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旅行記、世相独言

砂漠をコンボイでアブシンベル - アブシンベル - (異文化体験41 五千年の時空を超える旅6)

2014年04月28日 11時58分58秒 | 異文化体験_アフリカ
(写真はクリックで拡大します)

砂漠をコンボイでアブシンベル ―アブシンベル&アスワン― 2008.12.22

 ロビーでコーヒーと朝食バスケットを受け取り、ホテル出発は3時45分。バスは市内某所に向かい、各国の観光客を乗せた様々なバスと合流する。大型バスから小型バスまで10数台のバスを警察が護衛するコンボイ(Convoy=護送集団)で270km先のアブシンベルを目指す。我々を国際テロ集団や盗賊などから護衛してくれるのだそうだ。しかし、本当にその必要性があるのかどうか分からないが、その理由は後ほど。
 まずは、アスワンを4時15分に出発!

 真っ暗闇の砂漠の中を我々のバスは、後続のバスに次々に追い抜かれながら月明かりだけが頼りの道をひた走りに走る。2時間ほど走ると夜空が徐々に紅がさすように明るくなり、6時半砂漠にご来光が!!

   リビア砂漠のご来光! 

 一面の砂漠の中を制限速度80km/hr(バスの場合、乗用車は90km/hr)を頑なに守る我々のバスは後続の全てのバスに追い抜かれて、護衛もなくただ1台アブシンベルに向けて走っている。警察にも見捨てられたのか? コンボイの必要性って本当にあるの?
 アブシンベル到着は、午前7時50分。

            
(左)発見時の姿(図版ベルツォーニ「エジプトとヌビアでの活動の物語より)  (右)水没寸前のアブシンベル遺跡

 アブシンベルの岩窟神殿は、1813年スイス人ブルクハルトにより発見された。1815年ベルツォーニは入口の3/4を埋め尽くす砂に、中に入る希望を一度は捨てたが、翌年3人のイギリス人を連れて戻り3週間の除去作業で中に入ることに成功した。しかし、彼は失望せざるを得なかったようだ。思っていたような金銀財宝はなかった。

                            
       (左・右)アブシンベル大神殿正面(神格化されたラムセス2世の4体の巨像が印象的) 

                          
(左)正面左2番目の上半身は紀元前1250年ごろの大地震で崩落し、足元に。  (右)足元から見ると20mの巨像は圧倒的


 第19王朝(3300-3200年前)ラムセスⅡ世が、自らを神格化させた巨大神殿を何故この地に建造したのか不明だが、多分この地ヌビア地方(アフリカ奥地に続く渓谷地帯)は金、銅、閃緑岩等の石材が豊富にあり、軍事的、商業的に重要な場所で、そこにエジプトの力と王自身の威力を示すために建造したと思われる。

                    
内部は撮影禁止(アブ・シンベル神殿より)(左)大列柱室(8本の冥界の支配者オシリス像) (右)シリアの城塞を攻めるラムセス2世

 大神殿から北に100m離れた隣には小神殿がある。ネフェルタリ王妃とハトホル女神に捧げたもの。正面碑文には「ラムセス2世が偉大なるネフェルタリ王妃のためにこの岩窟神殿を造った・・・・永遠に彼女のために朝日が昇る」と彫られている。

        
(左・中)アブ・シンベル小神殿(正面像はラムセス2世とネフェルタリ王妃)  (右)神殿内部の柱に描かれたネフェルタリ王妃像


 アスワン・ハイダム建設に伴い、1964-68年にユネスコの支援で元の位置から距離約200mほど、高さ約65mほどの場所に移設された。このダム建設で神殿のみならず、100万人のヌビア人が移住させられた。


エブ・サンバル全景(移転後)(スイス人ブルクハルトの旅行記はこの地を「エブ・サンバル」と記載。


 エジプトの南端に位置するアブシンベルはカイロから1180km離れており、砂漠に囲まれた内陸気候。まだ朝早い時間帯で風があるため日陰は肌寒いが、日向はこれから暑くなるだろう。
 10時に再びアスワンに向けてコンボイの出発である。陽が高くなるにつれて砂漠の温度は急上昇、遠くに蜃気楼が出現。何もないのにオアシスでもありそうな小さな湖のようになって見える。

   帰路の砂漠で見た蜃気楼(湖のように見える:クリック拡大して下さい)


 アスワン・ハイダムは1970年ドイツ・ソ連の協力で完成し、210万kwの発電能力をもつ。ダムから見るナセル湖は海のように広い。ダム周辺で「砂漠の砂をペットボトルに詰めて記念に持って帰っては?」との現地ガイドの薦めに甲子園の土ならぬ砂漠の砂詰めを全員で行う。

   
(左)210万KWのアスワン・ハイ・ダム    (中)説明パネル(ダムの高さ111mと読み取れる)   (右)広大なダム湖を背景に

            
(左)ダム建設に伴い巨大な湖(ナセル湖)が出現           (右)ナイル川に移転されたイシス神殿

            
(左)堰堤上の記念碑(当時のナセル大統領の名も)          (右)ダム近くで砂漠の砂を記念に


 アスワンの街に戻って昼食。午後は、古代の石切り場に行く。

  アスワンのメインストリート 

 
 数千年も前にあの巨大なオベリスクがどのように造られ、建設されたのか、大いに興味があるところ。切りかけのオベリスクが見られるという石切り場に行く。40m級の最大級のオベリスクが、切りかけ途中で割れたため放置されたようだ。オベリスクは石の尖塔で、古代エジプト人は「ケテン」と呼んだ。切りかけのオベリスクは花崗岩で、石に切り込みをつけ、木のくさびを打ち込み、くさびを水で濡らし膨張させて石を割るという古代の技術が見て取れる。

     
(左)切りかけの40m級オベリスク(足元部から見る、割れているのがわかる) (中)同じく尖塔部から見る  (右)石切り場全景 

  今日の入場チケット

 さて、夕刻からは列車でギザに向かって北上する。その名も「ナイル・エクスプレス」。約12時間の列車の旅である。

(今回の参考図書:ジャン・ベルクテール著「古代エジプト探検史」、マグディ・ガマール編著「アブ・シンベル神殿」)


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ナイル河上の値切り合戦とバースディケーキ - アスワン - (異文化体験41 五千年の時空を超える旅5)

2014年04月23日 22時37分20秒 | 異文化体験_アフリカ
(写真はクリックで拡大します)

ナイル河上の値切り合戦とバースディケーキ  ―アスワン― 2008.12.21

 オム・コンボの神殿を後に、アスワンまでバスは一気に走って、少し遅い昼食をアスワン・ナイル中洲の島のレストランで取る。飲み物にヌビアコーヒーがあるというので、早速注文。まるでお猪口のような形状の小さな容器に入ったスパイシーな癖のある味のコーヒーであった。

        
(左)ナイル中流域のアスワンの街              (右)対岸を見るとまさに砂漠の中の街

        
(左)ほとんど黒色に近いスパイシーなヌビアコーヒー          (右)昼食(参考写真)

 アスワン上流は昔ヌーバ族という黒人支配の地域。ヌビア人と言われる色黒の人たちが多い。食後はナイル独特の帆掛け舟、ファルーカによるセイリング。ナイル川の運航は、帆の張り方で行き先が分かると言う。上流の奥地に向かう船は帆を上げて、北へ下る(カイロ方面)時は帆を下げて、ということらしい。

 ナイル名物のファルーカ

        
(左・右)アガサ・クリスティが『ナイルに死す』を執筆し、その舞台となったことで知られる名門ホテル「オールド・カタラクト」


 しかし、この日はあいにく風が全く無く、3人のヌビア人の船頭達が25名も乗った船の櫓を漕ぐも、遅々として進まない。
 そのうち、船頭が船底から土産物を取り出し商売を始めた。乗客は大阪のおばちゃん達が中心である。案の定、値切り合戦が始まった。
しかし、ヌビア人の船頭もおいそれとまけない。延々、1時間、船はほとんど動かず、白熱の値切り合戦も不調に終わってしまった。

        
(左)絵になるヌビア人の船頭                 (右)全くの無風状態、他の船頭達も漕ぐのをやめて休憩 

 気がつくと昼食場所と目と鼻の先の別の中洲にあるホテルが今宵のホテルだそうな。まともに漕げば15分とかからない距離ではないか。「イシス・リゾートホテル」、小奇麗な近代ホテルである。

        
(左)別の中洲にある「イシス・リゾートホテル」          (右)ホテル専用ボート

        
                         (左・右)イシス・リゾート・ホテルの船着場

 2006年の世界銀行発表のデータによると、エジプトの一人当たり国民総収入(GNI)は購買力平価基準(PPP)で137位。低位中所得国に分類されている。ちなみに日本は24位。
 サハラ砂漠以南のほとんどのアフリカ諸国は低所得国である。エジプトの主な歳入源は、石油・ガス、観光、スエズ運河通行料の3つ。
 バスの車窓から見る田舎の光景はとても貧しいものである。観光地で売られている小物は、そのほとんどが数百円程度のものばかり。売り子達はわずかの利ざや稼ぎで生活をしているのだろう。
 そう思うと値段を値切る駆け引きの面白さ・楽しさはあるものの、一方で「施しの精神」も必要なように思われる。特に個人売り子の場合には。

        
(左)部屋のテラスからの眺め                    (右)砂漠の中のまさにオアシス


 ホテルで1時間ほど休憩後、香水瓶の店に寄ってから夕食に行くと言う。ガイドが香水瓶屋での時間を決めなかったせいで、ここでも買う人の値段交渉で1時間近く買う気のない人が待たされて、ひと悶着。

  夕闇迫るホテルの正面玄関 これからボートで夕食へ

 夕食はコフタという細長いミートボール。
 ところで今日は小生の誕生日。内緒にしていたが添乗員が気を利かせてくれて、大きなケーキで誕生祝い。皆さんにもおすそ分け。それにしても甘過ぎるケーキであった。

        
(左)名物のコフタ(細長いミートボール)  (右)食後の誕生祝いケーキ カット後の小生分(元ケーキは巨大、何せ26人分のケーキ)

 「明日はモーニングコール 何と午前2時半です!」のアナウンスに、全員早々にホテルに戻ってお休みなさい!

    早く寝よ!と各自ホテルの部屋に (何せ、モーニングコールは2時半!) 


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ヒエログリフとカルトゥーシュ -エドフ & コム・オンボー (異文化体験41 五千年の時空を超えた旅4)

2014年04月18日 16時48分12秒 | 異文化体験_アフリカ
(写真はクリックで拡大します)

ヒエログリフとカルトゥーシュ ―エドフ&コム・オンボ― 2008.12.21

 今日はルクソールからアスワンまで230kmのバス移動。7時30分の出発である。

 古代エジプトの特徴の一つに、3000年の長きにわたって王一人が神々と人間との仲介役をしたことが挙げられる。
 ファラオは新王国以降の王の呼び名で、それ以前のペル・アア(大きな家)が転じたものと言われている。

 カルトゥーシュは、ヒエログリフの王名を囲んだ楕円形の王名枠。「永遠」を示す「シェン」(Ωとよく似た文字)という文字を引き伸ばして描いたもの。ヒエログリフを語る上で、ナポレオン、ロゼッタストーン、シャンポリオンといった所は良く知られた話である。

            
 ヒエログリフとアルファベット               マイネーム入りのTシャツ 

 バスの中で、カルトゥーシュで自分の名前を囲ったTシャツの注文取りが始まった。エジプト綿は毛が長く丈夫なことで知られている。
 プリントでなく刺繍で飾られるのが味噌のようで、1枚1500円の注文は好調である。ちなみに、皆さんもヒエログリフで自分の名前を書いてみては如何でしょう?。 小生も自分用に注文したのが上の写真のTシャツ。


                
(左)エドフ・ホルス神殿入場券とコム・オンボ神殿の入場券   (右)エドフ・ホルス神殿の塔門と見事なレリーフ        

 かつての上エジプトの州都エドフには、ホルス神殿がある。高さ36mの巨大な塔門にはスケールの大きなレリーフが刻まれている。神殿の主のホルス神は、はやぶさの頭部を持つ天空の神。オシリス神とイシス神の子供である。この神殿そのものは紀元前200年代に築造されたようだ。

        
(左) 巨大な列柱式神殿の正面                  (右)列柱式神殿前のホルス神像

        
(左)神殿至聖所の内部                      (右)見事なレリーフが残っている

               
(左)列柱式神殿上部の門には往時をしのばせる色彩が残っている    (右)別のホルス神   

 Tシャツ1枚で汗ばむ陽気である。見物を終えて時間待ちに休憩所に寄ると、「ドリンク類を買うとお釣りOK!」という店員の声。
早速、15L.E.のファンタに50L.E.札を出すと35L.E.が小銭になって戻ってきた。これでやっと1L.E.のトイレも大丈夫。
 バスの運転手もミネラル2本1$で提供しているが、暑さと乾燥で喉が渇くのか飲料水が良く売れる。

  エドフからコム・オンボへの道中にて(ナイルを行きかう船)


 コム・オンボはアラビア語でオリンポスの丘という意味だそうだが、ナイル河畔の丘に聳え立つコム・オンボ神殿は、プトレマイオス朝(紀元前300年代)の建物。ホルス神とソベク神(ワニの神)を祭るため2重構造の神殿になっている。ナイロメーター(水位計)やワニのミイラも見ることが出来る。

        
     (左・右)コム・オンボ神殿(左の入り口はホルス神を、右の入り口はソベク神=ワニの神を祀る)

          
(左)ここでも見事なレリーフが残っている            (右)干からびたワニのミイラも見ることができる


    
(左・中)ナイロメーター(ナイル川の水位計) (右)アスワンから北へ50km かつて水路の要衝であったコム・オンボ


 アスワンへの幹線道路には、いくつもの検問所がある。観光警察の警察官が銃を手に何することもなく時間を過ごしている。また、通りすがりの小さな集落では、ガラベーヤを着た男達が何するわけでもなくたむろしている。

  
(左)ナイル河畔・コム・オンボ神殿横の緑の農地    (中)沿道の女子学校、休憩時間?        (右)幹線道路の検問所

 5000年前から2000年前まで世界最先端の文化国であった誇りをこの人たちはどう思っているのだろうか? 郊外の生活スタイルは正直5000年前と何ら変わっていない。


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カルナック神殿、音と光の子守唄 - ルクソール - (異文化体験41 五千年の時空を超える旅3)

2014年04月12日 17時38分28秒 | 異文化体験_アフリカ
(写真はクリックで拡大します)

カルナック神殿、音と光の子守唄 ―ルクソール― 2008.12.20

 午前の王家の谷見物を終え、ルクソールに戻って昼食。アエーシという丸型パンと前菜として各種ペーストが出る。エジプトスープの定番モロヘーヤ・スープに続くメインは魚料理。この店はアルコールを置いていない。結構、置いていない店が多い。頼んだコーヒーが来たが、何とネスカフェパックとお湯。これがなんと15L.E.(300円)。
 空港両替で50L.E.札を沢山貰ったが、これがなかなかくずれない。3ドルくれと言う。どうも、L.E.の価値よりドルの価値を信じて値上がりした時に売ろうということだろう。小銭が手に入らないので、どのトイレに行くにも(1L.E.約20円必要)不便な国である。

        
      (参考写真 左・中)アエーシとモロヘーヤ・スープ               (右)これがないとトイレに...1L.E.コイン

 クラブ・ツーリズムのツアーは出発時点で各人にトランシーバーが手渡される。さすがに世界中から沢山の観光客が集まるエジプト。ツアー間で説明場所の取り合いで、雑踏にガイドの声も聞きづらいのだが、これは大正解。行く先々の観光名所でガイドからクリアに説明を聞くことが出来る。

 午後の最初の訪問地は、カルナック神殿。

       
(左)カルナック大神殿の正面入り口 両側にスフィンクスが並ぶ       (中・右)大神殿の平面図と航空写真

 カルナック大神殿。主神のアメン神は、テーベの地方神であったが、テーベの発展と共に太陽神ラーと結合しアメン・ラー神という最高神となった。王達はアメン・ラー神に国の豊穣を祈願した。神は勃起した性器に片腕を高く挙げ、その手に統治のシンボル「殻竿(からざお)」を持った姿で描かれている。

    数千年前の建造物とはとても思えない圧倒的迫力

  
                (左・中・右)大列柱室(上部の明かり取りも残っている。残存する色彩が往時の極彩色をしのばせる)

        
(左)神殿にはいくつもの塔門がある   (右)トトメスⅠ世とハトシェプスト女王の2本のオベリスク

 圧倒されるのはスフィンクス参道、二つの塔門に続く大列柱室。高さ23mもある列柱が134本整然と並び、上部空間にはあかり採りの窓まで残っている。更にトトメスⅠ世とハトシェプスト女王の2本のオベリスク、聖なる池へと続く。

                       
(左)聖なる池(航空写真上部にスフィンクス街道が延びルクソール神殿まで続く)  (右)カルナック・ルクソール各神殿チケット

 記録に残るカルナックを探検した最初のヨーロッパ人は1589年ヴェニスの人間であったとか。3500年前の123haの巨大神殿は、その復元作業が14ha進んだに過ぎないが、ゆっくりと着実に進んでいる。


 次に訪れたのは、ルクソール神殿。

        
(左)ルクソール神殿第1塔門(持ち去られたオベリスク) (中)神殿平面図   (右・参考写真)神殿がナイル川沿いにあるのがわかる

 パリのコンコルド広場にあるオベリスクはルクソール神殿第1塔門から1836年に切り出されたもの。ルクソール神殿はカルナック神殿の付属神殿として建設され、当時はスフィンクス参道が両神殿をつないでいた。第1塔門の前のラメセスⅡ世の坐像と1本となったオベリスクが印象的である。神殿の奥は、ローマ時代の砦跡や、コプト教会等が残っており、大いなる歴史を感じさせる。

        
(左)ラムセスⅡ世の中庭                        (右)カルナックから続くスフィンクス街道

 観光初日の最後は、「カルナック神殿の音と光のショー。(オプション)

 一人で参加した小生。夜の過ごし方が困るだろうと思い、「カルナック神殿の音と光のショー」というオプショナルツアーを出発前に申し込んでいた。土曜日の2回目のショーは英語版。第1幕から第5幕まで神殿内を移動しながらのナレーターの声と光のショー。
 
     
(左)「カルナック神殿の音と光のショー」チケット   (右)薄暮にライトアップされたカルナック神殿第1塔門

        
(左)ショーの日本文解説     (中)夜の幻想的な大列柱室を徒歩でめぐる    (右)第5幕は聖なる池の畔へ。

 参加費7000円に期待したが、時差や疲れから3500円分は夢の中、まさに「音と光の子守唄」となった。正直、ここのショーは動きもなく、個人的にはお奨めではない。




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ここ掘れ!ワンワン 王家の谷 - ルクソール -  (異文化体験41 五千年の時空を超える旅2)

2014年04月04日 23時39分39秒 | 異文化体験_アフリカ
(写真はクリックで拡大します)

ここ掘れ、ワンワン。王家の谷 -ルクソール- 2008.12.20

 「鯖腹減る(サバハラヘル)=おはよう!」と教えるのは独身現地ガイドのモハメッド氏。本当はサバーヒルヘールらしい。
 ナイル西岸の王家の谷に向かう道中、サトウキビ畑が広がる。エジプト人の砂糖消費量は何と32kg/年・人、お菓子の甘さは中途半端じゃない。

 西岸入口のメムノンの巨像。アメンホテプⅢ世の坐像だが、坐像の後ろにあるはずの彼の葬祭殿は後の王たちの石材として破壊されて、お気の毒と言わざるを得ない。

            
(左)ナイル西岸 王家の谷入口の「メムノンの巨像」お気の毒!     (右)巨像の辺りから見た王家の谷方面 

 バスはカーナボン卿の家や早稲田ハウスを右手に見ながら王家の谷の奥深くに入っていく。
ビジターセンターは我々の血税も入って鹿島建設が建てたもの。電動カートに乗り換えて墳墓の近くまで行くが、その距離わずか数百メートル。今は冬場だからわずかと言えるが、40℃以上になるともいう夏場のことを想像すると納得。

            
(左)ビジターセンターで電動カートに乗り換え                 (右)カートに乗って王家の谷の奥へ

 王家の谷は、新王国の時代(今から3500年ほど前)の多くのファラオが眠っている。3つのお墓に入れる入場券で、ラムセスⅠ、Ⅳ、Ⅸ世の墓に入る。撮影禁止である。王家の谷自身ビデオ撮影は全面禁止である。しかし、これもおかしな話で、デジカメには動画撮影機能がある。デジカメOKでビデオ×という論理はいずれ見直されるだろう。
 王墓には古代エジプト人が信仰する太陽神ラーを中心とする宇宙の営みや生活様式が極彩色で描かれている。ご興味のある方は、岩波新書:古代エジプト人の世界―壁画とヒエログリフを読む―(村治笙子著、仁田三夫写真)の購読をお奨めする。

            
(左)ラムセスⅠ世王墓壁画(上記図書より)          (右)今日の入場券(上:3墳墓、中:ツタンカーメン、下:女王葬祭殿)

 KV62、これがトゥトアンクアムン(ツタンカーメン)王の墓である。別途入場料2000円が必要。王墓の入口に案内板がある。カメラすら持って入れない。散々、TVで見た王墓であるが、実際入ってみると意外と小さい。
 今もツタンカーメンのミイラが王墓内前室に温湿度調節されたガラスケース内に安置され、玄室にお棺も置かれている。これだけのスペースに、あの数々の副葬品が所狭しと置かれていたのだ。

 
  
(左)王家の谷とKV62(右下)入口                       (中、右)ツタンカーメンの墓発見時の記録写真

 ところで、KV64を目下探索中なのがザキ博士。ツタンカーメンの墓の前には休息所があり、多くの見物人が休息を取っているが、何と墓と休息所の間に新たな墳墓があるのではないかと掘削が始まっている。ツタンカーメンの妻の墓があるはずとのこと。
 まさに、「ここ掘れ、ワンワン」ではないが、何せまだ遺跡の70%が砂の中とのこと。第2のツタンカーメン級が待ち焦がれる。

  ツタンカーメンの妻の墓? ザキ博士が目下発掘中、入口はどこ?
 


 王家の谷を回り込んだ所にあるのが、ハトシェプスト女王葬祭殿。夫トトメスⅡ世の死後、わが子Ⅲ世の摂政となり、更に自らファラオとなったエジプト初の女王の葬祭殿は、3層のテラスからなる素晴らしい建築物である。女王の誕生や古代プントとの交易等がレリーフに描かれている。

  ハトシェプスト女王葬祭殿全景

 1997年11月、この葬祭殿でテロ事件が発生し日本人10名を含む外国人観光客58名が死亡する事態が発生。以後、観光警察を設置して観光立国を目指すエジプトは主要な観光地には多くの警官を配置している。この葬祭殿にも銃を持った警官が多数いる。
 
              
(左) 葬祭殿前の広場(1997年 日本人10名を含む58名がここで射殺された)   (右)葬祭殿下のホルス像 

 葬祭殿の端のレリーフを撮影していると、立ち入り禁止の縄張りの中にいる警官が手招きしている。写真を撮ってやろうということらしい。ご親切に、さすが観光警察!と感心してカメラを渡すと縄張りの中に入れと言う。いいのかな?と思いつつ、言うとおりにすると結構いいカメラアングルで葬祭殿背景に撮影してくれる。雰囲気的にどうもこれは小遣い稼ぎだな!と気づいたが、まさにその通り。おおっぴらには言えないので、ジェスチャーで1$くれ!と言う。

                    
(左)この観光警察官、仕事の合間の小遣い稼ぎ!! (中)立入り禁止域で警察官が撮影 (右)祭殿内部 色彩も鮮やかに。

 今はテロとは程遠い平和な観光地となっていいことだが、有事に彼らは本当に大丈夫?

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いざ、ルクソールへ。不安な旅立ち - ルクソール - (異文化体験41 五千年の時空を超える旅01)

2014年04月01日 15時27分18秒 | 異文化体験_アフリカ
 異文化体験41は、2008年12月に旅したエジプト「5000年の時空を超える旅」を全12回に分けて掲載します。
 テレビ番組や写真で見聞きした古代エジプトの人類遺産、現実に目のあたりにするとそのスケール感で圧倒され、知らず知らず異次元の世界に引き込まれます。どうぞご期待下さい。(写真等は、クリックで拡大しますので参考にして下さい。)

              
(右)クラブツーリズムの添乗員氏から受け取った8日間の旅の記録です。ほぼこの線に沿ってブログを掲載します。


いざ、ルクソールへ。不安な旅立ち - ルクソール - 2008.12.19

 念願のエジプトへの出発である。今回は母親の介護の関係でクラブツーリズムの24名からなるツアーに初めて単独参加の旅である。

 3年ぶりの海外渡航で、出入国カードが不要など手続きにも変化が見られる。昨年来の米国サブプライム問題に端を発した世界同時不況でドル安が続いており、この日の為替レートは「買い」で1ドル=92.63円。ちなみにエジプト通貨はエジプト・ポンド。1$=5.5E£で、1E£=16.8円くらいのレートである。

                      
(左)久々の海外旅行、日本の出入国カードが不要に。写真はエジプトビザ。    (右)エジプト航空機 

 ほとんどが日本人客のエジプト航空MS963便は、関西国際空港を14時10分に離陸し、ルクソールまで14時間30分ほどの長いフライトである。イスラム圏の飛行機のため、機内でのアルコール・サービスはない。
 機材はかなり古いAB340。座席は少しガタついており、背袋は破れたまま、我々のスパンのモニターは故障していて映らず(映画も見られず)、おまけにCAが機内中央の収納戸扉を開けたとたん扉が外れて落ちるというハプニングまであり、無事にルクソールに着いてくれることをひたすら祈る次第である。

                      
(左)エジプト・アラブ共和国国旗                     (右)Coat_of_arms_of_Egypt(国章)

 通称エジプト。正式名称エジプト・アラブ共和国。人口は約8000万人、スエズ運河を擁し、地中海、紅海、リビア砂漠等に囲まれたアフリカ大陸の要の位置にある国である。

                    
(左)エジプト国内の主要な歴史遺跡(Wクリックで拡大)             (右)ヒエログリフ        

 飛行機は中央アジアの国々の上空を飛んで、21時50分に無事ルクソールに到着。963便はルクソール経由カイロ行きだが、ほとんどのツアー客がここで降りる。

 ホテルは、ルクソール市内のIBEROTEL LUXOR。早速シャワーを浴びるも、ありがちなことだが排水がうまく機能しない。メンテナンス要員がやってきて、何とか滞留する湯を流して、どうだ、これでと言わんばかりのジェスチャーだが、根本的な対策は何もしていない。まあ、いいか。今晩と明日の晩だけの宿泊だから。

  ←今日と明日の宿舎「イベロテル ルクソール」

 エジプト航空の機内誌に掲載されていた文化庁のザキ博士の記事によると、現時点で発掘されている古代エジプトの遺跡はおよそ30%。70%はまだ依然砂の下に埋もれたままのようである。今回の旅で30%の1割程度を体験することになるのだろうが、大いに楽しみである。
 

 さあ、明日からは5000年の時空を超えた世界が待っているのだ! 

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