読書の記録

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推し、燃ゆ (ネタバレ)

2024年04月30日 | 小説・文芸
推し、燃ゆ (ネタバレ)
 
宇佐美りん
河出書房新社
 
 
 本屋大賞系の本を何冊か読んでいて、微温系のいい話は心いやされるのだけれど、もうすこしざらついたものも読もうかなと思って、芥川賞受賞の本作をよむ。ちょうど文庫化されたのだ。
 そしたら、想像以上にざらついていた。「コンビニ人間」の上をゆく虚無があった。
 
 主人公は女子高生、山下あかりによる一人称小説である。したがって語り手のあやつれる言語と知覚できる世界によって描かれるわけだが、彼女はなんらかの発達障害をかかえていることがその書きぶりからわかる。
 
 実は、さきごろ本屋大賞をとった「成瀬は天下をとりにいく」の主人公の成瀬あかりにも、発達障害の気配がある(同じ「あかり」なのは偶然か)。「コンビニ人間」の主人公である古倉恵子も同様だ。発達障害の人物を通して現代社会に見え隠れする異様や閉塞、あるいは希望の兆しをクローズアップさせる手法は和洋を問わず見かける。映画なんかでもよくある。
 これらを見ると実に人生の分岐点とは紙一重なものだと思う。うまく出会いや理解者があれば、その人が持つ特徴は良い方に作用するが、ちょっとタイミングや関与する人物がずれると社会の圧力の中で居場所を失う。(さかなクンを題材にした映画「さかなのこ」では、のん演じる「さかなクン」が最終的にはうまく人生が軌道に乗ったが、もう一人対照的にさかなクン自身が演じる「社会からはじかれた魚オタクのおじさん」というのが登場し、その紙一重が強調されていた)。
 本主人公のあかりは残念ながら社会と齟齬をきたしてしまっている。
 
 あかりの父母は目をそらす。父親はエリート系ビジネスマンでしかも海外赴任中、モラルを盾に本気で彼女のエンパシーを汲み取る気がない。母親は毒親に育てられた経緯があり、情緒不安定である。大人になってなお理想と現実の違いに打ちのめされ、うまくいかない毎日の、うまくいかないもののひとつに彼女を数える。あかりには姉がいて家族の中では理解者ではあるものの、母に気を使い、妹に気を使い、見ていていたたまれない。
 唯一の救いは、この家庭が経済面ではおそらく裕福なほうに属しているっぽいということだろうか。
 
 あかりの病症については、ご本人も認識しているようで、以下のような文章がある。
 
 ・肉体の重さについた名前はあたしを一度は楽にしたけど、さらにそこにもたれ、ぶら下がるようになった自分も感じていた。
 ・あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。
 ・働け、働けって。できないんだよ。病院で言われたの知らないの。あたし普通じゃないんだよ。
 
 病名がつくことは呪縛でもある。だから私はできないのだ、できなくてもいいのだ、というスパイラルに入っていく。どうしても脳味噌が言うことをきかない。体が動いてくれない。ただ、知識だけがどうやら自分のこれは異常らしい、ということを教える。感知し得ないことを知識としてだけ「あなたは実はそうなんだ」と植え付けられることが、本人にどのくらいの苦しみと絶望を与えるかは、本人以外はわかり得ないだろう。僕もわからない。
 
 「コンビニ人間」では、発達障害の弱点を無効にできる社会の場としてコンビニ勤務があてられた。一方、本小説ではそこにアイドルの推し活動が充てられる。
 現代の推し活動がいかなるものかは、本作にて密度濃く描かれていてひとつの目玉だが、ポイントはあかりをここまで推し活動に駆り立てるものはなにか、ということになるだろう。ここからさらにネタバレになる。
 
 
 彼女はアイドルグループに属する一人の男性、上野真幸の推し活にのめり込む。
 アイドル推し活にもいろいろあるようだが、あかりのそれは、対象者の解釈にある。そのためにひたすら真幸の世界に没入し、そこで感知するものをその表象から解釈する。真幸の取材コメントはぜんぶ把握し、真幸の映像情報はあらゆる角度で分析される。そして真幸の行為そのもののポジネガは評価しない。ファンを殴って炎上しようが、ふてぶてしい態度でインタビューに受け答えしようが受容する。もちろん、いい笑顔を見せたり、心にひびく歌声をきけば多いに嬉しい。が、微妙な表情や声の調子の変化にむしろ注目し、理解しようとする。つまり無限抱擁として真幸を推すことこそがあかりの最優先であり、そのあまりの極端な優先順位のため、ADHDの彼女は日常のことごとくを取りこぼす。終盤にむかえばむかうほど、この落差が破壊的になっていく。 
 にもかかわらず、最後は真幸の結婚と芸能界引退という残酷な現実をつきつけられる。
 だが、彼女を真に絶望に追いやったのは引退ではなかった。引退後は、これまで蓄積された記録を再解釈していく道が残されていた。物故したアーティストや著名人を生涯をかけて研究する行為そのものは珍しいものではない。おそらく彼女はそうするはずだった。
 
 あかりは、真幸が住むマンションの場所を突き止め、現地に向かった。マンションを外から眺めたとき、結婚相手の女性がベランダにTシャツを干すところを見た。
 あかりが目にしたのは、アイドルとしては終わったけれど、人としてはこれからも続く上野真幸の現実であった。そして、これからも続く「上野真幸」をそばでじっと見ることができる人物がいる、という事実であった。
 人に戻った真幸の進行形を推す活動はあかりにはもうできない。上野真幸はこれからも続くのに、その現在進行を推す術がないことにあかりは絶望するのだった。
 うまくいかない人生で支えだった背骨を失ったのだ。残されたののはうまくいかない人生だけだった。
 
 なぜあたしは普通に、生活できないのだろう。人間の最低限度の生活が、ままならないのだろう。初めから壊してやろうと、散らかしてやろうとしたんじゃない。生きていたら、老廃物のように溜まっていった。生きていたら、あたしの家が壊れていった。
 
 
 この物語には、もうひとつ注目点、なぜ上野真幸はファンを殴ったのか、というのがある。事件そのものは物語の冒頭で提示されているのに、その理由は最後まではっきりしない。真幸の解釈に全身全霊をそそいだあかりだが、この殴打のインサイトだけはシンパシーもエンパシーもできなかった。
 
 ここから僕の深読みを披露してみる。
 
 あかりが推していたのは、どこまでもアイドルの上野真幸だった。どれだけ膨大に記録を追跡しても、あかりが入手できたデータはアイドル稼業のそれだった。彼女の推し活というものが、アイドル稼業としての彼の清濁を併せのむ無限抱擁でいけばいくほど、彼がファンを殴打したときのその気持ちはつかめなくなる。殴打はアイドル稼業の輪郭の外にある行為だからだ。
 
 真幸が引退して、あかりは殴打の理由にすこし思い当たったようではある。殴打事件の真相を知ることは、上野真幸はどこまでも愛し通せるアイドルではなく、不器用な一人の人間だったという真実を知る地獄の入り口だった。しかも、よりによって殴打とは、上野真幸がアイドル稼業を滅茶苦茶にしてしまおうという行為に他ならなかった。
 ここにきてようやく殴打のときの真幸のインサイトがあかりに追いついた。上野真幸は、あかりが推していたアイドル稼業が苦だった。アイドルをもうやめたかったのだ。
 
 全てが虚無に帰され、あかりは空っぽになる。
 
 あたしはあたしを壊そうと思った。滅茶苦茶になってしまったと思いたくないから、自分から、滅茶苦茶にしてしまいたかった。
 
 人生の背骨を失った彼女は、最後に部屋で綿棒の箱を思いっきりぶちまける。
 
 
 この物語は、最後に少しだけ救いを見せる。それはぶちまけたのが、出しっぱなしのコップでも、汁が入ったままのどんぶりでも、リモコンでもなく、綿棒だったことだ。
 彼女は意図して「後始末が楽な」綿棒のケースを選んだのだ。
 綿棒のぶちまけは、自暴自棄ではなくて儀式だった。
 
 最後に、あかりはぶちまけた白い綿棒をひとつひとつ拾う。砕けた自らの背骨の骨拾いである。それは推し活をしていた私の骨拾いである。そしてその先にまだ拾うものがある。もともと放置されていた黴の生えたおにぎり、空のコーラのペットボトル。体は重くても四つん這いでゆっくり拾う彼女には、生きていく意思があった。

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