読書の記録

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チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学

2021年04月26日 | 民俗学・文化人類学

チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学

小川さやか
春秋社

 

 噂にたがわず面白かった。初版が2019年7月だからちょっと出遅れたことになる。すでに第12刷まで出ている。この種の本としてはベストセラーだ。

 人類学の中では「贈与経済」はポピュラーなテーマだ。本書もそうである。香港における巨大雑居ビル「チョンキンマンション」におけるタンザニア人コミュニティを、一緒に生活(参与観察)することによって書かれたものだが、大きくみれば「贈与」の観点で解題したものではある。「贈与」が絡む絶妙なビジネスのからくりや、贈与と分配のありようがセーフティネットにもなっているTRUSTというオンラインコミュニティの在り方には目を見張るものがある。

 しかし、一般に人類学でイメージされるほどの贈与経済社会のしがらみほどには、このタンザニア人コミュニティは拘束力が強くない。

 なぜならばこのコミュニティは人の出入りがかなり流動的であり、メンバーが固定できないという前提の上で成り立っていからだ。

 そもそもなぜ香港にタンザニア人がいるのか。彼らの正体は出稼ぎや買い出しや食い詰めや一攫千金狙いなどさまざまである。老若男女いると言ってよい。そんな彼らだから、人によって香港の滞在期間はまちまちだし、持っている資産の格差もはげしく、その素性も、脛に傷の具合もみなバラバラである。合法的にビザを持っているものから偽名を使っているものから、不法滞在から難民申請者までいる。こんな流動性かつ多様性が前提になっているから、コミュニティの拘束力は限定的にならざるを得ない。

 だけれど、コミュニティはコミュニティとしてちゃんと維持される。拘束力は強くないのにコミュニティは確かに維持されている。この妙こそが本書の主題とも言える。

 

 彼らのコミュニティが持続する秘訣は、彼らが何事も「ついで」に行っているからだ、というのが著者の見立てである。この「ついで」というキーワードは本書の全般にわたって登場する。

 「ついで」とは何か。

 彼らは、しばしば他人の頼み事を引き受ける。頼み事を引き受けることで経済がまわっている。引き受けたほうからすればそれは「贈与」という行為になる。

 では彼らがなんの頼み事を引き受け、なんの頼み事はさりげなくスルーするのか。これを観察してみると、自分たちの何かの「ついで」になるようだったら引き受けやすい、というところに著者は気づく。頼まれ事と同じ方向にたまたま自分も用があるとか、その頼まれ事は自分の商売ネタにも使えそうとか、まわりまわって自分の評判形成に役立ちそうとか、そういうことを算段して彼の頼みごとを引き受けかどうかを決める。つまり、彼らの「贈与」は単なる贈与ではなく、自分の利己的行為を多いに含む「贈与」なのである。

 しかし、この「ついで」は隠し持つものではない。お互いに織り込み済みである。したがって頼み事をした方はその分「負担」が軽くなるという効果がある。後ろめたさが減るのである。「贈与経済」は、贈与される側の「負担」という力学が指摘されるが、この「ついで」という存在によって贈与がもたらす拘束力は緩やかになる。

 著者が「ついで」の価値に着目したということは、現代の日本社会ではこの「ついで」がなかなか見いだせないということでもあるかと思う。日本では頼まれごとに利己的な目的を見出すのは卑しい行為とされるだろう。やるならば全力を出してやらなければならないという美意識とか、自分の目的のついでに他人の頼みごとを紛れ込ませることのめんどくささとかある気がする。少なくとも僕には覚えがある。

 

 「ついで」の他に、もうひとつ僕が気が付いたキーワードがある。それは「ダメもと」である。

 この「ダメもと」という言葉は、じつは本書の中では1回だけしか登場しない。しかし、本書を読んでいると、実は彼らの行動原理のかなり根っこなところにこの「ダメでもともと」というのがあるのではないかと思ったのである。

 ひょっとすると「ダメもと」を意味するタンザニア語(スワヒリ語)は無いのかもしれない。

 コトバが無いということは、あえてそれを意識することがないくらい彼らの中では普通のことなのかもしれないということだ。日本語に「ダメもと」=「ダメでもともと」という言葉があるということは、そういう概念を意識しなければならない日本特有の価値観がそこに存在するということを意味する。日本では「ダメな可能性の高いものはそもそもトライしないのが倫理と論理」という価値観がある。だからこそ、それでもあえてそれを行うときは「ダメもと」という概念が輪郭を伴って登場する。

 だけれど、本書に出てくるタンザニア人の彼らたちは、あまりにも簡単にものを頼むし、探してみるし、会ってみるし、チャレンジする。うまくいかなかったらどうしよう、という陰りをあまり感じない。楽観的というのともちょっと違う。むしろ「たいていのものは「ダメもと」なのだ」ということを彼らはデフォルトとして自然に身につけている感じがする。

 だから、人にものを頼むときも、人に何かの貸しをつくるときも「ダメもと」がついてまわっている。そしてたとえ何人かに断られても、どこかに「ついで」で引き受けてくれる人がそのうち出てくるから、コミュニティは成立するのだ。また、「ついで」と同じようにこの「ダメもと」も相互認識されているからお互いの気遣いは軽くなる。

 

 彼らは本質的に仲間意識を大事にしているし、相互扶助社会のようである。困った同胞がいれば必ず助ける。だけど一方で、他人を信用しきってはおらず、「まかせず」「頼らず」「あてにせず」という精神がある。来るもの拒まず去るもの追わず。いらぬ詮索はしないし、過剰な期待もしない。

 矛盾しているようだが、そのパラドックスをつなぐのが「ついで」と「ダメもと」であり、結果として「緩やかな拘束力」をもったコミュニティとなる。

 

 というわけでなかなかに興味深い香港におけるタンザニア人コミュニティの実態なのだが、よくよく考えてみると、これはタンザニア人特有なのかというと、どうもそうとも言い切れない気がする。まさに「アングラ経済」の人類学というサブタイトルの通り、素性もさまざま、生活の安定度合いもさまざま、脛に傷の度合いもさまざま、要するにある種の多様性の中で行政的な制度や福祉をあてにしないで持続可能な社会をつくろうとすると自然とこうなるのではないかという気もするのだ。もっというと、日本でもかつてはアングラな立場の人はこんな感じではなかったか。フーテンの寅さんの行動原理もよくよく考えれば「ついで」と「ダメもと」ばかりやっていたような気もする。

 それにしても母国タンザニア大海を隔てた香港の地でいきいきとたくましく生きる「チョンキンマンションのボス」ことカラマとその仲間たちの眩しいことと言ったらない。本書の見どころはむしろこっちかもしれない。

 


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