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旅行記、世相独言

ストだって!どうしてくれるのよ - ピサ -(異文化体験28 イタリア満喫の旅6)

2013年02月23日 15時05分43秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

ストだって!どうしてくれるのよ ― ピサ - 1996.05.01

昨夕、ヴェネチアから中世ルネサンス発祥の地、ここフィレンツェに到着。アルノ川沿いのグランドホテルにチェック・インする。以前に泊まったエクセルシオールの前に位置する5つ星ホテルである。

  
(左)フィレンツェの駅                 (右)川沿いのホテルの部屋からの眺め

グランドホテル・フィレンツェ  

 当地では何と言ってもウフィッツィ美術館での数々のルネサンス名画との再会が楽しみである。
が、が、が、である。朝早く起きて美術館の列に並ぼうと前まで行くと、何とストライキで休館とのこと。
 世界中から沢山の観光客が来ていて、お目当ての名画が待っているというのに。日本から来たツアー客のおばさん達は、「このためにはるばる来たのに!!」、「スケジュールが決まっているので、入れないじゃない!」と大いなる怒りがあちこちに渦巻いている。まことにお気の毒である。

 ヴェッキオ宮殿前のシニョリーア広場 (フィレンツェ)


しからば、我々はとりあえず今日はピサに行き、明日美術鑑賞することに急遽予定を変更する。中央駅でピサ行き往復チケットを購入。14400リラ、約1000円。およそ1時間で着くそうだ。

 ピサへの切符、フィレンツェから約千円


 ピサのドゥオーモ広場へは2km30分ほどのウォーキング、駅前広場からクリスピ通りを北へ、アルノ川を渡り更にローマ通りを1kmほど歩けばよろしいと説明を受けたが、下車した人たちが同じ方向に進むので歩調を合わせる。


            
(左)駅からドゥオーモまでは2km、もうすぐ!  (右)奇跡の広場に建つ斜塔、大聖堂、洗礼堂


 斜塔で有名なピサだが、13世紀フィレンツェの支配下に置かれるまではジェノヴァ、ヴェネチアらと大海運国の覇権を争った町である。町の中心の11世紀に建てられたドゥオーモはピサ・ロマネスク様式の傑作で、何本もの柱列が並ぶ白い大理石の大伽藍は実に美しい。


(上)イタリア唯一の円形洗礼堂内部 ピガレッティ彫刻の8角形の洗礼盤(1264年)


 大聖堂の中央ブロンズ門扉には聖母マリアの生涯がピサーノの手により制作(焼失・再建)され、「キリスト降誕」の場面は多くの人の手で撫でられたキリストが輝いている。

 大聖堂中央門扉の「キリスト降誕」の場面


 斜塔はその付属鐘塔として12世紀に着工された。残念ながら高さ55mの斜塔(南北で70cmほど差があるが)は倒壊防止のため上がることはできない。地盤沈下のためこの当時建てられたほとんどのピサの建物が傾いていると言われている。
ガリレオがドゥオーモの吊下されたランプから「等時性」を、斜塔で「落下の法則」を見出した話はあまりにも有名である。

 天才建築家ボナンノ・ピサーノ作。4.31mの傾斜。お決まりポーズ

 広大な緑のドゥオーモ広場には、カップル達が春の日を浴びながら寄り添ってひと時を過ごしている。中には寝転がってきわどい行為の熱々のカップルもいる。さすがにここはイタリアである。

 全体のロマネスク様式にイタリアン・ゴシック様式が調和している


 夕刻にフィレンツェに戻り、多くの人で賑わうドゥオーモ広場周辺を散策する。以前、建設業界の人達と訪れた際、サンタ・マリア・デル・フィオーレを見て「あっ!東京都庁そのものだ!」と叫んだ人がいた。また、前回夕食後、ワインで良い気持ちになって広場の絵描きに似顔絵を書いて貰っている最中に寝てしまったりと、この広場にはいろいろ思い出がある。

  夕刻、花の聖母教会をバックに (フィレンツェ)

 白、ピンク、緑色の幾何学模様が特色の花の聖母教会、ブルネッレスキーの設計による大クーポラが中世ルネサンス期に増築され巨大な教会となった。464段のクーポラの階段を上ると、疲れを感じさせないフィレンツェの素晴らしい360度の街並みが待っている。

              
(左)これは東京都庁そのもの!と叫んだ建築業界の人も (右)以前広場で描いて貰った似顔絵

 洗礼堂の「天国の扉」とミケランジェロが命名した東の扉は、ある日本人の寄贈によるレプリカだそうな。ルネサンス最大の功労者とも言われるジォットの設計による鐘楼と共に、このドゥオーモ広場は正にルネサンスの濃厚な匂いがする場所である。

 さあ、いよいよ明日は名画とのご対面である。


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リド島のローストチキン -ヴェネチア- (異文化体験28 イタリア満喫の旅5)

2013年02月17日 17時43分52秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

リド島のローストチキン -ヴェネチア- 1996.04.30

 昨日の午後はハウスワインのお蔭で全く観光が出来なかった。その分、今日は忙しい。ホテルのセミスィートの部屋で今日の予定を立てていざ出発。
 9時のドゥカーレ宮殿開館を待つ間、サン・マルコ広場周辺を散策する。Palazzo Ducaleは総督の宮殿のこと。

 ホテルの部屋で今日の予定を打合せ

   
(左)サンマルコ広場(Wikipediaより、1730 カナレット作) (右)修復の続くサンマルコ寺院を背景に

 9世紀にエジプトから運ばれたマルコの遺体を収めるために建てられたサン・マルコ寺院は大規模修復が続いている。寺院右手のドゥカーレ宮殿も同じく9世紀に当時のヴェネチア共和国政庁として建造された。ティントレットのParadisoのある2階大評議員会議室から階段を降りると、この橋を渡った囚人は二度とこの世に戻れないと言われた有名な「溜め息の橋」に出る。

小広場の柱(サンマルコの獅子の彫像と聖テオドーロの彫像)

     
(左)後方は「溜め息の橋」   (右)囚人が二度とこの世に戻れないと嘆いた「溜め息の橋」の中

 地下牢から再び広場に出て、鐘楼に上る。何度か崩壊したようだが、ここからの眺めは最高である。迷路のような路地を建物角の標識を頼りに再びカナル・グランデ、リアルト橋まで散策する。

  鐘楼から見た寺院のクーポラ

 鐘楼から見たヴェネチアの風景


 425年がヴェネチア誕生の年と言われる。フン族の侵攻を避けるため本土住民が干潟に移り住んだ年だそうな。昔は首都がリド島のマラモッコにあったが、813年防衛の容易なリアルトに移し、これが今日のヴェネチアの起源と言われている。それにしても、この街の下には何百万本、いや何千万本もの松杭が打ち込まれ、これらの巨大な石造建造物を支えているとは信じがたい話である。

   
(左)海から見た広場とドゥカーレ宮殿(Wikipedia、1730カナレット作(右)リド島へのボートから見た広場(1730と同じ景色)


 ヴェネチアンガラスで有名な島はムラーノ島であるが、今回は「ベニスに死す」の舞台リド島に行くことに。ホテルに戻ってホテル専用ボートで送って貰う。長さ12kmの細長い島である。国際リゾート地としてヴェネチア国際映画祭もここで開催される他、カジノ等がある。リド島一のホテル・エクセルシオールの長く続くプライベートビーチにはこの季節人影も見えず、風も強い。

      

  
 リド島 ホテル・エクセルシオール(ヴェネツィア映画祭会場)のプライベートビーチで

 町の方に歩いていくと、なにやら大きなワゴン車に人だかり。何だろうと近づくとローストチキンの販売に地元の人たちが列をなしている。見るからに美味しそうな黄金色のローストチキンが大きなオーブンの中でまわっている。皆さん、一羽丸ごと買っていくので順番待ちにも結構時間を要しているようだ。

 しかし、待つだけのことはありそうな美味しそうなこんがり焼かれたチキン。我々もお腹が減ってきた頃なので、昼食はこれ!と決めて列に並ぶ。地元の人たちが、やや不思議そうに我々の方を見ている。皆さん、結構細かく注文の指示を出していることもあって、時間がかかる。前のおばさんが何か話しかけてきてくれるのだが、早口のイタリア語ではよく分からない。何度かのやり取りでどうやら日本から来た観光客だと理解してくれたようだ。

(イメージ写真です)

 そうすると、このおばさん大声でチキン屋に何か言っている。チキン屋が今度は我々の方に向かって何か叫んでいる。どうも、周りの状況から「遠いところから来ているのだから先にしてあげて!」と言ってくれて、チキン屋が我々に注文を聞いていると理解できた。ハーフカット、と言っても結構な大きさだが、地元の皆さんの温かい理解と協力でほっかほっかのローストチキンを手にすることが出来た。

 浜辺に腰掛けてジューシーな温かいチキンという予想外な昼食を取り、公園に出ている様々な露店を覘いてまわる内にホテルボートの迎えの時間が。

ヴェネチアの思い出を携えてホテルボートでサンタ・ルチア駅へ

 ホテルに戻り預けた荷物を受け取って、今度はサンタ・ルチア駅までホテルボートで送って貰う。ヴェネチアからはインターシテイで花の都フィレンツェへ。
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ハウスワインにご注意! - ヴェネチア - (異文化体験28 イタリア満喫の旅4)

2013年02月11日 00時19分22秒 | 異文化体験_西欧
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ハウスワインにご注意! - ヴェネチア - 1996.04.29~04.30

 空から見たヴェネツィア(Wikipediaより)

 午前9時過ぎにミラノ中央駅を出発するヴェネチア行きインターシテイのコンパートメントは我々夫婦だけ。駅で買ったサンドウィッチとジュースを食べながらの1時間半の電車の旅。サンタ・ルチア駅からは水上バスでサンマルコ広場へ。

  
(左)ミラノ中央駅からICでヴェネチアへ。1時間半の電車の旅   (右)コンパートメント

 当地のホテルはホテル・オイローパ&レジーナ。チェックインには早過ぎる時間帯ではあるが、特別にセミスィートのカラフルな部屋に案内される。荷物を置いて早速ヴェネチア見物へ。

      
  ホテル・オイローパ&レジーナ              ホテルのカナル・サイド専用ボート乗り場


 まるで街全体がテーマパークのような雰囲気に女房殿も大いに感動。サンマルコ広場からリアルト橋に向けて辻々の標識を見ながら路地を進む。2月から3月にかけて開かれたカルネヴァーレの名残がお店の店頭に残っている。

  リアルト橋に向かう路地の商店にて

カナル・グランデのほぼ中間地点にあるリアルト橋まで来ると丁度お昼時。いつものことながらこの界隈は一際賑わいが増し、どのお店も結構満杯である。

  カナル・グランデに架かるリアルト橋

  
                  リアルト橋近くのオステリアで昼食(HPより)

 橋の袂近くのカナルを見渡せるお店に入り、魚介類のリゾットやパスタを注文。飲み物は小奇麗なデカンターが目に留まったのでハウスワインを注文する。

 食事の合間も時たま行き交うゴンドラからゴンドリエーレ(漕ぎ手)の歌声が耳に飛び込んでくる。女房殿も口当たりの良いワインに食事も進み、デカンターのワインも残りわずかに。たっぷり昼食の時間をお店で過ごし、デカンター最後のワインを空けてお店を出る。

 さて、これからどこへ行こうか? とリアルト橋の上で問いかけるも女房殿の様子はややハイの状態に。陽気になってくれるのは良いが、それもひと時の間。
 しばらくすると頭が痛いと言い出したので、しからばとホテルに戻ることに。。。

  
(左)ゴンドリエーレの歌声が響き渡る (右)昼食後リアルト橋の上で。この時はまだハウスワインに上機嫌。。。


 女房殿が出歩けるようになったのは、暗くなってから。「サンマルコ広場のカフェでコーヒーでも飲もうか」とカサノヴァで有名なカフェ・フローリアンに向かう。小雨が降ったようで路面が濡れている。まだまだ4月の夜では気温もぐっと下がり、店頭広場の楽団は演奏しているもののテラスの客はまばら。

 4月の夜は人影もまばらなカフェ・フローリアン

 しばらく外にいるとじんわり寒さが身を包み、結局、広場界隈を散策してホテルに戻る。

  夜のホテル・オイローパ&レジーナ              

 昔、ある大手商社の駐在員氏が、「ハウスワインにはご用心! 飲み過ぎると悪酔いするからね」と言っていたのを思い出したヴェネチアの初日であった。


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地震のお話 その1 「連動性」

2013年02月07日 13時08分05秒 | コーヒーブレイク
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地震のお話 その1 「連動性」

 過日、「考古学から南海地震を探る」というお話を聞きました。
記紀以前の地震の痕跡は、地中に刻印されており、それらを総合的に分析すると
巨大地震にまつわる「連動性」が見られるとのこと。

 図1は南海トラフの巨大地震年表がその連動性を良く物語っています。
最近の「東海地震」「東南海地震」「南海地震」を示したのが図2ですが、巨大地震に伴う様々な災害事象の連動性が見られるようです。

            
(左)図1 南海トラフの巨大地震年表   (右)図2最近の「東海・東南海・南海地震年表」

 例えば、
1707年(宝永4年)の宝永地震(M8.6-8.7、死者2万人、流失家屋2万戸)の場合、
10月4日に地震が発生し、その49日後に富士山が大噴火

1854年(嘉永7年)には、11月4日「安政東海地震」(M8.4)が発生し、その32時間後、11月5日「安政南海地震」(M8.4)が発生

 東海地震の発生から、「32時間~2年以内」に南海地震が発生すると言う連動性が過去に見られるようです。

 肝に銘じておきましょう! 
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湖水地方の休日 ― コモ湖 ― (異文化体験28 イタリア満喫の旅3)

2013年02月03日 18時10分37秒 | 異文化体験_西欧
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湖水地方の休日 ― コモ湖 ― 1996.04.28

 コモ湖へ出発前のひと時 ホテル・ラウンジで

 コモ湖はミラノの北50km、アルプスの南山麓に位置する人型をした湖。マッジョーレ湖やオルタ湖、ルガノ湖などと共に湖水地方と呼ばれている。そんな中でコモ湖は周囲が切り立った高い山々に囲まれ、最大水深420mとヨーロッパ最深の湖。湖畔のコモの街へは、ミラノ中央駅から電車で約45分で到着する。

  ミラノ中央駅からコモまで電車で約45分

 コモのカヴール広場にある桟橋から様々な遊覧船が出ている。我々は、とりあえず人型をした湖の付け根に位置する北イタリア最高級リゾート地ベッラージオまでの往復チケットを購入する。
 早春の湖上は、少し肌寒いが、時折顔を出す日差しが身体を暖めてくれる。湖畔のあちこちに豪華なヴィラが見える。18~19世紀にかけて欧州の王室や富豪が競って建てた名残だそうな。古くはシーザーやアウグストゥスらのローマ貴族にも愛されたようだ。

    
(左)コモの街を離れると左丘陵に大きな断層が見える (右)富豪が競って建てた絵のような別荘

 急ぎ旅の人には水中翼船も

 進行方向左岸に1年前に訪れて昼食を取った16世紀のビッラ・デステ(現在、チェルノッビオの最高級ホテル)も見える。

 ホテル棟右横の階段状のガーデンが見事 湖上にプールも併設

 1時間少々の舟遊びの間にスケッチをしようとスケッチブックを取り出すものの、初心者には景色が変わる早さについて行けず、結局写真を撮って後から描くことにした。


               

(左)写真中央の突端が「人」形のコモ湖の付け根のベッラージオ (右)ベッラージオの街、コート・ダ・デュールのエズ村の感じ

 ベッラージオで下船し、岬の周辺をそぞろ歩きする。集落の間をぬうように細い道が丘の上に伸びて、湖と共に生活する人々の息遣いが感じられる。

  岬の突端のレストランの屋外席で昼食

    
                      コモ湖の恵みの熱々フリットをレモン汁と塩で!
   
 丁度、お昼時でもある。岬の突端にある気軽に入れるレストランで昼食を取ることにした。レストランと言ってもこの時期、そんなに観光客もおらず、我々が2組目である。お奨めは「コモ湖の小魚のフライ」と「小海老とイカのフライ」だというので、じゃあ、それ! アツアツのフリットをレモン汁と塩で食べるのだが、これが結構いける。お腹が空いていたせいでもあろうか?

     
(左)以前登った市街を見下ろすブルナーテ山とケーブルカー 眺望はいまいち (右)コモの街を湖上から

       
 (左)船着場付近のコモの街                  (右)コモの街並み

 湖とアルプス山麓の景色を堪能して、コモの街に戻る。この頃にはお日様も常時顔を出し、コモの街も観光客で賑わっている。コモ周辺でブランドもののスカーフが作られているが、全く同じ品質のブランド無しスカーフが非常に安く手に入る(1枚千円)というので、お土産にする人が多い。


    
         ミラノの惣菜屋といえば「Peck ペック」 この後、日本にも進出 

 ミラノ中央駅に戻り、ドゥオーモ近くのペック(Peck)で夕食後、ドゥオーモ広場近辺を散策していると、サッカーが終わったのか、熱い賑やかなACミランのサポーターの集団が広場を占拠し始める。バイクに乗って応援旗を振りまわしながら広場に乱入してくる。この調子ではどうも負けたようだ。

 ドゥオーモ広場に集結するサポーター達。どうも負け試合?

 君子危うきに近寄らず。ホテルに戻る。


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