読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

『百年の孤独』を代わりに読む

2024年07月12日 | 小説・文芸

「百年の孤独」を代わりに読む

友田とん
早川書房(ハヤカワNF文庫)


 ついに新潮社から、あのガルシア=マルケスの「百年の孤独」の文庫版が出た、というのは出版業界的に大きな話題だったようである。
 世界的な名文学でありながらこれまでいろいろな権利の関係で文庫化が為されなかったらしい。

 
 「百年の孤独」は、その難解な展開と、複雑極まる登場人物たちによって、ラテンアメリカ文学の代表作だけでなく、現代文学の象徴のひとつに数えられている。曰く「マジックリアリズム」。その影響はわが日本でも、阿部公房や筒井康隆や、さらには椎名誠、森見登美彦榎本俊二にまで及んでいる。

 だけど、御多分にもれず、僕も「百年の孤独」は学生時代に早々に挫折した。第3章までもいけなかったかもしれない。

 おそらく、そんな読者が多かったのだろう。文庫化された「百年の孤独」は、かつてのリベンジとばかりに多くの人が買ったようで、あっという間に品切れになってしまったそうである。

 最近の僕は難解本の読破に自信がなく、かつて玉砕した「百年の孤独」に、今また再び挑む気になれなかった。そんなときにひょいと見つけたのが本書である。


 「『百年の孤独』を代わりに読む」。妙なタイトルだ。阿刀田高の「●●を知ってますか」シリーズのようなものか、と思ったがそういうのとも違う。むしろ「代わりに読む」というところにこだわりと野心がある。本って「代わりに読む」ことなんてできるの? という哲学的問いで、パラパラめくると80年代のテレビドラマやバラエティ番組などの写真がじゃんじゃん出てきてなんじゃこりゃと思う。つまりあらすじを追いながらも著者である友田とん氏の脱線につぐ脱線なのである。
 だけど、このなんじゃこりゃ感こそが、「百年の孤独」を「代わりに読む」、つまり追体験そのものなのだろうと妙に納得して読んでみることにした。


 読んでみて、これでも「百年の孤独」は難解であったが、でも全体的にどんな雰囲気であるかはなんとなくわかった。著者の脱線に次ぐ脱線も、このはぐらかされたような感覚自体が「百年の孤独」そのものだといってさしつかえない。こういうのをなんというのだろう。パロディでもないし、パステューユでもない。もちろん読書ガイドでもない。本書でもその驚異的記憶術に著者が驚いたとされるタモリは、まだ売り出し中のときに有名人のモノマネをしていた。それは「形態模写」ではなく「思想模写」と言われた。「モノマネされた人が実際にそう言った事実は確認できないが、いかにも言いそうなことをやってみせる」という芸である。令和の芸人はみんなやるようになったが、タモリの当時のモノマネは芸術的とすら言われていた。この「『百年の孤独』を代わりに読む」もそれに近いものかもしれない。そのままでは難解すぎてついていけない「百年の孤独」を、なんじゃこりゃの読後感そのまんまに食いやすいもので再編集している。つまり「読後感模写」。

 そのような「読後感模写」を再現できていれば、それは「代わりに読む」と言えるのだろうか。
 著者によれば、「代わりに読むことは結局できない」という結論だ。読みながら頭の中で展開されるイメージや妄想や脱線を、完全なまでに第三者に移植することはできない。であれば「代わりに読む」はできない。当たり前と言えば当たり前である。

 だけど、本書の存在価値はそんな陳腐な結論ではないと思う。そもそもなぜ「百年の孤独」だったのか。「カラマーゾフの兄弟」でもなく「失われた時を求めて」でもなく、なぜ「百年の孤独」だったのか。


 著者は、「代わりに読む」=「『百年の孤独』を読む」という結論に至っている。百年の孤独を読むことは、主人公級のひとりであるアウリリャノに代わって物語の舞台であるマコンドの興亡の歴史を読むことだったのだ、としている。

 そうかもしれない。
 だけれど、僕は「百年の孤独」というタイトルそのものに着目したい。マコンドという都市の勃興と消滅を描いた百年間の物語。その中で次々と登場する似たような、あるいは同じ名前の登場人物たち。彼らは突然姿を消したりとつぜん登場したり、街を去ったり戻ってきたり、産まれたり殺されたり、殺されたのにまた何事もなく出てきたり、愛し合ったり憎しみ合ったりする。だけれど、けっきょく彼らはどこまでもすれちがっていて孤独だ。わかりあえない関係の中でマコンドの百年の歴史は過ぎていく。いや、こんな収束がはかれるような文学ではないことは百も承知だ。
 だけど、僕は群像劇のようでいながら、けっきょくどいつもこいつも誤解と無理解のなかで孤独なのだ、というのが本書を読んで痛感した。

 そうすると、本書著者の脱線に次ぐ脱線もまた、孤独の脱線である。彼が拾う脱線はどれも無理解やすれ違いや信じられなさからおこるエピソードばかりだ。そして、この脱線の真の面白みのツボさえも著者にしかわからない。本人が一番盛り上がっている。だけれど、それが世の中の真実なのだと思う。他人のことはどんなに近しい仲でも本質的にはわかりあえない。「わかりあえないことから」を書いたのは平田オリザだ。この講談社新書は名著のひとつだと思うが、人と人とはわかりあえない。人は本質的に孤独である。
 しかも、このマコンドという町は消滅する。人々の記憶から消える運命にある。

 メキシコらしきラテン世界を舞台にしたディズニー映画「リメンバー・ミー」では、人は二度死ぬ、という格言が何度も出てくる。一つは実際の死、もう一つはその人が忘れ去られる事を指す。

 世界中の大多数の人間は、忘れ去られる。百年より前に亡くなった人間でいまだに記憶されている人は、全世界人口のほんのわずかであろう。マコンドはそのような忘れ去られる宿命を描いてもいる。「百年の孤独」とは、群像劇内の各人の孤独でもあり、マコンドという都市自体の孤独であり、つまりは人も社会も忘れ去られる孤独の宿命にあるのだ。

 著者友田とん氏が、「百年の孤独」を代わりに読む、という難解にして困難なチャレンジを続けたのは、A子さんなる女性の「まだ読んでいるんですか?」という一言だという。そのA子さんはもう長いこと会っていない。著者はA子さんを忘却しないことに努める。A子さんをわすれたとき、著者にとってA子さんは死んだことになる。著者はまたひとつ孤独になる。「百年の孤独」を代わりに読むのは、孤独への抗いなのだった。



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傲慢と善良 (ややネタバレ)

2024年07月01日 | 小説・文芸
傲慢と善良 (ややネタバレ)
 
辻村深月
朝日文庫
 
 
 どの本屋にいっても平積みされている。映画化も決定しているとのことで、そんなに面白いのかと思って手に取った。
 謎解きミステリー・昨今の婚活事情・いわゆる恋愛ストーリー・東日本大震災など、いろいろなものが盛り込まれているが、ここでは母娘の呪縛について考えてみる。
 
 
 「傲慢と善良」というのは、英文学として名高い「高慢と偏見(Pride & Prejudice)」のもじりであることは明確だ。
 「傲慢」とは私は何もわかっていて絶対に正しい、という肥大した自己愛であり、「善良」とは世間様に従順、すなわち誰かがなんとかしてくれる、という甘い考えに疑いを持たない態度だ。「傲慢と善良」。英語ならば「Egoism & Naive」といったところか。日本語でナイーブというと繊細さを意味することが多いが、本来は「世間知らず」「騙されやすい」といったネガティブな意味がまとっている。
 
 「毒親」という用語が使われるようになって久しい。とくに最近は母親と娘の関係の病的なこじれが注目されることが多いように思う。母親からすると、自分の体の一部をちぎって自分の体内から出てきた同性の存在は、どうしても自分の裁量が許されるもの、と本能的に思ってしまいがちなのだろう。娘を完全に独立した別個人としてみなす近代倫理を全うするにはそうとうな理性的配慮ができる脳味噌を所有していなければならない。
 この小説では、群馬は前橋から上京した32歳の真実と、その実母である陽子の関係性が物語の鍵のひとつとなる。傍から見れば陽子の暴走は歪みまくっているように見えるが、現実の世にも程度の差こそあれ、このような関係の母娘はかなり多そうである。そして、これは令和の今日に限る話ではなく、時代を問わずかなり普遍的な関係なのではないかとも思う。陽子もまた、この群馬の地で、その実母から似たような支配を受けてきたということは想像に難くない。
 
 この母娘問題のやっかいなところは、娘が、実母の異常になかなか気づかないことである。それどころか、真実の場合はなんだかんだでそれなりに居心地よく実家生活を送ってきたらしいことがわかる。大学の同級生や職場の同僚の存在から自分があちこちで不適応を起こしていることに気づいて自信を失っていくが、実家の居心地の良さのために自分自身を矯正しなければという切迫は感じない。こうして彼女の中のエゴとナイーブは肥大化していった。「自己肯定感は低いのに、自己愛は高い」真実はこうしてできあがっていった。
 
 その陽子も実は「自己肯定感は低いのに、自己愛は高い」ことを真実の婚約者である架に指摘されている。つまり、母娘の関係はこの「自己肯定感は低いのに、自己愛は高い」女性を再生産していく、という宿命が見て取れる
 
 
 もちろん、世の中の娘のみんながみんな、真実のようになるわけではない、この小説でも真実の姉である希美は、母親とは違う世界観の中で立派に生きている。
 
 真実と希美を分けた決定的な違いは「反抗期」だったのではないかと思う。
 
 この小説では、真実の実家である前橋を出た女性・出なかった女性という区別をする箇所があるが、要するに親に反抗して地元を飛び出た人と、従順に留まった人と見ることもできる。
 
 親というのは、どうしたって自分が生きてきた時代の価値観・狭い世界観・狭い常識をセオリーとして是非を判断しがちだ。認知バイアスと言ってよい。それを娘の人生に敷衍しようとする。どの時代の親も多かれ少なかれそういうところはあるだろう。しかし、時代は確実に前に進んで変容していくので、親の価値観と同時代を生き抜く知識意識は必ず齟齬を来す。これをしないためには親側に強力な自制心と分別、現代の情報収集能力と同時代解釈力が求められると言ってよいが、脳味噌の構造からしてもともと無茶な要求であるとむしろ思ったほうがよい。
 
 で、あるならば「親に反抗する」というのが、ある意味で子どもに必要とされる生き延びるための本能であろう。姉の希美はことごとく反抗したことで自立生存を勝ち取ったのだ。本格的反抗は、第2次反抗期から始まる。
 妹の真実は、この第2次反抗期がなかったのではないか。
 
 
 最近の子どもは反抗期がない、という話をときどき聞く。親も強圧というよりはフレンドリーに接するので子どもに反抗の気分が沸かないらしい。こと母娘はこの関係になりやすい。しかしこれはかえって事態をややこしくする。母親は一見フレンドリーに娘に接してくるが、その中身はやはり親の世界観と価値観であるから、実際には同時代を生き抜く上での齟齬が潜んでいる。反抗の機会がないぶん、それは娘の精神形成に無抵抗に入り込んでいく。そして真実のようになる。気づいたときはいろいろなものをこじらせてしまった後である。
 
 本当ならば、希美のようにア・プリオリに「なにかおかしい」「なにかちがう」「よくわからないけど従いたくない」という防衛意識が必要なのである。親がそうである以上、子どもは反抗しなくてはならない。母親は無意識・無自覚的に支配しようとするので、娘は明示的・自覚的に反抗していかなければならない、ということになる。
 
 
 この小説は他にも象徴的な女性たちが登場する。真実のアンチテーゼとして嘘と悪意を隠そうともしない架の派手な女友達。「勝ち組(この言い方そういや聞かなくなったな)」である架の元カノ三井亜優子や、真実の見合い相手だった金井の現妻。子どもを実母のところに残して社会活動に精を出すヨシノさん。台湾からの留学生ジャネット。
 おそらくは彼女らに共通するのは刺し違える覚悟で勝ち取ったものがある、という迫力だ。ときには肉を切らして骨を断つ覚悟で踏み込まなければ、不条理な支配に屈してしまうのが世の中の摂理。花束みたいな恋ばかりじゃないのだ。
 

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花束みたいな恋をした

2024年06月17日 | 小説・文芸
花束みたいな恋をした
 
原作・脚本 坂元裕二 著 黒住光
リトルモア


 「なぜ働いていると本が読めないのか」。売れているようである。完全にタイトルの勝利であろう。
 その本の中で著者が何度も引き合いに出して感情移入を隠そうもしていない大絶賛映画がこれだった。そうか。そんなに面白いのか。映画館の予告編で観たときは、菅田将暉と有村架純という二大売れどころの恋愛ものという先入観が手伝ってとくに興味も期待もなかったのだが、ここまで推されてしまっては観ないわけにはいかない。
 たまたま我が家で入っていたU-NEXTのラインナップにあったので観てみた。映画だけでなく、ノベライズ版も読んでみた。
 
 なるほどー これは、アレだな。なんと70年代フォークソングの世界が、ちょっとのチューニングで、実は令和のZ世代にも十二分に通用できるということなのだ。
 
 たとえば定番「神田川」。たしかに、この映画の主人公である麦くんと絹さんは河川を見下ろすアパート(マンション?)の一室で同棲しているし、麦くんはイラスト描きをたしなむ。二十四色のクレパスでなくても絹さんの似顔絵を描くことはあっただろう。もちろん今どきのアパートは風呂付だから、横丁の風呂屋に出かけることはないが、このお二人が駅からの帰り道をカフェで買った飲み物を手に帰途につくシーンは、赤い手ぬぐいをマフラーにして歩く情景を彷彿とさせる。そして「若かったあの頃、何も怖くはなかった」と回顧するのである。
 「神田川」だけではない。この映画は「22才の別れ」の世界でもある。「風」という名のフォークソングデュオがうたった名曲だ。17才で出会ったカップルが5年の月日を経て長すぎた春だったと別れる内容の歌である。誕生日にローソクをたてていくシーンが聞きどころ。麦くんと絹さんの同棲もおよそ5年間。そして最後は泣きながら別れを決意し合う。この5年間が楽しかったと。
 ちなみに、麦くんはフリーターをやめる決心をして就職活動を行う。で、そのために髪型をあらためる。これは「いちご白書をもう一度」という曲にそういうフレーズがある。歌っていたのはバンバンというフォークバンドで、作詞作曲はなんとあの松任谷由実だ。
 
 こういうストーリーテーリングは、むしろ70年代の「政治の季節」が終わった頃の空気感を歌ったものだと思っていた。いつの時代でもヒット曲というのは時代の空気と呼応しているものである。だけど、真の名曲というのはやはり普遍性があるんだな。道具立てさえうまく時代の調整をすれば昭和も令和もいけるのである。「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」の内容も踏まえると、「政治の季節」が終わって幾星霜、ここにファスト教養の素地ができあがったのであろう。

 ということは、80年代のシティポップでもいけるのだろうか。あれこそは当時の同時代性空気をしてビンビンに反応したものだと思っていたのに、ここにきて再注目されているのはなにか令和の当世にも感じるものがあるのかもしれない。杉山清貴の「二人の夏物語」で出会い、大沢誉志幸の「そして僕は途方にくれる」で別れ、大瀧詠一の「君は天然色」でふっけれる、あたりのエッセンスで物語をつくって、令和風に味付けしたらそれなりにいけるんじゃないか、と思う。
 
 
 で、そういう御託はいいから、わざわざノベライズ版まで手にした「花束みたいな恋をした」はどうだったのさ?
 
 ここに20代の、そうだな、大学生の最中の僕がいたら、鑑賞後(ないし読後)、落ち込んで3日ほど寝込んでしまったかもしれないな。
 僕のまわりにも大学時代に彼女や彼氏とつきあっていたものの、卒業後に就職を経て最後までゴールインしたカップルは皆無ではなかったか。いや、ゴールインなどと言うまい。社会に出て1年以上もったカップルはいなかった。そんな彼らにこの映画はいたく刺さるだろう。
 だけど、僕は学生時代にそもそもそんな色めいた話はほとんどなく、就職活動後にようやく付き合い出した女性とは卒業までももたずに去られてしまった。よってこの映画のスタートラインにも立てなかったことになる。
 映画の淡い幻想と己のシビアな現実のギャップにもだえるのも、この手の映画や小説の一興だ。
 

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図書館の神様・幸福な食卓・強運の持ち主

2024年06月01日 | 小説・文芸

図書館の神様・幸福な食卓・強運の持ち主
瀬尾まいこ


 瀬尾まいこは、今まで2作品ほどここにとりあげているが、最近さらにまとめて3冊ほど読んだ。
 で、彼女の作風というかテーマというのがおぼろげながら見えてきたのでここに書いておく。いまさらここに書かなくても周知の事実なのだろうけど。

 この人は、お約束の役割分担規範というものに疑問を持っている。それがとくに顕著なのが各賞受賞の「幸福な食卓」であろうが、ここでは家族構成員の役割、「父親」という役割、「母親」という役割、「息子」という役割、「娘」という役割の解体が試されている。単なる解体ではない。解体しても「幸福」は維持できる、という挑戦がある。話題作だった「そして、バトンは渡された」も同様と言えるだろう。

 「強運の持ち主」では各連作において占い師を狂言まわしにしながら父親や母親というものをいじくっている(ついでに「占い師」のステレオタイプもいじくっている)し、「図書館の神様」や「あと少し、もう少し」では、学校の先生というもののステレオタイプを剥ごうとしている。他の作品も多くはそうなんじゃないかと予見している。

 ものの情報によると、瀬尾まいこは、長いこと学校の先生をやっていたという。学校とか先生というのはきわめて役割分担意識を強く醸成する環境なんだろうなとは想像に難くない。「先生」として期待される立ち振る舞い、「生徒」として要求される言動、さらには生徒の保護者である「母親」「父親」のカリカチュアされた姿に日々さらされることだろう。

 だけど、こういう規範はすぐに手段と目的が逆転する。父親らしく、母親の義務として、先生なのだから、学生として、としてあらねばならない規範に縛られるようになる。瀬尾まいこは教師生活の中でこの問題意識がどんどん大きくなっていったのではないか。要は幸福であれば、成長できれば、何かがわかれば、誰がどのように作用しようともいいのではないか。いや成長しなくっても、生きててよかったと思えればそれはそれでいいのではないか。
 
 しかし、それでは単なるアナーキーイズムである。アナーキーであることはこれはこれで手段と目的が逆転しやすい。
 瀬尾まいこの作品は、役割分担規範に縛られるのは閉塞感を生むが、それはそれなりに良いこともある、というバランス感覚はありそうだ。「父親」だからこそできること、「母親」だからこそ説得力があること、「先生」だからこそ動けること、「生徒」だからこそ許されること、というものは確かにあって、それはそれでうまく使えばよい。このあたりの上手な感覚をうまく使えばよい、というのが瀬尾まいこの作品の真骨頂なのではないかと思う。
 瀬尾まいこの全部を読んだわけではもちろんないけれど、全体的に、女性キャラにまじめだけど無感動の人が多く、男性キャラに変に超越しちゃった悟った人が多い印象を与えるが、これさえ「男性」「女性」という性別役割分担規範をあえて批評的に再構成させたものなのかもしれない。


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水車小屋のネネ (ネタバレ)

2024年05月10日 | 小説・文芸
水車小屋のネネ (ネタバレ)
 
津村記久子
毎日新聞社出版
 
 
 ソーシャル・キャピタルという言葉がある。
 キャピタル(capital)とは「資産」にほかならないが、ソーシャルキャピタルは、社会的資産で、つまりは人脈のことである。
 普通は「資産」というと、「お金」を想像するが、お金でなくても生存を支える資産はありえる、という思想がここにはある。
 「お金」というものはクレジットの一種だが、クレジット(credit)とは「信用」と訳すがごとくで、「信用」がお金でなくても形成できるのであれば、物事のやりとりや交換の媒介になるものが「信用」できるものであれば必ずしもそれはお金でなくてもよい。クレジット(credit)は、お金(money)でなくても、技術(skill)でも、人脈(Social capital)によって築くことができる
 
 
 この小説はいろいろ人物が登場するが、主人公は誰かと言えば、律という女性になるだろう。初登場では8才であった。律の姉である理佐が、進学するはずだった短大の入学費を実母に使い込みされ、家出(理佐いわく独立)するところから物語ははじまる。実母の再婚相手は胡散臭い男で、律への虐待のおそれを感じた理佐は、律も実家から連れ出した。
 その後もこの実母と再婚相手は、姉妹を連れ戻そうと追いかけてくるがそれは全て相続をめぐる金目当てであり、金の目途ができると姿を現さなくなる。まさに「金の切れ目が縁の切れ目」である。
 
 その後、姉妹はとある山間の町で古いアパートを借りて新生活を開始する。理佐は賄いつきの蕎麦屋で働くが、お金には苦労する。新生活当初は、冷蔵庫も扇風機も暖房も買えなかった。高校を出て就職した律は、農作物をやりくりする地元の商社(農協のことか?)に就職するが高卒故に安い給料に直面する。しかし、大学に進学するだけの準備金はなかった。ヨウムのネネは思い出したように貧窮問答歌をうたう。姉妹だけではない。外国人実習生は低賃金待遇のために職場を脱走し、母子家庭の中学生である研二は役所でもらった給付金を不良にとりあげられそうになる。
 金がないのは首がないのと同じ、と言ったのは西原理恵子である。現代の日本社会においてこれはかなりの真実を突いた言葉であろう。
 
 しかし、律と理佐の姉妹は貧乏に窮した毎日というわけでもなかった。この地の善意という信用経済に支えられていく。アカデミズム風に言えば贈与経済社会、あるいはついでとダメもとで支え合っている社会と言えるかもしれない。姉妹も、この地に流れ込む人々に当然のように親切を施す。それがまたこの地域社会をまわす。主人公である律や、律の姉である理佐をはじめとして、この物語には様々な人物が去来する。多くは肉親への絶望や消耗などの過去を抱えていたが、彼らはさまざまな交換によって互いに支え合って生きていき、希望を見出していく。
 そうして40年間という長い時間が経過する。
 
 主人公である律は、実の母親との決別のシーンで「貧乏でもいいの?」と投げかけられたが、プライスレスな信用社会で40年生きて、幸福な人生を確認した。「自分はおそらく、これまでに出会ったあらゆる人々の良心でできあがっている」。

 幸福とは何か?

 『私は人生をあるがままに受け入れる。人生とは多くの、より多くの幸福を内蔵しているものだ。たいがいの人は幸福の条件をまず考えるが、幸福とは人間が何の条件を設置しないとき、はじめて感じることができるものだ』

 これは20世紀の大ピアニストであったアルトゥール・ルービンシュタインの名言だ。律は幸福を定義せず、信じることをただやっていた。
 
 
 本屋大賞第2位ということだ。第1位の「成瀬は天下をとりにいく」が快活な成瀬あかりという個人への憧憬だとすれば、「水車小屋のネネ」は、静かな社会的つながりへの憧憬だろう。
 推定するにこの物語の舞台は木曽地方の小さな町だ。ここに憧れの桃源郷をみたのは僕だけではあるまい。比較的に長い小説で、そのわりにとくにドラマティックな起伏に富むわけでもないが、ずーっと読んで浸っていたい、そんな小説だった。


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推し、燃ゆ (ネタバレ)

2024年04月30日 | 小説・文芸
推し、燃ゆ (ネタバレ)
 
宇佐美りん
河出書房新社
 
 
 本屋大賞系の本を何冊か読んでいて、微温系のいい話は心いやされるのだけれど、もうすこしざらついたものも読もうかなと思って、芥川賞受賞の本作をよむ。ちょうど文庫化されたのだ。
 そしたら、想像以上にざらついていた。「コンビニ人間」の上をゆく虚無があった。
 
 主人公は女子高生、山下あかりによる一人称小説である。したがって語り手のあやつれる言語と知覚できる世界によって描かれるわけだが、彼女はなんらかの発達障害をかかえていることがその書きぶりからわかる。
 
 実は、さきごろ本屋大賞をとった「成瀬は天下をとりにいく」の主人公の成瀬あかりにも、発達障害の気配がある(同じ「あかり」なのは偶然か)。「コンビニ人間」の主人公である古倉恵子も同様だ。発達障害の人物を通して現代社会に見え隠れする異様や閉塞、あるいは希望の兆しをクローズアップさせる手法は和洋を問わず見かける。映画なんかでもよくある。
 これらを見ると実に人生の分岐点とは紙一重なものだと思う。うまく出会いや理解者があれば、その人が持つ特徴は良い方に作用するが、ちょっとタイミングや関与する人物がずれると社会の圧力の中で居場所を失う。(さかなクンを題材にした映画「さかなのこ」では、のん演じる「さかなクン」が最終的にはうまく人生が軌道に乗ったが、もう一人対照的にさかなクン自身が演じる「社会からはじかれた魚オタクのおじさん」というのが登場し、その紙一重が強調されていた)。
 本主人公のあかりは残念ながら社会と齟齬をきたしてしまっている。
 
 あかりの父母は目をそらす。父親はエリート系ビジネスマンでしかも海外赴任中、モラルを盾に本気で彼女のエンパシーを汲み取る気がない。母親は毒親に育てられた経緯があり、情緒不安定である。大人になってなお理想と現実の違いに打ちのめされ、うまくいかない毎日の、うまくいかないもののひとつに彼女を数える。あかりには姉がいて家族の中では理解者ではあるものの、母に気を使い、妹に気を使い、見ていていたたまれない。
 唯一の救いは、この家庭が経済面ではおそらく裕福なほうに属しているっぽいということだろうか。
 
 あかりの病症については、ご本人も認識しているようで、以下のような文章がある。
 
 ・肉体の重さについた名前はあたしを一度は楽にしたけど、さらにそこにもたれ、ぶら下がるようになった自分も感じていた。
 ・あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。
 ・働け、働けって。できないんだよ。病院で言われたの知らないの。あたし普通じゃないんだよ。
 
 病名がつくことは呪縛でもある。だから私はできないのだ、できなくてもいいのだ、というスパイラルに入っていく。どうしても脳味噌が言うことをきかない。体が動いてくれない。ただ、知識だけがどうやら自分のこれは異常らしい、ということを教える。感知し得ないことを知識としてだけ「あなたは実はそうなんだ」と植え付けられることが、本人にどのくらいの苦しみと絶望を与えるかは、本人以外はわかり得ないだろう。僕もわからない。
 
 「コンビニ人間」では、発達障害の弱点を無効にできる社会の場としてコンビニ勤務があてられた。一方、本小説ではそこにアイドルの推し活動が充てられる。
 現代の推し活動がいかなるものかは、本作にて密度濃く描かれていてひとつの目玉だが、ポイントはあかりをここまで推し活動に駆り立てるものはなにか、ということになるだろう。ここからさらにネタバレになる。
 
 
 彼女はアイドルグループに属する一人の男性、上野真幸の推し活にのめり込む。
 アイドル推し活にもいろいろあるようだが、あかりのそれは、対象者の解釈にある。そのためにひたすら真幸の世界に没入し、そこで感知するものをその表象から解釈する。真幸の取材コメントはぜんぶ把握し、真幸の映像情報はあらゆる角度で分析される。そして真幸の行為そのもののポジネガは評価しない。ファンを殴って炎上しようが、ふてぶてしい態度でインタビューに受け答えしようが受容する。もちろん、いい笑顔を見せたり、心にひびく歌声をきけば多いに嬉しい。が、微妙な表情や声の調子の変化にむしろ注目し、理解しようとする。つまり無限抱擁として真幸を推すことこそがあかりの最優先であり、そのあまりの極端な優先順位のため、ADHDの彼女は日常のことごとくを取りこぼす。終盤にむかえばむかうほど、この落差が破壊的になっていく。 
 にもかかわらず、最後は真幸の結婚と芸能界引退という残酷な現実をつきつけられる。
 だが、彼女を真に絶望に追いやったのは引退ではなかった。引退後は、これまで蓄積された記録を再解釈していく道が残されていた。物故したアーティストや著名人を生涯をかけて研究する行為そのものは珍しいものではない。おそらく彼女はそうするはずだった。
 
 あかりは、真幸が住むマンションの場所を突き止め、現地に向かった。マンションを外から眺めたとき、結婚相手の女性がベランダにTシャツを干すところを見た。
 あかりが目にしたのは、アイドルとしては終わったけれど、人としてはこれからも続く上野真幸の現実であった。そして、これからも続く「上野真幸」をそばでじっと見ることができる人物がいる、という事実であった。
 人に戻った真幸の進行形を推す活動はあかりにはもうできない。上野真幸はこれからも続くのに、その現在進行を推す術がないことにあかりは絶望するのだった。
 うまくいかない人生で支えだった背骨を失ったのだ。残されたののはうまくいかない人生だけだった。
 
 なぜあたしは普通に、生活できないのだろう。人間の最低限度の生活が、ままならないのだろう。初めから壊してやろうと、散らかしてやろうとしたんじゃない。生きていたら、老廃物のように溜まっていった。生きていたら、あたしの家が壊れていった。
 
 
 この物語には、もうひとつ注目点、なぜ上野真幸はファンを殴ったのか、というのがある。事件そのものは物語の冒頭で提示されているのに、その理由は最後まではっきりしない。真幸の解釈に全身全霊をそそいだあかりだが、この殴打のインサイトだけはシンパシーもエンパシーもできなかった。
 
 ここから僕の深読みを披露してみる。
 
 あかりが推していたのは、どこまでもアイドルの上野真幸だった。どれだけ膨大に記録を追跡しても、あかりが入手できたデータはアイドル稼業のそれだった。彼女の推し活というものが、アイドル稼業としての彼の清濁を併せのむ無限抱擁でいけばいくほど、彼がファンを殴打したときのその気持ちはつかめなくなる。殴打はアイドル稼業の輪郭の外にある行為だからだ。
 
 真幸が引退して、あかりは殴打の理由にすこし思い当たったようではある。殴打事件の真相を知ることは、上野真幸はどこまでも愛し通せるアイドルではなく、不器用な一人の人間だったという真実を知る地獄の入り口だった。しかも、よりによって殴打とは、上野真幸がアイドル稼業を滅茶苦茶にしてしまおうという行為に他ならなかった。
 ここにきてようやく殴打のときの真幸のインサイトがあかりに追いついた。上野真幸は、あかりが推していたアイドル稼業が苦だった。アイドルをもうやめたかったのだ。
 
 全てが虚無に帰され、あかりは空っぽになる。
 
 あたしはあたしを壊そうと思った。滅茶苦茶になってしまったと思いたくないから、自分から、滅茶苦茶にしてしまいたかった。
 
 人生の背骨を失った彼女は、最後に部屋で綿棒の箱を思いっきりぶちまける。
 
 
 この物語は、最後に少しだけ救いを見せる。それはぶちまけたのが、出しっぱなしのコップでも、汁が入ったままのどんぶりでも、リモコンでもなく、綿棒だったことだ。
 彼女は意図して「後始末が楽な」綿棒のケースを選んだのだ。
 綿棒のぶちまけは、自暴自棄ではなくて儀式だった。
 
 最後に、あかりはぶちまけた白い綿棒をひとつひとつ拾う。砕けた自らの背骨の骨拾いである。それは推し活をしていた私の骨拾いである。そしてその先にまだ拾うものがある。もともと放置されていた黴の生えたおにぎり、空のコーラのペットボトル。体は重くても四つん這いでゆっくり拾う彼女には、生きていく意思があった。

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我が心のジェニファー

2024年04月25日 | 小説・文芸
我が心のジェニファー
 
浅田次郎
小学館
 
 
 だいぶ以前のことだが、飛行機の車内に備え付けの機内誌を読んでいたら浅田次郎のエッセーが載っていた。
 浅田次郎は自他ともにみとめる「スパーマン」だそうだ。スーパーマンではない。スパーマンである。
 
 スパとは温泉のこと。氏は大の温泉好き、温泉の求道者なのだった。
 
 スパーマン足る者、1泊2日の宿泊で7回温泉に入るという! どうやったら7回も入ることができるのか。
 まずチェックイン早々に入る。温泉旅館のチェックインは15時頃が多い。早めの時間に投宿し、部屋に通されたらお茶菓子など目もくれず、まずは風呂に行くわけだ。露天風呂などは明るいうちに様子をみないと、暗くなってからでは景色がわからない。何種類も湯船がある宿なら全部試して、自分の好みを見つける。そして風呂から上がったら、部屋でごろごろするなり近所を散歩するなりして時間をつぶす。
 そして夕飯前にもう一度入ってあったまっておく。夕飯は18時とか19時であることが多いので、風呂から上がったらすぐに食事だ。風呂上がりだからビールや冷酒が飲みたくなる。
 旅館の食事は量が多い。腹がくちくなったところで食後にまた入る。満腹時の入浴は気持ちいいものである。旅館ならば部屋にあがるとだいたい布団が敷いてあるが、まだまだ夜は長いので、部屋で飲んだりあるいはテレビなど見たりして過ごす。で、寝る前にもう一度入る。この時間は空いていることが多い。男女入れ替えになっていることもある。
 そして気持ちよく寝るわけだが、普段と違う場所、普段と違う枕、普段と違う気配であるから、寝つきはそんなに深くなくてだいたい夜中に目が覚める。お酒を飲んだ後でもあるし、乾燥していて喉が渇いて目が覚めることもある。で、この夜中にまた風呂にいく。深夜の風呂はだいたい貸し切りである。露天風呂も独り占めできる。
 翌朝、目が覚めたら朝食の前にもう一度行く。朝風呂は気持ちよいものである。露天風呂などは朝日が斜めに入り込んでくるから眩しい。これで目も覚めてくる。
 朝食を済ませるとチェックアウトまでもう1時間あるかないかであることが多い。部屋の片づけなどはじめるが、最後にもう一度さっと温泉に入る。このときに浴衣から普段着に戻ったりする。そしていよいよチェックアウトだ。
 
 これで都合7回である。
 
 浅田次郎のエッセイにこんなくどくど7回の内訳内容が書いてあるわけではない。ではなぜ僕がここまで克明に描写できるかというと、なにを隠そう僕(と妻)も温泉宿に行ったら7回入るからである。なんと! 我々はスパーマンだったのだ! と、このエッセイを読んだときは隣席にいた妻と盛り上がったのだった。
 
 しかし、これをして「スパーマン」という用語を編み出すとはさすが手練れの作家である。このあまりにも出来過ぎなネーミングに、機内誌のエッセーなんかに一度出すだけはもったいなさすぎると思って「浅田次郎 スパーマン」で検索をかけたら、この小説がヒットした。やはり当人も「スパーマン」は気に入っているのだろう。
 
 
 この小説は、日本軍と戦った軍人の祖父を持つアメリカ人男性が、日本通のフィアンセの薦めで日本を一人旅し、日本のあれこれに驚き関心し感銘を受ける、という内容だ。刊行されたのが2015年というから、ちょうど中国人インバウンドの爆買いとかが話題になったころである。
 
 作者は外国人が日本旅行で驚き喜ぶポイントをよく調べている。あまりにも狭すぎるビジネスホテルがやがて母の胎内に回帰するかのような安寧の錯覚を与えるとか、繊細ではあるけれどボリュームに欠ける日本食に物足りなさを覚えていたところにお好み焼きと串揚げで大満足するとか、我々日本人には何も感じるところがない東京の大地下街の迷宮に大興奮するとか、どうみても雑魚にしか見えなかったホッケの開きを焼いたのを食べて開眼するとか、超高頻度に発着する新幹線の正確性に驚愕するとか、今日外国人旅行者が喜々としてSNSにとりあげているネタをしっかり先取りしている。アメリカ人になりたい女性が登場するのもなかなか皮肉が効いている。
 
 日本のインバウンド隆盛が本格化したのは2010年代中頃だったが、当初において外国人観光客を受け入れる日本側は、外国人にウケるのはどうせ富士山に桜に寺社仏閣、思慮深い西洋人にはヒロシマナガサキ、と定番をおさえて、刺身、天ぷら、寿司、すき焼きを定食のようなつもりで出せばよいと考えていたように思う。東京(TDL付)ー富士山ー京都ー大阪のルートなんかはゴールデンルートなんて称していた。
 
 しかし。蓋を開けてみれば、意外にもインバウンド客はかなりニッチな地域やサブカルなコンテンツまで分け入っていく。京都の大混雑は社会問題化しつつあるが、洛内だけでなくけっこう奥京都のマイナーな寺でも外国人の姿を見かける。内陸の地方都市に行くと季節を問わず外国語を話す小グループに出会う。観光施設でもなんでもない商店街や小路、なんてことない山里や川べりに一人たたずむ外国人旅行者を見かけることも珍しくはなくなってきた。
 2003年にソフィア・コッポラ監督の映画「ロスト・イン・トランスレーション」が公開されたときは、日本のあまりの異文化具合と日本語のちんぷんかんぷんに途方にくれる主人公ボブ・ハリスがとにかく印象的だったのだが、そこから20年もたてば、日本は攻略しがいのあるめくるめくワンダーランドとして世界の人気観光国になってしまったのだった。さすがにここまで定番旅行先になるとは我が心のジェニファーも想像できなかったに違いない。
 
 で、肝心のスパーマンだが、この小説では別府温泉にて登場する。街全体が湯煙っぽいこの地はたしかに外国人にとって魔境みたいなところであろう。グリーンミシュランでも三つ星をとっている。この地で、主人公は一人のオーストラリア人に出会う。彼こそが20年日本の温泉をさまようスパーマンだ。坊主頭で作務衣姿の彼はこの小説に登場する人物の中でもっとも浮世離れしているが、彼の口から語られる温泉の美学と哲学は、まんま作者浅田次郎の持論なのだろう。温泉を愛するメンタリティの秘訣が、西洋倫理に苛まされる主人公に解脱のヒントを与える。物見遊山のSeeingでも、異文化のExperienceでもなく、裸で老若男女と自然の恵みの中で一体化して感知するそのMindfulnessこそが、極東の地日本で得られる醍醐味なのであった。
 よく、インドを旅すると人生観変わるというが、連中からすれば日本旅行はけっこう人生観を揺るがす可能性を秘めているのかもしれない。日本政府観光局もそこらへん意識してディスティネーション開発をしてみてはいかがだろうか。温泉は7回入って初めて目の前に新たな地平が開けるのである!

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成瀬は信じた道をいく (ネタバレ)

2024年02月06日 | 小説・文芸
成瀬は信じた道をいく
 
宮島未奈
新潮社
 
 これは続編出るなと思ったらやっぱり出た。嬉しい。
 
 前作「成瀬は天下を取りにいく」の感想では、「この人変わっているなーと思ったら、その人とは受け止めて仲良くしたほうがよい」ということを書いた。
 これは僕が持っている人生訓のひとつである。
 
 本作にも僕の人生訓に触れたものがあった。
 「審査員特別賞狙い」と「何になりたいかではなく何をやりたいか」だ。
 
 「審査員特別賞狙い」という概念を言語された文章に初めて出会ったのは「生き延びるための作文教室」という本だ。初めて読んだ時、それまで僕がぼんやりと思っていたことが的確に著されていて膝を打った。読書感想文でねらうべき賞は大賞でも参加賞でもなく「審査員特別賞」である、とこの本は説いている。 

 「大賞」をとる作品とは、ある種のオトナの期待に応えたものであることが多い。もちろん他を引き離すぶっとんだものゆえの大賞受賞だってあるが、オトナ、即ち時の権威の予定調和にかなったものが大賞作品には備わっていることのほうが確率論的には多いという肌感がある。そのオトナの期待にどんぴしゃりにこたえることだって大いなる才能だが、ではその「オトナ」なるものが、これからの未来を切り開く上で十二分に参考になり指標になりえる連中かどうかとそれは別問題である。審査員を務めるような人は多かれ少なかれ現世で成功した人だ。しかし、現世で成功する人と次代を切り開く人は必ずしも同じではない。むしろ相反することだってあるに違いない。例の松本人志がM-1グランプリはじめ各種の審査委員長を独占していることの弊害を中田敦彦が訴えたことがあったが、これはあながち見当違いの指摘ではないのである。
 そこで登場するのが「審査員特別賞」だ。一人か二人の審査員に強烈な印象を残す出来具合、これがつまらぬオトナの諸事情に染まらず、かつ自分勝手に堕しているわけでもない、未来の勝ち残りにつながる突破口なのである。この話は読書感想文に限らず、敷衍できる思想なのだ。
 なんてことを僕はずっと思っていた。いま思うと、この価値観を最初に与えてくれたのは、テレビで観ていた「欽ちゃんの仮装大賞」だったような気がする。大学生になっても会社員になってもなんらかの賞とかアワードとかその類のものに参加するはめになったときはいつもそういったなんちゃら賞を狙っていた。

 もちろん、こんなのは大賞なんぞとったことがない僕の負け惜しみバイアスが大量にあってのことだけど、だからそれを言語化した文章に出会ったときは我が意を得たりと思ったのである。
 
 話が長くなった。まさかこの成瀬シリーズで審査員特別賞ネタが出るとは。以下はネタバレである。

 びわ湖大津観光大使になった成瀬あかりは、同じく観光大使になった同僚の篠原かれんと、観光大使ー1グランプリに挑戦する。最初は大賞を狙うべく、減点法に強いというか、みなが期待するイメージ通りの観光大使の立ち振る舞いとしてその完成度を磨き上げようとする。
 だけど色々あって、それは本当に2人がやりたかったものではなかったことに気づく。本番直前で2人は軌道修正して本来彼女らがやりたかったスタイルで審査に挑んだ。成瀬は例の成瀬構文でガイドを行う。篠原に至っては家族にも友人にも封印していた鉄子ネタ、つまりマニアックな鉄道の蘊蓄を審査員やギャラリーの前で解禁する。
 その結果が「審査員特別賞」である。
 
 そう。「何になりたいかではなく何をやりたいか」。前者は「大賞狙い」、後者は「審査員特別賞狙い」の道を拓く。成瀬と篠原は、観光大使ー1グランプリ大賞のホルダーになりたかったのではなく、成瀬構文や鉄子スタイルの観光大使をやりたかったのだ。どちらを狙うのが正しくてどちらかは邪道とか言う話ではもちろんない。どちらにモチベーションを抱くかは人それぞれだろう。ただ、本書を読んで、僕は何をやりたいかを優先させて審査員特別賞を狙っていたなと強く思い出した。それはそんなに悪くない審美眼だったと今にして思う。
 
 
 本書の最終章「探さないでください」の語り手は成瀬の幼なじみである島崎みゆきだ。前作の最終章では、成瀬が事実上の語り手となり、島崎不在による成瀬の不安と混乱が描かれていた。今回はその逆で、その島崎不在のあいだに成瀬が意外にも新しい仲間と新世界を構築しているのを知って、島崎は動揺する。このときの島崎の気持ちがわかる人は多そうだ。
 しかし、やっぱり成瀬にとって島崎は唯一無二の「友達」であった。案外に人は、誰との出会いが今の自分をつくっているか、自分は何でできているか、がよく自覚できているものである。天下を取りに信じた道をいく成瀬も、それをずっと見ていてくれたのが島崎だということは、島崎本人以上にわかっているのだろう。島崎は、成瀬のなりたいものではなく、成瀬のしたいことに常に付き添ってきたのだ。この意味するところを噛みしめたい。
 

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続 窓ぎわのトットちゃん (ネタバレ)

2023年10月30日 | 小説・文芸
続 窓ぎわのトットちゃん (ネタバレ)
 
黒柳徹子
講談社
 
 「窓ぎわのトットちゃん」を初めて読んだのは小学3年生のころだっただろうか。学校の授業だった。読んだのではなくて、学校の先生が朗読してくれたような気がする。
 最初のうちはトットちゃんのとぼけたなりふりの描写やトモエ学園のユニークな授業や行事が面白くて、教室のみんなも笑っていたのだが、そのうちに同級生が亡くなったり、愛犬が失踪したり、日本は太平洋戦争に突入するなど、物語は悲しみを帯びるようになっていった。そしてトモエ学園は空襲で焼けてしまい、トットちゃんは疎開のための夜行列車に乗って揺られるところで物語は終わる。当時は子供向けのコンテンツしか接してなかったから、こんな終結で閉じる物語は初めてで、虚無の真ん中に放り出されるような気持ちがしたものだった。
 
 このトットちゃんの正体は「黒柳徹子」である、というのは当時の僕も知ってはいたはずだ。当時の我が家では歌番組「ザ・ベストテン」を毎週みていたから、司会の黒柳徹子はしっかり認識していた。しかし。知識としては知っていても、テレビ画面の向こうにいる玉ねぎおばさんがトットちゃんと同一人物であるというリアリティはまったくなかった。物語に出てくるトットちゃんのイメージは、挿絵にあるいわさきちひろが描くこどもの絵以外にはありえなかった。「窓ぎわのトットちゃん」に挿されたいわさきちひろの絵は、実は描きおろしではない。既発表の作品の中からそれらしいものを集めたものだ。しかし「窓ぎわのトットちゃん=いわさきちひろ」のイメージは分かちがたい。なにしろ大ベストセラーかつ大ロングセラーである。大方の日本人がそうだったろうと思う。
 
 
 そんな「窓ぎわのトットちゃん」の続編が刊行されたというのを新聞広告か何かで見た。出版業界的には大ニュースだったはずだが、めぐり合わせの問題か書評や評判に接することも特になかったので、僕はすぐに刊行の事実を忘れてしまい、そのまま数か月経ってしまった。
 
 ところが先日、書店をひやかしで覗いてみたら、平積みであのいわさきちひろの絵が飛び込んできた。その瞬間「窓ぎわのトットちゃん」の世界がよみがえってきた。
 東北にむかう満員の夜行列車の中でうずくまっていたトットちゃんがその後どうなったのかは気にならないではなかった。むしろ幼少期に味わった読後感の記憶としてはトラウマのようなインパクトがあったと言ってもよい。平積みしていた「続 窓ぎわのトットちゃん」を掴んでレジに持っていった。
 
 
 続編は、前作の最終回から少し時間を巻き戻してスタートする。疎開にむかう列車に乗るところで実はトットちゃんは家族とはぐれてしまうのである。疎開先で無事に家族とは再会できたものの、その後も苦難と工夫の日々がある。父親は徴兵されたまま音信不通であり、一家を支えるためにトットちゃん母は超人的な奮闘をする(黒柳朝。この人も徹子に負けないほどのなかなか凄い人で「チョッちゃん」という名でNHKの連続ドラマになったこともある)。銃後の生活や戦後すぐの混乱がどんなであったかという記録という意味でも貴重だが、一方でトットちゃんはあいかわらずのトットちゃんで、定期券を川に落としたり、線路にぶらさがったりする。村にやってくる旅芸人の一座を最前列で眺め、座長にスカウトされそうになったりする。いわさきちひろの挿絵にあるような、夢幻的な子どもの世界が醸し出される。
 
 しかし、戦後復興の日本がそうだったように、事態は加速度的に変化していく。トットちゃんも疎開先から東京に戻って香蘭中学校に通うようになる。映画館に通い出し、オペラに夢中になり、さらには音楽学校への入学、NHK専属女優のオーディション合格、芝居のお稽古、そして様々なテレビやラジオの出演となっていく。ラジオドラマの吹込みの仕事でその独特のしゃべり方や声の大きさを先輩や周辺から指摘されるあたり、むしろ我々の知る黒柳徹子である。そう「続 窓ぎわのトットちゃん」は、トットちゃんから黒柳徹子に変貌していく物語なのだ。渥美清や中尾ミエといった我々もよく知る名前の人物と交わりだし、紅白歌合戦の司会などにも抜擢される。あいかわらず人称はトットちゃんだけど、もういわさきちひろのトットちゃんではない。きりっと前をみて、その旺盛なサービス精神と直情的なひらめきでマシンガントークする黒柳徹子その人である。牧歌的ないわさきちひろの挿絵に代わってはつらつとしたご本人の写真が挿入される。前作最終回で心細く夜行列車でうずくまっていた少女は、本作最終回では芝居の留学のために洋々と国際線の飛行機に乗り込む。トットちゃんはもう窓ぎわにはいない。日本のテレビ放送普及のヒストリーと足並みを揃え、全国のテレビ画面に映るその人になったのだ。
 
 
 だいぶ以前だが、いちど人の紹介でテレビ番組「世界ふしぎ発見」の収録現場を見学する機会があった。1時間弱のクイズ番組だが、実際の収録時間はもっとずっと長くて3時間くらい要していた。ちょっと撮影してはとめて、ちょっと撮影してはとめる。テレビで観ていると、クエッションという名のクイズ問題が出ると回答者はみんなすぐさま答えるようなスピード感だが、実際はシンキングタイムがしっかりととられている。しかしそこは間延びするので放映ではカットされているのだ。カメラがまわっているときは野々村真も板東英二もよくしゃべっているが、カメラがまわってないときは下をむいて沈黙していた。観客はその間じっと次のカメラが回るまでを待たされる。
 そんな中、黒柳徹子だけがずっと喋っていた。出演者に対してではない。我々観客席にむかって話しかけるのだ。この問題わかる? さっきの問題あたしあー言ったけど、じつは半分でまかせだったのよ、などと、ずーっと観客にむかって話しかけていた。観客の誰かがそうなんですか? と反応すると、そうなのよ、でもちょっとヒントがよかったのよね、あれだったらたぶん合ってるんじゃないかなと思ったの、などとこちらを見ながら話し続ける。カメラはまわっていない。この人は毎回収録のたびこうなのかと感動した。既に番組が始まって10年以上は経っていたはずだ。底抜けにサービス精神が旺盛だし、それが自然体だった。授業中に窓ぎわから壁のむこうのツバメに話しかけていたトットちゃんを見た思いがした。

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成瀬は天下を取りにいく (ネタバレ)

2023年05月17日 | 小説・文芸
成瀬は天下を取りにいく (ネタバレ)
 
宮島未奈
新潮社
 
 
 あちこちで絶賛されていたので購入。すーっと読めてしまうが、わりと掘りがいもある面白い小説だった。
 
 6つの短編からなる連作小説である。もとより最初から連作を意識したわけではなさそうで、奥付によると第1話「ありがとう西武大津店」と、第3話「階段は走らない」がそれぞれ別個の小説として先行して雑誌にて発表された。
 
 ただ、後に第1話となるその「ありがとう西武大津店」にて登場する成瀬あかりという女子中学生の破天荒さがキャラとして秀逸だった。そこから次々と彼女の話が単行本用書下ろしとして生み出されて、連作小説「成瀬は天下を取りにいく」は出来上がる。
 この連作小説は最終話を除いて一人称小説である。成瀬と同じマンションに住むおさなじみの島崎みゆき、成瀬と同じ小中高の同級生となった大貫かえで、部活の大会で成瀬と出会った西浦航太郎の目線で語られる。他人の目で見られる成瀬あかりは、直情径行かつ快刀乱麻、大言壮語かつ勇猛果敢なキャラだ。これに比べると、第3話として収まることになった「階段は走らない」に出てくる大人たちの言動はおおむね常識的な予定調和におさまるものだろう。
 そう。この小説に出てくる登場人物は、成瀬以外はみんな予定調和の世界に生きている。空気を読み、バランスを勘案し、リスクヘッジしながら次の一手を考える。強いて例外をあげるならば第5話「レッツゴーミシガン」に登場する西浦航太郎の友人、理想の女性求めて猪突猛進の中橋結希人くらいだろうか。
 
 この、予定調和にコトを済まそうとする「凡人」ーーちなみに島崎みゆきは自分のことをそう自称しているーーからすれば、成瀬あかりの存在はまぶしいものであろう。本小説は、そのような成瀬による破竹の勢いを楽しんで元気をもらう、そんな読み方ができる小説である。本書の帯には各著名人の推薦コメントが書かれていて、それ自体は常套な販促手段ではあるもののその中の一つ、柚木麻子が寄せている「可能性に賭けなくていい。可能性を楽しむだけで人生はこんなにも豊かになるのか。」はけだし名言だと思った。
 
 一方で、この小説は滋賀県大津市を舞台とした地元小説としても成立している。
 この小説には、大津市にある難読地名として有名な膳所(ぜぜ)や、滋賀県が誇る一大観光資源である琵琶湖などに関する地元あるあるネタがふんだんに登場する。局所的に某地域を舞台とし、その地元ネタが次々出てくる小説は他にもたくさんあるが、単に地元を舞台としているにとどめるものでなくて本小説が「地元小説」として成立させているのは、この小説が西武百貨店大津店の閉店という地元住民に印象深い記憶を残した共通体験を題材にしていることだろう。この連作小説を貫いているのは、この大型百貨店閉店という喪失感を持つ地元のつながりである。成瀬あかりがおさなじみの島崎みゆきと組んだお笑いコンビの衣装が西武ライオンズのユニフォームなのも、成瀬と大貫かえでが大学受験対策として東大のオープンキャンパスまで遠征したついでに池袋にある西武百貨店本店を見にいくのも、西武大津店閉店の出来事から派生している。いや、成瀬の壮大な目標のひとつ「大津にデパートをつくる」もここから始まっている。地元小説が成立するには、地域の共通ネタだけでなく、「あの時あの空間にいた」という時空間上の共通体験が重要になのだ。
 
 
 さて、もう少し深読みしてみる。
 本小説は、成瀬あかりのキレッキレに元気をもらう小説としても、地域を想うとはこういうことだという地元愛小説としても読めるが、いわゆる友情小説としてみるとどうだろう。本小説のキーパーソンは成瀬のおさなじみである島崎みゆきである。
 
 まず、その無双ぶりがまぶしい成瀬だが、一方でアスペルガー症候群の気配を見るということはそんなに強引な読みではないはずだ。
 学校では抜群の成績(とくに数学)であり、朝はきっかり同時刻同秒で目覚め、ルーチンを大切にしているところも示唆的だし、成瀬の母がむしろ疲れた様子を見せているところも意味深である。学校での保健委員のミッションや大津市民憲章を律儀に守るところ、陸上の走り込みをひたすら一人黙々と続けるところ、緊張の概念がわからないところなど、それとなく彼女の特異性を示す描写はあちこちに散りばめられている。
 であれば、成瀬が空気を読まないのは、あえて空気を読まないという強気の姿勢なのではなく、単に読めないのだということになる。(逆に、成瀬が思わぬことを言ってしまって島崎の気分を害したと気づいたとき、彼女は非常に狼狽する)。小学校時代の成瀬はクラスの中では浮いていてハブや無視の対象になっているが、その待遇に対して無関心である。その様子は、島崎の観察からみれば、クラスメイトの悪意を振り切っているのではなく、むしろクラスメイトの行為にそもそも悪意を見出していない具合が強い(なので、自分がもらった表彰状をいたずらされそうになったところを目撃したときは怒りの形相を示す)。
 だからだろうか。成瀬は人間の機敏を察する能力が試される、お笑いコントの台本をつくらせると、意外に凡作だったりする。こちらはむしろ島崎のほうがセンスがあったくらいだ。
 
 で、よくよく読むと、島崎みゆきによる成瀬あかりへの付き合い方には一定の間合いがある。
 
 まず進学した高校が違う。そのことについては本小説は多くを語ってはいない。
 また、この二人、圧倒的に成瀬が島崎の部屋に訪れることのほうが多い。島崎が成瀬のところを訪問するのは本小説の中ではたったの1回だけであり、それも島崎としては玄関先の立ち話で済ませるつもりだったとか、島崎が成瀬の母とはそれほど親しくないことが示唆されたりしている。むしろ島崎の母のほうがしばしば家に訪れる成瀬に対して心理的距離感が近い。
 つまり、成瀬と島崎の関係は、ここを見る限りではかなり成瀬からの一方通行なのである。
 
 クラスメイトの多くは成瀬を敬遠した。島崎みゆきはなぜ成瀬あかりにいちいち付き合っていたのか。
 島崎は決して無難を貫いたわけではない。彼女は確かに成瀬のことにちゃんと好意があった。そのことは人間観察に余念がない大貫かえでが見抜いている。
 
 成瀬が成瀬らしくなくなったら島崎は成瀬を見捨てるのだろうか。いや、島崎は新しい成瀬も受け入れるに違いない。
 
 さりげなく重要な指摘をしている。島崎あっての成瀬なのだ。大貫の観察では、成瀬は島崎の包容力によって保護されている。
 
 島崎による一人称小説である第1章・第2章では、あたかも成瀬の暴走に巻き込まれるように島崎は描写している。島崎は、第1章ではそんな自分のことを「律儀」と評し、第2章では「わたしは成瀬あかり史をみとどけたいのであって、成瀬あかり史に名を刻みたいわけではないのだ」と言っている。
 だけど、実際のところ、島崎は成瀬を受け入れていた。これが他のクラスメイトと違ったところだ。西武大津店閉店にともなう毎日のテレビ中継に映り込むプロジェクトも何度も付き合ったし、Мー1グランプリに出場するために漫才コンビ「ゼゼカラ」も組んだ。ネタづくりではむしろ島崎のほうが精度を練り上げた。小学校時代、島崎はハブにされる成瀬に対し「我が身かわいさにわたしは成瀬を守ることをしなかった」と独白しているが、大貫の観察では「女子が成瀬の悪口を言っていると、島崎はさりげなく姿を消す」と看過している。
 
 成瀬自身は、そんな島崎の付き合いの間合いの取り方に気づかず、ただそんなものだと思って幼稚園時代から小中高時代と過ごした。高校は別になっても「ゼゼカラ」の活動は続いていた。成瀬はいつも島崎に声をかけ続けた。
 その成瀬が狼狽したのは、最終章「ときめき江州音頭」だ。この最終章だけが他の章と異なり、三人称で描かれる。誰も見ていない成瀬の様子が描かれるのだ。
 島崎は両親の転勤のために東京へ引っ越すことを、成瀬に打ち明ける。
 このとき、成瀬はルーチンが保てなくなる。寝坊し、料理に焦げ目をつくり、数学の問題が解けなくなる。それどころか島崎の機嫌の変化を必要以上に汲み取ろうとするし、島崎が成瀬以外のコミュニティも当然持っていることにもようやく気が付く。成瀬は「ゼゼカラ」解散を予見する。
 たしかに、島崎あっての成瀬だったのだ。最終章で成瀬はこのことに気づく。
 
 では、島崎はそんな成瀬にちゃんと好意を持っていた。なぜだろう。
 
 答えはシンプルである。島崎は成瀬に言っている。
 
 わたしはずっと、楽しかったよ。
 
 この小説を読み返すと、島崎の予定調和な毎日にあって、物心ついたときから成瀬は破格なエンターテイメントをいつも持ち込む存在だった。それは他のクラスメイトや部活の仲間や高校の友人たちの目線とトレードしても楽しいものだった。成瀬のいない毎日は、無難ではあっても平凡なものだったろう。島崎は本当に楽しかったのだ。だから成瀬の誘いに断ることはいつでもできたのに断らなかった。東京に引っ越しても「ゼゼカラ」を解散するつもりは毛頭なかった。成瀬と一緒ならできる、と思ったのだ。
 島崎の9割の平凡な予定調和に、1割の破格なエンターテイメントが投入され、島崎の人生は楽しいものとなった。島崎の楽しい人生は、成瀬あってのものだった。この奇蹟的な幸福の関係を見ることが本小説のもう一つの読み方である。
 
 もしあなたの周囲に、この人変わってるなーと思ったら、その人とは受け止めて仲良くしたほうがよい。遠巻きにするのは簡単だし無難だが、でも自分の人生に楽しさを運び込んでくれるのはそういう人である。成瀬のようにはなかなかなれなくても、島崎のようにはなれるはずだ。
 

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さぶ (ネタバレ)

2022年09月15日 | 小説・文芸
さぶ (ネタバレ)
 
山本周五郎
新潮文庫
 
 たまに、昭和の名作小説を読みたくなる。このブログでも、「飢餓海峡」とか「海と毒薬」とか「氷点」とかとりあげている。
 今回は山本周五郎の「さぶ」である。昭和30年代に書かれた小説だが、Wikipediaによると今日までに累計で100万部売れているそうだ。映画やドラマや舞台にもなっている。
 有名な小説だけど、未読の人のネタバレはご法度であることは既読者ならばおわかりだろう。
 
 この小説がなぜ「さぶ」なのかは、有名な謎かけのようだ。
 主人公は、どこからどうみても栄二である。経師屋に住み込みで働き続ける将来性有望な見習いだったが、窃盗の濡れ衣を着せられて自暴自棄になり、暴れまわったあげくに石川島の人足寄場に送り込まれる。栄二の波乱万丈な人生こそがメインストーリーであり、栄二の挫折と彷徨と再生が、この物語の主題である。さぶは、経師屋で苦労を共にした栄二の友人だが、栄二に比べると技術も器量も見てくれも冴えない。さぶ自身は物語のはじめからおわりまでそんなに変化がなく、また随時物語に出ずっぱりなわけではない。三人称小説だが、この小説はほぼほぼ栄二視点の話である。
 しかし、この小説のタイトルは「さぶ」である。もちろん作者の確信犯であろう。
 
 まあ、 「謎」というほどのことはなくて、さぶが愚直に栄二を見守ってくれていたから、栄二は破滅から回帰した。どんなに自力で独尊のつもりで生きているつもりでも、かならず「さぶ」のように支えてくれた人がいるのだ、とひも解くのは順目である。実際に作中でもいろいろな登場人物が栄二に対してさぶの存在の重要性をささやいている。
 したがって、やはり「さぶ」は、この小説の行方をうらなう重要人物であることは間違いない。だけど、そういうコンセプト云々はおいといて、タイトルにずばり「さぶ」とつけることの表現的なテクニックがまた秀逸だとは思った。
 ネタバレしないつもりでもネタバレになるけれど、最後の章になるに至って二転三転の謎解きがあれよあれよと畳みかけてくる。比較的に長い小説ではあるがここがクライマックスであろう。その上でさらに最後のなんとも言えない味わいの1行があって読了。感涙しつつそしてあらためてタイトルをみると「さぶ」。この効果は筆舌に尽くしがたい。こういうのをカタルシスと言う。
 「さぶ」の人生に幸あれ!」 というくらいに、読者の心はさぶに感情移入する。なぜ栄二が主人公なのにタイトルは「さぶ」なのか。いろいろ議論はあるけれど、最後の1行から、タイトルの見返しをふくむ要するにタイトルふくめた作者の超絶技巧なんではないかと思う。
 
 

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宝島

2022年01月06日 | 小説・文芸
宝島
 
真藤順丈
講談社
 
 まだ20代のころ、沖縄に関わる仕事をしたことがあった。相手は沖縄県の地元企業である。当時の僕は沖縄といえば南国の観光リゾートという認識、そしてかつての太平洋戦争の沖縄戦について本で読んだくらいのことしか知らなかった。この仕事も出張のひとつでもできたらラッキーだなくらいの感覚で引き受けた。
 で、先方とやりとりして大ケガをしたのである。自分ではそのつもりななくても何か言うたびに、何かひとつするたびに相手の感情を逆なでしてしまうようだった。ほうほうの体でこの仕事は退散した。
 沖縄県民の本土に対して抱いているアンビバレントな感情とその歴史的背景に対し、僕があまりに無頓着だったのだ。
 
 知識としては知っている。沖縄はもともとは琉球王国という日本とは別の国で、中国の朝貢国のひとつだった。本土で言うところの江戸時代に薩摩藩に攻め入られて実効支配され、その後「琉球処分」として明治日本政府に組み入れられた。太平洋戦争では鉄の暴風と形容される地上戦の舞台となり、悲惨極まりない犠牲を強いられた。戦後はアメリカの占領地となった。日本に復帰したのは1972年。
 
 そう。知識としては知っている。だけれど、そういう歴史的経緯をもつ沖縄県民が本土の人間に対してどのような感情を持つか、まなざしをむけるかー―一過性の観光客ならともかく、ビジネスの相手となったときに何を期待し、何を要求し、何を心の底で思っているか。これについて僕はまったく想像が及んでいなかったのだ。
 
 それ以来、沖縄のことは敬遠してきた。とても背負いきれるものではない。観光に行くことはあっても仕事で縁を持ちたいとは思わなくなった。
 
 
 今年は沖縄の本土復帰50周年になる。「復帰」も「50周年」も、一聴すれば明るそうな話題だが、はっきり言って単なる慶事でも周年でもない。うかつにおめでとうでも言おうものなら、相手によってはぶっとばされそうだ。本土と沖縄は、まったく違う歴史を歩んで今日に至っている。したがって見えている景色が全く異なっていると言ってよい。
 
 復帰50周年に先駆けてか、本小説が文庫化されていたので読んでみた。アメリカ占領時代の沖縄が舞台だ。この時代の沖縄の様子は、沖縄戦以上に語られていないように思う。Amazonで検索しても、沖縄戦については専門書から一般書まで様々なものが出てくるし。漫画も絵本だってあるのだが、アメリカ占領時代のことをあつかった本となると専門書がごくわずかヒットするだけだ。
 
 僕だってあいかわらずほとんど認識がない。それゆえに本小説の内容は知らないことだらけだった。戦後しばらくの究極の貧困状態、米軍からの盗品や収奪品で村に物品をばらまく戦果アギヤーという存在、与那国島の密貿易団の話、基地をめぐっての土地の強制収容、アメリカの思想統制、民族闘争とよんでよい島ぐるみの反米運動など。
 アメリカ基地の存在がしばしば事故や事件を引き起こすことは知っていたがそれがどのような具合の事故や事件なのか、それも朝鮮戦争やベトナム戦争真っただ中のアメリカ占領下時代ならばどういうことになるのかは、アメリカ中から沖縄に集められた兵たちのメンタリティとはどのようなものか。
 知識としては知っていたつもりでも、あらためて小説の描写から見えてくるものは神も仏もない救いの無さである。あまりのことに読書が進まなくなる。大日本帝国もアメリカも、沖縄を重視していたのはその地政学上の位置なのであって、そこに存在する住民や文化は保護の対象でも尊重すべきものでもなんでもなかったのだなということに改めて思う。
 むしろ沖縄にとって不幸だったのはその「場所」だったということになる。
 
 小説のあらすじそのものは戦果アギヤーの仲間だったおさなじみ3人を中心としたおよそ30年間のクロニクルだ。一人はヤクザに、一人は警官に、一人は教員になる。アメリカの占領下、この3人はそれぞれの立場で沖縄のアイデンティティを追いかける。直木賞受賞にふさわしい重厚的なミステリーとバイオレンスを伴ったものだけれど、この小説のなにより大きな特色はアメリカ占領下時代の沖縄の空気ーー容赦なき不条理下の苦しみと怒り、不屈の魂を描いたその筆致だろう。

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西の魔女が死んだ(ネタばれ)

2021年09月06日 | 小説・文芸

西の魔女が死んだ(ネタばれ)
 
梨木香歩
新潮文庫
 
 
 平成6年に発表された児童文学である。ということはもう30年近く前だ。スマホの登場よりもリーマンショックよりも9.11よりも前なのに、いまだに夏休みの課題図書などでリストに上がる。実際、いま読んでも色褪せた感じはしない。しっくりくる。
 児童文学なので、50近いおっさんの鑑賞は想定外だと思うが、この世代が読んでもそれはそれで身につまされるものがある。
 
 いろんな読み方ができる物語だけど、やはりタイトルがひとつの謎であり、また、読み解きのヒントであろう。この物語からタイトルをつけよとなると、あなたならどうするか?
 
 この物語のタイトルは「西の魔女」ではない。「山の家」でもないし「魔女修行」でもない。「アイ・ノウ」でもない。タイトルをどう付けるかで、この作品の読みどころがかわってくる。
 「西の魔女が死んだ」というタイトルは、「死んだ」ことでどうなったかというところに作品の重要な点が示されていると考えていいだろう。実際、この物語は「西の魔女」ことおばあちゃんが死んだという報告から話がはじまり、そして主人公の加納まいが2年前におばあちゃんの家で過ごした夏の1か月の回顧になっていく。
 その作品の中でまいがおばあちゃんに「死んだらどうなるのか」と尋ねるところがある。おばあちゃんは「魂」の存在の話をする。死ぬのは「身体」だけど「魂」は違うと。そして自分が死んだら「本当に魂が身体から離れましたよ、って証拠を見せる」と約束する。
 
 したがって、「西の魔女が死んだ」は、本当に魂が身体から離れたことの証拠を見せられるかどうか、というところが鍵になる。
 それが実際にどうなるかは本書で確かめてもらうとして、もちろん、この物語はミステリーでもファンタジーでもないから、このテーマの真骨頂はその「証拠」の是非ではなくて、西の魔女が死んで、で、まいは「どうなったか」であろう。タイトルから読み解くとそうなる。
 
 まいがおばあちゃんの家にいたのはおばあちゃんが亡くなる2年前だ。まいは中学校生活でいじめが原因で不登校になり、山の中にあるおばあちゃんの家で滞在することになる。その後、まいの家自体が県外に引っ越すことになり、まいも転校を決めておばあちゃんの家を出る。山の家滞在の1か月の間にまいはおばあちゃんの教えと山の生活によって少しずつ気持ちがほどけていく。しかし、一方でいろいろわだかまりも残したままおばあちゃんと別れる。
 それから2年後におばあちゃんは亡くなる。
 
 結論を言おう。まいは、おばあちゃの死を経てここでようやく「一人で決めて生きていけることの自信」を得る。怖いもの、恐れるもの、忸怩たるものは数あれど、身体が「戦闘態勢」をとることなくても、聞きたくない声に踊らされなくても、それはそれ、これはこれ、人は人、自分は自分で、生きていって良いことの自信を得る。これはおばあちゃんの生きざまであった。それはまいのパパやママからでさえまぶしく見える(もはや魔女)であるが、本来的にはこれは言うはやすく行うは難しである。この境地に達するには「修行」がいるのだ。その「修行」とはなんと、朝はしっかり起きて規則正しい食事をして一日の過ごし方を自分で決めていく、というものなのだ。継続は力なり。これが胆力の基礎をつくる。まいはそれを実践しようとする。
 しかし、まいが結局、最後の最後にそれを会得できたのは、おばあちゃんがその態度をつらぬいたことからくる芸術的なまでのすがすがしさを目の当たりにしたからだった。死んだあとにおばあちゃんが見せた奇蹟である。おばあじゃんは死してなお、まいにメッセージを見せたのあった。そこに咲いていた花「キュウリ草」の花言葉は「愛する人へ」である。
 最後に死んでそして奇蹟を見せることでおばあちゃんの「自信」は、「東の魔女」たるまいにしっかりと受け継いだといえる。これこそまさに「背中で語る」「背中で見せる」ではなかろうか。「西の魔女が死んだ」は同時に「東の魔女が生まれた」でもある。魔女とは胆力がしっかりしていてこの先どうするかを自分で自信をもって判断して生きる人である。
 
 実は、スピンアウトの後日談「渡りの一日」が興味深い。独立した小品だが、本編「西の魔女が死んだ」を補完してもいる。
 「西の魔女が死んだ」の最後にちょろっと出てくるのが、まいが転校先で新しい友達になったショウコだ。まいがおばあちゃんの元から去って、そして出会ったかけがえのない友なのだが、「西の魔女が死んだ」ではショウコがどんな人間なのかはなぜか詳しく描かれていない。が、ショウコもまた「自信」があり「背中で語る」タイプであったことが「西の魔女が死んだ」では仄めかされている。
 短編「渡りの一日」ではそんなショウコの人となりが描かれている。ジブリにでも出てきそうな豪胆で快活、たしかに独立自尊系だ。一方で、ここでは同時にあれからたくましくなったまいの姿も描かれる。そうか、まいはもう大丈夫なんだと、そう思わせる。この「渡りの一日」は魂となったおばあちゃんが空から見ている世界でもある。おばあちゃんの遺影には銀龍草が一輪挿しに飾られているだろう。銀龍草の花言葉は「そっと見守る」である。
 
 まいにとってショウコに出会えたことは僥倖だったが、「浮いていた」ショウコの人となりをまいが受容できる感受性を持てたのはおばあちゃんと生活していたからでもあるだろう。また「渡りの一日」には、笹島あやというダンプを運転する第3の自信をもった女性が登場し、まいとショウコに開眼させる。こうやって人はロールモデルに出会っていくのだ。
 
 ぼくの娘が中学に上がるとき、彼女は知らない人だらけになることから非常にプレッシャーを感じていた。ぼくは「この子変わってるなーと思う子がいたら、その子とは仲良くしとくといいよ」とアドバイスした。
 
 ※ところでぼくはショウコの苗字が「和邇」というかなり珍しいものであること、ショウコのお母さんが元婦人警官であると明示されていること、まいと仲良くなった「きっかけ」があるらしいのだがそれが明示されてないことなど、この作品はなにか謎かけがあるんじゃないかと思っていろいろ調べてみているのだがまだ見つけられていない。ダンプを運転していた笹島あやも、なんで名乗る必然性があったんだろうとか思ってしまう。この手の小説が三人称で書かれているのも不思議である。大人って疑がり深いのだ。

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徳川最後の将軍 慶喜の本心

2021年08月23日 | 小説・文芸
徳川最後の将軍 慶喜の本心
 
植松三十里
集英社
 
 
 徳川の歴代将軍のなかで、徳川慶喜はいまいち人気がない。渋沢栄一が脚光を浴びる形で慶喜も再注目されているものの、幕末の風雲の中ではなにしろ体制側の大将ということもあって敵役にされやすい。会津藩の悲劇的な結果に比べても心情的に同情するところが少ない。日本人の判官贔屓のメンタリティにあいにくいのかもしれない。幕末の人物の中で彼を主役にした小説というと司馬遼太郎の「最後の将軍」だけがひとつ気を吐いている格好になっている状態が長いこと続いていた。本小説は久しぶりの「慶喜が主役」である。
 
 慶喜不人気の理由としてよく挙げられる最大エピソードは、第二次長州征伐の際に幕府の兵を大阪城に置き去りにして単身で江戸に逃げ帰ったことだろう。このとき慶喜が何を考えていたのかは歴史の謎の一つである。
 この小説は、その敵前逃亡の謎に答えている。前後の合理性を踏まえたうえでなぜ慶喜があのような行動をしたかを再現している。いちおう慶喜が晩年に渋沢栄一に語ったとされる昔夢会筆記を下敷きにしているようだ。
 
 個人的には徳川慶喜という人物、幕府の幕引きを最小の犠牲で遂げた将軍ということで多いに注目している。なんとなく足利義昭とか北条高時あたりと同列に見られやすいが、実際のところは太平洋戦争の降伏にこぎつけた鈴木貫太郎首相のように、日本の存亡にかかるところでなんとか着地点にこぎつけた救世主ではないかとさえ思っている。なのでこの小説で描かれる慶喜像は僕のイメージしていたものにだいぶ近い。もちろん僕なんかの素人印象よりずっと調べも考えもきっちりした上で書いてあるのだから、僕としてはますます確信を得た気になっている。
 やはり大政奉還という離れ業を成し遂げ、江戸城を無血開城したことは、その後の日本の命運を図るにやはり大きな意義をつくったと思う。これらのアイデアそのものは慶喜から出たのではないかもしれないが宗主としてこれを決断するのは容易ではない。
 
 私見としては、この人は非常に頭の回転がよく、手段と目的、形式と内容、虚実のバランスを見抜くセンスが抜群だったと感じる。なんとなく理系的なセンスも感じる。むしろ頭が良すぎたために人の機敏に欠けたところはあったかもしれない。
 そして僕はなかば確信しているのだが、彼は将軍という仕事がちっとも好きじゃなかったんだろうと思う。むしろ好きじゃなかったからこそ、徳川宗家の重みと征夷大将軍という役職と幕藩体制というガバナンスは分離手術が可能と醒めた目で見ることができて、大政奉還なんてマジックが実現できたように思う。歴史にIFはないわけだが、仮にこのときの将軍が、あいかわらず家茂だったりとか、あるいは田安家の亀之助が将軍に就いて、松平春嶽や松平容保あたりが後見職についたり、あるいは老中の譜代大名連中が意思決定機関だったら、薩長との抗争はもっと泥沼化し、当然そこにイギリスやフランスの列強国は干渉を強めただろう。ここに慶喜という人間がいたことは僥倖だったのではないか。
 
 さらにもっと言うと、この人はそもそも「仕事」が好きじゃなかった匂いを感じる。徳川斉昭という父と有栖川宮から嫁いだ母というサラブレッドとして生まれた彼は、水戸学の元で武士の本懐として「責任」は背負うが、「やりがい」とか「モチベーション」というのはあまりなかったのではないか。
 実は将軍在任中に江戸城で一度も住んでいなかったり、さっさと徳川宗家の家督を田安家に渡したり、維新後に一切を語らず公に姿を現さずに弁明も回顧録も出そうとしなかったり、隠遁後ひたすら趣味に没頭したというのもそれを裏付ける。司馬遼太郎は維新後の隠遁について彼ならではの後世の評価に託した恭順戦略であるという説を唱えていたが、本小説では彼はもともと庶民にあこがれこの隠遁生活がよりナチュラルであった説をとっている。この人は76歳まで生きたが、その人生で幕府の要職についていたのはわずか7年、将軍職にいたっては1年しか就いていない。むしろ晩年に貴族院に8年就任していてそちらのほうが長い(名誉職だったのだろうが)。墓所の場所も歴代将軍と異なるし、「最後の将軍」というよりは、幕引きという困難極まるミッションを請け負った特命係長というのが実態だろう。実質上は第14代将軍徳川家茂が最後の将軍であって、幕藩体制の秩序は既にここで終わっていたという見方が妥当なのではないか。
 

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そして、バトンは渡された (ネタばれ)

2021年08月15日 | 小説・文芸

そして、バトンは渡された (ネタばれ)

瀬尾まいこ
文芸春秋

 

 2019年の本屋大賞のベストセラーで今更感ありありだが、夏フェアで本屋さんで文庫本が平積みになっていたので読んでみた。

 17年間で7回家族形態が変わった優子が主人公である。3人の父親と2人の母親である。
 順目でみれば、バトンとは優子のことであり、走者はそれぞれの「親」ということになるだろう。基本的には出てくる登場人物はみんな善人ばかりである。その限りでは筋書き通りに読んで、微温的というか、ちょっといい話的なライトな小説ということになる。

 だけれど、複数の登場人物が出てくる一人称小説は、違う登場人物に焦点を当てる読み方をすることでまったく違う味わいを考えることもできる。

 この小説の影の主役、いや真の主題は優子の3番目の父親役となった森宮壮介であろう。この視点、そんなに深読みではないはずだ。

 この小説はほぼ全部を優子の一人語りで占めるが、冒頭のプロローグと、物語の最後のブロックが森宮の一人称になる。ここに森宮が何を考え、何を大事にし、何を覚悟したかが見えてくる。


 まず大きな特徴として、この小説は「食事」がひとつ大事な要素になっている。実父である水戸の生チョコケーキにはじまり、水戸と二番目の母親の梨花との離婚の話を言い渡される手巻き寿司、梨花と二人暮らしでの生活費に事欠いての食事調達(パン屋で配る無料のパンの耳!)、大家さんからわけてもらう野菜、二番目の父親である泉ヶ谷家で出されるちゃんとしているが窮屈な食事。高校時代の優子がひとり学食で食べる親子丼。優子が短大を卒業後に就職した山本食堂。早瀬が理想にするレストラン。彼女の人生において、食事こそは自分の心を安定させ、まっすぐに生きていくための原動力そのものだった。梨花との暮らしが貧乏暇なしであっても、高校のクラスでハブられても、しっかり食べられれば彼女はまず元気だった。イタリアやアメリカに修業(?)に行った早瀬に対して、料理はわたしのほうが上手いと思ったものも、食事が人に与えられる力についての信念が優子のほうが上だったからだ(そしてピアノが人に与える力については早瀬にかなわなかった)。

 しかし、優子が発揮する食の力は、森宮の徹底したこだわりによるところが大きい。その力の入れ具合は明後日の方向にむかうこともあるが、かつ丼をつくり、餃子を焼き続け、オムライスにケチャップで文字をかき、たとえ夕食こ2時間後でも夜食のうどんをつくり、優子はその力の入れ具合にあきれながらも、暖かさと優しさをからだにとりこんでいった。優子本人は否定していても、あきらかに森宮から与えられる食事がつくる優子の元気は形を変えながら発揮している。高校の進路希望で「食べ物関係」の仕事にいきたいとした優子がなぜそう考えたかは多くを語られないが、彼女は食事が人に与えるパワーを知っている。

 ところが、森宮がそもそも料理好きとか世話好きとかいうと、さにあらずなのである。冒頭のエピソードで、彼がこんなに料理をつくるようになったのはまさに優子を預かってからなのだ。彼は8年間でレパートリーを「驚異的」に増やした。この食事への執念は、彼の責任感と覚悟の表れなのである。優子が山本食堂に就職するようになると、わざわざ会社帰りにここで食事をするようにもなる。

 毎日かならず食事があるという安心感だけでなく(梨花との生活)、単に栄養バランスがよいというだけでもなく(泉ヶ谷家での生活)でもなく。毎日の元気と幸せそのものでなければならないというのが森宮のつくる料理だ。だから彼の料理にはメッセージ性があふれている。彼が出す食事は「家族」にしか出せないものばかりだ。(彼自身が幼少期のとき、実家の食事はつまらないものだったと言っている)

 もうひとつ。森宮が覚悟したことが「これ以上だいじな誰かが優子の元を離れるという経験をさせない」ということだった。梨花からこの話を持ち込まれたとき、おそらく森宮は気づいたんだろう。優子が持っているおだやかな優等生感。そこには「親」役の大人に多くを期待しない気持ちがある。ひいては他人に対して冷めた距離感がある(本人は世渡りが上手なほうだと思っているが級友からは世渡り下手と言われる)。優子は人生に不満がない。こんなもんだと思っている。諦観がある。それが他人に対していつも一歩引いた態度をとらせる。
 森宮は優子のその諦観を見抜いたのだろう。森宮は休日にひとりで出かけることもしないし、もちろん彼女もつくらない(つくれない?)。そもそもつくる気がない。梨花から話を持ち込まれたとき、彼が決心して腹をくくったのは、梨花の夫になることではなくて優子の父親になることだった。優子の決めることにほぼなにも反対しなかった森宮が優子の結婚相手の早瀬に反対したのが、彼が優子をひとり置いてイタリアやアメリカに飛び出してしまう風来坊タイプだったからだ。
 結婚の前夜に森宮は優子に言う。「いつでも帰っておいで。俺、引っ越さないし、死なないし、意地悪な継母とも結婚しないから」。 

 最終章の森宮のモノローグで、それが「覚悟」であったことが語られる。実際、彼はこれまでの優子の「親」と比べて、自分の父親としての資格に劣等感があった。血もつながっていない、小さいころも知らない、裕福でもない。彼にあったのは単に責任感と覚悟だけだ。だから、優子の結婚式で、他の「親」たちと会うのは気が重いし、優子とともにバージンロードを歩く役も自分のつもりではなかった。
 ついぞ優子からは「お父さん」と呼んでもらえず「森宮さん」だったのに、結婚式にて実父を前にして幼少期から何年もあっていないのにすぐに優子が「お父さん」と呼ぶのに忸怩たる思いもした。

 しかし、その後に優子に言われる。「お父さんやお母さんにパパやママ、どんな呼び名も森宮さんを超えられないよ。」

 優子の結婚式での森宮の心は「曇りのない透き通った幸福感」だった。「本当に幸せなのは、誰かと共に喜びを紡いでいる時じゃない。自分の知らない大きな未来へとバトンを渡す時だ。あの日決めた覚悟が、ここへ連れてきてくれた。」
 そう考えると、梨花から優子を預かったとき、彼もまた何がしかを信じて「自分の知らない大きな未来」という次の走区にむかって自らバトンを渡したのである。


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