読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

そして、バトンは渡された (ネタばれ)

2021年08月15日 | 小説・文芸

そして、バトンは渡された (ネタばれ)

瀬尾まいこ
文芸春秋

 

 2019年の本屋大賞のベストセラーで今更感ありありだが、夏フェアで本屋さんで文庫本が平積みになっていたので読んでみた。

 17年間で7回家族形態が変わった優子が主人公である。3人の父親と2人の母親である。
 順目でみれば、バトンとは優子のことであり、走者はそれぞれの「親」ということになるだろう。基本的には出てくる登場人物はみんな善人ばかりである。その限りでは筋書き通りに読んで、微温的というか、ちょっといい話的なライトな小説ということになる。

 だけれど、複数の登場人物が出てくる一人称小説は、違う登場人物に焦点を当てる読み方をすることでまったく違う味わいを考えることもできる。

 この小説の影の主役、いや真の主題は優子の3番目の父親役となった森宮壮介であろう。この視点、そんなに深読みではないはずだ。

 この小説はほぼ全部を優子の一人語りで占めるが、冒頭のプロローグと、物語の最後のブロックが森宮の一人称になる。ここに森宮が何を考え、何を大事にし、何を覚悟したかが見えてくる。


 まず大きな特徴として、この小説は「食事」がひとつ大事な要素になっている。実父である水戸の生チョコケーキにはじまり、水戸と二番目の母親の梨花との離婚の話を言い渡される手巻き寿司、梨花と二人暮らしでの生活費に事欠いての食事調達(パン屋で配る無料のパンの耳!)、大家さんからわけてもらう野菜、二番目の父親である泉ヶ谷家で出されるちゃんとしているが窮屈な食事。高校時代の優子がひとり学食で食べる親子丼。優子が短大を卒業後に就職した山本食堂。早瀬が理想にするレストラン。彼女の人生において、食事こそは自分の心を安定させ、まっすぐに生きていくための原動力そのものだった。梨花との暮らしが貧乏暇なしであっても、高校のクラスでハブられても、しっかり食べられれば彼女はまず元気だった。イタリアやアメリカに修業(?)に行った早瀬に対して、料理はわたしのほうが上手いと思ったものも、食事が人に与えられる力についての信念が優子のほうが上だったからだ(そしてピアノが人に与える力については早瀬にかなわなかった)。

 しかし、優子が発揮する食の力は、森宮の徹底したこだわりによるところが大きい。その力の入れ具合は明後日の方向にむかうこともあるが、かつ丼をつくり、餃子を焼き続け、オムライスにケチャップで文字をかき、たとえ夕食こ2時間後でも夜食のうどんをつくり、優子はその力の入れ具合にあきれながらも、暖かさと優しさをからだにとりこんでいった。優子本人は否定していても、あきらかに森宮から与えられる食事がつくる優子の元気は形を変えながら発揮している。高校の進路希望で「食べ物関係」の仕事にいきたいとした優子がなぜそう考えたかは多くを語られないが、彼女は食事が人に与えるパワーを知っている。

 ところが、森宮がそもそも料理好きとか世話好きとかいうと、さにあらずなのである。冒頭のエピソードで、彼がこんなに料理をつくるようになったのはまさに優子を預かってからなのだ。彼は8年間でレパートリーを「驚異的」に増やした。この食事への執念は、彼の責任感と覚悟の表れなのである。優子が山本食堂に就職するようになると、わざわざ会社帰りにここで食事をするようにもなる。

 毎日かならず食事があるという安心感だけでなく(梨花との生活)、単に栄養バランスがよいというだけでもなく(泉ヶ谷家での生活)でもなく。毎日の元気と幸せそのものでなければならないというのが森宮のつくる料理だ。だから彼の料理にはメッセージ性があふれている。彼が出す食事は「家族」にしか出せないものばかりだ。(彼自身が幼少期のとき、実家の食事はつまらないものだったと言っている)

 もうひとつ。森宮が覚悟したことが「これ以上だいじな誰かが優子の元を離れるという経験をさせない」ということだった。梨花からこの話を持ち込まれたとき、おそらく森宮は気づいたんだろう。優子が持っているおだやかな優等生感。そこには「親」役の大人に多くを期待しない気持ちがある。ひいては他人に対して冷めた距離感がある(本人は世渡りが上手なほうだと思っているが級友からは世渡り下手と言われる)。優子は人生に不満がない。こんなもんだと思っている。諦観がある。それが他人に対していつも一歩引いた態度をとらせる。
 森宮は優子のその諦観を見抜いたのだろう。森宮は休日にひとりで出かけることもしないし、もちろん彼女もつくらない(つくれない?)。そもそもつくる気がない。梨花から話を持ち込まれたとき、彼が決心して腹をくくったのは、梨花の夫になることではなくて優子の父親になることだった。優子の決めることにほぼなにも反対しなかった森宮が優子の結婚相手の早瀬に反対したのが、彼が優子をひとり置いてイタリアやアメリカに飛び出してしまう風来坊タイプだったからだ。
 結婚の前夜に森宮は優子に言う。「いつでも帰っておいで。俺、引っ越さないし、死なないし、意地悪な継母とも結婚しないから」。 

 最終章の森宮のモノローグで、それが「覚悟」であったことが語られる。実際、彼はこれまでの優子の「親」と比べて、自分の父親としての資格に劣等感があった。血もつながっていない、小さいころも知らない、裕福でもない。彼にあったのは単に責任感と覚悟だけだ。だから、優子の結婚式で、他の「親」たちと会うのは気が重いし、優子とともにバージンロードを歩く役も自分のつもりではなかった。
 ついぞ優子からは「お父さん」と呼んでもらえず「森宮さん」だったのに、結婚式にて実父を前にして幼少期から何年もあっていないのにすぐに優子が「お父さん」と呼ぶのに忸怩たる思いもした。

 しかし、その後に優子に言われる。「お父さんやお母さんにパパやママ、どんな呼び名も森宮さんを超えられないよ。」

 優子の結婚式での森宮の心は「曇りのない透き通った幸福感」だった。「本当に幸せなのは、誰かと共に喜びを紡いでいる時じゃない。自分の知らない大きな未来へとバトンを渡す時だ。あの日決めた覚悟が、ここへ連れてきてくれた。」
 そう考えると、梨花から優子を預かったとき、彼もまた何がしかを信じて「自分の知らない大きな未来」という次の走区にむかって自らバトンを渡したのである。


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 店長がバカすぎて いつかの... | トップ | 多様な社会はなぜ難しいか ... »