読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

100冊で耕す 〈自由に、なる〉ための読書術

2023年03月14日 | 言語・文学論・作家論・読書論
100冊で耕す 〈自由に、なる〉ための読書術
 
近藤康太郎
CCCメディアハウス
 
 
 早く読めてしまう本は「知っていることを確認しているだけ」である、という著者の指摘。自戒も込めてその通りだなあと思う。この話を裏返すと、早く読めちゃった本は発見がない本とも言えるわけだ。
 
 このブログでも何度かぼやいているけれど、近年とみに本を読むのが遅くなった。油断すると、目で文字づらを追っているだけで中身が頭に入ってないまま数ページ進んでいたりする。集中力も続かない。せめて傍線をひいたり、思ったことを余白に書き込みながらなんとかしてひっかかりを得ようとしながら読んでいる。
 
 つまり、歳をとると「知らないこと」を頭に入れるのが非常に億劫になるというか、脳が拒否してくるような気がするのだ。ついつい自分の知っている範囲に回収して解釈しようとする回路が発動する。そこを無理して読もうとすると猛烈に脳の抵抗を食らう。
 
 ましてそもそもが難解な本、古典文学とか哲学書になるともはや読める気がしない。この手の本は若いころのほうが読めるのかもしれない。学生時代にカントの判断力批判やマックスウェーバーのプロ倫を課題図書として読まされたて散々苦労したが、当時としてもどこまで読み込めたものかまったく怪しいものの、今だったら全く太刀打ちできないだろう。
 
 だからといって、がんばってスラスラ読むぞと眉間に力いれて読み出すと、なんとしたことかそれは「知っていることの確認」として脳が回路してしまうことになる。つまり、この歳になってそれなりに本をよんで何かの糧にするには、遅読になるのは宿命なのである。そうかー
 
  
 ところで、本書のタイトルにある「100冊」の意味は、どんなにたくさんの本を読んでも、自分の血肉となる本というのは結局のところ人生において100冊くらいになるのではないかという問題提起である。
 なるほどなあ。確かにそんな気はする。いや、実は薄々とそう感じていた。僕も趣味半分意地半分で読書を今日まで続けているわけだが、なんかもう新刊図書に手を出すよりも、これまでに読んで感銘を得た本を再読したほうがよほど心身が充実するんじゃないかとふと思ったりするのだ。名著というのは再読すれば新たな発見や思考の契機になるものである。著者が書くように、愛読書数冊を重ねて好きな音楽流しながら一杯の酒と共にぱらぱら拾い読みする夜、なんてのは最高の至福ではある。
 とはいうものの、僕が珠玉の100冊を挙げろと言われるとまるで自信がない。たぶんこれまでの人生で読んだ本は玉石混合で2000冊くらいだろうかとは推計できるが、では自分をつくりあげた100冊を選べと言われると、30,40冊くらいで打ち止めになりそうな予感もする。こういうのをリストアップするのはそれはそれで楽しそうだが、昔を顧みる行為に安寧を見出すのはますます老化を加速させてしまう気がして、リスト化を自制する自分がいる。
 
 もっとも、本書が提案するその100冊というのは「動的平衡」、つまりどんどん入れ替わるものだ、と本書の著者は言う。しかも選りすぐりの100冊を得るにはやはり1000冊は読まなければならない。すなわち動的平衡な100冊を維持するために1冊入れ替えるには10冊の読書が必要というわけで、やはり日々栄養を摂取するように読書は続けなければならないということである。
 
 というわけで、遅読に耐えながら、今日も数冊を並行読みしている。このブログもだんだん悪戦苦闘の記録になってきた次第である。
 

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これは、アレだな

2023年02月06日 | 言語・文学論・作家論・読書論
これは、アレだな
 
高橋源一郎
毎日新聞出版
 
 本書は、高橋源一郎お得意の書評・ブックガイドである。本書の特徴は、とりあげる本に対して過去に似たようなプロット、思想、特徴をもった文芸作品をあてはめてみて論じる、というものである。実は本書の対象は書籍に限らず、テレビドラマやアニメが肴になることもある。タカハシさん家はネットフリックスにはまっているようだ。
 
 次から次へと「これはアレだな」と、かつての文芸作品を引っ張り出してくるその博覧強記ぶりはもともと折り紙付きの人だ。これはそれを素直に楽しめばよいエッセイである。滝沢カレンのレシピ本に谷崎潤一郎を連想してみたり、「鬼滅の刃」の兄妹愛に宮沢賢治を重ねるその手腕を面白がればよいのである。
 
 だけど。僕は読み進めるうちにちょっとばかし、ん? と思うようになった。決して批判のつもりでもダメ出しのつもりでもなく、むしろ大いなる自戒のためにここに確信を込めて記録しておこうと思うのだが、この「これはアレだな」は、ややもすると「典型的な老害思考回路なのではないか?」と感じたのだ。僕は、いちおう彼のデビュー作「さようならギャングたち」から追いかけてきた。本ブログでも何度か登場している。そんな高橋源一郎は71才になる。
 なにか新しい現象や事象を目の当たりにするたびに、「これはアレなんだよ」と過去に得た自分の知識で解釈・咀嚼する思考回路は老人特有といってよい。むしろ、こういう思考回路が動き出したらその人は老人なのかもしれない。そしてこれを他人に強いると「老害」になる。
 これは何を意味するかというと「未知の新しいものを、新しいものとしたまま受け取れなくなる」ということである。
 
 以前、Twitterで以下のような投稿を見つけた。
 
 "武田鉄矢さん見てて、おじさんになるってのは「会話を自分の守備範囲に持っていく」ことなんだなーって感じる。新しい技術の話になった時に「それは何ができる様になるの?」ではなく、「僕が子供の頃にテレビが家に、、」って新しい知識を入れようとせずに、既存の知識で話についていこうとしちゃう。"
 
 この投稿をみたときに思わず膝を打ったのだが、これと同じ匂いを本書には感じたのだ。
 ぼく自身、何かと新たなことに出くわしたり、話し相手が未知の話題をふりだしたりしたとき、このような思考回路が起動する。それって要は○○だよね、とか、前に××がそれで失敗してたね、と。
 
 恐ろしいことに、このときの僕は意識して、そのような「アレ」を探し出そうとはしていないということだ。言うならば、脳が勝手に「アレ」を探しにいくのである。そして、既存の何かに解釈の補助線を見つけておさまりよしとする。もしもその話題が、どうしても手がかりのない、自分のデータベースにないものだとすると、それは「くだらないもの」「考慮に値しないもの」として処理されてしまう。
 よほど自覚的でないと、勝手に脳みそがそう情報処理してしまうことに気が付いたのだ。なんて恐ろしい! 老害発言をしている人のほとんどは無自覚なのである。脳みそがごく自然にそう発動しているだけなのである。武田鉄矢はなんの悪気もなく、ごく普通のコメントをしてみたつもりなのである。少なくともご本人の自覚としては。
 
 たぶん、人間の寿命が50年くらいの時代はそれでよかったのだろう。そのころの技術の進化、情報の伝播力はゆるやかなものであったし、だからこそ何十年に1度あるかないかの自然災害とか異常現象とか無理難題のとき、誰もこの場をどうしていいかわからないときに、ムラ一番の長老が、こういうときはこうすればいいのだと過去の知識を参照して諭すのは一定の効果があったのだろう。ジャレド・ダイアモンドの「昨日までの世界」にもパプアニューギニアの先住民調査におけるそんな話が出てくる。つまり、この「これはアレだな」という思考回路は、人間が長じるにつれてセットアップされていく生存機構のようなものだ。この思考回路は種の存続のために必要だった遺伝子のなせる技だったのである。
 
 しかし、今日の技術発展スピードと情報伝播スピードは、20000年の人類史において前例がないものだ。このあまりの急速な技術の発展に、人類の身体はまだ進化と適応が追い付いていない。したがってこの時代に、過去の知識で今日をあてはめるのはむしろミスリードを遊発するリスクが高い。「これはアレだな」という思考回路が起動してしまうことは致死遺伝子のなせる技なのである。むしろ未知のもの、理解の及ばないものを、そのまま受け止めて学ぶ思考こそがサバイバルの道だろう。
 
 こういうセンスに敏感なのはやはりSF作家だ。アーサー・C・クラークには以下のような名言がある。
 
 「高名だが年配の科学者が可能であると言った場合、その主張はほぼ間違いない。また不可能であると言った場合には、その主張はまず間違っている。」 
 
 また、ダグラス・アダムスは以下のように述べている。
 
 ・人は出生時に既に存在したものは、普通と感じる
 ・15才から35才のあいだに新しく出てきたものは、新鮮ですごいものと感じる
 ・35才以降になって新しく出てきたのは、くだらないものと感じる
 
 もちろん、こうやって過去の名言ひっぱりだして悟った気になるのも典型的老害思考回路なのであるのはわかっているのである。

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マルジナリアでつかまえて 書かずば読めぬの巻

2022年01月07日 | 言語・文学論・作家論・読書論
マルジナリアでつかまえて 書かずば読めぬの巻
 
山本貴光
本の雑誌社
 
 
 「マルジナリア」とは本への書き込みのこと。傍線を引っ張ったり余白にメモを記入したりすることだ。
 そんなテーマだけで1冊の本ができてしまうのだからマルジナリア奥が深い。それどころか現在も連載中とのこと。
 
 しかも本書はユニークな読書指南本というわけでもない。古今東西のマルジナリアを集めてきてはそれを肴に面白がっている。文豪夏目漱石や哲学者デリダの手による博物館級のものもあれば、著者自身の手によるマルジナリアの開陳もある。カラー写真で紹介されていて珍品博覧会みたいで面白いのだが、なかには蛮社の獄で有名な高野長英が獄中でしたためたもの――白い紙に引っかき傷だけで作る角筆と呼ばれる手法によるマルジナリアなんてものも掲載されていて圧巻だ。
 
 ところで、本に傍線を引っ張ったりメモを書き込む行為って世間的にはどれくらい受容されているのだろうか。
 ブックオフのようなチェーン系古本屋ではまず値段がつかない。個人で行っている古本屋でもよほどの稀覯本でなければ無理であろう。
 マルジナリアを行う人というのは、その本を手放さない(あるいは潔く捨ててしまう)ことを確信している人ということになる。つまり本好きである。
 
 
 僕自身は傍線を引きまくっている。引いた箇所がある頁は端を折る。面白い本だったりすると読後は傍線と折れ目だらけになる。まずもって古本屋には卸せない。
 
 傍線を引くようになったのは30代を過ぎてからのように思う。学生の頃はそんな習慣はなかった。
 ぼくが20代のころに斉藤孝氏が三色ボールペーン活用術という読書法を指南したことがあった。赤はすごく大事、青はちょっと大事、緑は大事かどうかわからないが個人的に気になったものを引くというシンプルにしてなかなか強固なメソッドである。肝要は「緑」にあることは言うまでもない。ちょっと真似してみたが、三色ボールペンを常に用意するのが案外に困難ですぐ挫折した。
 
 30代になって本の内容を覚えていないことに気づいた。読んでいる最中はなかなか面白いと思ったり、そうだったのかと感心しているのに読み終わると、なんだかもう忘れているのである。面白く読んだ記憶は残っているのに中身をまったく覚えていない。愕然とした。実はこれ、このブログ設立の経緯のひとつでもある。
 
 そこで「三色ボールペン術」を思い出して、傍線をひくことにした。三色ボールペンではなく、筆記具は手当たり次第なんでも可である。だから黒い線のこともあれば赤い線のこともあり、ボールペンのときもあれば鉛筆のときもある。
 しかし、線を引っ張っても、後で確認引っ張ったかがわからなくなる、そこで頁の端を折るようにした。
 
 とはいっても、ほとんどの本は二度読まれることはない。傍線を引っ張るようになったからといって記憶の定着が改善されたわけでもない。読み終わった後に、改めてもう一度折ったページのところだけ開き、傍線を引いたところだけ読み直して再度本の全体像を確認しておしまい、というそんな読書スタイルができてしまった。僕だけのダイジェストの確認と言えなくもない。
 
 40代も後半になってくると、ますます記憶がおぼつかなくなった。読んだ先から忘れていく。それに本を長時間読むための集中力も欠けがちだ。ここ1,2年はいぜんほど読書が進まない。頭にも入ってこない。老眼も進んできて小さい文字が読みにくい。というわけでまったくもって自信喪失である。
 
 
 そんな感じで元気もなくなってきたところに手にとったのが本書である。
 
 著者曰く「マルジナリアンにとって、本はノートである」「本と対話するインタラクティヴ読書術」「(マルジナリアを施した本は)世界でただ一冊の本でもある」おお!
 
 ぼくの本への書き込みはほとんど傍線ばかりでメモ書きは稀である。しかし、本書で紹介されているマルジナリアはメモだらけだ。上下左右の余白にびっしりと細かいメモが記された事例がわんさか出てくる。人呼んで「第二形態」。なるほど、ここまでいけば確かに「世界でただ一冊の本」だ。著者はこれを「魔改造」と呼ぶ。
 
 でも確かに、ここまでインタラクティブに徹すれば、もう少し脳みそのひだに食い込む読書がができるかもしれない。余白へのメモ書きとは要するに自分自身の連想の飛躍の痕跡であり、その本の作者との問答であり、本へのツッコミである。読書の高度なエクスペリエンス化と言えよう。
 ちょっと今年はこの読書方法を真似してみようと思う。
 

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野の古典

2021年03月16日 | 言語・文学論・作家論・読書論
野の古典
 
安田登
紀伊国屋書店
 
 ご多聞にもれず、ぼくも古文や漢文すなわち古典の授業は苦手だった。一度も面白いと思ったことがないまま中学高校を終えたといってもよい。授業は退屈で居眠りばかりしていたから学校のテストはロクなものではなかった。それなのに大学入試ではセンター試験を受験しなければならなくなったため、古典から逃げるわけにはいかなくなった。とても点取り科目にはなれず、最後まで足を引っ張る教科であった。本番のセンター試験結果は過去の模試よりもさらに出来が悪く、結局まったく身につかなかったといってよい。
 こんなの勉強して意味あるの? と学生当時の僕は思っていた。この手のやり玉として古典はちょいちょい標的にされる。
 
 もっとも今の僕は「こんなの勉強して意味あるの?」とは決して思っていない。古文漢文に限らず、三角関数にしろ歴史の年号にしろ化学の周期表にしろ「意味」を見出せるのも見出せないのも本人次第である。学校で習う科目はすべてそうなのだ。そして「意味」を見出せるほうが人生は豊かで楽しくなるとも思っている。
 などと優等生的な回答をしつつも、その古典を学ぶことの「意味」をもっと学校の教師たちは声高に主張すればよかったのに、と思う。この点について僕の中学高校時代、教師が語った記憶がない。実際のところは彼らもそこまで「意味」をつかめず、教えなければならないから教える、文部科学省の指定だから教える、せいぜいが自分は古典が好きだから教えるくらいの心積もりだったのではないかと勘繰りたくなる。
 
 まあ、とは言っても、当時の僕にそんな古典を読むことの「意味」を語っても、たぶん“うっせいわ!”としか思わなかっただろうな。
 
 
 本書のタイトルは「野の古典」。「野の・・」のココロは、学校では習わない題材や切り口に主にフォーカスするという意味だ。学校で習わないと言っても「実は古事記はエロだらけなんだよ」とか「弥次喜多は実はBLなんだよ」とかそういうトリビアな話に終始するわけではない。
 本書では古事記や東海道中膝栗毛のエロ話の他にも伊勢物語や万葉集の男女の駆け引き、平安女流文学の愛憎、平家物語や黒塚の怨霊と鎮魂、好色一代男の卑俗、おくのほそ道の解脱などが紹介される。これらはつまり人間が内面に持つ葛藤や煩悩や弱さや恐れこそが古典の多くを占めることを示している。聖書でいうところの七つの大罪とその悔いみたいなのがまさしく古典の主題であることが多いのだ。古典に限らず、古今東西の芸術に共通することである。
 ところが、学校の教科書で扱う古典の題材は、きわめて毒抜きされているというか、現代の観点からして倫理上いかがなものかというところをばっさりと切って、きれいごとの部分だけアレンジして教材にしてしまったきらいがある。学校の「国語」は国語の面構えをして実は道徳倫理の授業という内面を持っていると指摘したのは小説家の清水義範だ。芸術と道徳はある意味で真反対とも言えるわけで、古典が国語に組み込まれてしまったのはいろいろと不幸なことだったかもしれない。
 
 
 もっとも本書は、そういった古典の芸術性を明らかにしたものかというとそれだけでもない。そういう古典読解本は他にもたくさんある。本書のユニークなところは著者が古代漢字の研究者にして能楽師というところだ。アプローチの仕方がまったく独特なのである。
 
 その観点で特に圧巻なのは孔子の「論語」と世阿弥の「風姿花伝」を解説した章だと思う。
 著者はもともとその「字」がどういう象形文字だったかというところに迫る。そしてそこに込められた複層的な意味を解きほぐす。
 
 たとえば「温故知新」。有名な四字熟語だが出典は「論語」にある。そちらには
 
 温故而知新
 
 と書かれてある。
 
 ここからが面白い。「温故知新」とは通常は「古きを温めて新しきを知る」みたいに読み下され、「古い知識も新しい知見もどっちも大事だ」みたいに解釈されやすい。僕もそう思っていた。しかし、著者に合わせると実はこれは間違いなのだ。
 ここで著者は孔子の時代に思いをはせる。「温」という字は、象形的には「皿の上に何かをいれて蓋をしてぐつぐつ熱している」の意を持つ。そして「故」という字は、現代の「古」に当てはまる漢字だが、これは単にoldという意味ではない。当時にあってこの「古」には幾星霜もの風月を耐え抜いたもの、という意が込められている。つまり時間の試練に耐えた知見である。
 すなわち「温故」とは、いくつもの偉大になる知見をあらためて集めて蓋をしてぐつぐつと煮る行為をイメージするくだりなのである。
 
 それから「而」が来る。
 
 「而」は、学校の授業では置き字とか捨て字ということで「訳さなくてよい字」とされている。
 だけれど、意味もなく文字がそこに置かれているわけはなく、本来的には深淵な世界がこの「而」には込められている。詳細は本書に委ねるが、「而」には時間的経過の意があるそうだ。それも単なる経過ではない。本書では「何かが変容するための魔術的時間」と形容されている。じっと待ちに待ち、じれにじれ、耐えに耐え、そしてついに・・・ というそんな試練的な時間の経過を感じさせる。
 
 そして「知新」とくる。
 「知」とは、現代のKnowとは異なり、この論語の時代にあっては「何かが出現する」という意味が強くこめられていた。確かに「知る」とは自分の目の前になにやらの真実が現れることでもある。「知」とはそれくらいインパクトのあることなのだ。「知新」とは「新しいものが出現する」ことなのである。
 
 すなわち、「温故而知新」とは、
 
 ある問いに直面する。そうしたら、まずは「故(千古不変の知見)」をたくさん探す。そして、それらをぐつぐつ煮る。すると、ある日まったく「新しい」知見や方法が(想像し得なかった変貌を遂げて)出現する。
 
 そういう世界観の言葉なのである。
 
 いやー、感動した。「温故知新」は僕の好きなコトバの一つだったのだが、そんな読み方ができるとは全く知らなかったのである。
 しかもよくよく考えれば、この「温故而知新」は、ジェームズ・ヤングの「アイデアの作り方」とか、外山滋比古の「思考の整理学」などのアイデア発想法にまさに受け継がれているではないか。時空を超えた真理なのである。
 
  こんな説明を当時の教師もしてくれれば、もう少し興味を持っただろうになあ、などと思うが市井の教師には酷な話だろう。こんな解説ができるのも著者の古代漢字の研究者にして能楽師という特異なプロフィールによるところが大きい。古典時代の精神が心技一体になっている言わば古代からの刺客。そんなプロフィールを持つ著者だからこそ、このなにかとデジタルがトランスフォーメーションして教育もSTEAMが重要と言われる令和の時代において古典が読めることの「意味」を説くことに説得力がある。古典を読み、考えることは、「知新」のために必要なプロセスなんだなと納得する。
 
 


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この1冊、ここまで読むか! 超深堀り読書のススメ

2021年02月20日 | 言語・文学論・作家論・読書論

この1冊、ここまで読むか! 超深堀り読書のススメ

鹿島茂
祥伝社


 ここでは博覧強記で知られるホスト役の鹿島茂が、楠木建や成毛眞や内田樹や高橋源一郎などの論客と、1冊の本について語り合うのだけれど、実は本そのものについての言及はあまり多くなく、むしろその本が扱っているテーマそのもの、その著者やそれが書かれた時代背景、社会世相の考察へと話題は広がっていく。

 つまり、本そのものは深く広く展開される教養の世界に飛び込むための触媒に過ぎない。まさに「ここまで読むか!」である。ここまで語れてようやく読書の醍醐味というのが出てくるように思う。


 だけど、自分の読書歴や印象に残った本などを振り返ってみると、1冊の本からここまで深みにはまっていくことができたものはそう多くない。

 ①たいていの本は、字面に書かれたものをそんなもんかなとか、へえーといった程度で消化されて終わっていく。

 ②何冊に一冊かは、じっと考えて関連する分野のことに思いをはせたり、自分のこれまでの行いなどをふりかえってみたり。つまり脳みそに歩留まって、ちょっとした新たな地平を見せる。

 ③さらに何冊かに一冊になると、その本のテーマそのものや著者自身が気になりだし、似たようなテーマの本をさらに探し出して読んだり、同じ著者のものをさらに読んでみたりする。ここまでくると読書の甲斐もあったというもので、最初に出会ったその本はかなり「当たり」ということになる。自分が生きるこの世界に新たな時空間がひとつ加わった感じがする。

 ④そして、数年に1冊あるかないかの稀なこととして「目の前の景色が変わる」本というのに出くわす。自分が今まで見知っていたつもりの世界観がくずれていくような本である。


 「名著論」に近いものは④であり、座右の本などと呼ばれるのも④だ。

 だけれど④は、もはや己の身体と分離できないところまでいって、どこまでが本の世界でどこからが自分なのかもはや感知できないようなことにもなっている。本の思いを伝えることはできても、その本が本来持っていたテーマ性や背景を「深堀り」して語り倒すにはもはや主客一体化していて難しい。信仰みたいなものだろう

 なので、本書に近い感覚の本というのは、むしろ③あたりだなと思う。④は狙い定めて得られるような本ではない。僥倖に近いといってよい。
 だけど③は目標にできる。考えてみると、僕が大型書店を定期的にさまよったり、WEBの読書コンテンツをチェックしたりしているのはこの③ねらいのところが多分にある。もちろん①で終わってしまうことのほうが多いし、②でも満足感の得られる本はたくさんある。

 ただ、③を得るにはどうしても書店にいって実物をパラパラとでも見ないとなかなかむつかしい。②まではたとえAmazonの購入でも、巷の評判や著者の実績や出版社などからある程度「読める」のだが、この情報だけで大当たりさせるのは難しく、どうしても書店にいって実物を確認したくなる。目次立てなどみて、これは当たりそうだと思ってレジに持っていく。
 だから③の本は電子書籍がほとんどない。ここらへんの本選びの感覚を、電子書籍でもまっとうできるようになるUIUXはできないもんかななどとも思う。Amazonもそれ以外の電子書籍ECサイトも、本選びのアルゴリズムが情報検索のそれ、つまり目的志向型だ。それはそれで便利なんだけれど、書店でぷらぷらするような具合のものができれば絶対そこに入り浸るんだけどなと思う。あるいはそれこそがリアル書店の生き残る道でもあるわけだけど。

 


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中古典のすすめ

2020年09月20日 | 言語・文学論・作家論・読書論

中古典のすすめ

斎藤美奈子
紀伊國屋書店


 「中古典」。これはもうコンセプトの勝利だ。戦後の日本、とくに60年―90年代にベストセラーになった本を、2020年となった今あらためて批評するという試み。それを「名作度」と「今でも使える度」という2つの尺度で評価しているのも心憎い。これだったらオレでもできたな、と思う評論家や読書インフルエンサーは多かったんじゃないか。ちょっとでも読書歴のある人ならば、ここに出てくる本の何冊かは読んでいるだろう。
 自分が若いころ読んで心踊らされた本が、クソミソにやっつけられるのは心おだやかではないが、逆に「今でも使える度」でトリプル満点だと、わが同意を得たり、と思うあたり、著者の術中にはまっている気がする。
 このブログにとりあげているものでも「文明の生態史観」「日本人とユダヤ人」「赤頭巾ちゃん気をつけて」などが含まれているし、それ以外でも「されどわれらが日々」「二十歳の原点」「自動車絶望工場」「ノルウェーの森」「窓ぎわのトットちゃん」「蒼い時」「構造と力」「日本沈没」「なんとなくクリスタル」「タテ社会の人間関係」「マディソン郡の橋」など、当時の話題作が次々と肴になっている。

 僕が多いに心を動かされた「文明の生態史観」は、その初読のインパクトを、今でも初めて読んだ人は開眼してしまうほどの説得力があると評する一方で、これは「居酒屋談義」の域だとも突き放し、名作度は★★★だが、使える度は★★と採点され、ムッとする。「居酒屋談義」というのは穏やかでないが、この評価は著者の梅棹忠夫自身が「ただの遊び」と言及していることにあるようだ。もっとも梅棹忠夫にとってはすべて学問とは遊びであって、これはコトバを額面通りとらえすぎだぞ、とついついこちらもムキになる。
 
 遠藤周作が1963年に発表した「わたしが・棄てた・女」に対しての酷評も面白い。今となっては著者のいうように「最低の気分になる」小説である。どこまでも自分勝手で高邁で保身な男の吉岡努と、不遇と不幸と不運をこれでもかと抱える森田ミツの話であり、原罪とか運命とか不滅の愛とか人の弱さとか文学価値的深読みはいくらでもできるが、著者としてはそもそもの男女観にステロタイプをみている。つまり、男女の立ち位置や不幸な女性の描き方に安易な予定調和がみられる。遠藤周作は「沈黙」や「海と毒薬」といったそれこそ「古典」入りした文学を書いている一方、「軽文学」というのも書いていて、この「わたしが・棄てた・女」はそちらにあたるとされる。始末に負えないのは、遠藤周作という人は、非常に文章がうまい人で、もうこれでもかこれでもかと読み手を感情移入させてお涙頂戴にして、これひょっとして超名作なんじゃないの? という感じにしてしまう技に長けている作家である。今で言うと浅田次郎みたいなものか。たいしたことないものでも、さも重要で深刻で壮大な風に書けてしまうというある意味タチの悪い超絶技巧名文家という遠藤周作の側面を60年越しに指摘した評だ。
 
 大絶賛しているのは橋本治の「桃尻娘」で、ここでは著者もノリノリである。いわく現代文学の流れを変えた作品。もちろん名作度★★★使える度★★★。この本がなければ「僕は勉強ができない」も「インストール」も「阿修羅ガール」も出ず、日本文学は死んでいたと。オジサン的既成概念に凝り固まっていた女子高生像をぶちこわしたということも多いにあるだろうが、やはり表現手法として饒舌系というものを切り開いたところが大きいか。DJか大阪のおばちゃんか古舘伊知郎かと言いたくなる過剰にして加速するコトバの戯れによって描かれる世界が示す圧倒的な力は、「なんとなくクリスタル」で使われた注釈手法なんて姑息に過ぎないと見せるに十分ではあっただろう。僕がこれを読んだのは高校生くらいのときだったと思うが、まあ、たしかに最初読んだときはぶっとびましたね。やがてこの「桃尻語」のスピンアウトとして、「桃尻語訳 枕草子」なんてのも出た。春って曙よ!


 「中古典」とは確かに言いえて妙で、これらは評価が完全に定まっていない。殿堂入りしたものは見事「古典」となる。「古典」というのは、時代を超えた普遍性がある、ということであれば、これら中古典は当時の時代の波をもろにかぶったものであり、そして2020年の現在、歴史の試練の真っただ中にさらされているものだ。これを耐え抜いたものが時代を超えた普遍性を見出されて「古典」の座につく。脱落したものは単なる中古品になる。本書の「今でも使える度」はあくまで著者斎藤美奈子の主観であるとはっきり断っているから、自分でもこれら中古典をもういちど反芻してみるのも面白そうだ。本書には登場してないが個人的には岸田秀「ものぐさ精神分析」、藤村由佳「人麻呂の暗号」、椎名誠「哀愁の街に霧が降るのだ」あたりはビミョーなところとしてその命運が気になるところだ。


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物は言いよう

2019年12月23日 | 言語・文学論・作家論・読書論
物は言いよう
 
ヨシタケシンスケ
白泉社
 
 
 本書は絵本作家ヨシタケシンスケの読本である。
 
 僕はヨシタケシンスケの「発見」はかなり早かったと周囲に自慢している。ヴィレッジヴァンガードで自費出版「デリカシー体操」を見つけたのが最初だからこれは相当に初期なのだ。この自費出版は、カバー紙がなく、奧付まで手書きという味わい深いシロモノだった。
 小さなカット割りのようなイラストが1ページにいくつも描いてある。その多くにはセリフがついていて、1コマ漫画というのもちょっと違うし、単なるイラストカット集とも言い切れない面白味があった(後年になって「スケッチ集」という言い方になった)。
 その後、そこそこ名のある出版社からスケッチ集が出るようになった。「日本のチャーリーブラウン」というコピーが付くようになって、なるほどうまいこと言うなと思ったものである。
 
 したがって、ヨシタケシンスケは僕にとってはアーティストというカテゴリーの人だった。現在の彼の肩書は自他ともに「絵本作家」ということだが、個人的にはちょっとばかり違和感がある。
 しかし、絵本作家として累計100万部以上を売り上げたというのだから、立派な「絵本作家」だろう。本書にも書いてあるが、彼に絵本を書いてみないかと誘ってみたのは某出版社の編集者である。彼の独特の作品をみて絵本作家としていけるんじゃないかと見抜いたのだから慧眼である。しかも最初に絵本を提案してきたこの某出版社には自信がなくて断ったらしく、次に「お題」をもって絵本を提案してきた別の出版社(白泉社)で受諾したとのことであるから、何がどうつながるかわからない。
 
 僕自身の彼の本の購入歴でいうとスケッチ集は自分のために買っていたが、絵本に関しては知人の子供あてに数冊プレゼントしたくらいで自分の書棚には1冊もない。ただ、読む機会はいくらかあった。図書館や病院やキッズスペースなんかに置いてあることが多いのである。”大人も楽しめる”からほかに幼児向けの本しかないような場合は彼の絵本を手にすることになる。また、しゃれたカフェなんかに、インテリアがわりに彼の本が置いてあったりする。
 そういった彼の何作目かの絵本に「それしか ないわけ ないでしょう」というのがある。このタイトルはけっこう哲学的というか人生の至言のようなものを感じていた。
 本書で言及がされていた。彼の口癖なのだそうである。
 提示された枠外にも可能性や選択肢はぜったいにある、というこのセンスはアーティストにとって必須のものだとは思うが、なにかとややこしくめんどくさいこの世の中を渡るにあたっての大事な感覚でもあろう。意外にもこのテーマをあつかった子どもむけ絵本はこれまでなかったんじゃないかとも思うが(絵本の世界はあまりよく知らないけれど)、子どもにも、それから子どもと一緒に読むオトナにも「それしか ないわけ ないでしょう」という一呼吸はぜひとも覚えておきたいことである。
 
 ところで本書「ものは言いよう」はちゃんと自宅に購入した。中学生の長女がケタケタ笑いながら読んでいる。
 

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行く先はいつも名著が教えてくれる

2019年02月24日 | 言語・文学論・作家論・読書論

行く先はいつも名著が教えてくれる

秋満吉彦
日本実業出版社


 著者はNHK教育番組「100分de名著」のプロデューサーである。この本では、著者の名著との出会い、名著に救われ名著に背中を押された人生の中での様々なエピソードを、それぞれの本とその作者に最大限の敬意を払いながら書いている。フランクルの「夜と霧」、岡倉天心の「茶の本」、レヴィ=ストロースの「月の裏側」、三木清の「人生論ノート」などが登場する。

 

 しかし、その本を読む前と読んだ後で、もはや違う自分ー新たな地平を得た自分が出現するような、そんな「名著」はやはりそうあるものではない。そういう本の出会いについて、本書では最終章「歎異抄」で触れている。曰く名著とは「情報」ではなく「物語」としてせまってきた本である。

 真の「名著」とは、その本を読んでしまったらもう後戻りできない。「情報」として消費されるのではなく、「物語」として自分と一体化してその後の生き方を変えてしまう本である。ここまでのインパクトを与えるには、本そのもののエネルギーだけでは不十分であって、その本を読んだときの自分の状況、心境、事情その他も多いに関係ある。何事かに追い込まれたときの自分と、その打開を示唆した本、それこそが自分にとっての真の名著である。つまり「名著」に出会うということは”本と自分の相互作用”と言ってよいのである。

 もちろん、多くの人が「自分を変えた本」といって挙げてくる本、言わば”名著率が高い本”というのは確かに実在する。「夜と霧」なんかはその代表例だろう。だからといって誰もが「夜と霧」で人生が変わるということはないだろうし、逆に多くの人がスルーする無名の本でも、当人がそれで変わったのならば、その本はその人にとって名著であろう。

 つまり、名著との邂逅というのはタイミングがある。まして、自分の人生に並走するような、人生のバイブルともなる名著となると、もう滅多なことでは出現しない。

 これは恋愛とまったく同じだ。しかも人生のバイブルともなる「名著」との出会いともなれば、一生の伴侶と出会う愛の奇蹟と同じである。しかし、多くの人が現在の伴侶との出会いを語るに、知らず知らずのうちにそこに出会うようにモノゴトが流れていったかのように感じるように、自分にとっての名著との邂逅も、当時に至る人生の流れの期待にこたえるように一生懸命に生きていたら、やがてその本に出合うことは必然だったという振り返り方も可能だろう。愛の奇蹟がそうであるように。

 

 僕も何冊かそういう自分にとっての「名著」がある。たとえば音楽評論家の故・吉田秀和が書いた「世界のピアニスト」がそうである。

 まごうことなくこの本は僕にとって人生のバイブルになっている。よくキリスト教の信者は、眠る前に聖書の一節を読んでそのことを頭に眠ると言われるが(ホテルのベッドサイドに必ず聖書があるのはそのため)、僕にとってはこの本がそんな位置づけにある。自宅の本棚のほかに会社のデスクの上にも一冊置いていて、朝出社してデスクのパソコンのスイッチを押すと、立ち上げるまでの時間のあいだ(けっこうかかる!)、僕はこの本から適当なところを開いて目に入ったところを数ページ読むのだ。そしてそこに書かれていることを反芻しながら今日の一日を開始するのである。

 僕はこの「世界のピアニスト」でいろいろなものの見方や考え方を学んだ。気に入らないものの受け止め方や赦し方を学んだ。齢をとることの哀しみと偉大さも教わった。双方に矛盾するものの昇華のしかた、外国と日本の感受性の違いと両者の尊重。挑戦すること、守りぬくこと。あいまいのものをあいまいにしない態度、その反対に、あいまいなものをあいまいなものにしておく美意識。そんな人として幸福に生きる術のすべてをこの1冊から学びとったといっても過言ではないのである。教科書やガイド本に出てくる古典名著数十冊分の薫陶を、ぼくはこの文庫1冊で得ることができたと本気で思っている。

 この本に出合ったのは高校1年生のときだ。したがって30年来の付き合いということになる。通算で100回以上は開いた本といっていいが、しかし今もなお新たな気づきがあるし、忘れていたことを思い出させもしてくれるし、落ち込んだときの慰めにもなる。つまり、僕にとって「世界のピアニスト」は、僕の人生の物語そのものになっていて、分離すらできなくなっている。

 

 と、ここまで書いてさてさぞどんなに凄い本かと思われるだろうが、大方のヒトにとって興味も共感も得にくい内容であることは想像に難くない。これはおもに20世紀に活躍した世界のクラシック音楽ピアニストを個別に評論したものである。したがって、クラシック音楽を知らなければなかなか読みにくい本だし、その内容も今から半世紀前の世の中に出されたものだから時代のずれもある

 もちろんクラシック音楽や芸術評論に詳しい人であれば、吉田秀和は大家中の大家であったことに異存はないだろう。彼の評論が広範な教養と美意識を母体とし、その文章の磨かれ方も一級の文芸作品として遜色ないことを認める人も多いと思う。その人柄も切実で人徳にあふれ、しかし中にはつよいパッションを持つ誉れ高き人物であったことに賛同するだろう

 しかし、この「世界のピアニスト」が僕の人生のバイブルとまでになぜ機能するかを僕が他人に一生懸命説明しても、絶対に理解できないだろうし、だいたい”僕ではない人”がこの本が人生のバイブルになりっこないのは僕自身もよくわかるのだ。本書の表現を借りればこの本は「僕一人がためなりけり」だからである。

 最初にこの本を手にすることになった高校1年生のときの経緯がまたきわめて個人的事情だし、その後の自分の人生に折に触れてこの本を開き、そして僕なりの読み方を深め、ついには僕にしかできないような読み方になっていったと思うのである。30年かけて読んでいるようなものだ。この本を僕にとっての「名著」にしたのは僕自身なのである。

 

 今回、「名著が人生を導いてくれる」を読んで、この本自体が「名著」だと感じた。本には確かに人生を導く力がある。そして「名著」をつくるのは読み手自身であることも本書は示唆している。名著とは本と読み手の相互作用で出現するものであることを本書は解き明かしている。


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読んじゃいなよ!

2016年12月11日 | 言語・文学論・作家論・読書論
読んじゃいなよ!
 
高橋源一郎編
岩波書店
 
 サブタイトルは「明治学院大学国際学部高橋源一郎ゼミで岩波新書をよむ」である。
 
 それにしても、高橋源一郎氏の真骨頂というべきか、まことにアナーキーなゼミであり、ゼミ生も正規の明治学院大学在籍生だけではどうやらないようで、大学は辞めたけれどゼミだけ出席している若者とか、取材のつもりがいつのまに常連化した民放のキャスターとかもいるらしい。あのSEALDsの彼も、この高橋ゼミの人だったようだ。非常に納得するところがある。
 
 そんな彼らが在籍するゼミによる本書もまたアナーキーである。
 メインとなるコンテンツは、哲学者の鷲田清一氏、憲法学者の長谷部恭男氏、詩人の伊藤比呂美氏の3名による講演とゼミ生との質疑応答ということになるが、それ以外にゼミ生の自己紹介文的なものとか、座談会録とかいろいろなものが挿入、混入されていて、巻末や奧付のレギュレーションも、なんか守られてなくて、それでいてこれら要素がとくに分け隔てなく本書を構成いるのに、一冊となってしっかりとメッセージを発している。
 
 これは岩波新書でなければ成立しない世界であって、中公新書でも新潮文庫でもジャンプコミックスでもそうはいかないだろう。異化としか言いようのない不思議な岩波新書に仕立てあがっていると思うが、それでいてやはり岩波新書の精神なのである。
 
 巻末に納められている「岩波新書新赤版一〇〇〇点に際して」の一文にはこう書かれている。
 
 いま求められていることーー個と個の間で開かれた対話を積み重ねながら、人間らしく生きることの条件について一人ひとりが粘り強く思考することではないか。その営みの糧になるものが、教養に他ならないと私たちは考える。
 
 まさに、本書を特異ならしめる価値はここにあって、このさまよえるゼミ生たちが、3名の講師および高橋源一郎氏にぶつけられた人間らしさへの問いと、それを鷲田氏の哲学が、長谷部氏の憲法学が、伊藤氏の人生相談がガチンコで応えていくこのありよう、さらに彼らの中での人生の逡巡があらわれた自己紹介らしき文章、高橋ゼミに思いをはせる座談会、すなわち本書全体が「人間らしく生きることの条件についての一人ひとりの粘り強い思考」になっている。

 個人的になるほどなあとしみじみ思ったのは以下のセリフ。それこそ学生のころに聞きたかった。
 
 「あり合わせのもので作るのが芸術家はもともと巧いんです。(中略)「これ、使える」っていう感覚、勘がものすごく働く人たちなんです。普通ならごみ箱行きみたいなものでも、あ、これ使えるって。学問をしている時でも、日常生活をしている時でも、その勘というのがすごく大事で、これ行けるとかこれ使えるっていう感覚がないとダメです。」(鷲田清一)
 
 「憲法は何のために必要かというと、民法とか刑法とか、皆さんが日常生活で触れるはずの、日常生活を支えているはずのいろいろな法令があります。(中略)そういう通常の法令通りに裁判所に来た紛争を解決していると、良識に反する結論になってしまう時とか、どう考えてもこれはおかしいという結果になってしまう時に初めて出番が来るのが憲法です。」(長谷部恭男)
 
 「世の中には誠実じゃない人がいっぱいいて、そういう人たちに巻き込まれちゃうと、相手の負の何かに負けちゃうのね、やっぱり誠実な人間の方が。だから本当にそこだけは、本当にかぎ分けていって、こういう誠実で、あるいはクラムジーでもいいから、不器用でもいいから、誠実に生きている大人を見つけて、そこにつながっていけばいいと思うんですよ。(伊藤比呂美)

 あと、ゼミ生の小島夏水さんの文章。
 
 例えば、「街で君に似てる人を見たよ。」は告白だと思うし、「会いたい」と言われるよりも、「こっちの今日の夜ご飯はマグロ丼。」と言われる方が会いたくなったりする。
 
 

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カルチャロミクス 文化をビッグデータで計測する

2016年03月27日 | 言語・文学論・作家論・読書論

カルチャロミクス 文化をビッグデータで計測する

著:エレツ エイデン ・ ジャン=バティースト ミシェル  訳:阪本 芳久
草思社


 ずいぶん前だが「『文系知』と『理系知』の融合 ~コンピュータによる文学における暗黙知的可視化」という本を入手した。白百合女子大学アイリエゾン研究会という研究グループがプロジェクトを本にしたものである。この本はまだ手元にあるので調べてみたら2002年刊行であった。

 どんな中身かというと、「コンピュータの使用を前提とした数学的手法である線形空間論を用いて、文学作品の文体構造を四次元時空間に可視化し、その作品の文体構成、性質等を客観的に明らかにしようとすること」であった。芥川龍之介「杜子春」や夏目漱石「坊っちゃん」や宮沢賢治や古今和歌集の諸作品にあらわれる文字や単語の出現パターンとか、会話文と地文の出現パターンなどから、裏にある因果関係をせまるという意欲あふれた試みであった。

 つまり、文字というテキスト配列を、スペクトルとして解析することで、その文学が支える思想を見抜くという、まさに文系と理系の融合的試みなのであった。


 面白いことやるんだなあ、と当時の僕は思った。青空文庫などでテキストがデジタル化されて読み込めるようになり、数量解析の対象になったのである。

 その後、「テキストマイニング」という言葉がはやった。当時の僕は統計の仕事をしていたので、このテキストマイニングというのも調べてみた。アンケートの自由回答結果とか、ネット掲示板に長々と書かれている文章から、単語の出現頻度とか、Aという単語とBという単語の出現の相関関係とかをみながら、そこでくりひろげられている情報の構造を見抜くというものである。もっともこのテキストマイニング、一見カッコいいが、けっこう下準備がたいへんで、何回か試みたが結局のところ僕はサジを投げてしまった。

 それと並行して、「文献計量学」という学問が注目されるに至った。やっていることは上に同じである。たとえば、源氏物語五十四帖が、句点の打ち方パターンなどからみると、一帖から五十四帖までが、定期的にこの順番で執筆されたわけではなく、順番も執筆感覚もバラバラ。あまつさえ、同じ作者であったかどうかもあやしい帖が何章か存在する、なんてことがわかったそうだ。

 

 そのうち、僕の興味の対象はよそにうつってしまって、こういうテキストを統計的にみる、という世界からは遠ざかってしまったのだが、やがて、時代はビッグデータを迎えるようになった。



 で、ようやく本書の話。日本版の刊行は2016年2月。ついこのあいだだ。書店の平積みを見つけ、久しぶりにみるこの世界の進展が知りたくてすぐ購入した。

 グーグルが、全世界の図書館の本をデジタル化するというプロジェクトを進めて9年。いまや中世時代から現代にいたるまでの膨大なテキストデータがストックされつつある。これらによって、文献計量学も、1冊の本を計量するというよりは、本の歴史そのものが計量の対象になった次第である。中世から現代という時代の幅が解析の対象だから、これは人類の記号単語史といって差し支えない。

 本書は、このグーグルのプロジェクトと提携し、過去の膨大なテキストデータを分析しようとしたものだ。

 これによって、単語の歴史的な変遷がわかる。なるほど、●●という言葉が、時代のいつごろから、文献に出現していったかとか、○○という言葉が△△という言葉に置き換わるようになったのはいつ頃かとか、現代は見られない××という言葉は、いかにして滅んでいったか、などが、グラフで可視化されている。

 個別の単語を追跡した分析も、そのひとつひとつがなかなか示唆に富んでいて面白いのであるが、こういった単語の出現パターンが、実は「べき乗分布」とか、伝染病の普及モデルとか、「エビンハウスの学習と記憶のモデル」とか、あるいはダーヴィニズム的生態学の法則性があるという発見がなかなか面白い。感覚的な後知恵ではわからなくもないが、なにしろ数百年を俯瞰して初めて目の当りにできる事実なので、これこそグーグルのプロジェクトにして初めて掌握された事象だろう。言語もまた生態学的なふるまいにあるということだ。このことから、未来への見通し、例えば、driveという英単語の過去形はdroveだが、これがdrivedという形で使用されるようになるのは7800年後、なんてことが分析できたりして痛快である。

 一方、ナチスやスターリンによる言論弾圧によって、一時期に使用不能になった言葉や人名を追跡する話は興味深い。シャガールやトロツキーといった禁句の名前は、統制下の時代はものの見事に出現しなくなる。時の権力はそのまま歴史的抹殺をはかったに違いないが、だがしかし、その暗黒の時代を終えると、むくむくっと名前の出現が復活するのだ。たとえ徹底的な焚書を行うとも思想は滅びない、ということを1枚のグラフが示したのは、ちょっと感動的でもある。

 

 言うまでもなく、テキストデータをこうやって解析する技術は、アカデミズムだけでなくてマーケティングでも使われている。本書でも最後に警告しているように、個人があちこちで痕跡を残しているデータを追跡する技術はかなりの精度に達している。僕自身は、こういうマーケティングで用いられるビッグデータは気色悪くてしかたがない。

 ただ、マーケティングならまだしも、国によっては、あるいは未来によっては、思想検閲の一手段になることも考えられる。「図書館でその人がなんの本を借りたかは絶対に秘密にしなければならない」というのは、現代の図書館思想の代表的なものだが、CCCがの武雄市図書館でやろうとしたことは、そこのところで大議論を巻き起こした。

 本書ではテキストの「書き手」、つまり著作権の観点からのテキストの保護を何度もとりあげられているが、この技術は、「読み手」がどんなテキストを読んできたかの集積からも分析できることを示唆しているわけで、なかなか恐ろしい時代になってきたと言える。


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書斎の鍵 父が残した「人生の奇跡」

2016年03月08日 | 言語・文学論・作家論・読書論

書斎の鍵 父が残した「人生の奇跡」

喜多川 泰
現代書林


先日よんだ「戦略読書」と似たようなコンセプトの本。本好きにとっては我が意を得たりというしかない、読書の効能を高らかにうたっている。


本書が他の読書啓発本と異なる点としては「書斎」の効能を説いていることがあげられる。

曰く「書斎は心のお風呂である」。なるほど。

書斎というのは不思議な空間の使い方で、たいていの場合、そこには既に読んだことのある本が並んでいる。もちろん未読本だってあるだろうが、自分の家の本棚や、本好きの友人の家を拝見するにそうである。
じゃあ、そこにある本は、資料棚のように頻繁に出し入れするかというと、これまた必ずしもそうではない。そういう本もあるが、多くはそこに収まったまま特に出入りがない。
本を読まない人からすれば、空間のムダ遣いだし、今まで読んだ本を、戦利品のように並べて喜んでいるナルシズムにしか見えないかもしれない。

「今まで読んだ本」の背表紙がずらっと並んでいるものを眺めることの効能をちゃんと解題した話はあまりないように思うが、多くの本好きにとって書斎や大きな書棚はアコガレであるのは間違いない。このえもいわれぬ欲望はなんなのかということで、本書ではそれを「心のお風呂」と読んでいる。なるほど確かに、本棚をぼんやり眺めることは、やさぐれた心の浄化作用はあるように思える。

かくいう僕の家にもつくりつけの本棚がある。本書にあるように、夜な夜な立ち並ぶ背表紙を眺めている。毎日の自分の知識や美意識の棚卸しといった趣きがあり、確かに「心のお風呂」的な効果はある。
さらに閉塞感を感じたり、脳みそに刺激が欲しくなると本の並び替え作業をしたりする。実はこの並び替え作業、すごく楽しい。時を忘れて没頭する。

美術評論家の西岡文彦が若い頃に出した本に、書棚と戯れる話が載っていて、彼は今まで自分が吸収してきた「知の曼荼羅」が、そこの本棚には現れているはずと喝破していた。
そして、この知の曼荼羅を活かすにはたまに本を並び替えることであるとし、それを「配架術」と呼んでいた。
この配架術は、東京は池袋のいまはなき本屋リブロで80年代に「今泉棚」としてそのスジには知られた立派なメソッドなのだが、とにもかくにも本好きは本の並び方にもウルサイのである。


本書は一種の自己啓発本なのだが、あまり本を読まない人が何かの拍子でこの本を読んで、そして読書に目覚めさせるだけの力があるのかどうかはわからない。読まない人はホント読まないからね。むしろ読書好きが、なんでオレらはこんなに活字に夢中になれるんだっけという問いに、そうそうそうなんだよ、と膝をうつ答えを用意した本だと思う。



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戦略読書

2015年12月26日 | 言語・文学論・作家論・読書論

戦略読書

三谷宏治

ダイヤモンド社

 


 そういや僕もこんな感じで本を選んで読んでいたのだが、最近すっかり失念していた。久々にこの感じを思い出した次第である。

 学生のころ、社会人も20代のころは、間違いなく年間100冊は読んでいた。この100冊の中身は小説、サイエンスもの、当世を語る新書から美術解説書までいろいろバラエティに富んでいたが、人文系、社会系、科学系、サブカル系と意識して散らしていた。
 もっとも本書と違って僕の場合、いわゆるビジネス書には長いこと近づかなかった。敬遠していたのである。だから、本書で推奨しているようなポートフォリオで本を読んできたわけではない。

 しかし、いつ頃からかサイエンスものや小説の類がぐっと減ってしまい、美術系への関心も薄くなってきてしまった。このブログも初めて7年くらい経っているはずなのだが、当初のころにくらべてバラエティの幅が狭まってきているような気がする。

 そして気がつくと本を読むペースが大変遅くなっていた。決して早読みでもなかったのだが、年間100冊のペースはとてもとても無理である。集中力が続かないのだ。10分か15分読んでいると、もう休憩したくなる。好きで読んでいるのか何かの義務感に駆られて読んでいるのかよくわからなくなってくる。

 しかも会社勤めの人生も20年経て何をとちくるったのか、ここ1年ほど急にビジネス書に手を出してしまうようになった。カーネギーのような古典から、いくつかのフレームワーク本、管理職の心得本みたいなものまで手にとる。「他人と同じ自分にならなくては」というへんなコンプレックスが生じたということである。もちろん読書は遅々して進まない。しかも頭に入っているのか血肉になっているのか、まったく自信がない。

 あきらかにメンタルが空回りしているというか、スランプであると言えよう。当ブログの更新がとまってしまったのもそこに理由がある。
 もちろん、これは読書に限らず、要は人生としてのちょっとした踊り場にさしかかっているということなんだろうけれど。とは言え、読書は僕の中で間違いなく喜びの時間の一つであったはずなので、これは由々しきことであった。

 

 たまたま本書の紹介記事を読んで、ピンとくるものがあり、発売前からAmazonで予約をしてしまった。手元に届いたのが今週初め。この分厚さにもかかわらず、平日の2日で完読してしまった。読みやすい。頭に入る。イメージがわく。この感じはかなり久しぶりである。憑き物が落ちたかのようだ。
 これはまさに僕がかつて「楽しんでいた」読書の姿だった。


 そう。本書の帯にもあるように僕は意識して「みんなと同じ本を読んではいけない」と思ってきていたし、「私たちは読んだ本でできている」と確信して、“みんながあちらを行くなら僕はこちらを行こう”みたいな精神で、したがって教養と多様性を信じて様々なジャンルの本を読んでいた。その過程の中で、司馬遼太郎にはまっていた時期もあれば、興味がわいて日本人論を追いかけていた時期もあれば、ミステリー系ばかりだった時期もあった。

 そういうことをすっかり忘れていた。
 読書は自分にとってエンターテイメントであり、オフのものであり、知的好奇心を満たすものであったはずなのに、いつのまにやら義務感というか自己模倣、自縄自縛に陥っていたようである。
 

 というわけで、本書は初心を思い出すことができた。ありがたいことである(ビジネス書だけはどうしたもんか当面の課題。読んでて苦痛感がどうしても抜けないんだよな)。


 ところで、僕の本の読み方は、基本的に1冊ずつの熟読であった。斜め読みとかつまみ食いではない。また、同時に何冊の本を読むわけでもない。つまり、もっとも古典的かつ基本的かつシロウト的な読み方である。最近の読書指南の本を覗くと、「本は一度に10冊読め」とか「まずは目次を俯瞰して全体をイメージしてから読め」とかいろいろある。本書でも粗読みから重読まで4通りの読み方を紹介している。つまみ食い的な読み方だけはあまり読書を楽しんでいない気がするのだが、同時読みというのも一度やってみようと思う。

 あと、読書時間を奪っているのは実はスマホいじり、というのは、たしかに真実。自重しよう。 


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文体の科学

2015年02月17日 | 言語・文学論・作家論・読書論

文体の科学

山本貴光

 

 野心に満ちた本である。
 本書は、「文章の科学」ではなくて「文体の科学」である。「文体」とは「配置」であり、その機能は、物質と精神のインターフェースであると見立てる。
 書籍であれ、電子ブックであり、制約された空間での文字の大きさや行間のとりかたがあり、そこに文字が配される。本書で再三強調されるのは、「たとえ同じ文章」であっても、配置が異なれば、つまり文体が異なれば、読み手に違う印象を与える。

 ただ、本書が白眉なのはそれだけではない。実に、上記の意味での「文体」論は、たとえばカリグラフィ論や本の装丁論でも十分に触れられるところである。

 本書は、このような形式上の配置だけでなく、書き手の意志、世界観、書き手が書こうとする対象を支配している文脈やルール、そういったものが、文体という配置の秩序によって、読み手に何をどう与えようとしているのか、およそ「文章」と等価の「文体」にせまろうとしている。

 たとえば「批評文」というものをとりあげている。「批評文」はなぜあるのか。たんに、作者の上から目線のドヤ顔のためにだけあるならば、「批評文」はここまで世界中に普遍化しなかっただろう。
 著者は「批評文」について小林秀雄の言を引用している。「批評するとは自己を語る事である、他人の作品をダシに使って自己を語ることである」。そして、著者の見解としてこうつけたす。「本当は、批評とは書き手にとってなかなかおっかない営みなのではないか、とも思う。なにしろそれは、知的に裸になってみせるようなものであろうから。書かれた批評のことばに、書き手の姿や知のあり方が、否応なく現れてしまうのだから。」
 その裸の激突として、ヨハネ福音書の有名な冒頭「はじめにことばがあった」を批評した2つの偉大なる古典、マルティン・ルターの信仰に根ざした批評文と、理性で徹底的に言葉を重ねたマイスター・エックハルトの批評文を比較検討する。この2つの宇宙のあまりの距離。しかし、どちらも読み手に新たな知的興奮に似た気づきを与える。優れた批評は、たしかに知の地平を広げる。


 ほかにも対話体の文書、法律の文書、植物図鑑の文書、あるいは辞書の世界など、さまざまな「文体」を解題してみて、興味深いのだが、もっとも人間臭い文章として最後に「小説」を検討している。

 「小説」の「文体」とは何か。というのは、これだけで一冊の本になりそうだが、著者はここで、夏目漱石の「文学論」を引っ張り出している。

 文学的内容の形式は(F+f)なることを要す。Fは焦点的印象または観念を意味し、fはこれに附着する情緒を意味す。

 つまり、認識と感情が描かれたものであり、さらにいえばこれに時間と空間の条件が加わる。漱石の論文の中に「文芸の哲学的基礎」というのがあり、人の意識は連続的であり、その中である意識が焦点をつくって明瞭化し、そういったいくつかの明瞭化した意識の点が時間や空間を決め、その統合こそが小説のプロットである、なんてことを言っている。本書によれば、この見立ての下敷きがイギリスの心理学者ロイド・モーガンの意識モデルだそうだ。

 こういった認識と感情、その位相を決める時間と空間の妙として、本書は「吾輩は猫である」をとりあげている。

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生まれたか頓と見当がつかぬ、何でも暗薄いじめじめした所でニャーニャー泣いて居た事だけは記憶して居る…

 
冒頭の数行で、3つの時間的経過が並走していることを著者は読み解く。①読者が読む時間②猫が語る時間③猫の語りのなかで想起される過去の出来事の時間。
 なるほどいわれてみればそうである。漱石に限らず、小説というのは、時間を自在に閉じ込めている。批評や辞典や六法全書に、時間的推移はない。空間的位相もない。

 小説とは、文体によって、時間と空間による位相をはりめぐらし、そこに認識と感情を配置する。ふだんの我々の感情は断片的で無作為的でとりとめがない。そうしたせつな的な感情が、小説を読むとき、こうした小説のプロットによって、あたかも磁力を帯びた鉄片のように、一方向にむかって秩序を持つ。

 文体とは配置であり、そこは著者が描こうとする混沌とした世界から秩序へむかおうとする知恵と知識なのだということがわかる。はじめにことばありき。ことばこそは秩序である。


 ところで、漱石の描く時空間の妙として、僕もひとつ「吾輩は猫である」で挙げたいことがある。
 
 「吾輩は猫である」は冒頭が超有名だが、ではどうやって終わるのか、というのは案外知られていない。

 答えは、酒樽に落ちて死ぬのである。

 で、本書でも指摘する通り、この小説は「吾輩」である「猫」が過去を振り返って語っているのだから、つまり「吾輩」は「現在」死んでいることになる。これもまた空間と時間を自由自在に浮遊させた漱石マジックであろう。(内田百は、だから酒樽に落ちた「吾輩」は死んでいない、という風に解釈して、その後の続編を書いている)。 

 


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創作の極意と掟

2014年04月17日 | 言語・文学論・作家論・読書論

創作の極意と掟

筒井康隆

 

筒井康隆がことし80歳になるというのがオドロキである。なんか、60歳くらいの感じのつもりでいた。

さすれば、これが本人いうところの「遺書」というのもあながち冗談でもない気がする。言わば、彼の技法全開陳の虎の巻といってもよいのではないか。

もっとも氏はこういう文章読本というか創作技法本がこれまでもいくつかあって、本書でも紹介されている「着想の技術」を文庫本で初めて手にしたときは面食らった。大学生の頃だったかな。すさまじく難解というか、高所から切れ味鋭い舌鋒ならぬ筆鋒がかまわず繰り広げられ、これについてこれないならアンタはダメです、と言ってるがごとくで、しかも解説が斎藤由貴というのがまたすごいオチ。

それに比べると、この「創作の極意と掟」はぐっと”降りて”きている。とはいっても筒井康隆だから、俺様節はまったくもってご健在。だいたい「揺蕩」だ「濫觴」だ「諧謔」だと、もはや日常にみない用語をしれっと表題にひっぱってくるあたり確信犯に違いなく、しかもその中に「電話」とか「薬物」とか乱入してくるのが人を食っている。

 

創作技法を大きく2つにわけるとすると、アイデアの着想ないし妄想の方法と、それを文章にする技術であろう。本書もこの両者がある。ただ、筒井康隆の特異なところは、着想ないし妄想の破天荒さもさりながら、それを着実に文章に転化してきた確かな技量だと思う。本書の価値はこの彼の文章作成技量が開陳されているところにある。

「文章にする」というのは確かに技術であって、小説を名乗るのなら手あかのついた表現は避けるべきとか、話しぶりの特徴が書き分けられてない「会話」はみっともない、とかいろいろ留意すべき技術はあるのだが、本書で挙げられるような「凄味」「色気」「表題」「迫力」「省略」「遅延」などなどは、じつは小説に限らず、情報伝達技法全般に通用するように思う。つまり読み手を唸らせ、巻き込み、笑わせ、感動させるための技法なわけで、それならばこんな愚にもつかないブログを書く際だって教科書になりそうだし、人前で話さなければならないときとか、会社で書くような企画書とかプレゼンテーションの立てつけにだって援用できるヒントがいっぱいある。

ただ、ここにあがっているもの、読めばまるで自分の文章力が向上すること間違いなしのような錯覚に陥るが、もちろん見よう見まねでは下手こきそうなものばかりである。筒井康隆のあの驚異の文章は、同じく驚異的であるあの莫大なアウトプット量、すなわち数をこなしてきたことの鍛錬もあるに違いなく、であるならばこの「創作の極意と掟」はまさに五輪書。門外不出の指南書で、これを教本に日々の稽古をすることこそ、本書のねらいとするところかも。

それにしてもまるで「魚の釣り方を教える」寓話のようだ。本気で「遺書」のつもりなんじゃないかと思うと心おだやかでない。

 

 


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読んでいない本について堂々と語る方法

2014年02月24日 | 言語・文学論・作家論・読書論

読んでいない本について堂々と語る方法

著:ピエール・バイヤール 訳:大浦康介


 このタイトルはインテリフランス人らしい一種のアイロニーであって、言わんとすることは

 「堂々と語れない」本は、読んでいないのと一緒である。

 で、堂々と語る、というのは、目の前の相手が誰であろうと、自分のコトバで自分の信念と、それを裏打ちする自分の教養と価値感でもって語る、ということであり、すなわち、その本を堂々と語る、というのは、自分という媒介を通して、再創造するということなのである。

 だから、はじめから終りまでアリバイ的に活字を全部拾っただけとか、単に要約できるだけとか、書いてあることを盲信しているだけとか、そういうのは「読んでいない」の範疇なのである。

 そこから換骨奪胎していって、“斜め読み”でもそこから完成度の高い再創造の境地に達することができたのならば、それは読書として成功である。
 あろうことか、タイトルと目次だけで何かを悟り得れば、これはもうすばらしい読書である。

 僕は橋本治の「上司は思いつきでものを言う」というタイトルだけで、なんかもう新たな事象の地平が明けたかのようにいろいろな文脈や編集が頭の中で行われ、たぶんこれをテーマにいつまでも酒飲み話ができそうだが、これだって「読んでいない本について堂々と語る方法」ではあるまいか。


 もっとも、本書で扱われているのはもっとずっと教養の書である。
 そもそも「教養」というのは、ある受け身で得た情報なり知識なりを自分なりに再編集して(たとえば以前から持っていた知識とつなぎ合わせることで)新たな気付きや悟りを得るための能力であり、「広く応用が効く」知識や知恵を獲得していたり、体技を取得している人を「教養のある人」と称した。単に「知っているだけの人」では雑学者の域を出ない。

 特に、長い歴史の試練や多民族の価値観の視点に耐え抜いた書物は、「広く応用が効く」として教養書の代名詞となり、本書でもトルストイとか漱石とか出てくるし、ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」は本書自身が内容においても読み手に必要な資質にしても教養を問うトラップとして引き合いに(あるいは著者バイヤーるの小道具として)出てくる。
 教養人というのは、そういう「戦争と平和」とか「道草」とか「方法論叙説」とか「ハムレット」とか「ツァラトゥツトラはかく語りき」とか「史記」とか「オデッセイア」とか「国富論」とか「源氏物語」とか読んで、自分なりの文脈で知識の再体系化ができる人、と言うことなのである。ここから、人間とは何かを繰り広げてもいいし、愛と性の差異に思い及んでもいいし、明日の夕食の蓋然的破損性を考察してもよい。
 逆に言えば、ムリして名作全集を読んでどの本にはどんな人が出てどんなことを言っている、と博覧強記を披露しても、そこに新たな本人なりの創造的見解がなければまるで意味がなく、それならば「まんがで読破シリーズ」を次々読んで、何か新しい文脈を見つけたほうがずっとずっとよろしい。(ところで「まんがで読破シリーズ」はあれすごくいい企画だとは思うんだけど、絵がどうも個人的に苦手なんだよなあ。ちょっとアクが強すぎるというか‥)


 でもこういう教育、というか訓練って今の学校やってるのかなあ。
 僕は昔から学校の国語の授業とか読書感想文が嫌いだったんだけど、小学生の娘の教科書とか問題集とかみたりすると、あいかわらず、登場人物の気持ちを探すとか、答えは必ず本文の文章中に書いてあることから見つけることとかあって、これで再創造のセンスなんかできるわけもない。


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