読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

死の貝

2024年05月13日 | ノンフィクション
死の貝
 
小林照幸
文藝春秋 (新潮文庫)
 
 
 20世紀も終わりころ。20代の僕はニフティの読書好きフォーラムのひとつをよく覗いていた。まだモデムを使ってピーガシャガシャと接続していた頃である。SNSも掲示板もロクな検索エンジンもなかった時代だから、本の評判をそういうところで得ていたわけだ。
 
 フォーラムの誰かが、文藝春秋からものすごいノンフィクションが出た、と投稿した。その名も「死の貝」。かつて日本の農村部で猖獗を極めた寄生虫病を根絶させる話という。無名の作家と地味なテーマに騙されるな、ぐいぐい読ませる、とその投稿主は興奮していた。
 
 この手のノンフィクションは当時から好きだったので、直観で面白そうと思い、行きつけの本屋に探しにいったが見当たらず、カウンターで予約してもらった。数日後に本が届いた旨の電話がかかってきた。
 
 読んでみて、その中身に圧倒された。日本住血吸虫という寄生虫の存在も、それが山梨県や広島県で猛威を振るっていたことも、慢性的な栄養失調におとしめてやがて肝臓や脾臓を破壊する恐ろしい感染病であることもこの本で初めて知った。医療関係者や該当地域の人以外には関心を得にくそうな硬派なテーマなのに、圧倒的なドラマツルギーを放つ筆力に飲みこまれた。けっして大言壮語を操るような文体ではない。愚直に何処某の誰某が何をした、その結果何々の成果があった、あるいは何々の壁にぶつかった、といった事実ベースの積み重ねである。かなりの資料にあたったと見られ、固有名詞や数字が次々と出てくる。むしろ報告書みたいな時系列の記述なのに、その事実が小説より奇なりというか、事実の重みに語らせてるというか、とにかく1日で読み切ってしまった。周囲の読書好きに薦めまくった。
 
 ところがなぜか、この本はその後それほど話題にはならなかった。なにか賞をとることもなく、文庫化もされなかった。
 
 そこから幾星霜。四半世紀もたって突如に新潮文庫で復刻されたのだった。
 
 
 新潮文庫版の帯をみると、Wikipedia三大文学のひとつ、とあった。Wikipediaの記述が面白すぎて思わずよみふけってしまうものの一つらしくて、そのスジには広く知られていたらしい。ちなみに残りの二つは八甲田山雪中行軍遭難事件と三毛別羆事件とのこと。前者は新田次郎、後者は吉村昭の小説が有名でどちらもロングセラーだが、なぜか日本住血吸虫を扱った本書だけが出版業界から見落とされていたわけだ。これだけ小説ではなくてドキュメンタリーだったからかもしれない。単行本が文藝春秋なのに文庫本が新潮社で出た事情もなにか背景があるのかもしれない。
 
 というわけで文庫化によって話題になっているのを知った僕は、文藝春秋の「死の貝」を書棚から改めて取り出して読む。なにより感動するのは、昔の医者は偉かったんだなーと思うことだ。
 
 罹患してしまうと腹が太鼓のように膨れてぼろぼろの栄養失調になって死に至る恐ろしい病である。感染源も治療法もわからない。それなのに、田んぼの中に素足で歩いていると罹るらしい、という農民の伝聞だけを頼りに、自ら素足で田んぼの中に立って事実関係を確かめる医者(そして実際に感染した)、とにかく何かがおかしいと村人の糞便を採取しまくって寄生虫の卵を探す医者、治療費もとらずに絶望的な患者を次々診ていく医者。自己犠牲というか未知の病を克服するためのがむしゃらな精神に舌を巻く。よくこの手のものはベテランの医者が誤った見立てをしてしまって業界全体をミスリードしたりするエピソードに事欠かないのだが、今どきのEBPMを彷彿させるような、かなり統計学的な手法を用いて原因を特定しようとする医者も登場する。
 
 医者だけではない。患者も挑戦する。近代医療の黎明期である明治時代にあって、みずからが自らの身体を後世のために解剖することを願い出たり、臨床実験結果も出ていない試薬に協力する。先ごろのコロナワクチンの狂騒とは隔世の感がある。それくらい藁をもすがりたくなるひどい病気だったのさということなのだろうが、自治体も国も、戦時中の一時期を除いて病因の特定と予防に躍起になる。ひとつの目的のために官民一体となるこの姿は現代の日本ではなかなか考えにくいことである。
 
 最終的には、ミヤイリ貝という小さな淡水貝が、この寄生虫の中間宿主であることが突き止められ、この貝を日本から絶滅させるという気宇壮大というか誇大妄想的な事業が開始される。溝渠の底をシャベルですくうと砂利のようにたんまり出てくる貝を、である。日本全国で数億匹は下らないはずだ。村人総出で箸を使って一匹ずつつまんで捨てたり、大量の石灰を撒き続けたり、火炎で燃やしたり、水路をコンクリートで覆うなど、あらゆる手を使う。せっかく効果が出ても川が氾濫して元の木阿弥になってしまったり、ちょっと手を抜いただけでたちまち貝は増殖するなど、この貝はなかなかしぶとい。
 
 悪戦苦闘の結果、貝の駆逐を開始して40年、謎の病の調査からは100年経ってミヤイリ貝はついに日本から姿を消した。宿主を失った日本住血吸虫という寄生虫は少なくとも日本ではいなくなった。山梨で地方病、広島で片山病とよばれたこの寄生虫によるおそろしい病は事実上消滅したのだ。
 
 人間が根絶させたウィルスというと我々は天然痘を思い浮かべるが、貝を根絶させるなんてすさまじいことを我が日本はかつてやってのけたのである(正確にいうと日本住血吸虫に侵されていないミヤイリ貝は日本にまだわずかだが生息しているそうだ)。
 
 
 生物多様性とか生態系バランスの今日からみると、ある固有種の貝を力技で絶滅させるというのはなかなか暴挙なようにも思える。水路をコンクリートで覆う(全長数百キロに及ぶそうである)のも、農村景観の保護とか自然の保水力の低減の観点で異議ありと言ってくるエコロジストは出てきそうだ。
 
 しかしそういう話は、なんだかんだで余裕の産物なんだな、と本書を読めば思ってしまう。日本住血吸虫は日本の農業史とほぼ併走していた寄生虫であり、村人を全滅させて廃村に追い込み、記録にも残らなかった例も過去にはあったであろうことを、他国の例などから類推している。自ら素足を田んぼに突っ込んでまで病の原因を解明しようとした医者がかつていたことを思えば、人類のウェルビーイングのための希求は、自然との泥縄の戦いの歴史だったのだなと感じ入る。
 
 とはいうものの、ミヤイリ貝と日本住血吸虫のしぶとさも本書の見どころのひとつだ。安全宣言が出て30年以上経っているが、本当に根絶したのだろうか。「ないこと」を証明するのは非常に難しい。昨今の異常気象や川の氾濫から、どこかでひっそりとミヤイリ貝のコロニーが育っているんじゃないかと思うとうすら寒いものを感じる(現代では治療薬のほうも揃っているようなので安心されたし)。
 
 
 というわけで、本作品の新潮文庫での復刻はご同慶の至りだ。消えるには惜しいノンフィクション名著は他にもある。「青函連絡船ものがたり」や「大列車衝突の夏」なんかは著者の執念の探索が見もので、個人的には名作だと思っている労作ノンフィクションだ。ぜひとも復刻してほしい。

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超人ナイチンゲール

2024年01月14日 | ノンフィクション
超人ナイチンゲール
 
栗原康
医学書院
 
 
 世間一般的には、看護師は医者の助手である、という見られ方が多いと思う。医者のほうが看護師よりエライと思っている人はいっぱいいるはずだ。看護師に暴言をはくけど医者にはへこへこするモンスター患者の話題には事欠かない。
 
 しかし、それはとんでもない浅はかであって、医者と看護師は、性質を異にした等価な関係である。そもそものコンセプトが違うのだ。医者が行うのは治療(cue)ないしサイエンスであるのに対し、看護師の役割は「看護」すなわちケア(care)である。この二者は独立した価値を持っており、それがゆえに日本でも世界でも、医大と看護大は歴然と区別される。
 聖路加看護大学の学長であった日野原重明は、その最終講義にて、もう施しようがなくて医者が見捨てた患者も、看護師は絶対に見捨てず、その人生が全うするまで全力で相手をする。これこそが看護師の特権である、と学生に手向けの言葉を送った。
 
 看護という行為の価値を医療と同等に、看護師という地位を医者と同等に成し遂げたのがかのナイチンゲールである。ナースコールも食事配膳用エレベーターもみんなナイチンゲールによって実現したものだ。本書はそのナイチンゲールの生涯と業績をアナーキズムの観点からひも解いている。なぜアナーキズムなのか。僕はまったく知らなかったが著者がその方面の人らしい。文体はかなりアナーキーだ。
 
 アナーキズムのアンチテーゼは「国家」である。よって、ナイチンゲールの業績をアナーキズムで照射するということは、おのずとその対立軸は国家ということになる。現に、ナイチンゲールは母国イギリス政府やイギリス階級社会の前例主義・形式主義・条文主義・教条主義に反旗を翻し、徹底抗戦していった。ナイチンゲールのことを戦場の天使と形容されるが、天使というにはあまりにもマッチョであった。著者の言い方によれば、彼女の提唱する「ケア」はアナーキズムだったのである。すなわち「国家」のテーゼとは何から何まで相反するものであった。
 
 要するにこういうことである。「国家」というのは行政基盤を敷いて民衆をいかにマネジメントするかに腐心する。そのためには平準化と合理性が求められる。民がそれぞれの判断で勝手なことをしていては秩序が保てないし、いちいち個別の事情を汲んでいては一つの国と言えないからだ。そこで憲法とか条例とか制度とか刑法が登場する。これをしなければならない、これをしてはならない、これはこう使え、これをするのはこれになってから、これをやった人はこれとみなす。などなどの線引きを行う。お酒は20才になってから。燃えないゴミを出すのは木曜日。給付金をもらえるのは子供が3人から。こういった線引きのために基準や尺度が生まれる。メートル法もグリニッジ標準時制もみんな共通の基準をもってそこから判断や取捨選択をしていくためなのである。徴税の計算根拠・徴兵の基準はこれらをもとに行われた。国家とは、計測をしたりイエスorノーで区別する仕組みの上に成り立っているといってよいだろう
 
 だが、それでは「ケア」はできないのだ、というのが著者を通じてのナイチンゲールの看護観である。相手が何歳だろうが、どこの国籍だろうが。性別がなんであろうが、経済事情がどうであろうが、社会ステイタスがどうであろうが、敵だろうが味方であろうが、聖人だろうが無礼者であろうが、わけがあろうがなかろうが、目の前に助けを求めている人がいるならば、苦しんでいる人がいるならば、死にかけている人がいるならば、問答無用でケアする。ケアとは無限抱擁なのである。ケアとはとにかく「見捨てない」ことが原則なのだ。区別と排他がつきまとう「国家」とは相いれない。
 
 ナイチンゲールが看護というものに底無しに没入した(仲間が何人も過労死するレベル)ことの背景に、彼女の神秘主義があったと本書では述べている。クリミア戦争に赴いたときは、全長6キロにわたる病棟をカンデラを手に毎晩患者を見舞いに歩いたとか、国の供出費では追い付かないのでポケットマネーで日本円にして億円単位の出費を賄ったとか、病棟の設計や看護学校の設立までやってのけてそれは現代でも通用するとか超人めいたエピソードは事欠かないが、その理屈抜きの猪突猛進は、彼女が天の啓示を受けたという神秘体験にあったとする。天の啓示によって確信したミッション、即ち天職(calling)なのだから、その動きをけん制する諸制度諸習慣諸判断はすべて抵抗勢力なのであった。天職の原語はcallingというんですね。
 
 彼女の場合、すべてをなぎ倒してその決意を実行するだけの超人的な肝っ玉があったわけだが、もちろん精神力だけではなくて、彼女の実家が気が遠くなるほどの金持ちであったことと、そこに由来する上流社交界も功を奏している。むしろ我々人類にとってまことに幸運だったのは、ナイチンゲールにすさまじき資金と人脈があったということ、そういったリソースを惜しげもなく看護というまだ得体の知れないものに投入してくれる人だった、ということだろう。なにしろナイチンゲールの姉や母はそういうことに一切関心がなかったようなのだ。
 
 
 本書では彼女の革新的かつアナーキーな思考傾向を神秘体験による天職観が後押ししたとしていて、何かが憑依した超人としてのナイチンゲールにスポットライトをあてている。一方で統計学を駆使したり、組織行動学を理路整然と語りだすところなどは極めてラジカルだし、案外に策士的な行動や意思決定も多く、単なる取り憑かれたシャーマンではなく、なにか非常に現代に通じる思考フレームを身につけていると僕は思っている。
 
 ナイチンゲールといえば「看護覚書き」である。世界中の看護学生が必ず読まされるバイブルだ。本書ではあまり語られていないが、これによるとケアに必要なのは「知・心・技」すなわち「症状に関心を持つこと」「患者の気持ちに寄り添うこと」「看護の技術を身に付けること」の3要素であった。また、患者の回復力をはかるには「食事」「清潔」「換気」が必要であるとした。ほかにも、看護師が育つには「病院(現場)」と「寄宿舎」と「学校」の3つがいる、などと主張している。
 ナイチンゲールはこのように、三位一体論で話を組み立てることが多い印象がある。三要素の掛け算で理想を実現するのだ。AかBか、是か非かといった西洋論理にありがちな二元論が持つ陥穽こそがケアの大敵であったことを見抜いていたのかもしれない。
 
 
 
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南海トラフ地震の真実

2023年12月02日 | ノンフィクション
南海トラフ地震の真実
 
小沢慧一
東京新聞
 
 わが国においては、政治と科学が対立したときは政治が優先されるということがよくわかる本。むしろ、政治は科学から浮遊したところにあるのだ、と言ったほうがよいのかも。
 
 政治的判断が科学的根拠より優先されるという例はこの本に限らず、ここ数年において随所でみてきたように思う。たとえばコロナ対策だ。いま思えば、コロナ分科会長の尾身氏と政府のちぐはぐはその代表例だったろう。当時、尾身氏においては御用学者とか政府に謀反を起こしたとかいろいろ揶揄とうっぷん晴らしの的にされていたが、あれこそは政治的優先と科学的懸念の戦いだった。緊急事態宣言レベルの感染状況なのに外国人を呼んで東京五輪を断行し、そのときだけは緊急事態宣言が解除されていて、五輪が終わったらまた緊急事態宣言で人流抑制という究極のダブルスタンダードは、科学そこのけの政治的行為の極北であった。
 
 他にもある。脱炭素の国際的潮流に日本も乗るため、2030年までに二酸化炭素の排出量を46%減らすという宣言を、ときの環境大臣である小泉進次郎が行った。この46%という数字の根拠はどこから出たのか、という問いに対し、小泉進次郎は「おぼろげながら数字が浮かんできた」と、例の進次郎節でしゃあしゃあと言いのけた。なんていいかげんなともちろん炎上したが、冷静に考えればそんなわけはないのであって、この46%という数字は大いなる政治的駆け引きと思惑があって引かれた線のはずである。科学的根拠による積み上げでは39%程度がいいところだったが、欧米諸国とのバランスや関係省庁とのかけひき、企業に檄を飛ばす程度の塩梅の中で、もっとも政府がマウンティングをとれるのがこのスコアだったのである。
 こういうあまりつっこまれたくない政治的判断を公表するときにバカのふりをしてけむに巻くのは政治家に求められる気質のひとつだろう。僕は、進次郎構文に代表される彼の迷言シリーズは、案外にわかった上でうつけ者のふりをしているものではないかと睨んでいる。一種の腹芸だ。
 
 
 したがって、南海トラフ地震の「今後30年以内に80%の確率」というのが科学的見地から離れた政治的思惑の独り歩きだという本書の指摘において、まあそういうことなんだろうなあ、と思う。国としては、地震の襲来タイミングをピタリと当てたいのではなくて、とにかく経済的・人的損害が少しでも軽減するように防災対策をしておいてほしいのであろう。30年以内に20%の確率です、と言うよりは、30年以内に80%といったほうがみんな防災行動をするのは確かだ。
 
 江戸時代のことである。土佐藩では米作の害虫被害が深刻になっていた。対策を検討している過程で、ムクドリが害虫を捕食することが判明した。しかし当時はムクドリは庶民に食されていた貴重なたんぱく質だったので、ムクドリに害虫を捕食してもらうためには、人々がムクドリを獲るのをやめてもらう必要があった。しかし大事な食べ物を「害虫を食べてもらうために人間は食ってはいけない」と言ったところで、人々がムクドリを捕まえることを止めないだろう。当時は飽食の時代ではなかった。
 
 この1000羽に1羽というのが絶妙で、これが10000羽に1羽程度になると、まずは当たらないよ、といって人々は捕獲を続けるし、100羽に1羽となると嘘がばれやすい(今までさんざん食していたのだ)。
 この絶妙な数値設定のお触れによって、ムクドリは保護されたという。
 
 南海トラフの「30年以内に80%」という数値が出来上がるまでの裏話をきいて、このムクドリのエピソードを思い出した次第である。
 
 
 
 もっとも、本書だって、本当は30年以内に20%くらいなのに、80%なんて嘘をついてけしからん! と言っているわけではない。防災は大事である。本書が問題として指摘しているのはある種の既得権益・利権の構造と、人間判断の副作用である。
 
 前者でいうと「30年で80%」だからこそ、対策費や研究費として予算がおりやすくなる。国の予算は有限だから、南海トラフ対策に予算が寄せられるということは、その分なにかの予算がしわ寄せを食うということになる。あったかもしれない予算割り当ては子育て対策だったかもしれないし、感染症対策だったのかもしれない。
 
 もう一つの「人間判断の副作用」というのは、「南海トラフが危険ということは、他所では地震はこないってことだよね」という安心バイアスの発生のことである。人間というのは弱いもので、都合のよい解釈に飲まれていく。
 
 前者の既得権益の虚無感もやるせないが、後者の人間判断バイアスはけっこうバカにならない気がする。本書でも指摘しているように、日本で近い将来地震が来ると戦後昭和の時代から言われ続けたのは、首都圏直下地震であり、東海地震であった。阪神大震災も東日本大震災も熊本地震も「想定外」だったのである。自分のところは大丈夫という気分的な安心バイアスだけではなく、それを根拠に企業誘致や住宅地造成が行われるから厄介だ。
 だからといって、住民や企業を呼び込みたい自治体にとって、我が土地は安全です、とアピールしたくなるのはそりゃ当然であろう。これだって科学から離れた政治的判断であるという意味では同じだ。熊本ではいま半導体工場の建設ラッシュだが本当に大丈夫なんだろうかと思う。
 
 統計学の世界では「第1の錯誤」「第2の錯誤」という概念がある。
 「第1の錯誤」とは「本当はないのにあるとみなす錯誤(偽陽性)」であり、「第2の錯誤」は「本当はあるのかないのか断定できないのに『ない』とみなす誤謬(偽陰性)」のことだ。前者は単なる予言の失敗、というやつだが、問題は後者で、実はこの「第2の錯誤」を犯す確率はけっこう高くなりがちなのである。そして地震の話に戻れば「本当は地震が来ないのに来るとされる土地」よりも「本当は地震が来るか来ないかはわからないのに来ないとされる土地」のほうが出現頻度は多いのにそれに気が付かない、というミスリードを誘発することになる。
 
 統計的トラップ×人間の安心バイアス×政治的都合という複合によって、地震を引き合いにした安心感の引き寄せは実ははなはだ厄介な現実的局面をつくってしまうのである。行動経済学的とでも言うか、ある意味で人間が生来的に持つ判断能力の範囲を超えてしまっているのだ。明治時代の科学者であった寺田寅彦が喝破したように「災害は忘れた頃にやってくる」なのである。裏を返せば「忘れないうちにやってくる自然現象は災害ではない」ということだ。
 
 というわけで、地震の予測については、南海トラフであろうとその他の地域であろうと「わからない」というのが本当のところである。地震保険やら防災フェアやらハザードマップやら、地震をネタに観心を買おうとする例は多いが、これに関しては本当に五分五分のわからなさと考えてよさそうだ。

 

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ある行旅死亡人の物語 (ネタバレ全開)

2023年11月08日 | ノンフィクション
ある行旅死亡人の物語 (ネタバレ全開)
 
武田惇志 伊藤亜衣
毎日新聞出版
 
 
 2020年4月、コロナウィルスの日本上陸で世間が騒然とする頃に、大阪に隣接する兵庫県尼崎市の風呂なし木造ボロアパートで、孤独死した老女が発見された。遺留品が極端に少なく身元不明となった。警察の調べの結果、特に事件性は疑われず、身元引受情報を求めるデータベース型の官報におさめられただけだった。
 そのおよそ1年後に、若き新聞記者が、たまたまネタ探しとしてこの官報を覗いたのである。残された所持金が多かったことに興味を抱いたこの記者は、同僚を誘って二人三脚でこの女性の正体を追跡することにしたのである。本書はノンフィクション・ドキュメンタリーである。
 
 
 ワイドショー受けしそうなところの真実はほぼ解明されない。
 
 なぜ3400万円もの大金を隠し持っていたのにあんなボロアパートに住んでいたのか
 なぜ近所付き合いを徹底的に避けていたのか
 なぜ住民票を抹消させていたのか
 なぜ右指全切断という重度の労災を負ったのに労災年金支給を断っていたのか
 なぜあんなに部屋のセキュリティを強化していたのか
 なぜ違う方角から帰ってくるのか
 なぜ記録と実年齢が12才もかけ離れていたのか
 なぜ警察が発表している身長と違うのか
 なぜ闇医者で治療をうけていたのか
 なぜこの身元不明の死体を田中千津子だと証言した人の情報が食い違うのか
 なぜ数日おきに数万単位のお金が引き下ろされていたのか
 なぜ田中竜二は消息不明なのか
 なぜ田中竜二は勤務先を偽っていたのか
 なぜ遺留品の一部が無くなっているのか
 なぜ番号が記入された星型のアクセサリーが遺留品に残されたのか
 なぜ韓国ウォン紙幣が保管されていたのか
 
 なにもわからないまま本ドキュメンタリーは終わる。え? ここで終わっちゃうの? と肩透かしを食らう。
 
 もちろんそんなことは著者も出版社も承知の上だろう。著者も出版社もばりばりのマスコミご本人であってその温度感は人一倍知っているはずだ。つまり、この本はそんな野次馬的な主旨で上梓されたのではないということになる。
 
 では、社会課題を掘り下げようとする主旨か。独居老人の孤独死、しかも身元不明。たしかにこういう例は今後増加していく一方だろう。
  しかし、本書は必ずしもそれが主眼でもないように思う。それならば、もっと孤独死に関しての日本のデータや事例を多く引用してくるだろう。
 本書はそういった社会背景や一般事例を示す情報がほとんど出てこない。本書は、この身元不明で名前が田中千津子(らしい)、住民票からも記録が抹消された謎の女性の正体を求めて、警察も探偵もたどりつけなかった彼女の正体を、ただひたすら新聞記者の執念で足を使って追い求めていく話なのである。
 
 アパートの大家さん、近所の商店街、かつて務めていたとされる工場の元従業員などをつぶさに取材するが芳しい情報は得られない。みんな彼女のことをほとんど知らない。
 そんな八方ふさがりにおいて、調査の突破口になったのは部屋に残されていた「沖宗」という珍しい苗字の印鑑だった。田中千津子の旧姓か本名かはわからないが、このレアな苗字が広島県出身者に多いことを知る。そして、レアゆえに沖宗姓の家系図をつくっているという人物と出会うことに成功する。
 これを契機に沖宗の苗字を持つ人間を渡り歩く。そしてついにこの田中千津子の親戚にあたる人を広島市内でつきとめる。
 
 しかし、田中千津子が実在した人物であることが証明されても、本人の人となりはあいかわらず茫洋としたままだった。取材に当たった人はみんな生前の田中千津子とは30年以上音信不通だったのだ。彼女の人生を追うために調査は続く。広島市内だけでなく、彼女が幼少時に住んでいた近隣の町や若いころに勤務していたという会社の情報にもあたる。女学校時代の同級生とも出会う。こうしておぼろげながらも次第に田中千津子の輪郭が形作られてくる。
 
 それでも田中千津子がなぜ広島を去って大阪に行ったのか。大阪で何があったのか、は遂にわからない。昭和30年代、高度経済成長を邁進する日本は清濁併せ呑む巨大なエネルギーの中にあった。彼女もそんな戦後の渦に飲みこまれていったようだった。
 
 
 彼女の遺留品の中で異彩を放っていたのは巨大な犬のぬいぐるみだった。「たんくん」という名前が与えられ、子どもの服が着せられていた。長年かわいがっていたことがその状態からわかった。本書表紙のイラストは、アパートを背景に、後ろ手にぬいぐるみを持つ女性の後ろ姿を描いている。強く胸をうつイラストだ。不可解な晩年であったことを示す状況証拠と、ひとつのぬいぐるみを大事に愛してやまなかったひとりの女性像というコントラストが、人生の陰影の妙を深く感じさせる。無常と諦観もふくめた人生の機敏を感じさせる。本書の主眼はそこにあるのは確かだ。
 
 とは言いながら、本書が持つ「凄み」を最も感じるのは同業者、すなわち記者やライターと呼ばれる人たちではないか。ここで炸裂するのは若い2人の記者の底知れぬパワーだ。この2人のガッツはシンプルに眩しい。
 ネットの情報も下調べには使うが、この調査はひたすら足である。彼らは警察の捜査班などではない。天下の警察手帳も捜査権限などない。しかもわずか2人である。
 経費も出ないから、自費でなんども広島や尼崎に通う。専門班ではないから普段は日常の業務をこなした上で、この女性のことを調べるのは深夜や休日である。空振りや無駄足が多くても幾多もの人に会いに行く。警察にも行く(相手にされない)。実家の跡地にも行く。工場の跡地にも行く。コロナだろうが猛暑だろうが行く。働き方改革なんてクソクラエという執念を感じる。
 何が彼らをそこまでさせるのか。この2人の記者が持つ田中千鶴子へのまなざしは、暴露趣味のイエロージャーナリズムではない。孤独な中で犬のぬいぐるみだけを友にしていた一人の女性への愛といたわりが、本書の随所で現れる。田中千鶴子は幸せだったのかを著者は何度も自問する。
 
 本書は、本来ならば路傍の石のように黙殺されるはずだった身元不明の孤独死した女性が、田中千津子、本名沖宗千津子として根も足もある人生をあるいた一人の人間であったことを浮かび上がらせた。ここにジャーナリズムの矜持を見た気がする。裏をとり1次情報に接しながら、骨太な真実を愚直に追求する。当て推量も辻褄合わせも無しである。
 その結果、実像を結んだのは、沖宗千津子という女性が実在したという真実と、彼女と邂逅し、彼女のことを覚えていて、思い出話を語ることができる何人かの人物が存在していたという真実だ。彼女は決して身元不明でも生涯天下の孤独でもなかったというその真実である。確かに人は誰でも死ぬ。しかし、人は死して名をのこす。沖宗千津子の名はのこっていた。二人の記者が足で稼いで上げた成果である。沖宗千津子もって瞑すべしであろう。
 
 アテンションエコノミーが席巻する今日に、こたつ記事でセンセーショナルな見出しつくってよしとする安易な記者やライターへの痛烈なメッセージがここにはあるといってよいだろう。

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人類初の南極越冬船 ベルジカ号の記録

2023年04月19日 | ノンフィクション
人類初の南極越冬船 ベルジカ号の記録
 
ジュリアン・サンクトン 越智正子 訳
パンローリング
 
 
 人類初の南極点到達とか、人類初の単独北極横断とか、極地探検にはいろいろな人類初があるが、こちらは人類で初めて南極で冬を越したというもの。
 とはいえ、当初から狙っていた越冬ではなくて、行きがかり上そうなってしまった、ということ。つまり「遭難」である。
 
 極地探検の遭難といえば、寒さや飢えに苦しみ果てるイメージが強い。南極点到達一番乗り競争に失敗したスコット隊は、計算外の寒さに当初予定していた行動がとれず、ついには食料不足となって全員死亡した。北極探検に100名以上の大所帯で挑んだフランクリン隊は、氷に挟まれて船が破壊され、彷徨の末に多くが餓死に至った。生還者は1人もいなかった。
 
 本書、ベルジカ号に乗るジェルラッシュ隊は、人類最初に南極越冬を余儀なくされた隊である。それゆえに寒さと飢えは半端なかっただろうと思いきや、実はそうではない。いや、決して楽だったということはないのだろうが、本書の記述で寒さや飢えのすさまじさを伝えるエピソードはほとんどない。そこは十二分な対策をしていたのだろう。本書のオリジナルのタイトルは「MADHOUSE AT THE END OF THE EARTH」つまり「極地の精神病院」。隊員を苦しめたのは精神異常だった。
 船は四方を氷に閉ざされて身動きできない。広大な氷原の真ん中で、そこに南極ならではの常夜と白夜が訪れる。これが人を精神的にひどく追い詰めたらしい。太陽が出ないでひたすらに夜が続く、というのはここまで人の心を荒廃させるのか。白夜続きで夜が訪れないというのはここまで人を不安にさせるのか。
 
 僕は一度だけ数日間、冬の北欧にいたころがある。ノルウェーのトロムソという北緯69度の街で季節は12月だった。午前10時くらいにようやく外が白み始め、正午あたりに、ようやく日本の冬の朝7時くらいの明るさになる。そして午後2時くらいにはもう日が暮れる。旅行者の気楽さで単に物珍しくて面白がっただけだが、なるほど毎日がこれでは精神に来るものがあるのかもなとは思った。だから北欧は家の中をあんなに暖かく飾り立て、家具や小物のデザインがいかしているのだな、と思ったくらいだ。
 
 もちろん、ジェルラッシュ隊の心を追い詰めたのは、常夜や白夜だけが原因ではない。いつ氷が動いて船が押しつぶされるかわからないし、そもそも南極を脱出できるのかどうかもわからない。すでに極限的な心境があった上に、太陽があがってこない、あるいは太陽があがりっぱなし、という極端な異常状態に彼らはさらされた。
 
 食料は十分にあったとはいえ、栄養には偏りがあった。ビタミンCが不足したために隊員は壊血病にかかっている。船医として隊に参加していた経験豊かなフレデリック・クックが、エスキモーの食生活から生肉には壊血病予防の効果があることを推定し、無理やりにペンギンやアザラシの生肉を隊員に食わせた。そのために一命だけは取り留めたものの、フィジカルにも健康をやられた隊員は続出した。
 
 このジェルラッシュ隊で異彩を放っていたのは、この船医クックと、若い乗船員ロアール・アムンゼンだ。そう、あのアムンゼンである。このジェルラッシュ隊は、クックとアムンゼンがいたから、なんとか犠牲者2名で生還できたようなものであり、本書もその見立てで構成されている。その後のアムンゼンがなぜスコットを出し抜いて南極点一番乗りを果たせたのかはいろいろ説があるが、そもそもこのジェルラッシュ隊での経験で、極地探検のなんたるかをアムンゼンは原体験しているところが大きいようだ。またクックという個性的なアメリカ人船医との邂逅がアムンゼンのその後に大きく影響をしたことが本書では書かれている。
 
 一方のクックは、一般的には知られていない名前である。しかし、北極点一番乗り争いでロバート・ピアリとひと悶着あった人といえば、ピンと来る人はいるかもしれない。クックの北極点到達記録は現在なお認められていない。彼の到達場所は北極点のはるか手前だったとされている。クックという人は良くも悪くも誇大妄想的なところがあったようで、それが窮地を救うミラクルをみせることもあれば、反対に独り相撲やピエロを演じることにもなってしまったようだ。
 もっとも、最近の研究だとピアリも北極点に到達していない疑惑が強いらしい。ぼくが子どものころは北極点一番乗りはピアリということになっていて、子どもむけの科学まんがなんかでもそう紹介されていたが、いろいろ検証するとピアリの記録は捏造の疑いがあるという。そうなると北極点一番乗りは誰になるのかというと、なんとアムンゼン(飛行船での到達)になるそうだ。彼は北南極両方を人類初で極めたことになる。
 極地探検というのは、もちろん猛烈な根性と周到な準備が必要だが、誇大妄想すれすれの狂気さがなければとても成し遂げられないものではあるのだろう。アムンゼンという男は、いろいろな伝記をみるに心の底から野心溢れる冒険家だったようである。
 
 
 それからすると、このベルジカ号の隊を率いた隊長アドリアン・ド・ジェルラッシュ。この人は前人未踏の地を行く隊を率いる冒険家とするには少々常識人すぎたかもしれない。この人の小市民的なプライドやバランス感覚や優柔不断なところ、そして優しさが、本隊の遭難の原因ないし遠因になったことは否めない。ベルギーを出航して南極圏にたどり着く途中途中で隊員の部分最適に付き合いって手間取っている結果、南極入りが当初の予定から大幅に遅れている。この時点でこのプロジェクトは先がないと言える。
 本書から察するに、ジェルラッシュは船のかじ取りとしてはかなり名手だったようだ。氷山が狭まる海峡をすり抜けたり、暴風雨を切り抜けたりする技術は極めて優れていたようである。言わば技術者上がりのリーダーだ。しかし、人心を掌握し、モノゴトの優先順位を瞬時に判断し、不測自体の中で決断と実行を果たしていく力量には欠けていたように思う。この意味ではエンデュアランス号遭難で有名なアーネスト・シャクルトンがとったリーダーシップはやはり目を見張るものがある。極地探検に関わらず困難なプロジェクトをチームで行う上でのチームリーダーの在り方が、コトを大きく左右するのだという好例だろう。

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黒い海 船は突然、深海へ消えた

2023年03月23日 | ノンフィクション
黒い海 船は突然、深海へ消えた
 
井澤理江
講談社
 
 
 あちこちで書評や著者のインタビュー記事が出て、たいへん興味を持った。なんか早々と今年のノンフィクション大賞の呼び声も高いので、さっそく読んでみた。
 
 対象となる「事故」は、いまから14年前の2009年6月22日に、福島県の太平洋沖合でおこった第58寿和丸という漁船の転覆沈没事故である。
 決して荒天でもないのに17人が死亡ないし行方不明となる大事故で、生存者はわずか3名だった。この事故は報道されたし、僕も新聞で見た覚えがある。
 しかし、この事故、続報の記憶があまりなく、そのまま報道の世界からは消えてしまった感がある。転覆の原因は「波」というのが、国が事故調査報告書に掲げた正式な見立てであった。
 
 さて、ここからである。
 ノンフィクションやドキュメンタリーというのは、決して単なる経緯報告レポートなのではない。ある種の世間に問いたいメッセージがジャーナリスト側にあり、それに沿って情報の取捨選択や扱いの大小があってストーリーが編集される。もちろん好き勝手に切り張りしていいわけではなく、ジャーナリストの良心と技術に基づくことが前提だ。ジャーナリズムとしての公平中立を踏まえながらも、そこには何がしかの主張や告発がある。そうでなければ、わざわざコンテンツとして世に出す意味がない。
 その観点において本書は、沈没の原因は決して「波」なんかではない、ということを丹念に、いや執念といってよい取材で解きほぐしている。
 
 沈没の真の原因については、あちこちの書評や著者のインタビュー記事などでしっかり触れられている。なので、このブログでも書いてしまうが、第58寿和丸の沈没原因は潜水艦との衝突の可能性が高いことを本書では掲げている。
 むしろ本書のクローズアップするところとしては、
 
 ・国はなぜ潜水艦衝突を認めようとしないのか
 ・その潜水艦はどこの国のものか
 
ということになる。
 まず、後者に関しては推定の域を出ないものの、米国の潜水艦である可能性が高いことを示唆している。とはいってもこれは消去法、つまり日本・ロシア・中国・韓国などの可能性をひとつずつ消した上で導き出したものであり、米潜が犯人という積極的証拠としてはまだまだ不十分のそしりは免れない。
 
 本書で慎重に、そして執念で追及しているのはやはり前者だ。なぜ、国は潜水艦の可能性を追求せず、「波」説に固執するのか。
 
 先に触れたように、ノンフィクションとは決して中立ではなく、ジャーナリズムとしてのある種のメッセージがある。現代の複雑な世の中においては、それは一面の真実かもしれないが、全容を説明するものでもない。おそらく官僚には官僚の言い分、官僚が見えている光景、そして正義があるのだろうとは思う。
 しかしそれを踏まえた上で、本書で描かれる官僚の立ち振る舞いには、やはり日本のガバナンスが持つ絶望的な虚無を感じざるを得ない。この虚無は、東日本大震災で大川小学校を襲った悲劇を扱った本とも通じるものだ。
 
 本書には本事故の原因究明や調査報告にあたった官僚、元官僚、国に依頼されて調査に携わった専門家が次々と取材の対象として登場する。彼らの多くにみられるのは、事なかれというか、外形上のつじつま合わせができていればそれでよい、という価値観だ。これは彼らが悪びれているわけでも、開き直っているわけでもない。言わば、官僚機構の悪作用部分がもっとも露悪された例である。
 「外形上のつじつまがあっている」とは、法に照らし合わせて手続き上問題がないということである。守秘義務を盾に取材協力や資料提供を拒む。事故調査報告書は作成手続き上まったく瑕瑾がなく、規則どおりに随所の有識者の確認・監修を経て正式に受理され、ちゃんと社会に公表されている(そのタイミングが東日本大震災後の混乱の最中であることは何の法にも抵触しない)。運輸安全委員会とは、安全上の教訓を示唆するのが組織のミッションとして規定されており、その教訓はちゃんと報告書に示されている。そこにはなにも蒸し返す余地はない。日本は法治国家なのだからそれでいいのである。むしろ変に人情味や個別事情の斟酌をしたり、非公式な手法の情報をとりいれたり、逸脱したジャッジをすると、それはもう法治国家ではなくて人治国家になる。つまり中国のようなガバナンスへの糸口を拓く危険性もある。
 行政の秩序を旨とする国家公務員であれば、法治に従い、法律を遵守する意思決定こそが正義なのであって、そこにはなんの疚しさも罪もない。法律上の守秘義務をまもって情報開示や取材を拒むのはむしろ国家公務員として立派な態度ということになる。手続き上スキがない事故報告書作成は行政の完璧な仕事である。官僚の正義とはそんなものである。
 
 残念ながら、それが「この国のかたち」なのだ。海難事故の事故調査や、安全保障や防衛に抵触する情報の取り扱いとはこのようなものとして、万事これまで規定され遂行されてきたのだ。それで万事が安泰なのである。マクロな目線で見れば、物価もエネルギーも食料もなんだかんだで諸外国に比べればまだまだ平常の範囲で調達ができて、今日も社会秩序は安定であり、外敵の脅威は無く、行政は滞りがなく、人々の生活はつつがなく維持されるのである。そんな日本をいつまでも維持させていく。繰り返すが、官僚の正義とはそんなものである。一般市民感覚とは見えている世界がまるで違うと言うしかない。この非情な温度差こそが、本書から浮かび上がる世界だ。
 
 
 本書は、著者が「取材はまだ続いている」と述べているように、実は最後まで読んでも事故原因については結論にたどり着かない。国は潜水艦原因説を認めていないし、情報開示も相変わらずままならない。また、潜水艦説を仮定するにしてもその国籍は結局のところ憶測の域を出ていない。その意味で、この本は調査の途中で上梓されていることになる。なぜ刊行に踏み切ったのか。著者や、出版社である講談社はどのような価値をこの本に託したのか。
 
 これは僕の個人的感想である。
 実は、本書刊行の動機は、この行政ののらりくらりとした対応の結果、不条理と言えばあまりにも不条理に落としこまれてやり場のない思いを抱えている一人の人物がここにいることを社会にもっと知ってほしかったのではないか。
 その人物とは沈没した第58寿和丸の所有者であり、17名の社員を亡くした酢屋商店の社長である野崎哲氏である。完全に被害者でありながら、その立場として事故の責任者として全うせざるを得ない。遺族を見舞い、マスコミに対応し、行政に陳情し、会社の立て直しに走り回る。
 
 それなのに、試練は終わらない。この事故で1隻の船(第58寿和丸は重要な基幹船であった)と17人の社員を失った酢屋商店では、その2年後の東日本大震災による津波でさらに3隻の船を失う。浜辺に面した社屋も津波で破壊される。漁場は福島第一原発事故による汚染の憂き目にあう。会社は存亡の危機に見舞われる。
 第58寿和丸の事故と東日本大震災の因果は、直接は関係がない。それを一筋の物語としてつなげて、野崎氏に対する行政のことなかれを強調するのは、もしかしたらアンフェアかもしれない。しかし、野崎氏から見れば、この立て続けに起こる理不尽、不条理は、旧約聖書のヨブ記さえ思い起こす苦難の連続である。そこに味方なのか敵なのかわからない問答を繰り返す官僚は、野崎氏にとって悪夢の不条理劇に満ちたものだったと容易に想像できる。彼にとっては自然も行政も不条理の極みだった。
 それでも、そんな不条理の最中で生きざるをえない、ならば生きよう、としている人物がいるのだ、これが本書のノンフィクションとしての裏メッセージではないかと思う。だからこそ、本書はまだ調査未完の状態で上梓する価値があるのだ。野崎氏の不条理を語るには十分である。むしろ真相究明されていないからこそ、野崎氏の不条理な境遇はより深刻なものになる。
 
 本書は最後に、石牟礼道子の詩が引用される。石牟礼道子を語りだしたのは野崎氏の口からに他ならないのだが、著者はこの石牟礼道子という世界観に遭遇することで、自分の描こうとしているもののなんたるかが輪郭を帯びたのではないかと思う。圧倒的不条理の中で、絶望のさなかに、それでも生きていかねばとしている小さい声を聴く。行政がしたためる正式報告書という正論の暴力の下で、生きようとしている小さな声がある。その輪郭が掴めたとき、このドキュメンタリーは1冊の本として上梓に踏み切ったのではないか。
 
 東日本大震災から12年。いま福島第一原発廃炉における処理水が、彼らの漁場に海洋放されることが決定されている。

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情報パンデミック あなたを惑わすものの正体

2022年12月04日 | ノンフィクション

情報パンデミック あなたを惑わすものの正体

読売新聞大阪支社社会部
中央公論新社


 実は僕、フェイクニュースとかデマとか陰謀論とかに興味がある。
 といってもそういった世界に耽溺するのが好きなのではなくて、人はなぜフェイクニュースとかデマとか陰謀論に惹かれるのか、というメタ目線での興味である。このブログでも過去にいくつかこのテーマの本を掲げている。

 
140字の戦争 SNSが戦場を変えた
フェイクニュースの生態系

 近似する内容としてはここらあたりも含むだろうか。

現代アメリカ政治とメディア
群集心理
輿論と世論 日本的民意の系譜学
ヒューマン・ネットワーク 人づきあいの経済学
つながり 社会的ネットワークの驚くべき力

 これらの本を読んで思うのは、ありていに言えば「人は信じたいものを信じる」という脳の本能がある、ということだ。これがベースである。したがって「信じる情報」がたくさんその人に入ってくれば入るほど、「信じる情報」に長い時間接すれば接するほど、その信念はより強固となり、さらなる信じたい情報を呼び込むことになる。このプロセスは極めて排他的であって、「信じたくない情報」は回避し、拒絶し、否定するようになる。時間が経てば経つほど「信じたい情報」が蓄積され、これに反する「信じたくない情報」の拒絶度合いは大きくなる。
 ところがこの過程において、その情報の「程度」というものは、最初のうちは穏当なものなのだが、それを信じて次々と情報をとりこんでいるうち、いつのまにか自分がとりくんでいる情報は穏当どころか、極めて過激で極端なものになっている。しかし本人はそのことに気づかない。どこか、摂取しているうちにだんだんニコチン濃度やアルコール濃度が高まっていく嗜好品に似ている。
 やがて、その人は並の状態ならば思いもよらぬような、極めてエキセントリックな信念に囚われているようなことになる。もちろん当人はそのことに気が付かない。ここに至る過程において、意に反する情報や価値観は排他させられていくから(しかも長じるほどちょっとした差異も受け入れがたくなる)、しばらく時間が経った段階では、彼に蓄積された情報とそれによって形成された信念は、世の平均的思考からは大きく距離が離れたところにいることになる。
 もちろん、現実の生活を、世間一般のレギュレーションで送っている限り、そこまで濃度高い情報にまみれてしまうことはないだろう。この世の中には多様かつ浅い情報がわんさか流通していて、我々はそれらに刹那的に接しながら日々送っているだけである。

 ところが、同じような考えをもつ人間だけと閉鎖的に過ごしたり、同じような中身の情報交換ばかりしているとスパイラル的にこの罠にはまることになる。たとえば、往年の学生運動のセクトがそれにあたる。観念の暴走とまで呼ばれたそれら濃縮された信念はちょっとした差異も許さず、やがて内ゲバが横行することになった。
 近年話題のカルト宗教も、この性質がある。同じ信念を持つ信者の共同生活と外の世界との隔絶が、当初は信じていた情報は穏当なものだったのに、やがて他人から見ればとんでもない情報までを「信じる」ようになっていく。


 とはいえ、あくまで一般に平穏に、常識的な人たちとつきあっていく平凡な生活である限り、そんな情報の麻薬めいた作用に溺れるリスクはない。いや、これまでの時代ならばそんな機会はなかなかなかったのである。これがそうもいかなくなったのがここ数年なのだ。大きな理由は3つある。

 ひとつめの理由はインターネットの世界における技術革新である。フィルターバブルやチェンバーエコーという用語はかなり一般化されるようになった。つまり、ネットで気になる情報を探していると、ネットがもつテクノロジーによって「気になる情報」だけが次々と手元に集まって読めるようになり、「気にならない情報」はどんどん視覚から遠ざかっていくのである。ニュースアプリに掲げられる情報は、自分が気になる情報だらけになる。
 たとえばいま僕のニュースアプリの画面には東京五輪をめぐるゴシップ記事が次々と現れるようになってしまった。興味本位でいくつか読んでみたら、こいつはこのテーマに興味があるとアルゴリズムに判断されてそれ以降、毎日のように高橋某とか電通とかが写真付きで連なるようになった。
 いっぽうで、僕はサッカーにまったく関心がなく、ドイツ戦もスペイン戦もいっさいテレビ視聴をしなかったクチである、もちろんネットの記事もクリックして見たりはしない。すると、あれほど国民の関心一般を巻き込んでいるかのような出来事でも、僕のニュースアプリ上にはいっさいサッカー関係の記事は出てこなくなってしまった。はじめから無いかのようである。
 げに恐ろしきは、フィルターバブルとチェンバーエコーである。サッカー勝ったんだよ、すごいことなんだよ、と言ってくれる家族や友人知人がいることを幸せと思わなければならない。

 ふたつめの理由として、このようなネット環境においては、「いかに注目されるか」がネットビジネスにおいて最重要になってきたということである。これをアテンションエコノミーという。要するに注目されればされるほど稼げるということだ。バナーやアファリエイトならばクリック数、動画ならば再生数。業者から支払われる報酬は単純にクリック数や再生数と単価の掛け算である。ということはなるべく煽情的なもののほうが注目されやすくなる。正確だけどつまらない情報より、少々根拠が怪しくても血沸き肉躍る情報のほうがアテンションを稼ぐことができる。隣があんな言い方で注目を集めているのならば、こっちはこんな言い方でもっとビュー数を稼いでやる。こうやって語り口はどんどん過激になっていく。

 このようなからくりがあるから、ネットで「信じたい情報」を探す癖がある人は本当に気をつけなければならない。ニュースアプリならばまだテキスト情報だが、さらにやっかいなのがYouTubeをはじめとする動画だ。動画はテキスト以上に情感に訴えて情報を送り届ける。つまり説得力抜群になる。気になったユーチューバーのご高説を最後まで聞いてしまうと、「おすすめ」欄に次々とそのユーチューバーの他のコンテンツが表れてくる。たぐりよせてみているうちに、冒頭に述べたような状況にとらわれてしまうことになる。オンラインセミナーなんかで人気のユーチューバーのカルト的な支持をみるとむべなるかなと思う。

 しかしそういうのにはまっていくのは、一部の特殊な状況に置かれた人の場合ではないか。なにか信じたい情報を探したいというよすがを求める人の話ではないか。「信じたい情報を探す」という動機がなければそんなものに捕まらないように思える。そんなに自分のアイデンティティを脅かすような「信じたい情報を探す」ことがそう発生するだろうか。

 それがもうひとつの理由だ。昨今になってフェイクニュースやデマや陰謀論が盛んになった背景、いうまでもなく「コロナ」である。
 そもそもデマは、社会情勢が不穏なときに発生しやすいとされてきた。戦争や天災は代表例である。コロナもそうだ。
 コロナによって不条理にも、不安な状況に陥ってしまった人はたくさんいる。休業を強いられた飲食店業の人、業績悪化にともなって解雇された人、交友関係が途切れてしまった人、痛いワクチンをややこしい手続きはらって撃たなければならなくなった人、不快でめんどうくさいマスクをしなければならなくなった人。自分には何の落ち度もないのになぜこんな不条理な状況に追い込まれてしまったのか。のうのうとしている人だってたくさんいるのになぜ自分だけが。
 この「なぜ自分だけが」という明日への不安と社会不信が理由をもとめて「信じたい情報」を探す。そうすると、そこに自分の疑問に答えてくれる言説が待ち構えている。「ワクチンは危険だからうってはいけない」「コロナは陰謀であってそんなものは存在しない」「マスクに意味はない」。そうだそうだ。情報をたぐりよせてみていくうちに自分の置かれた不条理に理由をつけてくれるおすすめ動画が次々と紹介される。SNSにいけば、同じような考えの同志がたくさんいるではないか。自分だけではない。やがて、間違っているのは世の中のほうと確信していく。この自分に意見する奴は敵に見えてくる。思想の異なるものは滅しなければならない。この衝動もまた古来から人間が持つ本能だ。

 本書を読むと、フェイクニュースにのめりこんだり、陰謀論を固く信じ込む人の特徴として「マスメディアの情報はウソばかりで、ネットの情報こそが真実だ」と思っている人が次々出てくる。本書自身が読売新聞社の記者の手によるものだし、出版社も大手出版社なので、マスメディア側のバイアスがかかっていることには注意しなければならないが、「マスメディアは真実を語らない。ネットは真実を語る」という見立てが横行しているのは興味深い。むしろ校正・校閲・ファクトチェックをネットのほうがマスメディアよりも行っているとはどうも考えにくい(わざわざやらなければならないインセンティブがない)。せいぜいが「ネットもマスメディアも、情報のいい加減度はどっこいどっこい」なんじゃないのかな、なんて思う。そもそも事実と現実と真実の境は曖昧なものかもしれないなんて気もしている。

 それにしても驚く。本書を読むと、陰謀論に動かされたのはコロナ前は本当にただの平凡な主婦や学生や会社員である。それが家族とも従来の友人とも断絶してしまい、同じ信念を持つ仲間と徒党を組み、街をシュプレヒコールし、ビラ紙を無差別に投函し、あまつさえワクチン接種会場に乗り込んだり、市役所に矢継ぎ早にクレームの電話をかけるようになる。陰謀論には前頭葉を変形させるくらいの力があるのかとまで思ってしまう。


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ヘレン・ケラーはどう教育されたか サリバン先生の記録

2022年10月27日 | ノンフィクション
ヘレン・ケラーはどう教育されたか サリバン先生の記録
 
著:サリバン 訳:遠山啓序・槇恭子
明治図書
 
 
 ヘレン・ケラーは、聾唖盲の三重の障碍にありながら、社会福祉活動家として世界を舞台にした偉人として、子ども向け伝記などでもおなじみである。往年の映画「奇蹟の人」も知られているし、来日歴もある。
 
 ヘレンの努力と熱意については、もちろん世界中から敬意を評されてきたわけだが、こと福祉教育の世界では、彼女をここまで導いた先生、俗に「サリバン先生」と呼ばれるアン・マンスフィールド・サリバンが注目されていた。
 
 サリバンが、ヘレンの元に派遣されたのはヘレンが6才のときだった。ヘレンは1才のときに熱病によって視力・聴覚を失い、故に言語の発話も覚えず、なんの教育もされていない「野生動物」だった。
 そんな状態の人間をいったいどうやって導くのか? ヘレンの最大の幸運は、このサリバンという名教師に巡り合えたことというのは疑いない。
 
 しかも驚くのが、そのときのサリバンの年齢である。なんと20才。現在の感覚にあてはめるわけにはいかないが、短大出で就職したばかりの新人の教師か保育士をついイメージしてしまう。そんなサリバンは、当時の障碍児の教育メソッドには頼らず、直観と熟慮と経験のトライ&エラーでヘレンを教育したのである。ケラー家の両親の理解や、サリバンの後ろ盾となるパーキンス盲学校のアナグノス校長の支援もあったに違いないが、それにしてもやはり驚く。「奇蹟の人」というのは日本では一般にヘレンのことを指すが、欧米ではヘレンとサリバンの両方を指すようである。
 
 このサリバン先生。実は並々ならぬ苦労人であった。両親はアイルランドからの移民で、アメリカにて極貧の家庭に育った。その後家族離散の憂き目にあい、救貧院に送り込まれた。貧困と不衛生で弱視に陥っており、救貧院では「盲人」として登録されていた。それでも脅威のねばり力で、救貧院にある本を読破し、たまたま査察に来た議員に訴え、盲学校への入学が許された。この盲学校では、ヘレン・ケラー以前に多重障害者として知られたローラ・ブリッジマン(彼女は視聴覚のほか味嗅覚もなかったそうである)と出会っている。こういった壮絶な経験が、一般の障碍児指導の教師とは異なる知識と経験知と意欲を育てたのだろう。盲学校時代に目の手術を行い、いくぶんかの視力を取り戻した。
 
 
 本書は、そのサリバンの手による、ヘレンの指導の記録である。ヘレン・ケラーに関しては、ヘレン本人による「わたしの生涯」が有名だが、この超難題を前にサリバン自身が何を見て何を思ったのかは、本書のほうが迫真に迫っているだろう。
 
 とくにヘレンの「覚醒」して名高い「ウォーター」のシーンは興味深い。一般にこのシーンは、ヘレンが初めて手に触れた水のことをwaterと認識(指文字で判断したとされる)し、初めて「ものには名前がある」ということを理解した、ということになっている。僕もそう思っていた。しかし実際はもうちょっと複雑なようだ。むしろ健常者がもつ世界認識では図りようもない、想像を超えた位相の転換があったように思える。
 
 実は、サリバンは初めてケラー家を訪問した日、ヘレンに人形をプレゼントしている。このときにサリバンはヘレンに指文字で「doll」と伝えている。ヘレンは「doll」の感触から人形のことを理解していたようである。つまり、ヘレンは「water」よりも前に、dollと人形の関係を知っていたことになる。その後しばらくの間にヘレンは十数個の単語を覚えたそうである。つまりwaterが最初に覚えた言葉ではないのだ。
 ではヘレンは「water」でいったい何に開眼したのか?
 
 「water」エピソードの以前に、どうもヘレンは「milk」と「mag」と「drink」の区別がつけられなかったらしい。なるほど、後知恵ならばこれらを区別させる方法を思いつきそうだがそんなのは皮算用。実際に聾唖盲で何の教育もされなかった6才児にこれを認識させることははなはだ難しいだろう。感触だけが手がかりの彼女にとって「doll」とはあの形象のことであり、パーツのことでもあり、それをつかって遊ぶということでもある。所作や対象をどこでどのように区切ってそこに言葉を当てはめていくか、というのは人間が後天的に獲得する知恵である。それどころか、「区切る」という発想をまず理解しなければならないだろう。「区切る」発想なしに、動詞や形容詞、可算名詞や不可算名詞の存在を仄めかしてもわけがわからないはずだ。
 
 これが、庭で水しぶきに触れた感触を得て、このひやっとしてぴしゃっとしたものこそが「water」であると知ったとき、これまで混沌としていたパズルのピースがすべてはまったようなのだ。(このとき手には「mag」を持っていたそうである)
 この状況を一生懸命に想像してみる。「doll」のときはスルーされて「water」のときに理解できたこと。それは、世の中の記述の仕方あるいは世の中のコミュニケーションのあり方は、パターン認識および言語体系によって成立しているということを初めて認識したということではないか。これによってヘレンは世界とつながる方法を得たのだった。ものすごくくどい書き方をしているが、言語化以前の世界を認識していた状況から「ものには名前がある」ということを知ったときのパラダイムシフトというのはこういうことなのではないかと思う。
 ヘレンがWaterを認識したのは水の感触の記憶からであった。「感触」こそは言語化以前に知覚できる記号情報であり、ヘレンはこのとき「感触」によって、「名前」による人間の所作やモノゴトの「区切り」のことを知った。世界はそのように秩序されているのだ。「ものには名前がある」というのは、「世の中は記述で把握されている」ということなのである。
 サリバンは、このWaterのエピソードを「大事な第二歩」を進んだ、と表現している。
 
 これは要注目だ。この有名なエピソードはサリバンにとって「第二歩」なのである。では「第一歩」とはなんであったのか?


 ヘレンは「第一歩」にあたる出来事を手紙で報告している。その手紙で「二週間前の小さな野生動物は、やさしい子どもに変わった」と記し、「この小さな野生児は、服従という最初の教訓を学び、そして拘束が楽なものだと気づいた」と表現している。
 
 サリバンがケラー家に到着したときのヘレンは、手の付けられない野生動物だった(「モンスター」と形容されることもあった)。それをサリバンは2週間でおとなしく言うことをきかせられる関係に持っていた。それを「服従」「拘束」と表現している。
 しかしこの「服従」「拘束」という剣呑な表現には説明がいるだろう。これは屈服させる、ということでも、無理やり言うことをきかせる、ということでもない。サリバンがヘレンにしてほしいことをヘレンが行えば、サリバンは喜び助かり、そしてヘレンにも良い結果が返ってくる、という善のフィードバックの関係性を知るということだ。同じく、ヘレンの要望をサリバンが進んで叶えてくれれば、それはヘレンにとって望ましいだけでなく、サリバンにとっても満足感を得られるものことであり、二人の間により善の相乗効果が働く。
 これは要するに愛と信頼による相互関係の形成である。単にサリバンとヘレンの間柄だけではなく、家族や外部の人たちとのこともあてはまる。人間には相互に愛と信頼があり、それが安心の秩序となって両者が共有できる文化となる。愛と信頼は言語非言語を問わない。ヘレンは「野生動物」であった。その「野生動物」にサリバンがまず注入したのは、「人と人の関係の作り方」だ。言語はその次なのである。この後長じてヘレンは外に対して愛の態度を積極的にとっていく。その外向きの姿勢によって次々と新たな知識を吸収していく。
 
 まずは愛と信頼関係の構築。これが「第一歩」。そして「ものには名前がある」ことに覚醒した「第二歩」。このプロセスこそが多いに敷衍できるサリバン先生の功績なのだった。
 
 とはいえ、もちろん順風満帆にいくわけはないのであって、初期は言うことを聞かない「野生児」のケラーを何時間にもわたって取っ組み合って押さえつける日々を余儀なくされている。映画でも描かれているシーンだ。思うに、子どもの体力を上回るガッツこそ、二十歳という若さのたまものだったかもしれない。
 サリバンはその後、ヘレンの人生にずっと付き添った。眼病には長年悩まされ、70才で完全に失明した。

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ノモンハンの夏

2021年07月21日 | ノンフィクション
ノモンハンの夏
 
半藤一利
文芸春秋
 
 
 学校の教科書なんかでは「ノモンハン事件」と書かれることが多く、その名称から局所的な小競り合いの印象が強いが、その実態は完全な戦争であった。
 また、かつてはこの戦争については、日露戦争勝利の記憶を残して油断していた旧兵器の関東軍に、近代化したソ連の大軍が圧勝した戦争と見立てられていた。かの名著「失敗の本質」でも最初の事例としてとりあげられている。
 
 その後の研究や情報開示で、ソ連側もかなり甚大な被害を出しており、その損失度で言えば五分五分とまでされるようになった。むしろ兵力的には大きく優勢のはずだったソ連軍がここまで被害を出したのは日本側の前線兵士の超人的な奮闘があったのは事実だろう。もっともこの戦争によって日ソどちらが最終的に果実を得たかというとやはりこれはソ連だろう。もともとこの戦争のきっかけは、あいまいだった国境線の裁定をめぐるものであった。結果的には和平調停の後にソ連の言い分が通った形で最終決着している。
 
 日本軍敗退の理由としては、統帥を無視した関東軍の暴走とか、日本陸軍参謀本部の優柔不断な態度とか、補給と兵站の軽視とか、そもそもの慢心とかいろいろ言われている。ひとつひとつその通りな気がするし、本書における著者の関東軍司令部なかんずく辻正信や参謀本部に対しての罵詈雑言も、むしろくどすぎるほどだが、本書の構成から見えてくるのは、この戦争ないし小競り合いの大局的な位置づけを日本とソ連はそれぞれどう見たかという点で余りにも大きい根本の差があるように思う。結局のところはスターリンという巨魁に、時の総理大臣平沼麒一郎も陸軍大臣板垣征四郎も海軍大臣米内光政も、もちろん陸軍参謀本部も関東軍も完全に遊ばれた感じがする。地球儀を前にしたスターリンのシナリオ通りなのであって、彼がナチスドイツならびに世界に仕掛けた究極の腹芸「独ソ不可侵条約」という世紀の離れ業を成立させるための一演出なのである。
 こんな独裁者がいる国と戦争するのは心底イヤだと思うと同時に、クラウゼヴィッツが言うように、戦争は「政治」の一手段でしかない、というのをまざまざと感じる。そもそもノモンハン事件は、日本サイドとして何をどうしたかったのか、どういう布石をそこに求めたのかが最後まで意味不明なままだった気がする。(「失敗の本質」では関東軍の「火遊び」から始まったと描写されている)

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グレート・インフルエンザ ウイルスに立ち向かった科学者たち

2021年05月27日 | ノンフィクション
グレート・インフルエンザ ウイルスに立ち向かった科学者たち
 
著:ジョン・バリー 訳:平澤正夫
筑摩書房
 
 
 文庫本で上下巻。登場人物がやたらに多いのと、原文がそうなのか訳のせいなのかいまいち文意のたどりにくい表現が多く、読み通すのにずいぶん時間がかかってしまった。が、こういう歴史がかつてあったのだとわかれば、今のコロナの世の中の見る目も変わる。
 
 本書は1918年に世界中に猖獗を極めたスペイン・インフルエンザの話である。一説によればこの感染症により、世界の死者は5000万人(1億人以上説もある)に達した。当時の世界人口は18億人だから、現在では2億人以上の死者に相当する(現在の世界人口は78億人)。日本でも30万人以上の死者が出た(現在の人口換算だと80万人に相当する)。COVID19コロナウィルスの世界の死者が現時点で約350万人、日本で約12500人であるから、その威力のすさまじさがわかるというものだ。
 しかし、そのわりにスペイン・インフルエンザは謎が多い。このパンデミックについては文献も口碑もこれだけの規模の大惨事にしては目にすることがない。訳者も後書きに記しているが、実は1923年に起こった関東大震災のほうが犠牲者の数は少なかったのである(死者約10万人)。その関東大震災は「防災の日」という記念日が現在に至るまであり、歴史の教科書に必ず載り、大震災由来の史跡もあり、文学作品にもしばしば登場する。
 しかしスペイン・インフルエンザのほうはそうではない。コロナの流行でようやく再注目された程度である。
 
 スペインインフルエンザが発生したとされる1918年は、第1次世界大戦が終結した年でもある。この世界を巻き込んだ大戦の死者数は1600万人とされる。これと比較してもスペインインフルエンザのほうが圧倒的な殺傷インパクトがあることがわかるが、さらにはこの第1次世界大戦の死者も、その3分の1は兵役中にスペインインフルエンザに罹患してのものだという指摘がある。さらに一説では第一次世界大戦の終結を早めた一要因だったともされている。(本書ではそれどころかウィルソン米大統領が罹患したために戦後処理のベルサイユでの会議を思うように運用できなくなり、戦後の国際社会体制にまで影響を及ぼしたことが示唆されている)
 とにかく、世界中を巻き込んだスペインインフルエンザだが、このインフルエンザ、発生地はスペインではなくアメリカだというのがおおむねの見解である。アメリカ国内で発生し、アメリカの第一世界大戦参戦に伴ってヨーロッパ他各地に感染が拡大していった。本書はアメリカ国内でのこのインフルエンザの流行と、それに関わった政治家や科学者の物語である。
 
 この時期、アメリカ政府(ウィルソン政権)は第一次世界大戦参戦の気運づくりにやっきになっていた。僕はこの本を読むまであまりよく知らなかったのだが、このころのアメリカ政府はナチスばりの戦争まっしぐらのための全体主義国という側面があったのである。国威高揚に努め、次々と志願兵を募集した。赤十字を通じて看護婦も国中から募った。銃後の産業支援体制を優先させた。戦費調達のための国債の購入も強いられた。反対陣営は明に暗に叩き潰され、粛清に近いこともされた。そんなところにスペインインフルエンザが入り込んだわけだ。当局は嘘と黙殺で塗り込んでいく。為政者はインフルエンザを軽視し、感染拡大を認めず、街中を行くパレードを強行し、各種演説会や集会が開かれ、メディアは正義の参戦を盛り立てた。いくら市内の感染犠牲者が増えても見て見ぬふりをし、それなのに兵站キャンプでの集団発生で患者が続出して医者や看護婦が足りなくなると、市内で既にひっ迫しているにも関わらず病院から医者や看護婦を引き抜いた。それでも足りなくて元看護婦だった人をかき集めたりした。市内の大混乱と関係なく、戦争参加のために人や資材は運ばれた。爆発的な感染拡大をした街は悲惨であった。病床も看護師も足りず、死者は増加し、あげくに埋葬業者も棺桶も足りなかった。街によっては外出制限を施して耐えたが、ようやく解禁してみんなが喜んで外に出た途端に第2波がやってきてのきなみ感染者を出すところもあった。
 
 その有様を読むと、「アメリカ」を「日本」に、「戦争」を「オリンピック」に、そして「インフルエンザ」を「コロナ」に置き換えてしまえば、もうまるでまったく現在の日本の状況と変わらないのだから驚く。人間というのは歴史に学ぶ学ばないというよりは、もう条件反射のように同じ行動しかとれないのではないのかと思うくらいである。本書における当時のアメリカ政府のそのなりふり構わぬぶりの記述は、昭和の大日本帝国も彷彿させる。そして今の日本のオリンピックをめぐるこの止まらない暴走機関車のような具合を太平洋戦争末期になぞらえる意見が多いのも周知の事実だ。本書は国が不都合を隠し、都合よい解釈を推し進め、国策ファーストで進めたことが感染拡大と市中の混乱につながったことを冷静に指摘している。
 けっきょく当時のアメリカは兵站キャンプでのその人口の過密さや非衛生な環境によって次々と感染を引き起こしている。そしてキャンプに集っていた兵士たちは次々と戦地に輸送され、また新たな集団がキャンプに集められる。第1次世界大戦でのアメリカの死者は12万人弱と言われているが、その半数は戦闘での犠牲ではなく、スペインインフルエンザによるとされている。
 
 
 本書の主題のひとつがこのアメリカの戦争体制によって広がったインフルエンザと感染の犠牲者の話だが、もうひとつは科学者たちの戦いだ。本書の見立ては、もはや人災レベルと言えそうな為政者の愚策と、悪戦苦闘する医者や科学者の構図である。
 
 これも実はあまり知られていない事実で、僕も本書を読むまできちんと理解していなかったのだが、このスペインインフルエンザが最終的に終結した理由はワクチンではない。単に多くの人が罹って集団免疫がついたこととウィルスが弱毒の方向に変異したことが全てだと言われている。つまり自然のお沙汰である。医者や科学者はこのインフルエンザの治療法予防法としてありとあらゆる方法を試したが効果は出なかった。しかしそもそも原因となるウィルスが発見できない。なにしろこのころはまだウィルスと細菌の区別がまだついておらず、抗生物質も存在しないしなかった。したがって現在からみて間違った診断や診療も多かったのである。
 その中でも最大のミスリードが「インフルエンザ桿菌」というものの存在だ。つまり、スペインインフルエンザを引き起こす細菌の存在をめぐっての研究である。
 
 スペインインフルエンザの重症化するメカニズムは、今日ではウィルスが体内(主に肺)に侵入してそこを中心に免疫系を破壊し、肺炎を引き起こす細菌による二次感染にかかったり、その過剰な免疫反応(サイトカインストーム)によるもの(よって免疫機能が活発な元気な若者ほど重症化しやすい)というのがわかっている。しかし、このメカニズムが発見されたのはかなり後のことだった。当時、有能で著名な研究者が、罹患した人の検査でしばしば見つかる細菌の存在を発見し、これをスペインインフルエンザの原因としてしまった。それが「インフルエンザ桿菌」である。
 その後、各研究者の検証実験で、「インフルエンザ桿菌」があっても重症化していなかったり、「インフルエンザ桿菌」がなくても重症化した患者があちこちで発見されたが、現代とちがってナレッジシェアの仕組みも原始的だったからこのミスリードはずいぶん先まで是正されなかった。ウィルスと細菌の区別もはっきりしていない時代なのだから無理もない。
 
 けっきょく、スペインインフルエンザの因果を特定する医学論文が発表されたのは1931年のリチャード・ショーブと、1943年のオズワルド・アベリーによるものであった。ウィルスの分離に初めて成功したのは1933年とされている。それら科学者の奮闘をよそ眼にスペインインフルエンザは変異しながら第2波、第3波と続き、その後途絶え、また局所的にどこかで発生するというのを繰り返している。現在はH1N1型インフルエンザウィルスのひとつになっている。病原体としてゲノム単位から完全に特定されたのは1997年になってからだ。
 ただ、科学者たちの悪戦苦闘が無益なものだったかというとそんなことはなく、その過程で二重らせんの遺伝子学が始まったり、ペニシリンの発見による抗生物質の道が開かれたりもしている。医学の進歩も多数のがれきの中から生まれてくるのだなと感じるばかりだ。
 
 かくもすさまじきスペイン・インフルエンザが発生しておよそ100年。なぜそんなに人々の記録や記憶に残っていないのか。地震や戦争と異なって「街並みの光景がそれほど変わらなかったから」「その後の関東大震災や第二次世界大戦のインパクトで記憶がふっとんだから」「ある日突然ではなくて時間をかけて亡くなった人が増えたから」などいくつか仮説があがっている。ということは現在のこのCOVID19コロナ、世界の歴史を一変させたような一大パンデミックの様相ではあるが、100年後には忘れられてしまっているということもありえるのだろうか。
 

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クライシスマネジメントの本質 本質行動学による3・11大川小学校事故の研究

2021年04月13日 | ノンフィクション
クライシスマネジメントの本質 本質行動学による3・11大川小学校事故の研究
 
西條剛央
山川出版社
 
 
 圧倒されてしまった。まだ4月だが、今年読む本のベスト1位になるんじゃないかという気がする。
 
 東日本大震災ではいくつも悲惨な事故が起こったが、本書はその中の一つ大川小学校の事故を丹念に研究している。その意味では本書のジャンルはノンフィクションドキュメンタリーであるが、本書の野心はそこからかなり汎用的な組織論に敷衍させていることで、その意味ではビジネス界や行政に広く通用する内容だ。
 
 第1部は、大川小学校の事故がどのようなプロセスで起こったのかを決して多くない証言(この事故の生存率はわずか5.6%であった)や物証を丹念に検討し、整合性を検証し、ここまで再現できるのかというくらいのリアリティさで当時の50分間を記述している。行政の事故調査委員会でさえ及んでいない力作であると同時に、この事故の直接間接的な原因が悪魔の采配のような形で見えてくる。読んでしまえば「この人のこの立ち振る舞いがなければ」と思いたくなる部分もクローズアップされるが、本書は個人の責任に帰したくなる誘惑にまけず冷静に根本的なメカニズムを探ることに徹する。なぜ「この人」はそんな立ち振る舞いができたのか、あるいは「この人」にそんな立ち振る舞いを許してしまったのは誰なのか、あるいはなぜなのか、と追及し、そこに構造的な原因をみる。
 第1部は読んでいて涙が落ちてくる。そして第2部が来る。
 
 第2部は、他に似たような状況下、あるいは条件下にあった学校が他にもあったのに、なぜ大川小学校にだけが破滅的な事故に至ったのかを「普段の大川小学校」のマネジメント体制がどうであったのか検証する。
また、事故後に石巻市教育委員会や文部科学省の指示によってなされた第三者委員会の調査研究を検証する。この第2部でつまびらかになったことは、結論として大の大人が集まって何をやっているのだかという体たらくであり、思わず義憤にかられるが、それでも本書はジャーナリズム的な告発が最終目的なのではなく、冷静にこの組織の不条理の背景を紐解く。なぜ事故調査委員会はこうなってしまったのかを解く。
 
 一転して第3部は胸アツの展開になる。なぜ我々は(私もあなたも)こういう組織の不条理に陥るのか。そうならないためのリスクマネジメントの本質は何かに迫る。つまり本書は大川小学校事故の研究だが、固有の事故ひとつに限ることではなく、また津波や地震の避難対策に限ることでもなく、すべてのクライシスに対してサバイブするための普遍的なリスクマネジメントを示す。
 歴史的大事故とは言え、ひとつの事例だけをもとにクライシス全体のマネジメントまで持っていくにはそうとうな力技を必要とするはずだが、ものすごく丁寧に一段一段と登っていくプロセスは圧巻であり、まるで「あなたはなんのために生きているのか」という哲学的な問いまで突き付けられたような気分になる。(「あとがきにかえて」は著者の信念と執念がすごい。研究書の域を超えている)。
 この第3部と「あとがきにかえて」の熱量はすごすぎて、かえって第1部の神技のような事故再現のパートが薄れてしまうほどだ。
 
 
 大事故というものは「小さな偶然の積み重ね」で起こる、とはよく言われる指摘である。事故もののドキュメンタリーを見てもいつもそう思うし、大川小学校の事故もそうである。何か一つでも要素が欠けていたら、この事故は起こらなかったのではないかと思えてくる。
 この「大事故は『小さな偶然の積み重ね』で起こる」というのは、偶然の数が溜まれば溜まるほど、事故の規模が直線的に大きくなるのではない。それこそダムが決壊するように、ある時点まで偶然が重なった時にそこで一気に大事故として暴発するのである。
 なので、大事故を防ぐには「小さな偶然」を積み重ねないようにするしかない。だけど「小さな偶然を重ねてしまいやすい」環境というのがあるのだなというのは本書を読んでわかったことである。それが「他に似たような状況下にあった学校が他にもあったのに、なぜ大川小学校にだけが破滅的な事故に至ったのか」に特に収斂される。
 ここにひとりの校長が登場する。この校長の学校運営方針こそが「小さな偶然を重ねてしまいやすい」環境をつくってしまったことになる。そういう意味でこの校長の存在はセンセーショナルではあるが、想像力を働かせるに、この大事故さえなければ、この校長の立ち振る舞いも、あきれてはしまうが、決して稀有なものではない、保身と事なかれに長けた典型的な小役人タイプなのだと思う。こんな感じの人はどこの組織にもいる。僕の勤務先にもいる。僕自身にもこの校長の要素の何%かがあることを否定しない。
 
 ただ、本書を通じてわかることは、そして肝に銘じなければならないのは、つまりこのような小役人的リスクヘッジこそが実は大事故のリスクを高めるというパラドクスである。これはナシム・タレブの「反脆弱性」の話に通じるだろう。目の前のリスクヘッジをとればとるほど、想定外のクライシスを受けやすくなるというパラドクスの見本がここにはある。
 そして、目の前の小さなリスクヘッジをとりたくなるのは、人間の本性といってもよい防衛本能だ。
 人は防衛に入るとき、何を頼りにするかというと「形式」にこだわる。「形式」に防衛の根拠を託すのだ。「形式」を確保することで真理と信託をゆだねるのは、古来から綿々と続く儀式や祭事でも明らかなように、人類が歴史この方もっているソリューションである。儀式や祭事には、この「形式」をとっていれば間違いない、という観点がある。そういう意味では多かれ少なかれ、人にはこの「形式に託す防衛本能」があるのだ。たまたまちょっとそれが肥大気味だった人があのとき大川小学校の校長に赴任していたということであり、そういうタイプの人をスクリーニングで排除できない人事の仕組みが行政側にあったということである。また、石巻教育委員会も第三者委員会もこの「形式」に逃げ込む防衛本能に抗えなかった。
 
 しかし、「形式主義」に陥った時、そこに「小さな偶然を重ねる」スキが生まれるのである。それが大川小学校の子どもたちを襲ったのである。
 
 
 つまり「形式主義」に逃げないようにするには、人々にそのような防衛心を起こさせないようにすることが大事ということになる。
 とは言うものの「形式主義」に逃げないというのはある意味で人間の本能に反していることでもあり、一種の超人を期待するということに等しい。そういう人間になることを求め過ぎるのも一般解ではないだろう。「政策に対策あり」ではないが、ますます見えないところでの「形式主義」に追い込む危険もある。(震災後の分厚いマニュアル作りのエピソードなどまさにそうである)
 むしろ人を追い詰め、当人をして形式主義に逃げ込ませてしまうような制度や組織こそが諸悪の根源ということになる。本書はそれについても提言している。さいきん「心理的安全性」というキーワードが流行りつつあるが、これなんかも「形式主義」に逃げないためのひとつの方針であろう。
 また、「形式主義」に抗う方法として「真の優先順位は何か?」というのを常に掲げておくのも大事だろう。
 
 それにしても「本質」というタイトルがつく本にはハズレがないように思う。もちろん元祖は「失敗の本質」だろうが、以降「本質」を名乗るからにはこの「失敗の本質」がベンチマークになり、いい加減なことは書けないというプレシャーと気負いが著者にも出版社にも出てくるのではないかと思う。それに本書では菊澤研宗氏の組織の不条理」がしばしば引用されるが、この「組織の不条理」はタイトルこそ「本質」が出てこないが「失敗の本質」に正面から挑戦した本であった。
 
 著者がいうように「形式」の対義語は「本質」である。
 「形式」と「本質」が逆転した例(あるいは「手段」と「目的」が逆転した例)は、巷にあふれるが、それは「形式」と「本質」は我々の想像以上に容易に反転するということでもあるし、「形式」と「本質」を反転させないためには相当に強い鉄の意思が必要でもあるということだ。

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ルワンダ中央銀行総裁日記 増補版

2021年04月06日 | ノンフィクション
ルワンダ中央銀行総裁日記 増補版
 
服部正也
中公新書
 
 アフリカの小さな内陸国ルワンダは1962年に宗主国ベルギーから独立を果たした。その独立後まもないルワンダの中央銀行(日本でいうところの日本銀行)の総裁に、なんと日本人が6年間その任に就いていたのである。本書はその日本人、服部正也氏による回顧録である。氏は日本銀行の行員なのだが国際通貨基金IMFに出向し、IMFの名義でルワンダ中央銀行に派遣される形で赴任したのだ。
 
 底本は1972年。それがおよそ半世紀近くたって増補版として刊行されたというのも稀有な話だが、こんな面白いドキュメンタリーが眠っていたのかというのがまた驚きである。新書にあるまじき活字の密集ぶりに最初開いたときは思わずたじろいだが、その内容はなかなかドラマチックであり、文章もなかなか達者で興奮してのめり込むに十分だ。当方とくに経済も金融の知識もないがかなり読ませる。このあたりの分野をかじった人ならばもっと面白いだろう。
 
 赴任先でルワンダの大統領が示したビジョンは「ルワンダ人大衆とその子孫が徐々であってもよいから改善されてゆく」というものだった。つまり先進国に依存しないルワンダの経済的自立である。氏はその目標に達する技術を持つことを本懐として実務に乗り出す。当時のルワンダは独立間もないアフリカ小国それも貧しい途上国である。よってその任務は中央銀行の音頭取りにとどまらず、国の財政や経済政策にまで深入りしていくことになる。平価切下げがあり、二重価格制度の撤廃があり、農業を重点分野と見定めた税制改革があり、関税改革があり、外国人輸出入業者の保護制度を撤廃し、ルワンダ国内業者が事業発展になるように諸制度の規制および規制緩和を整える。競争市場に持ち込むための商業銀行の誘致があり(それまでは商業銀行はルワンダ国内に一社しかなく独占だった)、開発銀行の設立があり、不動産取引の制度改革があり、果てには流通機能を担保させるための倉庫会社の設立や2トントラックの輸入調達があり、人とモノと情報の流通を円滑にするために公共バス路線の整備にまで手をつける。もはや国づくりである。
 
 氏が次々と繰り出す改革によって、ルワンダ経済は動き出す。大統領がかかげたビジョンの通り、ルワンダ人の手によってルワンダ人の生活は改善していく。着ているものが良くなり、市場に出回る農産物の質と量も良くなる。
 
 実際に事業を興し、生産し、取引し、労働し、収益をあげていくのはルワンダ人である。いわば前線で戦っているのはルワンダ人であり、そうなるような仕組みを技術でつくったのが服部氏ということになる。本書を読むと、マネジメントとは補給と兵站の確保なのであり、補給と兵站の確保とは、自動的に回るシステムづくりのことであり、自動的に回るシステム組織を可能にするのは法律と制度をいかに設定するかということなのだ、というのがよく理解できる。
 このようなマネジメント(氏はこれを「組織する」と表現している)で氏がこだわったのはとにかく現地のルワンダ人のことをよく観察し、会いに行き、話を聞いてきたということのようだ。白人西洋社会が偏見と先入観でルワンダをとらえたまま物事を決定していたのと対照的である。先入観を払うというのは言うは易く行うは難しであって、相当なセルフコントロール能力が要求されるはずだ。服部氏のような人がルワンダに派遣されたのはルワンダにとってまことに僥倖だったのだろう。近隣諸国であるウガンダ、ブルンジ、コンゴ等のガバナンスと比較しても強くそう思う。
 
 とは言うものの周知の通り、氏の帰国後のルワンダの歴史は紆余曲折を経た。1980年代のルワンダは自由経済が発展したが自由競争の常としてその一方で新たな格差や収奪構造をうみ、それが1994年に起きた大統領撃墜事件とその後の悲惨なルワンダ大虐殺の遠因のひとつになった可能性も本書の増補解説では示唆されている。
 ルワンダ大虐殺とその後遺症により、その後のルワンダ経済は荒廃した。しかし時間をかけてまた奇蹟的な復活を遂げた。現在ではガバナンスも経済も良好である。旅行ガイド「地球の歩き方」でもルワンダが扱われるようになった。慶賀の至りである。
 

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増補版 時刻表昭和史

2020年09月05日 | ノンフィクション
増補版 時刻表昭和史
 
宮脇俊三
角川書店
 
 このブログでは何度か書いているが、僕は宮脇俊三の著作にはかなりディープに接してきた。単行本に収録されたものなら少なくとも1度はすべて読んでいるはずである。
 
 氏の代表作といえばデビュー作の「時刻表20000キロ」(1978年)であり、「最長片道切符の旅」(1979年)であろう。氏を紹介する文章でもこの2つを取り上げられることが多い。
 
 しかし、2020年ともなる今日、日本の鉄道紀行記を代表するこの2作にもさすがに時代のホコリが被るようになってきた。
 それはそうだろう。そもそもこれらが書かれた時代はJRではなくて日本国有鉄道だった。執筆時には現役だった地方のローカル線はことごとく廃止されてしまったし、幹線級の在来線も並行する新幹線の開通で第3セクター経営に移行し、当時のような鉄道のありようとは異なった。著作では頻繁に登場する寝台特急も急行列車も現在では無くなってしまった。青函連絡船も無くなった。彼の旅行記の多くはもはや過去のとある一時代の記録となっていった。当時の鉄道事情や社会風俗を記録する貴重なものではあるが、やはりテーマがテーマなだけにどちらかというとその価値は珍本のそれとなりつつある。この2冊に限らず、彼の多くの著作も同様の運命をたどるように思える。
 
 そんな彼の著作のなかにあって「時刻表昭和史」だけは例外だ。日本の出版史として、あるいは文学史として殿堂入りしたといえる。とうめん全国の公立図書館からも無くならないだろう。この作品だけは執筆時から時代が経てば経つほどむしろその価値が高まっていくように思える。
 
 この「時刻表昭和史」も、他の著作同様「鉄道もの」ではある。
 「鉄道もの」の体ではあるが、旅行記でもなければエッセイでもない。もはや私小説、青春文学といってさしつかえない(本書の解説を書いている奥野健男氏は「ビルディングス・ロマン」と表現している)。
 「時刻表昭和史」は著者宮脇俊三の自叙伝である。昭和8年渋谷駅を舞台にした著者6才のころから始まり、小学生、中学生、高校生そして大学生に至るまでの時期のことを当時の鉄道事情を背景に描く。もちろんこの時代とは大日本帝国の時代であり、太平洋戦争の時代でもある。本書は、戦争の道に突き進む当時の日本を、多感な学生時代をおくった氏の物語なのである。特筆すべきは生前の忠犬ハチ公を目撃し、2.26事件の日は事件現場に近い青山の小学校で「今日は帰れ」と言われ、学徒動員にて三菱の工場で働き(敵性語である英語がまかり通っていたことが証言されている)、東京大空襲では自宅の庭に何本も焼夷弾が落ちたものの奇蹟的にいずれもが不発弾だったために焼失をまぬがれ、そして疎開先で玉音放送を聞く、という昭和史で必ず語られるこれらを生の体験記にしていることだ。
 この「時刻表昭和史」での主役は鉄道ではなく、著者自身の成長にある。ここで出てくる鉄道の情報は、その時代の情勢や雰囲気を伝える「小道具」として扱われる。しかし鉄道においては一角ある宮脇俊三氏だから、当時の記憶、その後の調べもきっちりしていて生半可なノンフィクション作家のものを寄せ付けない説得力がある。
 
 たとえば、昭和17年8月。真珠湾攻撃から8カ月が経ったころ、著者は父親と北海道を旅行する。こんな描写になる。
 
 ”函館発1時25分の稚内桟橋行急行1列車は、二等車でも空席がなかった。立っている人もいないのだが、空いた席もなかった。父と私は隣の二等寝台車へ行った。夜になって寝台がセットされるまでは一般の客でも寝台車に座ってよいことになっていたからである。私たちは午後7時55分着の札幌で下車する予定であった。
 窓を背にソファー・ベッドを並べたような昼間の二等寝台は、普通二等車に坐れなかった人たちがすでに流れこんでいて、ここも空席がなかった。(中略)
 特別室のなかには、きのう見かけた若い陸軍将校と、中年の少佐とが軍刀を股の間に立てて柄の上に肘を置き、ゆったりそ坐っていた。侵しがたい雰囲気であったが、父は容赦なく中に入って、「すこし詰めてください」と言った。寝台であるから四人までは坐れるのである。
「ここは特別室ですぞ」
と若い将校が言った。”
 
 すさまじい情報量であることがおわかりだろうか。「稚内桟橋」という駅が終点であること(樺太への連絡船に接続する)。急行列車に愛称がなく番号で呼ばれていること。等級車両があったこと。座席車と寝台車があること。席の坐り方のルール。窓に背を向けたソファのような座席があること。函館から札幌までは所要6時間半であること。特別室なるものがあること。そして特別室には軍人がいること。映画などでよくみる軍刀を構えた姿勢。そこに遠慮なく入る著者の父。それにこたえる軍人の態度。
 当時の鉄道に関する情報収集力と、著者の経験と記憶と、当時の空気の特徴を的確に描写する文章力があわさってこの文章はできあがる。全編こんな感じである。
 
 したがって、本書は「鉄道もの」ではあるけれど、メインテーマはこの時代の「わたし」であり、この時代の「日本」というものになる。鉄道は演出のための小道具なのだ。
 
 また、副主人公のように登場するのは著者の父、宮脇長吉だ。彼は政友会代議士であり、反戦を主張する立場だった。この父が没落していく様も痛々しい。当初は羽振りがよく、世界一周の洋行に出向いたりするが、軍国主義が強まるにしたがって軍部の横やりもあって旗色が悪くなり、ついには選挙に落選して失意に沈んでいく。思春期の宮脇少年はそんな父を観察している。このあたりの宮脇長吉の描写も今となっては貴重な記録であろう。
 
 太平洋戦争時の生活や雰囲気を伝える作品はたくさんある。悲劇的なものもあれば淡々としたものもある。そういった中で本書がとくに殿堂入りを果たしたのは、当時の時刻表(著者曰く「第一次資料」)をベースに、美化も歪曲もされずにエビデンスベースでプロットをつくることに成功していることと、なんといっても玉音放送をあつかったエピソードの特異さにあるだろう。このシーンは鉄道ものに限らずに様々なところで引用・言及されることになった。
 昭和20年8月15日。山形県にある米坂線というローカル線の今泉という駅で宮脇少年は父と一緒に玉音放送を聞くことになる。
 
 ”放送が終っても、人びとは黙ったまま棒のように立っていた。ラジオの前を離れてよいかどうか迷っているようでもあった。目まいがするような真夏の蝉しぐれの正午であった。
 時は止っていたが汽車は走っていた。
 まもなく女子の改札係が坂町行が来ると告げた。父と私は今泉駅のホームに立って、米沢発坂町行の米坂線の列車が入ってくるのを待った。こんなときでも汽車が走るのか、私は信じられない思いがしていた。
 けれども、坂町行109列車は入ってきた。 ”
 
 ここで特筆されるのは、全てのものが停止したと回顧される8月15日の正午。実は汽車は動いていた、ということを証言する貴重な記録になっているからだ。茫然自失もせず、職場放棄もせず、機関士も助手も駅員も働いて鉄道はちゃんと動いていた。
 
 ”山々と樹々の優しさはどうだろう。重なり合い茂り合って、懸命に走る汽車を包んでいる。日本の国土があり、山があり、樹が茂り、川は流れ、そして父と私が乗った汽車は、まちがいなく走っていた。”
 
 圧巻なのはここの描写だ。すべてが止まったかのように回顧されるこの日を、蒸気機関車がダイヤ通りに走り、車窓を夏の緑が駆け抜けていく、この国破れて山河ありの情景は涙が出てくる。
 
 
 
 もともと「時刻表昭和史」は、この8月15日の章でもって完結していた。
 ところが後に著者はこんなことを書いている。
 
 昭和五四年秋、「時刻表昭和史」を書きはじめたときは、昭和二〇年八月一五日で終る予定ではなかった。昭和二二年か二三年まで書くつもりだった。(中略)
 ところが、昭和二〇年八月一五日の米坂線の章を書き終えたところで、重いものがストンと落ちてしまい、その先を書きつづける意欲が失せてしまった。やはり私は日本国民だったのだろう。
 
 この「やはり私は日本国民だったのだろう。」という記述は真に迫るものがある。
 しかし、著者のなかでわだかまりは続き、その17年後に戦後篇として5章が新規に書き下ろされて、昭和23年の章をもって完結とした。それが「増補版 時刻表昭和史」となる。
 
 戦後編を継ぎ足すことによって、本書はより著者の成長文学としての色合いを濃くすることになった。
 実際、昭和20年8月15日で終わる「時刻表昭和史」と、昭和22年まで続く「増補版時刻表昭和史」では、読後感がかなり違う。違う作品を読んだかのように味わいが異なる。
 前者を代表するのは、玉音放送があっても動き続ける鉄道とそこから車窓をみる宮脇少年の述懐だ。ここには壮大な感動といったものがある。ただし、これはたしかにドラマチックであるけれど、ここでの本の主役は「日本」であり、時代に翻弄された「鉄道」ということになるであろう。
 
 しかし一方で、この本は戦争中に精神形成期を経た自叙伝でもある。主役は「私」であって、「日本」や「鉄道」は舞台であり、後景であるにすぎない。
 そうすると「戦後編」で出てくる、著者のココロを支配する戦後初期の虚脱感・退廃感・やがて芽生える色気づく気持ちが重要になってくる。「増補版 時刻表昭和史」は宮脇俊三という一人の人間の少年期から青年期までを描く青春文学となる。あまりにもちっぽけなエピソードで終わる最終章最終部分の虚無感は形容しがたい。
 けれど、この突き放すような終わり方が、まさしく精神形成期の終わりなのだろう。ここから宮脇俊三は戦後日本人の「モーレツ」な大人の一人になっていく。(中央公論社に入社し、中公新書や婦人公論などを手掛けながら重役にまで上り詰める)。
 
 「時刻表昭和史」は玉音放送で終わる版をもって世に知られたし、そちらのほうが文学的価値が高いというか人口に膾炙されやすいと思う(もっとも初動はそれほど売れなかったらしい)。だけど僕は名シーンとされる玉音放送の章を途中にしてしまった「増補版」も捨てがたく思っている。「増補」部分は決して蛇足ではなく。成長文学として必要な個所である。どんなに時代や社会がうねりにうねっても、自己をはかるのは自分の中だけなのだ、という大切なメッセージが「増補版」にはある。
 
 

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日本のいちばん長い日

2020年08月09日 | ノンフィクション

日本のいちばん長い日

半藤一利
文春文庫


 名高い作品だが、映画のほうは既に観ていたものの原作を読んでいなかった。先立って猪瀬直樹の「昭和16年夏の敗戦」をよんだので、それではということで終戦にまつわるこちらも読むことにした。

 8月14日のポツダム宣言受諾から玉音放送までのこの24時間は本当にいろんなことがあったわけだが、事態をややこしくした最大は日本陸軍畑中少佐のクーデター未遂事件だろう。

 ただ、このクーデターを狂気に陥った一軍人が起こした特異な事件とみなしてはいけないと思う。「軍隊」というのは、あれば戦いたくなる、ということをなんとなしに思う。
 古来から言われるように、刀というのはあれば人を斬りたくなる、銃はあれば人を撃ちたくなる。軍はあれば戦争したくなる。少なくともそういう人間が一部から出てくる。存在意義そのものを突き動かすからだ。仮に畑中少佐が決起しなくても、誰かが大なり小なりの事を起こしたのではないか。実際に、8月15日前後には、畑中少佐以外にも散発的にあちこちで造反行為が起きている。著者が指摘しているように、これらがすべて互いに独立した散発的な動きで済んだので大事に至らなかったわけだが、もし何らかの連携がとれていたら、またずいぶん違った結果になったかもしれない。
 「軍隊」というのはあれば戦争したくなる。もちろん徴兵で駆り出された下士官以下はそうではない場合も多かったと思う(思いたい)が、施政者サイドにはそんな力学があるような気がする。それは冷静な決断のときもあれば狂気の暴走のときもあろうが、「軍隊」というのはそもそも戦うための組織だから、おのれの本分である「戦う」ことでなにかソリューションにつなげようとする思考回路がバイアスとして働いてしまうのはしごく当然といえる。
 このクーデターは近衛師団をとりまとめる森師団長が同意しなかったこと、後先顧みず、その森師団長を惨殺してしまったことで逆に統制がとれなくなったことでクーデターは失敗するのだが、こうやって殉死者が出てしまうくらいの事態はおきてしまうのである。
 
 逆に言えば、せっかくそろえた軍隊を戦わずに済ます、というのは相当な理性と知性を働かせなばならない。現代日本をはじめ世界の多くの国はシビリアンコントロールを採用している理由はここにある。

 そういう意味では、当時の陸軍大臣が阿南惟幾であったことは僥倖だったとも言える。終戦の幕引きをはかるために東西奔走した人は数知れないのは承知の上だが、「御聖断」の昭和天皇は別としても、総理大臣鈴木貫太郎と、陸軍大臣阿南惟幾が、このときいたから終戦できたのではないか。鈴木貫太郎は敗戦処理を期待して任命された総理大臣だが、阿南惟幾がどう出るかは賭けの部分が多分にあった。
 仮にこの8月14日の聖断がなくても日本はいずれ終戦(敗戦)はしただろうけれど、さらに遅れていたら、ソ連軍の侵攻はさらに進んでいて北海道の命運も危なかっただろうし、三発目の原爆投下も目前だったとされている。これらの結果、日本国のその後のありようは大きく変わったであろう。8月14日にポツダム宣言受け入れを決定できたのは本当にギリギリのタイミングだったのではないかと思う一方で、これさえも遅きに逸したとも言える。ポツダム宣言をその場で受諾していれば、広島長崎の原爆投下やソ連軍の満州攻撃もなかったかもしれないわけで、その意味ではこの決定タイミングは既に多くの犠牲を伴うものだった。
 歴史にIFの話はナンセンスというのは百も承知だけれど、すべての未来は細かいひとつひとつの意思決定と偶然の連なりでできている。日本では終戦記念日として8月15日が、点としてクローズアップされがちだけれど、いかに始まり、いかに終わったかを知ることは歴史に学ぶという点ではやはり大事である。

 


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南極ではたらく

2020年08月04日 | ノンフィクション

南極ではたらく

綿貫淳子
平凡社


 「悪魔のおにぎり」を知ったのはクイズ番組「世界で一番受けたい授業」だったか。
 天かすと青のりとめんつゆで握るおにぎり、ということでさっそく我が家でも試してみた。
 なるほと確かにこれは中毒性がある。天かすと青のりはちまちませずに豪快に入れるのがよいようだ。

 ちなみに試行錯誤のすえ、ぼくはさらにアジシオを加えるようになった。めんつゆだけだとちょっと甘すぎるように思えたからだ。
 しかし高カロリーの上に塩分強化だから「極悪魔のおにぎり」ある。だけど、この誘惑の力はすさまじい。朝食も食べずにぷいっと学校に行こうとする中学生の娘に、悪魔のおにぎりだけど! というと「食べる!」といって顔を出してくる。さすが悪魔の名は伊達じゃない。


 で、悪魔のおにぎりの生みの親、綿貫さんの南極越冬隊体験記である。
 南極越冬をした女性は彼女が初めてではないし、このときの調理隊員は著者ひとりでもないのだが、やはり「悪魔のおにぎり」で一躍有名になってしまった。
 本書は、調理のことだけでなく、1年間の南極越冬のさまざまな生活体験記だ。昭和基地の中の様子とか、隊員とのコミュニケーションとか、南極という閉ざされた世界での女性ならではの意識とか様々なことがつづられている。
 そのひとつひとつが面白い。ノンフィクションには「題材そのものがレアで面白い」ものと、「題材そのものは地味だが書き手の巧みさで面白い」ものとある。本書にあっては前者ということになろうか。著者はプロのライターではなく、もともとは一介の主婦であった。
 したがって、Amazonの評をみると、いまいち芳しくない。話があっちこっち飛ぶわりに脈絡がないとか、エピソードの掘り下げが足りないとか。

 そんな前評判を知っていたので、大丈夫かなと思ったのだが「悪魔のおにぎり」に敬意を表してAmazonをポチッた。結論としては心配無用だった。
 たしかに、文章を生業にしている人に比べると散漫なのかもしれないが、これはこれで大いにありだと思った。むしろリアリティがある、といったほうが良い。理路整然と流れる文章、起承転結のある物語は後知恵が多いにはいった再編集である。これはストーリーではなくてナラティブなのだ、と思ったら、むしろ南極生活のリアリティとはこういうことなんじゃないかなんて思ったりもしたのだ。いろんな出来事が、脈絡なく同時多発に起こり、刹那的な感興や、オチがないエピソードや、他人からみると何が面白いのかさっぱりわからない、でも本人的にはツボにはまるような感情も起こる。我々の生活だってそうではないか。この本は、南極越冬をした主婦の問わず語りなのである。

 限られた食事資源。ひたすら氷点下の季節環境。変化のない人間関係。こういった生活下で、ひたすら30人の隊員の食事を3食用意するというのは想像を絶するが(余った食材や料理をリメイクする話はなかなか勉強になる)、こういうとき、人間のサバイバル本能はより研ぎ澄まされていくのだろう。隊員のほとんどが男性ということもあって、女性特有の気になることや気遣いもクローズアップされやすくなる。
 こんなミクロ的にはヤマもオチも予定不調和でハードでルーズな、でも全体的にはルーチンな毎日を送ったら、そりゃ帰国したら廃人にもなるだろうなんて思う。著者が帰国後に南極ロスみたいな心理状態になって「南極に帰りたい」とつぶやくくだりをみて、さもありなんと思った次第である。

 感心したのが、南極隊員による季節の行事やイベントを大切にする姿勢だ。南極というのは一年の半分が昼で半分が夜で、ひたすら氷点下の1年だが、だからこそか、隊員は熱心に七夕まつりをやったりクリスマスを祝ったりする。仲間の誕生日を祝い、毎週映画上映会を開催する。桜の木なんかないのに、部屋をピンク色に装飾して宴会する「花見」なんか極めつけだ。そして和菓子づくりにいそしんで南極にて餡子をこねる著者の姿を想像し、人間の文化の偉さをみた思いがする。


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