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旅行記、世相独言

霧、それともスモッグ - 重慶 - (異文化体験26 中国内陸部の旅5)

2012年11月26日 22時11分00秒 | 異文化体験_アジア
(写真はクリックで拡大します)

霧、それともスモッグ -重慶― 1995.11.06~11.07

 「重慶」の観光案内書と地図

 成都18:20発、重慶行SZ(中国西南航空)4409便が西側機材であることを確認し、40分ほどのフライトを楽しむ。内陸部ではまだ飛行機に乗る人が少ないのであろう、無事着陸すると拍手喝采である。

  西側機材を確認して成都から重慶へ

 飛行場から市内に至る道路は街灯もなく真っ暗である。そんな中を車が我物顔で猛スピードで走る。多分、交通事故も多いのだろう、今も路肩に事故直後と思われる車と自転車を大勢の人だかりが取り囲んでいる。急速な経済発展で電力供給も追いついていないようで、幹線道路の両脇の民家からも灯りが洩れてこず漆黒の暗闇が続く。そんな中、バスは本日の宿舎「重慶揚子江假日飯店」に到着。

 
(左)長江と嘉陵江が合流する山の斜面に位置する重慶   (右)高台に建つ「重慶揚子江假日飯店」

 重慶は四川省第1位の人口を有し、長江と嘉陵江が合流する山の斜面に位置する工業都市である。昔から水運が発達し、現在は「三峡下り」の出発点ともなっている。
 河港の波止場には地上の駅からケーブルカーに乗って急峻な坂を降りて行く。少し場違いな感じの水中翼船の姿も見える。

  三峡下りの出発点でもある河港の波止場への急峻な坂

  急峻な坂の交通手段のケーブルカー

  スモッグの中に水中翼船の姿も。地元民は霧と言う。 


 街や川面そのものはどんよりしたスモッグに覆われているが、地元の人たちは霧だと言い張る。しかし、どう見てもこれはスモッグである。さしずめ中国のロンドンといったところか。さすがに、坂が多いため自転車の洪水をほとんど見ない。
 トロリーバスも走っており、路上で運転手が時々外れる電気ポール(パンタグラフ)を屋根の上に登って直している。また、内陸部の都市との交通の要所ともなっており、大型路線バスの屋根には大きな荷物が所狭しと積み込まれている。

 昔懐かしいトロリーバス
 所々でパンタグラフが外れて運転手が屋根の上で修復している姿を見る 


 重慶燃氣有限責任公司を訪問する。沿岸部と内陸部の経済格差を反映して会社の施設やガス設備にはかなりの格差がある。ここでも中央政府に対する不満が感じ取れ、日本のガス業界の資本が期待されている。
 先方の出席者の中に紹介を受けない人民服姿の男性が最後まで無言で同席している。後で中国共産党の役人と分かった次第。

 
               (左、右)背景の建物は「重慶人民大礼堂」

 LPGを原料とする工場見学の後は、大口顧客の見学。用意してくれたのは自動車工場。もとは軍の兵器工場だが、改革解放政策で自動車工場に変身。
 しかし、どこかで見たことのある車が生産されている。そう、SUZUKIのアルトだ。説明によると日本のスズキと合弁で技術指導の下、軽自動車の生産が始まったが、今は彼ら独自で西ドイツの技術も導入し生産しているとのこと。協力したスズキはどうも合弁を解消したようで、技術ノウハウだけが中国に残り、アルトのコピー自動車がラインから次々と吐き出されている。
事の仔細は分からないが、中国ビジネスの難しさ、怖さが垣間見れる。

  重慶開放記念碑と重慶百貨店

その後は例によって熱烈歓迎の昼食会。昨日のこともあり、「乾杯」!を3回ほど受けて、後は極力「随意」に許して貰って切り抜ける。
 何せ、「目線が会うと乾杯!となる可能性が大であり、極力喋りまくることが乾杯を避けうる道」とノウハウ取得した次第である。

     
     お昼はなんとも食欲の進まない「蛇鍋」での歓待(参考写真)

 ただし、歓迎昼食の鍋は「蛇料理」。食わぬわけにいかず、蛇のぶつ切り初体験である。目をつぶって食したので、どういった形のものであったかは記憶にあらず。

 坂の多い重慶の夜景

 午後、車窓から市内観光の後、楽しみにしていたいにしえの都「西安」に向けいざ出発。
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四川の怪味(ゴワイウェイ) - 上海&成都 - (異文化体験26 中国内陸部の旅4)

2012年11月21日 20時35分20秒 | 異文化体験_アジア

(写真はクリックで拡大します)

四川の怪味(ゴワイウェイ) -上海、成都― 1995.11.05~11.06

 中国内陸部・ガス事情調査団の活動が始まった。K団長以下地方のガス会社のメンバーで構成される9名の調査団である。

 5日は日曜日にもかかわらず上海煤気公司が快く浦東工場見学を受け入れてくれた。想像もつかない浦東大開発のエネルギーインフラとなる工場である。現在は石炭ガスが中心であるが、近い将来、黄海沖の海底ガス田から天然ガス、LNGを導入する予定とのこと。上海の大計画にはいささか度肝を抜かれた人も多いようだ。

 浦東大開発のエネルギー供給拠点 上海煤気公司浦東工場

  浦東地区と旧市街地を結ぶ南浦大橋
 着々と建設が進む高速道路、地下鉄等の都市インフラ


 午後15:50上海発成都行きSZ4502便の飛行機は、西側の飛行機。中国ではまだ旧ソ連等の東側の飛行機が飛んでいる。JTBには必ず西側飛行機の便を使うよう指示していたが、この目で確かめるまでは何の機材が使われるか分からない。19:05四川省の省都成都に到着し、宿舎の錦江賓館にチェックインする頃には暗くなっている。このホテルは国賓級も泊まる成都では最高級ホテルとか。

       
(左)成都のホテル「錦江賓館」(ジンジャンホテル)       (右)ホテルのルーム・キイ

成都にはまだ高層ビルは少なく、おなじみの自転車洪水が。

 機内食が出るわけでもなく腹ペコ状態の我々、早速ホテルのレストランで遅めの夕食。通訳で日本から同行の王さんは、日本在住5年で奥さんが日本人。王さんが是非本場の麻婆豆腐を賞味あれと勧めるので、やや年配者の多い団ではあるが皆さん好奇心旺盛で是非是非ということに。王さんが厨房と掛け合う。というのも通常日本人観光客には黙っていれば日本人向け味付けがなされるからのようだ。揚げ魚の辛子味噌あんかけ、魚の浮袋の鶏スープ煮等と共にいよいよ麻婆豆腐が出てくる。通常、赤味のある麻婆豆腐がやたらと赤黒い。言われなければ気がつかない。恐る恐るレンゲで手元に取り、口に運ぶと並みの辛さではない。食事が終わる頃には全員汗を何度も拭いながら、でも結構旨味のある味にご満足であった。

  奥のお皿が麻婆豆腐


 翌朝、成都煤氣總公司を訪問。周辺小規模ガス田からの天然ガスへの切替を進めていると言う。将来は西アジアやカスピ海周辺からの天然ガス導入に大いに関心を持っており、日本からの外資導入を熱望している。一方で国家財源が北京、上海等に偏投資されていることへの不満が大きいと感じられた。

 
(左)成都煤氣總公司 (右)会議場には必ず名刺交換しない数名の正体不明の人間が。共産党員だという。

 市内のレストランで昼食歓迎を受ける。上海ガスで内陸部に行ったら「白酒と乾杯にはご用心!」と聞いてきたが、郷に入っては郷に従え。5回までは乾杯を受けたが、もうだめ!随意、随意で押し通す。乾杯は文字通り盃を乾すということで、全部飲みましたと盃を逆さまにして相手に示す。随意は好きなだけ飲めばよい。白酒はトウモロコシやコーリャンの蒸留酒でアルコール度数50~60度。祝いの酒として宴席には必ず用意される。

     
(左)乾杯時は盃を逆さまにして相手に見せる (右)乾杯!を避けるためには極力目線をあわさないこと

  お店のウェイトレスさんたち

 午後は大口顧客、一般家庭顧客のガス設備の見学を事前にお願いし、ちゃんと用意されていた点は感心させられる。皆、赤い顔をして視察。
 大口顧客は我々の泊ったホテルの厨房。コックに操られた中華鍋がひっきりなしに火を吹き上げる。何種類もの調味料が何度も何度も鍋に叩き込まれ、悲鳴をあげながらハーモナイズする。こうして生れる複雑多彩な味の頂点とも言われるのが「怪味(ゴワイウェイ)」。
 
 四川料理が辛いと言う常識は半分正解で半分間違い。辛さでヒーヒー言いながら次の箸を出さずにはいられない旨味がある。厨房にはコークスとフイゴの大きな釜戸が残っている。四川の味の生みの親である。長年の人間の英知と火が生み出した味は、最近の電磁誘導の調理器では生み出せないもの。素材と調味料のハーモナイズが生み出す味にこだわる人は、火が不可欠のようだ。

  一般家庭(集合住宅)の厨房風景

 見学後、出発までの1時間少々は自由行動。ホテルロビーの椅子に腰掛けるとお昼のお酒が眠気を誘う。

 ホテルロビーで この後急速に眠気が襲う

 四川省の省都成都は三国時代の蜀の都で武侯祠や杜甫の旧居址「杜甫草堂」、古代水利施設等観光施設も多い。

 成都の観光施設一覧

 誰かが肩を揺するので目を覚ますと何と出発と言う。どうも1時間近くホテルロビーで寝ていた次第。

 夢の中での成都見物を終え、いざ出発!重慶へ。

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見砂和照と東京キューバンボーイズ (2012.11.11 大阪ジャズフェスティバル)

2012年11月14日 16時15分02秒 | コーヒーブレイク
(写真はクリックで拡大します)

見砂和照と東京キューバンボーイズ -大阪ジャズフェスティバル 2012.11.11-

 2012大阪ジャズフェスティバルのプログラム

  大阪ジャズフェスティバルの2012年11月11日(日)公演は、「見砂和照と東京キューバンボーイズ&夏木マリ」。見砂和照と東京キューバンボーイズは一昨年に引き続き2度目の登場である。

 東京キューバンボーイズをブログで書くのは2回目で、前回は原信夫とシャープス&フラッツのフェスティバルホールでの引退公演にゲスト出演した時。
(ブログ:http://blog.goo.ne.jp/skhr0247/e/a49bcd5b9c1905784e0805af07e33bc6)

      
1980年見砂直照(ただあき)&東京キューバンボーイズの解散コンサートライブレコード

 
(左)コンサートスナップ、原信夫と♯&♭他大勢のゲストが駆けつけた (右)自筆自画像の灰皿

 50年前、大阪フェスティバルホールでの「ザ・プラターズ&見砂直照と東京キューバンボーイズ」の公演で、プラターズの世界的ヒット曲「オンリー・ユー」よりも強烈なラテンビートに心酔し、以後このバンドのファンとなった次第。
小遣いを貯めては、まずボンゴや教本を買い、LPレコードを買い、更にいい音で聴きたいとHi-Fiステレオを買ってキューバンサウンドに浸かってきたのだが、1980年見砂直照氏率いる東京キューバンボーイズは解散コンサートを打って、31年間の活動を中止した。その10年後見砂直照氏は輝かしい業績を残して他界された。

 50年程前に買った練習用のボンゴ

 見砂直照著「ラテンリズム入門」

 初めて買ったキューバンのLPレコード 1800円


 私がこのバンドが好きなところは、五つほどある。

 一つ目は、キャバレーやダンスホールのバックヤードでしかなかったバンドを、ショービジネスの舞台に引上げ、単独の舞台コンサートで経営が成り立つバンドに仕立て上げた点である。このことは、弟分である原信夫氏が見砂氏を見習い教わってバンド運営をしてきたと述懐している。

 二つ目は、多くの素晴らしい音楽関係者を育成した点である。見砂学校に入学し東京キューバンを巣立って行った多くの一流ミュージシャン達。
内藤法美(初期のピアニスト兼編曲担当、越路吹雪の旦那さん、作曲家・舞台芸術家)
能見義徳(現役ボンゴ奏者、日本ラテンパッカーション協会会長、小野寺武司との協演)
豊岡豊(ティンパニ奏者、豊岡豊とスイングフェイスオーケストラ結成)等々
前田憲男(作曲・編曲家、多くの優れた作品を残している)
宝とも子(日本ラテン音楽協会設立、初代代表)、竹平光子、トリオ・ロス・チカノス等々のラテン歌手の育成
江利チエミ、三橋美智也との競演


 大ヒットした「Echoes of Japan」の第2段レコード 

 三つ目は、精力的な創作活動。息子の和照氏いわく、「親父がほとんどのことをやり尽くしていて、自分の色をどう出していくか、大いに頭を悩ます」。
 LPだけでも三百数十枚、あらゆる音楽分野にキューバンサウンドを注入し、新たな音楽の創作を行った点。日本民謡・唱歌のラテン調編曲で「エコーズ・オブ・ジャパン」、特に、内藤法美がアレンジした「城ヶ島の雨」は有名。

      
(左)芸術祭奨励賞受賞作、組曲「祭りの四季」表ジャケット (右)裏面ジャケット(演奏風景)

1965年東京厚生年金ホールでのリサイタルで「祭りの四季」を演奏 

また、1965年第20回芸術祭では、日本の祭囃子で四季を表現した組曲「日本の四季」が奨励賞を受賞、1970年第25回芸術祭では、前田憲男の力作、アフロキューバンジャズの組曲「黒い太陽」と沖縄民謡詩「あがらうざ」が優秀賞を受賞するなど、次々と新たなジャンルを切り開いていった。

前田憲男の力作 芸術祭優秀賞受賞 組曲「The Black Sun」


 四つ目は、一つの曲を決して同じスタイルで演奏しないという点。つまり、全く同じ譜面で演奏せず、常に聴衆に新鮮さを感じてもらえる演奏を心がけた点である。キューバンのファンは、演奏会で同じ演奏曲目でも今回はどこを変えてくるのだろうかとわくわくしながら耳を傾けるのである。

 そして最後、五つ目は、親から息子に代替わりしたキューバンの演奏スタイルの伝統が引き継がれている点である。偉大な親父に負けまいと和照氏もまた、新たなチャレンジを模索している。

 今回のコンサートでは、先代があまり取り上げていなかったクラシック畑の曲をラテン調に編曲し披露された。モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」。何とも新鮮な面白い取り組みだ。
 また、かなり大胆に編曲した「さくら・さくら」も披露される等、今後の活動が大いに期待される。

 サルサの歌姫 ディーバ・ノリコ

 今回のコンサートでは、朝ドラ「カーネーションの糸子」、「千と千尋の湯婆婆」でお馴染みの「夏木マリ」、サルサの歌姫「ディーバ・ノリコ」、ラス・ベルラス(コーラス)が華を添え、久々の大阪公演は大入り満員であった。小生も最前列の席からエールを送った次第である。
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よみがえる魔都の夜 - 上海 - (異文化体験26 中国内陸部の旅3)

2012年11月10日 23時35分33秒 | 異文化体験_アジア
(写真はクリックで拡大します)

よみがえる魔都の夜 -上海― 1995.10.31~11.05

  
                  豫園の入場チケット(裏面には英語で案内が)

 ガス・チャイナ展示会の昼食時を狙って交代でミニ上海観光を実施。
 3日は、「豫園」に出かける。ここはいつも大勢の人たちで賑わっている。湖心亭で昼食。麺を注文したいのだが麺メニューには蛇や蛙等の怪しげな文字もあり、出てくるものとのイメージが一致しない。
 小生が注文したものは中にゼラチン質の肉塊が。店員に聞くが要を得ない。亀のジェスチャーで、結局すっぽんの類と判明。

 
 (左)いつも人で賑わう「豫園」 「湖心亭」を背景に     (右)「豫園」 庭園の建物の瓦


 3日の夜は、本日上海入りし5日から始まる「中国内陸部ガス事情調査団」の面々と、夕刻、外灘近くのレストランで一行の無事な旅を祈って調査団の発足式を行う。


 4日は、これまたお昼時を狙って玉仏寺に。ここも昨年訪れたお寺である。清代1882年建造の禅寺である。玉仏楼に安置される高さ1.9mの釈迦如来坐像と臥仏堂にある長さ1.2mの釈迦涅槃像で有名なお寺である。

  玉仏寺 料金改定で15元に

  玉仏寺 釈迦如来坐像を背景に

 昼食はI嬢が見つけたおいしい餃子屋へ。上海美食街の端に位置する「長安餃子楼」がお目当ての店。蒸し餃子中心の22種類のメニューに何を注文しようかと迷う。フカヒレ入りの魚翅蒸餃子、鮑入り芙蓉鮑魚餃子、ほうれん草入り蒸餃子等々、見る見るテーブルの上に蒸篭の山が出来る。人の行列が出来る理由を納得しながら餃子に堪能した昼食であった。

    
 (左)上海美食街の「長安餃子楼」いつも大入り満員 (右)蒸し餃子中心に22種類の餃子がある


 ガス・チャイナは5日まで開催されるが、小生が5日から出発する調査団に引率者として加わるため、4日夜に展示会関係者9名を南京路のレストランに招いて慰労会。
 老舗の有名な広東料理店で夜遅くまで賑わっている。金牌乳猪小盆という香ばしいパリパリの仔豚の皮が名物の一つとか。
 明るい店内で一際目に引くのがガラス張りの厨房。ローストされた鶏や豚が出番を待っている。
 宴も終わり、通訳の女子大生を家に送りがてら外灘の夜景を車窓にタクシーを走らせ、ホテルに戻る。

  展示関係者の慰労会 南京路広東料理店にて

  名物料理は金牌乳猪小盆 連日大入り満員のレストラン

 展示企画会社の I 嬢は確かこの日あたりが誕生日のはず。部屋に戻って誕生祝のメッセージをボーイに届けさせる。ホテル・ラウンジで上海最後の夜を一人で明日以降の調査団の予定について思いを馳せていると、一人の女性が近づいて来る。すらっとした長身に黒いレザーのホットパンツ姿。いつもGパンで走り回っている男勝りの女性とはまるで違う I 嬢が隣に腰をおろす。風呂上りなのか、黒髪の匂いが漂ってくる。

 「覚えていてくださったんですねえ、感激! 部屋に電話したら出られないんで、ひょっとしてと思って来ました」と I 嬢。 何はともあれ乾杯! 間もなく丁度か三十路近くの彼女。好奇心旺盛で、物怖じせず何にでも興味津々。北京の時もフランスのTVクルーと親しくなり、彼女の部屋まで押しかけてくる間柄になったとか。イベント関係の仕事をする女性は男性とのお付き合いもうまく立ち回らないといけない。彼女はその辺の天性の物を持っているように見受けられる。

 少し先のラブチェアに先程から気になる光景が展開されている。西洋人と中国女性とのカップルがかなりきわどい行為を行っている。我々以外に殆ど客のいない薄暗いラウンジ。中国女性は完全に恍惚の世界に入って、男性に身を任せている。我々の目もそれに釘付け状態。「凄いね!」と小声で囁きながら、益々エスカレートするお二人を横目に、「さあ、もう遅い。明日の展示会最終日をよろしく!」と部屋に戻る。

 初日の和平飯店での予感が再びよみがえる魔都の夜である。
 
  外灘の銅像を真似て。さあ、明日から内陸部へ。

 


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秋の京都御所と明治天皇

2012年11月07日 23時29分59秒 | 異文化体験_日本
(写真はクリックで拡大します)

秋の京都御所と明治天皇 2012.11.03

       
 (左)紫宸殿                     (右)平安雅楽会による舞楽「蘭陵王」

 2012年秋の京都御所一般公開は、明治天皇の崩御100年、御生誕160年の年にあたることもあって、関連展示がなされている。

 特に、回廊には明治天皇在位中の様々な出来事が紀附図と共に9枚のパネル展示されている。(御降誕から王政復古、五箇条御誓文など、皇后冊立まで)
 パネルには、若干の説明書きが添付されているので、それを参考に往時の様子をご覧下さい。(クリックで拡大しますので、説明文も読めると思います)

  1.御降誕

  2.御深曾木

  3.立親王宣下

  4.王政復古

  5.御元服

  6.各国公使召見

  7.五箇条御誓文

  8.即位礼

  9.皇后冊立

以上です。
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上海煤気創業130周年、拍手はどこで?-上海-(異文化体験26 中国内陸部の旅2)

2012年11月03日 21時12分02秒 | 異文化体験_アジア
(写真はクリックで拡大します)

上海煤気創業130周年、拍手はどこで?-上海- 1995.10.31~11.05
 
 「Gas China」の会場、上海展覧中心

 11月1日、上海城市煤気(上海都市ガス)誕生130周年の祭典が内外の招待客を集めて盛大に挙行された。

 上海煤気公司総経理の挨拶の後、江澤民国家主席、朱鎔基副首相等からの祝電、黄菊上海市長、国家建設部長等が登壇して熱っぽい祝辞を述べる中に、外国企業を代表して小生出向元の大ボスも登壇。
 中国人の演説は、声の抑揚、強弱が明確であり、アピールすべきところは、一段と声が大きく、高くなり、適度な間がある。聴衆もそれを踏まえてここぞという所で盛大な拍手を送る。

 上海城市煤気 誕生130周年記念式典の様子

 ところが、である。大ボスの日本語のスピーチは社内の訓示同様淡々と展開されるが故に、どこで拍手したら良いのか聴衆が戸惑っている。小生の近隣に座して聞き入っている招待客や上海ガスの社員もここか?、ここか?と顔を見合わせるが、間断なく話が続くために首をかしげる有様。ここは、大ボスの部下でもある小生が手をたたかないと、とここぞという所で拍手を先導する。

 創業130周年の上海ガスと90周年の大阪ガス。兄貴分という表現でスピーチされた大ボスは淡々とスピーチを終え降壇され、やれやれと一安心。
 祝典の後、2日間に亘りホテル宴会場で内外の技術報告会が開催された。


 ガス・チャイナ’95の開会式前の様子

 一方、ガス・チャイナ‘95は11月2日、展示会場で音楽隊の演奏をバックに、チャイナドレスのコンパニオン数名がアシストする中、主催者挨拶とテープカットが行われ、4日間の展示会が開会された。

 
(左)日本の都市ガス会社ブースの運営スタッフ        (左)一番人気はやはりガス炊飯器

 日本ガス協会(JGA)、東京・大阪・東邦・西部の各ガス会社共催の日本ブースは、安全対策を装備した様々なガス機器、地図情報システム、地中ガス管のレーダー探査装置等を出展。女子大生のナレーションも集客に寄与し、大いに賑わっている。中にはレーダー探査装置を「いくらだ? 即欲しい!」と迫る者。よく聞くと未舗装の砂利道だと言う。そのような環境では使えないと言うと、とにかく持って帰りたいと熱っぽく迫ってくる。パンフレット類も出せばあっという間になくなる。中国の知識欲は旺盛である。

 中国語ナレーションを担当してくれた女子学生

 上海煤気公司は、家庭用250万戸の顧客を有し、導管で供給する顧客が185万戸、LPGが65万戸である。多角化にも積極的で民間企業という色が強く出ており、公共色の強い北京煤気公司とは大きく異なる。北京、上海の対抗意識は、日本の東京、大阪のそれに似ており、ガス会社の性格も良く似ているように思える。

 近くの劇場で開催された「文芸晩会」

 
   中国雑技団や古典舞踊、寸劇等で1時間半の「文芸晩会」はあっという間に終了

 2日、夕刻よりガス・チャイナ‘95主催者がホテルでレセプションを開催。一方、上海ガスの130周年記念式典も近くの劇場を借切って、文芸晩会を開催。ただし、こちらは上海ガスの招待客のみ。ガス・チャイナ・レセプションで簡単な夕食を済ませた後、劇場に向かう。中国雑技団や古典舞踊、寸劇等が披露され、欧米の招待客にとっては異国情緒豊かな1時間半ほどのショーはあっという間に終わった。

 大阪ガスの100周年は2005年。丁度、小生60歳の年である。
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