だけに依存しない「交流」、そして良く知らない相手でもあくまで「善良の人間のはず」という己を信じて接することが重要となる。前者は「交流」こそが「仲間意識」の芽生えであり、後者は「ピグマリオン効果」とか「予言の自己成就性」と呼ばれるものだ。中には例外的に狡猾な人がいるかもしれないがおおむねに置いて人は善人として扱われば善人としてふるまうものである。
 
 
 というわけで、あらためて整理して書いてみればやはりなかなか圧巻の内容ではあった。全面的に賛同するかどうかはさておき、僕の穿った心を少しは解きほぐしてくれたようには思う。

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学術書を読む

2021年02月06日 | 哲学・宗教・思想
学術書を読む
 
鈴木哲也
京都大学学術出版会
 
 
 「学術書」というのは何か。
 
 ①研究者や専門家がもっぱら参照するのは論文雑誌(ジャーナル)である。これは一般的な生活者はまず接する機会がない。
 
 ②それから専門書というのがある。専門書店にいくと置いてある。たいてい少部数発行で価格は極めて高い。どちらかというと助成金などをつかって公立図書館や大学や研究機関が買い取ったりする。一般の人が入手するにはかつては書店で注文するしかなかったが、今はAmazonで買うことができる。
 ただし、この専門書も、一般の人はまず読みこなせない。
 
 ③その下に、もう少し社会一般との橋渡し役というか啓蒙書と呼ばれる類のものがある。その多くは、読みこなすには最低限の基礎情報や、あるいは助っ人や補助資料が必要なものもあるが、このあたりから本書でいうところの「学術書」になってくる。新刊ならば大型の一般書店でも並ぶようになる。大学の出版会が刊行していたりもする。
 
 ④さらにその下に、一般者むけの説明を心がけたものもある。出版社も専門出版社というよりは一般書籍を多く扱うところが多くなるし、新書のように価格としても手にとりやすいものがある。新聞などに広告が出たり、書評が載るのもこのあたりだ。
 
 
 実際のところ、③と④の境界はわりとあいまいだ。ジャレド・ダイアモンド共著の「歴史は実験できるのか」は啓蒙書だが「銃・病原菌・鉄」は一般向けと言えようか。本書では②以下を総称して「学術書」としているようだ。
 
 僕は会社勤めのサラリーマンであって、なんの専門職の肩書も持っていないが、このブログでも「学術書」はちょいちょいととりあげている。もっぱら④よりの③か、あるいは④といったところだろう。大学生のころは公立図書館で②を何冊も借り出したりしていたが、社会人となってはほとんど縁がない。このブログでいうと、せいぜいこれが②に属するくらいだろうか。
 
 
 本書は専門外の人が「学術書」を読む意味、およびどんな学術書を読めばよいかの指南書であるが、著者が頑張ってでも学術書を読むことを勧めるのは、今日の時代背景が持つ「わかりやすさ」と「定量評価主義」に警鐘を鳴らしているからだ。
 
 この「わかりやすさ」至上主義の指摘はなかなか面白い。バブル時代ころから急に増えてきたと分析している。
 
 僕が思うに、「わかりやすさ」が台頭してきた遠因として、世の中に出回る情報量の爆発的な増加は多いにそこに関係してきていると思う。時間は1日24時間であることは変わらないから、ひとつの情報に費やせる時間はどんどん短くなる。また、大量のノイズから自分に必要な情報を瞬時に見抜く能力はより強く求められる。
 こういったことはとうぜん「わかりやすさ」を希求することになる。
 
 「わかりやすい」ことそのものは決して悪いことではない。
 
 ただ、かつては「わかりやすさ」とは「ていねいに説明すること」であった。
 いま、ていねいに話をきく余裕が誰にもないのである。なにしろ日々出現する情報の量はあまりにも大量すぎて、ひとつの情報に「ていねい」に関わっている場合ではなくなっている。「わかりやすさ」とは「短い時間で会得できる」という意味となる。そして、短い時間で摂取できる情報を求めるあまり、大事な情報がはしょられたり、論理がすっとんだりする。そして「わかりにくい」事実より、「わかりやすい」話のほうが「真実」にされる、そんな力学がはたらくようになる。当初のうちは「わかりやすさ」は正義だったが、どこかで手段と目的が逆転し、今日は「わかりやすさ」が暴走していると言える。「わかりにくい」ことは罪となった。
 
 「わかりやすい」ことと「ていねいに説明する」ことは同義ではない時代なのである。
 
 
 「定量評価主義」も、この大量情報時代の申し子である。本来はひとつの物差しで測れないものや、そもそも数値化できないものをむりやりスコア換算して序列化するのは、そのほうが処理が早く、わかりやすいからだ。学校や職場での成績を数値化する功罪は「平均主義は捨てなさい」でも指摘されている。
 そして、フォーチュンのグローバル500とか、日本経済新聞のが企業のSDGs進行具合をランキングさせた「日経CSRランキング」とか、東洋経済新報社が日本全国の自治体を対象にした「住みやすさランキング」とかみんなそうである。
 で、実はこれらの「格付け」は、コンサルティングと一体になっている。ランキングを挙げるためには、フォーチュンや日経や東洋経済もしくはそこと息のつながった企業にコンサルティングを受けるとよい。そうすると多額のコンサルティングフィーと引き換えに、ランキングが上がる手ほどきをする。よくしたものである。
 
 だけれど。本当の意味で歴史や地理や世界経済を俯瞰してSDGsを学び理解することと、日経CSRランキングが上がることは同義ではない。同じように、地理や都市社会学や福祉や厚生経済学を学び熟慮することと、「住みやすさランキング」が上がることも同義ではない。ここではやはり断絶がある。
 
 この場合、アカデミズムが現実に即していないと批判すべきか、それとも実ビジネスがアカデミズムを方便にしているのに過ぎない、とみるか。
 
 おそらく両方だろうと思う。事はそう単純ではない。しかし、世の中が「わかりやすさ」を希求している限り、この傾向はますます拡大するだろうとは思う。
 
 
 学術書を読むというのは、あえて「わかりやすさ」に安寧せず、「ていねいに説明する」ものにつきあうということである(ていねいに説明できてない学術書は単なる悪書である)。そうすることで、この「わかりやすい」「定量評価主義」の世の中をメタな視点でみることができる。「日経CSRランキング」や「住みやすさランキング」の陥穽におちいらない、すなわち「利用されない」こと、それこそがリベラルアーツである。

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寛容論

2020年08月15日 | 哲学・宗教・思想
寛容論

ヴォルテール 訳:斉藤悦則
光文社
 
 以前から岩波文庫版として存在を知っていたものの文章がとにかく硬便なのでとっつきにくく、書店立ち読みで数ページ眺めてみて諦めていた。そしたら光文社古典新訳文庫でも出ていたことに今さら気づき、こちらを手にとってみた次第である。さすがは光文社古典文庫。価格は岩波より張るが読みやすい。
 とはいえ、初読の際はなんとなく中世時代ならではの宗教的世界観というか、さすがに隔世の感ありすぎというか、いくらなんでも著者はローマに肩入れしすぎなんじゃないのか、とかやや興ざめなことも思いながら読み進める具合であった。
 しかし、この本はあとからじわじわくる。読み終わってしばし反芻したり、あるいはなんとなく傍線を引いてみたところを改めて読み直したり、またぱらぱらと気になった章を拾い読みしている間に、だんだんと普遍的な真理を思うようになった次第である。己をかえりみて反省しまくりである。こういうのを名著というのだろう。
 
 17世紀のフランスで書かれた「寛容論」は、狭義的にはキリスト教(カトリック)の閉鎖的・狂信的な集団が起こした宗教裁判めいた冤罪事件に端を発し、宗教が持つ「不寛容」を戒めたものである。厳密に言うと「宗教」が不寛容なのではなく、「人」が不寛容の方便としてしてその宗教を使っている、というのがヴォルテールの主張である。自らの不寛容の根拠として教義を都合よく曲解したり、自らの意図に添うように切り貼りしたりする、という指摘である。
 当時の宗教観は現代とはくらべものにはならないほどに日々の生活をしばったことだろう。ここには宗教裁判や宗教弾圧、迷信や教条に支配される当時の生活者が描かれている。それだけに現代からみればそんな暗黒な時代もあったのねとわりと他人事のように読めてもしまうのだが、人はどんなときに「不寛容」になるかという観点から読んでみればこれは現代でも全く通用する普遍性を発揮する。
 つまり、中世的な宗教に限らず「人を不寛容にするものは何か」ということである。
 
 結論からいうとそれは「観念」である。
 “こうであるに違いない””これが正しいはずだ””これが常識である”と思うもの。これは宗教も倫理も道徳も規範もすべてあてはまる。そしてこれが不寛容の引き金になる。「これが正しい」「これが常識」というのはあくまで主観的なものであって、物理の方程式のように絶対的根拠をもとに証明させることはほぼ不可能である。時代や場所や文脈によって「こうである」も「正しい」も変わる。つまり、これらは特定の利害集団のあいだでの「決めごと」に過ぎない。これらは「観念」、易しい言い方をすると「こうと決めた」ということなのである。
 そして「観念」は不寛容と隣り合わせなのだ。“自分が正しいと思うもの”が多ければ多いほど、その人は不寛容になっていく。
 
 たとえば、いまネットをバズらせているものに、とある男性が、GoToキャンペーンの恩恵で普段は行かないような高級旅館に宿泊したところ、食べきれないほどの食事が出て「破棄前提で大量の食事を出すのはいかがなものか」ということを料理の写真とともにSNSに投稿したものがある。
 これに対し、賛否両論があってちょっとした炎上状態となった(もちろん大多数のユーザーは静観しているわけだが)。今回はこの事例を題材にしてみる。最近のネットへの挑発的を投稿と、それに対しての無遠慮な反論の典型をみた思いがするからだ。
 
 この男性にはいくつかの「観念」がある。
 ・「食べきれないほどの量を出すのはけしからん」
 ・「食べきれないということは、残った分は破棄される」
 ・「この量は『食べきれない量』である」
 ・「破棄前提で大量の食事を出してくる」
 ・「旅館の食事というのは食べきれる量が出てくるもののはず」
 ・「自分がけしからんと思ったものはネットに投稿して良い」などなど。
 
 ひとつひとつは、彼にとって正義的な観念だったのだろうが、結果的に不寛容の見本のようになった。したがって、以下のような反論があがった。
 ・「食べきれない量を出すのは歓待のあらわれ(そういう地域や国は意外と多い)」
 ・「残ったものは従業員の賄いにもなる」
 ・「この量を食べきれる人は少なからずいる」
 ・「小食なので食事は少な目にお願いします、と事前にいうのはアリである」
 ・「大量に食事を出す旅館というのはひとつのスタンダード」
 ・「気に入らないからといっていちいちネットに挙げるのは人としてどうよ」
 
 もちろん、これらの反論に対しての再反論は可能である。どこまでも水掛け論はできるだろう。
 ・「大量の食事でおもてなしなんてのは昭和時代の価値観だ」
 ・「ネットに上がるところまでふくめて評判管理するのが現代のサービス業だ」
 ・「ここまでくるともはや営業妨害」
 ・「表現の自由」
 
 何が言いたいかというと、どっちかが正しくてどっちかが間違っている、という議論ではそもそもないのである。自分の考えと違った・自分の考えと同じだった、ということでしかない。傍からみれば、旅館文化はこの男性の好みにあわなかったんだな、あるいはこの男性にとってなじみのない世界だったんだな、ということに過ぎなかったと思うのだが、観念化すると「正しい」「正しくない」という世界になってしまう。この男性は好みにあわなかった旅館文化を「正しい」「正しくない」論にしてしまった。これが不寛容の態度となってあらわれたのである。
 そして、この男性に対しての反論もまた「不寛容」なのである。自分とは感じ方の違う人物がいるんだな、で済まなくなる。なるほどこういう見方の人がいるんだ、で済まされない。この男性は「正しい」「正しくない」という話になる。
 
 あまりにもネットあるあるだし、この程度のネットの炎上は数日もすれば忘れ去られるだろうから、あえてここで記録してみた。
 こういう卑近な例から、ヘイトスピーチやテロリズムに至るまで、不寛容な行為は「こうあるべき」という観念から出発している
 
 
 こういった点をふまえ、自戒も込めてあらためて「寛容論」を読んでみる。
 
 ”不寛容を権利とするのは不条理であり、野蛮である。それは猛獣、虎の権利である。”
 ”ひとつの神をただ心のなかで真なるものとしてあがめるだけでは満足せず、たとえそれがいかにバカげたものであれ多くのひとびとが大事にしている信仰にたいして乱暴を働くならば、そういう者たちこそ不寛容であると言わねばならない” 
 ”形而上学的なことがらにおいて、すべての人間に画一的な考え方をもたせようとするのは、愚の骨頂であろう”
 
 ヴォルテールは、人はみんな少しずつ違うのである、それが「自然」なのだ、と説く。「違い」を「違い」として尊重する。今日の多様性観としてはもはや目新しくないが、「違い」というのは人種・民族・宗教・国籍・性別だけではない。ヴォルテールは「自然」として人々に小さなちがいがあることを示唆する。
 
 ”人間どうしのあいだにはかずかずの小さなちがいがあります。人間の貧弱な肉体をつつむ衣服のちがい、いずれも不十分なわれわれの言語のちがい、いずれもバカげた慣習のちがい、いずれも不十分な法律のちがい、いずれも奇妙な意見のちがい、人間の目には大変な格差に見えても神の目にはほとんど大差ない人間の生活条件のちがい、また「人間」とよばれる微小な原子どうしを区別するこまかいニュアンスの差もあります”
 
 ”しかし、こうした小さなちがいが憎悪や迫害のきっかけにならないようにしてください”
 
 「違い」に対し、不寛容な態度をとるということは、「自然」を無視した態度なのである。(この「自然」とはなにかというのは、「自然権」とも話が結びついていてなかなか面白い)。
 さらにヴォルテールは、不寛容に走りやすくなる特徴、寛容を維持する特徴として、
 
 ”教条(ドグマ)の数が少なければ少ないほど、言い争いも少なくなる。言い争いが少なければ、不幸せも少なくなる。”
 
 と指摘している。「こうあらねばならない」が多ければ多い人ほど、その人は不寛容の罠に入っていくのだ。人それぞれによって「こうあらねばならない」は違ってくるから、これが多い人はその分相いれない人が増えていくのである。
 
 
 それでも人は「不寛容」な態度をとってしまう。ぼくも油断するとついついやってしまう。「不寛容」な態度をとる誘惑に負ける。本能に従うと「不寛容」になっていく。「寛容」であるためには強い意志が必要なのである。(その意味で、右の頬を打たれたら左の頬を出せといったイエス・キリストはすさまじく革命的な発言とも言える)
    そこでどうすれば寛容になれるか。「寛容論」はひとつ重要な点を示唆している。 
 
 それは「不寛容な態度をとった人」は結果的に徹底して叩きのめされるリスクが高い、ということだ。
 
 これは、「人は、誰かに不寛容な態度を示されると、その人に対してこちらも不寛容になる」ということである。先の旅館の食事の多さを指摘した男性の場合もそうだが、彼の投稿に対して炎上したのは、彼の「不寛容さ」に嫌悪感を示し、みんながさらなる「不寛容」で反応したからだ。
 
 弾圧されやすい宗教や集団は、そもそも彼ら自身が不寛容な文化を持っていることが多い。自業自得という言い方はふさわしくないが、不寛容な態度には返り討ちのリスクがあるということは知っておいたほうがよいだろう。
 個人が「これが絶対的な正しい」と確信できることなどほとんどない。このあたりは「無知の知」とか「謙虚」論と一脈通じる部分だ。不寛容が不寛容を生む負の連鎖を引き起こさないために、ヴォルテールは、この有名なテーゼを導き出す。「自分がしてほしくないことは他者にもしてはいけない」をせめてものとして守っていく、ということである。
 
 

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現実はいつも対話から生まれる 社会構成主義入門

2020年06月11日 | 哲学・宗教・思想
現実はいつも対話から生まれる 社会構成主義入門
 
ケネス・J・ガーゲン メアリー・ガーゲン 監訳:伊藤守
ディスカヴァー・トゥエンティワン
 
 
 「社会構成主義」とは、われわれが常識と思っている認識や価値観や美意識はすべて外部からの単なる見立てに過ぎない、という思想である。
 いわば、絶対なものはこの世に存在せず、すべては相対的に位置づけられている、ということだ。近代哲学の主流といっていいかもしれない。
 
 改めて「社会構成主義」をおさらいしておこうと思って読んだのが本書である。
 この「外部」というのは、より具体的に言えば「他者」である。すべての「常識」は、「自分」と「他者」の会話から成される「そういうことにしておこう」という決め事なのである。したがって、「自分」や「他者」が属しているコミュニティによって、「常識」は異なる。
 
 
 たとえば、日本というコミュニティでは虹の色は7色というのが「常識」だが、アメリカでは6色とみなすのが「常識」である。ちなみにアフリカのある部族では8色とみなすらしいし、別の部族では2色とみなすそうだ。
 虹の色は実際はスペクトルによるグラデーションだ。どこでどう色を区切るかは、そのコミュニティの「約束事」である。かつての近代以前の日本というコミュニティでは青と緑の境界はなく「あお」とみなしていたそうだ。
 
 もっとも社会構成主義では、「スペクトルによるグラデーション」という科学的見解もまた、「一コミュニティの中での見解に過ぎない」とみなす。科学的見解もまた一解釈でしかない。“科学的見解が全てに勝る真理である”という見立てを持つ世界は、長い歴史と広い地理の時空間における人間社会史の中では、ごく一部分の出来事なのだ。
 
 とはいうもの、この社会構成主義でさえ、みずからの主義そのものを「そういう見立てに過ぎない」という留保条件下に置く。この世はどこまでも相対的なのである。
 
 
 ここまでくると、詭弁というかうさん臭さもまじってくる気もするが、その真意は「正解は一つではない」ということにある。
 虹の色は7色が正解で、8色も6色も2色も間違いというのは暴論である。虹の色はグラデーションが正解なのであって7色も8色も6色も2色も間違いなのだ、というこれもダメなのである。
 それぞれのコミュニティによって「グラデーション」「8色」「7色」「6色」「2色」はいずれも正しく、誰も否定できない。この世の中は「多正解」なのである。アフリカの部族が虹の色を2色だとみなしているのならば、それを認めるのが社会構成主義だ。
 つまり、社会構成主義とは無限抱擁である。
 
 なお、人種や部族によって虹の色数が異なるのは、瞳の虹彩が持つ色の感度の敏感さが異なるからという説もある。よって、日本人はアメリカ人よりも色彩に繊細なのだ、というロジックを導き出したくなるむきもあるが、この思想は要注意だ。下手をすると優生思想の発想になる。たくさん色が識別できるから偉い、というのは狭いコミュニティの「見立て」に過ぎないのである。
 
 
 
 で、話はぐぐっと狭くなるのだが。この「狭いコミュニティ」が、それこそ会社とかになると、「会社の常識、世間の非常識」という話になって、その例は枚挙にいとまがなくなる。
 さらにぐぐっとせばまると、人間2人のあいだの会話でさえも、自分が思っているような解釈によるコトバ使いと、相手が思っているような解釈のコトバ使いが微妙に(あるいはまったく)ズレていることは非常に多い。コトバの誤解をめぐるトラブルは誰にでも経験がある。それは二者それぞれが属しているコミュニティが少しずつ違うからだ。同じ会社の仲間だと思っていても、それぞれ出身地、出身校、家庭で接する家族が異なれば、二者の頭にある言語認識も変わってくるだろう。
 これを突き詰めると、「他人は誰でも自分とはコトバの解釈がずれている」ということになる。親子のあいだでも、夫婦同士でも、親友同士でも、コトバの解釈はずれている。みんなそれぞれ自分の信じる虹の色の数が異なるのである。
 
 しかし、ずれているからといって片方のコトバの解釈が正解で、他方が間違いということにはならない。それぞれが「常識」と信じる価値観に依存していて、どれが正解でどれが間違いというのを超越的な立場で判定することはできないからだ。
 
 では、このとき、われわれが依存しているその価値観はどこから来たのか。
 それさえも、原体験をたどると、他者との会話から生まれている。親から教えられてきたものなのかもしれないし、子ども時代の友人付き合いの中で身に着けた感覚かもしれない。
 
 
 
 さて。分断の時代と言われている。ましてコロナによって、さまざまな分断線が生じている。
 
 この期に及んで多正解の世界なんて言ってると実社会であっという間に身ぐるみはがされてしまいそうな勢いだ。
 こういう分断のご時世では、「本当かどうかはともかく”きっとそうに違いない。むしろそうであってくれたほうがスッキリする”」という見解が、むしろネガティブな領域で走りやすい。これは非常時における人のサバイバル本能のようなものだ。差別や偏見は言うに及ばず、見込み捜査や、ある種魔女狩りのようないけにえ探しが横行しやすい。あー、この人の中ではそれが真実だと本当にそう思っているんだろうなあー と言いたくなるような出来事が日本でも世界でもあちこちで起こっている。
 
 いまは非常時であり、人間の本性が出やすいだろう。そもそも世界というのは不条理に満ちているし公平なんかではないが、こういうときはいつも以上に不条理や不公平に思えるものが横行しやすい。
 なぜなら、その不条理や不公平を申し出た人、しかけた人は、そこに自分の生存がかかっていることが多いからだ。他人のことより自分のこと、という傾向が強くなればなるほど、共通の分かち合える価値観は少なくなっていく。つまり、傍目からみれば自分勝手に見えてくる。しかし本人としてはまず自分の生存を確保しなければならない。要するに利己的な行動をとらざるを得なくなる。
 集団としては利他的な行動をとったほうが、その集団の生存率は高いとされているが、それはあくまで集団の生存であって、個人の生存率の話は別だ。あちこちで利己的な行動者が増える。世の中全体としては不条理や不公平が蔓延しているように見える。
 
 各々が利己的な行動をとってしまうのは、生存がかかっている以上いたしかたない。しかし、自分がそう思うからといって他人も同様のことを思うはずだ、という錯覚だけは気をつけたほうがよい。自分のこの言動は他人からみると自分勝手に見えるだろうなという自戒を持っておくことは、いらぬトラブルを回避するひとつの術だろう。なぜなら、いらぬ利己的行動は、結果的に自分の生存率を低減させるリスクがあるからだ。自分では分があるつもりの行動をして破滅したり、社会的事件になってしまったりする事例が後を絶たない。
 
 自分の「常識」は社会の「常識」ではないし、そもそも社会全般に通用する「常識」なんてのはないのが今日である。自分は虹の色が9色見えることは自覚と自信を持っていいが、他人も9色見えるはず、あるいは9色見えないなんてバカじゃないの? と思いこんでしまうことだけはゆめゆめ控えたい。
 

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身銭を切れ 「リスクを生きる」人だけか知っている人生の本質

2020年05月29日 | 哲学・宗教・思想
身銭を切れ 「リスクを生きる」人だけか知っている人生の本質
 
ナシーム・ニコラス・タレブ 監修:望月衛 訳:千葉敏生
ダイヤモンド社
 
 
 饒舌男タレブの「身銭を切れ」である。
 
 原タイトルは"SKIN IN THE GAME"。「自己資金投資」という意味だ。したがって和訳を「身銭を切る」でなんの問題もないわけだが、どうもピンときにくい。本書の至るところに「身銭を切る」が出てくるのだが、いまいちしっくりこないなあと思いながら読む。
 つまり、ここで言っている「身銭を切る」はもっと広い意味である。金銭に限らず、自分のキャリアでも自分の名声や立場でも、自分の大事な時間でも。あるいは自分の家族や友人でも。とにかく自分にとって大事なものをリスクにさらしてでもそれをやっているかどうか、が重要ということである。たとえばどこかの営業マンから自分にアドバイスないし商売をしかけらたとき、そのアドバイスが間違っていたり商売の欠陥が出たときにその営業マンがなんらかのハンデを背負うのであれば、そのアドバイスや商売は有効とみることができる。リスクを背負ってでもこの人は自分のことをよくしたいと考えてくれているからだ。逆に言えば、自分は痛くもかゆくもない安全な場所にてそこからやってくるアドバイスや商売は、無責任なものだから基本相手にしないほうがいいということである。会社の上めの人なんかに多い。故・橋本治は「上司は思いつきでものを言う」という名言を吐いている。
 
 というわけで、信頼たる情報か、信頼たる人物か、というのはそれがリスクを背負っているかということなのである。
 
 本書が主張しているのは、この世の中の多くは「身銭を切ってない」人やもので溢れているということなのだ。まあそうだろう。SNSの匿名中傷なんかも最たるものだし、コンサルティング会社のビジネスも、あまた評論家のかずかずもそういうことなのだろう。このブログだって身銭切ってないよねえ。そういったもの全部まとめて「身銭切ってない」ものは信用に足らないし、身銭切らずに生きている連中はどこかで大しっぺ返しくらうと言っている。なんと!
 
 一方で今日の世は、リスク抑え目に、つまり身銭を少なくして、リターン多めに渡り歩くことこそスマートな世の渡り方とされている。簡単な投資や手間で莫大な生産性を生むライフハックやビジネスハックのネタが日々量産されている。
 しかし、こういう生き方が実は「反脆弱性」であることをタレブは前書で指摘していた。本来的にはリスクとリターンはつねに同量でつりあう天秤なのである。たいしたリスクしかおかしていないなら、やはりリターンもたいしたことはない。そして、ライフハックもビジネスハックも、その「スマート」なやり方の歴史がまだ浅いものであったなら、眉唾でみていたほうがいい。多くのハックは定着せずにすぐに消えて無くなってしまう。それどころか、いっけんローリスクハイリターンのようで、実はおそるべき破滅的ハイリスクが裏に隠れていることだって十二分に考えられる。
 
 これらのことをタレブは「リンディ効果」と「エルゴード性」という2つの言葉で繰り返し説明している。本書はこの2つの用語をめぐって、いつものタレブらしく過剰で長大な弁舌で分厚い1冊になったといってもいいくらいだ。
 
 「リンディ効果」というのは、これまで長く使われたものほどこれからも長く使われる、という法則のことである。長期間通用してきたものは、そのぶんハードテストに耐えられたということであり、未来への持続可能性がより高い、ということである。古典ほど未来永劫残る本といわれる所以である。
 まあ、今まで生き残っている、にはそれ相応のわけがあるのだ。「正義は勝つ」というが、「勝つ」=「残る」という意味でいうと残っているものが「正義」である。残れなかったものは正義じゃなかったのである。あなおそろし。リスクを背負ってきた期間が長ければ長いほど、その情報や人物は信頼たるということになる。風雪に鍛えられているのだ。同じ実力の医者ならば学歴や風貌が低いほうを選べ、というタレブの指摘は面白い。偏見と闘って生き残ってきただけのことはある、というリンディ効果なのである。
 
 「リンディ効果」は直観的にわかりやすいが「エルゴード性」のほうはなかなかわかりにくい。どうやら物理学用語ないし数理学用語のようだが、タレブの使うところの「エルゴード性」は人生訓に近いので素の物理学用語の意味でもないだろう。本書でも後になって説明する後になって説明すると引っ張りながら、けっきょくろくな説明がないまま、巻末注釈のややこしい解説で済まされてしまっている。
 が、行間から察するに「これまでの経験知から、未来への持続可能性が推し量れる」のならばエルゴード性がある、と言って良いようだ。いままでこれでやってこれました。だからこれからもこれでやってこれるでしょう。という具合である。一方で、これまでの経験値も、未来の予測不能な事件一発で破滅してしまうようなものはエルゴード性がない、という言い方になる。VUGAの時代はエルゴード性が無い、なんて言い方ができそうだ。
 ここで問題なのは、本当はエルゴード性がないのに、エルゴード性があるかのように錯覚してしまう統計推測や確率ゲームがこの世の中には多い、ということなのである。ロシアンルーレットによる賭けの期待値みたいなものである。弾が6つ入る拳銃でロシアンルーレットをする場合、これを報酬期待値6分の5などとやってはいけないのである。なぜならば残りの1発は命を失うし、命を失ってはもとも子もない。もちろん正常な感覚の持ち主なら、ロシアンルーレットは「割りに合わない」、つまりエルゴード性がないとわかっている。しかし、世の中には統計推測や確率ゲーム、それをネタにした取引や商品が実に多い。それらは本当は「割りに合わない」のに、巧みに偽装されてエルゴード性があるように見えてしまうものが多いのである。
   本当にサバイバルしてきた人(つまり「身銭を切ってきた人」)だけが見かけの統計確率ではなく、エルゴード性の有無をかぎ分ける嗅覚を身につけている。一見公平な取引のようで、実はそうではないものを見抜けるようになるには場数が必要だ。すなわち身銭を切った生き方をしなければエルゴード性の有無を見抜く力は身につかないということだろう。
 
 まあ、要約してみるとこんな感じだ。
 世の中は身銭を切っていない人で溢れ、そういう人はエルゴード性の有無を見抜けていないことが多い。身銭を切ってきた人だけが、リスクを鋭敏にキャッチし、生き抜くことができる。それはリンディ効果が証明している。身銭を切って長い試練に耐えてきた人だけが、未来も持続可能に生き残れるのである。
 
 
 ところで。危険と安全の水準のバーをどのあたりで設定するかは、人それぞれなところがある。これはやめたほうがいいんじゃないか、とか、これはやっても大丈夫だろう判断は本当に個人差がある。どちらも度が過ぎると、臆病者や無鉄砲になってしまうだろう。
 僕の妻は、僕よりも安全バーの水準が低い。ちょっとした買い物から海外旅行まで、僕よりもアグレッシブだ。もっとも妻は妻でもちろん危険と安全の水準をかぎ分けているのである。だからこれは個人差である。僕もあれくらいバーを下げれば、新しい世界に開ける機会はぐっと増えるんだろうな、と思うのだけれど、身にしみたリスク感覚がそれを許さない。
 ただ、僕のほうが妻よりも「やらないことが多い」からリスクが少なくて未来への生存率が高いのかというとそういうことでもないのだろう。「やらないことによるリスク」というのも当然存在するからだ。「やらない」というのはリスク回避というよりは保守的といったほうがよいだろう。
 
 おおむね男性のほうが保守的になりがちとはよく言われる。勤務先の会社なんか見ていても確かにそう思う。
  もしかするとこの世の中、男性より女性のほうが「身銭を切る」機会が多いのではないかとも思う。別の言い方をするとリスクにさらされる機会が多いということだ。なにはやっておいたほうがよいか。なにはやらないほうがよいか。なにはやらずにいるとまずいか。なにはやってしまうとやばいか。たしかにこういうのは肌身を晒して経験しなければ身につかない。男性だって同様の場数は踏むはずだ。しかし、男女が同じことをしても女性のほうがいちいちリスクが高いというところがこの日本社会はあるようにも思う。そうすると、次第に女性のほうがエルゴード性に敏感になってくるのではないか。なんとなく男性よりも女性のほうが自殺率が低いとかうつ病率が低いとか老いても元気という「リンディ効果」はこんなところにもあるんじゃないかと思う次第である。もちろん多いに個人差はあるのだろうが。
 
 
 
 
 

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21Lessons  21世紀の人類のための21の思考

2020年05月25日 | 哲学・宗教・思想
21Lessons  21世紀の人類のための21の思考
 
ユヴァル・ノア・ハラリ 訳:柴田裕之
河出書房新社
 
 
 我思う故に我あり。我々を動かしているのは「心」である。その「心」とは厳密には「脳」である。宗教もプロパガンダもコマーシャリズムも、アフターデジタル世界のテクノロジーも、我々の「脳」をコントロールしようとする。
 それはあたかも、ある種のウィルスが蟻や蜂にとりついて脳を操作し、通常の彼らならばありえないような行動をおこさせるようなものだ。(ゾンビアリで検索すると出てくる)。
 
 "スマートフォンに目が釘付けになったまま通りを歩き回るゾンビたちを見たことがあるだろう。あなたは彼らがテクノロジーを支配していると思うだろうか? それともテクノロジーが彼らを支配しているのか?"(第19章「教育」より)
 
 著者の出世作「サピエンス全史」によれば、サピエンスの歴史とはサピエンスの「脳」に宿った認識の歴史でもあった。著者はそれを「虚構」と表現した。「虚構」の認識こそが、ホモサピエンスの発達と進歩と混沌と殺戮の歴史となったのである。そしてこの虚構を追い求めてホモサピエンスは未来まで止まらない。止まらないのではない。止められない。暴走機関車のようにAIとバイオテクノロジーは突き進み、それはホモサピエンスにより強烈な虚構世界を提供する。それを拒否することはなかなかに難しい。言うならば、われわれ人間は、虚構すなわちこの世界を「物語」というアルゴリズムで理解し、斟酌し、意欲にするプログラムがプリインストールされているようなものなのである。フェイクニュースは神代の時代からあった。我々はフェイクニュースを信じたくなるメカニズムをそもそも持っているのである。
 
 で、あるならば。少しでもそういった脳への支配から覚醒するにはどうすればいいか。脱・物語に目覚めるにはどうすればいいか。
 
 
 この本は21の章に分かれているが、どの章から読んでいってもよいというわけではなく、第1章から順序だてて読むことが前提となっている。その多くの章は、人類史の中で蓄積された虚構、現代において肥大化した虚構を次々と述べていく。イデオロギーやアイデンティティや神や正義や真実をすべて都合のいい作り事として断罪していく。ハラリはイスラエル人だが、頑強で知られるユダヤ教の戒律やイスラエルのナショナリズムも根拠のないものとしてばさばさ切っていく。
 
 こういった章の合間合間に、内省を促す章がはさまってくる。第12章「謙虚さ」第15章「無知」第19章「教育」などがそうである。
 ここで一貫しているのは“われわれは何もわかっていない”ということだ。この"無知の知”こそが唯一わが身を破滅の一本道から逃れる術なのである。
 
 そして第20章「意味」。おそらく全21章のクライマックスはこの第20章であろう。分量も他の章に比べて多く、ここで著者は「人生は物語ではない」と断ずる。宗教もイデオロギーもナショナリズムもコマーシャリズムも自分の人生を拓いてはくれない。自分でない「誰か」が都合のよいようにしているだけである。人生の意味は何のよすがも求めずに、自分自身で受け入れるしかない。誰かの言質でも自己啓発書でもなく。意味は自分にしかない。真に信じるのは自分の肌感覚である。
 
 最後の第21章「瞑想」。この最終章は他の20章と趣がちがう。著者ハラリの自分語りである。この虚構にみちた意味などない世界で、自分を見失わない鍛錬として著者は「瞑想」を習慣化した。
 
 僕はここで安田登著の「あわいの力」を思い出す。能楽のシテ役者が書いたこの本、僕にコペルニクス的転回をせまった衝撃的な本であったが、彼は「心」とは人間によって事後的に発明された概念でしかないと喝破した。「心」というものが発明家される前は、皮膚の感触こそがメンタルやモチベーションをつくる人間の力であった。第21章の「瞑想」では鼻を通り抜けていく呼吸をひたすら意識する瞑想が出てくるが、これは鼻腔の皮膚感覚への集中である。現代のテクノロジー環境で、皮膚感覚こそ後景に退いたものはないのではないか。とくに先進国。万事室内空調は快適であり、衣服の風合いはおだやかで、ユニバーサルデザインは馴染みがよく、食事は味覚ものどごしもなめらかだ。我々がこの世界を認識しアイデンティティを確認するのはいまや皮膚ではなく、文字や影像などメディアの形をとって目や耳から「脳」への直接介入によってである。「脳」への直接介入が肥大する一方で、皮膚が感じるシグナルは弱まっていく一方である。
 「脳」への直接介入によって我々に宿されたもの、つまり「心」というシロモノが実は事後的に発明された概念でしかなく、であるならば「心」以前の時代にホモサピエンスの情動を司っていたのはまさに皮膚感覚に他ならない。皮膚を通らない情報で脳に直接作用する物語は、「心」を肥大化させるだけである。
 「謙虚」であり「無知」な我々は皮膚を通じて「学ぶ」しかないのだ。そうして皮膚を通してつかんだ「意味」だけが、自分の人生を見失わさせないものになるということか。
 

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大学・中庸

2020年02月07日 | 哲学・宗教・思想
大学・中庸
 
編:矢羽野 隆男
角川ソフィア文庫
 
 「中庸」という言葉があることは10代のころから知っていたが、どちらかというとネガティブな意味でとらえていた。これが褒めコトバの範疇であることを知ったのはずっと後になってからのことである。
 そして、この「中庸」を極めるということの至難さを感じるのは本当にごく最近になってからだ。
 
 「バカは極論に走りがち」というこれまた極論もあるが、何かにエッジをたてることで自己主張をしたり、自己肯定をしたりすることは芸術表現行為でも自分の人生観や仕事観をつくるうえでもとても多い。個性とはどこかエッジがたっている、ということでもある。
 しかしエッジがたつ、というのは、ある中心点があってそこから距離があるということである。その「距離」に価値がある。
 
 言い方を変えれば、エッジというのは要は中心からの「偏り」であって、そこに主義主張や美を見出すのは「偏りの徳」「偏りの美」ということである。
 
 誤解を恐れずにいえば、「偏りの徳」「偏りの美」というのは徳や美の追求としては容易い行為ともいえる。真に難しいのは、「偏らず」に主義主張や美を体現させ、それを周囲に認めさせることである。「偏りの美」があくまで相対的な観点で美を見出すのに対し、中庸の美は絶対的なものなのである。もしも「中庸の美」が本当に実現できれば、その主義主張や美は、偏っていない分だけ、普遍的で万人向けということになる。それは主義主張や美の作り手に、中心点の位置やそこからの相対的な距離、という物差しをつかわずに美をつくることを要求する。これはかなりの才覚を要する。
 
 また、仮に作り手が「中庸の美」を極めてとして、その「中庸の美」を鑑賞者や評価者といったすなわち他人が認めるには、その評価者もまたそれだけの審美眼を必要とすることになる。主義主張や芸術を鑑賞し、評価するとき、「偏っている」もののほうがその是非の判断、醜悪の評価がしやすい。左脳だけでなく、右脳的にも刺激されやすい。中心点から隔たった距離、その差異こそが審美のポイントになるからだ。ゴッホの絵が異常に刺激的なのは、あの異様な筆致と色使いに由来することに異ならないが、ゴッホの芸術というものが「中庸」というよりはきわめて「偏った」芸術ということでもあろう。「偏った」芸術は極めて「鑑賞しやすい」ものである。(生前まったく評価されなかったのも表裏の関係で、あの「差異」が醜悪とみなされたのである)。
 他者の中庸の美を判断できるだけの審美眼を持つことは、自分の中庸の美を体現することとと同じくらい困難なことに思う。悟りというのに近い心境かもしれない。
 
 
 ややもすると「中庸」というのはバランス感覚のことと解釈してしまいがちだが、バランス感覚には処世術とか平均値とかいったニュアンスもある。”いずれもから適度な距離をとる”という相対主義の集合体みたいな思考回路である。これは「絶対」とは言わないだろう。真に中庸な人は「バランス感覚」なんて言わないのではないか。
 
 何があろうとも動ぜず、その状況を是とし、その環境のままに最善にもっていく。そういうのが「中庸」である。中庸の本家である四書の「中庸」によれば、何にも寄りかからずにあり続けられる。それこそが中庸の本質だ。
 
 往年の名ピアニストにルービンシュタインという人がいた。同時代のライバルであるホロヴィッツとは対極の芸風だった。ホロヴィッツは、その演奏を指して「聞くものを狂わせる」と言われ、薄氷を踏むような研ぎ澄まされた狂気すれすれのピアニズムでスタンダードからはかなり遠いものであった。すなわち「偏った美」であり、その美の極北とでもいうべきもので、この芸風は晩年まで続いた。そこにみんな熱狂したのであった。
 これに比すると、ルービンシュタインはかなり「中庸」にして大家となった芸術家と言える。彼も若いころは彼なりに偏った芸風だったが円熟さを増し、老いにしたがって中庸の高みに行きついた。
 
 そんな彼の名言にこんなのがある。
 
 私は人生をあるがままに受け入れる。人生とは多くの、より多くの幸福を内蔵しているものだ。たいがいの人は幸福の条件をまず考えるが、幸福とは人間が何の条件も設置しない時、はじめて感じることができるものだ。(吉田秀和 世界のピアニスト 所収)
 
 中庸すなわち幸福への道なのである。
 

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風土

2019年10月20日 | 哲学・宗教・思想

風土

和辻哲郎
岩波文庫

 

 台風19号はやはりすさまじかった。わが千葉県、実は風水害に弱いのは歴史的には明らかだったのだが、近年の土木・治水・防災技術の向上によっていささかそのことが忘れられていたように思う。寺田寅彦の名言「災害は忘れた頃にやってくる」はまことにもってその通りと言うしかない。

 

 一方、今回の台風は日本列島到達前から首都圏直撃をもってニュースとされた。しかし台風が過ぎ去って蓋を開けてみれば、氾濫・決壊を起こした河川のほとんどが首都圏の外の川だ。千曲川、阿武隈川、久慈川、那珂川などなど。

 東京の治水能力が凄いというよりは、それだけ東京の治水に金をかけているということである。首都圏外郭放水路も環七下調節池も荒川放水路も莫大な予算と時間をかけて整備されたものだ。人と重要機能が集まる首都だからこそ、防災についても他所を優先させてつくりあげるという理屈は頭ではわかっているが、死者行方不明者がみんな都外の人間というのをみるとやはり納得しがたい感情があふれてくる。

 これで東京への人口流入が過多だから地方へ分散させろとか、地方創生こそ日本の将来とか唱えるのは白々しすぎる。


 本来、日本は「台風と大雪」がやってくる世界でも珍しい風土なのだと看破したのは和辻哲郎だ。地震と火山も日本列島の特徴といえるが、「台風と大雪」は定期的にやってくる。毎年必ずやってくる。したがって日本列島に住む人間は、古来から必然的に「台風と大雪」がありきの生活スタイルになっていく。それは世界観や行動様式にまで影響する。

 もちろん台風と大雪だけではない。太平洋の西側隅っこにあり、ユーラシア大陸の最も東側すなわち極東にある島国という地勢的条件が繰り出すさまざまな条件ー温度、湿度、風、雨、日射があり、それらがつくりあげる植生、動物の生態、土壌があり、そこに人間は生活する。自然との対峙・共生の中で人間は折り合いをつけて生きていく。その過程で家族や社会形態の在り方、道徳や倫理、芸術的感性や宗教へのとらえ方が形成されていく。風土の数だけ人間の様式はあるといってよい。

 こういう観点からの学問は、現代では理学や人類学の分野がこれに相当する。事例やデータを集めて分類と統合を繰り返しながら系統を観ていく。

 

 これに比べると昭和初期にまとめられた和辻の「風土」は主観的であり(井上光貞氏による巻末解説では「天才的な芸術的直観によるもの」と表現されている)、アカデミズムな手続きによるものではない。その主観も、当時の彼の洋行経験と、当時にあって入手できる情報を基にしての直観によるものだから、今日における世界中の情報が調達できるような状況からみればいささか見当違いの言及もある。トンデモ本と言いたくなるような箇所もある。

 風土というものがその地に住む人間に与える世界観や生活様式の決定力の強さは間違いないと思うが、和辻風土論が現在においてどのくらい正鵠を得ているのかは議論があるだろう。一般においては、彼の「風土」は地理学というよりは哲学や思想として受容されている。思想としてここから見られるのは、今で言うなら多様性だ。その多様性は風土に準拠しているものである、つまり風土の数だけ正解がある。

 

 和辻は世界の風土を「モンスーン型風土」「沙漠型風土」「牧場型風土」と3分類してみせた。

 「モンスーン型風土」をつくりあげるもとになるのは「高湿」である。夏のむわっとした湿度、冬のじめっとした湿度である。高湿がつくる「モンスーン型風土」にあてはまるのが、東はインド・中国(本書では「シナ」。上海を含む主に揚子江領域から南のほうを想定しているようだ)・南洋、そして日本である。彼によると「モンスーン型風土」に生きる人間は、モノゴトに対して「受容的・忍従的」になるという。

 和辻風土論では、モンスーン型は「受容的・忍従的」と指摘したように、他の風土においても、沙漠型は「服従的・戦闘的」、牧場型は「支配的・合理的」と分類される。多様性の思想という観点からみれば、この地球上においてどれが正解かどれが間違いということはないということだ。

 また、モンスーン型の人間は、本質的には牧場型の人間にはなれない、とする。我々はどう突っ込まれても欧米にはなれないのである。ただし自己を相対的に見直すことによって、モンスーン型の基礎を自覚した上で、牧場型を応用することはできる。おのれを知り、他者を知ることで多様性は維持できる。そういうことは「風土」ですでに指摘されているのである。

 

 で、和辻哲郎は我が日本をどう評しているか。「台風と大雪」にみまわれるのが日本の特徴であるとして、その結果、西洋と比して日本人は「公共的なるものへの無関心を伴った忍従が発達」したと和辻は言う。(ここに至るまでのロジックはなかなか面白いだが長いので省略する)。

 日本では、民衆の間に(公共人としての義務としての)関心が存しない。そうして政治はただ支配欲に動く人の専門の職業に化した。(中略)公共的なるものを「よそのもの」として感じていること、従って経済制度の変革というごとき公共的な問題に衷心よりの関心を持たないこと、関心はただその「家」の内部の生活をより豊富にし得ることにのみかかっている(第三章「モンスーン的風土の特殊形態」ーー日本の珍しさ より)

 驚くことにこの指摘が昭和4年である。


 話を台風19号に戻す。台風19号の前に、千葉県は台風17号に見舞われた。そして日本列島全体でみれば、近年の台風被害の増加は明らかである。地球温暖化のせいで台風の勢力が高まっているとも言われている。

 つまり、台風19号による被災は例外的な災害ではなく、今後も毎年、日本は見舞われるということだ。日本は「台風と大雪」がやってくる風土なのである。外郭放水路や貯水池の整備は金と技術にものを言わせた力技の防災だ(和辻論的にいえば「牧場型」と言えるだろう)。しかし日本が本来的に高湿にみまわれたモンスーン型であるとすれば、しなやかな「受容と忍従」を備えた防災の在り方も一方で考えておかねばと思うのである。



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京大変人講座

2019年05月10日 | 哲学・宗教・思想

京大変人講座

酒井敏・小木曽哲 他
三笠書房

 

 「京大的アホがなぜ必要か」がたいへん面白かったのでこちらも読んでみた。もっともタイトルの印象からして「最後の秘境 東京藝大」みたいな変人賛歌あるいは変人列伝を想像していたのだが、そうではなくて、京大のいろいろな分野の教授がそれぞれの専門にある「常識にとらわれないものの見方」の話をするのだった。ドーナツの穴を食べる方法の本に近いかもしれない。こういうのは関西のお家芸なんだなとつくづく思う。

 

 興味深かったのは、①サービス経営学からみる「なぜ鮨屋のおやじは怒っているのか」、②法哲学からみる「安心、安全が人類を滅ぼす」、③システム工学からみる「なぜ遠足のおやつは300円以内なのか」。

 ①は高級鮨屋ほど板前は無愛想でメニューも不親切でしかも高額なのに客はありがたがるというパラドクスを、「サービス」の観点から考察したものだ。「サービス」というのは「価値あるものを受け取った」と思う気持ちである。本書によると、そこにはなんと「人間関係の承認欲求のすれ違い」あるいは「主人と奴隷の弁証法」というものが浮かび上がってくるのだ。なるほど。動物は2匹がぱったりあった瞬間、背格好や態度やその他の情報からどちらが上でどちらが下かという目に見えない戦いが瞬時に行われるというが、人間社会においても同様で、その位相によってサービスの在り方が変わるのである。で、自分より上の立場から承認されることはたいへんな「価値」になる(下の立場から承認されても当たり前だから価値にはならない)。高級鮨屋は客より自分のほうが「上」になる時空間演出を心得ているのである。

 高級鮨屋の板前の言動をモニタリングして再現しているのだがこれがまた面白い。

 

 ②は「安心」と「安全」は違うという話。この見立てそのものは、福島第一原発事故以来しばしばとりあげられたアジェンダである。肌感覚にもわかる。まず「伝えられる情報だけで『安心』はつくれない」というのがポイントだ。安心は体感を伴う必要がある。もうひとつの問題提起は「安心」はどこまでいっても主観的なものであって実際のところ「安全」を保障されてはいないということ。そして「未来永劫まで絶対的な『安全』」というのはあり得ないこと。
 ここから帰結することは「100%安全の保障を得て安心する」というのは不可能解であるということだ。それどころか「『安心』しておけばしておくほど、実は「安全」ではなくなっていく」というパラドクスも出てくる。

 ここしばらく悲劇的な自動車事故が相次いでいてやるせない。行政も自動車メーカーも安全をうたい、運転者は安全に自信がある。それでいて事故はおこる。なんかもう道路行政も自動車メーカーも運転者も歩行者もどこまで対策しても「絶対安全」にはならないものだと諦め、「安心して歩ける往来」なんてものは幻想で、極論すれば「車はつっこんでくるものだ」という前提で歩行者は道を歩くということなんじゃないかなと思う。「安心なんてできないのだから自分の安全は自分で守るしかない」という鉄則がこんなところで浮上したりする。

 

 ③は制限や制約の中でいろいろ考えさせるのが楽しい、という話。これはなんとなくわかる。制約から創意工夫は生まれるし、自分ならではのカスタマイズ感をどこかにつくりたいのは①の承認欲求なんかにもつながるどこか本能的な欲求かもしれない。便利になることの延長上には「あなたはいなくてもいい」というのが待っているのだから。制約の中での創意工夫というのは、少なくともその瞬間は体が生存の喜びを感じているように思う。パズルやゲームのようなものを子どもはもちろんオトナもついつい熱中してしまうからくりもこのへんにあるのではないか。

 

 いずれも一見するとパラドクスだがじつは・・・という話だ。つまり弁証法である。本書は弁証法の思考サンプルと言うこともできるだろう。
 そういう意味では各教授の話を読んだあとに、巻頭の山極局長と越前屋のプロローグに戻るとよい。
 東大が「討論・ディベート型・積み上げ方式」であるのに対し、京大は「対話・ダイアローグ型・発見方式」であり、そのココロは東大が事前に情報を収集し知識を蓄えておく必要があることに対して、京大は手持ちがなくて現場に赴き、むしろその場でのアドリブが要求される。事前の情報収集はどうしても本人の中に常識というか基準みたいなものができてしまい、良くも悪くもそれがバイアスになる。予定調和っぽくなるわけだ。白紙からのアドリブだと予定調和がないから、思いがけない発見や境地に行き着くこともあるし、支離滅裂でなんのオチもないまま終わることもある。リスクが少ないのは東大型だが、一発逆転ホームランがあるのは京大型ということなる。どちらが良い悪いではなく、時と場合によって有用性はかわってくるが、本書の本編で出てくる各教授の「常識にとわれない」話は、対話と発見の流れから導き出たんだなと思うと興味深い。

 あと、「教員は熟練してくると、官僚的になるか芸人的になるかの2つに分かれる」という森毅の名言にはうなった。教員に限った話ではるまい。芸人的にありたいものである。


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京大的アホがなぜ必要か カオスな世界の生存戦略

2019年04月30日 | 哲学・宗教・思想

京大的アホがなぜ必要か カオスな世界の生存戦略

 

酒井敏

集英社

 

タイトルは挑戦的だが、ずっと示唆と含蓄に富む内容だった。なんとなくぼんやりと断片的に思っていたことがカシャカシャカシャとつながったかのようである。

 

我々はついついこの世の中というものーー社会も行政も企業も学校もーー因果関係がはっきりしたもので構築されているという世界観で思い込む。機械システムのように原因と結果によるユニットが組み合わさるかたちでこの世の中ーー社会も行政も企業も学校も、その組織や構成は成り立っているとみなす。近代合理主義イコール「機械システム」という世界観と言えよう。

「機械システム」という言い方は僕の個人的な表現で、もしかしたらべつの言い方があるのかもしれない。本書では機械システム観を「樹形図構造」的な世界観と呼んでいる。政府のガバナンス構造とか会社の組織図はみんな樹形図である。憲法や法律の体系も樹形図である。”マーケティングは4P(Price・Place・Product・Promotion)からできている”なんて要因分解的な見方も樹形図構造の一種だ。

また、樹形図構造は因果関係の繰り返しで系統をつくるという見立てを持つから、歴史観にも使える。よく歴史の教科書の巻頭見開きとかにある歴史上のイベントをいくつかの線状に配置し、離合集散のさまをみせる図解があるが、あれも樹形図構造といってよいだろう。樹形図構造は、スタートからゴールまでの道筋がわかるという特徴がある。(道筋があるはずという前提がある)

したがって、樹形図構造すなわち機械システムは、なんらかのゴール目標とすべき状態というのがある。そのゴール目標状態にむかってすべてのアクターが動く。経済指標だったり、秩序の維持だったり、生産高だったり、業績だったり、無事故だったり、いろいろなKPIだったりする。そのゴール目標状態から逆算し、各々アクターの立ち振る舞いが決定されるわけだ。示達予算も成果評価のクライテリアも目標偏差値も学校の成績表も校則もみんなそうである。原因と結果を方程式のようにつくりあげ、そこに沿うようにアクターを集合させるのである。

 

で、そんな「機械システム」観が閉塞感を生んでいる。システムに乗れない人は社会から排除されるし、無理やりシステムに乗った人はストレスで心身を病むし、システムのど真ん中でノリノリの人も、ちょっと局面が変わったときに何もかも失ったりする。

つまり、「機械システム」観を前提としてこの社会をとらえ、生きていく限り、疲弊は免れないのだ。

 

そこでもう一つの世の中の見方が登場する。人間組織や社会構造を「機械システム」のようにとらえるのではなく、エコシステムすなわち「生態系」のようにとらえてみよ、ということである。

「機械システム」は近代合理主義の申し子である。しかるに人類は400万年、生命は40億年の歴史がある。ここには生態系というもうひとつのダイナミズムがあるのだ。社会を、地域を、企業を、学校を、コミュニティを生態系としてとらえ、ではそれぞれのアクターはどうやって生存していくかを考えると、「機械システム」の生存術とはまったく異なる地平が見えてくる。

本書の言及もふまえながら、僕なりに機械システムの世界観と生態系の世界観を比べると以下のようになる。

 

機械システム観    生態系観

・近代社会論     ・40億年生命論

・因果律       ・カオス

・樹形図       ・複雑系

・ピラミッド組織   ・自己組織化

・予測可能(なつもり)・予測不能が前提

東京帝国大学・京都帝国大学

・社会学       ・文化人類学

・Scieiety      ・World

・対象を要因別に分解 ・対象は何かの一側面

・選択と集中     ・発散と選択

・均質性の要求    ・多様性の担保

・予定調和      ・結果オーライ

・ルールは変わらない ・ルールは変わることがある

・ランダム分布    ・スケールフリー分布

・正規分布      ・べき分布

・漸次変化      ・臨界と相転移

・設計主義      ・ブリコラージュ

・計画表       ・行き当たりばったり

・花壇        ・ビオトープ

・PDCA      ・OODA

・官僚型組織     ・ティール組織

・金太郎あめ     ・七人の侍

・因果応報      ・運不運

・世界公正仮説    ・世の中は不平等

・負けに不思議なし  ・勝ちに不思議あり

・マルクス史観    ・文明の生態史観

・二元論       ・陰陽思想

・専門能力      ・教養

・条件と選別     ・無限抱擁

・役に立つかどうか  ・おもろいかどうか

・真面目な勤勉    ・アホな好奇心

ここにまるで違う世界相が出現する。

機械システムの世界観で世の中をとらえて行動する限り、閉塞は免れない。今一度、この世の中を大海原の生態系としてとらえ、このコスモスでどう生存戦略をはかるかという眼差しを持つことは、令和の時代に生き抜くための大いなる知恵である。


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野の医者は笑う 心の治療とは何か?

2019年04月02日 | 哲学・宗教・思想

野の医者は笑う 心の治療とは何か?

東畑 開人
誠信書房

 

 力作であり怪作でもあり、そしてちょっとした感動作でもある。初版は2015年。マイナー出版社のハードカバーだからそれほど話題にあがらなかったかもしれないが、新書で出せば「バッタを倒しにアフリカへ」くらいにはなったかもしれない。

 

 「野の医者」というのは、ヒーラーとかセラピストとかスピリチュアルカウンセラーとか呼ばれる人たちだ。広い意味では占い師とかまじない師なんかも含まれる。

 彼らの仕事は悩める人の心の病を取り除き、心の健康を誘うことである。

 こういう「心の治療」の分野では、公式には「臨床心理」というアカデミズムな医学があり、「臨床心理士」という肩書を持つ人々が存在する。臨床心理士は「公益財団法人日本臨床心理士資格認定協会」が実施する試験にパスしなければならない。実はこの資格さえも民間資格であって「国家」資格ではない。長いこと臨床心理方面は国家資格から遠ざけられていた歴史がある。去年になってようやく新たな国家資格「公認心理師」というものが誕生した。

 著者の言う「野の医者」のほとんどは、こういった公的に通用するような資格を持ち得ていない。いくつかの例外はあるものの、多くは在野で勘と経験と試行錯誤でヒーラーやセラピストを名乗っている。つまり、系統だったアカデミズムでの臨床心理を学んでいない自己流の治療者である。

 とはいうものの、彼らは100%自己流かというとそういうわけではなく、ある程度成功した「野の医者」のスクールに通ってその人から資格をもらう。流派といってもよいかもしれない。

 我が日本では、沖縄にこの類の人が多い。いや、本当は日本全国にいるのだが、人口密度的に、あるいは狭いところに様々なタイプの「野の医者」が混在しているという点で、沖縄は典型である。

 なぜ沖縄に多いのか? という疑問も含めて、著者は沖縄の「野の医者」フィールドワークを行う。このルポ(お笑い要素を多分に含む)もなかなか面白いのだが、著者はルポライターでもノンフィクション作家でもない。著者は「臨床心理士」なのである。

 つまり、アカデミズムばりばりの臨床心理士が「野の医者」の世界に五体投地で飛び込んでいったのが本書である。

 かといって、この本は、決してアカデミズムの観点から「野の医者」のインチキを暴いていくというものでも、彼らと徹底議論して論破していくものでもない。野の医者の世界を見聞し、体験し、あまつさえ治療されることで「心の治療とは何か?」という問いに自問自答していく。つまり、臨床心理士として行ってきた「心の治療」に、野の医者の世界による「心の治療」の在り方を通じてアウフヘーベンしていくのだ。ここは圧巻である。

 

 野の医者にはいくつかポイントがある。

 ・野の医者本人がつらい人生を送っていて心が傷ついた過去を持っていることが多い
 ・治療方法そのものはチープである(治療者が身辺でたまたま会得したものの「ブリコラージュ」されたもの)
 ・ほとんどの野の医者はそれだけでは生計が立てられないで、副業をしながらやっている
 ・非常にテンションが高い(本書のタイトル通りによく笑う) 
 ・大振りなパフォーマンス、たたみかけるレトリック
 ・ここが肝心なところだが、実際に治癒する患者がわりといる

 この5つはもちろん因果が関連している。詳しくは本書をたどりたい。読めば納得が高い。

 著者はこういった「野の医者」の特徴を追い求めながら、一方で自らの立脚点である臨床心理学に疑問を感じる。それは、単に「野の医者」にほだされたからいうことではなく、「野の医者」に欠点があるならば、「臨床心理」にも欠点があることに思い至り、「心の治療」すべての足元が心もとなくなっていく。なぜ臨床心理士は、「野の医者」のように心に傷を負っていない人が多いのか。治療がいちいち長期間で体系的なのか。専門家として生業が成立しているのか。そして、笑わないのか。で、こちらはこちらで実際に治癒する患者がいるのはなぜか。

 

 著者は、多いに彷徨した末に、やがて、「野の医者」の問題と限界がどこにあるかを看破する。そして、筆者が立脚していた「臨床心理」が、矛盾を抱えながらも、アカデミズムとして何を大義としてきたかを知る。

 この著者の心のプロセスそのものがユングっぽいような気もするが、最後のエピソードはなかなか感動的である。

 

 ところで僕は本書を読みながら親鸞と浄土真宗を連想していた。僕は特定の宗教にコミットしているわけでもスピリチュアル愛好家でもないからいずれにしても遠巻き感覚なんだけれど、なんか共通点があるなという感想を持った。

 親鸞の教えを書き留めたとされる「歎異抄」によれば、親鸞が言うところの教えとは「とにもかくにも南無阿弥陀仏と唱え、阿弥陀様にすがることがお救いになる、誰もかれも念仏を唱えれば浄土に行ける、これが阿弥陀様の本願である」というものだ。

 この思想の境地にはいくつかの宗教的革命、あるいは思考の転回があるとされているが、親鸞やその師の法然、あるいは歎異抄を記したとされる唯円は、当時にあってはおそらく「野の医者」だったのだと思う。果たして親鸞が良く笑うテンションの高い人間だったのかどうかはわからないが、まあ苦労人ではあっただろうし、生計が立てられてたとも思えないし、なによりも「念仏さえ唱えればいい」というのは当時にあってチープ以外の何物でもないだろう。さにありながら、これだけ信者の数を増やしたというのは、「治癒」を自覚した患者ならぬ信者がたくさんいたということなのだろう。

 重要なポイントは「野の医者」の世界も、「歎異抄」の世界も、「治療者とクライエントの信頼関係」であり、「敷居の低い道具立てやパフォーマンス」であり、「治療者によるレトリックを駆使した救済ストーリー」だ。つまりどこまでも閉じた主観的な世界。でもその閉じた世界の中で悩みは解決される。これこそまさにポストモダンであり、その世界においてクライエントは「治癒」できる。法然も親鸞も当時にあってポストモダンだったんだろうな。


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歴史という教養

2019年02月03日 | 哲学・宗教・思想

歴史という教養

片山杜秀
河出書房新社


 「温故知新主義」という漢字六文字の概念を新書一冊にわたって解説する試み。

 著者は言う。我々は生きるにあたって歴史に学んで未来の行方をさぐらなければならない。そのやり方は「温故知新主義」でなければならない。「保守主義」でも「復古主義」でも「ロマン主義」でも「啓蒙主義」でも「反復主義」でも「ユートピア主義」でもない。また、「歴史小説」に学ぶのではなく、「偉人」に学ぶのでもない。

 じゃあなんなんだとつっこみたくなるが、ここにならべた主義の欠点をそこまでいうかってほどに叩きのめして捨象しながら、「温故知新主義」なるものの厳格な主題を、荻生徂徠のテーゼを出発点に浮き彫りにしていく。  

 本書で主張する「温故知新主義」とは、空白の未来に対峙するとき、過去の歴史を「炭鉱のカナリヤ」のようにかざしながら次への一歩を思考する態度である。歴史にあたるカナリヤ(過去におこったすべてのものは「歴史」になりえる)を集められる能力、その未来は空白であることを知るという能力(未来とは原則的に未知なものである)、かざしたカナリヤの反応を読み解く能力、そのカナリヤの反応から次の一歩を思考する能力である。

 かくして温故知新主義の正体が明らかになったが、著者の言及はそこで終わりではない。その「温故知新主義」も、実は全ての歴史は興亡を繰り返すという「興亡史観」を母体とするものであり、興亡史観は数ある史観のひとつにすぎないとする。ちなみにすべての史観は5つのタイプに分類できるのだそうで、他の4つは「右肩下がり史観」「右肩上がり史観」「勢い史観」「断絶史観」である。

 どの史観をとるのも見立て次第ということだが、とはいえ「興亡史観」以外は実はとても剣呑で野蛮なプログラムが忍び込みやすいことを本書は訴えている。「右肩下がり」はニヒリズムだし、「右肩上がり」はファシズムだし、「勢い」はポピュリズムだし、「断絶」は革命思想となる。なるほどなるほど。ばっさばっさと切っていくのは痛快ですらある。

 したがって、興亡史観こそが歴史を教養にするには必要な態度であり、それは「温故知新主義」という形をとるということで、めでたく論は完成する。その過程は、とにかく饒舌というか過剰というかあんたは古舘伊知郎かというくらいまくしたてられ、圧巻なことこの上ない。明治時代の弁士ってこんな感じだったんかな。その「勢い」にあてられて、ついつい読書中にやってくる仕事のメールの返事まで饒舌な文章で返してしまった。同僚は面食らっちゃったかもしれない。

 

 ところでぼくはむかしから「温故知新」というコトバは好きであった。座右の銘といってもよい。もっとも著者のようにこの言葉の深部にどこまでせまっていたかはわからないが、なんとなく本書が語り倒すようなことをぼんやりと思ってはいた。僕の心づもりは”新しい局面にあたるにあたっては歴史にヒントがある”とか”この先なにがおこるかのヒントは過去の似たような歴史にある”くらいのつもりだが、この”ヒント”くらいのあいまいな感じは著者のいうところの「温故知新主義」とそう違わないのではないかと思ったのである。

 ぼくが歴史にヒントをすがるのは、新しい局面というものに対していつも小心者であるというに過ぎない。「なんとかなるだろう」という楽観視や「なせばなる」のような気合がどうしても僕にはもてず、臆病風にふかれてしまう。そんなとき、せめて過去に類例がないかを思いめぐらし、その結果から少しは傾向と対策、あるいは覚悟を決めるといったに過ぎない。

 ただ、この「傾向と対策」という態度が僕をして、なんとなく結果的にはいまも特に破綻なく健康で安定的な生活を導くに至っているのではないかともちょいと思う。未来に対しての不安は消えないし、相変わらず僕は新しい世界や局面に対して臆病になりがちだけれど、その警戒心が歴史に何かヒントをもとめ、それが今回の場合にあてはまるかあてはまらないかも確信はもてないけれど、何も考えずにつっこむよりはまだ精神的に負担が少ない。結果、現在の僕のステイタスは心身の健康も家庭も仕事もまあまあ悪くはないんじゃないかとは思っているのである。そんなしみったれたことを「温故知新」といっては荻生徂徠に怒られるかもしれないが。


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