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旅行記、世相独言

アンカラ特急とイスタンブール -イスタンブール1-(異文化体験31 東西文明十字路の旅8)

2013年07月27日 23時36分04秒 | 異文化体験_中・東欧
(写真はクリックで拡大します)

アンカラ特急とイスタンブール -イスタンブール1- 98.08.22-08.23

 本日はアンカラからイスタンブールへ寝台特急で       

 清水の舞台から飛び降りた気持ちで買ったヘレケの絨毯、きっと良い思い出になるだろう。バスはカッパドキアを離れ、一路首都のアンカラに向かう。1923年初代大統領アタトゥルクが当時人口6万人のこの町を首都に定め、新たな都市計画の下で発展を続け、現在人口360万人の大都市に変身している。

    
(左・右)夜行寝台列車に乗る前に、アンカラ駅に近いワシントンというレストランで夕食を取る。



 アンカラ特急(二人用のコンパートメント)

 TCDD(国鉄)のアンカラ特急は、アンカラ駅を午後10時半に出て、翌朝7時35分にイスタンブール・ハイダルパシャ駅へ到着する約9時間半の旅。
 料金は日本円で約2600円。距離的・時間的に日本のブルートレイン急行「銀河」とよく似ている。我々の車両は二人用のコンパートメント。発車してほどなく車掌がベッドメーキングしてくれる。ベッドに横になると心地よい揺れがいつしか深い眠りを誘う。

    
(左)朝日がイスタンブール到着近しと教えてくれる  (右)アジア側のハイダルパシャ駅

 朝陽がイスタンブールへの到着が近いことを教えてくれる。アジア側のハイダルパシャ駅はマルマラ海に面した駅。対岸にこれから行くトプカプ宮殿、アヤソフィア博物館、そしてブルーモスクとして知られるスルタン・アフメットジャーミィ等がある。


     
(左)「アヤソフィア」博物館の入場券            (右)ビザンチンの名建築 大ドーム建築の元祖

 最初に訪れたのは、ビザンチン建築の最高傑作と言われる「アヤソフィア」。大型ドームを持つ建物は、537年に完成を見たアヤ・ソフィア大聖堂がその起源である。
 ペンデンティブドームという建築手法が直径30mという大ドームを可能ならしめたわけだが、ビザンチン形式の建築史における最大の貢献と言われている。

 しかし、ビザンチンの材料は煉瓦とモルタルが基本であり、ドームの工期短縮メリットもあったが、修復の繰り返しのため、ベネツィアのサン・マルコ寺院(11世紀)の例もあるが、中期以降のビザンチン建築は小型化していく。

         
(左)何度か崩落を繰り返している巨大ドーム          (右)黒に金のカリグラフィー円板 

 アヤソフィアは東ローマ帝国終焉の時までギリシャ正教の大本山であった。ギリシャ語名はハギア・ソフィア。1453年コンスタンティノープルが陥落すると聖堂はイスラム教寺院となり、ミヒラーブ等が新たに設置された。ドーム内の黒に金のカリグラフィーの円板には、アッラーやムハンマドに4人のカリフなどの名が書かれている。


      
(左)手前はスレイマニエ・ジャーミィ その先はトプカプ宮殿の緑 (右)トプ(大砲)カプ(門)サライ(宮殿)の入場券

 次なる訪問先は「トプカプ宮殿」。15世紀半ばから20世紀初頭まで強大な権力を保有してきたオスマン帝国の支配者の居城である。
 ボスポラス海峡を見下ろすように建つ宮殿は、トプ(大砲)カプ(門)サライ(宮殿)と呼ばれた。1460年メフメットⅡ世が着工、その後のスルタンが増築に増築を重ね、70haという広大な宮殿となっている。(ちなみに、大阪ドームとその周辺商業地区あわせて12ha)

     
(左)「スルタンの調理場」の名残り屋根         (右)内部は陶磁器コレクションの一大展示 

 アラビア語のハラム(聖域)、ハリム(禁じられた)を語源とするハーレムは、今回はパス。スルタンの調理場と呼ばれるかつての厨房は、一大陶磁器の展示場となっている。

 次は人気の高い宝物館。オスマン朝以降、侵略を受けなかったスルタン達のコレクションが展示されている。トプカプ短剣、重さ3kgの世界最大のエメラルド、86カラットのスプーン屋のダイヤモンド、様々な王座等々、見ごたえのある宝物が展示され、多くの人だかりが出来ている。

           
(左)エメラルドがまばゆい光を放つ「トプカプ短剣」の展示    (右)参考写真

テラスに出ると金角湾、マルマラ海を眼前にボスポラス海峡を挟んで正に東西文明の十字路、アジアとヨーロッパが一望出来る。

 ボスポラス海峡を挟んで右がアジア、左が欧州


 遅めの昼食後は、ガラタ橋を渡って新市街地にある軍事博物館に向かう。世界最強のオスマン軍の数々の武器等が展示されている。ここでは毎日3時から4時の間に奥のホールでオスマン時代の軍楽隊(メフテル)のデモンストレーションがある。

 新市街地の軍事博物館入場券

 
(左)オスマン時代の軍楽隊(メフテル)   (右)今日の軍楽隊によるデモンストレーション


 今日の最後の観光は同じく新市街地のドルマバフチェ宮殿の見学(オプション)。
 ところが16時までの開館で入場人数に制限があり、時間的に遅くなって入場不可とのこと。ドルマ(満たされた)バフチェ(庭)という意味の壮麗な宮殿である。1938年アタトゥルクが執務中にここで亡くなっている。

 新市街地のドルマバフチェ宮殿入口門


 長い一日であった。今宵のホテルは、初日と同じく新市街地の路面電車が走る繁華街イスティクラル通り「タクスィム広場」近くの「Eresin Taxim」。

            
(左)今宵の宿舎「Eresin Taxim」     (右)トラムの走る繁華街イスティクラル通り


 明日は、いよいよトルコのツアーも最終日!


(付録)アヤ・ソフィアを起源とする教会の玉葱坊主について少し調べたことがあり、過去ブログに掲載しました。ご興味のある方はそちらもご覧下さい。
カテゴリーは「コーヒーブレイク」の中にあります。 アドレスは、
 ⇒ http://blog.goo.ne.jp/skhr0247/e/c3a0d4d515bcafa6a02514191405a903




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カッパドキヤで清水の舞台-中部アナトリア2-(異文化体験31 東西文明十字路の旅7)

2013年07月20日 18時18分08秒 | 異文化体験_中・東欧
(写真はクリックで拡大します)

カッパドキヤで清水の舞台-中部アナトリア2-  98.08.22

 中部アナトリアの「カッパドキア」~アンカラ


 中部アナトリアの最大の見所、カッパドキアの大奇岩地帯。大昔、アナトリア高原の火山の噴火によって溶岩と火山灰が幾重にも重なり、溶岩層や凝灰岩層が風雨に浸食され固い部分だけが残り、標高1000mを超えるアナトリア高原の中央部に100平方kmもの広さでユニークな形の大奇岩地帯を創り出した。

 カッパドキアの奇岩地帯(ギョレメパノラマ)

 また、カッパドキアはヒッタイト時代から重要な交易ルートの町として繁栄し、3世紀半頃からローマ帝国の弾圧を逃れたキリスト教修道士達が、柔らかい凝灰岩に洞窟を掘って信仰生活を送り、数々の教会やフレスコ画等を残している。
 これらは、「ギョレメ国立公園とカッパドキア岩窟群」として世界遺産(複合遺産)に登録されている。

      
(左)ギョレメ屋外博物館 入場チケット        (右)早朝のギョレメ屋外博物館 岩窟教会

 標準的な一日観光コースは、北部のギョレメやゼルベの奇岩地帯と南部のカイマルク地下都市を巡るコースのようである。ゆっくり見れるようにという配慮でギョレメ屋外博物館の開門に一番乗り。ギョレメの谷には30近い岩窟教会がある。中には綺麗なフレスコ画や壁画が残っているものもある。

 ウチヒサール「尖った砦」を中心に城塞村

 尖った砦という意味のウチヒサールは、巨大な一枚岩の城塞村。多くの穴は鳩の巣用で糞を肥やしにして痩せた土地でブドウ畑を営んでいたようだ。デヴレントのラクダ岩やパシャパーの3本のきのこ岩等々、広大な高原には沢山の奇岩がありそうだ。ゼルベ峡谷にも教会や住居が多数あり、30年ほど前まで生活が営まれていたが、岩の崩壊の危険性が増したため今は無人となっている。

         
(左)パシャパー地区のきのこ岩群                 (右)きのこ岩群を背景に

 デヴレントのラクダ岩


 南のカイマルクには、巨大な地下都市がある。カイマルク以外にもデリンクユ、マズ、オズコナック、タトラリン等の地下都市も発見されている。まるでインディ・ジョーンズの世界に迷い込んだような、地下迷路が縦横に走っている。

 共同生活に必要な食料庫、ワイン製造所、厨房、食堂、寝室、礼拝堂、井戸、外敵防御扉等々が内部通気坑と共に地下5階までの巨大迷路空間に設置されている。一説には2万人が暮らしていたとも言われている。何ゆえにこのような生活をしなければならなかったのかは謎であるが、一時期アラブ人から逃れるためにキリスト教徒が住んだとも言われている。

     
(左)2万人が暮らしたという迷路の地下都市        (右)まるでインディ・ジョーンズの世界に


 少し遅めの昼食は、洞窟をくり貫いた観光客が喜びそうな地下レストラン。世界3大料理の一つにトルコ料理が挙げられているが、小生にはいまいち合点がいかない。
 あまり美味しいとも思えないし食べたものを覚えていない。ケバブ系の料理がほとんどであったような?
 この地域に来ると、ターコイズブルーのガラスに白い目玉のような文様が書かれた丸いお守りが売られている。効用のありそうな立派なものから10個千円の掛け声のお土産用のものまで。

           
(左)石のテーブルに石の長椅子 地下レストランで昼食      (右)ギョレメのお土産のお守り


 ここから首都アンカラまでは約4時間のバスの旅。今宵はアンカラ寝台特急に乗って出発点のイスタンブールへという旅程。

 途中、トルコ絨毯の店に立ち寄る。トルコ民族はつい最近まで放牧を生業とし、最も重要な家財は絨毯であった。
 羊毛を紡いで糸にし、草木染めで染めるのが一般的。いい絨毯とは、素材は天然繊維(100%シルクや100%ウール)、大きさは畳1畳以上、染は草木染め、織りは手織り、結び目が細かいもの、と言われている。目の前に様々な大きさと柄の絨毯が次々と並べられる。少し時間がたつと品物と値段の関係が何となく分かってくる。

 ヘレケの絨毯の商談成立

 最初は全く買う気はなかったが、女房が熱心に見入っている。近い将来、家を建て替える予定の我が家に出来れば一つと思ったのが、清水の舞台の入口に。女房と視線が合った時には、どっちにしようというところまで目がものを言っている。絨毯屋に悟られないように無関心を装いつつも、結局ヘレケの絨毯を購入することに。小生一人のカード決済額では足りないので女房のカードと折半で購入。

     
(左)リビングに敷かれた絨毯      (右)絨毯の角隅に産地の「HEREKE」の文字が織り込まれている

 後日、船便で送られてきた絨毯は、現在新居のリビングに敷かれている。
が、今や我が家の愛犬ナナのお気に入りの場所になってしまっている。

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踊る宗教とサライと陶芸と-中部アナトリア①-(異文化体験31 東西文明十字路の旅6)

2013年07月14日 18時01分01秒 | 異文化体験_中・東欧
(写真はクリックで拡大します)

踊る宗教とサライと陶芸と-中部アナトリア①- 98.08.21

 今日の行程 パムッカレ~コンヤ~スルタンハーン~トゥズ湖(テュズ)~ユルギュップ

 今日の行程は、パムッカレからコンヤ経由カッパドキア地方ユルギュップまで。多分、10時間近いバスの旅になるのではなかろうか。
朝のパムッカレ石灰棚を間近に見て、バスは一路中部アナトリアの文化拠点都市「コンヤ」を目指す。

 コンヤはイスラム神秘主義(スーフィズム)の一派で、旋舞教団の「メヴラーナ教団」発祥の地として有名である。
この教団は13世紀にジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207 - 1273年)によって開基され、メヴラーナとは「わが師」という意味でルーミーのことを指している。音楽と旋舞を伴った集団祈祷に特徴がある。

         
(左)メブラーナ博物館入場チケット              (右)博物館は今なお多くの信者と観光客で賑わっている


 メヴラーナ博物館は、1924年まで教団センターとして機能していたが、トルコの政教分離政策に基づきアタトゥルクの命で閉鎖、教団は解散させられた。1927年以降、彼の霊廟が博物館として生まれ変わり一般公開されている。
 イスラム神秘主義の教義は「神への愛、神との合一、神への神秘的な探求」であり、その起源は7世紀頃と言われている。博物館には、メブラーナの棺やマホメットのあごひげ等が展示され、また修行僧の生活等も人形で紹介されている。

         
(左)修行僧の生活が展示されている              (右)右手は天を、左手は地を指して旋舞する(Wikipedia)


 コンヤ文化が花開いた13世紀頃には、芸術家、建築家、科学者等が集められ神学校が開かれた。その一つが1251年にセルジューク朝のカタライ宰相によって造られたビュユック・カタライ神学校。セルジューク様式のスタラクタイト(鍾乳石飾り)の正面門が素晴らしい。現在は陶器博物館となっている。

            
(左)ビュユック・カタライ神学校(現 陶器博物館)        (右)カタライ神学校のドーム


 コンヤからカッパドキアまでは約3時間のバスの旅。途中、スルタンハーンという所にキャラバンサライがある。
 中央アナトリアがシルクロードで栄えていた時代のラクダの隊商の宿泊所である。当時アナトリアには40を超える隊商宿があったようだ。
シルクロードと聞いただけで、東アジアの端から来た我々にとって何か郷愁を誘うものが込み上げる。

               
(左)シルクロードのキャラバンサライ入口  (中)入り口前にて      (右)その宿泊所内部

 
 更に、カッパドキア方面にバスを走らせると、アクサライという町の近くにトルコで2番目に大きなトゥズ湖という湖が車窓に広がる。
塩湖としても有名で特に夏場は水も少なくなり真っ白な塩の結晶が平均30cmの厚さで湖を覆うという。塩湖まで行って帰ってくる程度の時間なら車を止めて待ってくれるというので、駆け足でミニ・ミニ塩湖ツアー。

 白い塩湖トゥズ湖 (下の小さく青いのが普通の湖(Wikipedeia))


 カッパドキア地方にはヒッタイト時代から続く窯元がアヴァノスという町にある。クズル川の粘土質の土が陶芸に適しているようだ。
 このツアーの第1回目のショッピングタイムがこの町から始まる。ある工房に案内されると、新聞にも取り上げられた名工?のおじさんが足で轆轤を回しながら、あっという間に紅茶ポットを作り上げる。
 うまく出来たもので部屋が3つあり、安いものから順次高額な商品が並べられている部屋に移っていく。目は当然良い物を追い求める。ターコイズ・ブルーの繊細な模様のお皿やティーカップ、ポット類が日本円を狙って待っている。

 トルコの人間国宝級陶工?のおじさん 5分でティーポット

 左はこの陶芸館で買った皿、右はメブラーナ博物館で買った壷


 今宵の宿舎は、ユルギュップのDinler Hotel. 大きなプールもあって一泳ぎしたいところだが、到着も遅く強行軍のため早めの就寝。

 今宵の宿「Dinler Hotel」


明日は世界遺産「ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群」を巡る一日、楽しみだ。


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聖母マリアとパムッカレ-エーゲ海沿岸④-(異文化体験31 東西文明十字路の旅5)

2013年07月06日 18時28分16秒 | 異文化体験_中・東欧
(写真はクリックで拡大します)

聖母マリアとパムッカレ -エーゲ海沿岸④- 98.08.20

   「綿の宮殿」を意味するパムッカレ

 古代遺跡群からおよそ7km離れたブルブル山に聖母マリアの家がある。

 ブルブル山「聖母マリアの家」の入場チケット

 マリア最後の場所は謎とされていたが、18世紀の終わり頃、ある尼僧が天啓を受けエフェスの石造りの家の様子を語りだし、聖職者達による家探しの末にこの家が見つかったという。尼僧の話ではマリアは64歳で亡くなり、過去何人かのローマ法王もここを訪ねミサを行っている。

         
  (左)マリアの家                             (右)家の最奥にあるマリア像

 聖母マリアの家の入口横の郵便局から手紙を出すと独特のマリアを模ったスタンプを押してくれるというので、自宅宛に絵葉書を送ってみた。押されたスタンプがこれ。

 スタンプの下がセルチュク局印 上がMERYEMANA(聖母マリア) 98年8月20日



 さあ、次は楽しみの世界遺産パムッカレの石灰棚とヒエラポリスだ。正直、もう遺跡は十分堪能した!!

 パムッカレとは、トルコ語で「綿の宮殿」という意味で、古代から良質の綿花の生産地であった。丘全体を覆う真っ白な石灰棚は隣接する「聖なる都市・ヒエラポリス」と共に複合遺産として世界遺産に登録されている。

 ヒエラポリスはベルガモン王エウメネスによって紀元前2世紀頃に建造され、当時の遺跡としては最も内陸部に存在することが知られている。ここの遺跡にはネクロポリスと呼ばれる1000を超す墓があり、古代共同墓地としては最大級のもの。墓の様式もヘレニズムからビザンチンのものまで多種多様。そのことが印象に残った遺跡であった。

        
(左)ヒエラポリスのメインストリート                 (右)ネクロポリス(古代共同墓地) 今より立派?


 この遺跡のすぐ横に今回旅行のハイライトの一つ、楽しみにしていた「石灰棚」がある。

 世界遺産の「石灰棚」

 この不思議な景観は、古代、炭酸カルシウムを含む地下水が地熱等で温められ、湧き出て温泉となり沈殿した石灰が固まって、あたかも純白の棚田のような景観を作り出したと言われている。石灰質を多く含む温泉の沈殿物(石灰華)が生成することは、日本では長野県の白骨温泉等で知られている。
 棚田のようになっているのは、漂流してきた枝などに石灰がたまり、それが長い時間をかけて堤を形成するため。このような景観が約200mの高さに渡って形成されている。

         
(左)棚田の中はぬるま湯状態        (右)刻観光客が引上げる時間帯。真っ白な棚田に夕日が映える


 遠くから見れば白い雪山、近くに来ると真っ白な幾重にも重なる棚田に青い温泉(と言ってもぬるま湯であるが)をたたえている姿は幻想的である。加えて夕刻訪れた我々には夕日が更に幻想的景観を盛り上げてくれる。

 しかしながら、最近の開発ラッシュでパムッカレ村の宿泊施設等が温泉を引き込むため、この温泉は涸れつつあるとも言う。このため棚田に湯を流すのは夏季日中のみ、更に棚田景観保護のため一度は97年5月から進入禁止となった。しかし、観光シーズン到来の7月には一部解除されたりと観光立国トルコとしては悩ましい判断を迫られている。


今日のホテルは、棚田近くのリュカス・リバーホテル。

   
  今宵の宿舎リュカス・リバーホテル(左)とその屋内プール(右)

 室内温泉プールもあって就寝前のひと時、日頃の運動不足を解消する。

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