読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

思考としてのランドスケープ 地上学への誘い

2019年07月04日 | 都市・交通

思考としてのランドスケープ 地上学への誘い

 

石川初

LIXIL出版

 

「ブリコラージュ」という考え方がある。

レヴィ=ストロースの「野生の思考」で扱われて有名になったもので、言わば”その場にあるものでこしらえる”ことだ。

たとえばいい感じに曲がった木の枝を、ものをひっかけるためのフックにするとか、手ごろな大きさの石をつみあげてかまどにするとか。

また、そういう手ごろなアイテムから世界観を再創造したり、日頃見聞きする情報をつなぎ合わせて別の物語を再編集することも「ブリコラージュ」と称するなど、いわば哲学的な一つの思考として「ブリコラージュ」は扱われている。

 

ブリコラージュの特徴は「それが本来持っていた目的や性質とはちがう使われ方をする」ということだ。

本書「思考としてのランドスケープ 地上学への誘い」は、この地上の人の営みにブリコラージュが溢れていることを卓抜とした観察眼と思考力で描いている。

小学生に流行る100均ショップに売っているものを買い込んでバラシてまったく別のものとして使うカルチャーや、前方後円墳の地形を生かして農作物を育てる群馬県のとある地方の話や、破砕されたコンクリートを拾い集めて石塁をつくる四国の山間部など。あるいは、奈良時代の平城京ーー平城京そのものは80年ちょっとしか機能しなかったのに、その後の条里のカタチをいかして水田にすること1000年、いまなお条里のカタチが残るなどたいへん面白い。

また、「公園」をめぐる昨今の情勢、やたらに禁止事項の立て看板が多くなったとか、ポケモンGOの聖地になって大混雑して地元住民がクレームつけたとかいう個別の現象面から、「公園」が本来もっていた機能と現代という時代が要請する機能とのずれを指摘する話も興味深い。公園というのは本来は「都市における公園以外の公共空間では許されない行為」を受け入れるための機能があった。焚火もボール遊びも犬の散歩もたむろしての長時間おしゃべりもみんなそうだ。往来でやられると通行人の迷惑だし、スペース的にも危険である。これらの引き皿が公園だった。そういった公園の大義が、昨今の個別の事情によって逐次対症療的にあれもダメこれもダメとやっていったら、よもや当初の公園がもつ目的や性質とはかけはなれてなんのための空間だかわからなくなってしまったのである。著者は「現実空間の容量的限界に対して、公園は多すぎる用事を引き受けさせられている」と指摘する。

街路の植栽の話も面白い。街路樹なんてのは、アスファルトやコンクリートが敷き詰められて本来はないところにあえて樹木が置かれることで景観上の不自然さをむしろ軽減させている行為である。そこで植栽される植物の種類が「潜在自然植生」というのがまた興味深い。仮に東京の都市機能がすべて停止してしまった場合、やがてそこに生えてくるであろう自然の植物のことである。

他にも工場や団地の極めて人工的な景観に、あえてなんらかの人間味的鑑賞ポイントを見つけ出すという行為(あるいはそれへのアンチテーゼとしての行為)なんてのも取り扱っている。つまりは当初の目的や性質とは違うものをあえて持ち込んでみて、全体の事なきを得るというか、全体の調和をはかってみることが、この地上には溢れているのである。

 

本書は、このように街歩きの視線のセンスを磨く案内本としても成立しているが、最終章でランドスケープを考察するにあたっての素養みたいなものに触れている。この章だけ他の章と趣が違う。

しかし、そういう地上における都市生活空間のありようーーランドスケープ・アーキテクチャーを考える素養もまたブリコラージュと関係するのだ。

ブリコラージュを営む生活様式は、必然的に「何に役立つかはわからないけれど何かに役立ちそうだからとっておこう」という思考習慣を育む。これもまたブリコラージュと呼ぶ。そして、ランドスケープ・アーキテクチャーの素養は、このプリコラージュ性にあるというのが本書の最終章だ。ランドスケープ・アーキテクチャーに限らず、建築や土木関係には、教養豊かな人が多いが、これらの知識や素養について著者はこう語る。

さまざまな『役に立っていなそうなもの』または『ランドスケープのデザインに関係なさそうなもの』たちは、このプロジェクトの進行段階の概念を補助線にして、プロジェクトの初期よりもさらに前に「探求フェーズ」があると仮定することで位置付けられる。言ってみれば専門性を発揮するための肥やしのようなものだ。

 そして、探求フェーズの個別の要素の意味は仕事を終えてから遡及的に位置づけられるということ‥‥あらかじめ具体的になんの役に立つのかがわかっているものばかりではないということを著者は認めている。

 昨今、明確に役に立つものばかりを取捨し取り入れる合理的センスが席巻しているが、何の役に立つかわからないけれどとにかく肥やしとしておくという姿勢はとても大事なことだと思う。たしかに、後から振り替えて「あれが役に立ったな」と思うことのほうが、あらかじめこれを役立てようと準備してその通りに役立ったものよりもずっと大きな影響があったように思う。

 


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日本の地霊(ゲニウス・ロキ)

2018年12月27日 | 都市・交通

日本の地霊(ゲニウス・ロキ)

鈴木博之
角川ソフィア文庫


 「東京の地霊」だけかと思ったら、「日本の地霊」もあったのね。角川ソフィア文庫に仲間入りしているということは、立派に教養として認められているということである(講談社でいえば講談社学術文庫にあたる)。

 あとがきで著者自ら言っているように、「建築家の言っていることはよくわからん」ことが多い。僕の知人友人にも何人か建築家や建築学部出身がいるが、おしなべてみなさん頭がよろしく、視座が広く、たまになんだかわからないことを言う。建築家というのは論客なのかと思うこともある。

 それはさておき。

 その土地そのものがもつ固有の惹きつける力、記憶、敬意というものがある。人は大地から離れて暮らすことができないと叫んだのは「天空の城ラピュタ」だが、人と土地は切り離すことはできず、人の生活とはその土地の上での生活である。あまりにも当たり前のことだが、その土地への敬意というものをまるで感じない行政やディベロッパーやエンターテイメントを感じることがある。人間様の都合がよいように、土地を使い、土地を改良し、土地を解釈する。

 けれど「土地」というのは、自然地勢上の条件だけではなく、そこに移り住み、また去っていた人間たちの記憶があり、それは有形無形な力となってその土地の空気をつくっている。有名無名の人物がそこを行き交い、時に情念うずまく事件がおこり、様々な思いをその地に残す。こういうのはけっこう馬鹿にしたものではない。「そこであったもの」というものは案外に次にその土地で何が行われるかを左右するし、それらが蓄積していけばいくほどその土地の性格は一定方向を向きやすくなる。日本の各地にある土地はそういうなんらかの物語を持ってきた。地名や道路の在り方や駅の所在にそういうものは反映され、土地の主力産業や文化習俗に色濃い痕跡を残す。

 そういった土地のもつルーツとルールこそが土地の遺産といえる(もちろん中には負の遺産もあるだろうが)。平成も終わりになってこういった土地への敬意はやや復活してきているようには感じる。「高輪ゲートシティ」という駅名が物議を醸しだしたが、少なくともこういう駅名がどことなくすわりが悪くて不自然だ、というくらいの価値観は一般化した。昭和から平成時代にかけてつくられた駅名や「平成の大合併」で誕生した新自治体名は、土地の固有性を無視したひどいものがいっぱいある(具体的に指摘はしないけれど)。

 

 「日本の地霊」で面白いのは、東京都北区王子と埼玉県深谷市の関係をめぐる話だ。「世界システム論」と並行して読んでいたからか、市町村同士でもこういう収奪関係というか、システムに組み込まれてしまうことでなかなかその先の自由な未来が遠のくことがあるのかと思った。深谷市にとって王子は疫病神でしかなかったというのは痛烈である。

 自分が住んでいる自治体や勤務先の自治体も、どこかべつの土地との分かちがたい因果関係の歴史の上に立脚しているかもしれないと思うと、土地への敬意を忘れてはいけないと思うのである。


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通勤の社会史 毎日5億人が通勤する理由

2016年10月28日 | 都市・交通
通勤の社会史 毎日5億人が通勤する理由
 
著:イアン・ゲートリー 訳:黒川由美
太田出版

 近代交通が整備されてからの「通勤」というものの歴史をひもといた、きわめてユニークな論考である。原題は「RUSH HOUR: HOW 500 MILLION COMMUTERS SURVIVE THE DAIRY JOURNEY TO WORK」。SURVIVEというのが面白い。
 
 本書は世界中(おもに欧米亜)の通勤事情を調べまくっている。そのカバー範囲は脱帽する範囲だ。もちろん日本の通勤にも及んでいる。世界に比して、日本の通勤事情に特有な現象が「痴漢」である、という指摘はゲンナリするが、ご丁寧に明治時代の文学者「田山花袋」の小説「少女病」までも引き合いに出し、70年代のポルノ映画「痴漢電車」をとりあげ、イメクラまで調べ上げて日本人成人男性の女子学生への嗜好性を論じている。とほほ。
 
 本書によれば、通勤史を語るにおいてはイギリスから始めるのがよいらしい。なるほど、産業革命はロンドンに始まり、鉄道はロンドンで開始された。
 それまで、都市労働者の住居は職場の近くであった。職住近接というやつだ。日本でもそうで、徳永直のプロレタリア小説「太陽のない街」でも工場のすぐ近くに労働者の劣悪な環境下における住宅事情が描写されている。
 しかし、鉄道が敷かれたことにより、職場と住宅の距離を離すことができるようになった。これが近代における「通勤」のはじまりである。まずは鉄道という公共機関、それに付随するバス、そしてそれと比肩する形で成長するのが自家用車による通勤である。本書では、この鉄道による通勤と、自家用車による通勤をおもに扱っている。

 職場から遠方に住宅を持つことから、ここに「郊外」という概念がうまれ、「郊外」という都市空間とライフスタイルが登場する。はじめは裕福な経営層が立派な家をたて、ぜいたくな仕立ての車両をもつ鉄道で通勤をした。やがてそれが中産階級へと降りてきて、下層労働者にまで至っていく。
 
 ヨーロッパでは、鉄道があってそのあとをおいかけるように自家用自動車の通勤が普及してきたわけだが、アメリカの場合はいきなり自動車にいったようだ。自動車産業が国家事業でもあったようで、現在においてもアメリカはこと人間の移動に関しては自家用車の国であり、鉄道はサブ交通機関に甘んじている。
 
 国民所得の低いアジア諸国ではまず自転車、そしてバイクが通勤の足になっていく。
 
 
 かくして成立して現在に至る通勤体系であるが、「通勤」とは必要悪なのか、それとも一種の創造的行為とも言えるのかというアジェンダ設定を本書は試みる。通勤が楽しいわけないじゃん、と普通なら思う。日本には「通勤地獄」という言葉もある。
 本書は、そこに抵抗を試みる。やや苦しい点がないわけでもないが、住宅と職場を切り分けた第三の場所としての通勤の効用をいろいろなデータなども引っ張り出しながら説いている。著者は日本の通勤電車で毎日ラッシュを経験するということをやっていないので、だからこそ吐ける論のような気もするが、興味深いのは自家用車通勤におけるストレスだ。
 
 日本では、通勤ラッシュというととにかく鉄道を想像させるが、アメリカや、アジアでもバンコクなんかの自動車ラッシュは有名だ。日本ではあまりとりあげられないが、自動車通勤で毎日ラッシュに巻き込まれるのも、運転手にとってはそうとうにストレスなようで、暴発的な事件がたびたび起こっているらしい(本書では、自動車通勤における日本人のマナーのよさを褒めている)。ハンドルを握ると人間が変わるのは万国共通なようで、狂暴化するあまり、傷害沙汰、場合によっては殺人事件にまで発展してしまうこともある逆上するドライバーの現象のことを「ロード・レージ」と呼ぶそうだ。要するに「キレる」というやつである。
 
 本書の結論として、最も幸福感の高い通勤は「自転車通勤」ということだそうである。職場と自宅の距離がそれくらいであれば妙案ではあろう。日本の場合は難しいかもしれない。(僕の勤めている会社は、万が一事故を起こした際の労災認定がしにくいとかで自転車通勤は不可である)。
 
 
 本書はほかにも通勤をしないで勤める方法としての在宅勤務やテレワーキングの現状、自動車通勤の未来像「自動運転車」をめぐっての各社の取り組み、GoogleやYahoo社員における最新通勤事情などさまざまなトピックを扱っていていろいろ面白いのだが、本書の指摘のなかでももっとも興味深いのは、「マルケッティの定数」である。これ、僕は本書で初めて知ったのだが、都市論のなかではわりとポピュラーなものらしい。
 「マルケッティの定数」というのは、イタリアの理論物理学やチェーザレ・マルケッティが90年代に提唱した理論で、「有史以来、人類は移動時間1時間以内で通勤する」というものだそうだ。それは人種、民族、風習を問わずということだそうだ。つまり、かつては徒歩での移動であり、やがて乗馬や馬車となり、鉄道や自動車が開発され、技術開発でスピードアップ化されていくと、それにしたがい、職場と自宅の距離も離れることが可能になるが、その移動時間は基本的に1時間以内というものなのだそうだ。様々な文献を調査したり実地検査に及んだ結果の結論らしい。
 日本の通勤者の中では1時間以上かけて通勤する者も多くいるし、奈良時代の平城京では下級役人は片道2時間くらいかけて歩いて通勤していたような記録もあったように思うが、持続可能性や本人の健康なども含めると1時間がぎりぎりなのだろうなというのは皮膚感覚としてはわかる。
 
 
 こうして今日も1時間の時間をかけて通勤をする我々である。
 毎朝通勤しながらこの「通勤の社会史」を読む、というのはなかなか倒錯的な感じがしてマゾ的な快感さえあったのだが、本書に、これからはAI化や第三国へのアウトソーシングにともなって仕事を失いやすくなりやすくなるから、たとえ在宅勤務が推奨されたとしても「会社に必要と思ってもらうためにちゃんと上司に顔を合わせるために通勤はしなくてはならない」と指摘してあってさもありなんと思ったものだった。
 

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ランドスケール・ブック 地上へのまなざし

2016年01月16日 | 都市・交通

ランドスケール・ブック 地上へのまなざし

石川初

 ここ最近やたらに東京の地形や地誌がクローズアップされている。中沢新一の「アース・ダイバー」あたりがきっかけだったように思うが、東京スリバチ学会とかiphoneアプリの「東京時層地図」とかいろいろある。
 特に東京都心の地形については雑誌なんかでも特集を組まれていて、3D風に凸凹した東京の地図が掲載されている。貝塚爽平の「東京の自然史」なんかも50年ちかく前の本だが、古典バイブルとして、ここにきて大きく売れているらしい。
 
 どうも、国土地理院がレーザー測量標高データというものを公開したことがきっかけらしい。
 これによって、日常でまったく気付くことの少ない東京の地形というものが露わになり、多くの人にインスパイアを与えることになった。

 本書「ランドスケール・ブック」も、東京という都市(東京以外もあるけれど)の観察本である。
 見えるものと見えないものの関係みたいなところ(本書によれば「見えているものを、より広域の文脈で捉え直す」)が着眼点となっている。

 地形の起伏への着目だけでは、今となっては類書が数々あるが、本書はたとえば、上水道と下水道のはりめぐらし方の違いに注目したりする。
 これまで気にしたことなぞまったくなかったが、上水道と下水道は、まったく違う形ではりめぐらされている。大胆にいうと、上水道の経路は主要道路と被っており、下水道は地形に準じている。
 本書ではそれが図解されていて実に納得。しかもその上水の出口から下水の入り口までわずか数センチというのが各家庭に配所されているわけで、なんというかワームホールみたいな、全く違う2つの次元の世界の出入口が、それぞれの家の台所や風呂場などで近接している、というのは実に想像力を刺激する話である。

 また、単純に地形だけではなく、その上で生活する人々の動態も、可視化してみれば、東京という事情を浮き彫りにする。
 本書では、GPS機能を用いた人の流れ、あるいは交通機関の動態を可視化してみたり、あるいはそれをさらに地下鉄路線図みたいに図解化させる場合、どういう情報が取捨されているかに着目したりして、われわれの生活を再発見しようとしている。

 とりわけ、3.11で交通機関がストップし、徒歩での帰宅を余儀なくされた市民の足取りをマップ化したものには多くのドラマがよみとれる。
 なるほどたしかに普段使っていた鉄道線路になるべく沿う形で帰ろうと試みるわけだが、それがやりやすい線とやりにくい線があったのかと納得する。僕は千葉方面に歩いて特に難しくはなかったのだけれど、大地を斜めに横切る東横線とか、地形を無視して一直線のJR中央線なんかの沿線にむかおうとするとナビゲートしにくいらしい。


 さいきんビッグデータとかライフログとか、われわれが生活していく上でぽろぽろとおとしていく痕跡を逐次ひろってマーケティングデータにしていく手法が注目されていて、なんとなく気味悪さを感じるのだが(Tポイントカード攻めにはうんざりする)、商売っ気抜きに、こうやって改めてわれわれが住んでいる世界を再描画する試みは、新たな地平があける感じがして興味深い。

 ただ、本書の価値は、こういった事例を図版(もう少し大きければいいのだが)をみて関心するところにあるのではなく、我も実際に街に繰り出して観察しようと思わせることにあるだろうと思う。

 

  


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みんなの空想地図

2013年11月29日 | 都市・交通
みんなの空想地図

今和泉隆行

 奇書といってもいいかもしれないが、一方で何事も突き詰めるというのは大事だなあと素直に思ったりもする。
 本書は、幼少時代から父親にせがんで遊び感覚で地元や実家の市内バスに乗ったり、そのバス路線図を眺めているうちに、都市の構造や動態に興味をもち、やがて見よう見まねで架空の地図を描くようになった少年が、そのまま趣味を深化させてよりフィールドワークに精を出し、地図は精緻化され、本人の地理や都市社会に関する考察力と観察眼はより研ぎ澄まされ、大学でも地理学を専攻し、ついには脱サラして生業化(?)してしまい、こうして本を出したり、テレビ番組(タモリ倶楽部!)に出演した話である。

 本書は大きくわけると3つのことが書いてある。

 ①架空地図と、その架空都市の描写(架空のデパートの架空のテナントに架空のロゴの入った架空ブランドという徹底ぶり)
 ②実際の日本の各都市の観察
 ③著者自身の生い立ちとココロ
 これらがわりとランダムに行き交っていて、正直言うと文脈を追って読みにくかったり、詳細に穿ち過ぎだったりもするのだけど、この本自体が、ひとつの混沌と秩序が織りなす巨大な地図ということかもしれない。案外、ヒトの脳の中というのはこんな感じにマッピングされるのかも。(とくに①は、こう言ってはなんだが「人が昨晩みた夢の話」を聞かされているような、どうにも本人が頭に描いているに違いない光景までは共鳴できないようなところもあるのだけれど、まあ「空想」というのはそういうものだ)


 とはいえ、実は僕自身も小学生から中学生にかけて、こんな妄想を持っていたなあと思いかえす。
 僕の場合はバスではなくて、鉄道だったけれど、親戚の家から部屋に首都圏の鉄道路線図のポスターをもらったのがきっかけだった。ポスターを見ると自分がよく知っている家の近くの駅や路線はほんの一点でしかなく、この東京には縦横無尽に線路が張り巡らされており、知らないターミナル駅や鉄道路線があちこちに存在していて、僕は壁に貼って毎日眺めていた。本書で言うところの「未日常」を思い出させる路線や駅名に心ひかれたのであった。そして、ついには週末に父にせがんで近郊の鉄道路線を乗りにいったりした。
 一方で、ふだん生活圏内でよく行く場所(学校とか本屋さんとか友達の家とか)と、そこまでの道筋がやがて自分の中で空想の鉄道網となり、自転車を電車に見立てて走ったり(もちろん駅に見立てたところではちゃんと停車する)、路線地図みたいなものを書いたり、さらには、機関車トーマスの「ソドー島」みたいな架空の島国をつくってみたりした。さらにさらに、実際の地図帳を開いて、こことここを結ぶ鉄道を引いたら面白いぞなどと勝手に新線を書き込みして、勝手に駅もつけて、ついにワープロで時刻表までつくってみたりしてみた(当時の交通公社の時刻表のレギュレーションを模しながらつくると案外サマになる)。

 僕の入れ込みは残念ながらここまでで、その後は他の趣味が勝ってきたり、色気づいたりしてきて、この種の遊びは急速に下火になってしまったが、いまでも地図を広げたり、バスの路線図とか眺めるのは好きである。ぐちゃぐちゃしている市中の路線網の中から、一本だけ長々と郊外のほうに延びている路線などあると、この先にはいったいなにがあるんだろうと想像したくなる。

 あらためて本書をみて感じたのは、地図というものの奥深さである。
 本来は実態としての都市があって、それをある約束ごとにしたがって二次元に描写させたのが地図だ。地図を「見る」というのは、現実の都市をシミュレートするに他ならない(道順を確認するとか)。
 しかし、一方で地図は「読む」ことで、そこに描写された混沌と秩序の渾然一体が逆に想像力を何倍にも膨らませ、あらためて現代人間社会の実態を浮き彫りにさせたりもする。地理や地勢や都市工学、さらには地政学とかとか民俗学に至る分野までハイブリッドに物事をみる目をつくる。
 まして、空想でリアリティのある地図を「作る」ということは、空想で「都市」をつくると同義であり(矛盾なく住宅地や商業地、公共施設や交通インフラを自然地形の中に配置していく)、これは究極の脳内人間社会シミュレーションであり、高度な情報処理を必要とする総合学問ということになる。
 空想地図を書くというのは、妄想どころか、かなりワールドモデルがしっかりしたSFとか、超大河小説を書くに等しいのである。


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