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旅行記、世相独言

大阪市阿倍野、北畠界隈の歴史探訪(その2 阿倍王子神社と安倍晴明神社)

2020年05月10日 11時31分05秒 | 異文化体験_日本
大阪市阿倍野、北畠界隈の歴史探訪(その2 阿倍王子神社と安倍晴明神社)

(写真はクリックで拡大します)

 大阪市阿倍野区播磨町で生を受けて30年間住み続けた街、その後大阪府和泉市に転宅し40数年、業務上の東京3年間を除くと大阪しか知らない私にとって、阿倍野区播磨町界隈には今から思えば多くの名所旧跡があったのだが、あまり興味も無く見過ごして来た。久しぶりに旧宅周辺の名所旧跡を探訪してきた。(散策したのは2009年5月で、本稿は近隣大学聴講時の宿題テーマで纏めたものです。)
 地下鉄西田辺駅から母校阪南小学校、旧宅、母校阪南中学校、母校住吉高校、阿部野神社、北畠公園、阿倍王子神社、阿倍晴明神社をめぐり天王寺へ。4ヶ所の名所旧跡巡りである。

【その2 阿倍王子神社、阿倍晴明神社】

       
             熊野街道に面した「阿倍王子神社」と「安倍晴明神社」

 北畠公園から北へ数百メートルの所に阿倍王子神社がある。かつて夏祭りは多くの屋台が神社裏表の道路(熊野街道沿いと十三間道路(今の和泉泉南線)沿い)に出て、新聞にもその人出数が載るほど賑わいを見せ、幼少期の楽しみの一つであった。

  
府道和泉泉南線に面した阿倍王子神社       神社社殿          もと熊野街道石標

 阿倍王子神社の御由緒によると、縁起絵巻では仁徳天皇の創建で、天長3年弘法大師が淳和天皇の勅命で来社、疫難退散祈祷で功成り、痾免寺(通阿倍)の勅願を賜ったと伝える。しかし、そもそも阿倍野なる地名は、大化の改新に際し都が長柄豊崎宮に遷都され阿倍氏が奈良桜井から当地に移住し、阿倍社等を建立。その後奈良に帰郷し、阿倍社も衰微。200年後の平安時代初期に弘法大師が来社し、阿倍社を再興。当時熊野詣が流行し、阿倍社が熊野街道に位置し四天王寺と住吉大社の中間位置にあることもあって熊野神を勧請合祀し熊野の王子社となった。熊野九十九王子と呼ばれた当時の王子社の中で、当神社は「阿倍野王子社」と称された。阿倍野王子社は、鎌倉時代には第四王子、桃山時代、江戸時代には第二王子と呼ばれ、旧地に今なお現存の王子社として栄えている。

        
        安倍晴明像                   安倍晴明産湯の井戸

 阿倍王子神社の北数十メートルの所に熊野街道に面して阿倍晴明神社がある。江戸時代には大坂の大社の一にまでなったが、今は和泉泉南線側からは見えない小さな社である。阿倍晴明は921年当地に生まれ、幼名は阿倍童子。資性英明、学問に秀で、京都に上り陰陽家賀茂忠行、保憲に師事、陰陽推算の術を修めた。花山天皇の退位予知、大江山の鬼退治の指導等は有名である。1005年京都で亡くなり邸跡は現在晴明神社となっている。阿倍晴明神社は、没後2年花山上皇のご意向で創建。幕末には衰微したが大正10年阿倍王子神社の末社として復興認可。社家保田氏が旧社地を寄進し、大正14年現在の御社殿が竣工。平成17年9月阿倍晴明公一千年祭が斎行された。「葛之葉子別れ伝説」は江戸時代竹田出雲作「蘆屋道満大内鑑」となって歌舞伎、文楽等で上演された。
泉北百円道路と26号線の交差点が「葛之葉交差点」として今も残っている。

        
 熊野街道の石標と路上銘板(八軒屋浜から7.1kmとある、銘板地図は明治18年当時のもの)

さて、これらの名所旧跡はいずれも上町台地のやや西側、昔の熊野街道沿いに位置している。また、これらの史跡のすぐ西側には大昔は海岸線が迫っていたはずである。王子町から天王寺への帰途、歩道上に「熊野かいどう」の道標が埋め込まれていた。そう言えば、60年前に阿倍野区播磨町の我が家には住吉郡住吉村の住所銘板が張られていて、不思議に思った記憶がある。

注)阿部野と阿倍野:行政区は「阿倍野」区、近鉄は大阪「阿部野」橋駅。
 阿倍野区史によると、「阿倍野」の由来は、区内にある阿倍王子神社や安倍晴明神社説、古代当地の豪族阿倍氏説等。他方、「阿部野」は、室町時代以降に阿部野という表記が誕生。
 1923年、近鉄が当地に鉄道開業、国鉄の天王寺駅と区別するため、当時の天王寺村の字名「阿部野」を駅名に採用。
 1943年、住吉区が3分割され住吉区、東住吉区、阿倍野区が誕生。「阿倍か阿部か」で当時ももめたが土地台帳や戸籍原簿等が倍を使っていたので「阿倍野」に決定。
 最近は、混乱を避けるため「あべの」とひらかな表示する場合が多く、市バスの停留所名やあべのハルカス等。
(地図に秘められた「大阪」歴史の謎 谷川彰英監修 実業之日本社より)

久々の幼少期の旧宅周辺の4つの歴史史跡の散策は、大変有意義なものでした。付録的に歩いた思い出風景を添付しました。

  
大阪市立阪南小学校              旧宅周辺    和泉泉南線に面した阪南団地(旧大阪大学南校跡)
  
大阪市立阪南中学校          阪南中学校テニスコート         南海上町線北畠駅周辺
 
大阪府立住吉高等学校      同期からの下村脩博士のノーベル化学賞受賞祝







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大阪市阿倍野、北畠界隈の歴史探訪(その1 阿部野神社と北畠公園)

2020年05月09日 11時51分48秒 | 異文化体験_日本
大阪市阿倍野、北畠界隈の歴史探訪(その1 阿部野神社と北畠公園)

(写真はクリックで拡大します)

 大阪市阿倍野区播磨町で生を受けて30年間住み続けた街、その後大阪府和泉市に転宅し40数年、業務上の東京3年間を除くと大阪しか知らない私にとって、阿倍野区播磨町界隈には今から思えば多くの名所旧跡があったのだが、あまり興味も無く見過ごして来た。久しぶりに旧宅周辺の名所旧跡を探訪してきた。(散策したのは2009年5月で、本稿は近隣大学聴講時の宿題テーマで纏めたものです。)
 地下鉄西田辺駅から母校阪南小学校、旧宅、母校阪南中学校、母校住吉高校、阿部野神社、北畠公園、阿倍王子神社、阿倍晴明神社をめぐり天王寺へ。4ヶ所の名所旧跡巡りである。

《その1 阿部野神社、北畠公園》

        
  阿倍野区和泉泉南線に面した北畠公園              阿部野神社

 小学生時代「あきいえさん」と呼んだ遊び場であった北畠公園は、北畠顕家公の墓所と言われている。その北畠親房、顕家親子を祭る神社が阿部野神社。神社で貰った由緒書やその他の資料によると、明治15年阿部野神社と号して創立、同23年鎮座祭が斎行され別格官幣社に列せられた。親房公は後醍醐天皇の信任厚く「後の三房」と称せられた一人。

 顕家公はその長子で、元弘3年(1333)8月齢わずか16歳にして陸奥守に任じられ、10月義良親王(当時6歳、後の後村上天皇)を奉じて陸奥へ下向し多賀国府にて奥州統治する。建武2年(1335)足利尊氏の反逆が明らかになると、鎮守府将軍に任命され、延元元年(1336)奥州より上洛し尊氏を九州に敗走させ、再び東国へ戻った顕家は多賀から霊山に国府を移した。延元3年(1338)再び勢力を挽回した尊氏から京都回復のため再度上洛するも、阿倍野の合戦で敗れ、石津で戦死(御歳21歳)したというのが定説である。

       
  北畠公園の顕家公の墓                墓所前の由緒記
 
彼は死ぬ直前、主上(後醍醐天皇)への奏上文を書いている。諸国の租を3年間免じること、官爵を重んずること、朝廷を跋扈する雲客、僧侶への接し方を改めること、遊幸を慎むこと、法令を厳にすること、愚直の廷臣を排除すること、等々である。

       
     顕家卿阿倍野合戦の図(住吉名勝図会)と後醍醐天皇宛上奏文要約

 
 思うに、源頼朝以来の鎌倉幕府を支配していた執権北条氏が滅び、建武の中興(1333年)が成り後醍醐天皇の王政復古の理想が動き出そうとする時、再び武家(今度は足利氏)との主導権争いの渦中に投げ出された16歳の顕家は、奥州にあってどのように考えていたのであろうか、私には大いなる興味が持ち上がる。というのも、
①彼の奏上文の中味からすれば、自らも公家ではあるが主上の取り巻きの廷臣どもが天下国家、民百姓のことを考えず自らの保身のことのみを考えて、果たして王政復古が実のある形で執行できるのかという疑問、
②更に一度は九州まで落ち延びた尊氏が容易に短時間で大軍を擁することが出来たということから、「武家の棟梁」というものが有する潜在的な底力、
③同じ武家の棟梁足りうる親朝廷派の新田義貞の人望の無さ、等々
 を目の当たりにして「国家とは」「天皇とは」「政治体制のあり方」といったことを熟考したに相違あるまい。

  
 北畠親房公、顕家公を御祭神とする阿部野神社由緒    北畠顕家公像と花将軍の歌

 まさに、天皇制社会と武家社会の分水嶺が顕家の手中にあったと言っても過言ではあるまい。北畠公園の墓所は江戸期の学者並川誠所の提唱で享保年間1720年頃建てられ、「花将軍と謳われた悲運の貴公子」と北畠公園の墓所由緒書にある。1990年「小説すばる」に掲載された北方謙三の「破軍の星」の主人公でもある。

注)阿部野阿倍野は、次回(その2)で解説します。


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