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旅行記、世相独言

本州最南端の神社 潮御崎神社と熊野ジオパークセンター

2023年12月22日 22時24分36秒 | 日本遺産
本州最南端の神社 潮御崎神社と熊野ジオパークセンター

2023.12.14-15

(写真はクリックで拡大します)

 南紀勝浦への1泊旅行に大阪から車を走らせた。10数年前、愛犬と勝浦まで旅した時も本州最南端の公園で遊ばせたことを思い出し、潮岬に立ち寄ることにした。
 潮岬灯台への標識に従って誰も停めていない空き地に入ると、駐車場のようで300円を請求された。以前の記憶と景色が違うのだが、灯台方向に歩を進めると公園ではなく潮岬灯台そのものの入り口にたどり着いた。入口の女性が「灯台見物には300円が必要」と言うので辞退すると「本州最南端の公園は駐車場に入る前の道を少し進んだところですよ」と教えてくれた。我々のように間違ってやって来る観光客も多いのだろう。

      
         南紀熊野の名所地図           潮岬灯台
 
 ふと、灯台の入り口横を見ると潮御崎神社の案内が目に入る。灯台のネットフェンスの横の細い道が神社へのアプローチのようで、正直こんなところに神社が!と興味をそそられ行ってみることに。

 以下、神社の概要を「熊野曼荼羅 https://kumaichi.jp/places/70/」の助けを借りて紹介する。
 潮御崎神社の創始は、第12代景行天皇28年、潮岬字御崎にある「静之窟(しずのいわや)」へ少彦名命(すくなひこなのみこと)を初めて勧請したのが創始とされる。その後紆余曲折を経て、明治2年潮岬灯台建設のため、潮見の端から再び旧地静之峰へ遷座し、明治31年と昭和57年に社殿を修復して今日に至っている。

    
灯台横のフェンス沿いの細い道を行くと鳥居と参道が         潮御崎神社本殿(従軍記念の立柱) 

         
 社は石積塀で囲守されている 境内のまるばちしゃの木  灯台から見た神社(潮岬灯台HPより)

 記紀にもたびたび登場するが、古事記・日本書紀に、「十六代仁徳天皇三十年 秋九月十一日大后磐之媛豊楽(宮中での御酒宴)をし給はんとして紀国に遊でまして熊野の御崎に至り、その処の御綱柏を採りて帰り給う。」とあり、御綱柏の木と伝承されて来た植物(まるばちしゃの木)が今も静之窟の周辺に自生している。

          
神社参道入口に平安時代・花山法皇と白河天皇の歌碑  その横にまるばちしゃの木(木肌が魚鱗のよう)
 
 潮岬灯台のある南端の荒磯には黒潮本流が接岸して、速きこと矢の如く白きこと雪の如しと唱われる激流の危険海域で、鰹が群遊する好漁場。江戸時代初期には近隣18ヶ浦漁民が競って御崎沖に出向いて命がけの鰹漁が盛んに営まれたそうだ。

 神社本殿への脇道に「潮岬の鯨山見」の案内標識があるので、行ってみた。鯨山見は回遊してくる鯨を見張るところ。古来、鯨と共に生きてきた熊野灘沿岸の人々、江戸時代初期から組織的な捕鯨が始まり、「鯨と共に生きる」が2016年日本文化遺産(新宮市、太地・那智勝浦・串本の3町)に認定されている。

  
潮岬の鯨の山見の解説         太平洋が一望(岩の上に太公望が)    導路の反対側の透き通った入江

 数々の巨大台風を耐え抜いた石積み塀に囲まれた社殿、平素は訪れる人も少ないようだが、いたるところに戦争のにおいがする。参道脇に立つ忠烈碑や従軍記念の社殿石碑等々、これらを見ていると、私には先の戦争で遠く南洋戦場に散った精霊を、本州で最も近いここ最南端の社から鎮魂のお参りに多くの遺族が訪れたのだろうと思えてならない。

 さて、神社近くには是非立ち寄りたい所がある。
 まず、潮岬灯台
明治初期の江戸条約によって建設された8基の洋式灯台の一つで、明治2年神社の移設と共に着工され、明治6年初点灯。以来、本州最南端の地から沖行く船を見守っている。設計は英国人技師R.H.ブラントン。

            明治6年から今日まで現役灯台

 次に、潮岬公園と南紀熊野ジオパークセンター
 太平洋を一望する本州最南端の公園で石碑を前に多くの観光客が記念撮影をしている。公園内には南紀熊野ジオパークセンターやNHKの天気予報で潮岬を映し出す観光タワーがある。

  
本州最南端からの太平洋の眺め    本州最南端の記念碑    ジオパークセンターと天気予報でおなじみの観光タワー

 ジオパークセンターでは、南紀熊野の複雑怪奇な地層に由来する多くの名所(橋杭岩、古座の一枚岩、那智の大滝、すさみのフェニックス褶曲、ことびき岩等々)の成り立ちを知ることが出来る。

        
 南紀熊野ジオパークセンター     1400万年前の巨大噴火による熊野カルデラがの出現(読売新聞より)

 説明によると、熊野地方はプレートの沈み込みで生み出された3種類の大地(付加体(深海の砂や泥が陸地に押し付けられて出来た岩石、すさみ町のフェニックス褶曲)、前弧海盆堆積体(浅海に溜まった砂や泥が固まった岩石、白浜の千畳敷)、火成岩体(マグマが冷えて固まった岩石、古座川の一枚岩))からなり、とりわけ約1400万年前、熊野地方では世界的もまれな火山の列状巨大噴火により、地下マグマの減少で東西約23キロ、南北約40キロにわたって地面が陥没、「熊野カルデラ」と呼ばれる円形凹地形ができた。この時出来た火成岩が今日の熊野の巨石・巨岩としてその姿を現している。

       
 南紀熊野の複雑な地層(ジオパークHPより) プレートの沈み込みで出来た3種類の大地  ブラタモリでよく出る岩の標本

 南紀熊野ジオパークセンターは、是非立ち寄って欲しいところの一つである。

 我が家から、南紀勝浦まで直行200km。往路潮岬の周回、復路白浜とれとれ市場と海鮮せんべい屋への立ち寄りで、往復440kmほどのドライブでした。

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行ってきました 和歌山市内・温泉と日帰り観光(和歌の浦)の旅

2021年03月22日 14時34分51秒 | 日本遺産
行ってきました 和歌山市内・温泉と日帰り観光(和歌の浦)の旅

2021年3月18日

《写真は、クリックで拡大します》

 春めいてきた快晴の3月の平日、和歌山市内のスーパー銭湯の招待券をいただいていたのを思い出し、ついでに夫婦で和歌山市内の日帰り観光をしてきました。

 阪和自動車道経由で我が家から「天然温泉・西浜御殿の湯」まで約1時間。12種類の温泉等が楽しめるスーパー銭湯で、別料金で岩盤浴、フィットネス、ボディケア等の施設もある。天然温泉の泉質は、PH8.2のナトリウム塩化物強塩温泉(高張性‐弱アルカリ性‐低温泉)。
1時間半ほど温泉を楽しんだら、ちょうどお昼時。

        
 天然温泉「西浜御殿の湯」               12種類のお湯が楽しめる

 20年ほど前、現役時代に利用していた六三園という料亭を思い出し、調べると現在も「がんこ六三園」として営業中とわかり、久々に訪問。
かつての紀州藩重臣の屋敷跡で、大正時代に株の相場師であった松井伊助氏が63歳に別邸を建築し「六三園」と名付け、戦後米軍に接収されたのち、昭和27年(1952)に和歌山銀行オーナーが買い上げ、翌年より「六三園」の名で料亭として運営。平成17年(2005)に「がんこ和歌山・六三園」として運営を引き継いでいるとのこと。
庭園を眺めながらの「天ぷら付きのやわらぎ弁当」(3時までに入店すると、食後のコーヒーとデザートが付く)をいただく。

         
  六三園の邸宅への入り口                庭園に面したお食事処

        
天ぷら付きのやわらぎ弁当(3時まではコーヒーデザート付き)  庭園を臨みながらのランチ

 食後は、天気がいいので日本遺産・和歌の浦方面に車を走らせる。
 「雑賀埼灯台」は、鷹の巣と呼ばれる雑賀埼の急峻な断崖の上に立つ灯台で、双子島等の島々や遠く淡路島まで見渡すことが出来る。雑賀埼には紀州藩の遠見番所が置かれた番所庭園もある。展望台も兼ねた灯台には4、5台の駐車場があるが、そこへの道は狭いので要注意。

      
雑賀崎(鷹ノ巣)からの眺望(左: 紀伊水道に浮かぶ双子島、中ノ島、大島と番所の鼻)(中:紀伊半島方面)(右:雑賀崎灯台)

  
   雑賀崎の説明案内板         灯台周りの整備された花壇       灯台下の撮影スポット        

 ここ和歌の浦は、万葉歌人も感動した景勝地で、山部赤人の「若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る」、柿本人麻呂の「玉津島磯の浦廻の真砂にもにほひて行かな妹も触れけむ」等々、多くの歌に歌われている。
 また、徳川5代将軍綱吉の側用人柳澤吉保が、自らの下屋敷に和歌の浦の景勝を盛り込んだ六義園(りくぎえん)を造営している。六義園は、私が東京単身赴任時、住まいの近くにあって度々足を運んだ庭園だ。
 東京文京区の六義園

 徳川の関連で言えば、初代頼宜公が家康公の霊を祀るために造営した紀州東照宮も近くにあるので、初めて訪問する。108段の結構段差の大きい階段が待ち受けている。鶴岡八幡宮を造営した鎌倉幕府の吉例に倣い、頼宜公自ら指揮をとり藩士らが築いたものだそうだ。体力の衰えを感じつつ、左甚五郎作と言われる装飾彫り物を捜しつつ参拝。令和4年5月15日には、紀州東照宮和歌祭四百年式年大祭が予定されている。

    
  紀州東照宮            左甚五郎作龍の彫刻(社殿正面)     108段の石段(侍坂と言う)

 今回、訪れていないが以前訪れてぜひお薦めしたいのが、養翠園。紀州徳川家十代藩主治宝が造営した、大名庭園としては大変珍しい、海水を取り入れた汐入式の池を配している。 

      
  珍しい汐入式池を配する庭園を持つ養翠園(2012年4月8日訪問時の写真、桜が満開)

 奇しくもこの日、和歌山の標櫻木のある紀三井寺で開花宣言がなされた。いよいよ春到来である。
 帰路は、阪和道和歌山から入って和歌山JCTから無料開放中の京奈和道を利用し、岩出根来・紀の川・紀の川東を経てかつらぎ西で降り、新しく出来た鍋谷道路を利用して和泉市へ。800円ほど高速代が節約出来た。

 なお、現在和歌山県では令和3年8月末まで「和み わかやまっぷ with スタンプラリー」を実施中で、グルメ・お土産・温泉等でのスタンプで、ステキな商品が貰えるので、ぜひ皆さんも紀州和歌山へどうぞ!

            
令和3年8月末まで「和み わかやまっぷ with スタンプラリー」  京奈和道を利用した帰路ルート

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伊勢神宮 斎王と斎宮

2019年11月04日 00時51分04秒 | 日本遺産
伊勢神宮 斎王と斎宮

                           
令和元年10月24-25日


 2019年11月に新天皇が即位のご報告に伊勢神宮に参られるのに先立ち、令和になって初の伊勢詣でに行ってきました。昨年2月にもお参りしましたが、伊勢神宮の近くに660年間続いた斎王の制度が色濃く残る街があることを知り、訪ねてきました。その街が日本遺産のまち「明和町」。

  
明和町の観光ガイドブック(しっかりとしたガイドブックです)     斎王のみやこMAP     

 斎王とは、天皇が即位すると未婚の内親王や女王から占いで選ばれて、宮中の初斎院や野宮で足掛け3年の潔斎生活の後、斎宮に旅立ちます。斎宮はこの伊勢神宮に仕える斎王(いつきのひめみこ)の宮殿と彼女に仕えた官人たちの役所である斎宮寮を指します。

  660年間 歴代の斎王

 日本書紀によると、垂任天皇の時代、皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神に奉じて伊勢の地に神宮を定めたと記されていますが、伝承的な記録が多く実態は定かでないようです。実在した最古の斎王は673年に就任し、泊瀬(はっせ)の斎宮を経て伊勢に入った天武天皇の娘「大来(おおく)皇女」で、斎王という言葉が初めて見られるのは奈良時代だそうです。

 
         斎王歴史博物館の案内書

 10世紀前半に編纂された「延喜式」(律令の施行規則)の中に「斎宮式」があり、斎宮に関する取り決めが書かれています。
 斎王の務めは、天皇に成り代わり伊勢神宮の祭りに参加することで、9月の神嘗祭と6月、12月の月次祭の3回(三節祭)伊勢神宮に詣でたようです。斎宮では当然季節ごとの年中行事が行われました。

 
        いつきのみや歴史体験館の案内書

 「斎宮式」によると、新天皇の即位に伴い斎王は先に述べた3年間の潔斎生活の後、伊勢神宮で9月15-17日に行われる「神嘗祭」に合わせ旅立ちます。多くは葛野川(現在の桂川)で禊を行ない平安宮の大極殿に入り、天皇と対面します。天皇は「都の方におもむきたもうな」と声をかけ、斎王の額髪(ぬかがみ)に櫛をさします。別れのお櫛と言われる厳粛な儀式です。

 群行路と帰京路

 斎王の一行は、都を離れ、近江の国勢多・甲賀・垂水、伊勢の国鈴鹿・一志の五か所の頓宮(仮設の宮)で泊まりを重ね、五泊六日の旅で伊勢に赴きます。この一行は数百人からなり「群行(ぐんこう)」と称されたようです。
 後嵯峨天皇即位の時の斎王は、実の娘で8歳の「良子内親王」。1038年の良子内親王の斎王としての群行は、同行貴族「藤原資房」の詳細な日記でその様子が明らかになっており、再現映像が博物館で見ることが出来ます。
 
 天皇が亡くなると群行路とは異なる帰京路で戻ることになるようで、幼い内親王にとって斎王は父との永遠の別れを意味する場合もあったようです。

 さいくう平安の杜の案内書

 この斎王の都「明和町」は、平成27年「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」として日本遺産認定されました。斎宮跡史跡は東西2km、南北700mの137haが指定され、昭和45年から本格的発掘調査が継続されています。

  
斎宮歴史博物館            館内展示の一例(写真はフラッシュなしでOK) 

  
いつきのみや歴史体験館       斎宮での当時の様々な生活体験をすることが出来ます(入場無料)

 
浅沓(あさぐつ)平安時代の男性の履物   斎宮跡歴史ロマン広場の全体模型

 現在史跡内には、斎宮歴史博物館、いつきのみや歴史体験館、斎宮跡歴史ロマン広場(10分の1史跡全体模型)、さいくう平安の杜等、立派な施設が整備され、伊勢神宮と天皇との関係や古代の斎王の生活等を知り、体感できる場所として、伊勢神宮参拝の折にはぜひ立ち寄りたいところです。

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