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旅行記、世相独言

初体験は痛いもの? -ストックホルム- (異文化体験7 世界一周の旅2)

2010年06月27日 17時11分03秒 | 異文化体験_北欧
(写真はクリックで拡大します)


初体験は痛いもの? -ストックホルム-  1985.2.19~21

夏のストックホルム旧市街(絵葉書より)


 またしても冬のスウェーデン、しかも今年のスウェーデンは前回と違って強烈な寒波の真最中である。

 ストックホルムの街の北東の公園に一際聳え立つ150m高さの放送タワーがある。名をカクネスタワーと言い国営TVと市とが管理している。空港からそのタワーに直行する。

  
  150mのカクネスタワー(放送タワー)とタワーからの白銀世界の眺望

  
                  冬の白銀の世界(左)と夏の森と湖の世界(右:参考写真)


 冬のこの時期、展望台に来る物好きは我々以外にいるはずもない。しかし、ここから見下ろす銀世界一色の景色は圧巻である。メーラレン湖、サントショーン湖、バルト海等の湖沼海と真下の公園に続く街並みが、境界のない白一色の一体世界を創りだし、その間に針葉樹の森、一筋の足跡、かなたの街並み等をはさんで、澄み切った北欧の空とが絶妙なコントラストを描いている。

 街の高台から見渡した景色、寒さに慣れず5分が限度

 案内役の髭のおじさんがソルトショーン湖をはさんで市の中心街を見渡せる高台も、最高の景色を見ることが出来ると薦めるので早速行ってみる。流氷に覆われた水面には船が通った跡をしのばせるクラックが入り、市街地が澄み切った空にくっきりと浮かんでいる。なんとも旅情を掻き立てる風情なのだが、ものの3分も立っていると足の先から凍っていくのではないかと恐怖感が沸いてくる。最年長のN氏はいち早く車に戻って手を擦り、足踏み状態。


 多くの湖沼を持ちバルト海に面したスウェーデンは、1600年代初頭強大な勢力を誇っていた。当時建造された戦艦ヴァーサ号は処女航海への出航直後に突風に襲われ、あえなく沈没。その後海底に眠ること330年、1961年海底から引揚げられ、ほぼ当時の姿のままで博物館に展示されている。現存する世界最古の完全船である。一人用の海中ステーションとでもいうべき鉄のお椀に空気を送り込み作業をした当時のサルベージ技術にも興味は尽きない。

 
            1631年突風で出航直後に沈没する様子と引き揚げられたヴァーサ号

 メーラレン湖に面した市庁舎は、1923年に建造され「黄金の間」の正面の壁に「メーラレンの女王」が金のモザイクで描かれており、壁面の金箔と床のブルー大理石のコントラストが異様な雰囲気を生み出している。この広間でノーベル賞受賞祝賀パーテイが開催される。

 市庁舎前の湖は一面氷結し、スケートする人も。

   
     有名な市庁舎内「黄金の間」、ノーベル賞の受賞記念パーティ会場となる


 夕刻、ホテル周辺の散策と前回買い忘れた1600年代の海図を買うべくハムンガーター通りに歩を進める。
 アクリルと綿の混紡下着に厚手のセーター、ジャケット、オーバーコート、皮の手袋、イヤーバンドの完全装備にもかかわらず、自然は厳しいものである、夕刻ともなれば風も出てきて気温はぐんぐん下がる一方。頭髪はたっぷりあるが頭の先から湯気が出て、毛編み物のイヤーバンドは効果なし。2分もすれば耳が痛くなり、続いて頭が痛くなってくる。しかし、負けてはおられない、海図を買うまでは。

 
  (左)外はマイナス40℃の世界  (右)地図屋さんで見つけた大航海時代の海図、永らく我が家の玄関を飾る


 目指す地図屋さんに駆け込んで手頃な大きさのものを物色し購入。日本に持って帰ると言うと、なんと長さ1.5m、直径10cmの硬い筒に入れてくれて、さあ、持って帰れと言う。お陰でこの後3週間続く世界一周の旅はこの筒がずっと相棒となったのである。
 翌日聞くと、昨夜は氷点下40℃であったとか、この温度は小生にとって初体験である。なるほど、初体験とはかくも痛いものか!

 
   オペラハウス兼レストランの「オペラ・チューラレン」、天井の高い空間で本場のサーモンを。

 ホテルは前回と同じく「ホテル・シェラトン・ストックホルム」。そのホテル近くのレストラン「オペラ・チェーラレン(OPERAKALLAREN)」で夕食を取ることに。1787年にグスタヴ3世によって建てられたオペラハウス兼レストランで出演者たちの憩いの場となってきたようだ。バロック式のインテリアが美しく、天井の高い広大な空間を持つ最高級レストランだ。

今はレストランだけ、昔は出演者の憩いの場であったとか。

 本場のサーモンを食ベて見る。サーモンピンクとはこういう色を言うのかと形容しがたく、かつ日本ではお目にかかれない色であった。


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OXFORDの下宿屋さん -オックスフォード- (異文化体験7 世界一周の旅1)

2010年06月23日 10時09分18秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)


 益々進展する都市化と増大する都市エネルギー。電気と都市ガス、競争相手同士がエネルギー効率・経済効率の良い先進システムを広く見聞する呉越同舟の調査団を結成。厳寒の北欧から欧州、米国東部から西部へと旅する3週間の世界一周の旅が今シリーズの内容です。
 2班に別れ、私の班は、イギリス、スウェーデン、オランダを、別の班はフランス、ドイツ、デンマークを廻って米国N.Yで合流する予定です。


OXFORDの下宿屋さん -オックスフォード-  1985.2.16~19


 この冬のロンドンは、雪が路上に薄っすらと残り、早朝は凍ってアイスバーンとなっている。今日は休日で市内観光の一日である。

  
    (左)休日の朝日に映えるビッグベン        (右)セントポール寺院の内部

  
        バッキンガム宮殿の衛兵交替式 見物客の間では世界各国の言葉が飛び交う

国会議事堂、ウエストミンスター寺院、セントポール寺院等を見て周り、バッキンガム宮殿に来ると丁度衛兵の交替式が始まろうとしている。夏と冬では衛兵の衣装は替わるが、人出の方は全く変化なく、この寒空のなか大勢の見物人が2重3重の人垣を造っている。この人垣の中にいると欧州のありとあらゆる言葉を聞くことが出来る。待ち時間も入れて約1時間ばかり路上に立っていると足元が凍え、全員足踏みをしての見物となる。


 ロンドン北西90kmの学園都市、オックスフォード(Wikipediaより)


 OXFORDへは、ビクトリアステーションからバスが出ている。運賃が面白い。片道4.2ポンド、往復は? これも同じく4.2ポンド。行ったバスは帰らないといけないので、ということか? 
 ロンドンの北西90kmの学園都市。9世紀頃創立されたOXFORD大学は、およそ30校ほどのカレッジで構成されている。マートン・カレッジに浩宮殿下が留学中で、足元の10cmばかりの雪に気をつけながら探し歩く。イヤーバンド、手袋、マフラーと完全装備であるにもかかわらず、底冷えがする。今にも崩れ落ちそうな煉瓦造りのカレッジは、それぞれの境界も定かでなく、落ち着いた歴史的景観の中で日曜の休日に骨休みしているかのようだ。

  
(左)街一番の威容を誇るオックスフォード大聖堂  (右)校庭に雪が残るクライストチャーチカレッジ

  
(左)大学の象徴ラドクリフ・カメラ (右)尖塔が美しいオールソウルズカレッジ

 礼拝堂も沢山あるが、その中でもChrist教会は1602年に建造され、狭い階段と通路が街を一望する教会の屋根に導いてくれる。見渡す限りの尖塔の山。それがOXFORDなのだ。

 OXFORDの食堂兼下宿屋さん

 やや遅めのお昼の場所を捜すが、なかなか見当たらない。狭い入口の学生相手らしい店をやっと見つけ、中に入ると、いるわ、いるわ。学生が大勢たむろしている。世の東西を問わず、学生気質は変わらぬもの。食べるものがほとんど残っていないが、ローストビーフサンドなら出来るというので、おばさんに無理を言う。下宿も兼ねた食堂で休日のお昼を男女学生が集まって、何やかやと議論に花が咲いている。中にはこれが学生かと思われるおっさんもどきもいる。こちらの人は顔だけでは歳は分からないものである。

 世界中から集めたコレクションで一杯の大英博物館

 夕刻の交通渋滞で、大英博物館に駆け込んだ時は既に夜の帳が降りようとしている。あわただしく中を徘徊し、博物館近くのトルコ料理屋でシシカバブを食する。

   
 (左)英国中央発電庁を訪問    (右)マルクスが下宿していたソーホーのレストラン「Quo Vadis」
 
 仕事始めはCEGB(英国中央発電庁)の訪問。この日の夜はソーホーのイタリアンのレストラン。2階にマルクスが一時下宿していた部屋がそのまま残されている。昨日の下宿屋のおばさんも、そのうち有名人を世に送り出すかも。乞うご期待である。


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オーナーはおのれ -パリ- (異文化体験6 "I LOVE 欧州"の旅5)

2010年06月18日 23時54分35秒 | 異文化体験_西欧
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オーナーはおのれ -パリ-  1984.6.11~14

 日曜夜にローマからロンドンに戻り、月曜日残された仕事を終え夕刻にパリに入る。空港からPORT MAILLOTまで空港リムジンで、ここから目的地までタクシーというのが市内に入る一般的ルート。安全上、犬を助手席に乗せたタクシーがやたらと目立つ。我々の乗ったタクシーも大型犬がご主人様をがっちりガードしている。

 
(左)ド・ゴール空港リムジンバスチケット28F      (右)レジデンス・セント・オノーレ


 「レジデンス・セント・オーナー」「?」、何度か繰り返すが英語発音では通じない。行き先のホテル名が「St.Honore’」なのだが、困ったものだ。紙に書いて見せると「オノーレ」と読むのだと言う。河内言葉の「おのれ」がそれに近い発音。オーナーは、「おのーれ」なのだ。

 電力(EDF)&ガス(GDF) 競合相手が共同で顧客サービス

 翌日、フランス電力庁(EDF)を訪問。原子力発電が世界で一番普及している国営電力会社である。国営ガス会社(GDF)とは営業面では競合しつつ、一方で顧客サービスは共同で行うという興味ある運営を視察。

 セーヌの上でエッフェル塔をバックに

 
                      エッフェル塔から見たパリ市内の眺望

 午後はエッフェル塔に昇る。同行の東宝ニューフェイス氏はまたまたショッピング。購入したお土産の大きなバッグに、これまたお土産の中サイズのバッグを入れ、更にその中に小物を入れと、2重、3重の荷物整理でバゲージは既にかなりの重量オーバー。しかし、まだまだこれからだそうな。


 初夏の陽気を思わせるシャンゼリゼ通り

 
 (左)この暑さで人々は公園の水辺に 遠く凱旋門が見える   (右)読書のパリジェンヌ 絵になる風景?


 快晴で暑さすら覚えるパリ。革ジャンを着た人がいるかと思えば、ノースリーブのワンピースの裾をひらひらさせシャンゼリゼを歩くパリジェンヌもいる。人さまざまである。

 
 ブローニュの森にあるレストラン「ル・プレ・カトラン」。

 今夕の食事はブローニュの森にある4つ星レストラン「ル・プレ・カトラン」。夕刻とは言えまだ陽が高い6月の森は、それでも既に娼婦が道端で客待ちをしている。最近は女装の男娼まで出現し、それぞれの区域を持って営業しており、森の治安も乱れているとか。一方、パリジェンヌの性意識ももはや救い難い所まできていると現地の人は言う。誰とでも気が合えば簡単に寝るというが、そんな目に会ったことのない小生には無縁の話である。食事はやや傾きかけた薄明かりの陽の中で楽しく進み、夕暮れと共に終わった。


 キャバレー&ミュージックホール「ル・ミリアルデール」

 前回訪問時は、飲み過ぎて夢見心地の中で終わってしまったリドのショウ。今日はアルコールもそこそこにキャバレー&ミュージックホール「ル・ミリアルデール」に出かけた。日本のガイドにはあまり載っていないが、上品なショウを見せる劇場である。前から4列目とあって目が自然と1ケ所に集中する。どうやら極細の糸を利用した付け物のようである。それにしても、日本のそれとは洗練さと動きと若さにおいて比較にならない。
 
 翌日は、OECD IEA(世界エネルギー機関)の訪問である。天然ガス担当のS.B氏とは初対面である。氏とは以後、IEAによる日本のエネルギー査察時の訪日、後のIGU会議の出張時等々お付き合いが続いている。彼はIEA事務局長秘書という重責の後、目下世界的シンクタンクで働いている。

 IEA訪問後、ロンドンに戻るO君と別れ、東宝ニューフェイス氏は会社の女性がパリに来ているとかで、小生の今夕食は一人食事である。海外に来て困るのが一人の食事。お土産の買物の後、結局キングバーガーがパリでの最後の夕食となる。

 独身の東宝ニューフェイス氏が今夜ホテルに戻ってきたかどうかは、帰りの便が違うので謎のままである。


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平城遷都1300年祭とキトラ四神

2010年06月10日 15時25分49秒 | 異文化体験_日本
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平城遷都1300年祭とキトラ四神  2010.6.2


  
 (左)マスコットの「せんとくん」               (右)会場マップ

 大阪を出た近鉄奈良行き電車が1300年前の都城「平城京」跡を横切って走る。今日もだだっ広い宮跡に、修学旅行生たちや年配の団体客が訪れている。何もない広い空間では、このところのにわか暑気で熱中症で倒れる人も増えているとか。


 
     (左)朱雀(すざく)門                 (右)大極殿(正面44m、側面20m、高さ27m)

 第一次大極殿と朱雀門の威容が、ここが1300年前の都であることを知らしめている。
大極殿には高御座も再現され、大極殿の前庭では朝鮮半島や大陸からの使節らとの交流絵図が頭に去来する。今は何もない朝堂院から朱雀門に至る空間も、かつては9000人の役人達が働いていたようだ。


 
 平城京跡資料館展示物 (左)顔を書いた土器 (右)道具類、右下:役所地区出土の「うんち」とトイレット棒

 会場北西隅に、平城京跡資料館がある。ここで出土した様々な遺物が展示されていて、古代人の生活様式がよく理解できるお勧めの資料館である(無料)。中には古代人の落書きや「うんち」まで展示されている。


  11時と14時半に開催される「あをによしパレード」

 会場南門広場には、女性に人気のある天平衣装貸出所がある。300円で天平人に変身出来るとあって、結構多くの女性達が天平衣装で宮跡を闊歩している。男性用もあるが、着用している男性は少ない。
また、会期中「衛士隊の再現」や「あをによしパレード」といったイベントが毎日2、3回
行われて、来場者の目を楽しませている。



  
(左)古代畿内要図(難波宮,藤原京,平城京,長岡京,平安京) (右)キトラ古墳石室の様子

 午前中、平城京跡を見学し、午後からはキトラ古墳から出土した四神壁画を見に奈良文化財研究所飛鳥資料館に向う。2006年から毎年開催されてきた四神壁画の順次公開も、今年は朱雀が加わって四神全部のお披露目となった。

 
  (左)北側を守る黒い神獣「玄武」   (右)西側を守る「白虎」(頭を北に向けている)

 
 (左)東側を守る「青竜」            (右)南側を守る赤い鳥獣「朱雀」

 平城京は1300年祭で賑わっているが、ここ飛鳥はそれより100年前の都、藤原京があった所。言わば今年は「飛鳥1400年祭」と言ってもおかしくない。「飛鳥時代」には仏教を初め様々な文化を渡来人がもたらした。その代表格が高松塚古墳とキトラ古墳の極彩色の高い技術で描かれた壁画。

 残念ながら発見時の状態を維持出来ずに、貴重な文化財がずいぶん変わってしまったが、関西の関係者の必死の努力で何とか後世に伝えられるよう手入れが行われている。


今回の「平城遷都1300年祭とキトラ四神」を評価下さい。

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その手は食わぬ - ローマ2 - (異文化体験6 "I LOVE 欧州"の旅4)

2010年06月09日 14時05分54秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

その手は食わぬ -ローマ 2-  1984.6.9~10


 昨夜の食事は結局夜の10時頃から探す羽目になった。テルミニ駅近くの「LORETO」という魚介類専門店に予約もせず暗い夜道を、老女の客引きにわき目も振らず探し尋ねて辿り着く。店はほとんど閉店直前の状態で、「時」既に11時である。恐る恐る「まだ大丈夫?」と聞くと、せっかく訪ねて来てくれたので、とまだ残っていた1組の客と共にこの店の客となった。

テルミニ駅近くの「LORETO」という魚介類専門店


 さて、何を食おうかとメニューと相談すれど魚介類はさっぱり分からない。これは何?の連発にウエイター氏、小生を大きな生簀の前に連れて行き説明を始める。結局、魚を指定し、数種の貝類と共にシェフのお任せということに。その間スパゲティ・ペスカトーレで急場しのぎ。バイオリン弾きがカンツォーネを歌い、最後はサクラ・サクラのサービス。恐縮していると「食事は楽しく、ゆっくり食べるもの、遠慮するな!」と徹底したサービス。日本では味わえないサービスに恐れ入る。結局最後の客としてお別れしたのは、12時半であった。

 ローマの治安はかなり悪いと聞いて来た。代表的な手口は、A:道案内に乗じてコーラを奢り、次は自分の暴力バーに誘い大金を支払わせる。B:ジプシーの子供達を使い新聞を買えと取り囲み、注意を分散させ抜取る手口。C:ジェラートを後ろから着衣につけ、注意を後方に向け抜取る手口といった所。ロンドンの二の舞を演じてはなるまいと注意、注意。

 VIA VITTORIO VENETOに面した「CAFÉ’DE PARIS」

 翌日曜日は、テルミニ駅と共和国広場にほど近いホテルを出発し、まずVIA VITTORIO VENETOに面した映画「太陽がいっぱい」や「ローマの休日」で有名なCAFÉ’DE PARISで小休止。東宝ニューフェイス応募のO氏にとっては夢のような場所。ここから少し歩いて市内が一望出来るピンチョの丘に立つ。今日も快晴のローマである。

 ピンチョの丘をポポロ広場に下りかけた時のこと。来た,来た。例のジプシーの子供達。一人が新聞を持ち、6、7人が小生を取り囲む。「No,grazie」「ええ加減にせい!」と大声で叫びながら背広を引っ張ろうとする子供の手を振り払いながら、足早に立ち去ったのである。

    
  (左)トレヴィの泉全景                    (右)左肩越にコインを投げる

 古代ローマ遺跡の中で最大にして最古の建物「パンテオン」


 トレビの泉のある広場は、うっかりすると見失う小路の裏手にある。左肩越しにコインを投げて再びこの地を訪れるよう祈願する。パンテオンはここから徒歩で15分足らず。紀元前27年にオリンポスの神々を祭るために建造され、紀元後130年に再建された古代ローマ遺跡の中で最大にして最古の建物である。小生にとっても我が身に触れる最古の建物である。この神殿の前のカフェテラスでカプチーノで喉を潤す。

 フォロ・ロマーノ全景

   
(左)ローマ時代にタイムスリップしたような錯覚に陥るフォロ・ロマーノ (右)白い建物がエマヌエーレⅡ世記念館

 白亜の大殿堂エマヌエーレⅡ世記念館の前を通り過ぎると、そこはフォロ・ロマーノ。古代ローマがそのまま出現したと錯覚する大遺跡群である。磨り減った敷石の道、崩れ落ちた野ざらしの石柱から2000年前の鼓動が響いてくる。この隣に5万人収容の劇場兼競技場、コロッセオが我こそローマの顔とばかりどっしりとそびえている。屋台で買ったボリュームたっぷりのジェラートを頬張りながら、有史以前の世界を夢想する。


    
(左)コロッセオ(アリーナの下部まで見える)   (右)当時のイメージ


 ここから地下鉄でカラカッラ浴場跡を訪ね、再びCAFÉ’DE PARISに戻る。最後のスパゲッティ・ペスカトーレを味わうためである。

 
(左)カラカッラ浴場跡                    (右)当時の浴場内部想像図

 街中全てが身近な遺跡のローマ、生活に溶け込んだ石造建築文化とわが国の木造建築文化。歴史の重みという観点から日本の遺跡と文化が一歩遠のいた感じのするweek endであった。


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咸臨丸と龍馬伝と高知・城西館と

2010年06月05日 23時47分12秒 | 異文化体験_日本
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咸臨丸と龍馬伝と高知・城西館と  2010.5.27‐29


 とある懸賞で高知の老舗名旅館「城西館」の1泊2食付ペア宿泊券が当った。龍馬伝にはまっている女房殿と早速高知へ!というのももったいないので、鳴門の渦潮を間近に見たことがないという女房殿のために、南淡路温泉に前泊。

 福良港からうずしおクルーズが出港している。潮見表によると翌朝5月28日は午前10時50分の船に◎がついている。潮の干満と関係するだけに時刻はこちらの勝手というわけに行かない。この時間の船名はなんと龍馬ゆかりの「咸臨丸」。
鳴門海峡は幅が1.3kmと狭く、かつ海峡中央部が水深約100mと深く両岸部の浅瀬との間に出来る潮流の速度差(中央が早く両岸が遅い)が渦を作る原因となり、大鳴門橋の下では壮大な景観が朝夕繰り広げられている。

  
  (左)渦潮クルーズ船「咸臨丸」             (右)大潮の時は直径30mの渦もあるとか


 さて、渦潮見物を終えた我々は、一路高知に向け車を走らせること2時間少々。高知城近くの城西館さんにチェック・イン後、夕食までの時間を高知城見物に出かける。
途中、県庁前に幕末に建てられた山内家足軽屋敷が残っており、自由に内部の見物が出来る。土佐24万石の高知城は山内一豊が築いた城。典型的な平山城で、1601年に大高坂山に築城着工し、1603年本丸等竣工し入城。1610年地名を高智山と改名、これが高知の地名の始まりと言われる。

  
     (左)山内家足軽屋敷(見学自由)          (右)高知城(追手門と天守閣)
 
 
 城西館に戻り、ご自慢のお風呂に入ってお部屋での夕食。皿鉢料理を中心に見た目も美しい美味しい料理が次々と出され、大満足。この城西館、創業130年の老舗で昭和天皇はじめ現天皇・皇后両陛下、吉田茂とその門下生の歴代首相等々が泊まられた格式ある旅館。さすがに従業員のホスピタリティ溢れるもてなしも板についたもの。お世辞抜きに久々に日本の旅館の良さを体感した次第。

  
    (左)城西館  (右)部屋での夕食(皿鉢料理やはちきん地鶏の蒸し物、更に美味しい料理が次々と...)

  
  (左)皇室、政治家等、訪れた名士の色紙や写真が、  (右)最上階の浴場からの眺望



 翌早朝、午前6時半から城西館スタッフによる旅館界隈の龍馬ゆかりの地を巡るツアーがあるというので、それに参加する。約40分ほどかけて、城西館→才谷屋跡(龍馬本家)→近藤長次郎邸跡→水天宮→鏡川((乙女姉やに龍馬が泳ぎを特訓された川)→鏡川沿い屋敷筋→日根野道場跡(推定)→水丁場石碑→龍馬郵便局→秋葉神社(防火の神)→龍馬生誕地→城西館と早朝の街を巡るツアーであった。

  
   (左)城下の主要な見所マップ            (右)坂本本家筋の「才谷屋」跡

  
(左)龍馬が泳いだ鏡川(龍馬は泳げなかった?) (右)四・六丁の水丁場(この近辺に日根野道場があった模様)

  
 (左)珍しい歴史上の人物名の郵便局    (右)龍馬生誕地石碑(吉田茂書、城西館のすぐ近く)


 朝食・入浴後、城西館の裏手にある「龍馬の生まれたまち記念館」を訪ねる。竜馬が生まれ育った上町での少年・青年時代を中心に展示している。上町は下士が住む町。関が原の戦いで徳川方に味方し功績のあった山内家に仕える武士達は上士、一方豊臣方に味方した長宗我部家に仕えていた人々(一領具足=武装農民)は下士と言われ、大きな差別があった。城西館から少し東に行った升形商店街が上士と下士の住む街の境界であったとか。武市道場は城の東にあり、西に住む竜馬が武市道場に行くには大いに迂回しなければならなかったのだろう。

 城西館の裏手にある市立「龍馬の生まれたまち記念館」


 記念館を見物後、城西館を後にして一路桂浜へ。45年前の学生時代、貧乏四国旅行をした際、桂浜でテントを張ったが、周りには茶店が一軒だけあり、そこのおばあさんが延々と名口調で「純信・お馬の悲恋物語」を語ってくれたことを思い出す。ペギー葉山の「南国土佐を後にして」が、大ヒットした頃である。その時の印象では龍馬像はもっと海岸に近かったと記憶しているが、観光案内で聞くと龍馬像の位置はその当時と変わってはいないと言う。周りがあまりに変わってしまったようだ。

   
  (左)桂浜の龍馬像   (右)龍王岬を背景に(今は水族館や県立龍馬記念館が浜に整備されている)


 最後は純信のお寺、四国八十八ケ所第31番札所「竹林寺」を五台山に訪ねる。何組かの巡礼の姿が散見される。唯一の文殊菩薩を本尊とするお寺。孫にお守りを買って帰る。ここでは純信とお馬さんの物語はご法度のようで、純信という修行僧がいたことは明記されている。

 四国八十八ケ所第31番札所「竹林寺」
 

「土佐の高知のはりまや橋で坊さんかんざし買うを見た ♪♪♪ 」 口ずさみつつ、竹林寺を後にする。


今回の「咸臨丸と龍馬伝と高知・城西館と」を評価下さい。

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