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旅行記、世相独言

行ってきました、第62回正倉院展

2010年10月28日 20時56分17秒 | 異文化体験_日本
(画像はクリックで拡大します)

行ってきました、第62回正倉院展   2010.10.27

 10月27日(水)初めて正倉院展に足を運んだ。平城京遷都1300年祭も間もなく閉幕ということでなのか、古都奈良は平日というのに大変な人出である。第62回目を数える正倉院展は10時の到着で既に待ち時間30分。

 
(左)奈良国立博物館、待ち行列が見える  (右)帰る時(午後2時)には45分の待ち時間

 そもそも正倉院とは、と聞かれて小生が答える事が出来るのは「校倉造り」「東大寺」「天平文化」くらいのもの。こりゃ恥ずかしい!と去る10月2日大阪NHKホールで開催された「正倉院と平城京」の歴史フォーラムに参加し、今回の正倉院展のお勉強となった次第。

    
(左)フォーラム資料表紙     (右)NHK大阪ホールから大阪城公園・OBPを望む  

奈良時代から平安時代にかけて、各地の役所や寺院には主要な財物や什宝類を収納する「正倉」が設けられ、それを囲んだ区画を「正倉院」と言うのだそうだ。従って、法隆寺、興福寺、西大寺等にも「正倉院」があったが、現存するのは東大寺の正倉院の「正倉」だけで、今日では固有名詞化されている。

  正倉院(Wikpediaより)
 
正倉内部は北倉、中倉、南倉の3室に分かれ、北と南が校倉造り、中は板倉造りである。建てられた時期は不明だが、部材の年輪等から753年後半と推定されている。聖武天皇、光明皇后の遺品は主に北倉に収められている。

 正倉院展パンフ、五弦の琵琶

 初めて一般公開されたのは、江戸時代。第1回正倉院展は昭和21年に奈良帝室博物館で開催、出陳物の選択は奈良帝室博物館。今日の正倉院展の出陳物を決めるのは、宮内庁で奈良国立博物館ではないとか。

     
(左)螺鈿紫檀五絃琵琶の背面  (右)表面らくだの人物の琵琶は四弦

 出陳物一番人気は、「螺鈿紫檀五絃琵琶」。まじかに見るには館内でなお30分待ちであった。世界に唯一現存するインド起源の五弦の琵琶だが、腹板にヤコウガイを用いた螺鈿でフタコブラクダに乗った人物が何故か四弦琵琶を演奏しているのが面白い。

 西域からもたらされた数々の珍品を見るに、1300年前の人々の旺盛・活発なグローバルな異文化交流に、頭が下がる思いである。

    

 国家珍宝帳に見る藤原仲麻呂の直筆署名や正倉院古文書正集の法師道鏡の骨太で闊達な書体等を直に見るのも面白い。

    
(左)国家珍宝帳の巻頭部、巻末に仲麻呂らの署名がある (右)種々薬帳

 なお、奈良国立博物館には奈良仏像館が併設されており、奈良を中心とする様々な仏像が展示されている。圧巻は東大寺金剛力士像。仏像の理解促進にこんなクイズも。

 奈良仏像館では古代から中世に至る仏像の歴史が見れる


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マラソンディナー 深夜のお国自慢 -ミラノ2-(異文化体験9 カディスの赤い星3)

2010年10月26日 22時51分00秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)


マラソンディナー 深夜のお国自慢 -ミラノ2- 1987.6.2~5&7~8                                    

 世界ガス連盟(IGU)J委員会は、各国委員の報告の後、前回スタディとの違いを中心に議論される。夕刻にはその作業も終わり、場所を変えてのマラソンディナー。
 同業T社のO氏はTEATRO SCALAの切符をダフ屋から?万円で入手しCARDILLACというオペラ見物、欧州駐在のM君は赴任早々で子供の宿題を国際電話でコーチしなけりゃ!と皆さん適当な言い訳でマラソンディナーを欠席。結局、日本代表は小生一人となった。

 
(左)マラソンディナー会場L'Oca Nera (右)スカラ座の演物「CARDILLAC」

 会場はL’ OCA NERAという近代レストラン。イタリア最大のエネルギー会社SNAMの副社長直々のお出迎えである。
 イタリアンヌーベルバーグの料理、Antipasto, Zuppa, Risotto, Pesce, Carne, Verdura, Dolceとボリューム満点の料理が次々と出てくる。比較的小柄なイタリア人が、よくもまあと言いたくなる食欲、若者と大人の体型の落差は十分理解できる。

 
                     食後のリキュールと葉巻タイム  

 11時頃にデザートが出て、ぼつぼつお開きかと思いきや何の何の!古風なデカンターに入った数種類のリキュールタイムの始まり。リキュールをパスする人は1/3ほどいる。
 喫煙家は葉巻をどうぞ!と葉巻愛好家のドイツの委員が提案。小生はキューバ葉巻にチャレンジ。夫婦連れのテーブルはキャッキャ言って盛り上がっている。が、チョンガーで参加しているテーブルは話題が尽きてしらけ始めている。


 我がテーブルではというと、航空会社の評価の真最中である。「何故、みんな自国の航空会社を好むのだろう?」という質問が、そもそもの始まりである。小生の隣から順にスペイン人、フランス人、英国人、オランダ人と5ケ国の委員が夫々のお国の航空会社の自慢話に熱中し出したのである。

 
(左)AF(フランス・コンコルド) (右)BA(英国・世界初のジェット旅客機Comet4)

 フランス人はコンコルドを生み出した国だけあって、技術とスチュアデス(主として容姿)を誉める。
 イギリス人はジェット機コメットを初めて就航させた自負があり技術が売り物。スチュアデスのお褒めの言葉はなかった。

 
(左)KLMオランダ航空                 (右)イベリア航空

 オランダ人はKLMの安全性と合理性を力説する。
 スペイン人はイベリア航空がつい最近までIATAに加盟しておらず、やや国際性の欠如、スペイン人の航空機利用頻度の低さ等、やや卑下した論調。

 JAL日本航空

 小生はJALのサービスとスチュアデスの若さ、特にサービスの点で日本の航空会社の右に出る会社はないと主張。

 何故か評判悪かったアリタリア航空

 かなりの賛同が得られたが、結局欧州で一番評価の低かったのはアリタリア航空、自国以外で最も人気の良かったのはシンガポール航空であった。
 日付が変わった頃、このマラソンディナーもやっとお開きとなった。

     
   自国以外で一番人気のシンガポール航空とスチュアデスの制服

 
 翌日は、午前中で会議が終了。欧州駐在したばかりでミラノを知らないM君と街見物。M君も会社の女性への土産に一口乗るという。彼が買ったのはスケスケルックのSILKのピンクのブラウス。果たしてこんな過激なファッション、着てくれるかどうか?
(追伸:1年経ったが未だ着たのを認めず。下着姿同様ゆえ無理もなしか。でも見て見たいものだが!)


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EXTRA SMALL PLEASE ! -ミラノ1- (異文化体験9 カディスの赤い星の旅2)

2010年10月22日 10時58分44秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)


EXTRA SMALL PLEASE! -ミラノ1-  1987.6.2~5


 宿舎兼会議場 ジョリー・プレジデント・ホテル

 ミラノ到着は夜の9時。リラを求めて銀行を捜すが全てクローズド。銀行窓口周辺はカービン銃をぶら下げた女性警官がうろ、うろ。タクシーの運ちゃんにポンドでも良いか?と聞いても意味が通じない。ええい!なるようになれ、とタクシーに乗り込む。荒っぽい運転にひやひやしながら、無事Jolly President Hotelに到着。両替してくるから待っていろ、と言うと意味が通じたらしく一安心。

    
(左)ミラノの象徴 DUOMO       (右)135を数える尖塔群

 ミラノと言えば、イタリア・ゴシックの代表的建造物であるDUOMO(ドウオーモ)とその広場がシンボル。1386年に起工し19世紀に完成。尖塔の数は135を数え、見上げると一つ一つの像の表情が実に繊細に異なり威圧感を与えると共に、一揺れあればどうなるか、尖塔が今にもまっ逆さまに襲い掛かってくるような恐怖感にも襲われる。広場の階段には沢山の市民が腰をかけ、ある者は鳩と戯れている。

   
(左)ドウモ広場に面したGalleria Vittorio EmanueleⅡ通り (右)スカラ座と広場

 Duomo広場を起点にGalleria Vittorio EmanueleⅡのアーケードがのびており、イタリアンモードがここから発せられる。ガラス張りの天井、十字型に伸びるこのアーケードは現代の都市開発でもその変形が多数採用されている。アーケードの一方の出口はオペラの殿堂スカラ座のあるスカラ広場に通じている。

    
(左)サンタ・マリア・デッラ・グラツィエ教会 (右)食堂跡から発見された「最後の晩餐」  

 Duomo広場から北西に歩くと、サンタ・マリア・デッラ・グラツィエ教会がある。1465年から1490年にかけて建設され、修道院食堂からレオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」の大壁画が発見され、世界的に有名になった教会である。左右8m、天地4mの壁画は、薄暗い照明に照らし出され幻想的な雰囲気を醸し出している。

 スフォルツェスコ城

 教会から北東に少し歩くとスフォルツェスコ城に出会う。先程の教会とほぼ同時期にブラマンテやダ・ビンチの手で完成されたこの城は近代城塞として有名らしい。夕方までのほぼ一日を徒歩で街見物。


 Galleria Vittorio EmanueleⅡ通り 

 しかし、大切な使命がまだ残っている。ミラノファッションの最先端を日本に持ち帰らねばならないのである。街見物の合間に街角の沢山のブティックに足を踏み入れたので、街見物はミラノファッションの勉強と言っても過言ではない。夏を間近に控えた店頭のファッションは当然夏物である。原色の大胆なデザイン、大きな開口部、そして何よりもやや大きめのサイズ。特に肩幅はまず日本人女性には合わないだろうと思われる。英国なら子供服売り場に行く必要があるが、ここはイタリア。少しはましである。高級ブランド品は端から論外で、適当なお土産になるものがきっとあるはず。が、結局夕刻になってタイムアウト。

  
  最近のベネトン・ファッションより(当時のティーンズファッションとは異なる)

 とりあえずイタリアのティーンズ・ファッション専門店「ベネトン」(その後、急速にヤングアダルト向けファッションで世界制覇するが)で、うちの娘(会社の娘)はこれ位の背丈でと汗をふきふき説明。かなり大胆なデザインのものを若い女店員が次から次と持ってくる。日本ではこんなの誰も着ないよ!と説明して、結局オリジナルカラーの一番おとなしいT-シャツとパンツに決定。しかし、この店員まだ解放してくれない。同色のインナーウェアもあるからと、かわいいのを持ってくる。わしゃ、娘のサイズは知らん!とほうほうの体で逃げ出した次第。疲れを倍増させる買物であった。

今宵は世界ガス連盟(IGU)の歓迎レセプション。ホストはイタリア最大のエネルギー会社・SNAM。例のマラソンディナーの始まり!始まり!


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カメラ?それともビデオ?-ロンドン-(異文化体験9 カディスの赤い星の旅1)

2010年10月15日 20時11分04秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)


カメラ?それともビデオ? -ロンドン-  1987.6.1~2

 ミラノで開催される世界ガス連盟の天然ガス需給予測委員会(IGU-J委員会)の下打合せで、ロンドン事務所に立ち寄る。事務所は以前のシティの一角からオックスフォード通りから少し入ったハノーバー広場、イギリス屋の近くに引っ越している。
 M所長の薦めでカンバーランドホテルに予約が出来ている。夕刻ロンドン入りするのは初めて。何時もタクシーかO君の出迎えにお世話になっていたが、今回は急ぐ必要もないので例の2階建てバスで市内入りすることにした。

お馴染み2階建赤バス(ルートマスター)

 バスターミナルに行くとお客は誰もいない。「マーブルアーチ」行きのバスは、10分後に出ると言う。待つこと20分。「まだなのか?」と催促するとやっと運転手が乗り込んで発車。しかし、この選択は結果的によろしくなかった。あっちこっち廻って、マーブルアーチまで何と1時間少々かかった。

マーブルアーチと右後方がカンバーランドホテル

 ホテルにチェックイン後、事務所に向かうが、今回は会社の女性にミラノファッションを買ってくる約束をしたので、目は自然とショウウィンドウの女性服に向かう。しかし、所詮英国では小柄な日本女性向きのものを望むべくもない。なんでこんなにサイズがバカでかいんだろう。

日本食レストラン「MIYAMA」

 事務所はまだ引っ越して間がないので工事中のところもあるが、以前より少し広くなった感じ。MIYAMAという日本食レストランでM所長と再会を祝す。
 
 今回の出張には、新発売のコンパクトビデオを持参してきている。翌朝、小雨の煙る中、お土産を持って事務所を再訪。打ち合わせの後、オックスフォードからリージェント通り、ピカデリーと歩き慣れた道を散策。バッキンガム宮殿や小雨の煙るセント・ジェームズ公園の鴨やいろんな水鳥たちも格好の被写体となる。

バッキンガム宮殿の衛兵交代式

 
(左)私のは東芝製だが、よく似たビクター製ビデオカメラ (右)VHS-Cテープを使用


 夕刻にはヒースローからミラノに向けて出発である。アルプスの山々の万年雪が丁度夕日に照らし出され、昨年登ったモンブランはどの辺りだろうとビデオを廻す。
 後ろの座席の英国人の若者が、カメラだ、いやビデオだと論争している。丁度、スチュアデスが「良い景色ねえ!」と小生の窓を覗きに来たので、「このビデオで貴女も撮らせてよ」という一言で、後ろの座席の論争にもケリ。肩に担ぐビデオを、こんな小さなビデオにする日本の技術に、英国の若者達も興味深々。

 参考:アルプス上空(衛星写真)

 間もなく夜の帳が降りるとともに、ミラノ到着である。


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機内のファッション・マッサージ -ジュネーブ- (異文化体験8 アルプス山麓の旅5)

2010年10月10日 13時21分32秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)


機内のファッション・マッサージ -ジュネーブ-  1986.9.20~21


 
 ジュネーブの街並み(左)とホテル・ボウリバージュ(右)


 帰国する日になって、ジュネーブに薄日がさすようになってきた。

 
(左)日曜早朝の石畳の路地              (右)サン・ピエール大聖堂の尖塔

 
(左)国家記念碑の二人の女神像               (右)美術歴史博物館

 午前中に14世紀に出来上がったとされる石畳の曲がりくねった旧市街を散策する。サン・ピエール寺院の尖塔を目指して歩くと、途中に日本の公設市場のような市場がある。主として肉、ソーセージ、魚、チーズ等を扱っている。どれもこれも日本の市場と比較にならないほど安くて種類が多い。キャビアはソ連産であるが約1/3の値段。チーズをお土産にと、幾種類も入っているバスケットタイプのものを買う。そう言えばスイスに来てフォンヂュも味わえずに帰るのは心残りであるが、コワントラン空港に向かう時間が近づいている。



 
(左)ジュネーブ・コワントラン空港             (右)パリ・ドゴール空港

 空港ではドゴール空港経由で帰ると言うとビザを発給してくれた。パリは単なるトランジットなのだがビザが必要とのこと。免税店は小さくて人もまばら。女の子が暇そうに本を読んでいる。「この時間帯はいつも暇なの?」とその子が言う。その子のお勧めのシェリー酒とグッチの携帯用コロンを買って、ジュネーブに別れを告げる。ドゴール空港はターミナル間の移動が結構複雑である。JALゲートに着くまで2回のビザチェックを受ける。テロ対策に万全を期すパリ警察に協力。


 喫煙席が禁煙席に 

 JALデスクでまた一悶着。搭乗券の発行が遅れて、待つこと40分。エコノミーの客が機内に入りだしてもまだビジネスの搭乗券が貰えない。この間、数度となくプッシュするが大丈夫の一点張り。そう言えば旅行代理店が「予約は取れたが席の確認が出来ていない」と出発前に言っていた。そうこうする内に、F(ファースト)、C(ビジネス)クラスの搭乗が始まりだした。これはひょっとすると前回のハワイ行きのようにFクラスに乗れるのかな?と期待しかけた矢先、コールがあって搭乗チケットが渡される。なんだ、これは! Cクラスで、しかも禁煙席ではないか! 予約時に喫煙/禁煙、窓側/通路側をリクエストするシステムになっているのに。アピールすれども満席の事ゆえ、ひらにご容赦をと言うのみ。


 ギャレーのカーテンボックスの中で  

 直行便が就航して、10時間少々のフライト。でも禁煙はつらい。後ろのエコノミーも満席。こういう時はギャレーのカーテンボックスの中で、プラコップに水を入れて喫煙するのが一番。映画が始まって、就寝の時間帯にギャレーの中に入ると、スチュアデスが一人手持ちぶたさで腕にオイルを塗っている。中肉中背の中々のスタイルの彼女。今は暇と見えて世間話に花が咲く。

 
(左)ギャレーの中  (右)かつてはこんな機内体操も (いずれも参考写真)

機内の湿度が低いので肌が痛みやすくオイルを塗って防止するのだそうだ。また運動不足になるので機内体操もするとか。実演をして貰うとこれまた、なかなかの色っぽい体操。主として腰を中心とするストレッチ体操であるが、彼女の腰の線と脚線がくっきりと出て、目のやり場に困る。小生も真似るが、「そうじゃなくて、こう!」とボディタッチしながらのご指導。小生も腕まくりした腕にオイルを塗って貰うころになると、狭いギャレーの中に怪しげな雰囲気が漂う。

彼女のしなやかな指と手のひらによるサービスは、結局は旅行代理店のお陰なのかなあ! とにかく、有難う!!

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平城京 もう一つの1250年祭(光明皇后)

2010年10月07日 16時50分20秒 | 異文化体験_日本
(写真はクリックで拡大します)

平城京 もう一つの1250年祭(光明皇后)

 古都奈良。今年(2010年)は平城京遷都1300年祭で大いに賑わっているが、その平城京と大いに関係するある人物の没後1250年祭の年でもある。
 その人物とは・・・・「光明皇后」。
 聖武天皇の后として、天平時代の政治と文化に大いに影響力を発揮した皇后である。

 先日、光明皇后について京都女子大の瀧浪先生の講演を聞く機会が奈良であった。ついでに久々に皇后ゆかりの寺の一つ「新薬師寺」を訪ねた。


 東大寺大仏殿

 聖武天皇は東大寺の大仏(盧遮那仏)を建立したことで有名だが、それを進言したのが光明皇后とも言われている。
 二人は同じ歳で701年生まれ。光明皇后の父親は藤原不比等、聖武天皇の祖父はこれまた藤原不比等。ということは近親婚で、叔母と甥の関係でもある。

 藤原氏を祀る春日大社

 平城京への遷都は、二人が10歳の時。(覚え方:なんと(710)綺麗な平城京)
首皇子(聖武天皇)は714年、14歳で元服・立太子となり、光明子(光明皇后)は716年皇太子妃となり、18歳で安倍内親王(後の孝謙天皇=女帝)を、27歳で基王(皇子、2歳で死去)を出産し、藤原一族(不比等)の政治基盤を磐石なものにしていく。
 そして、724年24歳で聖武天皇が即位すると、光明皇后は29歳で当時の法を犯して民間人として初の皇后に立てられる。

 興福寺を望む(奈良県庁屋上より)

 二人は不安定な社会を仏教の教えをベースに人心を安定化させようと仏教寺院の普及拡大に取り組み、東大寺の大仏(開眼法会は二人が56歳の時)がその典型例である。
 また、病弱な夫の病気回復を祈って、光明皇后は広大な新薬師寺(新は「あたらしい」ではなく、「あらたかな」という意味)を建立したり、市井の民のために興福寺に施薬院・悲田院をおき、五重塔を建てるなど、今日奈良に残存する天平文化の形成に尽力した。

 上:聖武天皇の筆跡、下:光明皇后の筆跡

 二人の夫婦仲の力関係は、どうであったのか? 直筆のこの文字を見ると推し量ることができるという人もいるが・・・・。

 56歳で聖武天皇が没すると、光明皇后はその遺品を東大寺に納め、正倉院御物として当時の生活・文化を垣間見ることができる。皇后は60歳で没。

 東京・福岡で沢山の観覧者を集めた阿修羅像(Wikipediaより)

 瀧浪先生は、光明皇后が母・橘三千代の供養に建てた興福寺西金堂の阿修羅像は、おそらく2歳で没した「基(もとい)王」(息子)、腹違いの16歳で没した「安積(あさか)親王」、そして安倍内親王(娘、後の孝謙天皇)の3人を彫り込ませたもの、という説。さて、さて、いかがでしょうか?

 
(左)新薬師寺「金堂」  (右)薬師如来座像と十二神将(Wikipediaより)

 
塑造の十二神将、その代表格バザラ大将(左)今日 (右)製作時の極彩色を復元

 創建時の新薬師寺は、四町四方の境内に七堂伽藍甍をならべ住する僧一千人の巨大寺院であったが、相次ぐ落雷火災等により、現在の新薬師寺は、創建時の食堂を本堂として国宝・薬師如来像、国宝・十二神将が当時の面影を今に伝えている。

 間もなく第62回正倉院展が始まる。今年は遷都祭を記念して屈指の名宝の数々が展示される。また、NHKの「大仏開眼」の再放送もあるようだ。楽しみである。


今回の「平城京 もう一つの1250年祭(光明皇后)」を評価下さい。

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熱い熱いモンブラン -ジュネーブ&シャモニー-(異文化体験8 アルプス山麓の旅4)

2010年10月03日 11時52分42秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)


熱い熱いモンブラン -ジュネーブ&シャモニー-  1986.9.18~20


 Aiguille du Midiから見たシャモニー渓谷(Wikipediaより)


 一夜明けてボウ・リバージュホテルの部屋からは、依然として厚い雲に覆われたレマン湖が目の前に広がっている。午前8時にMontour社のバスターミナルに行って、モンブラン行きの日本語ツアーバスの予約を確認。大丈夫、30分後にバスが来るから待っていろとの返事。135フラン払ったのだから天気よ、どうぞ回復しておくれ!

 ほぼ定刻に来たバスに乗り込むと何と車内はホテルピックアップされた新婚さんばかり。小生一人が浮いている。しかし、色んな組合せがあるものだ。見ているだけで面白い。中には不倫カップルと思しきものも。しかし楽しくお喋りしているカップルは少なく、皆さんお疲れなのか眠ってばかり。

 シャモニーに近づくと雲が霧散し青空が。車内は大歓声。

 テロ問題で心配していたビザは結局不要でパスポート・コントロールだけでフランスに入国。高度を上げてバスがシャモニーの町に近づくと覆っていた霧が何と瞬く間に霧散し、お日様が顔を覗かせる。期せずして大歓声と拍手がわき起こる。

 
(左)シャモニー-エギュイ・ド・ミデイロープウェイの切符       (右)2800mを20分でかけ上がるロープウェイ

 標高1035mのシャモニー(Chamonix)の町から2台のロープウエイを乗り継ぎ、標高3842mのエギュイ・ド・ミデイ(Aiguille du Midi)に何と20分で到着する。2800mの高度をわずか20分でかせぐため、気分を悪くする乗客も多いとか。あっという間にシャモニーの町が小さな点となり、ロープウエイの横にはGlacier des Bossons氷河が荒々しく牙を剥いて横たわっている。この氷河には今直、沢山の遺体が呑み込まれており、100年後に孫が自分とほぼ同年代のお祖父さんと対面というようなことがしばしばあると言う。

 
(左)モンブラン周辺のMAP いく通りものアクセスルートが  (右)シャモニーまで続くGlacier des Bossons氷河

 Aiguille du Midiから晴れ渡った青空に真っ白な積雪を頂いたアルプスの峰々が、180度の展望を楽しませてくれる。とりわけ標高4807mのモンブラン(Mont-Blanc)は女性的な丸みを帯びた稜線を見せながら、手に取ることが出来るような間近さで一段と美しく太陽に照り輝いている。真空の中にいるのではないかというような錯覚をおこさせるこの静けさは、学生時代によく登った日本アルプスの山々を脳裏に呼び起こす。

 
(左)Aiguille du Midi(3842m)登頂証明書(要料金)   (右)アルプスのパノラマ

 
(左)間近に迫るモンブランの威容(中央お椀形)     (右)ロッククライミングを楽しむ人たち

 シャモニーに再び降りてツアー全員での昼食。遠慮して一人で食べようと少し離れた席につくと一組の新婚さんがこちらで一緒にと勧めてくれる。新妻さんが「これからロンドンに行くのだがどこが良いか?」と亭主そっちのけで話し掛けてくる。亭主の嫉妬を買わない程度に楽しく昼食を済ませる。独り旅の小生にとって「夕食もご一緒に?」と言いたいところだが、そういうわけにも行かず「楽しい旅を」でバイバイ。それにしても海外慣れした新妻と初渡航の旦那では、自然と主導権は新妻が握ることに、そして実生活でもそのまま延長線に・・・ということになるのかなあ。

 快晴のシャモニーの街

 快晴のシャモニーからジュネーブに戻る。レマン湖の大噴水が薄曇りの空に150mの水柱を放っている。噴水の直下に水煙を浴びながらの見物である。マルシエ通りとローヌ通りに囲まれた繁華街をうろつく。カウベル、アーミーナイフ、スイスチョコ、それに今回の旅行からコレクションを始めようと思うオルゴール等をショッピング。街頭のカフェテラスに多くの市民が憩っている。スイスパンのサンドウィッチを買って、その中に混じって寂しい夕食を始めていると、南米から来たフォルクローレを演ずるグループが賑やかにギターと笛、太鼓で演奏を始めた。寂しい夕食は一躍コンサート付きデイナーに変身である。

 
(左)レマン湖の大噴水(とても真下には行けない) (右)寂しい夕食を楽しくしてくれたフォルクローレの演奏家たち

 街が美しいジュネーブ(後はボウ・リバージュホテル)

 一旦ホテルに戻り、なかなか暮れない夜を持て余すように、再び街に出て反対側のモンブラン通りを中央駅の方に歩く。沢山のカップルが時計屋の店先でウインドショッピングをしている。こんなことなら昼間の新婚さんを食事に誘えばよかったかなあ。一人旅の寂しさが深夜まで堪えるジュネーブ。そうだ、絵葉書でも書くか!


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