読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

テクノソーシャルリズムの世紀 格差、AI、気候変動がもたらす新世界の秩序

2022年11月23日 | 経済
テクノソーシャルリズムの世紀 格差、AI、気候変動がもたらす新世界の秩序
 
ブレット・キング  リチャード・ペテイ 訳:上野博
東洋経済新報社
 
 
 本書は、今後起こりうる社会変化をひとつひとつ検討し、そこから起こりうる未来をシナリオ別に4パターン提示している。
 
 正直いって、この4パターンそのものはよくある4象限型で、ユートピアとディストピアおよびその中間であってそんなに驚くものではないが、社会変化要素のひとつひとつとして何を拾っているかが興味深い。
 
 ざっくりいうと、
 
(1)格差拡大
これはもうメカニズム上ひろがっていく一方である。よほどの強制力を働かせない限り市場の格差は拡大するが、社会をけん引する立場の人たちに格差を解消するインセンティブがない。激動する社会変化もまた保守派と推進派の分断を進める。そして、この格差拡大は、民主主義の制度疲労、革命の火だねとなるリスクにもなる。
 
(2)テクノロジー分野の驚異的発達
AI・ヘルスケア・ネットワーク。これはうまく作用すれば、新しい社会の包摂を実現する。とくに発展途上国の人々の公共サービスや金融サービスのアクセスを容易にすることは地域経済を向上させる。企業においてはどの業界が盛衰になるというよりは、テクノロジーを使えるか使えないかで存続が決まる。教育はSTEMが基本になる。もちろん、このようなテクノロジー推進には、支持派と反対派がいる。
 
(3)金融システムの大変換
いわゆる暗号通貨だが、これをささえるブロックチェーンが持つ可能性はどんどん開花する。非集権型デジタル通貨の台頭は、これまでの不換通貨の信用を上回り、これは分散型金融、NFTの普及、さらには自律分散型組織体へと発展していく。
 
(4)中国の台頭
一帯一路をはじめ、世界経済の覇権を握るために世界のインフラに投資をしていることは周知の事実だが、AIや金融テクノロジーの投資額が、どの国よりも高いところを本書は注目している。言わずものがなでこれからの時代はテクノロジーを握ったところが勝つ。中国は基軸通貨の地位を米ドルから奪うことを目標にしている。
 
(5)気候変動
これももはや揺るがざる事実になりそうだ。世界各国は、2050年までに気温上昇を一定の制約内に収める努力をしているが、実現性は懐疑的だし、かりに1.5度の上昇範囲におさえたとしても、それにおける気候変動はじめ地球環境や人間社会に与える影響は計り知れない。
 
(6)Z世代の価値観の浸透
本書では、Z世代という表現はとっていないが、このデジタルネイティブ世代がもつ新たな価値観は旧来世代と摩擦を起こす。モノよりコト。所有によるアイデンティティ形成よりは、人や情報へのアクセス権を求める。ヘルスケアとはフィジカルだけでなく、むしろメンタルにおいて重要視される。マズローの五段階欲求に関しても、Z世代のそれは旧世代と少し違う。
 
 などなどが相互に絡み合って影響しあう。未来にとってポジティブなものもあればネガティブなものもあるわけだ。これらがうまくタイミングが合って好影響に昇華されれば、なんとか人類の平和が続く社会へ軟着陸する。しかしそれには、まず現在のGDPに代わる新たな経済指標の確立(気候変動寄与度など)と、テクノロジーに対しての理解と期待と節制が重要になる。これを外してしまうと、一部のユートピアと多数の荒廃社会へと分断された社会になったり、専制国が出現したりする。本書はコロナ後ウクライナ前というタイミングに執筆されたもので、現実としては明るい未来は黄色信号になりつつある。
 

 ところで、本書にさりげなく書かれた以下2つは、僕はとっても重たく受け止めた。
 
①これからの時代の人間の仕事は、テクノロジーに関するものか、サステナビリティに関するもの以外の仕事はシュリンクする(雇用がない・給料が上がらない)。
 
 うすうすとそうなんじゃないかと思っていたがここまで言ってくれちゃうとなあ。テクノロジーに自信がなければサステナビリティという見方もできそうだが、どっちにしろSTEM教育はベースとなるだろう。
 そしてもう一つ。
 
②未来で人間にとって必要なのは、知識ではなく、知識を活用する知恵。知識はAIに及ばないが、知恵は経験がものを言う。そのために重視されるのは、創造的な遊びと、友達をつくって他人を尊重するソーシャルスキル。このようなソフトスキルが私たちをマシンから差別化する。
  本書は、ジャック・マーの言葉を引用してこのことを述べている。生き延びるためには人柄が大事なのだ。


 ところで、本書は読み切るのにずいぶん時間がかかった。途中しばらく放置していたこともあって半年くらいかかってしまった。そこそこ分量のある内容ではあるがかかりすぎである。その間に別の本を何冊も読了してしまった。この本は装丁がなかなか立派だったこともあって紙で買ったのだが、いざ読もうとすると重量があり、大きくて角張っていてモビリティが悪く、出先に持って行きにくかった。なのでもっぱら自宅で読んでいたのだが、僕は出先や移動中に読むほうが集中できる癖があって自宅だと気が散漫になりやすい。何が言いたいかというと、こういう本こそ電子書籍版むきだったなということだ。さすがテクノソーシャルリズムをうたった本である。これからは重厚なハードカバー本は敬遠されるのかもしれない。
 

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現代経済学の直感的方法

2020年07月18日 | 経済

現代経済学の直感的方法

長沼伸一郎
講談社

 なるほど。本書が示すことは、新古典派と金本位制と自由貿易と仮想通貨(ビットコイン)とデフレとポピュリズムと資本家と消費者が結託、ケインズと管理通貨制と保護貿易と中央銀行とインフレとエリート主義と生産者や企業家が結託するのである。言われてみれば納得である。

 で、どうやら著者は、新古典派の「神の見えざる手」に懐疑的な立場である。市場原理に任せると社会は不健全な方向にいく。
 だからといって左の社会主義派かというとそういうことでもないようだ。まあ確かにこれが世の中を上手に機能させないことは歴史が証明している。

 ただ、持続可能な経済社会の仕組みを考えるには、ケインズのようなある種の介入が必要ということである。

 これは、ほっておくと実体経済よりも仮想経済のほうが膨張し、貿易は加速化し、格差は増大し、経済社会は「縮退」していく、とみているからである。そして市場の自動調整が働いて落ち着くべきところに落ち着くという市場原理の見立ては、そもそも天体物理学をアナロジーにした当時の経済学の見誤りということだ。

 ニュートンの切り開いた地平というのはそこまでインパクトがあったのかとむしろ思うわけだが、経済学も社会学も、なにか方程式が存在するかのようにある種の目的変数に収斂するかのように見立てるのは、これみんな物理学からのアナロジーである。近代社会科学の盲点と言ってよいかもしれない。

 だけれど、人の営みは物理のそれとはやはり違うのであって、むしろ物理学のロジックよりは、生態システムのようなバランスなのではないかというのがここ最近(といってももう四半世紀ほど)の見立てである。生態は必ずしも合理的な最終形にむけてつきすすむわけではなく、そのいきつく先は均衡もあれば破滅もあり、両者をわけるきっかけはほんの些細な事でしかない。市場原理が必ず万人の全体最適を導く保証はないし、だからといってケインズ型の介入がうまくいく保証もないのである。それは研究所のテラリウムのように、永遠の「実験」としか言いようがない。

 では、どのような目標をかかげた「実験」を人々は望むか。施政者は行うべきか。
 ここで著者は、「長期的願望」と「短期的願望」というのを掲げている。
 これは哲学用語でいう「一般意思」と「全体意思」。わかりやすくいえば「長期的な視野」と「目先の欲望」、もっとわかりやすくいえば「アリとキリギリス」である。まともに考えたらせめて実験は「長期的な視野」を目標に行うべきだが、行動経済学でもあきらかのように、人は「目先の欲望」をどうしても過大評価する。新古典派型の市場原理主義が心もとないのは、人は「目先の欲望」で動いてしまい、「目先の欲望」をいくら積み上げても「長期的な視野」にはならないからだ。「目先の欲望」の射程で行う実験結果は、決して万人にとって理想的な持続可能な社会ではないのである。
 かといって鉄の意志で「長期的視野」を射程にした実験をしたとしても必ずうまくいくかというとそんな保証はどこにもないのである。先に触れたように、社会の仕組みはそんな方程式のように未来の結果を計算ではじきだせるものではないからだ。


 そこで思うのが批難轟々のGoToキャンペーンだ。
 GoToキャンペーンは完全に「実験の領域」である。これはシカゴ学派が理論だけで南米の経済政策を実践投入したのと同じである。この政策をやらなければ地方経済が破滅して地銀が連鎖破綻すると言われており、その影響が日本経済全体にどう影響を与えるかは全く不明である。かといって、GoToをやることで感染者が全国に散るとどういうことになるのか、これもわからない。東京だけ対象除外にするとどういうことになるのかもはっきりいってわからないのである。
 人の命がかかっているのに実験もくそもないとは思うものの、本書の見解を借りるならば、経済政策はそもそも実験的なところが伴うのだ。方程式があると思う誤謬のほうが命取りなのである。であるとすれば、GoToキャンペーンの目的は政府にとって「長期的な視野」なのか「目先の欲望」なのか。あるいはこれに反対をすることは「長期的な視野」なのか「目先の欲望」なのか。
 結果がどうなるかわからない実験なのであれば、GoToキャンペーンに求められるのは、感染者が全国に拡大したらとか、思うほど経済効果が出なかったなどの副作用や想定外に対してのバックアップを事前にどこまで準備できるか、ということだろう。実験に危険はつきものであり、そこにセーフティネットを張るのは常識である。GoToキャンペーンに関して政府に望むことは二重三重のバックアップ体制なのだがそこのところはどうなっているのだろう。まさか護衛も燃料も中途半端なまま沖縄に出向いていった戦艦大和の出航のようになっているんじゃあるまいな。


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超予測力 不確実な時代の先を読む10か条

2018年10月17日 | 経済
超予測力 不確実な時代の先を読む10か条
 
著:フィリップ・E・テトロック 訳:土方奈美
早川書房
 
 
 ナシム・タレブの「反脆弱性」やダンカン・ワッツの「偶然の科学」によると、予測というものは外れるものだ、ということだ。実際に過去にシンクタンクや投資関係者や政策決定者がどのような未来予測をたてたかを追跡してみたところ、その正答率は「チンパンジーがダーツをやってるがごとくの精度」ということだった。
 この名言を放ったのが本書の著者テトロックである。
 
 これにはいくつか教訓がある。
 ①過去のデータをいくら分析してもその先の予測はできない。ーーランダムウォーク理論
 ②自信たっぷり予測する輩はいっぱいいるが、その予測があたったのかどうかが検証されることは現実社会にほとんどない。
 ③当たるか当たらないかよりも「予測がある」こと自体に価値(値付け)があるのが現実社会である。
 
 さらにつっこんでいくと、
 ④人間というのはさも予測をしていたかのような「後知恵バイアス」がある。ーーオレははじめからわかってたんだ理論
 ⑤自分に都合のよい将来像をえがく予測を重宝する。
 ⑥正確性を追求するあまりに歯切れが悪い物言いよりも、すぱっと断言してくれる物言いを人は好む。--科学者の説明に不信感を感じやすい背景
 ⑦発言影響力がある人ほど、客観的な予測の検証を嫌がる。ーー中世のベテラン医者が、臨床実験を拒んだというエピソード
 
 つまり、予測というのは原則として「無理」なのだが、「似非予測」を依り代として必要とするのがわれわれ人間社会、なのである。古代からそれは変わらない。
 もちろん、ここでいう予測とは社会予測のことである。天体運動のように物理に即した予測のことではない。人間社会は物理原則では動いていないにもかかわらず、なにか物理学的なメカニズムがあるように錯覚してしまう、期待してしまうことこそが罠なのだ。
 
 しかし、一般とくらべてそこそこ精度の高い予測をたてられる人種が存在する。それが本書の「超予測者」だ。
 「超予測者」は、決して投資の専門家でも、経済学者でも、占星術師でもない。彼らの所属は様々である。共通しているのは「思考パターン」だ。本書は、超予測者の思考パターンを解析している。
 
 
 結論だけいうと「自分は間違っているかもしれない」と常に疑って謙虚に検証を重ねること、である。つねに最終判断は保留しながら認識のベータ版を更新していくという態度である。
 これの反対は「おれがこう思うんだから間違いない」という自信過剰である。年季のはいったトレーダーや学者こそがこれに陥る。
 
 原則論はこれで、あとはフェルミ推定のセンスがあるとか、事態や事象の程度を定量化するセンスがあるとか、一般事例と特殊事例を識別するセンスとか、他人の話を素直に聞くとかあるのだが、ベースにあるのは「自分は間違っているかもしれない」という態度だ。これが予測の精度を上げる。
 
 なるほど。「予測は間違うものだ」というのが定理だとすれば、まずは自分は間違っているかもしれない、という前提を持つことで少なくとも「間違いの誤差を下げる」ことはできる。つねに最新情報をチェックし、自分にはない視点をもつ他人からの意見をとりいれ、より確度の高い法則を物差しとしてそこから類推しようという謙虚な態度になる。
 
 
 ただ、まあ。最初に書いたようにこの世の中は「似非予測」が依り代なのだ。
 現実の世の中は「時間も労力もかかる精度の高い予測」よりも、スパッと言い切ってスピーディに結論をくだす「似非予測」を中心にまわっている。人間社会は物理法則ではない。それでも、本書でも最後のほうで注意深く書いてあるように、かつてにくらべ「似非予測」の弊害、「超予測」の価値は認められるようになってきた。AIやIoTによって予測に関する時間やコストが下がってきてもいる。
 
 シンクタンクに勤めていたり、株のトレーディングで生活している人でなければ、こんな超予測力を身につける必要はないかと思う。しかし「自分は間違っているかもしれない」という謙虚な態度と検証を忘れない姿勢は、実生活ではみんな多かれ少なかれ持っているのでのではないかと思う。自分の生活や人生のこの先の予測は、絶対大丈夫!とどんなに空威張りしても、実はどこか心もとない、というのが多くの人の心底の本音ではないだろうか。
 
 

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ゲーム理論はアート 社会の仕組みを思いつくための繊細な哲学

2018年09月21日 | 経済

ゲーム理論はアート 社会の仕組みを思いつくための繊細な哲学

松島斉
現代評論社


 「連続的囚人のジレンマ」と「パノプティコン」のことが書いてあったので買った。この2つは、ぼくが前々から気にしている理論だからである。

 「連続的囚人のジレンマ」から導き出される「しっぺ返し戦略」というものを、僕は現実によく応用してきた。「しっぺ返し戦略」というのは、敵対しやすい相手がいるときとの渡り合い方である。会社なんかで立場上張り合うことになりやすい別部署の人間とかを相手にするときのやり方である。
 理屈は簡単だ。最初は相手がどう出てくるかわからない最初の1回目の顔合わせ、こちらは従順、あるいは協力的な態度で出る。
 そのときに、相手も従順、あるいは協力的な態度で出てきたとする。そのときは、次の場でも従順・協力的な態度で出ることにする。
 しかし、相手が敵対的な態度で出た場合。はその次の場では敵対的な態度をとる。とにかくとる。
 それは相手が従順・協力的な態度になるまで続く。ようやく相手が協力的な態度になったら、今度はこちらも協力的な態度をとる。
 これの繰り返しである。

 「しっぺ返し戦略」は理論上では「最強の戦略」と言われている。
 僕が何かと対立するときに指針にするのはこの「しっぺ返し戦略」であった。もっとも現実的にはいろいろな要因が挟むので理論通りにはいかないこともある。本書ではそのあたりの因子をかませた「寛容型しっぺ返し戦略」とか「レビュー型しっぺ返し戦略」という応用術を紹介・考察している。


 パノプティコンというのは「競技場型の刑務所」とでも言えばわかるかもしれない。独房が、ぐるりととりかこんでいる。中央に監視塔が立っている。つまり、囚人からみると常時監視塔から見張られていることになる。そして囚人同士はお互いの様子がわからない。ミッシェル・フーコーが引用したことでたいへん有名になったが、「見張られているかもしれない」という空気を漂わせることと、囚人同士では情報が交換できない、という仕組みが、このディストピア的な全体社会をつくる(パノプティコンの設計者であるベンサムはこれが囚人を更生できる最適かつ平和な仕組みと考えたそうな。ベンサムは「最大多数の最大幸福」という名言(著者いわく「おめでたい」をつくった人である)。

 支配的な上司や経営幹部がやってくると僕はこれを警戒する。パノプティコンはよく考え抜かれてたシステムだが、支配的な人は本能的にこういうことをやってしまうようで、「ひとりずつ呼び出す」とか「しばしばレポートを出させる」とかよくやるのだ。数年前にこの手のタイプの人が担当役員としてヘリコプター式にやってきたときは本当に冬の時代だった。僕はパノプティコンの概念を知っていたので、彼が社員に対して行う施策がいちいち支配的で、まさにこれはパノプティコンだなと思った次第である。パノプティコンの対抗技は「見張られている感じがするだけで実際は見張られていない」ことを見抜くーーつまり、レポートは出してあればいいのであって、そこに書いてあるものの精度はいちいちチェックしていなかったということ(つまり適当にすませて良いということ)、そして「囚人同士で情報交換しあう」-僕の場合でいえば同僚同士で情報交換を積極的にしあい、足並みをそろえておくことだった。中国の庶民の格言に「上からの政策には対策」というのがある。中国の歴史をふりかえるに庶民のしたたかさ、たくましさを感じさせる格言であるが、このときの僕のふるまいはまさしくそんな感じだった。


 つまり、ゲーム理論というのはそこそこ現実の世界でヒントになる。本書でも現実社会においての応用や思考実験をやっているが、僕としてとくに言いたいのは、こちらから仕掛ける「ゲーム理論」よりも、誰かに仕掛けれた不条理に対し、そこの「ゲーム理論性」を見抜くことで、立ち回りを見抜けることがあるということだ。


 ところで本書。なんというか、傲慢不遜な文章に最初は面食らってしまった。しかもちょいちょい主観的な価値観の吐露や感情表現も入ってきて、なんだこの本と思ったのだが、タイトルの副題に注意深く書かれた物言いや、読み進めて次第に見えてくる行間に、著者はかなり繊細な人とみた。この個性的な文章テイストも、なんかゲーム戦略的なねらいがあってあえてやっているのかもしれない。

 


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第四次産業革命  ダボス会議が予測する未来

2016年11月12日 | 経済
第四次産業革命  ダボス会議が予測する未来
 
著:クラウス・シュワブ 訳:世界経済フォーラム
日本経済新聞社

 「<インターネット>の次に来るもの」と同内容で、現在社会において進行しつつあるIT技術やゲノム解析技術のその先に、第4次産業革命を予見している。
 
 第4次産業革命とは、様々な科学技術の発展による、我々の社会への過去の歴史にみない恩恵と、それと同時にもたらされるこれまでの秩序の破壊である。
 すなわち、さいきんよく言われるように、AIの飛躍的進歩で人々の雇用が失われるとか、所有経済からシェアリング経済に移行するとか、ブロックチェーンが中央集権制を解体するとか、IoTがパーソナルカスタマイズを極北まで進めるとか、遺伝子操作によるデザインベイビーの可能性とかを、このダボス会議でも予見している。
 
 「ダボス会議」は、もともとは、世界経済の今後を模索する会議体で、世界各国の政治家や経営者が集うイベントであり、グローバルビジネスのネットワーク構築の場であった。しかし、いまやIPCCや世界銀行とならぶ、国際社会の未来への予見と警鐘をメッセージ発信する一大ブランドになっている。しばしば、これからの未来に国際社会の一員として我々は何をしなければならないか、あるいは何をやめなければならないかを示唆してくる。

 したがって本書も、破壊的イノベーションを起こすこれからの未来社会において、ヒトとして生き残るために必要な資質や素質のヒントをあげている。
 
 
 まず、モノやサービスを甘受する消費者としての利便性は飛躍的に向上する。端的に言えば、コストが下がり、しかもモノやサービスの透明性が確保され、無駄な手続きはなくなり、ヘンなものはつかまされにくくなる。エネルギー効率もよくなって地球環境のためにもよい。
 
 しかし、「失業リスク」は極めて高くなる。これはもうどうしようもない。とくにマニュアル型の定型業務の雇用は激減するとされ、ホワイトカラー職でも、ある種のルーチン型のものは存在意義を失う。また、これはジェンダーギャップの拡大なども引き起こすとされる(電話オペレーターなど、筋力が期待できない女子の単純労働の領域がAIによって駆逐される)。
 究極に言えば、「労働」の金銭的価値は下落し、それよりは「資本」のほうが利益をかせぐ。ピケティの言う通りのことが加速されるわけである。経済的格差は拡大する。
 
 そして、ふだんの生活における「プライバシー」はかなりあきらめなければならなくなる。消費行動、生活行動はほぼどこかに記録され、蓄積される。
 プライバシーという概念は、近代社会、もっというと20世紀以降に台頭した概念であり、日本においては戦後の核家族化や団地造成とともに高まったと言われる概念で、つまり長い人類社会史においてはひとときの「流行り」でしかなく、今後ふたたびプライバシーの重視性は低下していく。プライバシーを守ろうとすればするほど、時代そのものの大きな潮流からは取り残される。
 
 
 すなわち第四次産業革命は、「消費者」としては恩恵をこうむり、「労働者」としては大打撃を受け、「生活者」としては一長一短、といったところだ。
 
 
 そんな近未来では、「小さなスキル」をたくさん持っている人が生き残りやすいと本書は指摘する。
 ひとつの企業に長期的な安定のもとで雇用されるのではなく、フリーの身として、「オンデマンド経済」を味方ににして、つまりアルバイトの掛け持ちをやりながら稼ぐように、次々と起こる小さな様々な需要を相手に賃金を稼ぐ。空き部屋を民泊に出し、自家用車をタクシーとして登録しておき、ベビーシッターや家庭教師をやりながら、株の売買などで「資本」をつくりこんでいくというような、言わば「器用貧乏」な人がサバイブできるということになる。
 
 不透明な状況では多様性を確保しておくというのはサバイバルの定石であるが、ということは、うちの小学生の娘なんかも、中学受験のための国語算数理科社会の塾通いなんかよりも、料理とか工芸とか農業とか異文化コミュニケーションとか半田ごてとか鍼灸とかそういったもののスキルを蓄積させるようにしたほうがいいのかしらなどと、いろいろ考えてしまう。
 
 

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人工知能と経済の未来  2030年雇用大崩壊

2016年10月05日 | 経済
人工知能と経済の未来  2030年雇用大崩壊
 
井上智洋
文芸春秋
 

 最近の新書はどうも軽薄なのが多くて敬遠気味なのだが、これはなかなか面白かった。著者の「どうだ!」という鼻息が聞こえてきそうだ。

 人工知能(AI)がにわかに注目されている。ディープラーニングとか、シンギュラリティとか。
 つまり、人間の手に負えないくらいにAIが進化したとき、われわれの世界はどうなるのか、というユートピアかディストピアかみたいな怖さ半分興味みたいなものがあるのだろう。SFの世界では、1968年の時点で「2001年宇宙の旅」によって「コンピュータの反乱」がテーマとして扱われていたが、コンピューターが暴走して人間の駆逐に乗り出すとかではなく(局所的にはそういう事故もありそうだが)、シンプルかつインパクトのある影響としては、雇用が奪われるというところでいま議論が起きている。
 たしかに、AIによって将棋や囲碁で人間が太刀打ちできなくなったからといって、この世から棋士がいなくなるわけではなさそうだが(社会的関心の変動によって給料に動きはあるかもしれないが)、自動運転車や、ドローンの荷物配送によって、タクシーやトラックの運転手の雇用が減る、なんてことはありそうだ。
 
 そこらへんをマクロ経済学的観点とからめているのが本書である。
 過去の産業革命による人類史や経済史の変遷なども比較しながら、著者はAIによるパラダイムシフトを2030年ころと見定める。このころが「汎用型AI」の本格的登場とみるのである。
 この「汎用型AI」というのは、「なんにでも応用が利くAI」ということで、対義語は「特化型AI」である。今現在、世の中で見ることができるAI、将棋や囲碁でプロ最高位をも任す「ポナンザ」や「アルファ碁」は将棋や囲碁に特化されたAIである。iPhoneの「Siri」も「特化型」である。Googleが開発を進めているとされる自動運転車も「特化型」である。
 「特化型AI」はいくら技術的に進化しようとも、もちろん「特化」の対象とされる人的雇用は影響をうけるかもしれないが、それ自体はこれまでの経済史でおこったことと基本的にはかわらない。家庭の風呂が普及することによって銭湯が廃業になるとかと、基本的には同じ範疇の話である。

 それに対して「汎用型AI」のインパクトはその比ではない。「汎用型AI」は、いわば産業革命における蒸気機関みたいなものだ。あらゆる場面で応用がきき、様々な産業体や技術領域で飛躍的な生産効率の向上を促す。
 経済史的には、蒸気機関の普及とそれによる一連の工業化を第一次産業革命、電気と石油によるエネルギー革命を第二次産業革命と呼ぶことが多いが、第3次産業革命については、原子力エネルギーによって立つ言い方と、IT技術の敷衍によって立つ言い方と二種類あり、本書では後者のとらえ方である。
 産業革命は、単に生産効率が上がるだけでなく、社会構造をかなり変えてしまうくらいのインパクトを作り出す。移動の高速化は、地理認識を変えるし、さらに大量かつ長距離の物流拡大は、グローバリゼーションという世の中の見方をつくっていくし、調達されてくる物資が変われば、建造物や街の姿そのものが変わる。振興する都市と没落する都市が出てくれば、行政構造そのものが変革を強いられる。
 そして、第4次産業革命にあたるのではないかと予見されているのが、この「汎用型AI」登場である。
 
 過去の産業革命がそうだったように、根こそぎ経済構造が変わる。タクシーの運転手が失業する、どころの騒ぎではない。
 もっとも、過去の産業革命では、一時期に失業者が膨れ上がっても、時間をかけて新たな雇用に吸収されるというのが経済学的な見方である。労働者当人の幸せはこの際おいといて(そこが経済学が無慈悲と呼ばれる所以だ)、人類史全体としてはまあなんとかなったわけである。
 ところが第4次産業革命だが、著者の見立てで、およそ9割の人間が職を失う。過去の産業革命とは比較にならないほどのインパクトである。残るのは資本家と、ほんのわずかなAI代替不可能な職能の人々だけである。まさか9割の人が全員マッサージ師になるわけにもいかないから(マッサージ師はAI代替不可能だそうである。これで思い出したけれど、南のとある孤島はサトウキビ産業でほとんど占められ、農家の収入は非常によいのだけれど、その稼いだ金の受け皿となる産業が孤島なだけにほとんどなく、結果的にパブやスナックが異常に多いそうである。農業と水商売のみで経済が循環している例)これは人類史上未曾有の局面だ。それどころか、資本家に対するところの労働者がほぼ絶滅してしまうので、結果的に「資本主義」は自然死するという。マルクスもびっくりである。なるほど。搾取する対象がなければ、資本主義も成り立たないわけだ。
 そうすると元・労働者階級は賃金収入がなくなるから、飢え死にするしかなくなるが、そんな状態にあってなお貨幣経済というものは存続しうるんだろうか、などとも思うのだが、著者はここで、増税を財源としたベーシックインカム(BI)論を展開する。おお、ベーシックインカム! こちらも最近とみに注目されている。まさかAIがBIに結び付くとは! なるほど、貨幣が循環していれば消費社会は継続され、ひいてはGDPは伸びていくわけだ。これは「汎用AI」によって生産効率がめちゃくちゃ向上していることが条件である。(これも思い出した話だが、先のとは別の南の孤島は、リン鉱石がやたらに獲れるため、それを輸出できれば島の経済はまわってしまい、穴掘りは出稼ぎ労働者に任せて島民はみんなベーシックインカムで悠々自適に暮らしていたそうだ。しかし、リン鉱石が枯渇してしまって島の経済は破綻、島民は労働どころか教育さえ受けておらず、魚を獲り方も料理の仕方もわからず、お先真っ暗とのことだ)

 ベーシックインカムについてはまだ思考実験の範疇を出ていないように素人としての自分は思うのだが、AIの進化を、経済史や人類史の中に配置させて考えてみるのはなかなか面白いと思う。2030年ころがその分岐点とのことだ。
 ただ、2030年というと、いっぽうで、地球の人口が100億人を突破していて農地と水が不足しているとか、平均気温が2度ほど上昇して、今の気候と地勢の条件が通用しなくなっているとかも言われている。「マルサスの罠」は突破できても「リカードの罠」につかまるんじゃないか、そのときに行き場を失った汎用型AIは何をもたらすのだろうか、などとも考えてしまう。
 
 いずれにせよ今から20年以内だ。東京オリンピックもいいけれど、その先のことも考えたいものである。
 

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日本はなぜ貧しい人が多いのか

2010年09月09日 | 経済

日本はなぜ貧しい人が多いのか  「意外な事実」の経済学

原田泰


 日本社会を覆っている主に経済政策を中心とした「俗説」を、データを武器に切っていく。たとえば「日本の社会福祉保障は実は北欧にひけをとらない高水準」「日本の格差は必ずしも広がっていない」「人口の減少は国力の減退にはつながらない」「若者のフリーター化や失業は、若者の価値観ではなく景気が原因」「グローバリズムが後進国の発展を阻害したというロジックは成り立たない」などである。

 このような、巷の俗説が実は誤り、あるいは一面的な解釈でしかないことを指摘したり告発し、マスコミや行政が声高にいっていることが浅はかであることを問い詰めた本が増えてきたように思う。ある意味、情報の民主化であって、これはいいことではある。
 これらのやり方の多くは、どこからかデータを引っ張ってきて(白書とか世論調査のような行政が公表しているデータが多い)、“ほらそんな事実はないでしょ”と見せるやり方である。たとえば、この類のパイオニアでもあるパオロ・マッツァリーノが2004年に「反社会学講座」において行った「若者の犯罪率は実は増えていない」は、警察白書から若者の犯罪検挙件数を昭和20年頃からの推移で示し、昔のほうがずっと多かった、という歴然とした事実を見せつけた。


 本書も基本的にはこのパターンである。ただ、引用してくるデータの出典がぐっと専門的になり、統計解析手法もかなりテクニカルになる。

 これらのように巷の「俗説」がさも真実のように語られながら、事実は異なるということは実際に多そうである。最近この手で最も壮大なのは「地球温暖化は本当は起こっていない」だろうか。

 ところで、この「告発」もまた、実は根拠は「俗説」と同じくらいの確度、つまり十二分に怪しいことが案外に多いことは注意しなければならない。ここらへんはリテラシーが問われる部分である。

 僕は前職で統計解析屋さんみたいなことをしていた。なので、特に本書のような「データを武器に事実を見せる」ことそのものは、世間で思われているよりも実はずっと胡散臭いものであることを知っている。
 たとえば、本書でも何か所かで試みられているが、重回帰分析のような多変量解析を使っている場合は、いくらt値が1以上だとか、寄与率が90%だと統計用語でまくし立てられても、やはり話半分で聞いた方がいい。変数の組み合わせをいろいろ試してみて、たまたま検定がうまくいったものだけ発表すればよいのだから。
 そもそも、多変量解析をしないと結果が出ないというところがポイントで、普通のクロス集計や記述統計では思うような結果が出せなかったからであることが多い(そういう意味では単純な記述統計だけで差異を証明できているやつのほうがまだ信用度は高い)。

 こういった解析手法の恣意性もあるのだが、そもそも「データ武装」というのは、基本的にどのデータを使って、どのデータを使わなかったか、という取捨選択の上で成り立っているというところがポイントになる。そして、多くの場合「使わなかったデータ」「採択されなかった分析・解析手法」は開示されない。で、ここが肝心なのだが開示されなかった「使わなかったデータ」「採択されなかった分析・解析手法」の中には少なからずの「分析してみて、思うような狙った結果が出なかった」ものが隠ぺいされているのである。

 要するに、「データ武装」というのは「情報の非対称性」が前提なのである。したがって、この手の分析を本当に信頼高くするには、その最終結論を導き出すデータの前に、どれだけの試行錯誤をしたのか、の過程も開示しなければならないのだが、もちろんそんなことをしたのでは「告発」にならない。

 で、言うまでもないが、「告発」はもとより、もともとの「俗説」も根拠はこんなものなのである。「格差が広がっている」「犯罪が増えている」「学習能力が落ちている」なんてのは一面的なデータの切り方をしたに過ぎない。どっちもどっちである。

 じゃあ、けっきょく本当のところはどうなのか? 
 たいていの事象は「どっちもあり」なのである。犯罪は一面的には増えているし、一面では減っている。それは、当事者が何を犯罪とみなすか、である。検挙数か認知数か。泣き寝入りも含むのか。重犯罪だけを含むのか、単なるマナー違反まで範疇なのかどうか。自分の住んでいる街だけを対象とするのか日本全国なのか。ここ数年の範囲なのか、むこう30年の中でなのか。それとも世界と比べてなのか。
 格差もしかり、学力もしかり、景気もしかりである。これが「現実」である。


 じゃあこういう「俗説」とか「告発」は何がカギなのかというと、要は最初の課題設定、今風に言えば、どういう「アジェンダ」を設定するか、ということになる。
 「格差は広がっている」というアジェンダの設定が勝利なのである。これに対し、「いや、格差は広がっていない」という反論は趨勢としてはこの時点で既に後手となる。「格差は広がっている」というアジェンダの設定が成功すれば、国家予算が通る、国民の支持が挙がる、視聴者が興味を持つ、という勝算さえあれば、あとはそのアジェンダを補強する証拠を「データ武装」する、ということだ。


 以上をふまえて、本書に戻るとして、日銀が物価上昇率が0%を越えないようにしているのではないか、という仮説はなかなかセンセーショナルだ。状況証拠としては確かにそうだし、その「もっともらしさ」が俄然光っている。 通常、日銀はインフレターゲットを設定していないとされているのだが、「0%を越えない」という不思議な設定(つまりデフレのほうがマシという判断)は、なかなか興味深く、からくりを考えたくなる。80年代バブルによっぽど懲りたのかしら。


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クルマは家電量販店で買え

2008年11月12日 | 経済
クルマは家電量販店で買え---吉本佳生

 「スタバではグランデを買え」の続編。この手の続編ものはだんだんクオリティが下がる(というよりはテーマが散漫化していく)のが定番なのだけれど、前作が比較的消費財や低価格な日用品を商品を題材に「コストとは何か」を追求したのに対し、本作は「ドル・オークション」「シグナル効果」「囚人のジレンマ」「裁定」「サンクコスト」などのテクニカルタームまわりを扱って差別化している。


 かなり熱をいれて解説されているのが「ドル・オークション」というゲーム理論で、オリジナルは1ドル札のオークションで1セント単位で競り落とすというもの。このゲームのミソは、最高落札価格を提示した人は、その金額え1ドル札はもらえるが、「2番目に高い入札をした人は、その入札額を胴元に払わなければならない(もちろん何ももらえない)」というルールの存在である。
 これ、僕が大学のときも、とある講義で教授が学生相手に自分のサイフから1万円札を取り出して開催した。状況がよくわからなかった僕はぼんやり傍観するだけだったが、最終的には3万円近くまで上り詰めてしまったように記憶する(またこの教授が容赦ない人で、学生から本当に巻き上げていた)。

 この「2番目に高い入札をした人は、その入札額を胴元に払わなければならない」というのは非常に恣意的な特殊ルールのように見えてしまうが、これは要するに玉が一つしかないというゼロサムの状況でコストをかけた争奪戦を意味しており、現実の社会にかなり蔓延している。議席数1の選挙とか、一括受発注のビジネスコンペとか、一番乗り競争とか。その栄光を勝ち取るために、いつのまにかその玉の「価値」以上の出費をしてしまっていることは非常に多い。
 この「ゼロ・オークション」の罠は、「売上高至上主義」の企業が特に陥りやすい。利益率至上主義だとどこかでブレーキをかけるのだが、不思議なもので、人は利益率よりも売上高のほうがモチベーションを維持しやすい。売上高のほうがスケールメリットが評価される一方、利益率主義は基本的にケチくささを伴うからだろうか。また、規模の経済性やネットワーク外部性などによって量は質を変えることがあるが、反対に、質が量を変える、というのはあまりないからでもある。
 特に日本人はDNA的に「売上高至上主義」(要するに質より量)なところがあるように思うが、これは農耕民族的なものに由来しているのかもしれない(作物を安定的に収穫するには、一定以上の作付面積が必要であるのに対し、狩猟の場合は最小限のエネルギーで効率よく獲物を追い求めないとすぐに歩き疲れて疲弊してしまう)。


 ところで、これを応用させ、相手を競わせて自分の価値を本来以上に吊り上げさせるという方法がある。
 就職活動において、第1希望がA社だとする。そして、A社の第1次面接で、A社と競合のB社の第1次面接を通過したことを伝える。これは「B社の第1次は通過する人材である」というシグナル効果をねらっている(この「シグナル効果」も本書では詳細に扱われている)。それはかなりのプラス情報ということでA社の第1次面接は通過する。面接官というのは大変なプレッシャーを負わされており、「第3者的な根拠」というのはとても気にしやすい。次に、B社の第2次面接で、A社の第1次面接は通過していることを伝える。B社にとっては「A社の第1次は通過する人材である」というシグナル効果を発揮する。あとはマッチポンプだ。
 そして最終的にA社の最終選考を通過する。彼がそこまで残った根拠は「B社の最終選考を通過するくらいの人材だからだ」というのが強く作用している。ところが実はこれは当人の価値がバブルになっているのだ。元を正せば「B社の第1次を通過する人材」だけだったのだが、A社とB社のにらみ合いで勝手に人材評価が吊りあがっているからである。そんなうまいこといくか、と言いたくなるがこれは実話である。

 つまりこれは「シグナル効果」を「ドル・オークション」でバブルにさせた実例なのだ。この戦略のミソは、何が何でも「B社の第1次は通過しておく」ということと、A社とB社の競合関係がある意味で対等、というところにある。特に採用人数が少ない業界で有効とされており、これが最も有効とされているのは何をかくそう民放女子アナの採用の場合だ。よって、最近の採用された女子アナは他局の内定や最終選考も残ってきた人が多い。そんな各局のお目がねにかかってきたわりに??と思いたくなるような人材を感じるのは、ここらへんが原因なのかも。

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この国の経済常識はウソばかり

2008年09月26日 | 経済
 この国の経済常識はウソばかり---トラスト立木

 著者の名前や本のタイトルからして、いかにも怪しいが、著者は、以前「立木信」という名前で本を出していた。改名にあまり深い意味はなさそうだ。

 本論のベースになっているのは、日本の人口動態が人口ボーナス(労働人口が増える)ではなく、人口オーナス(少子高齢化で労働人口減る)という状況、つまり基本的にはGDPは下がるという力学が働いているのに、人々の記憶や前提が、人口ボーナスの頃のままになっている、ということだ。特に、げんざい国や大企業を動かしているエライ人の成功体験は、基本的には経済成長率が(ある意味で自然に)上がっていくという土壌を前提とした時代のそれであった。役員クラスが高度成長時代であり、中間管理職クラスがバブル時代の経験知にある人である。
 だが、それと同じことをもう一度しようと思っても、うまくいかない。労働人口の世代が交代してしまっているからだ。その結果、今の土壌は、労働人口の減少という少子高齢化社会が大前提となり、油断するとすぐに下がるGDPを、BRICsなどの外需でどうにか支えるという環境下なのである。にもかかわらず、かつての栄光を普遍的なものと信じ、世代が交代していることを気付いてないのか気付かぬふりをしているのか、「上げ潮」を期待したり、目標予算達成率10X%を掲げたり、自分らの世代の既得権益にこだわったりする。

 たとえば、政府が定める標準世帯というのがあって、これが税制とか社会保障とか公共料金の基準になっているのだけれど、この標準世帯とは「正社員の夫、専業主婦の妻、子ども2人」なのである。これはまさしく高度成長期における日本型経済成長単位として機能してきたのだった。だが非正社員が3分の1を越え、専業主婦より働く主婦のほうが今や過半になり、子どもの平均人数が1.34人で、世帯の中では単身世帯が最も多い、という現状で、この標準世帯はもはやマイノリティなのである。
 しかし、肝心なのは、現状と「標準世帯」が乖離しているということではない。政府がいまだに標準世帯、つまり「正社員の夫、専業主婦の妻、子ども2人」こそが「国家の理想」と信じきっているところが問題なのである。勿論「主婦は専業がよい」などとは口が裂けても言わないが、実をいうと現実と「標準世帯」の乖離は、もう何年も前から指摘され続けており、にもかかわらず一向にこれを見直すつもりがない。これは政府としてはあくまで現在の世帯状況は特異あるいは非理想なものなのであって、すべからく是正してほしい、というホンネがあるのだ。だってそうすれば、高度成長時代みたいになれるんだもん。そしたら国債だって償還できるもん。

 だが、本当は「単身世帯が多く、非正社員も多く、子どもは少なく、夫婦ともに外で働いている」状態においてなお、持続可能な国家運営への舵取りは、やはり時間の問題だと思うのである。だが、現在のマクロ経済政策はどう考えても世代移転という問題に対処していない(というか始めから念頭にないままこの30年間やってきたというのが真相か)。55年体制以降、事実上「高度成長期」の政策運営の経験知と記憶が絶対になっている自由民主党に、この世代移転の舵取りができるとはやはりどうしても思えないんだよね。

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容疑者ケインズ

2008年09月10日 | 経済
 容疑者ケインズ---小島寛之

 自民党総裁選が本格化してきたが、本命とされる麻生太郎氏は、財政政策を積極的に進めるべしという主張のヒトである。赤字国債と増税で財源を確保し、公共事業を興して職業をつくり、失業者や貧困層の収入をつくり、景気の活性化を促す。

 今は亡き宮沢蔵相をも思い出させるこの手法こそが、ケインズ経済学の基本中の基本。もっとも、純粋なケイジアンはいまやほとんど否定されており、今提唱されているケインズ型の政策は、かつてのケインズ学に修正と応用を重ねたものだ。

 ただ、いずれにしても財政政策というのは要するに政府が国の金庫や借金の返済能力と相談しながら、歳出歳入のやりくりをするというマクロ経済学的な観点にある。が、マクロ経済学というのは、国民ひとりひとりが持つ資産(現金とか不動産とか証券とか)と企業の資産をぜーんぶ足し上げた集合体をイコール国家の財力と見なすという大前提があって、実はここに落とし穴があるような気がしてしょうがない。
 というのは、我々は決して「お国のために」ものを買ったり、貯金をしたりしているわけではないからだ。自分の持っているお金と政府の財政力を直結させるところの違和感がどうしても残る。だから、大規模土木の公共事業なんかで道路だダムだとなると、「税金のムダ使い」に見えてしまう。自分になんの恩恵もないからだ。オレの金を勝手に知らないところで使うなよ、という具合である。特に今の日本は気持ちに余裕がなくて「自分以外の弱者が優遇されること」を極端に嫌うところがあるから、財政政策は心理的に国民の嫌悪感を誘う(「財政政策=バラマキ=税金のムダ使い」という図式が定まっている)。逆に、どこかの私企業が農村を保護したり途上国に道路をつくったりすると、それは「偉い企業だ」ということになる。もともと自分のお金ではないからである。

 だから、マネーサプライや金利操作などの金融政策のみで不況を乗り切ろうとする新古典派(小泉・竹中政策ね)のほうが「お金と財を交換する」行為が発生しない分だけなんとなくムダ使いをしていなそうなそうだし(単に不可視化しているだけだが)、政府歳出をおさえて財政の健全化を目指そうとする上げ潮派のほうが、政府の金庫と国民のサイフを分断しているので国民の支持は得やすいだろう。

 もちろん以上は極めて表面的な印象でしかない。実際、小泉・竹中政策のハードランディングで経済社会がどうなったか、は「痛み」や「勝ち組・負け組」というコトバとともに凄まじい結果をももたらしたし、上げ潮派の言い分は裏を返せば、政府の金庫を健全にすることを優先するため、国民の困窮を救うのは後回し、ともいえるのである。
 にも関らず、この表面的な印象が及ぼす影響が馬鹿にならない。いまや選挙の勝敗や支持率を左右するのは公約の妥当性や結果と検証ではなく、瞬間的な「心理」だ。

 株価も市場も動かしているのは「心理」であると喝破したのは、はからずもケインズだが、総裁選はともかく、総選挙も国民の「心理」に拠るところが大きい。今の国民の「心理」では財政政策は少なくとも選挙という点ではNGだろう。たぶん財政政策が熱狂的に国民に支持されるには、国民が極めてナショナリズムに燃えているときだと思う。ケインズが頭角を現したのが大恐慌時代のアメリカというのは偶然ではない。実はケインズはヒトの「心理」のうつろいを誰よりもはやく見抜いていたように思う。彼のことを経済学者でなくて政治家だと言う揶揄は昔からあるが、妙な詭弁と魅力的な結論で社会を鼓舞しようとしたその才能は、確かに政治家としても稀な才能だったのかもしれない。

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ハイエク 知識社会の自由主義

2008年08月25日 | 経済
 ハイエク 知識社会の自由主義---池田信夫

 ケインズも新古典派もハイエクも最近妙に人気がある。混沌として不透明な時代において、何かしら経済学の光明を見たいという人々の希望だろうか。

 とはいえ、ケインズはともかく、新古典派とハイエクの違いはわかりにくい。思想哲学上の違いは本書で再三触れているように明確ではあるのだろうけれど、現実の浮き世では、どっちも市場原理主義の新自由主義というやつなんでしょ、でほぼ通用してしまうように思う。

 ただ、どちらにしても“市場の調整機能に委ねる”というのはどうも概念が包括的すぎてぴんと来ないこともある。下手に手をださずに、最低限のルールだけ与えて、あとは成り行きに任せるというのは、それってどちらかといえば宗教的観念ではないかという疑問がある。

 たとえば、今日の資源の高騰という現象を、市場の調整が働いている期間でいずれは落ち着くと考えるのはまあいいとしても、その落ち着くのが1ヶ月先なのか1年後なのか10年後なのか、はたまた100年後なのかは誰にもわからず、気長に待ちましょうというのが政策的とはやはり考えにくい。個人には寿命があるのに、社会には寿命がないという矛盾から生じているわけで、100年待つ間に死んでしまってはその個人にとっては何のための「社会」かという話にもなる。
 で、「ほっといたら100年かかるのを私なら10年で収斂させます」と声高に吠える政治家が出てきて、それが国民の大多数の支持、つまり「市場原理」によって選挙に勝ち、そしてケインズ型の財政政策を実行して、それが失敗しても成功しても、これも「調整機能」の一種の過渡期的現象などとなると、もう何が何だかわからなくなる。屋上屋を重ねるようなもので、そもそもなんのための考察か、なんて気もしてくる。そういえば、ナチスだってあれは民主選挙の結果、第一党に選ばれたのであった。

 かといって、全体主義が良いわけはもちろんなく、共産主義が自由主義以上に困難であったことは、ひとまず知れ渡っており、所詮は中道左派から中道右派の間のいったりきたりで、神のみがその淘汰を見届けるんかいなあ。

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最強ワーキングマザー対談

2008年06月10日 | 経済
最強ワーキングマザー対談---勝間和代×西原理恵子---番外

 番外。毎日新聞のサイトで、勝間和代と西原理恵子が対談をしていた。この2人なんて、たしかに両者ともワーキングマザーなわけだけれど、価値観とか美意識とかはまるで話がかみあわなそうだ。でも考えてみれば、両者ともいつも「金・かね・カネ」ばかり言っているわけで、そこを発見してこの対談を企画した人はけっこう慧眼だ。
 でもやっぱり企画倒れというか、あとで西原理恵子のブログを見たら、7割がた噛み合わなかったようなことが書いてあった。

 それはさておき。
 サイバラが盛んにネタにしているセリフに「カネがないのは、首がないのと同じ」というのがあって、それはかなりの部分で概念というよりは実体験に基づいているっぽい。いくらきれい事ぬかしても“カネがなければ始まらない”。
 そのサイバラが、同じくらい何度も言っているセリフが「人生と商いは止まらない列車」というやつで、この2つをあわせると、“首をくっつけ続けるために、列車は止められない”のである。逆に言えば、“列車が止まったときは首がない”ときである。
 かくしてエデンからの追放このかた、労働は人間の原罪に対する償いであるからして、古今東西人間なるものは死ぬまで働く。あるいは死にたくなきゃ働く。要するに「働かざるもの、食うべからず」。

 そんな失楽園からウン千年(?)、時代はグローバルマネー。勝間は「人間」の代わりに「お金」に働いてもらうことを、あちこちで言ったり書いたりしていて時の人なわけで、「労働収入」じゃなくて「資本収入」をもっと考えなさいと。つまり、この場合、“商い”していて“止まらない電車”になっているのは「自分の身体」ではなくて「お金」ということになる。
 お金は疲れないし文句も言わないしストライキもおこさないからひたすら止まらない列車になって働いてもらって、ちゃりんちゃりんと稼ぎを落としてもらい、自分の身体は楽していても、あら不思議、首はつながっている。

 が、言うまでもないけれど、「お金」に働いてもらうためには、「働けるお金」というものが必要なわけで、要するに「バクチは資金の多い奴が最終的に勝つ」というセオリーを持ち出す間でもなく、「働けるお金」が作り出せないから苦労するわけである。

 ワーキングマザーの目標は年収600万円というのが勝間の示すスコアで、サイバラの皮膚感覚だと普通のワーキングマザーでは年収300万が努力して精一杯。統計的には母子家庭の平均年収は210万そこらということになっている。とても「働けるお金」など出せそうもない。それこそ「首の皮1枚」で列車は止まらず線路は続く。どこまでも。野を越え山越え、谷越えて。

 それにしても、勝間が引用した「日本では、人々の幸せ度と年収は1500万円ぐらいまでは強い相関がある」というのと、自分が幸せだと感じる国民の割合-「国民の幸福度」で日本は世界で90位という記事を見ると、「お金が無い」から不幸、なのではなくて、「お金中心の国なのに、みんな自分はお金が無いと感じている」からこその不幸なのだというものを強く感じる。

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理系サラリーマン 専門家11人に「経済学」を聞く!

2008年06月02日 | 経済
 理系サラリーマン 専門家11人に「経済学」を聞く! ---平林純---ノンフィクション

 著者のサイト「できるかな?」を初めて見たのは、もう10年くらい前だと思うが、とにかく驚愕した。理系の手腕と文系の美学のハイブリッドとでも言おうか、そのコンテンツのクオリティの高さと、驚くべき更新頻度。これらがタダで見れるなんて、インターネットってすげえ! と思ったものだった。

 そんな著者もいまやネットを代表する知識人。本書は11人の経済学者にエンジニアの価値観から質問していく。
 が、本書の最大の魅力というか価値は、著者が問いかける議題設定の美しさだ。これを見ると、インタビューというのは、「何を質問するか」が命だというのがわかる。
 特にすばらしい質問だと思ったのは

 “経済学の「成果」とは何か?”

 という問いかけ。“経済学とは何か?”ではない。経済学の「成果」とは何かを尋ねている。
 なるほどエンジニアこれに極まり、名質問。アカデミズムの存在意義にまで迫っている。

 こと、人文科学と呼ばれるものは、この壁にぶちあたる気がする。
 “社会学の「成果」とは何か?”
 “論理学の「成果」とは何か?”
 “国文学の「成果」とは何か?”
 “民俗学の「成果」とは何か?”
 “歴史学の「成果」とは何か?”
 “考古学の「成果」とは何か?”
 “政治学の「成果」とは何か?”

 で、一方の「自然科学」というのは、きわめて「成果主義」の歴史だったのだな、何てことも思うわけである。

 逆に、経済学者からの回答で、はーなるほど! とヒザを打ったのは「経済学と経営学の違い」。この質問はわりと古典的であちこちで見られるが、中島隆信教授の回答は簡にして要にして新鮮。経済学の目指す究極が“富の公平な分配”ならば、経営学の目指す究極は“独占”。つまり正反対ということ。

 ということはですね。生活者の最大利益と、企業の最大利益が一致するということは宿命的にありえないのかな。

 

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過剰と破壊の経済学

2008年01月04日 | 経済
過剰と破壊の経済学----池田信夫----新書

彼の言論は、広範な知識を背景に饒舌に畳み掛け、こんなことも知らないなんてあんたバカじゃない? みたいな、許光俊や筒井康隆あたりに通じる方法論(芸風といったほうが良いか?)をとっており、カタルシスとかったるさの狭間をいくところがある。ただ「広範な知識」攻撃タイプの人は、帰納法で結論に持ってきているように装いながら、実は言いたいことが先にあって、その根拠となるものを後から持ってきていることが多いので、油断ならない。彼の場合もその気配を感じるのだが、とはいえ、やや強引にでも結論に導く手腕は鮮やかなくらいに確かで、しかもこの人、文章が上手だと思う(このやり口をとる人には大事な技術)。

で、垂直統合コングロマリット型のプロジェクトはデスマーチになりがちなのに、この国はなぜに同じことを繰り返すのか。こと情報産業に関して言うと、この国の長老界は「情報産業」というものを生理的に毛嫌いしているようにも思うのだ。情報という無味無臭、無重無形なものを扱う根本的な想像力が欠けていて、どうしてもソリッド感のあるものを求めてしまう(企画書や報告書の「分厚さ」を誇る文化だっていまだ根強い)。「スケールメリットは役人の本能」と看破したのは、いしいひさいちである。定量的なもの、可視的なものでなければ、評価もすり合わせも意思決定もできないからなのか、すり合わせや意思決定の文化が先にあって、こういった定量的なもの、可視的なものを志向するようになったのか。ムーアの法則とは畢竟、どこまで無味無臭無重無形化を極めるかでもあると思うのだけれど。

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スタバではグランデを買え

2008年01月02日 | 経済
スタバではグランデを買え----吉本佳生----単行本

表題のような個別例(100円ショップとか携帯電話の複雑な料金とか)も面白いが(基本はお金がある人もない人も本人が出せるギリギリまで支出させるにはどうすればよいかということ)、「所得格差ではなく資産格差」「小児医療の無料化はネガティブに作用する」「比較優位」の3章がいずれも興味深かった。それにしても経済学理論と公平的(幸福的)社会感はなぜかくもズレるのだろう。食料安保問題とか地球温暖化政策が経済学的にはNGという不思議もこれに関係してそう。

ところで、著者は「比較優位」と「実質金利」は覚えておくと実生活で役に立つ、と言っている。僕はこれに「連続囚人のジレンマ」も加えたい。そのわけはまたいつか。

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