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旅行記、世相独言

メインディッシュはオレンジ -オーランド1- (異文化体験7 世界一周の旅9)

2010年07月30日 17時32分46秒 | 異文化体験_北米
(写真はクリックで拡大します)


ビバ!フロリダ メインディッシュはオレンジ -オーランド1- 1985.3.1~3



    
 建設が進むウォルトディズニーワールドで先行開園のマジックキングダム

     
(左)マジックキングダム 1デイ・パスポート (右)お馴染みアトラクション「カリブの海賊」


 オーランド、緯度は沖縄に等しい。燦燦と輝く太陽、今までの暗い冬が一度に霧散し、初夏が一足飛びにやってきた。明るく開放的で緑豊かな、仕事なんぞきれいに忘れさせるリゾート地。Tシャツ、ホットパンツにスニーカー、それほど皆が開放的な服装の中に、コート片手の我々は何か未開の地からやって来た異邦人に映るに違いない。早速ディズニーワールドに向かう。エネルギープラント等、広大なテーマパークのバックヤード視察を実施。コージェネレーションをベースに電気を地元フロリダパワーに系統連系を行い、徹底的な省エネ管理がなされている。燃料電池(パワーセル18)のテストもここで行われている。


「ウォルトディズニーワールド」と先行開園した「エプコットセンター」&「マジックキングダム」のパンフ


 1万1千ヘクタール(1ヘクタール=1万平方メートル)の広大な敷地に、Vacation王国, Lake Buena Vista Community, Experimental Prototype Community of Tomorrow(EPCOT)等が配置され、将来に向ってまだまだ建設が進むデイズニー王国そのものだ。
 現時点でVacation王国の中核をなすMagic Kingdomで夕刻まで自由行動。とは言え、L.A.のディズニーランドと何等変わりはないが、何度来ても楽しいものである。

 今回の宿舎「ツインホテル」


 ツインホテルが今日の宿舎。同行のN氏がこのホテルのレストランはなかなか有名らしいとどこかで聞き込んできた。衆議一決、夕食はここ! 早速レストランに赴くと少し時間が早いこともあってか、お客は我々の他に一組だけ。バイキングスタイルである。コックが一人手持ちぶたさで立っている。まずは一回目と言いながら個々に好きなものを皿に盛ってテーブルに戻ってくる。

  メインディッシュとなったフロリダオレンジ


 ん? 誰も2回目に立とうとしない。しかも皿にはまだ食べ残しの料理が一杯。パンがあっという間に売り切れ、早くもフロリダオレンジのデザートに進んでいる者もいる。他の一組の客も帰り、いよいよ我々だけの貸切り状態。依然として新たな客が来ない。パンのお代わりを注文。料理も食わずにパンばかり食う我々とコックの間に何やら気まずい雰囲気が漂う。そのパンもとうとう底をつき、まさかもう一度お代わりも出来ず、オレンジを2、3個夫々取ってきては腹の足しにする。それ程にここの料理はひどかった。

 有名とはそういうことなのだ! 以降、N氏のリコメンデーションは我々の間では全く通用しなくなったのは当然である。退店時オレンジを持てるだけ持って部屋での風呂上りと翌朝に胃袋に収まる。

     
(左)「エプコットセンター」の1デイ・チケット  (右)園内MAP

     
(左)センターの象徴「Future World、Spaceship Earth」(右)「World Showcase」池の周りに各国館を配置(日本館も見える)


 翌日は土曜日。朝からEPCOTセンターに出向く。「Spaceship Earth」は、18の展示をタイムマシンライドで巡る仕掛。EXXONのエネルギー館やGMの自動車館等、いくつかのスポンサーシップによる体験館巡りである。WorldShowcaseは、世界各国の館が池の周りに配置され、様々な催しが行われている。夕刻まで視察し、球形のシンボリックなテーマ館でお土産を買って、この未来の実験都市を後にする。

  
 (左)Spaceship Earthの紹介の一部        (右)夕刻のエプコットセンター

 この日の夕食は入念な調査による照り焼きステーキ。タクシーで3分とかからない所にある日本人経営のステーキ屋。鉄板の上で鏝をチンチラチンチラいわせたショウまがいのステーキ屋が米国人に受けて沢山あるようだが、体験するのは今回が初めて。
 一応焼き具合と量を聞くが、手元にサーブされる肉は皆同じといういい加減な代物。コックは中国人で、7つあるテーブルは満席、順番待ちの人がいるほど流行っている。

 部屋に戻る前に昨夜のレストランを覗くと、かわいそうな犠牲者が2組いた。ああ、お気の毒に!


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ジョージタウンのガールハント -ワシントン- (異文化体験7 世界一周の旅8)

2010年07月26日 15時35分53秒 | 異文化体験_北米
(写真はクリックで拡大します)

ジョージタウンのガールハント -ワシントン-  1985.2.27~3.1


ワシントンの中枢部(議事堂、ワシントンモニュメント、リンカーン記念堂と続く)

 N.Y.からシャトル・イースタンで約1時間。3つある空港で市内に5kmと一番近いナショナル空港に到着。このエア・シャトル、朝のラッシュ時はお客が一杯になった時点で運航するシステムと定時便の組合せ。我々が空港に到着した時は満席便が出た直後で、お客は少なく定時便として約1/3の乗客でN.Y.を飛び立ったのである。

 シェラトンホテル

 ワシントンは既に春の兆しが感じられる暖かさ。コートを脱ぎ身軽に動けることの嬉しさは、厳寒の欧州を体験しただけにより一層のものがある。シェラトンホテルにチェックイン、ここはカードロック式のキイ、初めての体験である。


  
            (左)ホワイトハウス            (右)高さ169mのワシントンモニュメント

  連邦議会議事堂を背景に 

 ワシントンを象徴する景色と言えば、ホワイトハウス、広大なポトマック公園にそびえる169mのワシントンモニュメント、その反対側に位置するリンカーン記念堂、そして連邦議会議事堂まで、延々と芝生の公園が延々と続く。


 スミソニアン博物館航空宇宙博物館の案内パンフ

  
(左)スミソニアン博物館の総合案内書  (右)リンドバーグが大西洋横断飛行に成功した「スピリット・オブ・セントルイス号」

 目の前に建物がありながら入口のわからない化け物のように大きなスミソニアン博物館。20分ほどかかって航空宇宙博物館に入る。ライト兄弟の複葉機、リンドバーグの大西洋横断機、月面着陸ロケットと見るものに事欠かない。


  
    (左)アーリントン墓地を警護する海兵隊員        (右)JFケネディ大統領のお墓

 ポトマック河畔のアーリントン墓地へは熊のようなタクシードライバーにやや恐怖感を覚えながら閉園間際の駆け込みとなった。夕刻迫る墓地には人影もなく、野生のリスが駆け巡る。24時間海兵隊員が警護する無名戦士の墓。故ケネディ大統領の墓標には「What can we do for the country.」と刻まれている。ロバート・リー将軍が住んでいたアーリントンハウスのフラッグポールから星条旗が降ろされるのを横目に熊の運転手にホテルまで送ってもらう。

 ウォーターフロントのレストラン「FLAGSHIP」 牡蠣にあたる!

 今夕はウォーターフロントにあるレストラン「FLAGSHIP」で、日本には無い大きさの牡蠣とジャンボ・ロブスターとの格闘となった。今まで牡蠣にあたったことがなかった小生であったが、この時食したジャンボ牡蠣におおあたり。以降、牡蠣を受け付けない身体とあいなってしまった。

 翌日、米国エネルギー省や国際機関等での仕事の後、夕食は全員一致で寿司に決定。ぼつぼつ和食が恋しくなる時期である。
 食後は、H氏、O氏と共にジョージタウン探訪に出掛ける。ワシントンの北西の一角にジョージタウン大学がある。政治関係者の多いこの街でも比較的若者の多い一帯である。

 1789年創設の名門私立大学、ジョージタウン大学

 既に午後9時を廻りメインストリートのWisconsin Ave.のほとんどの店が閉まっている。街角のRECORD SHOP(店の情報によると、Rock SingerではWhamのCareless Whisper, Sheene EastonのSugar Walls, MadonnaのLover Boyが上位独占)の隣にカフェバーがある。

  
 ジョージタウンの街並み(左:Oストリートのコンデュイット式トラム・カーの跡)

 中に入ると外の寂しさとは打って変わって結構沢山の人が立ちながら談笑している。他人の会話に割って入るのは少し勇気がいるもの。若い女性4人組に接近を試みるも、会話も長続きせず、もう帰らなきゃ!とお店を出て行ってしまった。お次は我々に興味がありそうな男女4人グループと意気投合。歳は外見から全くわからない。他愛もない雑談で2時間ほど過ごす。確かにお喋りを楽しむ、そこに人と人の相互理解が生まれる。これほど楽しいことはない。しかし、ここは六本木ではなく合衆国なのだ。夜も遅くなればタクシーもなくなる。もう1軒というO氏をなだめ、またの機会にがんばろうとガールハントの散歩を終える。


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夏の夜空

2010年07月25日 17時01分40秒 | コーヒーブレイク
(写真はクリックで拡大します)

夏の夜空


  夏の大三角

 お風呂上りの火照った身体を2階のベランダの寝椅子に横たえて、程よい夜風に当たりながら夏の夜空を観察するのが私は好きだ。

 宇宙創造の神さまには申し訳ないが、自分勝手に明るい3つの星を選んで「夏の大三角」をいくつも創ってみたり、極めて稀に流れ星が目に飛び込んできた時には遅きに失するもあわてて願い事を考えたり、結構面白いものである。
ちなみに、「夏の大三角」は「こと座のべガ」、「わし座のアルタイル」、「はくちょう座のデネブ」の3星を結ぶ細長い大きな三角形。

 そんな夏の夜空遊びで、飽きないのが飛行機の灯りの追跡である。
我が家の近くの和泉山系三国山という所にARSR(航空路監視レーダー)のドームがある。大阪南部を飛行する航空機にとっては灯台のようなもので、極めて重要な施設らしい。
 従って、我が家の上空は音はほとんど気にならないが、よくよく見るとひっきりなしに飛行機が飛んでいる。

 和泉山系三国山の航空路監視レーダー


 そんな飛行機の灯りを見ていると、いくつかの航路を見出すことが出来る。
一つはかなりの高度を西から東、東から西に小さな灯りが飛び交う航路。
一つは窓の灯りが数えられる位の高度で主に大阪方面に向かう航路。
そしてもう一つは、窓の灯りが数えられる位の高度で南西の上空を旋廻する航路。

 最初の航路は、多分九州、四国方面と羽田を結ぶ航路?ではなかろうか。次の航路は九州、四国方面と伊丹を結ぶ航路だろう。そして最後のは関空着陸待機の飛行機?と勝手に想像しているのだが。

 和泉山系三国山のARSR


 航路と言ってもかなりの幅があるように思う。多分大阪伊丹空港に着陸するであろう飛行機も、山に近い航路を取るパイロットもいれば、不埒にも我が家の上を飛ぶパイロットもいる。
そうかと思うと、あわやニアミス!と心配させるような接近状態で飛ぶ(実際はかなり離れているのだろうが)飛行機もあり、およそ30分も涼んでいれば、6~8機の灯りが確認出来て結構時間を忘れさせてくれる。

  日本のレーダー覆域


 飛行機の灯りと言えば、面白い話がある。
昔、窓側に坐ったある知人が夜間飛行時に、真っ暗な空に見事な南十字星を見て感動したという話を聞いた。しかしこの話には更に続きがあって、その南十字星は結局目的地まで追いかけて来たそうな。そう!この知人は飛行機の主翼の灯りに感激していたわけだ。


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雲の上の晩餐会 -ニューヨーク2- (異文化体験7 世界一周の旅7)

2010年07月21日 16時29分57秒 | 異文化体験_北米
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雲の上の晩餐会 -ニューヨーク2-  1985.2.25~27



 アルバニーからN.Y.に戻ると別の班はすでにブロードウェイのミュージカルを楽しんでいるとかで、わが班は何とも割りが合わないとブツブツ言いながら餃子とラーメンの夕食。

マンハッタン中心部のMAP

 地球上で最大の都市ニューヨーク。一度は来てみたい街と思って訪ねてみたが、マンハッタンの高層ビル街もその下を歩く分には都会生活者にとって何ら変わりのない一風景でしかない。ヨーロッパの人間が創り出したハードとソフトの一体化した文化の方が何か私を引き付けるものを感じる。

   
(左)ロックフェラーセンターの前にて                (右)白い教会がセントパトリック教会

 コン・エディソン、ブルックリン・ユニオン・ガスでの一仕事の後のひと時、ロックフェラーセンター、セントパトリック寺院、タイムズスクウェア、パンナムビル等、耳慣れたマンハッタンの5番街界隈の目抜き通りを散策する。


  世界貿易センタービルの案内パンフレット


 N.Y.最後の夜は、世界貿易センター(WORLD TRADE CENTER)ビル最上階のレストランでの晩餐会。7ヘクタールの敷地に建設された110階建て412mの世界最高のツインタワー。

 生憎の曇り空のため、高速エレベーターは我々を雲上に案内する。まさに雲上の晩餐会である。我々7人に現地事務所の2人も加わって9名の大所帯。担当するウェイター氏も大変である。

   
        最上階レストラン「Windows on the World」の内部とその夜景眺望(パンフレットより)


 一度に勝手なオーダー。最初は耳で処理するつもりでいたようだが、途中でギブアップ。メモ用紙を持って来て書いてくれたまでは良かったのだが、我々の発音のいい加減さと彼等のいい加減さも適度にミックスして、オーダーとはほど遠い料理が出てきた。それも一人や二人ではない。しかし、そこは一流レストラン。こんなものをオーダーした覚えがないと言うと、恐縮して取替えようとする。中にはそのまま食した人間もいたが、数人が取替えとなった。可愛そうに担当のウェイター氏、隅の方で主任から何やら怒られて、結局担当替えとなってしまった。我々を担当したのが運の尽き、ごめんね!ウェイター氏。

 レストランの商標

 時折、雲の合間から大マンハッタンの宝石を散りばめた夜景が最後の夜の演出に余念がない。食後の後は、ジャズとブロードウェイ散策の2班に分かれてナイトライフを楽しむ。我が班はブロードウェイをほとんど知らないので、必然的に後者に。

  夜のタイムズスクウェア(Wikipediaより)

 大勢の雑多な人種が行き交う街頭の高級ブテイックやレストランは、ヨーロッパ直輸入のものも多い。アメリカ的な文化とは真に何なのであろうか。それはこの街に住み着く事でしか見出せないのか。ニューヨーク直輸入の若者文化が理解出来ない世代に突入した己が歳のなせる技なのか。偏見なのか、好みの問題なのか、とにかくもう一度ゆっくり来て結論を出そうではないか。

(2001年9月11日、未曾有の残忍なテロ行為により2749名の犠牲者と共にこのビルも消滅しました。ここに謹んで哀悼の意を表します。)


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アイスフォール -ナイアガラ&アルバニー- (異文化体験7 世界一周の旅6)

2010年07月16日 11時02分00秒 | 異文化体験_北米
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アイスフォール -ナイアガラ&アルバニー-  1985.2.24~25

 氷結したナイアガラの滝


 日曜日の早朝、荷物をホテルに預け月曜日訪問するニューヨークの州都ALBANY(アルバニー、発音はオーバニーに近い)に向う。今日はNEW YARK空港からバッファローに飛び、ナイアガラの滝を見物する。あいにくバッファローは小雨。ピチピチのジーンズに身を包んだインディアン娘の運転するマイクロバスでナイアガラに向かう。

 
(左)滝の上流は氷塊を巻き込んだ激流          (右)滝の裏側の覗き穴から見た滝の流れ

 ナイアガラ川の橋を渡る頃になると遠くに水煙を見ることが出来る。滝の上流からアプローチしているようだ。川の流れは刻一刻と速さを増し、氷塊を巻き込んだ激流が轟々と流れている。国境を越えカナダに入国、カナダ側からアメリカ滝、カナダ滝を見ることになる。スケールの大きなカナダ滝は、水煙にその全貌を隠しながら、地を轟かせる音と共に54mの滝壷に落下していく。滝壷は氷結して一面の氷である。夏には霧の乙女号で遊覧できるらしいが、白一色の滝も悪くない。

 
(左)迫力ある流れが我々を圧倒する     (右)氷結した白と水煙の白と滝壺の水沫の白と周囲は白一色の景色

 滝の裏側にエレベーターで降り、滝を覗くことの出来る穴が3ケ所ある。しかし、この時期開いている窓は1ケ所だけで他は氷が穴を塞いで何も見えない。アメリカ滝は表面上の流れはほとんどなく、一見おとなしく横たわっている。閑散としたナイアガラの町。ここには春は何時やってくるのだろう。

 
(左)滝の下流の屈曲ポイント、多くの水死体があがるとか。(右)米国&カナダの同規模・同タイプの発電所

 滝の下流に川が90度曲がる所がある。多くの水死体がここにあがるという。更に下流に行くと川の流れを利用した水力発電所がある。米国とカナダの電力会社が夫々等量の水を引き込み、全く同規模、同タイプの発電所である。確か100万kwクラスと記憶してるが、等しく水利権を持っているのだろう。下流の橋を渡って再び米国に入国し、バッファローからアルバニーに向かう。


 アルバニーはニューヨーク洲政府のあるこじんまりとした美しいが、それでいてあまり特色のない街である。州の公益委員会訪問の段取りをしてくれたO氏とホテルで落合う予定であるが、なかなか現れない。1時間ほど遅れて例によって大好きな車での到着した。

    
(左)ホテルから見たアルバニーの街(中央が州議会堂、右がシティホール)(右)シティホール全景

 政治都市の演出は難しい。日本の官公庁の建物よりははるかに洗練されたデザインの近代建築が、緑の広場に囲まれて美しい景観を醸し出している。また、各建物は地下でネットワークされ機能的にも優れているが、ダウンタウン周辺の息抜きの場が余りにも日本人の目から見ると少ないのである。多分そのような場の提供が必要ないのであろうか、ビジターにとっては何の楽しみもない街になっている。O氏と夜遅くまでホテルの部屋で歓談したアルバニーの夜であった。

 ダウンタウンにあるヒルトンホテル


 アルバニーからN.Y.への便は、ローカル線の20人乗り小型機である。こんな飛行機は今まで乗ったことがない。一抹の不安は隠し切れない。左右窓際に2シートずつ並んでいるが、席の幅の狭いこと。小生が窓側席に座り終えると向こうからビヤ樽もどきのおばさんがやって来る。いや~な予感。こういうのはよく的中するものである。2mはあろうかと思われるヒップを小さな椅子に平然と下ろす。ああ、神様。何とか離陸出来ますように!

 Albany-N.Y.便は遊覧飛行のようにマンハッタン上空を飛ぶ

 セスナはプロペラをフル回転させ、それでもマンハッタンの宝石をちりばめた様な夜景の上をゆっくりと超高層ビルの先端をかすめるようにサービス精神一杯の飛行で無事ニューヨークに戻る。


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ドラムは子守唄?FAT TUESDAY'S -N.Y.1- (異文化体験7 世界一周の旅5)

2010年07月12日 23時20分53秒 | 異文化体験_北米
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ドラムは子守唄? FAT TUESDAY'S -ニューヨーク1- 1985.2.23~24


  オランダ・スキポール空港 


 オランダ・スキポール空港を飛び立ったKLMオランダ航空641便は、大西洋上をニューヨークへ。KLM便はC,Fクラスの乗客にデルフトブルーのミニチュアハウスやピュアトレイを記念に配っている。また、フライトショッピングにダイアモンドがあるのはKLMだけではなかろうか。KLMオリジナルデザインのネックレスに加工したスイング・ダイアモンドが売られており、面白いデザインなので女房殿に購入。少し懐が寂しくなる。

  
(左)KLM機内で配られるデルフトブルーのミニチュアハウス     (右)KLMオリジナルのスイングダイヤモンド


 疲れが眠気を誘い、エグゼクティブシートの快さもあってJFケネディー空港の着陸まで記憶がない。空港でコペンハーゲンから大幅に到着が遅れたB班の3人と合流。これからの旅は我々A班の4人から一挙に7人の旅となる。

 大西洋を横断し、レキシントン・ホテルにチェックイン

 レキシントンホテルにチェックインしたのは、もう夕刻である。料亭「新橋」が合流後最初の夜の宴会場となった。土曜の夜である。明日からまたニューヨーク州内とはいえ、別れ別れになるので今夜は徹底的に遊ぼうということになった。食後はジャズのライブが良いということになり、「FAT TUESDAY'S」に予約が取れた。

 ジャズのライブハウス「FAT TUESDAY'S」のカード

 会場に着いたものの11時からのショウには30分ばかり待たなくてはならない。年長のN氏をはじめ3名が疲れたので一足先にホテルに帰ることになり、後の4人が辛抱強く待つことに。しかし疲れた身体にお酒の睡眠作用で、廊下に座り込んで待つ内にすっかり眠り込んでしまった。

  
          この日の出演者はラムゼイ・ルイス・トリオ(Ramsey Lewis Trio)


 周りのざわめきに目を覚ますといよいよ入れ替えの時間。今夜の出演はRamsey Lewis Trio. ラムゼイ・ルイスは来日演奏したこともある有名なピアノ奏者である。一番前に陣取って今や遅しと待ち受ける。斜め前にヤンキー娘が陣取っている。拍手と共に往年のというにはまだ若いラムゼイ・ルイスが現れ演奏が始まる。小生の隣はO氏。演奏に皆がノリ始めた頃、O氏の船漕が始まった。ドラムのシンバルと彼のコックリ船漕による頭の間隔が少しずつ狭まり、今や10cmを切る距離に至っている。一方斜め前のヤンキー娘はというと、もはやエクスタシーの境地をさ迷っている。口をあけ、虚ろな目で手拍子、足拍子。会場を揺るがし耳をつんざくドラムとシンバルの強烈な大音響は、かぶりつきにいるO氏にとっては子守唄、ヤンキー娘にとっては催淫剤なのだろうか? 船漕の振幅は更に大きくなるが、不思議なことにぎりぎりのところでぶつかるのを回避している。結局、無事?に深夜1時を少し回ってライブは終わった。熟睡?したO氏は大いに元気になっている。

 「Fat Tuesday's」の前にて

 ホテルの前でタクシーを降り、後続の2人を待っていると、毛皮のコートに身を包んだ美女が近づいて来て「一人30ドルでどう?」と言う。我々3人いるよと言うと3人まとめて面倒見ると言う。なかなかのスタイルの美人である。お互い何とか兄弟になるかと冗談を言いながら鄭重にお断りしたが、全員「俺一人だったらどうしたかなあ?」


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マラソン・スケート競技 -デン・ハーグ- (異文化体験7 世界一周の旅3)

2010年07月07日 23時34分16秒 | 異文化体験_北欧
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マラソン・スケート競技 -デン・ハーグ-  1985.2.21~22


 ストックホルムを午後飛び立ったKLMオランダ航空機は、夕刻スキポール空港に着く。
機内アナウンスで「200km、スケーティング、22年」等々の断片的な言葉がブンブンうなるエンジン音に混じって聞こえてくる。何を言ってるのか良く分からないまま、ハーグのプロムナードホテルにチェックイン。

デン・ハーグの宿舎「プロムナードホテル」


    
(左)オランダ地図      (右)Elfstedentochtの11の市町村(左地図北部のLeeuwardenの位置を参照)


 ホテルロビーに設置されたTVの前は黒山の人だかりで、画面には運河を利用したスケート競争が放送されている。実はこれはオランダ最北部フリースランド地方の11の町や村を凍結した運河や川、湖沼、池等を利用して周遊する200kmに及ぶ長距離マラソンスケート競技「Elfstedentocht」である。22年間暖冬で中断していた競技が今年の寒波が幸いし、実に1963年以来22年ぶりに開催されているのである。

 競技の様子(Elfstedentochtのホームページより)

 国中が大変なお祭り騒ぎである。午前5時にスタートし、優勝者は既にお昼にはゴールインしたらしいが、数万人に及ぶ参加者がゴールインするのは午後10時を過ぎるのではないかと放送している。参加者の家族、知人等が22年ぶりの競技にTVに釘付けとなり、ほとんどの店は店を閉め、休日状態である。どうりで街が閑散としているわけである。

 マラソンスケート競技会のメダル


 Den Haag(デン・ハーグ). 伯爵の生垣という意味だそうな。13世紀、オランダの国名の由来となったホラント伯爵の狩猟地であり、政府官公庁、大使館等がその時以来集まって、オランダの首都ではないがほとんどの公的行事はここハーグで行われている。
 市内にはフェルメールの代表作「真珠の首飾りの少女」を収蔵するマウリッツハイス美術館やグラフィックアートのエッシャー美術館、平和宮(国際司法裁判所)、更に近郊にはライデン、シーボルトハウス、KLM機内で貰ったデルフト焼きの古都デルフト、等々見所も多い。

  
 (左)平和宮(国際司法裁判所)            (右)フェルメール「真珠の首飾りの少女」

 夕食は数少ない開店している海鮮料理屋に足を運ぶ。マラソンスケート競技のお陰でレストランのお客はゼロ。貸切である。お店の前に魚、海老、貝類等、その日すぐそばの海岸の市場から仕入れたネタがいっぱい並べてある。みつくろいで串刺しや嬉しいことに塩焼きまでやってくれる。なんせ貸し切り状態だから、そのメリットを最大限活用、知らず知らずのうちに食欲も進み、気付いた時はテーブルのローソクも燃え尽きていた。
 デザートにお隣の国のベルギーのチョコが出た。貝の形を精巧に模った白と茶のツートンカラーのチョコである。空港に売ってるからお土産に良いよとマスターが薦める。確かに日本ではまだ売っていない。結局、空港で2箱買ったが木箱に入った結構場所を取るお土産となった。

 オランダと言えばデルフト焼き。KLM機内ではお土産に家の形の焼き物をプレゼント


 食後、夜の町に繰り出すが、マラソンスケート競技の余波で9時だというのにゴーストタウン。所詮、政治都市である。予定ではここに2泊することになっているが、これでは面白くない。明日はアムステルダムに行って泊まることに予定を変更。アムスまではわずか63kmである。
 そんな相談をしている居酒屋は、薄暗いランプの明かりの中に我々以外に一組のお客が見出せる小さな店。カンパリをジュースで割ったカンパリオレンジがいま流行っているので一度試してはというような話をしていると、10代と思しき女の子が数人入って来た。奥のビリヤード台でゲームを始めた。珍しい東洋人にちらちら視線を向けるが、それ以上の進展もなくホテルに戻る。

 マラソンスケート競技の中継は、まだ延々と続くハーグの夜であった。



            マラソンスケート競技会・Elfstedentochtの昔の写真
 2009年に1963年大会を素材に映画化され、そのポスター。

〔参考:Elfstedentochtについて〕
 11市周遊アイススケートマラソン大会は、公式には1909年から優勝者記録がある。
1985年の優勝者はEvert van Benthem氏で所要時間6時間47分。レース競技出場者が約300人、周遊ツアー目的参加者が約1万6千人、開催には最低15cmの厚さの丈夫な氷が必要で、毎年フリースランドの人たちは、今年は出来るか?とやきもきするそうだ。1985年以降開催された年は、1986年、1997年である。2009年にはこの大会を題材にした映画が制作された。題名は「DE HELL VAN ’63」。


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迷路の館 - アムステルダム - (異文化体験7 世界一周の旅4)

2010年07月06日 11時25分15秒 | 異文化体験_北欧
(クリックで写真は拡大します)


迷路の館 -アムステルダム-  1985.2.22~23


 オランダ経済省の訪問を終え、左右に風車を見ながらハイウェイを一路アムステルダムに向う。ホテル・オークラにチェックイン後、早速夕刻の町の探訪を始める。

  
  (左)ホテル・オークラ・アムステルダム      (右)オランダといえばダイヤモンドの世界的集散地


  
  (左)街中にはハイネケンの工場も     (右)街にはりめぐされた運河は氷結しているが、一部融けている所も

 160の運河と1000以上の橋が、北のベニスと呼ばれるこの街の景観を盛り上げる。市電の走るライツェ通りやスピーヘル通り界隈をぶらつき、民芸木靴や木製のワイングラスを購入。世界的に有名なダイヤモンドのウィンドショッピングやハイネケンの工場を遠目にしながら3kmの道を再びホテルに引き返す。市内の運河だけに氷は所々溶け始めており、それでもスケーターは安全な場所を選んで楽しんでいる。しかし、中には溶け始めた氷の割れ目から水中に落ちる頓馬なスケーターもあとを絶たぬとか。


 レストランFive Flies (D_VIJFF_VLIEGHEN)の入口棟(左5棟が一体レストラン)

 夕食は「Five Flies」(「5匹の蝿」)という名のレストラン。1627年のオランダ建築をそのままにルネッサンス様式の家具で囲まれた7つのダイニングルームを有するレストランである。5匹の蝿という名前は、このレストランが外見上5つの連なった館で構成されることからきた名前なのだろう。

  
(左)レンブラントのエッチング画が残されたレンブラントの間 (右)トレードマークの5匹の蝿

 食後、満員の7つのダイニングルームを見学させて貰う。迷路さながらに2階に上がったり、狭い廊下の先に大きな部屋があったりで、まあその広いこと。他のお客は一体この東洋人達は何をしているのかといった目つきで我々を見る。出口を見失った我々はウエイター氏のお世話になって無事店外に脱出出来た。
入口から想像できない空間の広がり、中世欧州の建物は京都の町屋を連想させる。

   
   レストランの御由緒書 左の表紙の絵の通り5連棟のレストラン(入口は右端)



 レストランを後にした我々は、夜の歓楽街「飾り窓の女」のいるライツェ、レンブラント広場一帯を散策する。いる、いる。通りに面した建物の1階1坪ほどの小部屋に、様々な色の蛍光灯で照らし出された下着姿の女の子。白人に混じって黒人の女の子もいる。客待ちもいれば値段の交渉中のもいる。カーテンの引かれている部屋は目下進行中。夜目、遠目、笠の内とは良く言ったもの。何やら欲情をそそる怪しげな雰囲気が辺りに充満している。興味がありながら、なさそうな顔で目だけはしっかり彼女達の裸身を捉え通り過ぎる。欧州のビデオは日本ではそのまま再生出来ない。アダルトショップのお兄ちゃんが、「2本だけ日本式のが残ってるよ!」と言葉巧みに誘う。かつて放棄同意書を書いたことのある小生。立ち読みが一番。

  
  (左)夏の飾り窓界隈の風景(参考)            (右)飾り窓の女 ざっとこんな感じ

 翌朝、国立美術館にレンブラントの絵を訪ねる。最大の作品「夜警」は大きな部屋に単独展示されている。全体に暗い色調の中、躍動美を感じさせるこの作品は、永らくその複製画が我家の応接室を飾ることになる。

 
   (左)国立美術館        (右)レンブラントの代表作「夜警」、永らく複製画が我が家のリビングを飾る

 アンネ・フランク・ハウス。アンネの日記で一躍世界的に有名になった舞台である。アンネがナチの執拗な迫害から身を守るため1942.7~1944.8の発覚まで隠れていた家は現在アンネ・フランク財団によって保存されている。迷路のようなこの隠れ家は1635年の建造。

 
(左)アンネ・フランク・ハウス  (右)アンネとその日記(財団HPより)


 当時建物の価格が表通りの間口幅で決められたので、人々は奥行きを深くすることで広さの確保を図ろうとしたようだ。このため、アムステルダムの古い街並みは間口の狭い、それでいて奥行きの異常に深い建物が立ち並んでいる。この種の家は採光のため、中庭をはさみ表の本館と裏の別棟(ANNEXという)を渡り廊下で結ぶ形式のものが多い。

 Anne Frank Huis, Five Flies等々, 「迷路の館」の謎のムックである。


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