読書の記録

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空想の補助線 幾何学、折り紙、ときどき宇宙

2024年02月20日 | サイエンス
空想の補助線 幾何学、折り紙、ときどき宇宙
 
前川淳
みすず書房
 
 
 知的興奮を刺激される面白い本だった。書店でたまたま目に留まり、目次を眺めてから中身をぱらぱらしてえいやと買ってみたものだが正解だった。ネット書店だとこうはいかない。決して大型ではない書店だったが、よくぞこのような本を仕入れたものだ。なにしろ購買層をかなり選ぶみすず書房である。
 
 著者は、本書の奥付によると1958年生まれのソフトウェアエンジニアとのことだ。天文観測や電波解析を主に行っていたそうだが、「折り紙」の研究者としてそのスジでは知られているらしい。不明ながら僕は本書で初めて知った次第である。
 
 本書は理系色の強いエッセイではあるが、単に数学的な見解を披露するだけでなく、人文や自然科学の現象にまで思いをつなげていて、その芸風は寺田寅彦を思い出させる。このような理系の方法論と文系の感受性を橋渡しするような読み物は、このブログでもいくつかとりあげているが(これとかこれとか)、個人的にはこういう話は好きである。
 
 本書の特徴としてはやはり著者の専門領域である折り紙の話を随所に紛れ込ませているところだろう。僕自身は折り紙はまったく苦手で、鶴を折ってみても尻尾が変に太かったり、裏と表の縁をぴったり合わせられなくて羽の隙間から裏の白地がどうしてもはみ出てしまう不器用な指先なのだが、こうやって語られてみるとなるほど、折り紙という二次元の紙に張り巡らされる折り線や交点は、確かに幾何学的な世界へ誘う入り口なのであった。「解けないことが証明されている」ギリシャ三大作図問題を、折り紙を駆使することで解決していく様は手品をみるようだ(なお、ギリシャ三大作図問題は、折り紙や目盛り付き定規を使って解いてはいけないことになっているので、これをもって三大作図問題そのものが解決されたというわけではない)。
 
 
 本書で僕がもっとも興味をひいたのは「あやとり」の話だ。折り紙の専門家なのにあやとりに注目されるのは著者として本意ではないのかもしれないが、折り紙の専門家ならではのあやとりの固有的価値をうまく言い当てていて関心した。いや感動したくらいである。折り紙もあやとりも子どもの遊戯ではないかと思うなかれ、この2つの相違をしっかり考察するとこの人の世のすべてはこの二分に相当するのではないかというほど対照的な真理を持ち合わせているのだ。
 
 あやとりと折り紙を著者の目線で掘り下げていくと、「構造」と「手順」の相違に行き着く。これは著者が折り紙の名人だからこその指摘である。
 折り紙というのは、鶴でも紙飛行機でも、完成形をあらためて開いて広げてみれば、そこにはいく筋もの山折り線谷折り線が刻まれた正方形の紙が出現する。言ってしまえばこれは設計図だ。折り紙の名人ともなれば、その設計図を眺めれば、どこをどう組み立てればいいかは即時に脳裏に浮かぶという。これはその折り紙の組み立てを「手順」で覚えているわけではないということになる。したがって実際に組み立てる際の手順もその時々によって違ったりもするそうだ。
 繰り返すが、これは折り紙の名人だからこその視座である。僕なんか折り紙は手順でしか掌握できない。広げられた正方形の紙についた折れ線の具合から何ができるのかを想起するなんて神業はまったく想像の外である。
 
 つまり折り紙は設計図として記録することができる。この折り紙への認識は、著者の言葉でいうと「構造」ということになる。構造さえわかっていればなんとかなる。そもそも折り紙というのは二次元にプールされた情報を三次元に配置させるという極めて位相幾何学的な行為なのかもしれない。
 折り紙は「構造」として記録させることができるから、これを未来に継承したり、他の地域に普及させることはそんなに難しいことではない。折り紙は日本のものが有名で国際的にもorigamiで通用するが、かのような造形物と行為自体は世界各地にあるとのことで、折り紙文化が持つ普遍性や耐久性の証左と言える。
 
 一方であやとりだが、こちらは「構造」がなくて「手順」が全てであり、「記録」ができなくて「記憶」の世界に立ち現れるもの、というのが本書の指摘である。
 これはつまり、あやとりは他地域や次世代に継承されにくいということでもある。したがって文化人類学的な目線で観察すると、各地各コミュニティに形の異なったあやとりがある。また、言い方はあれだが先進国ではあやとりが盛んな国は少ないそうである。日本は例外ということだ。あやとりの文化が認められているコミュニティは、ネイティブアメリカンとか東南アジアの先住民あたりに顕著らしい。なんとこれは「文字を持たない文化」とも重なるそうだ。
 
 そして、あやとりというのは、折り紙とちがって形が残らない。どんなに複雑精緻な芸術的あやとりであっても、指が離れた瞬間にもとの輪っかの紐に戻ってしまう。この刹那的なところがあやとりの芸術的側面の極致とも言えよう(本書によるとあやとりは岡本太郎の琴線に触れていたということである。)
 形が残らないから、あやとりのやり方は「手順」の「伝承」ということになる。五指を模した5本の突起を左右に一対つくってそこに糸をはりめぐらせて保存したり移動させたりすることは不可能ではないがちょっと非現実的だろう。また、そうやってできたあやとりの完成形を見て、これはこれをこうやってこうすればつくれるな、ということを見抜けて再現できる名人というのが存在し得るのかも僕はわからないが、直観的には折り紙の比ではない難度な気がする。折り紙に比べるとあやとりは保存と継承の点でずっと困難な文化なのだ。
 
 あやとりの手順は、現代ならば動画に録ったりしてなんとか記録に残すこともできようが、本質的にあやとりとは手順の記憶による遊びなのである。したがって文字を持たなかった先住民族の言語がそうであるように、あやとりのバリエーションはすたれていく運命にあるというのが著者の指摘である。日本でももう誰も作り方がわからなくて過去の霧のむこうに消えてなくなったあやとり作品がたくさんあるに違いない。この章ははからずもあやとりの挽歌になっていた。
 
 
 上記の他にも、「大器晩成」は伝言ゲームのミスで本来は「大器免成」、つまりその意味は「大きな器の人間は形にこだわらない(弘法筆を選ばずのような意味)」であって、大物は遅れて花咲くなんて意味の格言は本来なかった可能性があるとか、国歌「君が代」の歌詞に出てくる「さざれ~石の~」は、原典の万葉集にさかのぼればこれは「さざれしの」と詠むのが正しいので、いまの国歌の歌詞の区切りは一単語を途中でぶった斬った不自然なのであるとか、気になる小ネタをもちだしながらさりげなく折り紙を用いた幾何問題に話がすりかわっていくところは落語のようだ。ぜひ続編も待ちたい。

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