読書の記録

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我が心のジェニファー

2024年04月25日 | 小説・文芸
我が心のジェニファー
 
浅田次郎
小学館
 
 
 だいぶ以前のことだが、飛行機の車内に備え付けの機内誌を読んでいたら浅田次郎のエッセーが載っていた。
 浅田次郎は自他ともにみとめる「スパーマン」だそうだ。スーパーマンではない。スパーマンである。
 
 スパとは温泉のこと。氏は大の温泉好き、温泉の求道者なのだった。
 
 スパーマン足る者、1泊2日の宿泊で7回温泉に入るという! どうやったら7回も入ることができるのか。
 まずチェックイン早々に入る。温泉旅館のチェックインは15時頃が多い。早めの時間に投宿し、部屋に通されたらお茶菓子など目もくれず、まずは風呂に行くわけだ。露天風呂などは明るいうちに様子をみないと、暗くなってからでは景色がわからない。何種類も湯船がある宿なら全部試して、自分の好みを見つける。そして風呂から上がったら、部屋でごろごろするなり近所を散歩するなりして時間をつぶす。
 そして夕飯前にもう一度入ってあったまっておく。夕飯は18時とか19時であることが多いので、風呂から上がったらすぐに食事だ。風呂上がりだからビールや冷酒が飲みたくなる。
 旅館の食事は量が多い。腹がくちくなったところで食後にまた入る。満腹時の入浴は気持ちいいものである。旅館ならば部屋にあがるとだいたい布団が敷いてあるが、まだまだ夜は長いので、部屋で飲んだりあるいはテレビなど見たりして過ごす。で、寝る前にもう一度入る。この時間は空いていることが多い。男女入れ替えになっていることもある。
 そして気持ちよく寝るわけだが、普段と違う場所、普段と違う枕、普段と違う気配であるから、寝つきはそんなに深くなくてだいたい夜中に目が覚める。お酒を飲んだ後でもあるし、乾燥していて喉が渇いて目が覚めることもある。で、この夜中にまた風呂にいく。深夜の風呂はだいたい貸し切りである。露天風呂も独り占めできる。
 翌朝、目が覚めたら朝食の前にもう一度行く。朝風呂は気持ちよいものである。露天風呂などは朝日が斜めに入り込んでくるから眩しい。これで目も覚めてくる。
 朝食を済ませるとチェックアウトまでもう1時間あるかないかであることが多い。部屋の片づけなどはじめるが、最後にもう一度さっと温泉に入る。このときに浴衣から普段着に戻ったりする。そしていよいよチェックアウトだ。
 
 これで都合7回である。
 
 浅田次郎のエッセイにこんなくどくど7回の内訳内容が書いてあるわけではない。ではなぜ僕がここまで克明に描写できるかというと、なにを隠そう僕(と妻)も温泉宿に行ったら7回入るからである。なんと! 我々はスパーマンだったのだ! と、このエッセイを読んだときは隣席にいた妻と盛り上がったのだった。
 
 しかし、これをして「スパーマン」という用語を編み出すとはさすが手練れの作家である。このあまりにも出来過ぎなネーミングに、機内誌のエッセーなんかに一度出すだけはもったいなさすぎると思って「浅田次郎 スパーマン」で検索をかけたら、この小説がヒットした。やはり当人も「スパーマン」は気に入っているのだろう。
 
 
 この小説は、日本軍と戦った軍人の祖父を持つアメリカ人男性が、日本通のフィアンセの薦めで日本を一人旅し、日本のあれこれに驚き関心し感銘を受ける、という内容だ。刊行されたのが2015年というから、ちょうど中国人インバウンドの爆買いとかが話題になったころである。
 
 作者は外国人が日本旅行で驚き喜ぶポイントをよく調べている。あまりにも狭すぎるビジネスホテルがやがて母の胎内に回帰するかのような安寧の錯覚を与えるとか、繊細ではあるけれどボリュームに欠ける日本食に物足りなさを覚えていたところにお好み焼きと串揚げで大満足するとか、我々日本人には何も感じるところがない東京の大地下街の迷宮に大興奮するとか、どうみても雑魚にしか見えなかったホッケの開きを焼いたのを食べて開眼するとか、超高頻度に発着する新幹線の正確性に驚愕するとか、今日外国人旅行者が喜々としてSNSにとりあげているネタをしっかり先取りしている。アメリカ人になりたい女性が登場するのもなかなか皮肉が効いている。
 
 日本のインバウンド隆盛が本格化したのは2010年代中頃だったが、当初において外国人観光客を受け入れる日本側は、外国人にウケるのはどうせ富士山に桜に寺社仏閣、思慮深い西洋人にはヒロシマナガサキ、と定番をおさえて、刺身、天ぷら、寿司、すき焼きを定食のようなつもりで出せばよいと考えていたように思う。東京(TDL付)ー富士山ー京都ー大阪のルートなんかはゴールデンルートなんて称していた。
 
 しかし。蓋を開けてみれば、意外にもインバウンド客はかなりニッチな地域やサブカルなコンテンツまで分け入っていく。京都の大混雑は社会問題化しつつあるが、洛内だけでなくけっこう奥京都のマイナーな寺でも外国人の姿を見かける。内陸の地方都市に行くと季節を問わず外国語を話す小グループに出会う。観光施設でもなんでもない商店街や小路、なんてことない山里や川べりに一人たたずむ外国人旅行者を見かけることも珍しくはなくなってきた。
 2003年にソフィア・コッポラ監督の映画「ロスト・イン・トランスレーション」が公開されたときは、日本のあまりの異文化具合と日本語のちんぷんかんぷんに途方にくれる主人公ボブ・ハリスがとにかく印象的だったのだが、そこから20年もたてば、日本は攻略しがいのあるめくるめくワンダーランドとして世界の人気観光国になってしまったのだった。さすがにここまで定番旅行先になるとは我が心のジェニファーも想像できなかったに違いない。
 
 で、肝心のスパーマンだが、この小説では別府温泉にて登場する。街全体が湯煙っぽいこの地はたしかに外国人にとって魔境みたいなところであろう。グリーンミシュランでも三つ星をとっている。この地で、主人公は一人のオーストラリア人に出会う。彼こそが20年日本の温泉をさまようスパーマンだ。坊主頭で作務衣姿の彼はこの小説に登場する人物の中でもっとも浮世離れしているが、彼の口から語られる温泉の美学と哲学は、まんま作者浅田次郎の持論なのだろう。温泉を愛するメンタリティの秘訣が、西洋倫理に苛まされる主人公に解脱のヒントを与える。物見遊山のSeeingでも、異文化のExperienceでもなく、裸で老若男女と自然の恵みの中で一体化して感知するそのMindfulnessこそが、極東の地日本で得られる醍醐味なのであった。
 よく、インドを旅すると人生観変わるというが、連中からすれば日本旅行はけっこう人生観を揺るがす可能性を秘めているのかもしれない。日本政府観光局もそこらへん意識してディスティネーション開発をしてみてはいかがだろうか。温泉は7回入って初めて目の前に新たな地平が開けるのである!

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