2034米中戦争(ネタバレ)
エリオット・アッカーマン ジェイムズ・スタヴリディス 訳:熊谷千寿
二見書房
GDPがアメリカを抜いて世界一になるのは時間の問題。台湾再統合も既定路線、科学技術開発力は完全に欧米を凌駕し、最後に狙うのは元(Yuan)の世界基軸通貨化。中国の覇権国家化は不気味かつ約束された未来とも言われている。
とはいえ、アメリカもそうやすやすと王座を渡すわけがない。西側諸国(日本も含む)の期待もかかっている。
7年ほど前に出た「100年予測」という本では、その地政学的な性格から、21世紀において台頭するのは、日本とトルコとポーランドであり、ロシアと中国は内部から瓦解していくとされていた。しかし果たしてどうだろうか。ロシアや中国の内部瓦解は「社会主義の国」は持続可能性を持たずどこかで破綻する、というシナリオからきているのだが、これはある意味「民主主義国」側の希望的観測であるとも言える。実態としての中国は市場主義社会主義国としてある種の完成系に至ろうとしているのかもしれない。先ごろ行われた中国共産党の重要会議「六中全会」での歴史決議では、習近平の存在をレーニン以降の社会主義進化史に位置付けるという見方もある。
というわけで、米中の対立は、まさに新「冷戦」状態である。先のバイデン・習のオンライン会談では、探り合いのような会話をしつつ、米中のあいだには「ガードレール」があってむやみにこれを超えようとしないということをバイデンが念押し発言した。
現時点での中国の最適解は「グレーゾーン」の状態を保つことにあるとされる。南沙諸島にも尖閣にもちょっかい出しつつ、香港や台湾をけん制しつつ、一帯一路を開拓しつつ、あちこちに人や資源をちりばめておいて、西欧諸国との露骨な衝突は避けながらエンジンを温めておくのだ。各国において北京五輪の出場はまさに踏み絵となった。アメリカがどう出るかでシナリオは変わってくる。
そんなこんなで緊張感を少しずつ高めながら、2032年についに南沙諸島沖のちょっとしたことから米中戦争が勃発するというのが本小説である。盧溝橋事件もサラエボの銃声も、大戦勃発の実際の引き金は局所的な事件であることが多い。問題は、その背景に溜まりまくったマグマがあったからこそ、泥沼の大戦へとシフトする。そういう意味では「引き金」となる事件は南沙諸島沖である必要はない。台湾でも尖閣諸島でもよい。アメリカの太平洋第七艦隊と接点があるところが可能性高しと言えようか。
この小説では仕掛けたのは中国側であり、その切り札はアメリカ側の通信機能をすべて無効化するというテクノロジーであった。裏を返せばあと10年もすれば中国はそのような技術を手にするロードマップにあるという著者の見立てである。ただし本小説ではいかなる技術でそれを可能にしたのかまでは触れられていない。軍事衛星からのジャミングなのか、海底ケーブルへの干渉なのかもわからないが、アメリカ側にはこれと同等ないし対抗するための技術がないため、アメリカはいいように翻弄されてしまう。アメリカとしては伝家の宝刀である核攻撃による報復しか選択肢がなくなる。そこに地政学上のイラン、ロシア、そしてインドが出てきて・・・・という風にこの戦争は展開していく。
この米中戦争は、まさにゲーム理論のような、限定合理性が呼ぶ誤謬が誤謬を重ね、よもや第三次世界大戦に至るのではという犠牲の上で遂には痛み分けで調停となるのだが、とにもかくにも日本は存在感がない。太平洋艦隊の拠点として地名としての横須賀が出てくるくらいで、日本そのものはプレイヤーとして一切出てこない。中国もはなから相手にしていない。
世界情勢をはかるとき、日本人は日本から世界をみるのでわかりにくいのだが、実は日本の存在感なんてこんなもんなんだなと改めて思う。退役軍人であり軍事アナリストであるジェイムズ・スタヴリディスが米中戦争のシミュレーションをそれなりの根拠と現実感をもって描こうとすると、2030年頃の日本の存在感はこうなるのだ。まあ、見えないところでアメリカに武器輸送や人員供給はしているのだろうが、ディシジョンメイキングとしてはまるっきりお呼びでないというのが興味深い。むしろキャスティングボードを握るのはこの時代においてはインドなのだ、というのが本書のメッセージである。
とはいえ、まあ下手に核爆弾や大規模サイバー攻撃などされても嫌だし、それならそれで存在感低いままのほうがいいかもという気もしなくはない。ただ、むしろ怖いのはこういうときにズルい動きをするロシアだ。本小説ではプーチンがまだ生きていて、漁夫の利を得ようとポーランドやイランにむけて動き出す。過去の歴史からみてなるほどと思うが、ということはこれ北海道にむかったとしてもおかしくはないのだよな。くわばらくわばら。
この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた
(※「新世界より」「復活の日」「渚にて」のネタバレに触れているので注意)
ルイス・ダートネル 訳:東郷えりか
河出書房新社
サバイバル百科事典あるいはサイエンス読み物の名を借りたSF小説とでもいおうか。
つまりは、「大破局」なる人類滅亡後に幸いにも生き延びたものがどうやって生活の糧を得て生き延び、再建していくかというのを、飲料水の確保の仕方、農業の始め方、建材の集め方や作り方、家の建て方、情報の取り方、移動の仕方、薬の調達の仕方など解説していく。
ただ、本書の示すような「世界の消え方」にはいくつか条件がある。
つまり、人類は滅亡しても建物とか道路とか文明の利器はしばらくそのままあるということだ。もちろん電気やガスは止まっているが、スーパーには食品がひとまずあるし(散乱しているかもしれないが)、乗り捨てられている乗用車などもある。人類だけがいない。サバイバルのためにはこういう残された文明の再利用からまずは始まるのである。
だから、「ノアの箱舟伝説」のように、大地を大津波が襲っていっさいがっさい流されてしまい、かろうじて高いビルの上にいた人だけが生き残った、とかだとこの条件にはあてはまらない。「地球の長い午後」のように、地球の自転軸にまで影響を与えるような破局も、破滅度がデカすぎてちょっと無理な気もする。「火の鳥未来編」のように核爆弾が世界中で同時多発的に投下されるのも都市が壊滅しすぎてしまい、土壌も汚染されるからダメな気がするし、「風の谷のナウシカ」の「火の七日間」も破壊力が強すぎそうだ。
いっぽうで、少しずつ人口が減って滅亡に瀕するというのも破局の設定としてはよくあるのだが、これも本書にはちょっとあてはまらない気がする。このパターンには貴志祐介の「新世界より」なんかがそうだ。ほかにも「トゥモロー・ワールド」や「世界を変えるに」のように人類に子どもが生まれなくなるというSFもあるが、いずれにせよ人口の減少と同時に都市機能も少しずつシュリンクしていくはずなので、あちこちに残る文明の残骸を再利用を試みるには、すでにもう撤去されてなかったり、仮に放置されていたとしても建材や道路の劣化がひどすぎ、時間が経ちすぎているとみるべきだろう。
したがって本書の設定する大破局はわりと条件が狭い。あてはまるとすれば、謎の病原菌が蔓延し、速攻で人がバタバタ死んでいった中、幸運にも隔離された環境にいた人が生き残ったというパターンだ。「復活の日」や「渚にて」などの設定だ(「渚にて」は最後全滅してしまうが)。また、一見全然違うようでいて案外似ているなと思ったのは「火星の人」(映画名は「オデッセイ」)である。
つまり、普遍的なサバイバルというか文明の再建を解説する体でありながら、これが成立する条件というのはわりと狭く、その裏側には何か物語がーー「復活の日」や「渚にて」や「火星の人」のようなこういう破局条件に導かれるようなSF的な物語がそこにはあるはずなのである。その破局に至る物語は読者各自の想像にすべて委ねてしまい、ただクールに文明を再興させる方法を解説するという、なかなか高度なテクニックを用いたこれはSF小説なのである。それは「復活の日」にて南極大陸から戻ってきたあなたかもしれないし、「渚にて」でなぜか耐性を身につけたあなたかもしれないし、「火星の人」のように、人類全員が別の星に逃亡したのになぜか地球にひとりおきざりされたあなたかもしれない。その設定はすべてあなたの好みである。なんとわくわくする読み物ではないか。
時砂の王(ネタバレなし)
小川一水
早川書房
卑弥呼がからむSFである。ネタバレは避けるので、単に卑弥呼という存在について思うことを書く。
ぼくは、邪馬台国の所在地は九州説で馴染んできた人で、いまでも邪馬台国は九州という位置感覚で脳がセットアップされている。なので、この小説のようになんの説明もなく畿内説を前提でお話をつくられてしまうと一瞬頭の切り替えに時間がかかる。もう条件反射的に邪馬台国=九州で身に沁みついてしまっているのである。(鯨統一郎の「邪馬台国=岩手県説」は面白いとおもったが)
また、僕は卑弥呼という存在を必ずしも神格視していなかったりする。確かに卑弥呼は日本史の中で最初に登場する固有名詞をもった人物ということで、わが日本ではスーパーヒロイン級の存在だが、僕の最初の卑弥呼像はなにしろ小学生の時に読んだ手塚治虫の火の鳥「黎明編」だったのだ。ここに出てくる卑弥呼は、とんでもなく傲慢で残忍な悪女なのである。だから僕にとって卑弥呼というのは暴君ネロみたいなイメージができあがってしまっている。ついでに加えると「黎明編」では、実際に政治を行ったとされる卑弥呼の「弟」なる人物が賢者として描かれている。一方でこちらの小説では「弟」にあたる男はそうとうゲス野郎として登場するので、ここでもアタマの切り替えが必要だ。ちなみに火の鳥「黎明編」の邪馬台国は九州説をとっている。
要はこういうことだ。たまたま魏志の中に固有名詞の名前付で登場した人物、しかも女性ということで、日本最初の女王としてまつられているものの、僕的には単にローカルな首長でしかなかったのではないかと邪推しているのである。「卑弥呼」という名前も、そもそも魏志倭人伝に出てくる敵国の王の名前のほうは卑弥弓呼(ヒミヒコ)と記されていて、つまりは卑弥呼=女性の王、卑弥弓呼=男性の王、という便宜上の記号でしかなさそうだななどという気がする。せいぜい役職名といったところではないか。
卑弥呼および邪馬台国については百人が百人の意見を持っている様相だ。それこそが邪馬台国が擁するロマンそのものであろう。そんなわけで卑弥呼という人物像、および邪馬台国に、ぼくのようにある種の固定観念ができている人は、いったん更地にしてからこの小説にあたるべし。
こちらの卑弥呼は、健気で殊勝で頭脳明晰、しかもなにやらいじらしいキャラである。「火の鳥黎明編」の悪女ぶりはどこにも見られない。そんな彼女が、未来からやってきた屈強な男(?)と共闘し、人類存亡をかけた戦いをする。まるで戦闘美少女ものSFのようだが、時間遡行ものとしてタイムパラドックスも駆使した面白いプロットでストーリーは進行する。はじめて読む邪馬台国ものがこれだったら、僕の先入観もまったく変わっていただろう。
まあ、卑弥呼がどんな人物だったのかはさておき、彼女のDNAが現代日本人の誰かにちゃんと残っているのかもしれないと思うと、それはそれでなんとも夢ふくらむ話だ。現代日本人の血脈とつながっているのか、歴史のどこかで途絶えてしまった種族なのかももはやわからないが、日本人のルーツをDNA解析すると3種類に帰結するという話をきいたことがあるし、卑弥呼のDNAを継ぐ人物が今もそのあたりを歩いているとすれば、やはり日本の歴史に登場する最初の人物名として、言わばアウストラロピテクスの「ルーシー」のように、リスペクトの目を持たないといかんななどとこの小説を読んで思ったのだった。
わたしを離さないで
著:カズオ・イシグロ 訳:土屋政雄
早川書房
タイミングを逃し、ついつい先延ばしにしていて今頃読んだ次第である。
先延ばしにしていたのは、これだけ文学界で称賛されていて、ドラマにも映画にもなって、自分が読んでみて面白くなかったら、途中で苦痛になったらどうしよう、という気持ちもあったし、その結果の、オレの自称本好きなんてしょせんそんなものかも、という怖さみたいなものもあった。いくら傑作といっても海外文学は人を選ぶし、しかも作者は日本生まれだから、シンクロできなければと思うとプレッシャーでもある。
もう一つ理由があって、この「わたしを離さないで」がどういうジャンルというか、どういう先入観で読んでよい本だかよくわからなかったのである。
といって事前にネタバレしてほしいわけではもちろんないし、むしろ先入観なしに読むことこそ最良の読書ともいえるが、実は我々は本を読むにあたってはなんらかの読むにあたっての物差し、というか姿勢みたいなものがあって、それを軸にしながら、あるときは予想通り、あるときは予想外を楽しむ、というところがあると思う。その物差しというのは巷の評判もあれば、作者のブランドもあれば、出版社から想像するものもある。本の表紙デザイン、裏表紙のあらすじ、腰帯の推薦文、こういったものが読書前の物差しとなる。「あの人が薦めてきた」というのだって物差しになる。
が、この作品に限っては、どうにも正体をつかめなかった。文庫本の裏に書かれるようなあらすじを見る限りでは、なんだか晦渋な印象を受けるし、しかし出版社が早川書房というのも面食らう。SFなの? でも青背ではないからむしろミステリー? イギリスで権威ある賞を受賞したというが、その賞の正体も僕はよく知らない。
さらに村上春樹などと違って、「カズオ・イシグロ」はミステリアスなブランドだ。NHK教育で突如フォーカスされ、日本にその存在が知られた。ピアニストの「フジコ・ヘミング」とまったく同じパターンである。
実は、イギリス文学界ではすでに名を知られており、早川書房から何冊も翻訳が出ている。とはいえ、日本での普及は、この「私を離さないで」が契機になったのは想像に難くない。こういう登場の仕方は、本好きになってへんなプレッシャーになってしまうのである。
つまり、僕にとってずいぶん敷居の高い本になっていたのである。
で、ようやく読んだのであるが。
面白い。
十分に面白い。こんなに寝かしておく必要なかったというくらい。(なお、映画版もTVドラマ版もウェブサイトはいきなりネタバレしているので気をつけられたし)
まず、エンターテイメントとして面白い。誰もこれを言ってくれないから、現代英文学か、と身構えてしまったのだが、いったい次はどうなる? という展開の面白さがある。
かといって、軽薄なエンタメではない。「提供者」「介護人」「回復センター」「展示会」などと意味ありげな名詞が次々出てくるところは「1984年」を彷彿させ、妙な管理社会を想像させるシリアスさが不気味である。
また、イギリス地方の様々な地形・地勢が描写され、建物の構造などもよく記述されていて、それが一人称で語られて少しずつ物語世界の全貌があらわになっていくところは「嵐が丘」を思い出させる。ジブリで映画化された児童文学「思い出のマーニー」も地形的配置の妙が物語の舞台を演出する上でかなりの効果を上げていたし、イギリス特有のこういうのがあるのだろうか。
イギリスらしさの反面、主人公である私―キャシーの心理のうつりかわりが執拗なまでに描かれ、それが作品全体のスリリングさを形成しているあたりは、作者が英国に帰化したとはいえ、やはり私小説のDNAを持つ日本人ならではないかとも思うのである。そのへんのハイブリッドが、この作品を類例のないものとしたのだろうか。
ところで、これはやはりSFなんだろうか。道具立てとしてSFといえなくもない。しかしそれは、全然中身は違うけれど安部公房の「砂の女」はSFだ、というくらいのものである。
もちろん、純文学としてみてもよさそうだが、純文学というには、周到すぎるようにも思う。計算されつくされているというか、超絶技巧小説とさえ言える。次々現れる断片的な情報から、全体を推理し、予想しながら読む推理小説的楽しさもあり、これもまた「嵐が丘」を彷彿とさせる。「嵐が丘」も純愛文学ともいえるし、サスペンスともいえるし、寓話とも福音とも叙述トリックとも言える、一言ですませられない複雑な面をもっている。
というわけで「私を離さないで」はじゅうぶん楽しめた。懸案の「積ん読」がひとつ解消されてほっとしたのもまた真実。
know (ぼやかしているようでけっこうネタバレ)
野崎まど
早川書房
Kindleで人気上位のSF小説をたどっていったら、これがまだ未読だったので読んでみた。
ラノベの雰囲気が漂うというか、いささかギミックやキャラの立ち振る舞いがオタっぽいのだが、タイトルが示すように、「情報を知ること」がこの小説のテーマだ。
インターネットは何をもたらしたかというと、情報の遍在化する社会をつくりあげた。全く偏りのない完璧な遍在ではないが、インターネット普及以前にくらべると、我々ははるかに情報へのアクセスが容易な社会にいると言えるだろう。
情報の偏在化、つまりフラット化された社会は一種のユートピアとされる。世の中のすべての情報(過去に蓄積された情報も含む)へのアクセスを目標とするGoogleの理念は、この人間が住む地球を、あたかも情報で生成された球体の星につくりかえようというものでもある。言わば惑星ソラリスにしてしまおうという野心だ。(しかも一営利企業がである)
しかし、いっぽうで人間社会というのは、支配と被支配を生じさせる力学がある。そして、権力者は情報を独占しようとする。また、弱者であればあるほど、その人の情報は守られなくなる。
つまり、インターネットは、万人の情報アクセスを容易にしたにもかかわらず、おおむね組織というもののは、むしろ「どの階層にはどこまでの情報をオープンにするか」をまず考えてしまう。あなたの会社もそうでしょう。
イントラネットを導入しているような大きな会社ともなると、役員は社員のプロフィールを、それこそ出身大学から親の職業まで閲覧することができるが、平社員にはそんな権限などない。ネットワーク技術としては簡単にできるのにむしろ制限をかけるのだ。
要するに「情報の非対称性」というものが発生し、これを利用しようとする者があらわれるのである。情報がオープンになりやすい環境になればなるほど支配者側は情報の独占に走ろうとする。
この小説「know」の舞台は未来の京都で、そこは超IoTの社会になっている。
そしてこの社会は、どこまでも「情報の非対称性」が武器になる世界である。情報を知らないもの<情報を知るもの<もっと情報を知るもの<もっともっと情報を知るもの、と格差がある。
その頂点的存在として、究極の全情報アクセス可能者が出てくる。
「究極の全情報アクセス権者」ともなるとどんなことまでできてしまうのかは、なかなかすさまじい。ちょっとネタバレすると、なんと未来がわかってしまうのだ。すべての情報にアクセスできるということは、それは一般人の常識や脳の処理能力とはかけ離れた情報量が頭に入ってくることになる。「究極の全情報アクセス権者」はそれらの桁違い情報量を処理できるまでに脳が鍛えられており、その膨大な情報から論理的導出ができる。目の前を飛ぶ蝶の羽ばたきを見れば、そこから遠い外国で竜巻が起こるまでのロジックを完璧に予測できてしまう。何時何分にどこでどの程度の竜巻ができるかを完璧にあてることができる。いわば世界中の回線につながった超スーパーコンピュータ人間みたいなものである。
いわばラプラスの魔を克服したような、そんな究極の全情報アクセス権者を頂点に、何階層かの情報取得制限者が登場し、最下層、つまりほぼすべての情報が筒抜けなのに自分はなんの情報もとれない属性の者まで出てきて、この格差は完全に「情報の非対称性」による支配被支配の社会となって現れる。
オープン化とかフラット化とかいろいろ言われているが、情報の非対称性によりかかって自分の立場を有利にしようという姿勢は、言わばマウントをとるようなもので、人間の生存本能的な性かもしれない。
この小説は、そんな究極の全情報アクセス権者が、この地球上の全情報をすべて脳に蓄えてしまった後の相転移がクライマックスとなり、それはそれで面白いのだが、実はこの全情報アクセス権者は、いっぽうで情報アクセス最下層者でもあった、という設定になっている。この設定、本小説のプロットしては特に活かしているわけでもないが、実はこの部分もさらに深堀すれば、フラット化VS情報独占というイデオロギー対決みたいになって、それはそれで面白いことになったに違いないとも思った次第である。
あなたのための物語
長谷敏司
早川書房
SFをいくつか読んだためか、Amazonからしきりに薦めてくるので読んでみることにした。
そうしたら、けっこう圧倒されてしまった。
この作品は2080年代のシアトルが舞台だ。AIにまつわるニューロネットワークの企業に勤める有能な女性科学技術者サマンサ・ウォーカーが主人公である。この企業「ニューロロジック」は、学生時代にサマンサがパートナーと開発した技術をもとにおこしたもので、いまや世界的大成功を収めている。そんな金銭的にも栄誉的にも絶頂にある35才の彼女に、ある日突然、あなたは余命いくばくもない病気にあるということを宣告される。
彼女は、持ち前の知識と技術と資産と執念で、なんとかこの忍び寄る死に抵抗する。
この作品、主人公の死から始まる。
孤独の中で、苦しみにのたうちまわって死ぬここの箇所の描写に、美しいところはまったくない。死とは本来醜悪なものであり、忌み嫌われたものだということをいきなり突きつけてくる。
そこから、時間がさかのぼって、死の宣告から本章として本格的にスタートする。
つまり、読者からすれば、けっきょく死ぬことがわかっているのだ。サマンサの様々な試みはすべてムダになることがわかっているという、この倒錯的カタルシスがこの作品の特徴である。
舞台や道具立てからすれば、ハリウッド映画にでもなりそうだが、この、どんなに悪あがきしてもそれでも死んじゃうんだよ、という突き放した感じが無常観というか、やはり日本人の作品のようにも思える。
とにかくこの作品は徹底的に「死」とむかいあう。
死に対して悪あがきするサマンサは孤独である。そんなサマンサに連れ添っているのが、AIである「Wanna Be」だ。
このAIは、「人工的なニューロモデルに物語をつくることができるか」ということを検証するためのプロジェクトとして、サマンサ自身のチームによって開発されたものである。しかしプロジェクトは中止され、メンバーは解散し、{Wanna Be」はひとり研究室に取り残された。サマンサと一緒に。
大事なのは彼が「物語」をつくるAIということだ。
「Wanna Be」はなかなかサマンサを納得させる「物語」をつくれない。いかに世界中の文学をデータベースにしても、食い足りない小説ばかりを生産してしまう。
つまり、「物語」は人間としての「原体験」がなければつくることができない。
では、人間としての原体験とは何か。
それが「死」なのであった。
人間は死ぬ。必ず死ぬ。そのことを人間は知ってしまう。そこから生きているという概念が生まれる。制約された時間という概念が生まれる。大事な人との永遠の別れという見立てが生まれる。なぜ生きているのかという意味を探したくなる。なぜ死なねばならないのかの意味を探りたくなる。死んだあとはどうなるのかを探りたくなる。
「死」に意味をつくり、「生」に意味をつくる。人生に意味をつくる。
ここから物語が生まれる。
「物語」をつくる力、「物語」を信じる力、「物語」にゆだねる力こそが、「人はいつか死ぬ」という、発達した知性のためにそのことを知ってしまった人間が、その恐怖からの適応能力として身につけた方法論だった。動物は「自分はいつか死ぬ」という概念はおそらく持っていない。
この作品は、どこまでも技術進化しようと、生物である以上いつかは「死」にむきあうことを宿命づけられた人間にとって、物語こそが、人間が生きていくためのOSであったというところに行き着く。
ハードウェアとしての人間は、動物と同じであり、その「死」は、この作品冒頭にあったように、のたうちまわって絶命するものでしかない。
肉体的には死ぬことが冒頭から明らかになっていたサマンサが、思想的に死を受けられるのか、物語に身をゆだねられるのかは、最後の最後まで読んでみないとわからない。
キューブラー・ロスの「死の受容プロセス」のように、とにかく現実を否定し、現実に怒り、この現実を覆すべくありとあらゆる取引を試みるも絶望し、本書の9割を読み進めてもまだ受容に至らないが、どこにどう着地するかは、この作品のクライマックスでもあるので、がんばって最後まで読み進められたし。
また、生に執着するサマンサを目の当たりにする物語生成AI「Wanna Be」が、そこから何を学ぶかも要注目である。
アイの物語
山本宏
角川書店
やべえ。すげえ感動してしまった。
最近、AIやシンギラリティへの関心が急に出てきて、その手のノンフィクションや小説をいくつか読んでいて、その流れで本書の存在も知って手にしたのだが、なんと気づくのが遅かったことか。
刊行されたのが2006年というから、もう10年前の作品で、いろんな賞の候補になったりもしていたらしいのだが、浅学にして今の今まで本作品を知らなかったのである。
シンギラリティでいうと、高度に発達して自分で思考するようになったAIが、やがて人間という論理と倫理が安定しない存在とは相容れなくなり、遂には人間の駆逐に乗り出す、という古典的なテーマがある。
これは、お話という意味では非常にドラマチックでサスペンスであり、この手の話は良作が多いのだが、しかし21世紀も20年目が近づく今日この頃の情勢をみると、どうやら油断できない時代になりつつある。囲碁AIのアルファ碁が、人智を超えた指し手を展開して、人間の名人を完膚なきまで圧勝するようになってくると、SFとして面白がっているわけにもいかなくなってくるわけだ。
高度化していくAIを我々は怖さ半分で見守るようになりつつある。
しかし、なぜ人間は、高度に自律化したAIを怖がるのか。この恐怖の正体はなにか。
一方、怖がられる対象となっているAIは、そのとき自律した回路の中で何を思考しているのか。敵愾心をもつ人間というものを、AIはどう認識していくのか。
このあたりを面白い想像力とストーリーテーリングで読ませるのが本小説である。
最初は、ライトノベルのような、カリカチュアされたちょっといい話みたいなのがいくつか出てきて、なんだろうなと思った。SFにしては手ぬるいというか、ステレオタイプというかで、ちょっと拍子抜けした。
だが、ぜんぶ伏線で、そのプロセスがなければ、この物語全体の味わいはできないようになっている。後半の2つの物語の世界観や描写は圧倒される。
ネタバレはしないようにするが、ぼくがこの小説から感じ取ったのは「幸福論」であった。
まさか人間とAIの相克から「幸福論」が浮上するとは。
幸福論の極意は「あるがままを受け入れるときに初めて幸福になれる」ということである。
つまり、異質なものを排除せず、矯正もせず、異質は異質として受け入れることが幸福への道だ。無いものを欠乏や欠落としてうけとらず、「無い」なら「無い」でそれを「良し」とする態度である。不完全なら不完全でそれもまたよしとする受容の態度だ。理屈にあわない、理解できない、納得できない。でもそれはそれとしてまあいいよ、という姿勢だ。これができる人が「幸福」になれる。
これを日本語で「赦す」という。
「許す」ではなくて、「赦す」である。この2つの「ゆるす」はかなり意味あいが違う。
人によって解説が異なるのだが、ぼくに言わせれば「許す」というのは、「本来は許容できないものを、許容できるとみなす。」ということである。だからこの場合、許容する自分はぐっと「我慢」する必要がある。
それに対し、「赦す」は「許容できないものを許容できないものとしたうえで、しかし受け入れる」という態度である。ここでは自分は「我慢」していない。受け入れることを是として疑わない。
だから、相手の行為を自分は許すことはできないが、しかし相手を拒否はしない。赦す。ということがありうる。「許さないけれど、赦す」という言い方ができる。
相手のことであれ、自分にふりかかる運命であれ、この「赦す」ことこそが、幸福になる必要条件というのが多くの幸福論が唱える共通項だ。
というわけで、この物語は、人間とAIの「赦し」をめぐる物語である。なお、本小説では、この「赦し」に関わる重要素として「フィクション」の価値というものが通底されているが、ここでは取り上げないでおく。
人間とAIという、本質的に異なるものをどう赦すのか。人間はAIを赦せるのか。AIは人間をどう赦すのか。
人間は、AIは、この世界にどういう幸福を願っていたのか。AIの語るセリフは胸を打つ。
AIが語る「この事実はたぶん、これからずっと私たちの原罪となってのしかかってくる。」
そして
AIが語る「あなたは、断じて『たかが』じゃなかった。」
著:ジェイン・ロジャーズ 訳:佐田千織
早川書房
なんか悲惨な話だったな、これ。アーサー・C・クラーク賞を受賞し、SFではあるがわりと純文学っぽい命題を持っているように思う。
MDSという「妊娠すると100%死亡する伝染病」が世界中にまん延したあとの話である。これはすなわち、子どもが生まれない世界ということになる。そこで16歳の少女がとった行動は・・というのがこの小説だ。
この小説の主題は、16歳の少女による、上の世代への闘争と未来の世代への責任感だ。
SEALDsの登場は、多くの大人たちが嘲笑った。同年代の若者も大多数は冷ややかにみていたように思う。
だけれど、今の社会をめぐる閉塞感は、ようするにこの小説のようなことなんだと思う。ここに出てくるMDSという病気は架空のものだが、上の世代がお構いなしにいろいろなことをやりまっくたり収奪してきたことのしわ寄せが次の世代にきたとき、その新世代ができること、上の世代に抵抗をみせることは、決して笑う見世物ではないはずだ。
一方で、僕も人の親であり、自分の子どもが、このようなものだったり、カルトにはまっていくとしたら、やはりどんな手段をとってでもやめさせようとするだろう。主人公の少女の選択と行動は、理解できる気もするし、いっぽうで若気の至りというのもわかるほどわかるから、だからこそ両親の絶望感もまた感情移入できる。
この小説、途中いろいろなエピソードがあってずいぶんだれてしまうのが難なのだけれど、この一人称小説の意味するところは最後になって明らかになる。最後まで読めば、だからこんな中だるみもものともせず書いているのかとわかる。
いろいろ考えさせるし、スカッとするものでもない。重たい読後感がある。
あまり話題にならず、増刷もなかったようだが、今の日本ならば読んでみる価値があるかもしれない。
なお、訳者あとがきは壮大にネタバレしているので気を付けたし。
ハローサマー・グッドバイ (ネタバレしません!)
著:マイケル・コーニイ 訳:山岸真
河出書房新社
オチがスゴいSFといえば有名なのは「猿の惑星」だ。有名過ぎて、映画を観たことなくてもラストは知ってるという人のほうが多そうな勢いだ。もっとも、これは本人にとっても作品にとっても不幸なことかもしれない。僕は幸いにもオチを知らずに映画を見ることができてものすごいカタルシスを得ることができた。
本作も「オチのすごさ」が有名である。Amazonのレビューをみたら、ほぼみんなそこに触れている。たしかにそう来たか! というものであるが、レビューの中にはネタバレしてしまっているものもあったり、ヒントをほのめかしているものも多かったので、本書未読の方は気をつけられたし。
もっとも本作はオチだけの一発狙いでもないのであって、SFでもあり、青春小説でもある。SFと青春というのは一見そぐわない気もするが、うまくプロットがしてあり、SFの舞台設定のなかでしっかり青春している。この青春がいかにも往年の海外小説という感じで、今となってはセピア的な感じもしてなかなかこっぱずかしいのだが、このベタでピュアな思春期のひと夏に読者を誘っておいて、いつのまにか伏線を張り巡らせているという、じつはミステリー小説としてもよくできている。
本作、SFファンの間では長いこと知られた作品だったらしい。ただし日本では翻訳本がずいぶん前に絶版になり、幻の作品になっていたとのこと。それが8年前に河出文庫で復刻したということである。
そういう意味では、復刻されて8年が経っているわけで(続編も翻訳刊行された)、なぜそんな本を今さら手にしたかというと、施川ユウキの読書マンガ「バーナード嬢曰く。」で紹介されていて興味を持ったからである。
このマンガ、読者好きのインサイトをよくとらえられていて抱腹絶倒なのだが、このマンガに登場するSFマニアの女子高生が、SFビギナーのヒロインに本作を勧める。その薦め文句が「おもしろくて読みやすくてかつ 読んだら読書家ぶれるから読め!」というものであった。これは読まねばなるまい。
ちなみにAmazonの「この本を買った方はこんな商品も買ってます」でしっかり「ハローサマー・グッドバイ」が出てきたので、僕以外に買ったヒトがいたことになる。おそるべし「バーナード嬢曰く。」