読書の記録

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なぜ働いていると本が読めなくなるのか

2024年04月27日 | 社会学・現代文化
なぜ働いていると本が読めなくなるのか
 
三宅香帆
集英社新書
 
 
 すごいタイトルの本だ。
 
 内容は、日本の「読書史」と「労働史」を俯瞰することで、「忙しくて本が読めない」という現代社会の問題意識からなにが導き出されるかを考察するという極めてユニークに富むもの。日本最初のベストセラー自己啓発書は明治時代に刊行された中村正直の「西国立志編」であったとか、70年代のサラリーマンはみんな司馬遼太郎の文庫本を通勤電車で読んでいたとか、さくらももこのエッセイは初めて老若男女全員が楽しめる女流エッセイだったとか、村上龍の「13才のハローワーク」が与えた功罪はなにか、とかいちいち愉快だ。
 
 本書によると昔から日本は長時間労働だったそうだ。では、なぜ現代は読書時間がないのか。そりゃスマホが登場したらからさ、と言いたいところだけど、それでは考察は先に進まない。真のミステリーは「スマホなら読めるのに、なぜ本を読むのはこんなに億劫になってしまったのか」である。本書は菅田将暉と有村架純のW主演映画「花束みたいな恋をした」を引き合いに、主人公の麦くんが、大学生時代は小説が大好きだったのに、就職して働きだすとパズドラくらいしかやる気がなくなってしまったり、たまに本屋に行くと前田雄二の「人生の勝算」なんて自己啓発本を広げちゃうこの心変わりはなぜなのか、に迫る。
 
 本書によれば、明治から昭和にかけては「教養」の有無がステイタスの向上や会社の出世に影響すると信じられた時代があったということである。「教養」とは「自分の知らないこと、思いもよらなかっとことに出くわす」ことで得られるものであり、それには読書が王道であった。
 ところが、平成から令和になるにしたがって、教養を得るという行為はいまの自分を強くするにはあまりにも余計な情報が多い、もっとダイレクトに「これだけやっておけ」と端的に示してくれる「情報」が求められるようになった(そういや「ハウツー本」という言い方がありましたな)。「ファスト教養」や「倍速で動画をみる」時代において、役に立つのか立たないのかわからない高邁な話をだらだらと摂取する行為は極めて能率が悪いのである。だいたい昭和と令和では、人が朝起きてから夜寝るまでに耳目を通じて脳内に入ってくる情報量が桁違いの差なのであって、昭和のようなパフォーマンスで情報をいれている暇はない、とも言えるだろう。しかもスマホは「自分の知りたい情報だけ」を手短に示してくれるのだ。いちどこのノーストレスな情報摂取の快感を脳が覚えてしまうと、冗長性の高い読書は脳にとって苦痛になる。
 ちなみに先日飲んだ出版社の人によると、今の若い人はもう司馬遼太郎のあの何巻もある歴史小説は読めないそうだ。いったん読みはじめてしまえば面白くて没入する若者も一定数は出るだろう、それくらいの筆力はある小説だが、そもそも同年代で周囲の評判もなく共通の会話にもならない全8巻の小説をよむモチベーションを今の若者に期待するのは無理である、と諦めたような顔で言っていた。
 
 よって最近の自己啓発書は、余計なこと(ノイズ)がいっさいなく、端的な内容にスリム化され、ずばりこれをやれと「行動」を指針することで支持を得ていると著者も指摘する。教養を期待する昔の小説や思想本のように行間を読んだり考察を強いたり前提となる知識を求めず、これをやりなさい、はい行ってらっしゃい! と言い切るそのスピード感と脳への軽負担が、現代の自己啓発書なのだ。街角の占い師みたいである。
 
 
 余計な情報だらけの教養本より、ずばっとやるべきことを言ってくれる自己啓発本のほうがタイムパフォーマンスがよく、脳の負担が少なく、そちらにいってしまうというのは理解できる。
 でも、これでは、なぜ「パズドラ」はできるのに「読書」はできないのか、の回答としてはまだ半分だ。パズドラにはそもそも「速攻で役に立つ情報」さえ皆無のコンテンツである。
 
 
 ここからは書物の内容ではなく、そもそも読書という行為が、という話になっていく。なぜ「パズドラ」しかできないのか。
 
 著者はそれは「働き過ぎて脳が疲れちゃっているからだ」と言う。
 昔の日本も長時間労働だったが、今日の労働は、新自由主義時代の働き方として自己責任の負担が大きすぎて、多大な消耗を心身に与え、本を読む気力も残さない、現代は新しい情報を吸収する余力もおきないほどに疲れちゃう社会構造なのだ、と看破している。裏を返すと、昔も長時間労働だったが、もう少し全体的にみんないいかげんで、未来への希望もあり、そこまで脳味噌を酷使しなくて済んだということになる。新自由主義は、外からの圧力ではなく、内側から自分自身を追い込むからくりを持つとは著者の指摘である。
 なるほど、自分探しも自己実現も、直接他人が指示しているのではなく、自分の中で勝手にふくれあがったプレッシャーだ、と言われてしまえばそれはそうだ。
 というわけで実際に手足は動かしてなくても、頭の中から仕事やこれからの人生のことが離れない。とてもそこで脳味噌の別の回路を動かして本なんぞ読む気力はない。
 一方でパズドラは脳味噌を空っぽにして瞳孔を開きっぱなしにしてもできる。むしろ過労な身体に接種することでドーパミンが出て脳味噌に快感を与えるという意味で、ストロング系チューハイと同じポジションなのかもしれない。
 
 現代社会は「本も読めない社会」なのである。なんというディストピアだろうか。
 
 著者としては、そういう社会に座して屈してはならない。全身全霊を仕事(というかひとつの文脈)に預けるのは、健康によくない(読書もできないような心身に追い込む行為が健康によいわけない)ということで、本書は終章で「仕事は半身でとりくめ」という仕事論・人生論を説く。残りの半身で読書や趣味に身を投ぜよと。
 すなわち、この本「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」は、労働と読書の日本近現代史をたどりながら、最後は「半身のススメ」で終わるのだ。意外なところにつれていかれた感じでいささか面食らった。
 
 面白いことに、前半部分がまさに昭和の読書がそうであったかのように読者に知らなかったであろう事実を様々な文献にあたりながら伝える「知識」ベースの教養的な内容になっているのに対し、後半が令和の読書すなわち余計なノイズ無しにまっしぐらに著者の見立て・感想をぶちあげて「行動」を提言した自己啓発書そのもので、著者は1994年生まれでまだ30才になったばかりというのになかなか手練れている。
 
 
 閑話休題。
 僕は、こんなブログをだらだらと10年以上続けているくらいだから「働いていても本を読めている」わけだが、本書の内容は、自分の肌感として確かにわかる。
 長期的な変化としては、読書をしていても以前のようなピュアな読書ではなくなりつつある、という自覚がある。それこそこのブログで扱った本のジャンルの変遷をみると、最初のころはビジネス本や自己啓発本がほとんど登場しない。経済学や地政学を扱ったような本はたまにあっても、仕事のやりかたとか心の持ちようを指南する本を、僕は意識的に避けてきていた。
 それがいつごろからか「Think CIVITY「礼儀正しさ」こそ最強の生存戦略である」とか「1440分の使い方 成功者たちの時間管理15の秘訣」といった自己啓発本をとりあげるようになったりして、反比例するように芸術や歴史を扱う本の割合が減っていっている。
 それに、本を選ぶ動機が単に面白そうというだけでなく、何かの役に立ちそうという邪念が入ってきていることを否定しない。また、読書に集中できる時間が減ってきている自覚もある。時間を忘れて没頭するということは滅多になくなって、15分も読んでいると一息つきたくなる。
 
 つまり、本書で挙げられている指摘は、たしかに僕自身の変化して実感があるのだ。本は確かに読めているが、では読みたくて読んでいるのか、読まなければならないから読んでいるのかが、読めなくなるのが怖いから読んでいるのかよくわからなくなる一瞬が確かにある。
 
 それだけ心になにか他のものが侵食したのだ、ということだろう。
 ひとつ心当たりあるとすれば、いまの職場で部下付き管理職になったというのは契機だったかもとは思う。
 現場時代のぼくは、そんなに仕事というものが面白いとか大好きとか思ったことはなく、淡々にこなしていった。そして読書に精を出した。
 しかし、人情に弱い性格だったためか、部下持ち管理職になると顧客とか会社とかの前に、部下のことはひどく気にするようになってしまった。出来の悪い部下が他所からやってきて自分のところで再生して成果が出れば嬉しかったし、部下の業績を決める会議では、他の管理職の人との議論に柄にもなくヒートアップする。管理職という仕事はぼくにとって何か火をつけるものだったのだ。

 だけど、本書が指摘するように、それはどこまで頑張れば良いか、を誰も教えてくれない。いつのまにか全身全霊でやってしまい、仕事外の時間でも休日でもどこかで部下のことをあいつは次どうすればいいだろう、などとついつい考えてしまっている。新自由主義の罠にはまっていたのだ。
 ちょっと力を緩めてやらないとこのままバーンアウトの道に進むよ、と本書は警告を出してくれたわけで、うまく「自己啓発」されてしまった次第である。ありがたいというべきか。
 

 それにしてもこの著者、映画「花束みたいな恋をした」がよっぽど心をえぐったようだ。どんだけほだされてんねんと思わず関西弁でツッコみたくなるが、菅田将暉と有村架純の二大きれいどころW主演のいかにもというタイトルにあっさーい内容を想像していた僕もがぜん興味を持ってしまった。こんど観てみよう。

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