読書の記録

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タモリ論 ・ 文藝別冊「タモリ」 ・ 愛の傾向と対策

2014年01月29日 | サブカルチャー・現代芸能

タモリ論 著:樋口 毅宏

タモリ 芸能史上、永遠に謎の人物 編:文藝別冊 

愛の傾向と対策 著(対談):タモリ・松岡正剛

 

 樋口毅宏のタモリ論はずいぶん売れたらしいが、それにしては非常に評判が悪い。
 ぼくもざざっと読んでみたが、要するに最近のタモリ、「いいとも」のタモリを中心に話を進めており、そこにさんまやたけしとの比較みたいなのを、完全に主観的にやった“手ぬるさ”が批判されているのである。

 でも、どうも著者と編集部の確信犯な気がする。今日び、ちょっとネットでググれば、タモリの真に偉大で異様なところは80年代初期の芸にあり、そこに時の文化人たちが心酔したことはいくらでも情報として出てくる。わざわざそこをカットしたのである。
 

 逆に、「夜のタモリ」の時代を知っている人は、「いいとも」のタモリは毒抜きされたタモリでしかないと評する。「タモリ論」に不満を持った編者がつくりあげたのが文藝別冊「タモリ 芸能史上、永遠に謎の人物」で、ここでは「いいとも」以前のタモリがいかに凄かったかが語られる。もはや古事記の冒頭のごとく神話化されている九州のホテルでの山下洋輔トリオの宴会の乱入という幕開けから、新宿の「ジャックの豆の木」にカンパ金で呼ばれてそこで密室芸を披露し、赤塚不二夫に気に入られて居候し、黒柳徹子に発見され、そして「空飛ぶモンティパイソン」「今夜は最高」「タモリのオールナイトニッポン」と危険な番組を駆け抜けていった。

 確かに「昼のタモリ」は毒抜きされているのかもしれないが、しかしテレフォンショッピングを見ていても、他の番組を見ていても、やはり人を食った独特のテンションと間合いでいつのまにか「持っていってしまう」あのてらいのない運びが既に「至芸」だと思う。
 その「至芸」は伝説化されているタモリのさまざまなネタにも共通している。「四ヶ国語麻雀」も「ソバヤ」も「ハナモゲラ落語」も「思想模写」も恐ろしく完成度が高いが、通底しているのはあの奇妙に低いテンションと間合いでの「運び」である。
 まったくたいしたことしてませんよ、つまらない普通のことですよ、という脱力感の中で一寸先は闇の口八丁手八丁を繰り広げるこの感じは、夜のタモリも昼のタモリも同じである。

 このようなタモリの芸風にジャズのアドリブとセッションをみるのは、タモリを論じる際によくある話だが、なにしろタモリは自分の芸のことを自分自身で説明することがほとんどない。たぶん、さんまやたけしよりもない。世にあるタモリの本は、「タモリ論」も「文藝別冊」もすべて他人が書いて、他人が評しているものである。タモリ自身が書いたとされる「TOKYO坂道美学入門」は、タモリの趣味丸出しの本だけれど、ここにタモリ自身の思想が書いてあるかとすればそんなことはない。
 そもそも、タモリの芸風は、自分自身を語らないところにもある。

 そんなタモリが「笑い」とは何かとかおのれの芸風とかを語った貴重な本が1980年に刊行された「愛の傾向と対策」で、松岡正剛との対談本という、希少というよりもはや珍書である。なぜかこれがウチにある。

 ここで彼はいろんなことを述べているのだが、要するに彼は「予定調和」が大嫌いなのであった。そして、モノゴトの予定調和を助長させているものは「言葉」であるというのが彼の見立てなのである。
 「言葉」は、「意味」と「音声」の約束事で成り立っており、その「言葉」の連なりが、全体の世界をつくり、予定調和をつくる。本来はその世界を支配する約束事や予定調和が先にあって、言葉が後からついてくるように思えるのだが、どうも「言葉」が先にあるのではないか、という唯言論なのである。
 だから、牧師を牧師っぽくしているのは、あのへんなイントネーションの日本語とたまに挿入されるお約束の慣用句による「言葉」だし、ミュージカルがミュージカルっぽいのは、会話が突如歌いだすからである。タモリは、「言葉」がモノゴトにウソっぽさ、予定調和を与えていく違和感を覚え続けたのである。

 だから、彼の芸はこの言葉による破・予定調和なのである。予定調和を予定調和たらしめる「側(がわ)」だけを残して中身を思いっきり空虚にしてしまったのがハナモゲラやインチキ外国語やつぎはぎニュースやソバヤだし、言葉の中身である「意味」を大事に大事に崇めたてるわりに随所で定型句が顔を出す予定調和が支配する世界を笑いとばしたのが、ニューミュージック批判やセレモニー時のスピーチ嫌いだし、その嫌いなセレモニー・スピーチを破・予定調和でありながらしかも大団円という離れ業をやってみせたのが赤塚不二夫への弔辞なのである。

 

 そう考えると、彼のあの妙に低いテンション、「やる気のあるものは去れ」「座右の銘は適当」というあの感じも、すべていつでもすぐに破・予定調和にもっていけるための「構えの姿勢」のように見えてくる。どこかに力が入るとあらぬ方向にボールが飛んできたときにさっと体が反応しない。あれは達人が見せる「どこにもスキがない姿勢」なのかもしれない。

 


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