読書の記録

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日本人とユダヤ人

2009年08月06日 | 日本論・日本文化論
 日本人とユダヤ人---イザヤ・ベンダサン

 どう考えても日本人としか思えないのだが、自称外国人で、日本の社会や風俗を語るというと、最近では反社会学のパオロ・マッツァリーノ(イタリア生まれの30代。父は寡黙な九州男児、母は陽気な花売り娘)が有名だが、一昔前、この方法で一世を風靡したのが、イザヤ・ベンダサンである。
 そのベンダサンの代表作である「日本人とユダヤ人」で、論争というか物議を醸し出したのが有名な次の一説である。

 「(ユダヤ教義では)全員一致の議決は無効とする」

 要するに、全員の意見が一致した場合、それは偏見か興奮が作用しているわけで必ずどこか誤謬している、ということであって、いやそんな律法はどこにもないとか、説明のしかたがまずいだけで大筋であっている、とか喧々諤々なわけである。
 もちろん僕はユダヤ教でないし、ユダヤに関する言語も知らないので、本当にユダヤ教ではそうなのか、聖書の記述がこうなっているのか、妥当な解釈としてこうなるのか、はわからない。
 著者のベンダサン(要するに山本七平)は熱狂的な支持者とアンチがいて、イデオロギーレベルでの対立といってもいいくらいの毀誉褒貶だった人だった。その中でも特にエキセントリックな「日本人とユダヤ人」はもっとも俎上に乗られやすかったともいえる(ベストセラーでもあったし)。

 いずれにせよ、70年代に書かれた本書は、21世紀の今日において、学術書とか社会学あるいは比較文化人類学の本として読もうとすると、さすがに苦しく、今となっては一種の「読み物」という視点でとらえるべき本かもしれない。だが、その限りで言えば、まだまだ気付かされることも多い。

 たとえば、例の「全員一致の議決は無効」にしても、ユダヤ教云々はさておいて、「全員一致になった意見は注意せよ」という観点そのものに限ればこれは面白い。ギャンブルでも「逆張り」というセオリーがあるが、“全員一致”が持つリスク、というものはもっと考えてもいいかもしれない。ユダヤ人がどうなのかはともかく、少なくとも「全員一致の美」という美意識(様式美とでも言おうか)が一方で存在しているのは確かだし。
 日本の沖縄返還における外交手腕と相対させて「ユダヤ人は契約が最初に来るから、まず既得権をつくりあげるという離れわざができない」という記述に関しても、ユダヤ人や日本人が本当にそうなのかはともかく、目的を達成するためには、最終勝利から逆算して手始めのステップとしては「名を捨て実をとる」ことがやはり重要なのかもな、なんて反芻できたりする。


 もちろん想像でしかないのだけれど、たぶん本書は「正確に間違うよりはだいたいあっている」という意気込みでそもそも書かれている。そして、言いたいことが先にあって後から根拠を探している、というアドホック型で作られている気もする。こういう具合につくられた文章は、切れ味よく、しかも目ウロコ的な結論ががんがん出てくるように見えるから、非常にカタルシスが高い。どんなにいいかげんな本だと告発しても野暮の憂き目にあうことのほうが多いかもしれない。

 この場合のポイントとしては、その先にあった「言いたいこと」がどこまで、世間で歓迎される意見か、というサキヨミである。これさえ外してなければ、そうとう細部が間違っていても、根拠がご都合主義でも、かなりの場合通用してしまう。逆に、それが多くの望まない意見、あるいは無関心な領域の話だtったりすると、珍本トンデモ本で片付けられてしまう。

 ということは、世の中はつねに獏とした「落としどころ」を潜在的に持ちながら動いており、ただその「落としどころ」は非常に暗黙的な状態で漂っていて、それを(いいかげんでもいいから)可視化・形式化・定量化して見せた者が喝采を浴びる、という仕組みなのかなと思う。

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