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旅行記、世相独言

ヨーロッパ・アルプス 白銀の空中散歩 -ミラノ-(異文化体験18 世界ガス会議の旅8)

2011年12月29日 01時25分19秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)
2011年、最後のブログは「異文化体験18 世界ガス会議の旅」の完結編です。
来る年が皆様に良い年であるよう、祈っています。


ヨーロッパ・アルプス 白銀の空中散歩 -ミラノ- 1994.6.15~6.26
 
 全ての会議日程を終えた世界ガス会議は今日からポストコングレス・ツアーに入っている。シシリー島へのツアーに人気があるようだ。

 我々は、4月のチャレンジが吹雪に阻まれたイタリアからフランスへのゴンドラによるアルプス越えに再チャレンジ。会議で頑張ってくれた仲間3名でミラノを早めに出発。アオスタの街は4月の景色とは一変し、新緑に覆われている。

 
 モンテビアンコ(モンブラン)へのルート(今回は左手イタリア側エルブロンネルからのゴンドラで、数年前は右手フランス側シャモニーから。写真とルート図はほぼ対応しています)

            
(左)ラ・パリュ-エルブロンネル間の切符    (右)出発点ラ・パリュを眼下に高度を上げていく

 アオスタ郊外ラ・パリュ(La Palud)からモンテ・ビアンコ(Monte Biancoモンブラン)、正確にはエギーユ・デュ・ミディ展望台(Aiguille du Midi)まで往復の切符を手に、まずはロープウェイに乗り込む。4月の時は1度乗り継いだ先で悪天候と寒さでギブ・アップしたが、神が味方してくれたのか今日は雲ひとつない快晴である。

 
(左)エルブロンネルからの眺望(参考写真)  (右)エルブロンネル-エギーユ・デュ・ミデイ間の切符

 標高1370mのラ・パリュから、2173mのパヴィリオン(Pavillion)、3375mのトリノ小屋、そしてエルブロンネル(Helbronner)へとロープウェイを乗り継いでやって来るとアルプスの山々の威容が眼前に迫ってくる。ここで行き着く先の見えない4人乗り3重連のゴンドラに乗り換える。眼下にはまばゆい白銀の世界がどこまでも続いている。

  4人乗り3重連のゴンドラ

 何故か数分毎に不規則にゴンドラが停まるのは、全く見えないステーションでお客が乗り込んだためと理解するのに少し時間を要した。ゴンドラが停まり、窓から身をのり出すとそこには物音一つしない静寂の世界がある。シーンと静まりかえった静寂の中にわが身が吸い込まれそうな感じがする。真っ青な空、白銀がまばゆく陽光をはね返す。眼下の白銀の上を小さな黒い物体が動いている。良く見ると登山者が手を振っている。声を出しても偉大な自然の中に吸収されて届かない。

 
 4807m 澄み切った青空に雪煙をあげるモンテ・ビアンコ(モンブラン)の威容

 
                         白銀と青空と、そして静寂と。

 エギーユ・デュ・ミデイ(Aiguille du Midi )が近づくと、アルプスの一大パノラマが更に大きく展開する。3842m、富士山より高いエギーユ・デュ・ミディは、モンブラン、いや今回はイタリア側に敬意を表して4807mのモンテ・ビアンコを間近に見る恰好のポイントとして沢山の観光客がイタリア、フランス両方から登ってくる。

           
(左)エギーユ・デュ・ミディ展望台の構造        (右)展望台テラスとシャモニーの街並み

 エギーユ・デュ・ミディからはるか眼下にフランスからの拠点シャモニーの街の家並みが見えている。数年前はシャモニー側からロープウェイに乗ること20分でここに来たのだが、今日は雲一つない快晴でモンテ・ビアンコの雪煙が間近に見える。
更に、4478mのマッターホルン、4634mのモンテ・ローザ等々、4000m級のアルプスの山々が黒い岩肌を見せ付けている。

 
(左)3842m富士山より高い展望台、階段では息切れも   (右)シャモニーに流れるボソン氷河

 同行の2人は、エギーユ・デュ・ミディの展望台への階段を上がるのに、息を切らし気分が悪いとしばし休憩、軽い高山病である。ここから、イタリア側、フランス側それぞれに登山者が隊列を組んで降りていく姿が確認できる。
 ラ・パリュに戻ると、ベンツの運転手が「どうだった? モンテ・ビアンコは良かっただろう!」と問い掛ける。日本人の富士山同様、彼等の山なのである。

 帰途ゴンドラから見るアルプスの峰々、雲が出始めた

 ミラノに戻り、会議応援仲間で独身のO君のためにレセプションで司会をしてくれた女性をレストラン「赤坂」での食事に誘っている。美人の彼女も留学生の一人。
 その後、市内のカラオケ屋でお世話になった某商社の面々と打ち上げパーティ。本当に現地駐在でしか分からない細かい点で助けられた。

 
(左)お世話になったアローラおばさんからの贈り物   (右)ローマ建国伝説の狼と双子の幼子

 もう一人お世話になった大事な人がいる。アローラおばさんである。おばさんがお別れの時に「シルバーウルフ(銀色の狼)」の置物をプレゼントしてくれた。何でまたこのようなものを、と思っていたが、帰国後それが理解出来た!
 ローマ建国伝説の雌狼なのだ!捨てられていた双子の幼子を自らの乳で育てたという雌狼。双子はロムスルとレムス。兄のロムスルがローマを建国したというイタリアでは有名な伝説だ。

 記憶に深く刻まれたイタリア・ミラノとも明日でお別れである。

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OSAKA 光のルネサンス&御堂筋

2011年12月16日 11時41分50秒 | イベント
(写真はクリックで拡大します)

OSAKA 光のルネサンス&御堂筋  2011.12.15

 神戸のルミナリエが終わると、今度は「OSAKA 光のルネサンス&御堂筋」が始まった。中之島周辺地域と御堂筋一帯がイルミネーションで光飾され、かつての水の都大阪も化粧をすればこんなに美しくなるんだ!と実感するひと時を味わうことができる。

 この季節、かつてシンガポールを訪問した時も、オーチャード通りを各建物がクリスマスの光まばゆいデコレーションで競い合っていたのを思い出す。

 「がんばろう!日本 ~大阪・関西から元気を~」をうたい文句に、中之島会場は12月25日まで、御堂筋は来年1月22日まで。是非、お出かけ下さい!!!

 難波橋から東会場に。「ウェルカムスノーマンファミリー」

 東会場入口で公式ガイドが無料配布されています。

     
               七色に変化していく「スノーツリー」

 
(左)中之島公園バラ園の巨大な「ローズライトディアー」 (右)子供達の記念撮影スポット3Dキャラクター

 イルミ船団のプレミアム・ナイト・パレード

  
(左)中央会場のフランス・アヴェニュー(正面は中央公会堂)
(右)中央公会堂に映し出される映像「Emirates AirlineのPassport to the world」

 
(左)市役所横のイルミネーション・ストリート      (右)淀屋橋から中之島西方面を望む

         
     「スターライト・シティ・スクウェア」大阪市役所の正面壁面のデコレーション

 ツリーの下の巨大シャンデリア

 
       約1.9kmの光のロード 3年目を迎えた「御堂筋イルミネーション」

 昭和の名建築 大阪ガスビル周辺


今回の「OSAKA 光のルネサンス&御堂筋」を評価下さい。

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モスキートでクロージング -ミラノ-(異文化体験18 世界ガス会議の旅7)

2011年12月11日 23時30分02秒 | 異文化体験_西欧
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モスキートでクロージング -ミラノ-  1994.6.15~6.26

 ベネツィアから帰ると、早速シャワーを浴びて正装に着替え、JGA会長名代として各国レセプションに出かける。

 
いずれもデンマーク会場で (左)IGU事務局長と懇談、   (右)ハープ奏者のレディ?と

 最初は我々と同じプリンシペ・ディ・サヴォイアホテルでのフランスのレセプション、次は城館を借切った次期会長国デンマークのレセプション、ここでは次期会長と懇談、続いてフォーシーズンホテルでの英国レセプションと巡り、ある宮殿を借切ったイタリアのレセプション会場に辿り着くと、時刻は既に午後10時。

 招待状によると着席ディナーとなっている。となれば途中で今更今晩は!という訳には行かないので、そのままホテルに戻る。今宵はロシアもどこかでやっているはず。日本のレセプションがちょっと目立った今回のミラノ大会であった。

          
(左)日本の展示ブース制作責任者のI嬢と   (右)開場前のひと時、イタリア人コンパニオンと

 一方、展示会場は終わりが近づくと各国展示関係者間で恒例の各ブース記念品の交換が盛んに行われている。日本のミニチュアの和傘は大変な人気で、それ目的の来場者も多いが、わがJGAブースの最終来場者は3600名に達した。

 展示イベント終了後の日本ブース記念撮影

 小生もデンマークの「コペンハーゲンで会いましょう」と7ケ国言語で書かれたTシャツ数枚他、各国の記念品をゲット。日本の生活提案コーナーと新技術紹介のブースには、新聞取材があり大きく紹介される等、野点を中心とする日本文化と相俟って人気を博した。

          
(左)ミラノ大会ポスターの「鞄と小さな炎を持った男」    (右)閉会式チケット

 
 (左)軍楽隊による演奏          (右)ズバンディエラトーリの参考写真(会場のものではない)

 23日、16時からオーディトリアムで閉会式が行われた。軍楽隊によるヴェルディの荘厳な演奏、イタリア独特のズバンディエラトーリと呼ばれる旗振りの妙技(フラッグショウ)。最後は大会ポスターデザインの「鞄と小さな炎を持った男」が登場、その炎が大きな炎に変わり、次期会長による次期大会への歓迎メッセージが述べられる。更に次期開催都市コペンハーゲンの映像紹介があり、4日間の会議を全て終了した。明日からは、ポスト・コングレス・ツアーが始まる。一番人気はシチリアのようだ。

 スナム・スポーツセンター・屋外でのフェアウェル・パーティ給仕所風景

 夕刻、午後8時からスナム・スポーツセンターでフェアウェル・パーティが開催された。心配された天気もどうやら持ちそうで、屋外の広大な森に覆われたスポーツセンターの所々に配置されたバーベキューセンターでお皿一杯の肉や野菜、お酒を貰い、ベンチやテーブルに仲間同士で陣取って賑やかな輪があちこちに出来ている。

 虫除けスプレーのモスキートガール?達と

 中には気の毒にも様子がわからずイブニングドレスを着てきた人や、露出度の高い衣服で参加した女性も多かったが、彼女達は薮蚊との格闘である。日本の蚊とは訳が違う。とても大きな蚊である。しかし、そこは心得たもの。イタリア側も虫刺され防止のスプレーを持った担当者が100m置きに配置されていて、ややお冠気味のレディーの露出肌にスプレーしている。

 野外コンサート、そして、その後はダンスパーティへ、

 夜の帳がおりると、広場はコンサート会場に、更にコンサートが終わるとダンス会場に変身し、何時終わるともなく続いている。案内状では予定終了時刻は24時だそうな。さすがに良く遊ぶ人種である。
 午後11時前、藪蚊にこれ以上喰われてはたまらんと、まだまだ続くパーティ会場を後にする。


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光明皇后伝説を歩く  2011.11.26

2011年12月04日 23時01分15秒 | 異文化体験_日本
(写真はクリックで拡大します)

光明皇后伝説を歩く  2011.11.26

 私の住む大阪府和泉市には、光明皇后にまつわる多くの伝説があります。
 伝説だからどこまで本当か、その真偽のほどは定かではありませんが、日本史に大きな足跡を残した女傑を思い起こしながら晩秋の半日を歩いてきました。
 これは11月26日、和泉市が2011歴史ウォークとして企画したものです。

 いずみの国歴史館 場所:桃山学院大学の奥、宮の上公園

 我が家の近くにある「いずみの国歴史館」で、現在和泉市が編纂中の市史関連展示を見た後、山手の旧横山高校にバスで移動、ここから光明池までおよそ7km強のウォーキングの開始です。

 当日のウォーキングマップ、7km強あります。

 光明皇后(藤原朝臣光明子)、藤原不比等の子にして、皇族以外で初の皇后の位につき、夫は第45代聖武天皇。女帝である第46代孝謙天皇、第48代称徳天皇(同一人物)の母親。深く仏教を信仰し、夫聖武天皇に東大寺大仏や国分寺の建立を進言、自らは施薬院、悲田院等の福祉施設を設置。701年から760年まで、天平の時代を生き抜いた人です。
 夫婦の筆跡を見てみましょう。聖武天皇の筆跡に対し、光明皇后(藤三娘と藤原姓のサインをしています)の筆跡を見ると、夫婦の力関係を計り知ることが出来そうです。

 上が聖武天皇、下が光明皇后の筆跡です。



 光明皇后伝説に従って写真を展開します。クリックすると大きくなりますのでご覧下さい。

 「光明皇后伝説」です。クリック拡大してお読み下さい。

 白瀧山薬師堂の智海上人の像

 誕生の地とされる白瀧山浄福寺

 不比等が光り輝く娘を見たという照田光田の場所


和泉国分寺(当時の「安楽寺を国分寺とする」という記録。和泉国は河内国から分国) 

 浄福寺境内裏手にある鹿の足跡のついた石


都に向う娘を母鹿が見送ったとされる女鹿坂。緩やかな坂で、ここから和泉山系が一望出来ます。

 浄福寺近くの光明皇后生誕の地道標


 奈良の春日大社は藤原一族を祭る神社として有名ですが、ここ和泉にも分社があります。その一つが三林の春日神社で、境内には三林古墳群もあります。

 
(左)三林のある春日神社(奈良大社同様石灯籠の参道が続く)
(右)参道の左右に点在する三林古墳群(昔は70基、今は19基で写真はその一つ。


 また、光明池は昭和初期に築造された巨大なため池で、泉北高速鉄道の光明池駅の近く、泉北ニュータウンの光明池地区にあります。光明皇后ゆかりの浄福寺近くの槇尾川から取水し、先ほどの照田光田や女鹿坂にも近いことから光明池と名付けられたようです。現在、堤防の耐震補強工事中で、水のない光明池を見ることが出来ます。

 
(左)現在の光明池、周辺は泉北ニュータウン (右)1931年から5年の歳月で完成、当時の工事風景。

 
(左)浄福寺近くの槇尾川取水口 (右)護岸耐震補強工事で水のない光明池(左手後方山の稜線は金剛山)


今回の「光明皇后伝説を歩く」を評価下さい。

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