情報パンデミック あなたを惑わすものの正体
読売新聞大阪支社社会部
中央公論新社
実は僕、フェイクニュースとかデマとか陰謀論とかに興味がある。
といってもそういった世界に耽溺するのが好きなのではなくて、人はなぜフェイクニュースとかデマとか陰謀論に惹かれるのか、というメタ目線での興味である。このブログでも過去にいくつかこのテーマの本を掲げている。
・140字の戦争 SNSが戦場を変えた
・フェイクニュースの生態系
近似する内容としてはここらあたりも含むだろうか。
・現代アメリカ政治とメディア
・群集心理
・輿論と世論 日本的民意の系譜学
・ヒューマン・ネットワーク 人づきあいの経済学
・つながり 社会的ネットワークの驚くべき力
これらの本を読んで思うのは、ありていに言えば「人は信じたいものを信じる」という脳の本能がある、ということだ。これがベースである。したがって「信じる情報」がたくさんその人に入ってくれば入るほど、「信じる情報」に長い時間接すれば接するほど、その信念はより強固となり、さらなる信じたい情報を呼び込むことになる。このプロセスは極めて排他的であって、「信じたくない情報」は回避し、拒絶し、否定するようになる。時間が経てば経つほど「信じたい情報」が蓄積され、これに反する「信じたくない情報」の拒絶度合いは大きくなる。
ところがこの過程において、その情報の「程度」というものは、最初のうちは穏当なものなのだが、それを信じて次々と情報をとりこんでいるうち、いつのまにか自分がとりくんでいる情報は穏当どころか、極めて過激で極端なものになっている。しかし本人はそのことに気づかない。どこか、摂取しているうちにだんだんニコチン濃度やアルコール濃度が高まっていく嗜好品に似ている。
やがて、その人は並の状態ならば思いもよらぬような、極めてエキセントリックな信念に囚われているようなことになる。もちろん当人はそのことに気が付かない。ここに至る過程において、意に反する情報や価値観は排他させられていくから(しかも長じるほどちょっとした差異も受け入れがたくなる)、しばらく時間が経った段階では、彼に蓄積された情報とそれによって形成された信念は、世の平均的思考からは大きく距離が離れたところにいることになる。
もちろん、現実の生活を、世間一般のレギュレーションで送っている限り、そこまで濃度高い情報にまみれてしまうことはないだろう。この世の中には多様かつ浅い情報がわんさか流通していて、我々はそれらに刹那的に接しながら日々送っているだけである。
ところが、同じような考えをもつ人間だけと閉鎖的に過ごしたり、同じような中身の情報交換ばかりしているとスパイラル的にこの罠にはまることになる。たとえば、往年の学生運動のセクトがそれにあたる。観念の暴走とまで呼ばれたそれら濃縮された信念はちょっとした差異も許さず、やがて内ゲバが横行することになった。
近年話題のカルト宗教も、この性質がある。同じ信念を持つ信者の共同生活と外の世界との隔絶が、当初は信じていた情報は穏当なものだったのに、やがて他人から見ればとんでもない情報までを「信じる」ようになっていく。
とはいえ、あくまで一般に平穏に、常識的な人たちとつきあっていく平凡な生活である限り、そんな情報の麻薬めいた作用に溺れるリスクはない。いや、これまでの時代ならばそんな機会はなかなかなかったのである。これがそうもいかなくなったのがここ数年なのだ。大きな理由は3つある。
ひとつめの理由はインターネットの世界における技術革新である。フィルターバブルやチェンバーエコーという用語はかなり一般化されるようになった。つまり、ネットで気になる情報を探していると、ネットがもつテクノロジーによって「気になる情報」だけが次々と手元に集まって読めるようになり、「気にならない情報」はどんどん視覚から遠ざかっていくのである。ニュースアプリに掲げられる情報は、自分が気になる情報だらけになる。
たとえばいま僕のニュースアプリの画面には東京五輪をめぐるゴシップ記事が次々と現れるようになってしまった。興味本位でいくつか読んでみたら、こいつはこのテーマに興味があるとアルゴリズムに判断されてそれ以降、毎日のように高橋某とか電通とかが写真付きで連なるようになった。
いっぽうで、僕はサッカーにまったく関心がなく、ドイツ戦もスペイン戦もいっさいテレビ視聴をしなかったクチである、もちろんネットの記事もクリックして見たりはしない。すると、あれほど国民の関心一般を巻き込んでいるかのような出来事でも、僕のニュースアプリ上にはいっさいサッカー関係の記事は出てこなくなってしまった。はじめから無いかのようである。
げに恐ろしきは、フィルターバブルとチェンバーエコーである。サッカー勝ったんだよ、すごいことなんだよ、と言ってくれる家族や友人知人がいることを幸せと思わなければならない。
ふたつめの理由として、このようなネット環境においては、「いかに注目されるか」がネットビジネスにおいて最重要になってきたということである。これをアテンションエコノミーという。要するに注目されればされるほど稼げるということだ。バナーやアファリエイトならばクリック数、動画ならば再生数。業者から支払われる報酬は単純にクリック数や再生数と単価の掛け算である。ということはなるべく煽情的なもののほうが注目されやすくなる。正確だけどつまらない情報より、少々根拠が怪しくても血沸き肉躍る情報のほうがアテンションを稼ぐことができる。隣があんな言い方で注目を集めているのならば、こっちはこんな言い方でもっとビュー数を稼いでやる。こうやって語り口はどんどん過激になっていく。
このようなからくりがあるから、ネットで「信じたい情報」を探す癖がある人は本当に気をつけなければならない。ニュースアプリならばまだテキスト情報だが、さらにやっかいなのがYouTubeをはじめとする動画だ。動画はテキスト以上に情感に訴えて情報を送り届ける。つまり説得力抜群になる。気になったユーチューバーのご高説を最後まで聞いてしまうと、「おすすめ」欄に次々とそのユーチューバーの他のコンテンツが表れてくる。たぐりよせてみているうちに、冒頭に述べたような状況にとらわれてしまうことになる。オンラインセミナーなんかで人気のユーチューバーのカルト的な支持をみるとむべなるかなと思う。
しかしそういうのにはまっていくのは、一部の特殊な状況に置かれた人の場合ではないか。なにか信じたい情報を探したいというよすがを求める人の話ではないか。「信じたい情報を探す」という動機がなければそんなものに捕まらないように思える。そんなに自分のアイデンティティを脅かすような「信じたい情報を探す」ことがそう発生するだろうか。
それがもうひとつの理由だ。昨今になってフェイクニュースやデマや陰謀論が盛んになった背景、いうまでもなく「コロナ」である。
そもそもデマは、社会情勢が不穏なときに発生しやすいとされてきた。戦争や天災は代表例である。コロナもそうだ。
コロナによって不条理にも、不安な状況に陥ってしまった人はたくさんいる。休業を強いられた飲食店業の人、業績悪化にともなって解雇された人、交友関係が途切れてしまった人、痛いワクチンをややこしい手続きはらって撃たなければならなくなった人、不快でめんどうくさいマスクをしなければならなくなった人。自分には何の落ち度もないのになぜこんな不条理な状況に追い込まれてしまったのか。のうのうとしている人だってたくさんいるのになぜ自分だけが。
この「なぜ自分だけが」という明日への不安と社会不信が理由をもとめて「信じたい情報」を探す。そうすると、そこに自分の疑問に答えてくれる言説が待ち構えている。「ワクチンは危険だからうってはいけない」「コロナは陰謀であってそんなものは存在しない」「マスクに意味はない」。そうだそうだ。情報をたぐりよせてみていくうちに自分の置かれた不条理に理由をつけてくれるおすすめ動画が次々と紹介される。SNSにいけば、同じような考えの同志がたくさんいるではないか。自分だけではない。やがて、間違っているのは世の中のほうと確信していく。この自分に意見する奴は敵に見えてくる。思想の異なるものは滅しなければならない。この衝動もまた古来から人間が持つ本能だ。
本書を読むと、フェイクニュースにのめりこんだり、陰謀論を固く信じ込む人の特徴として「マスメディアの情報はウソばかりで、ネットの情報こそが真実だ」と思っている人が次々出てくる。本書自身が読売新聞社の記者の手によるものだし、出版社も大手出版社なので、マスメディア側のバイアスがかかっていることには注意しなければならないが、「マスメディアは真実を語らない。ネットは真実を語る」という見立てが横行しているのは興味深い。むしろ校正・校閲・ファクトチェックをネットのほうがマスメディアよりも行っているとはどうも考えにくい(わざわざやらなければならないインセンティブがない)。せいぜいが「ネットもマスメディアも、情報のいい加減度はどっこいどっこい」なんじゃないのかな、なんて思う。そもそも事実と現実と真実の境は曖昧なものかもしれないなんて気もしている。
それにしても驚く。本書を読むと、陰謀論に動かされたのはコロナ前は本当にただの平凡な主婦や学生や会社員である。それが家族とも従来の友人とも断絶してしまい、同じ信念を持つ仲間と徒党を組み、街をシュプレヒコールし、ビラ紙を無差別に投函し、あまつさえワクチン接種会場に乗り込んだり、市役所に矢継ぎ早にクレームの電話をかけるようになる。陰謀論には前頭葉を変形させるくらいの力があるのかとまで思ってしまう。
日本のいちばん長い日
半藤一利
文春文庫
名高い作品だが、映画のほうは既に観ていたものの原作を読んでいなかった。先立って猪瀬直樹の「昭和16年夏の敗戦」をよんだので、それではということで終戦にまつわるこちらも読むことにした。
8月14日のポツダム宣言受諾から玉音放送までのこの24時間は本当にいろんなことがあったわけだが、事態をややこしくした最大は日本陸軍畑中少佐のクーデター未遂事件だろう。
ただ、このクーデターを狂気に陥った一軍人が起こした特異な事件とみなしてはいけないと思う。「軍隊」というのは、あれば戦いたくなる、ということをなんとなしに思う。
古来から言われるように、刀というのはあれば人を斬りたくなる、銃はあれば人を撃ちたくなる。軍はあれば戦争したくなる。少なくともそういう人間が一部から出てくる。存在意義そのものを突き動かすからだ。仮に畑中少佐が決起しなくても、誰かが大なり小なりの事を起こしたのではないか。実際に、8月15日前後には、畑中少佐以外にも散発的にあちこちで造反行為が起きている。著者が指摘しているように、これらがすべて互いに独立した散発的な動きで済んだので大事に至らなかったわけだが、もし何らかの連携がとれていたら、またずいぶん違った結果になったかもしれない。
「軍隊」というのはあれば戦争したくなる。もちろん徴兵で駆り出された下士官以下はそうではない場合も多かったと思う(思いたい)が、施政者サイドにはそんな力学があるような気がする。それは冷静な決断のときもあれば狂気の暴走のときもあろうが、「軍隊」というのはそもそも戦うための組織だから、おのれの本分である「戦う」ことでなにかソリューションにつなげようとする思考回路がバイアスとして働いてしまうのはしごく当然といえる。
このクーデターは近衛師団をとりまとめる森師団長が同意しなかったこと、後先顧みず、その森師団長を惨殺してしまったことで逆に統制がとれなくなったことでクーデターは失敗するのだが、こうやって殉死者が出てしまうくらいの事態はおきてしまうのである。
逆に言えば、せっかくそろえた軍隊を戦わずに済ます、というのは相当な理性と知性を働かせなばならない。現代日本をはじめ世界の多くの国はシビリアンコントロールを採用している理由はここにある。
そういう意味では、当時の陸軍大臣が阿南惟幾であったことは僥倖だったとも言える。終戦の幕引きをはかるために東西奔走した人は数知れないのは承知の上だが、「御聖断」の昭和天皇は別としても、総理大臣鈴木貫太郎と、陸軍大臣阿南惟幾が、このときいたから終戦できたのではないか。鈴木貫太郎は敗戦処理を期待して任命された総理大臣だが、阿南惟幾がどう出るかは賭けの部分が多分にあった。
仮にこの8月14日の聖断がなくても日本はいずれ終戦(敗戦)はしただろうけれど、さらに遅れていたら、ソ連軍の侵攻はさらに進んでいて北海道の命運も危なかっただろうし、三発目の原爆投下も目前だったとされている。これらの結果、日本国のその後のありようは大きく変わったであろう。8月14日にポツダム宣言受け入れを決定できたのは本当にギリギリのタイミングだったのではないかと思う一方で、これさえも遅きに逸したとも言える。ポツダム宣言をその場で受諾していれば、広島長崎の原爆投下やソ連軍の満州攻撃もなかったかもしれないわけで、その意味ではこの決定タイミングは既に多くの犠牲を伴うものだった。
歴史にIFの話はナンセンスというのは百も承知だけれど、すべての未来は細かいひとつひとつの意思決定と偶然の連なりでできている。日本では終戦記念日として8月15日が、点としてクローズアップされがちだけれど、いかに始まり、いかに終わったかを知ることは歴史に学ぶという点ではやはり大事である。
南極ではたらく
綿貫淳子
平凡社
「悪魔のおにぎり」を知ったのはクイズ番組「世界で一番受けたい授業」だったか。
天かすと青のりとめんつゆで握るおにぎり、ということでさっそく我が家でも試してみた。
なるほと確かにこれは中毒性がある。天かすと青のりはちまちませずに豪快に入れるのがよいようだ。
ちなみに試行錯誤のすえ、ぼくはさらにアジシオを加えるようになった。めんつゆだけだとちょっと甘すぎるように思えたからだ。
しかし高カロリーの上に塩分強化だから「極悪魔のおにぎり」ある。だけど、この誘惑の力はすさまじい。朝食も食べずにぷいっと学校に行こうとする中学生の娘に、悪魔のおにぎりだけど! というと「食べる!」といって顔を出してくる。さすが悪魔の名は伊達じゃない。
で、悪魔のおにぎりの生みの親、綿貫さんの南極越冬隊体験記である。
南極越冬をした女性は彼女が初めてではないし、このときの調理隊員は著者ひとりでもないのだが、やはり「悪魔のおにぎり」で一躍有名になってしまった。
本書は、調理のことだけでなく、1年間の南極越冬のさまざまな生活体験記だ。昭和基地の中の様子とか、隊員とのコミュニケーションとか、南極という閉ざされた世界での女性ならではの意識とか様々なことがつづられている。
そのひとつひとつが面白い。ノンフィクションには「題材そのものがレアで面白い」ものと、「題材そのものは地味だが書き手の巧みさで面白い」ものとある。本書にあっては前者ということになろうか。著者はプロのライターではなく、もともとは一介の主婦であった。
したがって、Amazonの評をみると、いまいち芳しくない。話があっちこっち飛ぶわりに脈絡がないとか、エピソードの掘り下げが足りないとか。
そんな前評判を知っていたので、大丈夫かなと思ったのだが「悪魔のおにぎり」に敬意を表してAmazonをポチッた。結論としては心配無用だった。
たしかに、文章を生業にしている人に比べると散漫なのかもしれないが、これはこれで大いにありだと思った。むしろリアリティがある、といったほうが良い。理路整然と流れる文章、起承転結のある物語は後知恵が多いにはいった再編集である。これはストーリーではなくてナラティブなのだ、と思ったら、むしろ南極生活のリアリティとはこういうことなんじゃないかなんて思ったりもしたのだ。いろんな出来事が、脈絡なく同時多発に起こり、刹那的な感興や、オチがないエピソードや、他人からみると何が面白いのかさっぱりわからない、でも本人的にはツボにはまるような感情も起こる。我々の生活だってそうではないか。この本は、南極越冬をした主婦の問わず語りなのである。
限られた食事資源。ひたすら氷点下の季節環境。変化のない人間関係。こういった生活下で、ひたすら30人の隊員の食事を3食用意するというのは想像を絶するが(余った食材や料理をリメイクする話はなかなか勉強になる)、こういうとき、人間のサバイバル本能はより研ぎ澄まされていくのだろう。隊員のほとんどが男性ということもあって、女性特有の気になることや気遣いもクローズアップされやすくなる。
こんなミクロ的にはヤマもオチも予定不調和でハードでルーズな、でも全体的にはルーチンな毎日を送ったら、そりゃ帰国したら廃人にもなるだろうなんて思う。著者が帰国後に南極ロスみたいな心理状態になって「南極に帰りたい」とつぶやくくだりをみて、さもありなんと思った次第である。
感心したのが、南極隊員による季節の行事やイベントを大切にする姿勢だ。南極というのは一年の半分が昼で半分が夜で、ひたすら氷点下の1年だが、だからこそか、隊員は熱心に七夕まつりをやったりクリスマスを祝ったりする。仲間の誕生日を祝い、毎週映画上映会を開催する。桜の木なんかないのに、部屋をピンク色に装飾して宴会する「花見」なんか極めつけだ。そして和菓子づくりにいそしんで南極にて餡子をこねる著者の姿を想像し、人間の文化の偉さをみた思いがする。