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旅行記、世相独言

恥かしがり屋の三巨連峰 -アイガー & ユングフラウ-(異文化体験37 ロマンティック街道の旅7)

2013年12月22日 00時26分01秒 | 異文化体験_西欧
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恥かしがり屋の三巨連峰 -アイガー & ユングフラウ- 2002.08.06

 インターラーケンの街の中心部に5ツ星ホテル「ビクトリア・ユングフラウ」とその前に大きな公園広場がある。ここの標高は567m。  我々の宿舎「ヴィセス・クロイツ」もこの近くにあリ、天気が気になる私と妻は朝早く起きて公園まで散歩に出掛けた。天気が良ければこの公園広場からユングフラウが見えるようだが、どんよりした雲が視界を遮っている。早く晴れてくれと祈るばかりである。

       
(左)インターラーケン中心部の広場           (右)晴天であれば谷間にこのようにユングフラウが顔を出す


 バスで登山電車の出発駅グリンデルワルドまで行くと、生憎の雨。縁起を担いでレインコートを持って来なかった私は駅前の店でスイス・アーミーの帽子を購入。

       
 (左)雨のグリンデルワルド駅             (右)グリンデルワルド-ユングフラウヨッホ乗車券半券


 グリンデルワルドの標高は1034m。登山電車はここからクライネ・シャイデック2061m、アイガーバンド2865mを経てユングフラウヨッホ3454mまで、2420mの高度差を77分で登る。

      
(左・右)インターラーケンより-グリンデルワルド-クライネ・シャイデックを経てユングフラウヨッホに至る
     (今回はインターラーケンよりグリンデンワルドまではバスで移動)


 駅を出た登山電車は、牧歌的景色の中をゆっくり高度を上げて行く。
 高度が上がると共にガスが車窓からの景色を遮ることが多くなり、逆にこのガスの上に出れば良い天気のはず?と期待も大いに膨らむ。
 ガスが途切れた瞬間に黒々とした岩山が垣間見えるようになると、そこはクライネ・シャイデック駅。残念ながらガスの上にはまだまだ厚い雲が。
 ここで電車は切返し運転となり前後逆に走り出す。

  
                   (左・中・右)徐々に高度を上げるとガスが視界を遮りだす           


      
(左)切り返し運転となるクライネ・シャイデック駅   (右)晴れていれば、クライネ・シャイデックはこんな景色(パンフより) 


 電車はいよいよアイガー北壁の中をくり貫いたトンネルに入って行く。アイガーバンド駅では下車して北壁にくり貫いた窓から下界を見ることが出来るようになっているが、生憎のガスで展望が得られず、寒さが大いに身にしみる。

  
(左)黒々とした岩肌が迫ってくる               (中・右)アイガー北壁をくり貫いたトンネル駅「アイガーバンド」

     
(左)トンネル駅と直結した北壁内展望通路      (右)外は真っ白な氷と雪とガスの世界


 ここから更に600mほど高度を上げた終点が1912年開設以来、最もヨーロッパで標高の高い鉄道駅ユングフラウヨッホ駅。
 「トップ・オブ・ヨーロッパ」と呼ばれる岩山の中の空間に、駅もあれば、氷の宮殿 (Ice Palace) 、更にエレベーターでスフィンクス・テラス(3573m)まで上がる事が出来る。

      
(左)トップ・オブ・ヨーロッパ 3571m            (右)テラスは吹雪いているのでこれで代用

 スフィンクス・テラスの上は吹雪いており、白い雪・氷河と黒い岩山のモノクロトーンの世界が広がっている。皆さん、写真を撮ると早々にトンネルの中に撤退。天気が良ければ、ここからはヨーロッパ最長(22km)の氷河、アレッチ・グレッチャーが南に見えるのであるが・・・。

       
   (左・中)吹雪いて視界ゼロのスフィンクステラス              (右)白い氷河と黒い岩山 モノクロの世界が広がる


 再び電車でクライネ・シャイデックに戻って、昼食・休憩。
 この場所は三巨連峰、アイガー(3970m)、モエンヒ(4099m)、ユングフラウ(4158m)を真近に望むことが出来る最高の場所である。ただし、天気が良ければ、であるが。目の前にアイガー北壁が黒々とそびえ立ち、白く輝くユングフラウと対照的だそうだ。
 ドイツでは山の継ぎ目の平らになった山の肩の部分をヨッホというらしく、ユングフラウとモエンヒの間のそれがユングフラウヨッホである。

 三巨連峰(左よりアイガー、モエンヒ、ユングフラウヨッホ、ユングフラウ)(パンフ)


 昼食後、駅周辺を散策する。野生の山羊が人影を見つけて近寄ってくる。ガスも少しずつ薄くなっているようだが、回復は無理のようだ。
 グリンデルワルドに戻る車窓からは、トレッキングする人たちの姿が多く見られる。
 数年前、快晴のアルプスをロープウェイを乗り継いでイタリアからフランスへ国境超えした際もトレッキングまがいのスキーを楽しむグループを沢山ゴンドラから見たが、インフラが整い山そのものも優しい本場のアルプスは、欧州の人々に様々な楽しみを与えているようだ。

   
(左)雲間が切れだしたクライネ・シャイデック駅から下界の牧歌的景色(中)しばし山羊と戯れる    (右)下界駅周辺から見た北壁

 多分、今日のユングフラウ(若い娘)ヨッホは男性である私を恥かしがったのであろう。


 (参考までに、晴れていれば車窓にユングフラウとアイガーがこんな風に!残念!! 右写真は同僚のH氏提供)

   


気になる山の天気 -インターラーケン-(異文化体験37 ロマンティック街道の旅6)

2013年12月15日 23時31分23秒 | 異文化体験_西欧
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気になる山の天気 -インターラーケン- 2002.08.05

  
 ノイシュバンシュタイン(新白鳥城)の麓で昼食・休憩の後、いよいよこの旅の第2のハイライト、「ユングフラウヨッホ」の麓町インターラーケンに向けた375kmのドライブが始まる。

  ロマンティック街道を走破したバス

 アルペン街道を西へ。チロルの村々を抜け、スイスに入りチューリッヒを遠くに見ながら、山岳地方に登り、闇が落ちた頃にインターラーケンに到着する。

       
               (左・右)アルペン街道沿いの湖で夏を楽しむ人々 

        
(左)ドイツからスイスへ 国境も素通り             (右)インターラーケン近くの峠から見た景色


      
(左)インターラーケンのMAP     (中)インターラーケンの市章      (右)インターラーケンの航空写真(参考)      

 今宵のホテル ヴィセス・クロイツ(WEISSES KREUZ)

 今宵のホテルは、ヴィセス・クロイツ(WEISSES KREUZ)。
 今夜の食事は、ホテルでのオイル・フォンデュ。夫々が串で肉を刺し、油で揚げて食べる。いつものことながら腹8分目にまで到達しない。肉がもっと欲しい!と誰もが思った夕食であった。

 インターラーケンの街角風景

 食後、インターラーケンの街を散策する。アルプスの麓の町だけに山岳地方の楽しげな土産物が店々の店頭を飾っている。そんな店々の中に小奇麗なブランド物を扱う店があった。会社の女性達からブランドもののキイホルダーを頼まれたのだが、関空にもパリ・ドゴールでも依頼品がなく諦めていたが、こんなアルプスの麓で発見。ここで免税手続きをして貰って、約束を果たす。

 晴れていればこんな景色が見えるはず。しかし.......

 明日はいよいよ今回の旅の最大の目的、ユングフラウヨッホと登山電車!
う~ん、山の天気が気になる。どうか天気にしておくれ!!!


山間のシンデレラ城 ノイシュバンシュタイン -ヒュッセン-(異文化体験37 ロマンティック街道の旅5)

2013年12月07日 15時32分00秒 | 異文化体験_西欧
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山間のシンデレラ城 ノイシュバンシュタイン -ヒュッセン- 2002.08.05


 バイエルン州の州都ミュンヘン郊外のホテルから、小雨が降ったり止んだりする曇空の中を旅の前半のハイライト、「ノイシュバンシュタイン(白鳥城)」目指してロマンティック街道のバスの旅が再開される。
 ノイ(新しい)シュバン(白鳥)シュタイン(お城)、新白鳥城ともシンデレラ城とも言われているお城である。

 はるかかなたに「あのお城」が見え隠れ

 アルプス山麓を走る頃になると、生憎の天気も少し回復し始めた。山の中腹にあのお城が見え隠れし出すと、それまで静かだった車内に一気に活気がよみがえる。

 麓の駐車場から別の専用バスに乗り換え、中腹のお城近くで下車し、そこからは徒歩。その途中の谷を渡す「マリーエン橋」に来ると、よく目にするノイシュバンシュタイン(白鳥城)の雄姿が一気に広がる。

  マリーエン橋から見た「山間のシンデレラ城」 


 中世にはアウグスブルグからチロル経由でイタリアに至る重要な交易路があり、4つの城が街道を守っていた。
 マックスⅡ世は、1832-38年にホーエンシュヴァンガウ城を現在の場所に再建したが、そこには以前「シュバンシュタイン」があったようだ。
 バイエルン国王ルートヴィヒⅡ世は、1869年9月に昔の表、裏2つのホーエンシュヴァンガウ城のあった岩山に「夢の城」の建設に着手した。ノイ(NEW)という冠がつくのはこのためである。
 1883年に本丸が完成し、84年春には4階の王の住居は入居可能となり86年6月の王の死までの2年間、およそ1/4をここで過ごしたと言われる。

         
 (左)ノイシュバンシュタインの入場券             (右)1900年当時のノイシュバンシュタイン(Wikipediaより)

 ノイシュバンシュタインの中で最も印象深い部屋は、王座の広間である。
 1886年王の突然の死により作業開始前の契約は全て解約され、王座の製作も行われなかったようだ。現在、復元されているバジリカ様式の台座は、神の恩寵を受けた王国を賛美するものである。

         
(左・右) ノイシュバンシュタインの最も印象深い部屋「王座の間」   (中)ルートヴィヒⅡ世

 王座の間のバルコニーからは、左にアルプ湖、右にシュヴァーン湖(白鳥湖)、その間にホーエンシュヴァンガウ城がチロルアルプスの山々を背景に、見事な景色が展開している。
 ルートヴィヒⅡ世は、リヒャルト・ワーグナーに「私はホーエンシュヴァンガウの古い城の廃墟に、新しい城を建てようと思っている。見つけうる限り最も美しい場所です」と書いている。

                        
 (左)王座の間からみた深い谷を渡すマリーエン橋       (右)マリーエン橋の拡大、この橋からがお城の撮影ポイント

         
 (左・右)ルートヴィヒⅡ世がワグナーに「見つけうる限り最も美しい場所」と言った王座の間からの眺望


 1845年生れのルートヴィヒⅡ世は、私の100歳年上の男。
 永らく政治的策略に巻き込まれたことから、自分の世界に浸り、貴く美しく悪しきものが入り込む余地のない世界を創ることに傾注し、王の年収をはるかに凌ぐお城つくりは王の罷免の動きに結び付いていった。

 1886年精神病者という鑑定により王を白鳥城からベルク宮に移した翌日、夜の散歩に出た王と医師は、湖で溺死体で発見された。
 謎の死は今でもいろいろな伝説が語り継がれている。

  ホーエンシュヴァンガウ城

 お城からは、馬車も通るなだらかな下り道が駐車場まで続いている。
 城門近くには様々な土産物屋が並んでいるが、ノイシュバンシュタイン城の四季折々の絵や写真が、やはり一番人気である。ルートヴィヒⅡ世が少年時代の大半を過ごしたホーエンシュヴァンガウ城が下界真近に見える。

         
          麓から見た「ノイ(新しい)・シュバン(白鳥)・シュタイン(お城)」

 さあ、次なる目的地はこの旅のハイライト「アイガー北壁とユング・フラウ・ヨッホ」。天気が心配だあ!



役割を放棄したテレビ局の存在

2013年12月06日 23時48分04秒 | 世相独言
 今現在、参議院で特定秘密保護法案の審議、採決がされようとしている。

 新聞メディアは、各紙ともこの法案について熱心に取り上げ、国民の意見聴取、各紙の論説を展開している。

 それに引き換え、テレビ局はこの法案に関する取り上げ方が、極めて希薄である。

 最近のテレビ局が報道を扱う局と言えるのかどうか、いささか疑問ではあるが、日本各地で反対デモや決起集会が行われている今現在、
この国の行く末に大きな影響を与える可能性のある法案審議の国会中継すらやらず、ただただ視聴率確保のためのコストをかけない
番組制作と放映を繰り返すテレビ局に、果たして報道の自由だ!何だ、かんだと声高に主張する権利があるのだろうか?

 私には、もはや報道機能の役割を放棄したテレビ局としての存在にしか見えない。
世界中の通信会社からネタを買い集め、自らは積極的に情報収集、分析、問題提起を行わないテレビ局に、国民の財産である沢山の
電波を割り当てる必要があるのだろうか?

 日本の官僚たちは、悪賢さにかけては世界一である。知ったかぶりの国会議員を掌で弄ぶのは朝飯前、今までも多くの法案に
巧みなまでに抜け道をビルトインし、自らに責任の及ばぬよう、何とでも対応可能なように屁理屈の世界で生き延びてきた人種である。

 この法案が、将来どのように運用されるのか、終戦直後の憲法解釈と現時点でのそれとが大きく変わってきていることを見ても、
今議論している運用方法とは全く別人のごとく、一人歩きする危険性があるのは、人生経験豊かな人たちであれば実感できることである。
が故に、しっかり時間をかけて国民が納得できるその運用方法までを含めた議論がなされなければならない。

ロマンテイック街道(ネルトリンゲンからミュンヘンへ) -ミュンヘンー (異文化体験37 ロマンティック街道の旅4)

2013年12月01日 00時12分38秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

ロマンテイック街道(ネルトリンゲンからミュンヘンへ) -ミュンヘン- 2002.08.04


 ロマンティック街道をどんどん南下。


 バスはローテンブルグから中世の環状都市ネルトリンゲン等、ロマンティック街道の街々をかすめておよそ215km走って、今宵の宿舎ミュンヘンに向かう。ハイデルベルグからはおよそ500km。
 折りしもミュンヘン手前で空模様が怪しくなり、市内に入った所でスコールに見舞われる。

 ネルトリンゲンの城壁を車窓に見ながらミュンヘンへ


                        
  (左)ミュンヘンの市章                            (右)ミュンヘンの街並み

 ドイツ南部の都市ミュンヘン(Munchen)は、バイエルン州の州都で、ヨーロッパ有数の世界都市。ミュンヘンという名は僧院(ドイツ語で僧を表す「メンヒ」が由来)と言われている。
 ミュンヘンといえば、ビール。大小多数のビール醸造所があり、世界最大のビールの収穫祭である「オクトーバー・フェスト」には世界中から毎年600万人以上の観光客が訪れる。

         
          
    (上段、左右)毎年600万人以上の観光客で溢れる「オクトーバー・フェスト」の参考写真
    (下段 左:ビール祭りの絵ハガキ    右:ビール祭りで有名なホーフブロイハウス   


 そのミュンヘンでの夕食は、もちろんビアホールでの夕食となる。
 大きな舞台ではドイツ民謡の演奏に民族衣装の踊り手が我々を出迎える。次から次と入ってくる団体さんのほとんどが日本人である。大きなお皿にのったソーセージと野菜はとても塩辛くて、我々の舌に馴染まない代物であった。

                   
               (左・右)ドイツ民謡の歌と踊りを鑑賞しながら... ちょっと食事が辛すぎる!

 ビール醸造業とともに有名なのが、自動車産業。市北部のオリンピア・シュタディオン近辺には世界有数の自動車メーカーBMWの本社がある。

 16年前であろうか、業務出張でミュンヘンに来たのは。 
 その時は9月の中旬で街はちょうどオクトーバーフェストの準備中であった。
 旧市街地の中心地、マリエン広場には新市庁舎(新といっても建築後約100年が経過している)があり、そこにドイツ最大の仕掛時計がある。11時と12時(夏季17時)にはほぼ人間の大きさの人形32体と鐘が結婚式を再現する有名な仕掛け時計である。

 そうそう!その時に広場に面したゾーリンゲンの店でナイフ・フォーク・スプーンの豪華セットを買って帰ったのだが、そのセットはあまり使われずに食器棚に今も鎮座ましている。

                    
             (左・右)ミュンヘンのシンボル、マリエン広場の新市庁舎と仕掛時計


 そんな市庁舎広場や名物時計台との再会等、夜のミュンヘン散策を楽しみにしていたのだが、今宵のホテルは明日の行程を考えてミュンヘン市の郊外、空港の近くだそうな。
 折からの雨と日曜日ということもあって、ビアホールの周辺も人影はまばらである。バスはビアホールを後にホテル「アストロン・エアポート」に直行。

 ホテル・アストロン・エアポート(現在のNHエアポートホテル)

 本日の行程は、ざっと500km。さてさて、明日は何km乗るのやら。
 でも、明日はいよいよ、この旅のクライマックス「ノイシュバンシュタイン城」である。