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旅行記、世相独言

中・東欧の初秋の古都 -プラハ-(異文化体験25 中・東欧の旅2)

2012年08月26日 11時14分51秒 | 異文化体験_中・東欧
(写真はクリックで拡大します)

中・東欧の初秋の古都 -プラハ-  1995.9.25~9.28

1618年30年戦争の発端「プラハ窓外投出事件」(Wikipediaより)

 1618年5月23日、ボヘミア王国の首都プラハは、静かな朝を迎えていた。9時を過ぎた頃プラハ城の王宮に集まっていた顧問官達は時ならぬ騒ぎに気づいた。200人ほどの武装したプロテスタント達がいきなり王宮に侵入してきた。侵入者達は、時のボヘミア国王の宗教政策に抗議して、顧問官達に激しく詰めより、押し問答の末、激昂したプロテスタント達は突然、執務室の窓から二人の顧問官を外に放り出した。抗議した秘書官も同様に放り出され「プラハの窓外投出事件」として知られるこの出来事は、17世紀の欧州史上最も有名なエピソードである。これが欧州全域を巻き込んだ30年戦争の発端である。(世界の歴史17巻、ヨーロッパ近世の開花、中央公論社より)


 理事会オフィシャルホテルのインターコンチネンタル

 午後1時前、ロンドンからの英国航空機は、あこがれの初秋のプラハに着陸。Vltava River(ブルタバ川)の河畔に立つインターコンチネンタル・ホテルが今回のIGU(世界ガス連盟)理事会の公式ホテルである。

  
ホテルの部屋に理事会土産が (左)マグカップ (中・右)プラハの案内書(表・裏表紙) 

 対岸の小高い丘の上に「窓外投出事件」のプラハ城が見える。会議登録を済ませ、同行者とCedok(交通公社)の事務所に向かう。IGU理事会の後、ドレスデン経由ベルリンに行く予定で、列車のチケットを先に買おうというわけ。英語がなかなか通じないが、何とか目的の列車の指定席乗車券を確保し、夕刻のレセプションまで街を散策する。

 古都プラハのパノラマ風景(左プラハ城 右カレル橋)

 チェコ共和国の首都プラハは、ブルタバ川沿いの斜面と丘に広がる人口120万人の小さな街である。しかし、そこにはゴシック、ルネッサンス、バロック等、数々の歴史的・文化的建造物が中世の面影を今日に伝え、街の中心部750haが1971年ユネスコによって世界最大の世界遺産に指定されている。ゴシック建築は14世紀、チャールズⅣ世(1346-1378)がチェコ国王(後にローマ皇帝)の時代、30年間でそのピークを迎える。プラハ大学やチャールズ橋の建設、Karlstejn城等がその代表作である。

 一方、バロック建築は17世紀、厳格なカトリック王朝であるハプスブルク家とその大部分がプロテスタントである臣民との間の数々の緊張関係(窓外投出事件や、その後神聖ローマ皇帝に即位したフェルディナント2世とプロテスタントとの間の「白山の戦い(1620年11月)」)があり「ボヘミアの暗黒時代」の中でドイツ系領主の支配のもと再カトリック化が進み、修道院が再興ないし新設されている。

 夕闇迫る旧市街広場(後方2本の尖塔はティーン教会)

 広場の像は宗教改革の先駆者ヤン・フスの像(1415年処刑)

 夕刻の街の中心部にあるゴシック様式の教会と旧市庁舎に囲まれた広場は、西日に建物が黄金色に輝き、多くの観光客が旧市庁舎の仕掛け時計のパフォーマンスを待っている。
 日本の女性たちに大評判で塗るだけで痩せると専らの評判のクリスチャン・ディオールのスベルト、この時期多くの旅行者が女性達に頼まれるお土産品だが、世界中どこも品薄で手に入らない。ひょっとしてプラハならと広場からの帰路化粧品屋に立寄ると、あった!あった!希少価値のスベルトを2本ゲット!。

 旧市街広場の名物 旧市庁舎の仕掛け時計

 
(左)聖ミクラーシュ教会 観光用の馬車が広場に待機       (右)夜の旧市街広場

 夕刻7時からホテル・プレジデントでチェコ・ガス石油協会の主催による歓迎レセプションが始まった。理事会記録のビデオ班が入り、何故か小生もターゲットになっているようで、出席者と談笑場面を撮りに来る。きっと事務局長のオルガ女史の差し金に違いない。

 プラハ理事会のプログラム

 ライトアップされたプラハ城(プログラムより)

 小楽団がチェコ民謡の演奏を始め、レセプションも佳境に。テラスに出ると、川向こうにライトアップされたプラハ城の見事なシルエットが浮き彫りに。
 
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シェイクスピア・カントリーとブレナム宮殿 -ロンドン近郊-(異文化体験25 中・東欧の旅1)

2012年08月19日 15時00分34秒 | 異文化体験_中・東欧
(写真はクリックで拡大します)

シェイクスピア・カントリーとブレナム宮殿 -ロンドン近郊- 1995.9.23~9.25

 夕刻のロンドン・ヒースローに着陸、最近の定宿となったランガム・ヒルトンにチェック・イン後、ロンドン事務所長と夕食を共にしながら英国の規制緩和論議を交わす。
 今回の旅はIGU(世界ガス連盟)プラハ理事会への出席と英国公益事業の規制緩和に関する情報収集が目的である。

 翌朝、お城好きの同行者と共にシェークスピア・カントリーと1987年世界遺産に登録されたBlenheim Palace(ブレナム宮殿)を巡る。

 シェイクスピア・カントリーのストラッドフォード・アポン・エイボンは2ケ月前LNG-11の際に訪れ2度目の訪問。前回と同様のコースに加え、ホーニー・トリニティ教会の墓地や妻アン・ハサウェイの実家を観光する。9月も下旬と言うのに結構な人出である。

        
(左)現地で購入した案内書      (右)シェイクスピアカントリー(ストラッドフォード・アポン・エイボン)の地図

 
(左)シェイクスピア生家の入場チケット (右)1616年シェークスピアが亡くなるまで住んでいた家の跡地(ニュープレースの庭)

 
(左)シェークスピア生誕洗礼記録(4月26日ラテン語記載)     (右)妻アン・ハサウェイの生家

        
(左)アン・ハサウェイの家入場チケット (右)チャペルストリートのシェイクスピアホテル


 昼食後、オックスフォードシャー・ウッドストックの名城ブレナム宮殿に向かう。

  ブレナムパレスの解説書(写真はノースフロント)

 1705年から1722年にかけてThe Duke of Marlborough(マールボロー卿)初代当主とその妻のために建設された豪華なお城は、むしろチャーチルが生まれ育った所として良く知られている。

 広大な宮殿の空撮写真(宮殿部分) 

 一般観光客のゲートとなる東門にはマールボロー家の旗が紺碧の空に翻っている。北庭を取り囲むように東西に翼を広げたような宮殿の北側には女王の池とそれにかかるグランド・ブリッジに続く。更にその先には勝利の塔が垣間見える。
 お城の東側には9代目当主によって改築された中央にマーメイドのモニュメントが置かれた見事なイタリア庭園が配置され、一方、お城の西側には同じく9代目当主によって1930年に改造されたウォーター・テラス・ガーデンを見ることが出来る。中央と四隅に配置された噴水が無ければ、まるで鏡を敷き詰めたような錯覚に陥る見事な造形美である。

 
(左)ノースフロントのファサード           (右)お城の西側のウォーター・テラス

 お城の正面玄関にはワルシャワ門を真似て造ったと言う真鍮製のロックが装備され、サロンや部屋と言う部屋夫々に見事な装飾が施されている。また大理石のドアケースで飾られた55mもの長さを有する書斎書庫、1732年に完成したお城の中のチャペルには初代当主夫妻と若くして死んだ2人の息子のモニュメントや大きなパイプオルガン等々、全てに圧倒される。

 55mの長さを有する書斎倉庫(正面は巨大パイプオルガン)  

 1874年Sir Winston Leonard Spencer Churchill(ウィンストン・チャーチル卿)はこのお城の中で生れ育ち、晩年もここで過ごしたようだ。1965年没し、ここに埋葬されている。5歳の時の頭髪カールが展示されている。まるでゴルフ場と見間違う程の広大な芝生と森、そして池。必見の城の一つである。

 宮殿の周りは芝生の広大な空間

 ホテルに戻った夕刻、フロントから来客の知らせ。先の展示会のコンパニオン達とホテルのラウンジで2ヶ月ぶりの再会。多方面の話題に時間を忘れ、気がつくと日付変更線が迫っている。明日はプラハに移動するため留学の成功を祈って、See you again.
 
 翌朝は、いよいよ大いに楽しみにしているプラハ行きである。
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こんな所で酒飲んで大丈夫? -コペンハーゲン-(異文化体験24 LNG-11の旅6)

2012年08月11日 18時05分24秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

こんな所で酒飲んで大丈夫? -コペンハーゲン-  1995.7.9~7.12

 
(左)コペンの名門ホテル「ダングレテール」  (右)部屋には沢山のフルーツバスケットが。

 お昼の便でロンドンからコペンハーゲンへ。コペンNo.1のヨーロピアン最高級ホテル・ダングレテールの部屋にチェックインしたのは午後3時頃。西日のさす部屋には、食べきれない位の果物がお皿に盛られ桃を剥きながらニューハウン方面から聞こえる恒例のジャズ・フェスティバルのライブに耳を傾ける。

 ホテルの隣のニューハウンではジャズフェスティバル

 小休止の後、ストロイエ通りに沿って同行のO氏はロイヤルコペンハーゲンの絵皿を、小生はジョージ・ジェンセンの小物を夫々ショッピング。

ストロイエのロイヤルコペンハーゲン(左茶)とジョージ・ジェンセン(右白)のお店

 
(左)ロイヤル・ブルーで有名なロイヤルコペンハーゲン   (右)ジョージ・ジェンセンの作品「Grape」
 
 チヴォリ公園の前に「すき焼き」という老舗の日本レストランがある。どんなメニューがあるのか、仕出しは可能なのか、と、うどんを食べながら店主相手に早速調査開始。今回のコペンハーゲン来訪の目的は1997年に開催される世界ガス会議の際のJGAレセプションの準備・仮予約なのだ。

    
(左)チヴォリ公園の95年プログラム               (右)公園の案内図

 「すきやき」屋の前が公園の入口 かがり火のモニュメント
 
 アメリカンスタイルのテーマパークとは全く趣が異なる大人の公園チヴォリも夏の夜は大賑わい。公園内の池の辺のレストランで遅めの夕食を取る。95年のプログラムでは4月19日から9月17日の開園日は午前11時の開場から午後11時45分の花火まで、絶え間なく様々なイベントが繰り広げられる。


 翌朝、現地のコーディネーター「TUMLARE」社を訪問。スーパーバイザーのP.K氏とホテル・レセプション会場・仕出屋・ハイヤー等の候補を見て回る。

 ホテルは天皇陛下も泊ったと言うSASロイヤルとダングレテールを視察、品格等からダングレテールに決定。コペン市内のホテル部屋数が少ないので早速仮予約を入れる。

     
(左)「DEN GYLDNE FORTUN」の女性スタッフ お店の宣伝? (右)14年前にも訪れた「FISKEKELDEREN」

 仕出関係は有名なシーフードレストラン「DEN GYLDNE FORTUN」の女性スタッフと打合わせ。昼食はP.K氏お薦めの海鮮料理レストラン「FISKEKELDEREN」へ。実はこのレストラン、初めての海外出張でコペンハーゲンを訪れた際(1981年)に利用した思い出のあるレストランだ。カールスベア、ツヴォルグといったビールを持つデンマーク、さぞかしお昼もと思いきや、今やお昼は顧客相手でもパワーランチの時代、日本はまだそんなことをやっているのか?と恥かしい思い。

 
(左)新カールスベア美術館のファサード         (右)美術館内部の空間  こんな所で飲食パーティ本当に大丈夫なの?

 JGAレセプション会場は、永らくホテル開催が続いているので、出来れば趣向を変えてやりたいと思い、いくつかの候補地を見て廻る。候補地は、市内は「新カールスベア美術館」、「王立兵器博物館」、「証券取引所」、郊外はコペンの北クランペンボーグにある「シューティングクラブ」や「海に面したお城」等である。

 
(左)王立兵器博物館       (右)旧証券取引所 

 美術館や博物館内で飲食して大丈夫か?と思うが、そこは大人の社交場の秩序・マナーが確立されている欧州と日本の差が如実に出るところ。
 公の場で酩酊することが個人の人格を疑われる大人社会の欧米と、酩酊状態での失敗に寛大な日本の文化の差。西洋と東洋の考え方の差とも言える。
 結局、美術館は喫煙がダメ、兵器博物館は空間の見通しの悪さ、証券取引所は少し狭く、シューティングクラブ(射撃クラブ)は車で30分ほど必要、お城は天気が心配と夫々一長一短があり、どうしても和食(なま物)を扱う関係でダングレテールの宴会場が無難という結論に。

 街で見かけたバイク

 二日間の調査・仮予約を終え、最終日夕刻の帰国までの時間、再度コペンの街を徘徊する。それにしても、立派なツーリストガイドの後ろのページには日本では⑱禁のナイトクラブやVIPエスコートの色っぽい写真が並ぶ反面、未成年者に対する扱いは厳しく、公的空間での飲食も含め、日本の大人たちよ、もっと大人になれ!

 ストロイエ通りは短い夏を楽しむ人々で賑わっている

 このコペンハーゲンでの世界ガス会議に小生が出席することはまずないが、後任への順調な引継ぎ事項となる旅であった。ストロイエ通りを行き交う女性達は短い夏を満喫するかのように開放的な衣装に身を包んでいる。

14年前に来た時は真冬のコペンハーゲン。短い夏に乾杯!
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ポスト・コングレス・ツアー ミス・サイゴンとディスコと ‐ロンドン‐ (異文化体験24 LNG-11の旅5) 

2012年08月05日 23時19分57秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

ポスト・コングレス・ツアー ミス・サイゴンとディスコと -ロンドン-  1995.7.7~7.9

 バーミンガムからロンドンに戻る

 ロンドン・ランガム・ヒルトン・ホテルにチェックイン後、JGAスタッフの待つニューロンドンシアターへ。ミュージカル「キャッツ」を見たいと言うので、その引率である。

    
      ロンドンのミュージカル「キャッツ」公演 日本では劇団四季が。


      
(左)ニューロンドンシアターのキャッツ公演チケット  (右)ニューロンドンシアター前にて 

 小生自身、米国と日本で見ており3度目のキャッツ、開演は午後7時45分。JGAスタッフ達は、今日はコンパニオン達の案内でロンドン見物をしたようだ。彼らは明日の便で帰国する。



 翌8日は、VIPを湖水地方に案内しているMgr君と夕刻ホテルで合流することになっている。日中、三越でバーバリーのコートを購入。日本でサイズ調整をしてもらう。

        
(左)ミス・サイゴン公演のパンフレット(中)同公演のチラシ (右)1776年のシアター・ロイヤル・ドルリーレーン

 
(左)ミス・サイゴンのシアター・チケット         (右)ミス・サイゴン(Kim)の歌姫   


 夕刻、Mgr君と再会し彼が留学中よく利用した中華料理屋で夕食後、コベントガーデン近くのシアター・ロイヤル・ドルリーレーン(Theatre Royal Drury Lane)でミュージカル「ミス・サイゴン」を鑑賞。
 出だしはちょっと色っぽい場面もあったが、ベトナム戦争時の米兵とベトナム女性の恋物語に徐々に引き込まれ、あっという間の2時間半であった。

 
 終演後、近くのレストランで展示責任者の I 嬢やコンパニオンらが待っているという。店に向かうと、さあ、これから皆でディスコに行きましょう!と言う。もう、午後10時を過ぎている。が、この雰囲気では帰れそうにない。しかたなく、タクシーで仰せのディスコに向かう。

 ロンドンのディスコ風景(参考、北京のディスコとは大違い)


 北京のディスコしか経験のない小生にとって、本場のディスコはそれなりに興味はあるものの、ロンドンの若者が集うディスコはちょっと尻込みしたくなる。
 中に入ると耳をつんざく大音響のディスコサウンドで声が聞こえない。迷路のような暗い廊下には煙草の煙が充満し、階上、階下のダンスフロアーは大柄ないろんな人種の若者達が軽快なテンポで思い思いに踊っている。

 同じくロンドンのディスコ風景(参考)
    
 汗と熱気がムンムンする空間に、小生もせかされて一緒に踊る羽目に。若者の踊りが苦手な小生とMgr君は、やや時間をもてあまし気味。コンパニオン達のバーミンガムとは異なるややセクシーな服装と踊りを眺めつつ、時計に目をやると既に日付が変わっている。今日はコペンハーゲンに行かねばならない。踊り続ける彼女達に、「もう帰るで!」と言うが「もっと踊ろう!」と帰る気配なし。それじゃ、先に引き上げようとMgr君とホテルに戻る。

 LNG-11の多彩なポスト・コングレス・ツアーの終焉である。
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薩摩・島津家と大阪の深~い関係のおはなし

2012年08月02日 18時23分36秒 | コーヒーブレイク
薩摩・島津家と大阪の深~い関係のお話



過日、薩摩・島津家第33代当主、島津忠裕氏から表記テーマについて面白い話しをお聞きしたので、3つの話題を紹介します。

1) 島津家発祥の地は大阪(平安後期から鎌倉時代の話)
島津家初代当主、島津忠久氏(1179-1227)は、源頼朝の庶子(側室の子)で嫉妬深い北条政子の許から親子で逃れ、住吉大社で忠久氏が生まれた。今も誕生石が境内に祭られ、歴代藩主は住吉大社参詣を行ない、かの篤姫も薩摩から京に上る際、堺で下船し住吉大社に詣でたそうだ。門前町のお店で「さつま焼き」が今も売られているとか。
(12世紀末、島津家は源頼朝から薩摩国・大隈国・日向国の三国の統治を委ねられた)

2) 堺商人と島津家と中国・琉球の三角関係(15世紀 室町時代)
島津家の事情:中国へ硫黄を輸出し、大陸から様々な商品を輸入、販路拡大をしたい。
  堺商人の事情:貿易船の航路の安全を確保したい、寄港地が欲しい。
  両者の間に密接な信頼関係が構築されて行く。

3) 第16代当主 島津義久 関が原の合戦 退き口
  豊臣に味方した島津家、9月15日関が原戦場離脱⇒17日奈良⇒18日住吉・堺到着
  9月22日堺発⇒29日日向細島に無事到着
  四日市等近隣泊地から船で逃げず、大阪へ向った理由は、大阪・堺への信頼から。
  大阪・堺商人の協力、とりわけ3人の活躍
   田辺屋道与(住吉の薬種問屋)・・・・お礼に薩摩秘伝の薬の専売特許⇒田辺製薬
   塩屋孫右衛門(堺の唐物問屋)
   井上惣兵衛尉(西宮の蔵入地役人)・・お礼に島津姓を許可⇒島津製作所

近代になり薩摩藩士「五代友厚」が、明治初期の大阪経済復興の立役者となったことは良く知られているが、その前、江戸時代に薩摩藩が500万両の財政破綻に陥る一大危機を大阪商人が救ってくれたので、その恩返しでもあった。

 かように、薩摩・島津家と大阪・堺とは密接な関係・絆が構築されてきた、というお話。



鹿児島に行かれる方! パンフの是非仙厳園・尚古集成館の特別展へどうぞ。
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