読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

フェイクニュースの生態系

2022年01月06日 | マスコミ・報道
フェイクニュースの生態系
 
藤代裕之
青弓社
 
 トランプ大統領の登場以降「フェイクニュース」という言葉は一般に認知された。その後、世界中がコロナに侵され、様々な噂やデマが飛び交うようになってフェイクニュースは再び注目された。
 
 フェイクニュースといっても、その実態はいろいろあるようだ。情報発信者が確信的に嘘八百を創作したものが極北だが、その手前のちょっとした曲解、マスコミの報道でもよくある意図的な編集やトリミング、あえての情報隠し、大げさな見出しなど、これすべてフェイクニュースの一端を踏んでいる。
 そして、本書がとくに明らかにしたことは、「フェイクニュース」とは決して匿名の情報の発信者および受け取った情報をリツィートなどでまき散らす拡散者だけのメカニズムではない、ということである。個人のSNSアカウントから大手マスメディア、大手ポータルサイト、そして中間の有象無象のキュレーションメディアが相互に反応しあってフェイクニュースは変容しながら流通しているのだ。まさに生態系。
 
 原因は以下に求められる。
 ①Yahooなどのポータルサイトのニュースが、報道協会に属していないミドルメディアの記事までをピックアップと配信の対象にしているということ
 ②サイトの価値はあくまでどれだけ見られていたかというビュー数で決まり、それによって広告単価などが決定されるということ
 ③パイプラインと呼ばれる様々なステークホルダー(サイト運営会社・報道機関・広告スポンサー・プラットフォーム運営会社・ジャーナリスト・個人の情報発信者・リツイートやいいね!をする人・ビュー数を担うユーザー・コンテンツ企画者・テレビのコメンテーターなど)からなる情報流が仕組みとしてできあがっていて個人的一単位の責任に帰せないこと
 ④検証記事や現場取材記事は手間暇がかかるわりにビュー数を稼げず、ビジネスとして割に合わないこと
 ⑤TVや新聞のマスメディアもネットから情報を拾える時代だということ(製作費や取材費の削減もあるだろう)
 ⑥「ネットで話題になっている」という耳目の集め方が報道のフォーマットの一つとしてあること(話題になってなくてもこう言ってしまう事例もある。なんとコロナ初期のトイレットペーパー不足はこれに端を発した)
 ⑦プロのジャーナリストでもフェイクニュースは見抜けないということ(つまり誰も見抜けない)
 ⑧読み手は真実の情報を探そうとすれば探すほどフェイクニュースにより頻度高く接するというインターネット上のパラドックスがあること
 ⑨報道において完全な中立というものは極めて難しいこと(フェイクニュースの告発はだれかの政治的有利を誘導することにもなる)
 ⑩けっきょく人は見たいもの信じたいものを見たがるということ
 
 ということで、言ってしまえばあなたもわたしもフェイクニュースの流通になんらか加担しているということになる。Post Truthとはよくぞ言ったりだ。
 
 結論としては生半可な情報リテラシーをつけようとすればむしろフェイクニュースの餌食になる。むしろ「情報とは適度に距離をとっておく」という態度のほうが正しいわけだ。一番危ないのは「オレは情報の真偽を見分ける自信がある」というタイプだ。オレオレ詐欺に引っかかるタイプと同様と言えよう。

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新聞の正しい読み方

2016年03月18日 | マスコミ・報道
新聞の正しい読み方 情報のプロはこう読んでいる!

松林薫
NTT出版


日本の新聞社は、紙と宅配システムというビジネスモデルがあって、これが印刷所とか各地の販売店とかの企業装置をかかえることになっている。で、周知の通り、現代の世の中ではいささか時代遅れの重荷になってきている。

つまり問題は取材や情報編集のやり方にあるのではなく、できた情報を人々に届ける仕組みのほうに時代に直面した課題があるといってよい。

僕なんか、印刷と販売店はもう各社とも分社化させて、そのあと大同団結しちゃえばいいんじゃないかなんて発想するんだけれど、それぞれの新聞社が大量の雇用を抱えている以上、簡単にはいかないのだろう。


一方、新聞社がとりまとめた「報道」は、かつてよりかなり人々の目にとまっているはずである。言うまでもなくネットの普及である。Yahoo!のトップ画面に表れるニュースは毎日新聞や産経新聞からの引用であったり、ちょっと検索すると地方紙の記事が出るようになったりして、意識するしないに関わらず、様々な新聞社による報道に接するようになってきた。ひと昔前までは、自分の家やせいぜい勤務先でとっている新聞くらいしか目にしないから、それ以外の新聞記事を読むような機会はなかなかなかったので、これは大きな環境変化である。

朝日新聞が左寄りだというのは、かつてから言われていることだけれど、むしろ昔の方がその立場は鮮明だったようにも思う。だけれど売国新聞とまで罵られるようになったのはやはりネットで朝日新聞の記事が目に触れる機会が増えたからだろう。考えてみれば、左寄り論調を嫌う人が朝日新聞を購読するわけないのであって、今こうしてパッシングを受けるのは、それだけこれまで朝日新聞の記事を見る機会のなかった人々にまで、記事を見られる機会になったというわけで、ネットエコノミーのなせるわざとも言える。朝日新聞に誤算があったとすればここだろう。

本書は、そういった新しい(と言ってももはやそんな新しくもないが)情報環境の中で、感情やその場の勢いに流されずに冷静に情報を獲得し、己のものとして役立てる、つまり情報リテラシーを、あげるための「紙」の新聞の読み方指南である。出版元はNTT出版だが、著者は日経新聞OBのひと。紙で読むべき必然性を語る姿勢は、もちろん人々に日経新聞を読んでもらうためのマーケティング的な使命もはたらいている事情もあるのだろうが、いささか新聞社側の「事情」に立脚しすぎのきらいもある。例えば、じつは見出しにはロコツには現れてないが格付けがある、それを見抜くのが情報リテラシー、と指摘しているけれど、リテラシーの低い人にもその格付けがわかるようにするのが、情報発信側の責任とだっていえなくもない。また、新聞は紙面全体で情報を編集しているので、ネットに配信されるときに一部だけ切り出されると、新聞社が用意した情報としては不完全なのであるという指摘も、そうかもしれないけれど、ネットというのはそもそもそういうものであり、現代の世の中はそのネットが普及しているのだから、少しは対策をうつのがあるべき企業の努力とも言える。

本書は「新聞の読み方」だけれども、もっとも大事なのは政治や経済にちゃんと興味を持つことなんではないか、とひどくカタブツな感想を持った。人と話題にできたり面白コンテンツになる言わば「ネタ」としての政治や経済ではなく、ちゃんと自分たちの平和と安心の生活につながる観点で政治や経済に興味を持てば、必然的に紙だろうとネットだろうと、報道を見る目も変わってくるように思う。

だから、本書が指摘している、情報の真意を見抜くための三次元という話、実はこれがいちばん情報リテラシーを身につける上で大事な部分だと思った。情報発信者は何かを伝えたくてメッセージを送るのだが、そのメッセージを紐解くには相手の「表現(プロトコル)」「立場(制約条件)」「動機(行動原理)」を見抜く必要がある、という指摘。これは報道だけでなく、重要な情報交換の場ではすべて大事なことであり、本書のもっとも慧眼なところはここの部分だと思う。



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国際メディア情報戦

2014年02月15日 | マスコミ・報道

国際メディア情報戦

著:高木徹

 

 さて、ソチ五輪がもりあがっているわけだが、ソチの中心部というのは東京とあまり地勢条件がかわらないそうである。だから、東京の冬に冬季五輪をやるようなもので、つまり雪がない。たしかに中継映像をみても、街中に雪国の印象はない。

 トリノやバンクーバーに比べるとなんでこんな場所が選ばれたのか? という疑問が残る。

 

 で、本書によればなにがなんでもロシアがこの場所で開催させたかったということである。

 というのは、このソチの近くには例のチェチェンがあるし、また国土問題でもめているグルジアもある。

 とくにチェチェンは独立派との武力衝突というか、ロシア側の武力制圧に近い動きもあった。国際世論的には必ずしもみなロシアの味方をしていない。むしろ西側諸国的にはチェチェン側に同情があったのではないかと思う。

 だから、ロシアがこの地でテロもなく、平和裏に五輪が開かれることは、この地がロシアによって平和に統治されていることの国際的証明に他ならない。そこにグルジアも参加してくればなおさらである。

 

 だが、そう都合良くは問屋が下ろさない。ロシアが懸命にロビー活動をしたとしても、そう思惑通りIOCが簡単にソチを開催国に決定するとも思えない。

 しかし結果論からいうとここにアメリカの思惑が一致した。

 

 本書によれば、去年起こったボストンマラソンの爆発テロの犯人は、「チェチェン・コネクション」があった、ということになっている。 本当はどうかしらないが、PR戦略によってそうなってしまった。

 これはつまり、爆破技術も含むテロ思想の持ち主はアメリカ国内から持ち上がったのではなく、あくまで外部であるチェチェンにあった、という見立てである。前者だとアメリカ国内はたいへんな疑心暗鬼を起こすことになるが、後者のようにあくまで外部にあるのであれば、これまでと同じく、アメリカはテロと戦うことを声高に宣言すればいいのである。

 

 よって、チェチェンには尖鋭化したテロの温床があることをアメリカも認め、そのチェチェンをロシアが管理下におき、無事にソチで五輪が開催されれば、アメリカもロシアもWIN-WIN、悪者はチェチェンただ一人、とそういうことになる。チェチェンの独立派がすなわち原理派ということになれば(あるいは協力関係にあるとすれば)、なお都合がよい。

 おお、まるでゴルゴ31だ。

 

 だが、ひとつ大きな矛盾がある。

 ボストンマラソンの爆破事件は、ソチが開催国に決まったあとに起こっているのである。

 だから、もともとアメリカは爆破事件より前から、少なくとも政府はチェチェンを標的にしていたととらえることができる。イスラム原理主義の尖鋭部隊がチェチェンの山岳地帯に潜んでいるということをつきとめていたか、あるいはそういうことにしてしまったか。また、この兄弟を事件を起こすまで「泳がせていたか」。

 

 本書は戦争を含む外交や国際戦略にPRがたいへん重要な役割を果たすようになったことを指摘している本である。10年前に「戦争広告代理店」が刊行されたときは、その内容にPRの極北を見て、そら恐ろしくなったわけだが、そこから時代はさらに進歩した。

 いまや、敵を討つときは、兵士より先にくっついてきている戦場カメラマンのほうを先に狙うようになっているらしいほど、PRは戦略を左右しかねない勢いである。

 だから、アメリカとしては国内は常に安定で平和で自由民主主義が守られており、それにあらがうものはすべて外部である、という見立てをつくるPRのネタを常に確保しようとするだろうし、ロシアがソチで五輪を開催することは、たとえボストンマラソン事件の前であったとしても、充分にその時点のアメリカでPRの「保険」になるくらいは考えるだろう。なにしろこのときはまだビンラディンは生きている。もちろんロシアに対して「貸し」にもなるだろう。おやこんな時間に誰か来たようだ。


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メディアの仕組み

2013年09月22日 | マスコミ・報道

メディアの仕組み

池上彰・津田大介

 

 対談本ではあるが、さながら「池上彰の仕組み」とでもいえそうな本。彼があえてとっているスタンスの持論とか情報のインプットアウトプットの方法論とかが、津田大介との対話の中で語られている。

 興味深いのが、池上彰が毎回チェックしているメディア。

○新聞
 ・読売新聞
 ・朝日新聞
 ・毎日新聞
 ・日本経済新聞
 ・SANKEI EXPRESS
 ・朝日小学生新聞
 ・毎日小学生新聞
 ・中国新聞

○雑誌
 ・クーリエ・ジャポン
 ・ニューズウィーク日本版
 ・日経ビジネス
 ・FACTA(隅々まで読む)
 ・選択(隅々まで読む)
 ・TIME
 ・中央公論(ときどき)
 ・週刊ダイヤモンド(特集による)
 ・週刊東洋経済(特集による)
 ・週刊エコノミスト(特集による)

だそうだ。そして、テレビは見ない、とのこと。


 新聞で、小学生新聞が入っているのは彼の由来からしてわかるけれど、中国新聞が入っているのが興味深い。地方紙をひとつチェックしておくということなのだろうか。それにしてもなぜ中国新聞なんだろう。

 雑誌も、「選択」とか「FACTA」が入ってくるのがジャーナリストっぽいし、クーリエジャポンとかニューズウィーク日本版みたいに、エッジの効いた海外ネタも視野に入っているところが彼らしい。
 いずれにしても、日常に構えておくメディアの数としてはやはり広いほうだと思う。

 最近はやりの情報インプットスタイルは、検索型の情報収集、あるいはSNSなど介した近しい人からの情報流入が中心だとは思うが、これの最大の弱点は、けっきょく自分が関心を持っている領域しか情報が入ってこないということだ。例のgnosyにしても、自分に興味ある情報に集約されがちだ。
 一方、この広めの網の投げ方は、池上彰自身がいうところの「ノイズ」、津田大介いうところの「誤配」、一般的には「セレンディビティ」を期待する情報収集法である。

 こういう受動的情報収集の代表がテレビとされているわけだけど、その分テレビの前にかじりついていなければならず、テレビは見ないということは、時間とのコストパフォーマンスの上でテレビは情報収集としては期待できない、という彼の本音が見えている。

 そして、追跡すべきテーマが決まれば、実はそこはかなりのオールドスタイルというか学究的につきつめているようだ。
 事実の組み合わせのみでメッセージを語っていく彼のスタイルはこうしてできているのかと知った次第である。



 


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最近のテレビ・バラエティー番組に関する意見

2009年11月19日 | マスコミ・報道
 「最近のテレビ・バラエティー番組に関する意見」

  放送倫理検証委員会

 書籍ではなくて報告書なのだが、PDFファイルによって全文がWEB公開されている。それがけっこう面白い、ということでネットのニュースやブログでも触れられていたので、読んでみた。

 で、確かになかなか面白かったので、というか、これは極めて優れた文明・文化批評であり、力作であると思ったので、ここでも紹介してみる。

 いちおう、この意見書は、意見する相手としてバラエティー番組の「作り手」、つまり放送局や制作プロダクションで制作に携わる人たち、放送作家から番組出演を担うタレントあたりまでを直接的な読み手として、「お前らこんなんだからダメなんだよ」というスタンスで書いてある。ひょっとしたらスポンサーとなる企業の宣伝部の人とか広告代理店の人あたりまでもカバーしているつもりなのかもしれない。が、一介の市民、あるいは視聴者が読んでも面白い。
 意見書の方針としては「昨今のバラエティ番組がいかにしょーもないか、なぜしょーもなくなったか、をバラエティ番組風に紙面でやってみた」という感じである。曰く「検証バラエティ」。だが、委員会そのものには、バラエティ番組本来が持つ力、あるいはマスコミというものへのポジティブな信頼と期待がベースである。だから単なる批判に終始せず、建設的でもある。

 テレビ番組の多くが「バラエティ番組」フォーマットになって垂れ流されている背景には、CM収入が減って、制作費が激減し、ギャラの安い芸人(しかもいまや芸人は、タクシー業界のように完全競争状態なので、どこまでも安いギャラでいける)を動員してスタジオ生放送で済ませてしまう他はないという、早い話が「安かろう悪かろう」のスパイラルにある、ということだ。
 ウハウハだった時代にほぼ24時間の放送枠をつくってしまったために、今の時代も何か放送しなきゃならなくなったわけで、このあたり、高度成長時代の需要を前提につくってしまった工場のラインをとにかく稼動させないことには給料が払えない、というメーカーと同じである。メーカーの場合はラインを縮小したり、統廃合したりしたわけだけれど、テレビはそれができない。いや、できるのかもしれないけれど、まあ誰もそんな荒業やりたがらない。東京の場合、民放にはテレビ東京含めて5つのキー局があるけれど、実は3つくらいで充分なんじゃないの? とか、夜中の1時2時までやってる必要ないんじゃないの、とか、いろいろ思うんだけれど、いちど広げてしまった放送枠の縮小はできないらしい。仕方がないから、通販番組なんかで埋めている。広告スポンサーは、とにかく金があればいいわけだから、車とか家電とかが元気がなくなると、消費者金融広告を解禁してそこから収入を得ていた。それも自粛となると、今度はパチンコ業界を解禁した。こうなると次は宗教なんだろうね。地上波ではまだ創価大学くらいしか出てこないが(教育機関という言い訳にしたいのだろう)、BSでは解禁されている。

 だが、「金がないからこんなのしかできない」という言い逃れは確かにできないだろう。金がないから、新人芸人をいじめたり、下ネタトークをやらせたり、食べ物をおもちゃにしたり、ヤラセをする、というのは暴論である。やはり、作り手と受け手の「面白い」と思うツボがずれている、ということに作り手が無自覚なのが最大の原因だろう。視聴率で数字取れてるじゃないか、と必ず出てくるのだが、10%や20%の視聴率というのは、社会の中ではマイナリティであることに気付いてほしい。

 この意見書でも触れられているように、バラエティー番組とは、そもそもが「常識と非常識、秩序と混沌、嘘と真実、美と醜、本物と偽物、既知と未知、その他とその他のすれすれのところ」を悪戦苦闘しながらつくりあげることでて「人の身体と情動と暮らしの一番近いところ」を作用させ、都市社会論でいうところの「悪所」、あるいは共同体の中でのトリックスターとしての位置づけにあった、と意味付けはできるだろう。これは「週刊誌ジャーナリズム」というものとも似ているかもしれない。
 
 ただ、「悪所」にしろ、「トリックスター」にしろ、そこは共同体を持続する上でこれらが必要という暗黙の了解が前提となっている。この暗黙の了解とは、「悪所」や「トリックスター」を提供する人と、社会市民との間での共通見解である。

 この共通見解がずれているのが、今日の「バラエティ番組」である。要するに、「常識と非常識、秩序と混沌、嘘と真実、美と醜、本物と偽物、既知と未知、その他とその他のすれすれのところ」を作り手が捜し求めて出てきたのが「芸人をいじめたり、下ネタトークをやらせたり、食べ物をおもちゃにしたり、ヤラセをする」ことであり、けっきょくそれは視聴者の「人の身体と情動と暮らしの一番近いところ」を作用していない。もっというと「空回り」なのである。

 なぜ、「空回り」するのか。意見書もいろいろ指摘している。たとえば、視聴者だってバカじゃない。それどころか、むしろ番組作りに関する情報はかつてよりよっぽどよく知っている。それにインターネットのように、面白さが「比較」できるコンテンツも登場した。「面白さ」を感じるリテラシーが、「作り手」の想定している基準よりもずっと上になってきている。
 また、視聴者、すなわち社会の空気そのものが分断化孤立化し、支配するのは「冷笑主義」といったように、ひどくささくれ立った余裕のない状況にあり、つまり、かつてのバラエティ番組が武器にした「『王様』を対象にする『庶民の笑い』という構図」が、「王様」の不在となってそもそも難しい、という点もある。このあたり、さきほど挙げた「雑誌ジャーナリズム」の黄昏と同じ路線であり、TVバラエティの粗悪化と雑誌ジャーナリズムの荒廃は同じ力学上にあるというのは興味深い。


 この「意見書」が触れてないことで、僕が仮説としてひとつ思っているのは、かつてバラエティ番組をつくった人と、いま「バラエティ番組」をつくっているひとは、テレビ局あるいは制作会社に入社した動機が違うんでは、ということである。
 つまり言いたいことは、今テレビ番組制作の一線にいる人(たぶん20代-40代前半くらいかと思う)は、バラエティ番組がとても輝いた時代に入社しているということだ。具体的にいうと、フジテレビのバラエティ番組がイケイケだった時代を見て、この業界に入った人たちだ。

 だが、冷静に考えればわかるように、彼らは「あのイケイケだったフジテレビみたいなの」がやりたくて入っているわけで、時代を変えるような、これまでの価値観を覆すようなアイデア、あるいは情熱があるとは思いにくい。抽象的にそういう志でいる人はいるんだろうが、そのためには上層部を敵に回し、自らスポンサーを説得し倒し、家族を犠牲にしてまで、それを貫徹してやろうなんて人はもはや絶滅種で、仮にいたとしても早々に潰されているだろう。本人だけの問題でなく、社会も企業もずっとコンプライアンスやらなにやらで厳しくなっている。
 しかし、こうなってくるとけっきょく自己模倣しか生まなくなる。これは制作費の多寡とは関係がない。自己模倣はグロテスクな定型進化、要するに進化の袋小路になって、それが「内輪ネタ」とか「芸人同士の人間関係」とか、コンテンツとしての女子アナ、とかになってくる。ドラマでもテレビ局や編集者や広告代理店を舞台にしたものが、どのクールでも必ずひとつやふたつある。そりゃ自分のよく知っている世界の話だから「作り手」には面白いに違いない。が、それと同じほど「視聴者」が面白いわけがない。

 「悪所」も「トリック・スター」も、共同体の中でそのポジションを持続的に得るには、当人自身はそうとう透徹した視線と高感度のアンテナがなければならない。外部を知らない「悪所」や「トリックスター」は存在し得ない。宿命的に「悪所」や「トリックスター」というのは外部との関係性で存在の意味がでてくる。外部環境を見失った「バラエティ番組」は、どこまでも「作り手」の自慰行為をさらけ出しているにすぎない。


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フォト・リテラシー 報道写真と読む倫理

2008年06月21日 | マスコミ・報道

フォト・リテラシー 報道写真と読む倫理---今橋映子---新書

 けっこう読み応えあった。
 扱っているテーマも報道写真でありがちな「やらせ」や「被写体の人権」の是非のレベルを大きく超えた、言わば「報道写真」が社会に放ってきたイデオロギーそのものに取り組んでいる。

 たとえば、ある文筆家が、なんらかの事件や事故を元にしたルポを書いたり、ある画家がその事件を扱った絵を描いたりすると、これは宿命的に、創作者の主義主張が、一定のフィルターとしてかかったものとして社会に受容される。
 一方で、「報道写真」というのは、その事件や事故を「客観的な現実を示す証拠」として受容され、特に、歴史的に有名な「報道写真」、ロバート・キャパやジョー・ローゼンタール・セバスチャン・サルガドらの仕事は、聖書的な地位にまであげられ、「時代そのもの」の「象徴」にまで上り詰めてメッセージを放った。
 著者の言うとおり、受けて側のリテラシーなくしては、報道写真はファシズム的なまでの威力と説得力を発揮する。

 しかし要するに、報道写真とは、「撮影物」を素材とした創造的行為であり、程度の差こそあれ撮影者や出版社による「主観的な」メッセージの伝達であり、その意味で、文章による著作行為やドローイングによる描画行為と対等の関係になる。

 というのは、いかに「客観的現実を示す証拠」であろうとも、そこには情報の取捨選択があるからだ。たとえばよく言われる「トリミング」や「画像修正」は、事実を歪曲するものとして、批判されることが多いわけだが、プリントの際に裁断しようとしまいと、撮影という行為そのものが、3次元的時空間の一部を2次元静止画に移すことに他ならない「トリミング」であり、本来そこにあった文脈を分断させていることにはかわりない。これは写真にまつわる昔からの永遠に課題だ。さらに、該当の写真を出版社や仲介者が次々と、撮影者の心積もりとは違う意味や文脈を持たせて流通させていくことも往々にしてある。

 しかし、だからといって「報道写真」は実際には「真実」など伝えていないから価値はない、と言いたいわけではない。そもそも「真実」とは何か、とは哲学的な問答で、簡単に答えが出るものでもない。文章や絵画が価値があるのと同様に、報道写真には間違いなく価値がある。
 
 では、報道写真の「価値」とは何か。
 報道写真の美しき価値とは、著者も指摘するとおり、「思考の契機(自らなんらかの問題意識を考えるきっかけ)」を与えるところだと思う。この意味でも、文章や絵画と対等の関係だ。
 しかし、この「思考の契機」となるところを、情報の送り手側に「思考の完結」を促そうとする意思が働いたとき、そこに歪曲行為が加わる。「偏向」とか「やらせ」とかの力学はここにあり、要するに「答え」を急がせたいゆえの暴走である。

 「報道写真」が「最も客観的現実を示す証拠」、つまり「思考を完結させるもの」として決定的な権威を持ってきたのは、その歴史が他のメディアに比べて非常に長いことや、保存・記録および、そこからの再現が容易であるところも大きいが、「報道写真」こそが特にジャーナリズムやヒューマニズムの問題意識を伝達する方法として、これ以上ないほど直截的でわかりやすいからだ。
 つまり、報道写真とは、ジャーナリズムやヒューマニズムの問題意識の「可視化(見える化)」なのである。


 逆に、昨今の「可視化ファシズム」とでもいいたくなるようなこの概念の大流行は、上記の報道写真と同じ問題をもはらむように思う。「可視化」されることによって、トリミングされ切り捨てられ、なかったことにされる要素(これは恐怖だ)、文章や音声記録では情報価値として値しないという風潮、「可視化」させたやつが勝ち、なんでも可視化しよう。こういった「可視化」の力は、時によって暴力にもなる。少し悪知恵を働かせれば、都合の悪い情報は見えなくしてしまえ、そうすればないのと同じだ、という方法論にすぐ行き着くからだ。逆に、どう考えても、あまり意味のない情報が「可視化」されることでさも重要な案件で、すぐさまなんとかしなければならないような雰囲気を帯びる。こういった「可視化」の操作を、

 情報発信者が戦略的に「可視化」を行って「思考を完結」を迫ってくるならば、受け手はあくまでそれを「思考の契機」として留まらせる意識を持たねばならない。何が可視化されなかったのか。可視化によって、何の答えを急ごうとしているのか。
 「見た目が9割」ということは、相手の思うツボということだからである。


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