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旅行記、世相独言

メインディッシュはオレンジ -オーランド1- (異文化体験7 世界一周の旅9)

2010年07月30日 17時32分46秒 | 異文化体験_北米
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ビバ!フロリダ メインディッシュはオレンジ -オーランド1- 1985.3.1~3



    
 建設が進むウォルトディズニーワールドで先行開園のマジックキングダム

     
(左)マジックキングダム 1デイ・パスポート (右)お馴染みアトラクション「カリブの海賊」


 オーランド、緯度は沖縄に等しい。燦燦と輝く太陽、今までの暗い冬が一度に霧散し、初夏が一足飛びにやってきた。明るく開放的で緑豊かな、仕事なんぞきれいに忘れさせるリゾート地。Tシャツ、ホットパンツにスニーカー、それほど皆が開放的な服装の中に、コート片手の我々は何か未開の地からやって来た異邦人に映るに違いない。早速ディズニーワールドに向かう。エネルギープラント等、広大なテーマパークのバックヤード視察を実施。コージェネレーションをベースに電気を地元フロリダパワーに系統連系を行い、徹底的な省エネ管理がなされている。燃料電池(パワーセル18)のテストもここで行われている。


「ウォルトディズニーワールド」と先行開園した「エプコットセンター」&「マジックキングダム」のパンフ


 1万1千ヘクタール(1ヘクタール=1万平方メートル)の広大な敷地に、Vacation王国, Lake Buena Vista Community, Experimental Prototype Community of Tomorrow(EPCOT)等が配置され、将来に向ってまだまだ建設が進むデイズニー王国そのものだ。
 現時点でVacation王国の中核をなすMagic Kingdomで夕刻まで自由行動。とは言え、L.A.のディズニーランドと何等変わりはないが、何度来ても楽しいものである。

 今回の宿舎「ツインホテル」


 ツインホテルが今日の宿舎。同行のN氏がこのホテルのレストランはなかなか有名らしいとどこかで聞き込んできた。衆議一決、夕食はここ! 早速レストランに赴くと少し時間が早いこともあってか、お客は我々の他に一組だけ。バイキングスタイルである。コックが一人手持ちぶたさで立っている。まずは一回目と言いながら個々に好きなものを皿に盛ってテーブルに戻ってくる。

  メインディッシュとなったフロリダオレンジ


 ん? 誰も2回目に立とうとしない。しかも皿にはまだ食べ残しの料理が一杯。パンがあっという間に売り切れ、早くもフロリダオレンジのデザートに進んでいる者もいる。他の一組の客も帰り、いよいよ我々だけの貸切り状態。依然として新たな客が来ない。パンのお代わりを注文。料理も食わずにパンばかり食う我々とコックの間に何やら気まずい雰囲気が漂う。そのパンもとうとう底をつき、まさかもう一度お代わりも出来ず、オレンジを2、3個夫々取ってきては腹の足しにする。それ程にここの料理はひどかった。

 有名とはそういうことなのだ! 以降、N氏のリコメンデーションは我々の間では全く通用しなくなったのは当然である。退店時オレンジを持てるだけ持って部屋での風呂上りと翌朝に胃袋に収まる。

     
(左)「エプコットセンター」の1デイ・チケット  (右)園内MAP

     
(左)センターの象徴「Future World、Spaceship Earth」(右)「World Showcase」池の周りに各国館を配置(日本館も見える)


 翌日は土曜日。朝からEPCOTセンターに出向く。「Spaceship Earth」は、18の展示をタイムマシンライドで巡る仕掛。EXXONのエネルギー館やGMの自動車館等、いくつかのスポンサーシップによる体験館巡りである。WorldShowcaseは、世界各国の館が池の周りに配置され、様々な催しが行われている。夕刻まで視察し、球形のシンボリックなテーマ館でお土産を買って、この未来の実験都市を後にする。

  
 (左)Spaceship Earthの紹介の一部        (右)夕刻のエプコットセンター

 この日の夕食は入念な調査による照り焼きステーキ。タクシーで3分とかからない所にある日本人経営のステーキ屋。鉄板の上で鏝をチンチラチンチラいわせたショウまがいのステーキ屋が米国人に受けて沢山あるようだが、体験するのは今回が初めて。
 一応焼き具合と量を聞くが、手元にサーブされる肉は皆同じといういい加減な代物。コックは中国人で、7つあるテーブルは満席、順番待ちの人がいるほど流行っている。

 部屋に戻る前に昨夜のレストランを覗くと、かわいそうな犠牲者が2組いた。ああ、お気の毒に!



ジョージタウンのガールハント -ワシントン- (異文化体験7 世界一周の旅8)

2010年07月26日 15時35分53秒 | 異文化体験_北米
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ジョージタウンのガールハント -ワシントン-  1985.2.27~3.1


ワシントンの中枢部(議事堂、ワシントンモニュメント、リンカーン記念堂と続く)

 N.Y.からシャトル・イースタンで約1時間。3つある空港で市内に5kmと一番近いナショナル空港に到着。このエア・シャトル、朝のラッシュ時はお客が一杯になった時点で運航するシステムと定時便の組合せ。我々が空港に到着した時は満席便が出た直後で、お客は少なく定時便として約1/3の乗客でN.Y.を飛び立ったのである。

 シェラトンホテル

 ワシントンは既に春の兆しが感じられる暖かさ。コートを脱ぎ身軽に動けることの嬉しさは、厳寒の欧州を体験しただけにより一層のものがある。シェラトンホテルにチェックイン、ここはカードロック式のキイ、初めての体験である。


  
            (左)ホワイトハウス            (右)高さ169mのワシントンモニュメント

  連邦議会議事堂を背景に 

 ワシントンを象徴する景色と言えば、ホワイトハウス、広大なポトマック公園にそびえる169mのワシントンモニュメント、その反対側に位置するリンカーン記念堂、そして連邦議会議事堂まで、延々と芝生の公園が延々と続く。


 スミソニアン博物館航空宇宙博物館の案内パンフ

  
(左)スミソニアン博物館の総合案内書  (右)リンドバーグが大西洋横断飛行に成功した「スピリット・オブ・セントルイス号」

 目の前に建物がありながら入口のわからない化け物のように大きなスミソニアン博物館。20分ほどかかって航空宇宙博物館に入る。ライト兄弟の複葉機、リンドバーグの大西洋横断機、月面着陸ロケットと見るものに事欠かない。


  
    (左)アーリントン墓地を警護する海兵隊員        (右)JFケネディ大統領のお墓

 ポトマック河畔のアーリントン墓地へは熊のようなタクシードライバーにやや恐怖感を覚えながら閉園間際の駆け込みとなった。夕刻迫る墓地には人影もなく、野生のリスが駆け巡る。24時間海兵隊員が警護する無名戦士の墓。故ケネディ大統領の墓標には「What can we do for the country.」と刻まれている。ロバート・リー将軍が住んでいたアーリントンハウスのフラッグポールから星条旗が降ろされるのを横目に熊の運転手にホテルまで送ってもらう。

 ウォーターフロントのレストラン「FLAGSHIP」 牡蠣にあたる!

 今夕はウォーターフロントにあるレストラン「FLAGSHIP」で、日本には無い大きさの牡蠣とジャンボ・ロブスターとの格闘となった。今まで牡蠣にあたったことがなかった小生であったが、この時食したジャンボ牡蠣におおあたり。以降、牡蠣を受け付けない身体とあいなってしまった。

 翌日、米国エネルギー省や国際機関等での仕事の後、夕食は全員一致で寿司に決定。ぼつぼつ和食が恋しくなる時期である。
 食後は、H氏、O氏と共にジョージタウン探訪に出掛ける。ワシントンの北西の一角にジョージタウン大学がある。政治関係者の多いこの街でも比較的若者の多い一帯である。

 1789年創設の名門私立大学、ジョージタウン大学

 既に午後9時を廻りメインストリートのWisconsin Ave.のほとんどの店が閉まっている。街角のRECORD SHOP(店の情報によると、Rock SingerではWhamのCareless Whisper, Sheene EastonのSugar Walls, MadonnaのLover Boyが上位独占)の隣にカフェバーがある。

  
 ジョージタウンの街並み(左:Oストリートのコンデュイット式トラム・カーの跡)

 中に入ると外の寂しさとは打って変わって結構沢山の人が立ちながら談笑している。他人の会話に割って入るのは少し勇気がいるもの。若い女性4人組に接近を試みるも、会話も長続きせず、もう帰らなきゃ!とお店を出て行ってしまった。お次は我々に興味がありそうな男女4人グループと意気投合。歳は外見から全くわからない。他愛もない雑談で2時間ほど過ごす。確かにお喋りを楽しむ、そこに人と人の相互理解が生まれる。これほど楽しいことはない。しかし、ここは六本木ではなく合衆国なのだ。夜も遅くなればタクシーもなくなる。もう1軒というO氏をなだめ、またの機会にがんばろうとガールハントの散歩を終える。



雲の上の晩餐会 -ニューヨーク2- (異文化体験7 世界一周の旅7)

2010年07月21日 16時29分57秒 | 異文化体験_北米
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雲の上の晩餐会 -ニューヨーク2-  1985.2.25~27



 アルバニーからN.Y.に戻ると別の班はすでにブロードウェイのミュージカルを楽しんでいるとかで、わが班は何とも割りが合わないとブツブツ言いながら餃子とラーメンの夕食。

マンハッタン中心部のMAP

 地球上で最大の都市ニューヨーク。一度は来てみたい街と思って訪ねてみたが、マンハッタンの高層ビル街もその下を歩く分には都会生活者にとって何ら変わりのない一風景でしかない。ヨーロッパの人間が創り出したハードとソフトの一体化した文化の方が何か私を引き付けるものを感じる。

   
(左)ロックフェラーセンターの前にて                (右)白い教会がセントパトリック教会

 コン・エディソン、ブルックリン・ユニオン・ガスでの一仕事の後のひと時、ロックフェラーセンター、セントパトリック寺院、タイムズスクウェア、パンナムビル等、耳慣れたマンハッタンの5番街界隈の目抜き通りを散策する。


  世界貿易センタービルの案内パンフレット


 N.Y.最後の夜は、世界貿易センター(WORLD TRADE CENTER)ビル最上階のレストランでの晩餐会。7ヘクタールの敷地に建設された110階建て412mの世界最高のツインタワー。

 生憎の曇り空のため、高速エレベーターは我々を雲上に案内する。まさに雲上の晩餐会である。我々7人に現地事務所の2人も加わって9名の大所帯。担当するウェイター氏も大変である。

   
        最上階レストラン「Windows on the World」の内部とその夜景眺望(パンフレットより)


 一度に勝手なオーダー。最初は耳で処理するつもりでいたようだが、途中でギブアップ。メモ用紙を持って来て書いてくれたまでは良かったのだが、我々の発音のいい加減さと彼等のいい加減さも適度にミックスして、オーダーとはほど遠い料理が出てきた。それも一人や二人ではない。しかし、そこは一流レストラン。こんなものをオーダーした覚えがないと言うと、恐縮して取替えようとする。中にはそのまま食した人間もいたが、数人が取替えとなった。可愛そうに担当のウェイター氏、隅の方で主任から何やら怒られて、結局担当替えとなってしまった。我々を担当したのが運の尽き、ごめんね!ウェイター氏。

 レストランの商標

 時折、雲の合間から大マンハッタンの宝石を散りばめた夜景が最後の夜の演出に余念がない。食後の後は、ジャズとブロードウェイ散策の2班に分かれてナイトライフを楽しむ。我が班はブロードウェイをほとんど知らないので、必然的に後者に。

  夜のタイムズスクウェア(Wikipediaより)

 大勢の雑多な人種が行き交う街頭の高級ブテイックやレストランは、ヨーロッパ直輸入のものも多い。アメリカ的な文化とは真に何なのであろうか。それはこの街に住み着く事でしか見出せないのか。ニューヨーク直輸入の若者文化が理解出来ない世代に突入した己が歳のなせる技なのか。偏見なのか、好みの問題なのか、とにかくもう一度ゆっくり来て結論を出そうではないか。

(2001年9月11日、未曾有の残忍なテロ行為により2749名の犠牲者と共にこのビルも消滅しました。ここに謹んで哀悼の意を表します。)



アイスフォール -ナイアガラ&アルバニー- (異文化体験7 世界一周の旅6)

2010年07月16日 11時02分00秒 | 異文化体験_北米
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アイスフォール -ナイアガラ&アルバニー-  1985.2.24~25

 氷結したナイアガラの滝


 日曜日の早朝、荷物をホテルに預け月曜日訪問するニューヨークの州都ALBANY(アルバニー、発音はオーバニーに近い)に向う。今日はNEW YARK空港からバッファローに飛び、ナイアガラの滝を見物する。あいにくバッファローは小雨。ピチピチのジーンズに身を包んだインディアン娘の運転するマイクロバスでナイアガラに向かう。

 
(左)滝の上流は氷塊を巻き込んだ激流          (右)滝の裏側の覗き穴から見た滝の流れ

 ナイアガラ川の橋を渡る頃になると遠くに水煙を見ることが出来る。滝の上流からアプローチしているようだ。川の流れは刻一刻と速さを増し、氷塊を巻き込んだ激流が轟々と流れている。国境を越えカナダに入国、カナダ側からアメリカ滝、カナダ滝を見ることになる。スケールの大きなカナダ滝は、水煙にその全貌を隠しながら、地を轟かせる音と共に54mの滝壷に落下していく。滝壷は氷結して一面の氷である。夏には霧の乙女号で遊覧できるらしいが、白一色の滝も悪くない。

 
(左)迫力ある流れが我々を圧倒する     (右)氷結した白と水煙の白と滝壺の水沫の白と周囲は白一色の景色

 滝の裏側にエレベーターで降り、滝を覗くことの出来る穴が3ケ所ある。しかし、この時期開いている窓は1ケ所だけで他は氷が穴を塞いで何も見えない。アメリカ滝は表面上の流れはほとんどなく、一見おとなしく横たわっている。閑散としたナイアガラの町。ここには春は何時やってくるのだろう。

 
(左)滝の下流の屈曲ポイント、多くの水死体があがるとか。(右)米国&カナダの同規模・同タイプの発電所

 滝の下流に川が90度曲がる所がある。多くの水死体がここにあがるという。更に下流に行くと川の流れを利用した水力発電所がある。米国とカナダの電力会社が夫々等量の水を引き込み、全く同規模、同タイプの発電所である。確か100万kwクラスと記憶してるが、等しく水利権を持っているのだろう。下流の橋を渡って再び米国に入国し、バッファローからアルバニーに向かう。


 アルバニーはニューヨーク洲政府のあるこじんまりとした美しいが、それでいてあまり特色のない街である。州の公益委員会訪問の段取りをしてくれたO氏とホテルで落合う予定であるが、なかなか現れない。1時間ほど遅れて例によって大好きな車での到着した。

    
(左)ホテルから見たアルバニーの街(中央が州議会堂、右がシティホール)(右)シティホール全景

 政治都市の演出は難しい。日本の官公庁の建物よりははるかに洗練されたデザインの近代建築が、緑の広場に囲まれて美しい景観を醸し出している。また、各建物は地下でネットワークされ機能的にも優れているが、ダウンタウン周辺の息抜きの場が余りにも日本人の目から見ると少ないのである。多分そのような場の提供が必要ないのであろうか、ビジターにとっては何の楽しみもない街になっている。O氏と夜遅くまでホテルの部屋で歓談したアルバニーの夜であった。

 ダウンタウンにあるヒルトンホテル


 アルバニーからN.Y.への便は、ローカル線の20人乗り小型機である。こんな飛行機は今まで乗ったことがない。一抹の不安は隠し切れない。左右窓際に2シートずつ並んでいるが、席の幅の狭いこと。小生が窓側席に座り終えると向こうからビヤ樽もどきのおばさんがやって来る。いや~な予感。こういうのはよく的中するものである。2mはあろうかと思われるヒップを小さな椅子に平然と下ろす。ああ、神様。何とか離陸出来ますように!

 Albany-N.Y.便は遊覧飛行のようにマンハッタン上空を飛ぶ

 セスナはプロペラをフル回転させ、それでもマンハッタンの宝石をちりばめた様な夜景の上をゆっくりと超高層ビルの先端をかすめるようにサービス精神一杯の飛行で無事ニューヨークに戻る。



ドラムは子守唄?FAT TUESDAY'S -N.Y.1- (異文化体験7 世界一周の旅5)

2010年07月12日 23時20分53秒 | 異文化体験_北米
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ドラムは子守唄? FAT TUESDAY'S -ニューヨーク1- 1985.2.23~24


  オランダ・スキポール空港 


 オランダ・スキポール空港を飛び立ったKLMオランダ航空641便は、大西洋上をニューヨークへ。KLM便はC,Fクラスの乗客にデルフトブルーのミニチュアハウスやピュアトレイを記念に配っている。また、フライトショッピングにダイアモンドがあるのはKLMだけではなかろうか。KLMオリジナルデザインのネックレスに加工したスイング・ダイアモンドが売られており、面白いデザインなので女房殿に購入。少し懐が寂しくなる。

  
(左)KLM機内で配られるデルフトブルーのミニチュアハウス     (右)KLMオリジナルのスイングダイヤモンド


 疲れが眠気を誘い、エグゼクティブシートの快さもあってJFケネディー空港の着陸まで記憶がない。空港でコペンハーゲンから大幅に到着が遅れたB班の3人と合流。これからの旅は我々A班の4人から一挙に7人の旅となる。

 大西洋を横断し、レキシントン・ホテルにチェックイン

 レキシントンホテルにチェックインしたのは、もう夕刻である。料亭「新橋」が合流後最初の夜の宴会場となった。土曜の夜である。明日からまたニューヨーク州内とはいえ、別れ別れになるので今夜は徹底的に遊ぼうということになった。食後はジャズのライブが良いということになり、「FAT TUESDAY'S」に予約が取れた。

 ジャズのライブハウス「FAT TUESDAY'S」のカード

 会場に着いたものの11時からのショウには30分ばかり待たなくてはならない。年長のN氏をはじめ3名が疲れたので一足先にホテルに帰ることになり、後の4人が辛抱強く待つことに。しかし疲れた身体にお酒の睡眠作用で、廊下に座り込んで待つ内にすっかり眠り込んでしまった。

  
          この日の出演者はラムゼイ・ルイス・トリオ(Ramsey Lewis Trio)


 周りのざわめきに目を覚ますといよいよ入れ替えの時間。今夜の出演はRamsey Lewis Trio. ラムゼイ・ルイスは来日演奏したこともある有名なピアノ奏者である。一番前に陣取って今や遅しと待ち受ける。斜め前にヤンキー娘が陣取っている。拍手と共に往年のというにはまだ若いラムゼイ・ルイスが現れ演奏が始まる。小生の隣はO氏。演奏に皆がノリ始めた頃、O氏の船漕が始まった。ドラムのシンバルと彼のコックリ船漕による頭の間隔が少しずつ狭まり、今や10cmを切る距離に至っている。一方斜め前のヤンキー娘はというと、もはやエクスタシーの境地をさ迷っている。口をあけ、虚ろな目で手拍子、足拍子。会場を揺るがし耳をつんざくドラムとシンバルの強烈な大音響は、かぶりつきにいるO氏にとっては子守唄、ヤンキー娘にとっては催淫剤なのだろうか? 船漕の振幅は更に大きくなるが、不思議なことにぎりぎりのところでぶつかるのを回避している。結局、無事?に深夜1時を少し回ってライブは終わった。熟睡?したO氏は大いに元気になっている。

 「Fat Tuesday's」の前にて

 ホテルの前でタクシーを降り、後続の2人を待っていると、毛皮のコートに身を包んだ美女が近づいて来て「一人30ドルでどう?」と言う。我々3人いるよと言うと3人まとめて面倒見ると言う。なかなかのスタイルの美人である。お互い何とか兄弟になるかと冗談を言いながら鄭重にお断りしたが、全員「俺一人だったらどうしたかなあ?」



アメリカン・ドリーム - ロサンジェルス - (異文化体験5 テーマ探しの旅4)

2010年05月03日 00時10分53秒 | 異文化体験_北米
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アメリカン・ドリーム -ロサンゼルス-  1983.9.23~25


 ホテル・ニューオオタニ(今は別名)
  
 リトル東京の側にあるホテル・ニューオオタニ。無事U君とも合流し、ロスの休暇を楽しむ。3年程前から義弟がデザイン関係の勉強でロスに来ている。電話連絡すると24日は空いていると言うので久々に会うことになった。

 
      ディズニーランドより歴史のある遊園地、もともとはベリーを売る店から始まった。
 
 車がないとどうしようもないロスの町。義弟の車で「ナッツベリーファーム」というOld Time Adventureが楽しめる遊園地に行く。ここも子供以上に大人が多く、ライド系の遊園地では全米でも屈指の遊園地である。次にUCLAにテニスのラケットを買いに行ったが結構高いので止め、ジョギングパンツを購入。その後、義弟の住むハリウッド方面に向かう。

 UCLAの学内ストアでテニスラケットを物色、高くて購入中止。
 
 ビバリーヒルズに日本人2人と米国人1人の3人で共同生活をしているという。仕事場兼住居のその家は、3DKでプール付きのタウンハウス。セキュリテイを重視するお国柄とあって、門扉は各家からのリモート操作。CATVが発達していて、ここだけでスポーツ番組5チャンネルと契約していると言う。

 デザインの仕事はそれなりに進んでいるらしいが、競争が激しく日本人留学も多く、仕事にありつける確率は高くないらしい。今はバドワイザーの広告を手掛けており、彼の関係する作品が日本でも週刊誌に毎週見受けられる。しかし、下働きでは日本に帰っても大した仕事に就けないので、もう少しがんばってみると言う。義弟の勇気とファイトに大いに声援を送る次第である。

  
      グリフィス天文台と天文台からL.A.のダウンタウンを遠望する

 グリフィス天文台やそれに続く小高い丘の上からGreater L.A.が一望出来る。夕日に照らされたロスの町並はうっすらとスモッグに霞んでいた。久しく日本食を食っていないと言うので、寿司でも食おうとリトル東京の「大阪寿司」に行く。カリフォルニア巻きなどという海苔巻があって、観光客にうけている店である。

 カリフォルニアロールの一例、板前と「目つき」論議

 板さんは日本から来た人で、二人の会話の途切れた間にうまく入ってきて、小生が日本から来た人で、お連れさんはこちらの人でしょと言う。「どうして分かるの?」と聞くと、目を見ればわかると言う。日本から来た人は非常に目が鋭くなっていて、こちらに住んで永い人は日本人の本来の目つきだと解説してくれる。本人はリラックスしているつもりだが、心身はやはり緊張し、目つきは鋭くなっているらしい。もっとも団体旅行の人には当てはまらないようだが。
 義弟の成功を祈って乾杯し、夜遅くホテルに戻る。

 買って帰ったインディアンの砂絵

 翌朝はお土産の買物。リトル東京には岡田屋等、沢山のお店がある。COTYのコンパクト付き口紅$6(1$=260円前後、日本のデパートで4千円程度で販売)が目下の米国出張時の人気土産品。まとめ買いすると$5にしてくれる。この時買ったインデイアンの砂絵は今も書斎の壁を飾っている。

 帰りの機内、スチュアデスのあのスリット嬢は?? 今、彼女はいずこの空を飛んでいるのか。



Give me a seat ! - コロンバス - (異文化体験5 テーマ探しの旅3)

2010年04月22日 23時43分43秒 | 異文化体験_北米
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GIVE ME A SEAT ! -コロンバス- 1983.9.22~23


最近のオハイオ州の州都コロンバス(Wikipediaより)

 早朝、初めての海外出張で単独行動を取ることになってやや不安げなU君とあさってのロスでの再会を約し、アメリカン航空のチェックインカウンターに行く。
 座席を貰おうとチケットを渡すとしばし待てと言う。まだ早いのかなあと椅子に座って待っていると、しばらくして場内アナウンス。「セントルイス行き446便はEquipmentを交換します。小さくなるのでチェックインは係員の指示に従って欲しい」との事。

 Battell Colombus研究所

 さあ、大変である。人それぞれに予定というものがある。我こそは席の割り当てを貰おうと乗客たちがカウンターに殺到する。我々も負けてはならじと交渉するが、飛行機が小さくなって、おまけにオーバーブッキングとあってはどうしようもない。
 しかしながら、そこは日本人の粘り腰。米国人が登録だけしてベンチに腰を下ろして待っているのを横目に、カウンターの横から離れず、まだかまだかの催促。Cクラス優先で割り当てが進む中、あと数席という状況になって我々のコール。無事セントルイスまでの座席が確保出来た。セントルイス経由コロンバスに到着したのは夜の10時頃。ホテルリムジンで迎えに来てもらい、一息入れたのはもう日付が変わっていた長い一日であった。

Battell Colombus研究所の中庭

 オハイオ州コロンバスは州都であるが、これといった観光名所があるわけでもない小さな町である。ここに世界最大のシンクタンク、Battell研究所がある。厳重なセキュリテイシステムのチェックを受けて、とある部屋に通される。分担テーマに関する彼等の見解を正すのが訪問の目的である。

 Battell研究所の本部玄関にて

 オハイオ州は、ほぼ1年ぶりの訪問である。田舎だけに人情味溢れるもてなしは旅行者の我々にとって有り難いもの。ホテルのオーナーがバテル研究所に行くと言うと送ってやろうと言ってくれる。討議に集中して午前中の予定の時間をオーバーし、急がないとフライトに間に合わないかも知れない事態にタクシー会社に電話して最優先でタクシー手配をしてくれた研究員など、心からのアプレシエーションである。

 広大なダラス・フォートワース空港

 コロンバスからはダラス/ホートワース経由で西海岸に逆戻り。ダラス空港はその大きさに仰天。同じアメリカン航空なので乗り継ぎはさほど離れていないのだが、それでも数百mは歩いたであろうか。一度降りてみたい空港である。

 米国に来て困るのはお土産探し。どの都市に行っても名前が異なるだけのTシャツ(フットボール、大リーグの球団等)や小物商品が売店に並んでおり、純米国製のものは少ない。ダラスで買った金属製の飛行機の置物も台湾製。ここまで来るとさすがに暑く、アイスクリームを頬張りながらのショッピングであった。

 機内食イメージ(JLエグゼクティブクラス)

 ロスまでの数時間のフライトはさすがに眠気との勝負。まわりが騒がしいので目を覚ますと皆さんお食事が済んでコーヒーをすすっている。自由の国アメリカは寝ていると食事もさせてもらえない。食べたくないので寝ていると無理に起こしてくれる日本の航空会社とは大違い。着陸寸前まで一人食っていたのは小生だけであったようだ。





勉強一筋 - メンロパーク - (異文化体験5 テーマ探しの旅2)

2010年04月18日 18時27分11秒 | 異文化体験_北米
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勉強一筋 -メンロパーク-  1983.9.18~22


機窓から見たゴールデンゲートブリッジ

 DATE21プロジェクトも専門リサーチャー同士の会議を設ける所まで来た。日本で調べ上げた事をベースに、SRIの専門家と討議するのが今回の目的である。4つの分野を一人ずつ分担し、三日間の日程で詳細な詰めとターゲットの絞込みを行わなければならない。

 4月のゆったりとした旅とは異なり、今回はハードスケジュールである。早朝から夕刻まで1テーマずつ、SRIの専門家のプレゼンテーションに対し疑問点をぶつけ、自らの考えを主張し討議するのであるが、彼らも仕事を貰おうと売り込みに必死である。

    
    スタンフォード研究所(SRI) 上空写真と本部玄関


 彼らは自らの専門領域に誇りを持っており、極端な言い方をすれば企業は自らの目的を達成するための止まり木に過ぎないと思っている。これは特に研究者に多く見られる傾向である。スピンオフは日常茶飯事で、特にSRIのような研究機関では立派な業績を挙げれば企業からスカウトされたり、自ら起業家に変身したりする場合も多い。また、自らの専門領域が生かせる求人があると容易に研究者が移籍していく。春に我々のプロジェクトをコーデイネートしていた研究マネジャーが、秋にはもう変わっているという事態に我々は驚くと共に、米国ビジネスの活力のようなものをひしひしと感ずる。

 
     常宿となったマーメイド・イン          午後のひと時、モーテルのプールサイドで。

 彼等の必死の売り込みと、そこに矛盾・問題点を見出し事業化評価を行おうとする我々との討議。そんな緊迫した雰囲気の中で会議は進められていく。ホテルに戻っても、翌日の討議に備え遅くまで自らの担当分野のチェックに勤しむという今までの海外出張とは少し趣の異なる日々が続く。ちなみに小生はこのプロジェクトのリーダーとして、又専門リサーチャーとして一つのテーマを分担。テーマ名は、Rechargeable-Solar-Battery。

     
 世界で一番旨いスペアリブを食わす店「マッカーサーパーク」  スーパーマーケット「ペイ・レス」のロゴ

  スタンフォード・ショッピング・センター


 周囲に何もないメンロパークという学生街は、そう言った意味では最高の環境である。
 例の旧駅舎を改造したレストラン「マッカーサーパーク」でのスペアリブ、PAY LESSでのカリフォルニアオレンジの買出し、スタンフォード大学ショッピングセンターでの買物、日課となったこれらの楽しみ以外に何もすることがない。

 予定された日程を有意義に過ごした我々、最後の夜はパラアルトの日本食レストランにSRIの専門家を招き、さよならパーテイ。
 明日からは行動を別にして、小生とM君はオハイオ州コロンバス・バテル研究所へ、U君は西海岸の別の大学に、M氏とT氏はカーネギーメロン大学を訪ねる。



川がピンクに染まる時 - シアトル - (異文化体験5 テーマ探しの旅1)

2010年04月13日 09時51分54秒 | 異文化体験_北米
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 さて異文化体験「その5」は、4回に分けて技術立社を目指す「テーマ探しの旅」です。


川がピンクに染まる時 -シアトル-   1983.9.18

 大阪への乗り継ぎの悪いPA(パンアメリカン)に懲りてJL(日本航空)で飛んだシアトルへの機内は、中国人が多いせいかチャイナドレスのスチュアデスがいる。中国語の機内放送を一手に引き受けてエグゼクティブクラスの我々の席の前に座っている。ドレスのスリットが以外に深く目の保養に申し分がない。隣に座ったM君はしきりとボタンを押してスリット嬢を呼んで飲み物の注文。日本人?それとも中国人? そんな他愛もない二人の質問に、ニコっと笑って「どう思われます?」と切り返す。日系中国人。これが正解だそうな。

  チャイナドレスのスチュアデス(イメージ)
 

 小生が彼女にお茶を頼んだ時のこと。丁度テーブルに彼女がお茶を置こうとした時、気流の変化で機体が大きく揺れ、手元が狂ったお茶が小生のズボンを濡らしてしまった。それも足の付け根に近い部分である。エクスキューズを言うや彼女は、慌てて濡らしたタオルを持ってきて、小生の股間に手を伸ばしてすばやく拭いてまわる。場所が場所だけにうら若き女性にそうそういつまでも拭いて貰うわけにいかない。「もう大丈夫」と少し未練気にご辞退申し上げる。幸い乾燥した機内のこと、シアトル・タコマ空港に降りる時は跡形もなく消えている。それでも気にする彼女に有難うと握手。帰りの便も一緒だといいなあと独り言。

 ワシントン州シアトル。タコマ空港から道路沿いのボーイング社の工場を横に見て市内に向かう。秋田県人がいち早くこの地に入植、高台にある高級邸宅はどことなく日本庭園風の風景が見られる。気候も日本の東北地方に近い。


 船の上げ下ろしをするためのハイラム・M・チッテンデン水門

 
         ハイラム・M・チッテンデン水門横のFish Ladderと、水中ののぞき窓 


 フィッシャーマンズターミナルに程近いワシントン湖運河にバラード・ロック(Ballard Locks)とも呼ばれるハイラム・M・チッテンデン水門(the Hiram M. Chittenden Locks)という水位調節用の水門があり、その水門の横にFish Ladderがある。この運河は、船が淡水と海水を往来できるように船の上げ下ろし(潮によって2mから8m)をするために作られたもの。


 
     海から戻ってきた鮭が、生まれ故郷に戻る姿をトンネル内のガラス窓から見ることが出来る


 丁度この辺りは海水と淡水の分岐点で、海から戻ってきた鮭が、ユニオン湖、ワシントン湖を経て生まれ故郷に戻っていく姿が、トンネル状の階段側道のガラス窓を介して見ることが出来る。おりしも日ごとに秋が深まる季節。鮭が大きな身体をくゆらせて川を昇っていく様が目前に繰り広げられる。段差のついた水門を一息ついてはジャンプし、また一息ついてはジャンプする様に、思わず「がんばれ!」と言いたくなる。


 ワシントン湖の Evergreen Point Floating Bridge(2285m)

 ワシントン湖の Evergreen Point Floating Bridgeという2285mの浮橋を車であっという間に通り過ぎ、郊外にある鮭の養殖場に向かう。川幅がどんどん狭くなり、川底の小石を巻き込むような浅瀬に果たして鮭がいるのだろうか。そんな疑問を感じながら40分近く走って養殖場に到着。


 
          川の上流の養殖場          プールの水面を覆いつくす鮭の姿(背びれが見える)


 大きな丸いお椀を伏せたようなコンクリート製のプールに、いるわ、いるわ。大きな図体の鮭が水面を埋め尽くし、背びれだけがまるで鮫のように突き出ている。ここから少し歩いた所に水深10cmもない小川が流れている。薄日に水面が反射しきらきら光っているが、近くに寄って目を凝らして見ると、なんとピンク一色に染まっている。身体中をピンク色に染めて、疲れ切った身体に鞭打って産卵の場所と自らの死に場所を求めて、なお昇ろうとする姿は神秘的な荘厳さと感動を見る者に与える。


 川をピンクに染める産卵の鮭たち

 川がピンクに染まる町、シアトル。がんばれ、サーモンたちよ!



スペアリブと税関と -パロアルト&メンロパーク- (異文化体験4 Leap, Leapの旅2)

2010年04月05日 09時50分11秒 | 異文化体験_北米
スペアリブと税関と -パロアルト&メンロパーク- 1983.4.5-4.10


 スタンフォード大学
                                 
 三日目の朝、コンチネンタル・ブレックファーストと言えばかっこよいが、モーテルのおやじさんが小さなパン切れ数枚とコーヒーをくれるだけの食事では頼りないので、道路向い側のデニーズに行く。禁煙席と喫煙席とに分かれていて、田舎の街とは言えインテリの街の片鱗がうかがえる。

 気楽な常宿「マーメイド・イン」

少し汗ばむような初夏を思わせる日差しの中をSRIに徒歩で赴く。お昼過ぎには全ての打合せが終わり、一旦モーテルに戻る。マーメイドインにはちゃんと中庭にプールもあって、メキシカンの親子が戯れている。一泊朝食付きで$37。充分日当内でお釣りがくるので今回の出張は赤字にならなくて有難い。

 大学のHoover Towerを背景に 

     
(左)Quad Memorial Churchを背景に (右)大学のブックストアにはお土産になりそうなものが

夕刻までスタンフォード大学のキャンバスを散策する。東のハーバードと並び賞される1891年創設の名門校である。ホットパンツとTシャツ姿で教材を入れたナップサックを背負って自転車通学する学生があちこちに見受けられる。ブックストアを覗くと扱う本の多さに驚かされる。丁度ベストセラーの「メガトレンド」が在庫まさに1冊というので買って帰る。スタンフォードのロゴ入りクラッチバックも安くお土産に手頃な価格であった。

 
(左)写真下部の緑が「Sunnyvale Municipal Golf Course」上部が軍の飛行場  (右)同行のM氏と

 翌日は、SRI極東代表のT氏の提案で「Sunnyvale Municipal Golf Course」というシリコンバレイに近いSunnyvale市の経営するパブリックゴルフ場でプレイすることになった。先週カリフォルニア州では珍しく大雨が降り水はけの悪いこの土地のゴルフ場はほとんどクローズド状態。唯一プレイ可能なのがこのサニーベールのようである。すぐ横が軍の飛行場とあってひっきりなしに軍用機が離着陸する。まさにその機体めがけてドライバーを打つ醍醐味はなかなか日本では味わえない。貸しクラブにラージボールという条件もあって成績はいまいちであったが、長い長いコースを堪能した。

 
        木造駅舎を改造したスペアリブが有名なレストラン「マッカーサーパーク」

 最後の夜は例によって旧駅舎のレストラン「マッカーサーパーク」。スペアリブがここの名物料理。1ポンドのスペアリブに挑戦する。味が何とも言えぬ甘さとスパイスの香りでいくらでも入る。以後、メンロパークに来ると真っ先にこのスペアリブを味わうことになる。

 いくらでも胃袋に入るスペアリブ

 帰りのパンアメリカンは定刻を大幅に遅れてサンフランシスコ空港を飛び立った。成田での乗り継ぎが2時間なので、この遅れ様では目一杯エンジンをふかせても1時間程度の乗り継ぎが取れれば良い方だろう。PAとJLは接続しないし、悪くすると成田泊まりかな、とPAのクリッパークラスの座席に身を沈めていろいろ考える。

 成田での接続が悪く、税関の廃棄同意書を書く羽目に

 成田に着いたのはJL出発の20分前であった。大急ぎで乗り移って欲しいとキャビン・アテンダントに言われ、荷物はどうなるの?と聞くと間に合うかどうか分からない、念のために書類に住所、氏名を書いてくれという。この時である。そうだ、あのペントハウスはバゲージの底にショッピングセンターで買ったレコードと一緒に忍ばせたことを思い出したのである。
 結果はやはり間に合わず、単身我が家に帰ったが、翌日送られて来たバゲージは、誰かがさんざん荷物を穿り返した跡が歴然と。ない、ペントハウスがない。
 その代わり、税関の「廃棄同意書」がしっかりと入っていた。

 これからは、絶対JLに乗るぞ!