読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか

2024年04月27日 | 社会学・現代文化
なぜ働いていると本が読めなくなるのか
 
三宅香帆
集英社新書
 
 
 すごいタイトルの本だ。
 
 内容は、日本の「読書史」と「労働史」を俯瞰することで、「忙しくて本が読めない」という現代社会の問題意識からなにが導き出されるかを考察するという極めてユニークに富むもの。日本最初のベストセラー自己啓発書は明治時代に刊行された中村正直の「西国立志編」であったとか、70年代のサラリーマンはみんな司馬遼太郎の文庫本を通勤電車で読んでいたとか、さくらももこのエッセイは初めて老若男女全員が楽しめる女流エッセイだったとか、村上龍の「13才のハローワーク」が与えた功罪はなにか、とかいちいち愉快だ。
 
 本書によると昔から日本は長時間労働だったそうだ。では、なぜ現代は読書時間がないのか。そりゃスマホが登場したらからさ、と言いたいところだけど、それでは考察は先に進まない。真のミステリーは「スマホなら読めるのに、なぜ本を読むのはこんなに億劫になってしまったのか」である。本書は菅田将暉と有村架純のW主演映画「花束みたいな恋をした」を引き合いに、主人公の麦くんが、大学生時代は小説が大好きだったのに、就職して働きだすとパズドラくらいしかやる気がなくなってしまったり、たまに本屋に行くと前田雄二の「人生の勝算」なんて自己啓発本を広げちゃうこの心変わりはなぜなのか、に迫る。
 
 本書によれば、明治から昭和にかけては「教養」の有無がステイタスの向上や会社の出世に影響すると信じられた時代があったということである。「教養」とは「自分の知らないこと、思いもよらなかっとことに出くわす」ことで得られるものであり、それには読書が王道であった。
 ところが、平成から令和になるにしたがって、教養を得るという行為はいまの自分を強くするにはあまりにも余計な情報が多い、もっとダイレクトに「これだけやっておけ」と端的に示してくれる「情報」が求められるようになった(そういや「ハウツー本」という言い方がありましたな)。「ファスト教養」や「倍速で動画をみる」時代において、役に立つのか立たないのかわからない高邁な話をだらだらと摂取する行為は極めて能率が悪いのである。だいたい昭和と令和では、人が朝起きてから夜寝るまでに耳目を通じて脳内に入ってくる情報量が桁違いの差なのであって、昭和のようなパフォーマンスで情報をいれている暇はない、とも言えるだろう。しかもスマホは「自分の知りたい情報だけ」を手短に示してくれるのだ。いちどこのノーストレスな情報摂取の快感を脳が覚えてしまうと、冗長性の高い読書は脳にとって苦痛になる。
 ちなみに先日飲んだ出版社の人によると、今の若い人はもう司馬遼太郎のあの何巻もある歴史小説は読めないそうだ。いったん読みはじめてしまえば面白くて没入する若者も一定数は出るだろう、それくらいの筆力はある小説だが、そもそも同年代で周囲の評判もなく共通の会話にもならない全8巻の小説をよむモチベーションを今の若者に期待するのは無理である、と諦めたような顔で言っていた。
 
 よって最近の自己啓発書は、余計なこと(ノイズ)がいっさいなく、端的な内容にスリム化され、ずばりこれをやれと「行動」を指針することで支持を得ていると著者も指摘する。教養を期待する昔の小説や思想本のように行間を読んだり考察を強いたり前提となる知識を求めず、これをやりなさい、はい行ってらっしゃい! と言い切るそのスピード感と脳への軽負担が、現代の自己啓発書なのだ。街角の占い師みたいである。
 
 
 余計な情報だらけの教養本より、ずばっとやるべきことを言ってくれる自己啓発本のほうがタイムパフォーマンスがよく、脳の負担が少なく、そちらにいってしまうというのは理解できる。
 でも、これでは、なぜ「パズドラ」はできるのに「読書」はできないのか、の回答としてはまだ半分だ。パズドラにはそもそも「速攻で役に立つ情報」さえ皆無のコンテンツである。
 
 
 ここからは書物の内容ではなく、そもそも読書という行為が、という話になっていく。なぜ「パズドラ」しかできないのか。
 
 著者はそれは「働き過ぎて脳が疲れちゃっているからだ」と言う。
 昔の日本も長時間労働だったが、今日の労働は、新自由主義時代の働き方として自己責任の負担が大きすぎて、多大な消耗を心身に与え、本を読む気力も残さない、現代は新しい情報を吸収する余力もおきないほどに疲れちゃう社会構造なのだ、と看破している。裏を返すと、昔も長時間労働だったが、もう少し全体的にみんないいかげんで、未来への希望もあり、そこまで脳味噌を酷使しなくて済んだということになる。新自由主義は、外からの圧力ではなく、内側から自分自身を追い込むからくりを持つとは著者の指摘である。
 なるほど、自分探しも自己実現も、直接他人が指示しているのではなく、自分の中で勝手にふくれあがったプレッシャーだ、と言われてしまえばそれはそうだ。
 というわけで実際に手足は動かしてなくても、頭の中から仕事やこれからの人生のことが離れない。とてもそこで脳味噌の別の回路を動かして本なんぞ読む気力はない。
 一方でパズドラは脳味噌を空っぽにして瞳孔を開きっぱなしにしてもできる。むしろ過労な身体に接種することでドーパミンが出て脳味噌に快感を与えるという意味で、ストロング系チューハイと同じポジションなのかもしれない。
 
 現代社会は「本も読めない社会」なのである。なんというディストピアだろうか。
 
 著者としては、そういう社会に座して屈してはならない。全身全霊を仕事(というかひとつの文脈)に預けるのは、健康によくない(読書もできないような心身に追い込む行為が健康によいわけない)ということで、本書は終章で「仕事は半身でとりくめ」という仕事論・人生論を説く。残りの半身で読書や趣味に身を投ぜよと。
 すなわち、この本「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」は、労働と読書の日本近現代史をたどりながら、最後は「半身のススメ」で終わるのだ。意外なところにつれていかれた感じでいささか面食らった。
 
 面白いことに、前半部分がまさに昭和の読書がそうであったかのように読者に知らなかったであろう事実を様々な文献にあたりながら伝える「知識」ベースの教養的な内容になっているのに対し、後半が令和の読書すなわち余計なノイズ無しにまっしぐらに著者の見立て・感想をぶちあげて「行動」を提言した自己啓発書そのもので、著者は1994年生まれでまだ30才になったばかりというのになかなか手練れている。
 
 
 閑話休題。
 僕は、こんなブログをだらだらと10年以上続けているくらいだから「働いていても本を読めている」わけだが、本書の内容は、自分の肌感として確かにわかる。
 長期的な変化としては、読書をしていても以前のようなピュアな読書ではなくなりつつある、という自覚がある。それこそこのブログで扱った本のジャンルの変遷をみると、最初のころはビジネス本や自己啓発本がほとんど登場しない。経済学や地政学を扱ったような本はたまにあっても、仕事のやりかたとか心の持ちようを指南する本を、僕は意識的に避けてきていた。
 それがいつごろからか「Think CIVITY「礼儀正しさ」こそ最強の生存戦略である」とか「1440分の使い方 成功者たちの時間管理15の秘訣」といった自己啓発本をとりあげるようになったりして、反比例するように芸術や歴史を扱う本の割合が減っていっている。
 それに、本を選ぶ動機が単に面白そうというだけでなく、何かの役に立ちそうという邪念が入ってきていることを否定しない。また、読書に集中できる時間が減ってきている自覚もある。時間を忘れて没頭するということは滅多になくなって、15分も読んでいると一息つきたくなる。
 
 つまり、本書で挙げられている指摘は、たしかに僕自身の変化して実感があるのだ。本は確かに読めているが、では読みたくて読んでいるのか、読まなければならないから読んでいるのかが、読めなくなるのが怖いから読んでいるのかよくわからなくなる一瞬が確かにある。
 
 それだけ心になにか他のものが侵食したのだ、ということだろう。
 ひとつ心当たりあるとすれば、いまの職場で部下付き管理職になったというのは契機だったかもとは思う。
 現場時代のぼくは、そんなに仕事というものが面白いとか大好きとか思ったことはなく、淡々にこなしていった。そして読書に精を出した。
 しかし、人情に弱い性格だったためか、部下持ち管理職になると顧客とか会社とかの前に、部下のことはひどく気にするようになってしまった。出来の悪い部下が他所からやってきて自分のところで再生して成果が出れば嬉しかったし、部下の業績を決める会議では、他の管理職の人との議論に柄にもなくヒートアップする。管理職という仕事はぼくにとって何か火をつけるものだったのだ。

 だけど、本書が指摘するように、それはどこまで頑張れば良いか、を誰も教えてくれない。いつのまにか全身全霊でやってしまい、仕事外の時間でも休日でもどこかで部下のことをあいつは次どうすればいいだろう、などとついつい考えてしまっている。新自由主義の罠にはまっていたのだ。
 ちょっと力を緩めてやらないとこのままバーンアウトの道に進むよ、と本書は警告を出してくれたわけで、うまく「自己啓発」されてしまった次第である。ありがたいというべきか。
 

 それにしてもこの著者、映画「花束みたいな恋をした」がよっぽど心をえぐったようだ。どんだけほだされてんねんと思わず関西弁でツッコみたくなるが、菅田将暉と有村架純の二大きれいどころW主演のいかにもというタイトルにあっさーい内容を想像していた僕もがぜん興味を持ってしまった。こんど観てみよう。

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Z世代的価値観

2024年01月02日 | 社会学・現代文化

Z世代的価値観

竹田ダニエル
講談社

 

 本書の隅々の情報から察するに、どうやら、著者の前作「世界と私のAtoZ」がセンセーショナルだったらしい。本書はその続編のようだ。くだんの書を僕は読んでいないことを先にお断りしておきます。著者はアメリカ在住の二十代日本人とのこと。本書はアメリカにみるZ世代の洞察だ。

 ここ数年言われている「Z世代」。いままでの世代との隔絶があるとか、社会問題に敏感とか、環境保護意識がべらぼーに高いとか、SNSネイティブとか、9時5時の仕事さえ耐えられないとか、代行事業者に退職を伝えさせるとかいろいろ言われているが、僕は半分都市伝説だという疑いが晴れない。いつの時代だって若者はいままでと違うと言われてきたし、大人のつくった社会に異を唱えてきたのはミレニアム世代もさとり世代もゆとり世代も同様である。
 むしろ「こいつらは●●世代だからしょうがない」という免罪符をつくってことなかれにしているのは上の世代なのではないかとさえ思う。一時期、海外旅行離れアルコール離れ恋愛離れと、××離れがまことしやかに言われていたが、離れているのは若者ではなくて、既存の価値観が若者たちから剥離してしているのだ、という見方を持ったほうがよいのではないか。どうあったって世の中の流れはとまらないのである。

 ・・と、なかば自分を律して戒める意味も含めて僕はそう思おうとしてきた。

 それでも、我が勤務先に入社してくるここ数年の新入社員をみているとかなーり勝手が違うことを白状する。3年くらいまではなんとか理解と共感の糸口を見つけてきたつもりだが、去年と今年に続けて我が部署に配属された2人の新人とはいまだわかりあえていないきらいがある。ちなみにどちらも男性だ。なぜかそれまで5年連続で女性の新人配属が続いていたのだが、世代のせいなのか性別のせいなのか、女性のほうがなんというかうまく折り合いつけるというか上手に立ち回るというか良くも悪くも賢い、つまり彼女たちはなんだかんだで他の社員や会社のしきたりやビジネス作法とうまくやっていくのに対し、この2年連続の男性新人にはあっけにとられっぱなしである。

 どういうことかというと、彼らは自分たちの出すボキャブラリーやアウトプットや立ち振る舞いに疑いも不安もない。その自己紹介の仕方から飲み会の清算の仕方、経費の申請の仕方、取引先への会話の言葉選び、そこに場違いや勘違いがあったことを(優しく)指摘してみても、すみませんの一言もない。今までそれを覚える機会がなかった以上べつに知らないことは罪でも恥でもなく、こっちもそれを批難しているつもりも弁明を求めるつもりも一切なく、本気で謝罪を求めているわけだってもちろんないのだけれど、その場を潤滑油的に流す一言の「すみません」や「気をつけます」が素で出てこない風をみると、本当にこの人たちはピュアに育ってきたんだなあと、むしろある種の感慨がある。それ以前の5人の女性の新人のほうが、その手のちょっとした「やらかし」をしたあとの対処、立ち振る舞いがやはり一枚上手なのである。男性だ女性だということ自体が時代錯誤なのはよーくわかっているのだけれど、ジェンダー的な由来が彼女たちをしてこのような折り合いをつけるスキルをつくったのかと思わないでもない。男性はそのぶん摩擦なくすくすく育ってきたのかなどと考える。

 というわけで、ようやく本書の話である。

 本書の主張では、そもそも日本でいうところのZ世代は、企業がマーケティング活動の一貫としてとりいれた方便以外のものではなくて、何も本質を言い表してはいないという。「Z世代」というのはアメリカで発現された「現象」なのだ。GAFAにおける生活プラットフォームの上で、ブラック・ライブズ・マタ―に象徴された人種問題、トランプ政権でアジェンダとなった格差問題や移民問題、銃の乱射事件、気候変動そしてコロナ禍といったものをティーンエイジに目の当たりに経験することが、アメリカにおける2000年代生まれの若者たちに何を精神形成させたかという話なのである。

 その結果、アメリカのZ世代にみられるのは、強力な自己肯定感と自己有能感への渇望、とでもいうべきものになった。これからの未来において社会も政府も企業もオトナも信用できない、すなわち冷戦後のアメリカがつきつめた民主主義と資本主義のレジームへの疑心があり、頼れるのは自分たちの嗅覚という問題意識の中で、今の自分の採択は大丈夫、という安心と手ごたえをとにかく欲することとなった。この自愛を求める手段としてSNS、とくにこのときにタイミングよく出てきたTiktokが彼らの精神土壌のプラットフォームになった、というのが本書の筋書きである。

 そういうことであれば、日本の「Z世代」の原体験はアメリカとは相違がある。日本の場合は、SDGsに代表される社会課題的なものへの関心はむしろ外挿的に後付けされたもので、どちらかというと、拡大するジニ係数と長く続いた安倍政権と少子高齢化という社会ベースに、Instagram・twitterそしてTiktokという匿名ないし半匿名の情報インフラ、そしてコロナ禍によってつくられた世代だろう。「Z世代」はコロナ以前から言われていたが、本当に特異な世代と思えるのは、やはり多感かつ精神形成に重要な十代をコロナ禍にやられてリモートで過ごさざるを得なかった彼らであろうとは思う。

 これらがどういう精神形成をつくりあげたかはいくらでも深読みができそうだが、結果的に彼らは「いやに現在の自分のやり方に自信を持っている」という形となって表れているということだ。いつの時代のどの国の若者もそうじゃないかとも思うのだが、ただ彼らの立ち振る舞いや言動をみているとそこに「ぬぐえない不安の裏返し」というのがどうしても見て取れてしまうのである。今やっている自分の言動は正しい、と自信を持っているというよりはしがみついているといったほうが良いか。本書におけるアメリカのZ世代の「自己肯定感への渇望」もこういうことなのでは、と思う。ただ、アメリカのZ世代が、社会への「不信」を背景にそこに新たな「連帯」や「社会変革」を見つけようとする外向きのエネルギーを感じるのに対し、日本のそれは単に「不安」が転じて自分が思っている正しさにしがみついている、という防衛本能的なものをどうしても感じてしまうのである。

 これが日本のZ世代なのだ、という風にステレオタイプに決めつけるのはよくない。一人一人の個性の差異は年代や性別の差異よりも大きい、というのがダイバーシティの原則論である。ただ、この世代に確かに共通しているのは学生時代がコロナ禍によるリモートだったということはかなり考慮したほうがよいとは思っている。限られた学生期間を数年にわたって自宅からのリモートで過ごし、通学が復帰しても学友はみんなマスク姿ということがどういうことになるのかというのは、近代史上に初めて現れた自然実験とはいえよう。その特異な経験が彼ら彼女らにどのような自信と不安を植え付けたのかを心底から共有して理解するのは他世代にはもはや不可能である。

 ただ、我が部署に配属された新人たちをみるに思うのは、「ダニエル=クルーガー効果」あるいは「ジョハリの窓」などに代表される「無知の知」「無知の無知」に無頓着なのは己れ自身のリスクをむしろ高めるのではないかという老婆心である。信じられるのは自分だけ、なのは結構なのだが、自分自身というのは案外にそう信じられるものではないよ、というのは僕自身の黒歴史もさりながら歴史が証明していることでもある。このあたりのニュアンスを彼らに気付いてもらえる日がいつかくればいいと思っているのだけど、さてどうしたものか。


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スヌーピーがいたアメリカ   『ピーナッツ』で読みとく現代史

2023年11月20日 | 社会学・現代文化
スヌーピーがいたアメリカ   『ピーナッツ』で読みとく現代史
 
ボール・ブレイク・スコット  訳:今井亮
慶應義塾大学出版会
 
 スヌーピーの原作マンガシリーズ「Peanut(ピーナッツ)」については、一度こちらで丁寧に紹介している。僕は10代という重要な精神形成の時期に、寄り添うようにピーナッツのマンガに接していたので、このマンガは自分の心身に計り知れない影響を与えている自覚がある。
 
 といっても、僕は純然たる日本人であり、アメリカはもとより海外で生活などしたことがない。ピーナッツは、アメリカの子どもたちの文化や社会がどんなものであるかを見せてくれる窓ではあったけど、マンガの世界観そのものは、サザエさんやドラえもんがそうであったように、人畜無害で中庸な日常系マンガだという先入観があった。 
 
 必ずしもそうではなかったのだ、というのが本書「スヌーピーがいたアメリカ  『ピーナッツ』で読みとく現代史」である。
 
 作者のチャールズ・シュルツ自身は穏当なスタンスの持ち主ではあったが、そもそもアメリカは保守とリベラルのふり幅が相当に広い。シュルツは西海岸に住むプロテスタントの白人で、第2次世界大戦時は徴兵によってヨーロッパ戦線に赴いている。このような出自や経験によるアンコンシャスバイアスは当然あっただろう。さらに、ピーナッツシリーズは戦後半世紀に渡ってアメリカ史と並走し、全土にわたって新聞を通じて毎日配信し続けられた国民的マンガである。相当な影響力を持っていたために、政府や企業や市民団体はこれを利用しようとした。読者から送り寄せられる意見や感想も盛んだった。ピーナッツシリーズは、シュルツの自覚無自覚関わらず、戦後アメリカの社会思想と呼応しないわけにはいかなかったのだ。
 
 僕は、ピーナッツシリーズの連載期間のうち、50年代後半から70年代前半くらいまでの期間を「前期:内省の時代」および「中期:再構築の時代」と勝手に見立てている(詳細はこちら)。僕にはアメリカ史の知識なんてないから、この区分はもっぱら登場人物や作風の変化から主観的にそう感じとっただけなのだが、この時期の特徴としては、思索的な内容の多さと、ちょっとしたセンチメンタルさが醸し出されていることにあり、時として晦渋な印象を与えるものだった。チャーリーブラウンやライナスは世の中を憂いたり、未来に不安を感じたりする会話をしばしば行う。スヌーピーの犬小屋が高速道路を建設するために立ち退きにあったり、ルーシーの一家が引越しによって町を去るようなエピソードがあったりする。
 本書「スヌーピーがいたアメリカ」を読んで、それが戦後アメリカの様々なパラダイムシフトと同時代の表裏一体な関係であったことを知る。公民権運動、ベトナム戦争、東西冷戦と宇宙開発および核開発競争、女性解放、成長の限界。これらがアメリカ社会で取り出され、議論され、衝突していた。黒人のキャラクターであるフランクリンが海水浴場で初登場したのも、スヌーピーが第1次世界大戦の飛行士に扮した撃墜王シリーズも、ルーシーが精神分析スタンドを開業させたことも、サンダル履きでスポーツ万能なペパミントパティが登場したのも、そんな社会背景のインパクトと、作者シュルツのメッセージとして世に放たれたものだったのだ。スヌーピーの犬小屋が高速道路建設のために破壊されそうになったのは、当時のスーパーハイウェイ計画を反映してのことだし、ルーシーの家の引越しは、経済圏がどんどん広域化していった当時の世相とつながっている。
 僕が50年代後半から70年代前半のピーナッツシリーズに感じた「渋さ」の正体は、当時のアメリカ社会の光と影だったのである。
 
 
 ところで、僕の勝手な区分では、70年代後半以降のピーナッツシリーズは「後期:平和の時代」「晩期:解放の時代」と見立てている。先のような「渋さ」が薄れ、毒抜きされたかのようにマンガチックになっていった。一般的にイメージされるスヌーピーやチャーリーブラウンの世界に近い、と言ってよいかもしれない。もっぱらキャラクターの個性に頼った人畜無害な話が主になり、こと80年代後半からの晩期にはそれが顕著になる。
 本書で書かれる「『ピーナッツ』で読みとく現代史」でも、扱っている時代はもっぱら50年代の公民権運動や東西冷戦から、70年代までの女性解放運動や環境問題との関連までであ80年代以降の考察は皆無といってよい。そしてエピローグの章では、ピーナッツは次第に同時代性を失っていったとも指摘している。
 
 なぜ、ピーナッツは政治色が薄れていったのか。ここからは僕の想像である。もしもピーナッツがアメリカ社会の世相や問題意識に敏感に呼応していたのだとすると、80年代後半以降の微温化は、東西冷戦終結によってアメリカ社会に張りつめていた空気が緩んだことの現れとも言えるだろう。アメリカはここからパクスアメリカーナと情報スーパーハイウェイの時代になっていく。
 また、シュルツ氏自身の心境の変化も多いにあったに違いない。晩期のピーナッツシリーズは、確かに不明な点が多いが、いま改めて読み返すと「愛」にまつわる話が増えていった印象もある。片思いや親愛や友愛はピーナッツシリーズでは定番ではあったけれど、こと晩期においてはチャーリブラウンやスヌーピーたちを惑わせた女性キャラクターーリディア、ペギー・ジーン、エミリー、さらにはスヌーピーのママ、そして永遠の美少女「赤毛の女の子」などーが続々登場した。同時代を離れて、より普遍的な「愛」に傾注したのが晩年のシュルツの境地だったのだろうかなどと想像する。
 

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1973年に生まれて 団塊ジュニア世代の半世紀

2023年08月01日 | 社会学・現代文化
1973年に生まれて 団塊ジュニア世代の半世紀
 
速水健朗
東京書籍
 
 僕の両親は団塊世代の入り口にあたる。したがって僕は団塊ジュニア世代ということになる。自分とほぼ同年代のクロニクルを扱っているので追想にひたってみようかと読んでみた。この本、僕らが何歳のころにこのような事件とか社会現象があったよね、というのがずっと述べられている。
 
 このような本を当事者世代が読めば胸熱になること間違いなしと思いきや、むしろ興味深いことに、本書を読んでいて終始あまりシンクロした気分にならなかった。むしろ遠巻き感覚な年表をみているようだった。
 確かに本書が描くように僕が小学生のころにつくば万博があったし、中学生のころに宮崎勤の事件で世間は騒がれたし、高校生のころにカラオケが流行りだした。大学生のころからポケベルが出回りだして社会人になったあたりから携帯電話の時代となり、そしてインターネットが普及した。
 だけど、僕にとってそれは「言われてみりゃたしかにそうだったね」という事実の確認でしかなかったのである。これだったら「滝山コミューン一九七四」とか「1984年の歌謡曲」のほうがはるかに自分の精神に肉薄したななどと思った。

 だからこの本はハズレだったかというと、そういうことを言いたいのではないのである。気になったのは、本書に覚える遠巻き感覚の正体はいったいなんでなんだろうということだ。これを思考するに、その時々の時事・社会・風俗といった時代の事象的側面と、自分という個人的な身体の間には、単なる事象と身体が直接につながっているのではなく、事象と身体のあいだをつなぐ「感情」というものがあって、個人の記憶というのはその「感情」に強くひもづいているからではないかと思い至った。「滝山コミューン一九七四」が強烈に僕にヒットしたのは、「滝山コミューン一九七四」の舞台である日教組に支配された小学校が描き出す著者の気分や感情が、当時の自分のそれと気持ち悪くなるくらいに同じだったからだし、「1984年の歌謡曲」はかの年のヒット曲を歌詞や当時の演出光景含めて次々と文章で再現させるその著者の手腕が、歌番組をよく観ていた当時の自分の感興を掘り起こしたからだ。
 追想とは、事象の確認ではなくて感情の確認なのだなということに改めて気づいた次第である。
 
 もちろん、本書「1973年に生まれて」も、往時往時の著者の感情が記されている。だから、そうそう、そうだったんだよと膝をうつ読者もたくさんいるに違いない。単にこの感情部分が僕のそれと違う世界線だったということである。たぶん著者と僕は同世代ではあるけれど、かなり違う気分をもってこの50年間を生きてきたんだろう。クロニクルを面白く思ってもらうのは単に同年代というだけではなく、気分が共有できないと意外と難しいのだなということを知った。同年代ネタで盛り上がろうとするときに気をつけなければならない部分である。
 
 もちろん著者は単なるエッセイストではなく時代評論家でもあるので、本書は単に感情の共感を求める本ではなく、1973年生まれつまり「団塊ジュニア世代」について考察しており、それは一目に値する。なんにも特色がなくてダウナー気味といわれる「団塊ジュニア世代」だが、この見立ては作られたステレオタイプなのであって、実は案外にも浮かれた世代なのであるということを著者は看破している。失われた30年間に社会に出ることになった世代なので、構造不況やいびつな人口構成の影響をもろに受けているのは事実だが、当の世代は「世の中はこんなもの」というものが初期設定されているから、他世代から同情されるような悲壮感は実はあまりない。入れ替わりものや転生ものみたいに、他世代の人生を経験することができたらいろいろ驚くのかもしれない。
 

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幸福の測定 ウェルビーイングを理解する

2023年04月22日 | 社会学・現代文化
幸福の測定 ウェルビーイングを理解する
 
鶴見哲也・藤井秀道・馬奈木俊介
中央経済社
 
 
 「ウェルビーイング(Well being)」。ここ数年で耳にするようになった概念だ。日本では「幸福」と訳されているが、幸福を意味する英語では昔から「happy」とか「happiness」があったはずだ。何が違うのだろう。
 
 ネットで簡単に調べると、「happiness」は一時的なスパンにおける快楽状態であるのに対し、「Well being」はもう少し長い人生設計や生き方そのものみたいなことを指す、とされている。美味しいものをたべて幸せ、というのは一時的な快楽というHappinessにあたるようだ。
 では時間が持続するものがWell beingということかというとそう単純なものでもないらしい。「お金持ちになって幸せ」とか「出世して幸せ」というのは、とうめん人生は続きそうだが、じつはこれらはHappinessなのだ、とする主張もある。「一時期」の解釈がポイントなのだ。要するにある種の条件がそろっていれば幸せ、というのは反対に考えればその条件が外れると幸せでない、ということになる。「お金持ちになって幸せ」とは、お金がある限りは幸せだが、お金がなくなれば幸せでなくなる。「出世して幸せ」とは、地位がある限りは幸せだが、その地位を失うと幸せでなくなる、ということになる。こういうのは一時的な「happiness」ではあっても永続的な「Well being」ではない。
 
 であるとすれば、「Well being」とは「●●があれば幸せ。という条件の外」にあるマインドセットである。仏教でいうところの「執着」や「煩悩」からの解放こそが「Well being」とさえ思えてくるが、実用的には「少々なにがあっても自分は幸せだと思える精神状態」を持続させることが「Well being」ということになるだろうか。
 
 なぜ、こんな概念が今日になってとりあげられているかと言えば、やはり世の中がものすごく短いスパンで変化・混沌しすぎて、幸せ気分を長く維持できなくなったからだろう。昨日の喜びは今日の失望が繰り返される毎日だ。ユヴァル・ハラリは、「サピエンス前史」でも「ホモ・デウス」でも、とにかく人類は進歩してきたが、それで人間は幸せになったかとなると話は別であるという主張を繰り返し突き付けてきた。「あれができれば」「これになれれば」「それを所有すれば」という欲望を追求している限り、人は幸せの境地に達しないとは幸福論でもよく言われる話、「幸福とは、何も条件を設定しないときにはじめてそこに現れる」とは古から賢者が言ってきたことである。「Well being」とはこれの現代版と言えよう。
 
 ということは「Well being」とはひたすら主観的なものである。財産とか社会的地位とか人脈とかではなく、自分はこの人生にどこまで満足しているかがすべてだ。
 そのようにマインドセットすることはたいへんな努力がいることは間違いないが、「主観的」でもあるので「Well being」はアンケートで計測できる。
 それが本書でも紹介されるGallup World Pollと呼ばれる10段のはしごの図を用いたアンケート表である。
 
 「0の段が最も低く、10の段が最も高いはしごを想像してください。はしごの最も高いところは、あなたが考え得る最も良い生活を意味し、はしごの最も低いところは、あなたが考え得る最も悪い生活を意味しているとします。現在あなたはどの段にいると感じますか。」
 
 この質問の仕方で世界中通用する。ちなみにこのはしごのことを「カントリル・ラダー」という。
 
 で、よく報道などでも出てくる「世界幸福度ランキング」すなわち北欧諸国が上位で日本は幸福度が低いというのは、このアンケートのランキングなのである。もちろんアンケートの中身は、はしごの一問だけではなくて、経済状況とか家族構成とかいろいろたずねて、その相関関係が調べられるようになっている。これらの相関関係の結果は、万国共通のものもあれば、国によって異なるものもあるらしい。
 
 本書によれば、日本では、男性よりも女性のほうが「幸せ」と回答する比率が高いとか、60才を超えると「幸せ」と回答する確率が高い、とか出ている。未婚者よりは既婚者のほうが「幸せ」で、子どもの年齢は、小さいころは「幸せ」だが中学生くらいのにくたらしい年齢になると幸せ度が下がるなんて身も蓋もない結果も出ている。
 また、世帯年収があがればあがるほど「幸せ」と回答する人が増えてくる。これは当然のようにもみえるが、これは日本やいくつかの国にのみみられる現象で、グローバルな観点ではそう単純なものでもないらしい。むしろ海外の先進国では、所得はある程度満たしていればそこから先はいくら所得が増えようとも人生の評価はそれ以上は上りも下がりもしないのであり、幸福感を得るには所得以外の何かを積み重ねていくことになる。
 ところが、日本はちょっと違う。日本はひたすら所得があがればあがるほど幸福度があがる、という傾向がある(アメリカやイギリスも同様とのこと)。これは要するに日本の場合、幸福感を得るのに「所得以外の要素の重要性に他の多くの国と比較して気づいていない」とも言える。しかも諸外国の中で日本だけが給料が上がらず、ジニ係数も拡大傾向にあるとすると、日本は「お金を儲けないと幸せになれないのにお金を儲けにくい国」という見方もできよう。
 
 かといって、清貧をよしとせよ、というわけではないし、お金以外に楽しみを見つけよ、という発想の転換を迫る話でもない。これは、日本の社会設計や社会習慣が「幸せを感じるものを得るにやたらお金がかかる」というところに根本的な問題がある気がする。結婚も子育ても人付き合いもスキルアップも健康維持も、日本社会でそれをやるにはなんだかお金がかかるのだ。原則的にはお金をかけなくたって結婚も子育てもできるはずだが、どういうわけか社会が要求する水準がお金をかけさせるのである。
 この手のアンケートのたびに上位常連の北欧諸国のからくりをみると、どうもここらへんの社会設計とも関係がありそうだ。北欧諸国はなにしろ税金が高いので、日々の生活にそんなお金をかけられない、ということが国民みんなの前提になっていて、マーケティングもそれに基づいている。
 
 
 ところで、最初のはしごのアンケートに戻る。改めて見てみると、
 
 はしごの最も高いところは、あなたが考え得る最も良い生活を意味し、はしごの最も低いところは、あなたが考え得る最も悪い生活を意味している。
 
 これはその人の想像力、生活の最上から最低をどこまで想像できるか、ということでもある。北欧諸国は、過去にあった最低の歴史を知っている国というむきもある。この国はソ連という乱暴な大国に長い間脅かし続けられたトラウマを持つ国であり、それゆえにその時代に比べれば、という共通認識はあろうかと察する。
 また、この先になんの希望もないよ、ということであれば、はしごの段の位置は高くなるだろう。それはそれで、かつて古市憲寿が「絶望な国の幸福な若者たち」で問題提起したような議論を挟む余地が出てくる。はしごの段の位置は高いに越したことはないように思えるが、高すぎるとそこには別の意味合いが出てくる。
 
 ちなみに日本は、7段目、8段目のあたりを回答した人が多いとのことだ。先に示したように年齢や性別によって多少の違いはあるものの。全般的には日本の「幸福度」は案外いい塩梅なんじゃないかなという気もする。少なくとも、日本人がいまのメンタリティのまま北欧に移住しても幸せになれるかというとそういうことではなさそうである。

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永続孤独社会

2022年08月15日 | 社会学・現代文化
永続孤独社会
 
三浦展
朝日新書
 
 「下流社会」が一世を風靡した三浦展である。この人は、そうとう胡散臭いというか、野卑な印象(特に自分の過去の著書を次々と上げてオレはこんなに早くから気づいていたのだ、とか自慢していくところとか)を個人的には受けるのだが、時代を感じるアンテナ感度とそれを巧みに言葉にするセンスが抜群である。そういう意味では彼は社会学やマーケティングの人というよりは、広告のコピーライターとか、あるいは詩人として優秀なのだと思う。彼の本はまるごとひとつの叙景詩なのではないかと思うことさえある。
 
 察するに、彼は社会科学としてのアカデミズムな手続きはむしろ苦手なのだと思う。本書に限らずだが、定量データや定量アンケート調査を引用する箇所になるとものすごく下手というかつまらないというか、これまで言ってきたことを冗長に再確認することがほとんどで、数字で発見させたり、話を膨らませることがほとんどない。学生のやっつけレポートを彷彿させてしまう。
 
 それなのに、社会現象をとらえる語り口、特徴的な事象の抽出、そしてキーワード化の下りになると天馬空をゆくがごとくに、がぜん面白くなる。本書においても、人々が何に価値を見出すかにおいて「楽しさ」から「嬉しさ」に消費社会は移ったという指摘は非常に独創的かつ的確だ。刹那的で瞬間的で没個性的な「楽しさ」よりも、関係性的で持続的で個人的な「嬉しさ」こそが、これからの時代で積極的に消費すべき価値になっていくという話は、単に現象を説明するだけでなく、人々が今後生きていく上で何に力をいれるべきかの元年まで示唆されていて極めて政治的でもある。人を「楽しませる」ことは苦手な人でも、人を「嬉しく」させることができるはずだ。
 
 また、社会世相を読み解く方法のひとつとして、その時代に流行した歌謡曲の歌詞を分析するというのがあるのだが、ここで登場するのはofficial髭男の「Pretender」だ。この曲を令和の今日において史上最高傑作のJ-POPとみるむきはあちこちで見かけるのだが、著者による解読がめっぽう愉快だ。ほぼ酒飲み談義すれすれにもかかわらず、妙な説得力に引き込まれる。著者が指摘する通り、検索して選択して条件が合えばその恋愛は成就し、それがかみ合わないのは世界線が異なる(よって諦める)という心の持ちようは、たしかに極めて今日的だとうなずかざるを得ない。え、そこから乗り越えようとするのが恋愛なんじゃないの? というのは昭和的価値観であろうが、実はこの歌詞はLGBTの線の含みも残している、と指摘も重ねてあってなるほどなーと納得する。
 
 思うに、この人はアジェンダ設定がうまいのである。アジェンダの設定とは問題提起のことだが、「それっとほんと?」ほど新奇でもなく、「そんなの当り前じゃない」というほど陳腐でもなく、「言われてみりゃそうだね」あたりの絶妙なところに落としていくバランス感覚が芸術の域だ。これがいちばん共感と関心と探求心をあおるスイートスポットなのである。だから、アジェンダ設定ができたところでもはや勝利が確証されていると言ってよく、あとはその証左となる事例を数件集めればそれでよい。定量データで検証するのは彼にとっては完全に蛇足な行為である(だからつまらないのだろう。)
 また、「楽しさ」から「嬉しさ」へ。「癒し」から「強さ」へ。「シェア」から「ケア」へ。「AからBへ」という体で世の中の変化を言いのけるのは「モーレツからビューティフルへ」このかた時代を形容するときのひとつのフォーマット技だろうが、本書で展開される著者の大技小技の数々を堪能するもまた良しだ。
 

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多様な社会はなぜ難しいか 日本の「ダイバーシティ進化論」

2021年08月20日 | 社会学・現代文化
多様な社会はなぜ難しいか 日本の「ダイバーシティ進化論」
 
水無田気流
日本経済新聞社
 
 2008年刊行の「黒山もこもこ抜けたら荒野」のときから追いかけている水無田気流である。何度か書いたことだけれど、著者は詩人でもあるからか言語感覚がするどく、チョイスされる言葉のひとつひとつが実にエッジが効いている。この人、広告のコピーライターでもいけたんじゃないかと思うくらいだ。安倍内閣の女性活躍促進の本意を指して「女性超人化計画」とか男女の人生に待ち受けるリスクを称して「居場所のない男、時間がない女」とか、実に言い得て妙だと関心する。
 
 さて「多様な社会はなぜ難しいか」。
 
 ダイバーシティ。これが著者曰くの「黒船語」であり、日本人の思考回路に馴染んでおらず、日本の様式からは未だ熟しきれていないという指摘は確かに肌身で感じる。
 
 ジェンダーギャップ指数で日本は世界ランキング120位とかなり下位に位置しているのは有名である。我々はタリバン率いるアフガニスタンの女性の人権軽視に戦慄を覚えるがアフガニスタンのジェンダーギャップ指数は156位である。欧米からみれば日本はアメリカ(30位)やフランス(16位)などよりはるかにアフガニスタンのほうに近いとみなされている。心外だろうがそれが他の先進国からの目線である(そもそも日本より順位が以下の国はほぼすべて厳格なイスラム教の国だ)。
 著者はいくらダイバーシティやインクルージョンやコンプライアンスといった黒船語が次々上陸しようと、日本文化の底知れぬ沼にはまってしまって形骸化してしまう要因として、遠因としては根深い家族主義や家父長制文化を挙げているが、直接的には国会議員や企業や行政機関の管理職など、言わば意思決定をする層で女性が絶対的に不足していることをあげている。要はここがボトルネックで先に進まないのだ。しかも拡大再生産的というか鶏と卵というか、そのことがまた意思決定層にノミネートする女性を少なくしてしまう悪循環を指摘している。
 確かにいくら女性活躍促進などと称して非正規社員や現場サポートで女性の数が増えても、経営戦略の一端をになう管理職のレイヤーで女性が入らないと、どうしても税制や法律の連続性が担保されないだろうとは思う。中間管理職の多くは現状維持バイアスに毒されているので、今まで通りの方法で部分最適な対症療法で進めたがりである。
 
 かといって男性が既得権益にしがみついているばかりかというと、実はかなりの代償を払っているという指摘も著者は忘れていない。勤務先から帰れば「居場所のない男」となり、定年後に突然家庭において「ゴキブリ」化する。すごい言われようだが長い会社人生の中でソーシャルキャピタルを喪失してしまい、実は日本の中年男性は「世界一孤独な日本のおじさん」と言われている。男性は男性のジェンダーバイアスとその因果に囚われてしまっているのは確かだ。
 
 もともとダイバーシティが示す多様性とは性別だけに限らない。年代別も含まれるし、そもそも欧米では人種別、民族別、宗教別を相克する概念であった。日本の場合は欧米に比べてそもそも均質性が高く、「人を区別(ないし差別)する差異」としてことさら性別が機能してしまったきらいがある。人間の集団をなんらかの差異で区別してグルーピングしたくなるのは人が持つ認識思考としてついついやってしまう誘惑、あるいは社会運営において便宜的な故についつい陥ってしまうものなのではないかと思うが、日本人の場合は他に明確に区別するものが少ないだけにとくに性別による区別が先鋭化したのかもしれない。したがってジェンダーバイアスランキングで上位の国々も、他の区別ーー年齢や人種や民族や宗教で果たしてどうなのかというのは興味深いところである。(もっとも日本の場合はきわめてマイナリティになりがちな外国人籍とか民族上の問題で極端なバイアスがかかりやすい精神土壌であることは忘れてはならない。またかつては出身地というものがバイアスとして根強かった)
 
 本書の内容からはいささか外れるが、ダイバーシティの真の思想とは「個人差というものは性差や年齢差や人種差や宗教差よりも大きい」というところにある。
 しかし、これは既成の価値観や枠組みに慣れていると非常に脳みそを働かせにくい思考である。我々は人を推し量るとき、どうしたってその人の属性ーー性や年齢や人種や宗教から人物像を得ようとする思考回路を持っている。行動経済学的にみてもそうである。
 したがって、ダイバーシティというのは覚悟と強い意思がなければ持続可能にならない。流れに身をまかせてしまうといつのまにかジェンダーバイアスに陥ってしまって元の木阿弥になるものだと思ったほうがいい。

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地形の思想史

2020年01月11日 | 社会学・現代文化

地形の思想史

原武史
角川書店


 本書は、タイトルにあるように「地形」がポイントである。岬、峠、島、高台など7つの特徴的な地形をもつ地域の訪問記だ。

 本書の根底にあるのは、地形が直接的に作用して、あるいは間接的に影響して、その地の人文地理環境に因果をつくりあげるという見立てだ。古くは和辻哲郎の「風土」、近年ではジャレド・ダイアモンドを想起するが、近代日本思想においてもそれは現れる。本書では日本の近現代思想にまつわる事件やエピソードを持つ地域ーー大菩薩峠(赤軍派のクーデター未遂事件の現場)や三浦半島(ヤマトタケルとオトタチバナの伝説を持つ軍都)や富士山麓(新興宗教の集積地)などを訪れる。近代思想そのものがこの特有の地形に何を投げかけたのか、あるいはこの地形が近代思想の何を誘い込んだのかを、現地を訪れながら考えていく。このあたりの著者の手腕はたいへんに面白い。政治近代思想史を専門とする著者の独壇場といった感がある。

 いずれの章も示唆に富んでいるが、とくに面白いと思ったのは東京湾を挟む西の三浦半島と東の房総半島の対比だ。
 この地にはヤマトタケルの東征伝説がある。ヤマトタケルの一行は、西方から三浦半島までやってくると東京湾の入り口、すなわち浦賀水道を船で渡って対岸の房総半島に上陸したとされる。古事記や日本書紀の記述によれば浦賀水道は流れが速くて渡るのが困難とされた。すると、ヤマトタケルにこれまで連れ添ってやってきた妻のオトタチバナが、ここで海を鎮めるためにいけにえとなって入水する。ヤマトタケルは嘆き悲しむも、海は凪いで一行は無事に対岸の房総半島にたどり着く。

 この記紀のエピソードに対して近代日本思想のステークホルダーは、素朴に言えば感銘を受け、うがった言い方をすれば利用ないし活用したわけである。オトタチバナの犠牲的行為は夫ヤマトタケルへの忠誠心すなわち「妻の鑑」であり、皇室への忠誠心である「日本人の鑑」なのであった。
 とくに西側の三浦半島ーー横須賀海軍基地や葉山御用邸があるーーにおいてはヤマトタケルをまつる神社があり、オトタチバナも一緒にまつられる。明治天皇の内親王や大正天皇の皇后がオトタチバナによせて詠んだ歌が石碑に彫られ、現存している。これらの歌の内容にも先の価値観が見え隠れすることを著者は指摘している。(一方で現上皇后美智子がある講演でオトタチバナに触れた際は、戦後観のある解釈を述べたことも指摘している。)要するに三浦半島における神社はヤマトタケルとオトタチバナという記紀の世界観と歴史観に根拠をおいており、近代日本もそれになぞらえたのである。
 記紀の記述にしたがえば、対岸の房総半島にわたったのはヤマトタケルのみである。ところが房総半島ではヤマトタケルはスルーされ、オトタチバナをまつる神社や史跡が実に多いのだ。房総半島にはオトタチバナが身につけていたとされる櫛や袖が海岸に流れ着いた。房総半島の神社はそれらをまつるのである。オトタチバナのことは地名として現代も生きている。「袖ヶ浦市」の、この「袖」とはオトタチバナの袖のことである。「富津」というのは“古い布が流れた着いた津”の意であり、この古い布とはオトタチバナが身に着けていた布を指すらしい。
 ここにみられオトタチバナの扱いは「ヤマトタケルの忠実な妻」ではなく、海に没したひとりの乙女なのだ。ヤマトタケルの存在感が消えたことによって「ヤマトタケルのために犠牲になった」という文脈がなくなり、記紀の記述から独立した、ひとりの聖なる乙女が現れるのだ。実際に上陸したのはヤマトタケルだけなのにこのような逆転現象が起こるのである。


 東京湾を挟む三浦半島と房総半島の章(「湾」の章)は、記紀の神話とそれにあずかった近代思想の話であり、現代においては過去の名残りとでも言うべきものだろう。しかし、今なお深刻な影を落とす地域もある。本書の中でも大きな課題を投げつけられた感があるのが、「島」の章と「半島」の章だ。

 「島」では岡山県の長島と、広島県の似島が出てくる。
 長島は、ハンセン病患者の隔離施設「長島愛生園」があったところーー過去形ではない。この施設はまだある。回復者の中には、国の長期間の政策によってこの島で高齢化して社会復帰の道を閉ざされ、故郷に帰っても生活の術がないためにまだここにとどまっている者がいるのだーーで、島の隔離性を徹底的に利用した。この島に本土から橋がかかったのはずいぶん最近なのである。それまでは船で渡るしかなかった。(患者用と従業員や家族用とで桟橋を分けていた)。
 広島県の似島は、大本営が設置された軍都広島に付随する形で防疫のための検疫所が設けられた島で、外地から帰還した兵士たちはここで検疫をうけてから本土に上陸した。いわば水際阻止のための島だった。そして検疫所の設備があることがその後の島の歴史を決めた。広島に原爆が投下されたとき、大量の被ばく負傷者が運び込まれた。そのまた多くがここで亡くなった。

 これら島はその島の隔絶性ゆえに、現代なお訪れる人は限られ、当時の気配が色濃く残る。広島市内にある原爆ドームを中心とした平和記念公園は立派に整備され、世界的にも知られて訪問者が訪れる。誤解を恐れずに言うと観光地化されている。しかし、この似島はいまだ当時の記憶がむき出しのままひっそりとしているのである。

 また、実はこの2つの島は、皇室にもからんでくる。日本近代思想において皇室は切っても切れない関係があるが、皇室の慈愛や浄穢の思想が、事と次第では図らずも残酷な結論になる空恐ろしさがここでは見える。ある意味、本書の白眉とも呼べる部分なので詳細は控えるが、聖武天皇皇后の光明皇后あたりまでたぐることができそうな話である。


 もうひとつ重さをつきつけるのが、最終章の「半島」だ。舞台は鹿児島県の大隅半島である。
 この地はかつて尚武主義で知られた薩摩藩の地であり、戦前には海軍基地の鹿屋飛行場があった。ここから多くの特攻隊が飛び立った(ちなみに有名な知覧飛行場は薩摩半島にある)。
 戦後はここから二階堂進と山中貞則という二人の大物自民党議員が出て鹿児島3区の議席を30年近く確保していた。

 そういう土地柄である。これらの因果から、この地は男尊女卑と封建主義の強い、極めて保守的な風土となった。
 著者はこの地を訪れ、鹿屋飛行場の歴史館や、二人の議員の記念館を訪れ、2019年に市議会議員になった女性と面会する。この女性はなんとこの地において初めての女性の市議会議員なのであった。去年までこの地、垂水市には女性議員はいなかったのである。もちろん全国唯一であった。
 そして、著者がこの地で得た見聞を読むに、大隅半島の保守的な気風はちょっとやそっとでは解けない印象を強く受ける。ようやく女性議員が登場したわけだが、くだんの女性議員とはべつに他の女性候補もいてこちらは落選したのだそうである。そして、この二人の女性の選挙戦術をみるに、ここに根深い闇をみる。(詳細は本書を参照されたし)
 一方で大隅半島は過疎化の一途にある。大物議員も亡くなり、JR路線も次々と廃止された。こうしてこの半島の生活空間の孤立化と、外部の血が入らないことによる生活文化の濃縮化をみるのである。


 このように地形のはざまに凝固するように近代思想の残滓がこびりついているのを見つめるのが本書である。

 それにしても。著者の他の著作でも言えることなのだけれど、全体的に閉塞感が漂う。ありていにいうと重くて暗い。
 著者自身の性格によるものといってしまえばそれまでだが、やはり“地形や環境がそこに生きる人の思想や行動をしばっていく”という立脚点によるところが大きいように思える。その思想や行動はイノベーティブなこともあるが(本書でも取り上げられている、明治の東京は多摩地方で生み出された五日市私擬憲法なんかはそうであろう)、一方で、地形や環境は人間の罪や闇をつくりだすこともある。施政者はそんな人間性のスキをついて慣習や制度をつくっていくということをはからずも示しているように思う。


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トランプのアメリカに住む

2018年10月06日 | 社会学・現代文化

トランプのアメリカに住む

吉見俊哉
岩波新書

 もう2年前のことになるのか。
 アメリカで大方の予想をうらぎってドナルド・トランプが大統領に選ばれたときの驚愕。

 こんなマンガのキャラみたいなエキセントリックな人間を選んでしまうなんてアメリカ国民はアホちゃうかと思わず呟いてしまった。アメリカの大統領選の仕組みは複雑なので一概には片付けられないが、かつてなら予備戦や候補者選びの段階で外れそうな人物であった。
 そのトランプだがもうすぐ中間選挙がやってくる。あいかわらずインテリからの受けは悪いが、全般的な支持率はそんなに悪いものでもないらしい。つまり少なくないアメリカ人が彼を支持しているということである。

 つまり、我々には見えていないアメリカがあるということだ。サイレントマジョリティならぬアンヴィジブルマジョリティとでも言おうか。
 ラストベルトの貧困に落ちそうな白人層が彼の支持基盤というのはいまや日本の受験中学の時事問題にまで出てくるそうだが、もちろんアメリカはラストベルトだけではない。それなりに彼のポジションやメッセージは普遍性があるということだ。

 オバマ政権の反動とは当初から言われていたが、僕はオバマの何の反動かといのがよくわからなかった。アメリカ史上初の黒人大統領を選んだ反動で次はとっても白人主義なトランプを選んだということ? 

 本書を読んでなるほどなと思った。
 オバマ政権までは人種や性別による差別をなくした多文化多様性共創社会だった。これまでの人類の歴史は人種を差別し、民族を差別し、宗教を差別し、性別を差別してきたものだった。それの克服こそが真に平和で幸福な人間社会をつくるのだった。

 しかし大きな落とし穴がここにあって、それは「経済的豊かさを担保しない」ということなのだ。むしろ既得権益を失う白人カテゴリーが出現するということになる。グーグルやアップルのような巨大時価総額企業も、どちらかというとボーダーレスな企業体だし、そもそもアメリカ国内での工場とか設備投資とかがあまりないビジネスモデルである。つまり多文化多様性共創社会を進めることは経済的損失をある種の集団にもたらすのである。で落とし穴というのはこの「ある種の集団」というのは決して小さい集団ではなく、むしろ大きな票田になるくらいのボリュームを占めるということだ。本書曰く「文化テクストをめぐる理論ばかりに傾注し、現実の経済の問題に正面から取り組むことを忌避した結果」なのである。

 「人はいちど楽を覚えるとなかなか戻れない」とはよく言われる。まして収入というすべてに直結するものに至ってはなおさらだ。年収1000万円の人が年収400万円になることの恐怖は、最初から年収300万円で生活してきた人とは別の次元である。世の中の福祉は後者の人を救おうとするが、前者は見過ごされやすいしわ同情も買われにくい。つまり前者の保護は世論から支持されにくい。

 しかし、既得権益を奪われることの恐怖と抵抗はけっこう馬鹿にならない、ということがトランプ大統領支持をみればよくわかる。既得権益のはく奪の抵抗感というもの、当事者以外は低く見積もりがちということなのだろう。

 

 トランプ大統領がヤバいというより、そういう人物を選出してしまうアメリカのコンディションがヤバいとみるべきだろう。トランプ大統領の選出と支持はアメリカという国の体調が放つシグナルである。トランプ大統領を支えているものはアメリカに積もる「怨嗟」だ。怨嗟が大統領を選出する世の中というのは過去の歴史でろくなことがない。アメリカ社会における銃乱射事件も性被害告発もフェイクニュースも極まった感がある中での今度の中間選挙のトランプ支持率がどのくらいかはけっこう注目だ。過去の中間選挙はだいたい野党側に有利になるのである程度は民主党寄りにはなるだろう。しかし、そんな予想統計の範囲内で済む下降ならまだ安心できない。

 


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群集心理

2018年09月06日 | 社会学・現代文化
群集心理
 
ギュスターヴ・ル・ボン 訳:櫻井成夫
講談社学術文庫
 
 
 この本が、ヒットラーやムッソリーニのココロをとらえたというのならば悪魔の書というべきだろう。
 
 もし、群集の心理というものに、本書が指摘するような力学めいたものがあるとすれば、しかもそれが時と場所に限らずある種の普遍性として認められるすれば、これからの未来においても何かのきっかけでこれらが起動することが十分にあり得るということになる。分別をわきまえた現代人ならばもはやこんな野蛮なことは起こりえない、という断定はなかなかできない。現実問題としてパニックやデマや暴動は大なり小なり世界のあちこちで起きているし、「礼儀正しい」とされる日本人でも、ネットの炎上や、Yahoo!などでみられる匿名の書き込みをみると、実際はこのような感性を奥底に秘めているのかもしれないと思う。
 
 「群集心理」は1885年の刊行である。その直接的題材はフランス革命における市民たちの暴走と虐殺だ。100万人の市民や貴族が老若男女問わずなんだかよくわからないままにひどい殺され方をされた。よくいわれるように、ここにロベスピエールという扇動者が現れ、群集心理を追い風に恐怖政治を断行したがやがて風向きがかわり、自ら断頭台に立つことになったとされている。群集と扇動者の相互作用的なメカニズムがここにある。
 
 ロベスピエールの評価については現代ふたたび再検証(本当はそこまでたいしたことしていないなども含め)のむきがあるようだが、群集が勝手に動いたのではなく、群集と扇動者の相互作用が事態を増幅させるという本書の指摘はリアリティがある。ここは一方通行的な作用ではなくて相互作用というところがポイントで、したがって扇動者自身が収拾がつかなくなったり、群集自身がその結果、自らを破滅的な立場に追いやって自滅してしまうこともあるのだ。
 
 デマやパニックや暴動における群集の心理の連鎖・増幅を、「群集心理」でははからずも「感染」といっているが言い得て妙で、この連鎖・増幅作用は、直観的に、物理学的なエネルギーの連鎖作用というよりは生態学的な連鎖作用だと思える。生態学的な連鎖というのは、「一つ手前の様相が次の様相に影響を与え、それが連鎖する」という複雑系(バタフライ・エフェクトで有名)の考え方である。
 かつてサブプライムローン問題が起こったとき、このような異常事態が起こる頻度は、当初「100年に1回」くらいの出来事、つまり例外中の例外として起こったとされたが、やがて生態学的な見地からみれば「30年に1回くらい」、つまり思うほど稀な現象ではないという学説が現れた。「100年に1回」というのはいわば物理学的に導き出す出現頻度で、それをグラフに描くと「釣り鐘状」を描くとされるが(統計学なんかでよくみる出現分布のこと)、生態学的なメカニズムでは「べき乗」分布となる。
 
 人間社会におきるメカニズムを解明するにあたっては、物理学というよりは生態学的なメカニズムのほうがシミュレーションとして相性がよいように思える。そうなると群集心理における暴発というのも100年に一度よりは30年に一度。滅多に起こらないというよりはたまに起きる、くらいの見立てのほうがリスク管理としても妥当なところだろう。
 
 なにしろ群集心理とは群集と扇動者の相互作用である。虎視眈々と事態の転覆をねらう扇動者(本書では、扇動者は明晰な頭脳の人というよりは、狂気すれすれのところにいる興奮した人や半狂人の中から排出される、と指摘されている)は今もどこかに潜んでいてもおかしくはないからである。

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偶然の科学

2018年08月31日 | 社会学・現代文化
偶然の科学
著:ダンカン・ワッツ 訳:青木創
早川書房
 
 「社会」を「人の営みの集合体」ととらえ、そこになんらかの法則性とか規則性を見出す。これが社会科学である。
 たとえばデマや暴動はどうやって起こってひろがっていくのか、とか、モノや価値観はどのように普及してくのか、とか。
 で、これは政治やビジネスに適用される。世論の形成とか、マーケティングとか。使える事例は「法則」化が試みられ、理論化されたり、MBAでケーススタディになったり、ビジネス本として啓発されたりする。非常によくある話である。
 
 そんなところに冷や水を浴びせるのが本書である。
 社会にはそんな法則性を要するようなメカニズムなんてない。社会というのは物理法則なんかと違って、どこにも収れんしない無目的なものであり、ひとつひとつの現象事例は多数の偶然と運の積み重なりで出てきたもので、それを物理学のように何か法則性とか目的性があるかのように見立てることができると思い込んでいたのは、ひとえに我々が稚拙な科学技術で観測してそれを常識と信じ込んでいたにすぎない、とまで言っている。ミもフタもないとはこのことだ。
 したがって、よくよくつきつめてみると実は根拠があいまいになる社会現象というのはけっこう多い。本書の指摘として再三例にあげているのはレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」である。あの絵はなぜ世紀の大傑作と社会にみなされるのか。ロジックを積み重ねた結果、けっきょく「大傑作だと思うから大傑作なのだ」というトートロジーに陥ることを著者は看破している。
 同様に、なぜAppleは成功したのか。それは、成功したから成功したのだ。に最後はいきつく。つまり、本当の意味ではモナ・リザもAppleも再現可能性がない(再現可能性を証明できないという言い方が正しい)。我々は美術学でモナ・リザを、経営学でAppleを学ぶが、では新たにモナ・リザやAppleのような作品や企業を再現できるかというと、できないのである。
 まして、この社会におこるという現象というもの。過去がそうだったから未来もそうなるはずだなんて保障はどこにもない、と看破している。マーケティングの全否定である。
 
 でもまあ、そうなんだろうとは思う。同じことを2回やっておなじような結果ができれば科学だが、人間社会の営みは原則として不可逆で一回きりのものであって「もし違う選択肢だったら」を完全に検証することはできない。まったく環境要因が同じということはありえないし、この世の中は何かの予定調和にむかっているわけでも公平性が約束されているわけでもない。ここらへんはもはや哲学的な問いである。
 
 とはいえ、元来は不定形で無目的な社会のダイナミズムというものを、あたかも法則性や因果律があるかのように「信じる」ことでこの人間社会に秩序を保つ、つまり平和と安寧と幸福を維持するのが人間の「知恵」という言い方もできようか。「サピエンス全史」にそのようなことが書いてあったような気もする。この社会には法則があるとみなが信じることで社会関係は保たれる。われわれが「常識」とみなすものの正体はこれかもしれないし、これが転じて「宗教」というものがあるのかもしれない。
 また、本書でも指摘があるが、人間の頭脳にとって「物語」というコードは非常に共感がしやすい。大脳小脳に沁みこみやすいともで言おうか。ある社会現象に「物語」つまり「因果関係の連鎖がうまくつながっていること」が示されると、それを「世の中」として解釈する認知メカニズムが人間にはある。つまり我々は「物語」としてこの社会を、この世の中を認識するのだ。たいていの宗教には物語が付随している。
 
 いっぽうで、そういう不確定性があるからこそ、人生にはモチベーションや楽観主義や恋愛や創意工夫というものがある気もする(不確定性を快感に転じる脳内物質が人間には備わっている)。セレンディピティとかチャンスオペレーションとかブリコラージュの価値というのはそこにある。不確定性こそが社会という言い方もできよう。本書は最近のビッグデータ解析の登場で、かつてよりは精度が増し(それでも不確定性はいずれにしても残るが)、科学的態度を捨てたニヒリズムに陥る必要はないようなことも本書の最後に示しているが、未来を測る精度が増した世界は本当に幸福な世界かというとそれもまた違うのかもしれない。
 
 

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若者の「地域」志向とソーシャル・キャピタル 道内高校生1,755人の意識調査から

2017年03月23日 | 社会学・現代文化

若者の「地域」志向とソーシャル・キャピタル 道内高校生1,755人の意識調査から

梶井祥子
中西出版


 お堅い論文の集まりだから愛想はないが、言わんとすることは心情的にわかる。

 ソーシャル・キャピタルというのは、なかなか定義がむつかしく、ググったって簡明にわかるものは出てこないのだが、あえてざっくり言うと「人脈」である。それも金の切れ目が縁の切れ目にならないような「人脈」だ。本書では「人間関係資産」と表している。言い得て妙だ。

 本書は、北海道に住む高校生を調査して、それをもとにいろいろな角度から論じたものである。将来の進学や就職において地元を出るか出ないか、地元から出ようとする力学はなにか、地元にとどまる、あるいはいったんは出てもいずれ地元に帰ろうと思う力学は何か、などをアンケート結果やインタビュー結果をもとにアカデミックに調べている(統計学的に成立するか否かなども厳密に)。

 で、要はソーシャルキャピタルを確保している高校生ほど、地元志向が強いのである。地元の家族や親せき関係が良好で、友人知人との関係が強く築かれているほど、地元の進学や就職を希望する。その家の経済状況や、住む地域の規模や経済力も影響するが、そういった地元を出る出ない因子のひとつとして、「ソーシャルキャピタルの程度」が影響するのだ。

 まあ、そうだろうなとは思う。

 いつごろからか、同じ中学出身の仲間を「おなちゅう」、同じ高校出身の仲間を「おなこう」と称するようになったり、そういった所属するコミュニティごとにSNSのアカウントを使い分けたり、キャラを演じ分けたりーーつまり、「仲間メンテナンス」にいそしむ若者は増えてきている。
 こういった、ヒトとのつながりが当人にとって重要なのは、やはりリスクヘッジなんだろうと思う。将来は見えないし、職場は信用ならない。何かあったときに自分のためになってくれそうなのはやはり、地縁や血縁に根差した人間関係だ。ゲマインシャフトだ。地元こそがソーシャルキャピタルの母体だというのはたいへん納得する。

 その思いが強ければ、とうぜん進学や就職を意識するだろう。

 

 じゃあ、ソーシャルキャピタルが強ければ強いほど、地元から出なくなるのか、というとそういうわけでもないと思う。

 かつて、地方から都市部に人がどんどん出ていった。その理由はいろいろあるが、ひとつはキャピタルが強すぎたためでもあった。大家族主義、ムラ文化、濃すぎる人間関係、確保されないプライバシー。都市生活はこういったものから解放された。60年代に首都圏や阪神圏で続々と団地がつくられたが、そういうところに入居した核家族は、そのさばさばした住空間にすぐなじんでいった(たとえば男女のつきあいや性生活ひとつとっても地方でプライバシーを確保するのは大変であった。ここらへんは原武史の「団地の空間政治学」に詳しい)。

 では、地元から出たくなるほどの強烈なソーシャルキャピタル(資産というより負債というべきか)よりはマイルドで、地元に留まりたくなるちょうどよい程度のソーシャルキャピタルのありようと言うのは果たしてあるのだろうか。

 ぼくの直観としては、そういう「ちょうどいい水準」というのはないように思う。もちろん個人差もあるのだろうが、ソーシャルキャピタルの程度と、地元志向を生み出す力は、振り子のように強く効いたり、反対に作用したりを状況とともに繰り返すように思う。

 かつて息苦しくて、そこから出たいと思われた地元の人間関係が、今度はその場を引き留める力になった。かつてのほうが人間関係は濃かったというむきもあるが、いっぽうで昔は、SNSなんてなかった。LINE疲れなど存在しなかったのである。

 

 ソーシャル・キャピタルの充実は、地方の活性化だけでなく、ヒトととしての幸福量の増大、脱経済成長時代の中で何に生活価値をおくかという点でもたいへん注目されている。高校生がソーシャル・キャピタルの確保に乗り出しているのは、ヒトとしての成熟進化なのかもしれない。水無田気流によれば、いちばんソーシャル・キャピタルが弱いのは中年男性とのことだ。なんとかしなくてはと思う。


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「居場所」のない男、「時間」がない女

2016年05月05日 | 社会学・現代文化
「居場所」のない男、「時間」がない女


水無田気流
日本経済新聞出版社


 この人が書いた本は以前からいろいろ追いかけている。文壇には詩人としてデビューしているのだが、いまや完全に社会学者だ。TVでもコメンテーターとして見かけるようになった。

 今回も、ミもフタもない切れ味よい文章で、日本の性別役割分業意識がもたらした現代の病理を描いている。そのご指摘いちいちごもっともである。秀逸なタイトルもまさにその通りである。

 子どもの声が騒音といってクレームを言ってくるそのほとんどが「居場所のない定年後の男性」という観察は、まさしくそういうことなんだろうと膝を打つことしきり。要するに勤め人時代にほぼ家庭を顧みず、子どもの声なんかこれまで耳にすることもなかった元・企業戦士の男性たちが、定年後に居場所をなくし、家の中や図書館や公園で時間つぶしをしている。子供の声のクレームが話題になった時期と、団塊世代の大量定年の時期は一致するそうだ。
 私事になるが、去年自分の住んでいるマンションの理事をやった。輪番でまわってきたのである。で、理事をやってみてわかったのだが、とにかくクレームをつけたり、いろいろ言ってくるのは決まって爺さんなのである。誰も頼んでないのに駐輪場で放置自転車のチェック(1台1台パンクしているかとか、キーがかかっているかとかを確認)を毎月していたり、御苦労なことに各フロアをまわって共用スペースの使い方に違反がある部屋をチェックしたりして、それをご丁寧にエクセルで一覧表にして理事会に提出してきたりする。
そんなわけで、辟易としているのだが、そういった元・企業戦士たちも、好きこのんでその戦士道を邁進してきたわけではない。時代が、周囲が、雇用主が、それをさも美徳のようにしていったのである。それは、少年たちを洗脳によって徹底的に冷酷無比な子供兵にしたてあげる内戦国に一脈通じるものである。
救出された元・子供兵の洗脳を解くことは容易ではないらしい。元・企業戦士たちの洗脳を解くことも、実は大きな社会課題ではないかと思う。

 
一方、女性たちについての本書の指摘もその通りその通りと思う。僕は男性だけれど、確かにぐうの音もでない。政府が女性の活躍を掲げているその実態が「女性超人化計画」というのは、見事にこの政策の白々しさを言い当てている。今なお残る性差役割分業意識の中で建前だけ平等論を言われ、家事をやり、育児をやり、仕事も(男性同様に)やり、介護もやる女性を作ろうしている。しかも少しでもそれをやろうとすると、保育園には入れず、会社はめんどくさそうな対応をし、介護条件は厳しくなるばかり。「日本死ね」と言いたくもなるだろう。


 著者が指摘する通り、これの根底は日本の「性差役割分業意識」にある、と僕も思う。これが高度経済成長時代にあって、それで世の中がうまくまわっていたことが原体験にあることがすべての錯覚である。高度経済成長時代の諸条件が結果として「性差役割分業」を助長させたのであって、「性差役割分業」があったから高度経済成長がなしえたわけではない。
 しかし、現在の自民党の成功体験はなんだかんだでここにあるから、未だに家族規範、標準家庭像がここから離れない。「永田町と世間の時間差」とは、これもまたごもっともである。

 ステレオタイプな「性差役割分業意識」を改めることは、多様性を尊重する、ということである。著者は、日本社会は「観念としては多様性の重要性はわかっているが、いざ実践となると抵抗感がある」と評しているが、僕は本当のところで多様性なんてまっぴらごめんと思っている日本人が実は多いんじゃないかと思っている。出る杭は打たれるという昔からあることわざ、空気を読むという習性、移民論の排斥、自分以外の立場の人が優遇されることの極端な非難。これは日本人の致死遺伝子といってもよい。生態学的には均質性は種の絶滅をいざなうリスクを極めて高め、種の保存のためには多様性が重要であることがわかっている。


 だけれど、男女性差だけではなくて、いろいろな多様を本当に多様として社会を運営していかないとますます閉塞感は募るばかりだ。今はみんな何かしら留保条件を抱えているように思う。僕の勤務先の周囲の同僚をみていると、もちろん育児中のお母さんもいれば、介護中の親を持つ人もいる。奥さんが妊娠中の人もいる。離婚調停中の人もいる。趣味に有給休暇を全て使うことを公言してはばからない人もいる。本人が内臓の疾患もちの人もいれば、過去にメンタルをやられた人もいて、こういう人は仕事量をセーブしないとならない。つまり「無条件に会社に時間を預けられる人」は驚くほど少ないのである。それなのに勤務体系は画一的である。

 なんとかならんもんかと本当に思う。


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無頼化した女たち

2014年03月13日 | 社会学・現代文化

無頼化した女たち

水無田気流

 

 新聞広告をみたら、本書が紹介されていて、あれ? 先に新書がでて、後からハードカバーを出すなんて珍しいなと思った。数年前に洋泉社新書から出た「無頼化する女たち」はなかなか面白ったのである。

 だが、よくよく調べてみると、今度は「無頼化した女たち」である。微妙にタイトルが異なる。なるほど続編か、と思った。

 そこでamazonで注文した。

 で、届いて、本を開いて初めて知ったのだが、本書の半分以上は既刊「無頼化する女たち」の完全再録で占めているのだ。

 うーん「無頼化する女たち 増補版」くらいにしてほしかったな。

 

 それにしても、「無頼化する女たち」にある東電OL殺人事件の被害者女性の話は圧巻である。本当にすみませんでしたと頭を下げたくなる。彼女をさいなんだのは、女性の生き方に対して時代が投げた「呪い」のようなものであり、言わば彼女は時代の犠牲者であった。

 さて、本書の増補部分で述べられるのは例の木島佳苗である。

 こちらも罪状がホントならばまことに極悪非道の悪魔ということになるわけだが、一方で、東電OL事件との対比でみれば、木島佳苗は時代の復讐者であった。東電OL事件と同じ根っこを持つ呪いに対しての強烈な復讐心なのであった。

 

 東電OLと木嶋佳苗を結ぶ一本の軸が見えてくれば、ここに日本社会の病理が表れる。

 それは、「男性が期待する女性像」という呪いであり、もはやエートスと呼べる病理である。

 これが「女性が期待する男性像」以上にエートスになっているのは、平たく言ってしまえば女性の場合「男性が期待する女性像」を全うし得れることができれば、それは当面の人生を全うできる、平たくいえば金や衣食住を獲得する大きなスキルとなってきたからである。それが良いとか悪いとか幸せとか不幸とかはおいといて。

 かたや男性の場合、「女性が期待する男性像」を持っていても、持っていなくても、人生を全うできるかどうかのリスクは、少なくとも女性ほどの影響を被らなかった。これもそれが良いとか悪いとか幸せとか不幸とかはおいといて。

 だが、「男性が期待する女性像」を天然でゆるふわでやりきれる女性は実はそんなに多くない。ひとつの社会的処世術として身につけているだけで、もちろん長いことそれをやっているから、身体感覚、運動神経感覚、あるいは生存本能感覚として身についていている人は多くとも、好きでやっているわけでは必ずしもない(同僚の武闘派系女子曰く、いまだにおじさんの多くが大カンチガイしている点)。

 よって、その耐性がなく社会から強制されて破滅したのが東電OLであり、その気がなくても側(がわ)だけで強烈な耐性で徹底的に演じきってみせたのが木嶋佳苗であった。

 この両端を極として、この「男性が期待する女性像」のエートスに対する攻防、正面突破から搦め手に目くらましに敵前逃亡、完全粉砕から妙手奇手にまで至る幾多の攻防こそが、女子の無頼化の歴史、それも本書言うところの「クソゲー」とも言える。

 

 とはいいつつ、結局は僕は男性で、こんな遠巻きなことしか言えないのだけれど、果たして自分の娘はどのように育っていくのだろうか。

 個人的には、ひとりで生きていける能力、すなわち自力で稼ぐ能力を身につけておいてほしいと思う。これは西原理恵子が繰り返す教訓に近く、そこにひどく共感するからである。曰く「自分で稼ぐということは自由を得る」ということ。金がないのは首がないと同じ、自由がないのと同じ。これがどれだけ人生を不幸にするか。

 どんなにきれい事をいおうと、自力で稼ぐつまり自由に金を使える身分でないとこの国では幸せになれないのである。(女性の人生のロールモデルを扱う本でやたらに取り上げられるのが光文社の女性誌VERY。しかし、誰も言わないけど、僕はVERY妻(専業)ってすっごくDVのリスクがあると思うんだけれどなあ。)


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やさしさをまとった殲滅の時代

2013年11月08日 | 社会学・現代文化

やさしさをまとった殲滅の時代

堀井憲一郎

 

 またしばらく忙しかったのだが、隙をみつけて本は読んでいてその中の1冊。

 2000年代の最初の10年、俗にゼロ年代と呼ばれるこの10年間に日本社会は何を得て何を失ったかを散文調に語っている。

 いくつかのキーワードがある。「ラノベ」「BL」「ブラック企業」「スマホ」「ステマ」これらの言葉の中心にあるのは何か。
 あるいはネット発のコンテンツである「電車男」と「ブラック企業に勤めているんだが、もう俺は限界かもしれない」の決定的な違いは何か。

 本書の鋭いところは(たぶんに皮膚感覚なものだろう)、この10年間は前半と後半で、かなりの相違を嗅ぎ分けていることだろう。
 前半の代表が「電車男」であり、後半の代表が「ブラック企業に・・」なのである。
 本書を代弁すると、個人主義が行きつくところまで行きついたのが、後半の5年なのである。

 もちろん2000年の時点ですでに個人主義はかなりきていた。だがしかし、この時代の「個」は、まだあたたかく他人の「個」を見守る、干渉しようとするだけの余裕があった。
 これが後半になると、自分の「個」の優先とのバーターとして、他人の「個」に無干渉でいく姿勢がみられるようになる。本書の言葉でいうと「人に迷惑をかけない限り、何をしてもかまわない」ということになる。
 一見もっともな理屈だが、この概念もかなり先鋭化していて、「迷惑」というのはほんのちょっとした手間ヒマだったり、ちょっとだけ相手の作業の中断を必要とする(たとえば電話をかけるなど)」ようなものも入る。そして、「何もしてもかまわない」というのは「ほんの少しの介入も許さない」ということになる。年賀状に子どもの写真がはいるのもNGである。

 まるで個人の殻がATフィールド並みに強くなって、これを突破させるのは一つの技術になってしまい、相手に干渉出来る人を「リア充」、できない人を「コミュ障」と区分けできそうな勢いなのが昨今である。

 この先鋭化する個人主義――私が私として満足であれば他はどうでもいい。私も他人に迷惑かけないから、他人も私に干渉しないでくれ。私に無理強いするものはすべて「ブラック」であり、そんな私の全能感をひたしてくれるのが「ラノベ」であり「BL」なんだからほっといてくれ。私は欲しい情報があれば、それは私がこの手にもつ「スマホ」で、それがかなり極私的な趣味にかなうものであってもタダでネットで調べあてられるし(なにしろライフログだビッグデータだで、システムのほうもそれを追随しているから)、頼みもしないのに私に押し付けるのは全て「ステマ」なんだから――つまり、極私的でいられることの抜け出しがたい快感にまで社会のシステムが行きついてしまったのが、ゼロ年代後半から今にかけてなのである。
 こう考えると、例の悪ふざけ自慢や強制土下座などを鼻高々にツイッターなどで報告してしまうのも、「私」が満足できるからのみの価値観ゆえの行動といえるし、これに対して、天下の極悪人なみに制裁を与えようとするのも、他人に無理強いしたり、迷惑かけていながらなんの罪の意識も感じていないことに対しての許しがたい「私」への侵犯をそこに見出すからともいえる。
 
 実は個人主義がどんどん先鋭化してきていることの指摘はずいぶん前からあった。夏目漱石の「私の個人主義」以来必然の時代と言う人もいたし、社会学では「第2の個人化」というコトバを用いるし、2003年に、この極まっていく個人主義の行く末を秋葉原という都市空間の変容から予言していた本もあった。
 だが、その個人主義の先鋭化は同時に恐ろしい排他主義を併存させることまではやはり気付かなかったのである。(ほんの数年前のようにも思うが、現在ならば「電車男」は成功しなかっただろう。)

 では、行き着いた個人化の先はどうなるのか?
 個人のさらなる分裂か。ひとりの人間がいくつもキャラを使い分ける現象はすでに10代を中心に世渡りのリテラシーとして起こっているし、平野啓一郎はこの先の「分人化のススメ」を説いている。
 あるいは究極の大逆流がおこって個は無に帰し巨大なひとつの所属意識に至るのか(おお、まさにエヴァンゲリオン(「ヱ」じゃなくて「エ」のほう)の人類補完計画)。それが暴力的なナショナリズムでないことを祈りたい。(この意味で「3.11はふたたび日本を一つにした」という指摘は、現実はそう牧歌的なわけにはいかなかったにしても、「個」の先鋭化を一時的にでも立ち止まらせる契機にはなったかもしれない)。

 

 ところで、本書では、この2000年代前半の、まだ他人の干渉の余裕が若干ながら残っていた時代と、きわめて個が強くなった後半の境目を2006年から2007年くらいと感じている。その境い目に何があったかを本書は特に指摘していないが、思い返してみれば、このころ「WEB2.0」というコトバがサービスとともに流行ったように記憶する。ブログ、ミクシィ、RSSリーダー、はてな、そしてウィキペディアが始まった頃だ。「みんなが考えることはだいたい正しい」なんてテーゼが出てきたころだ。

 そう考えると、実はこの時期ネットに大放流されたのは集合知なんかではなくて、極限まで細分化され、固い殻で覆われた「個」の大バラマキであった、ということになるんだなあ。(ウィキペディアの項目が、諸国の中で日本だけやたらに趣味に特化しているという記事を読んだことがある)
 


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