榎本俊二のカリスマ育児---榎本俊二---コミック
あまたある育児マンガの中でも、ひときわ異彩を放っており、しかもその完成度の高いことで、直接育児に携わっていない人にも評判がよい。
その完成度の高さを支えるものは、「マンガ」としての要素がしっかりしているということだ。
育児マンガの多くに見られるのだけれど、あまりにも育児のネタに頼りすぎる結果、セリフの運び、コマの配分、構図、キャラクターの造詣といった、つまり“情報を伝達するフォーマット”としてのマンガの技術の面(演出技術とでも言おうか)が、「ゆるく」なりがちなことがある。つまり「育児」というのは、少々「マンガ」技法がゆるくなっても、商品として充分鑑賞に耐えられるほど、ネタの宝庫なのだ(育児している本人はほんとに大変なのは言うまでもないですよ)、ということの逆説的証明でもある。
また、育児コミックの書き手には、必然的に女性が多い。そして一方で、女性作家の分野に「エッセイ・マンガ」という、マンガ技法を駆使するというよりは、どちらかといえば淡々と展開される自分語りのジャンルが確立されている(=許されている)、ということも大きいのではないか。
が、「マンガ」として、しっかり描ける人で、かつ「豊富な育児ネタ」を語れる人というのは、ずいぶん少ないのではないかと思う。というのは、育児が持つ豊富なネタは、いわばトリビアリズムに近い「あるある」という共感を呼ばせる類のもので、ということは「本気で育児にとりくんでなければわからない」。つまり、片手間に、あるいはサブスタッフとして育児にかかわるくらいでは、これだけ競合作品が乱立している中、すぐネタが枯渇する。男性作家による育児マンガのややもする食い足らなさはこれが原因ではないかとも思う。
したがって、育児にどっぷりとつかって悪戦苦闘し、ネタを蓄積し、かつそれをマンガの技法全開で作品にする、つまりインプットとアウトプットの両方が完備された人というのは、案外に少ないのではないか、と思うのである。
「榎本俊二のカリスマ育児」は、その稀有な例だと思う。マンガ技法の巧みさは既に語りつくされた感があるが、この著者、ほんとに育児をやっている。だからこそネタが冴える。
集団検診でのお医者さんがヨボヨボの爺さんとか、薬の配合を分厚い医学書で確認するヤブ医者とか、0才未満の乳児がなぜかこちらをじーっと睨むところとか、ウ○コの直前に妙な表情を見せるとか、市役所の窓口のひたすら几帳面(決して“冷たい”わけではない微妙なところがミソ)な応対とか、同じ子守唄でも効く日と効かない日があるとか、オムツはくるりと丸めて専用バケツに捨てるとか、大のオトナには妙な異空間である保育園の世界とか、アトピーでぽりぽり掻くのをやめさせるために痒いところをぺしぺし叩かせてみせるとか。
そして、最初の子供が病院で生まれた日の夜、一人で自宅に帰ってカップラーメンを食べ、布団に寝る。夢の中で、エイリアンみたいな新生児の顔が浮かび上がった小さな一コマに、著者の愛情の在り処を見る。
あまたある育児マンガの中でも、ひときわ異彩を放っており、しかもその完成度の高いことで、直接育児に携わっていない人にも評判がよい。
その完成度の高さを支えるものは、「マンガ」としての要素がしっかりしているということだ。
育児マンガの多くに見られるのだけれど、あまりにも育児のネタに頼りすぎる結果、セリフの運び、コマの配分、構図、キャラクターの造詣といった、つまり“情報を伝達するフォーマット”としてのマンガの技術の面(演出技術とでも言おうか)が、「ゆるく」なりがちなことがある。つまり「育児」というのは、少々「マンガ」技法がゆるくなっても、商品として充分鑑賞に耐えられるほど、ネタの宝庫なのだ(育児している本人はほんとに大変なのは言うまでもないですよ)、ということの逆説的証明でもある。
また、育児コミックの書き手には、必然的に女性が多い。そして一方で、女性作家の分野に「エッセイ・マンガ」という、マンガ技法を駆使するというよりは、どちらかといえば淡々と展開される自分語りのジャンルが確立されている(=許されている)、ということも大きいのではないか。
が、「マンガ」として、しっかり描ける人で、かつ「豊富な育児ネタ」を語れる人というのは、ずいぶん少ないのではないかと思う。というのは、育児が持つ豊富なネタは、いわばトリビアリズムに近い「あるある」という共感を呼ばせる類のもので、ということは「本気で育児にとりくんでなければわからない」。つまり、片手間に、あるいはサブスタッフとして育児にかかわるくらいでは、これだけ競合作品が乱立している中、すぐネタが枯渇する。男性作家による育児マンガのややもする食い足らなさはこれが原因ではないかとも思う。
したがって、育児にどっぷりとつかって悪戦苦闘し、ネタを蓄積し、かつそれをマンガの技法全開で作品にする、つまりインプットとアウトプットの両方が完備された人というのは、案外に少ないのではないか、と思うのである。
「榎本俊二のカリスマ育児」は、その稀有な例だと思う。マンガ技法の巧みさは既に語りつくされた感があるが、この著者、ほんとに育児をやっている。だからこそネタが冴える。
集団検診でのお医者さんがヨボヨボの爺さんとか、薬の配合を分厚い医学書で確認するヤブ医者とか、0才未満の乳児がなぜかこちらをじーっと睨むところとか、ウ○コの直前に妙な表情を見せるとか、市役所の窓口のひたすら几帳面(決して“冷たい”わけではない微妙なところがミソ)な応対とか、同じ子守唄でも効く日と効かない日があるとか、オムツはくるりと丸めて専用バケツに捨てるとか、大のオトナには妙な異空間である保育園の世界とか、アトピーでぽりぽり掻くのをやめさせるために痒いところをぺしぺし叩かせてみせるとか。
そして、最初の子供が病院で生まれた日の夜、一人で自宅に帰ってカップラーメンを食べ、布団に寝る。夢の中で、エイリアンみたいな新生児の顔が浮かび上がった小さな一コマに、著者の愛情の在り処を見る。