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旅行記、世相独言

ご一緒にクレムリン・ツアーへ ーモスクワ- (異文化体験47 ロマノフ王朝文化に浸る旅10) 

2015年10月15日 22時45分30秒 | 異文化体験_中・東欧
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ご一緒にクレムリン・ツアーへ  2015.07.12

 いよいよこの旅も最終日。クレムリン観光の後、帰国の途につく。朝から小雨が降ったりやんだりして、少し肌寒い。昨日不調だった腹具合もビオフェルミンのお蔭で復調したようだが、安全をきしてパンと紅茶のみの朝食で我慢。

 ホテルの部屋から見た景色 今朝は雨模様

 さあ、これからご一緒にクレムリンの鳥瞰図(A)と写真(B)を参照しながら、モスクワのクレムリンを見て行きましょう!

            
(左)クレムリンの鳥瞰図(A)               (右)同じ角度から見た写真(B)

 クレムリン観光は、クタフィア塔①から入るのだが、個人も団体も入場の順番待ちの列が出来る。我々が列の一番先頭だが、後から来た中国人の団体客が横にたむろする。時間きっかりにしか来ない係官はそんな事情は知らないので、後列の西洋人たちは文句を言っている。悲しいかな、同じ東洋人としか見えないのだろうが、恥ずべき行為。入場口から目下改修中の最高望楼のトロイツカヤ塔②への城壁を渡ると、そこはもうクレムリンの内部。

 左手前がクタフィア塔①、後の高い補修中の塔がトロイツカヤ塔②

 日曜日だというのに、お仕事なのか整然と係官たちが横断歩道を渡る。クレムリンの中は一応車道と歩道と広場等があるが、車も走らず広々とした空間にいい写真を撮ろうと観光客もついついばらけるのだが、要所要所に詰所と警備員がいて一端歩道から道路に足を下ろすと、すかさずピー、ピーと警告笛が鳴る。決まったコース以外は足を踏み入れるなということだろう。

           
(左)日曜日だというのにお仕事? ご苦労さま          (右)要所要所に警備員 歩道からはみ出るとすかさず警笛  

 まず最初に遭遇するのが「クレムリン大会宮殿③」。近代的建築でソ連時代は共産党大会等が開催され、なんと6000席という巨大ホールがある。ウラル大理石を使った建造物で、双頭の鷲とモスクワ市章が頭上に輝いている。

           
(左)6000人収容のホールを有するクレムリン大会宮殿③     (右)建物正面頭上の双頭の鷲とモスクワ市章

 プーチン大統領の執務室のある官邸⑤は、だまし絵状態で目下改修中とのこと。その対面あたりに「大砲の王様⑦」がある。16世紀に鋳造された口径890㎜の当時世界最大の大砲だが、一度も発射されたことがないとか。

           
(左)プーチン大統領の執務室⑤(目下だまし絵で補修中)         (右)大砲の王様⑦

 一際高い鐘楼を持つ建物は「イワン大帝の鐘楼アンサンブル⑫」で、1505年建造、改築等を繰り返し現在81mの高さとなっている。
 この建物の すぐ横には「鐘の王様⑧」がある。歴代の鐘楼の鐘が溶かされ大きさを増してきたようだが、この巨大な鐘は1735年に鋳造され、重量200トン以上、高さ6.14m、直径6.6mで、1737年の大火が原因でひび割れ11.5トンの破片が生じ、99年間放置されたが、1836年現在の台座に設置されたようだ。

          
(左)イワン大帝の鐘楼アンサンブル⑫    (中)重量200t以上の鐘の王様⑧     (右)鐘の王様の割れた破片

 さて、我々はいよいよ聖堂広場にやってきたぞ!

 まずは、⑨のウスペンスキー(生神女就寝祭)大聖堂。ロシア国家主教座聖堂で、即位式や戴冠式等、国家の最重要式典が行われている。1326年最初の石灰石造りの聖堂が建立され、1475年にイワン3世の命で現大聖堂が建てられた。イコンに代表されるロシア美術の名品や工芸品が集められたが、ソ連時代には聖堂は閉鎖され、蒐集品の多くは武器庫に、イコンの多くはトレチャコフ美術館に移されている。

            
(左)ロシア国家主教座聖堂のウスペンスキー大聖堂⑨      (右)南正面玄関、17世紀の聖母子フレスコ画 

                      
(左)(中左)大聖堂の解説書(英語版、日本語版なし)   (中右)イコンであふれた聖堂内部 (右)イワン雷帝の祈祷所

 この広場には、1505年に建立され全大公とピヨートル以前の皇帝たちを埋葬しているアルハンゲリスキー(首天使)大聖堂⑬、1485年にモスクワ公やツァーリたちの私有教会として建立されたブラゴヴェシェンスキー(生神女福音祭)大聖堂⑪等々がある。

           
(左)アルハンゲリスキー大聖堂⑬                (右)ブラゴヴェシェンスキー大聖堂⑪

 次に、ここも是非見てみたいが見学不可の大クレムリン宮殿⑱の前を通って、最後に見学するのは、ロシア最古の博物館・国立武器庫⑰.武器庫というから戦闘武器の博物館かと思っていたが、見事な美術工芸博物館であった。

        
(左)右手の白い建物 国立武器庫⑰       (中)様々な王冠          (右)イースター・エッグの一つ 

 国立武器庫は、1485年に国有財産収蔵庫が建てられ、当初は式典用・戦闘用武器製作が中心であったが、18世紀に工房機能が停止し、19世紀初めに武器庫は博物館となった。4-20世紀初頭の国内外の工芸美術の最大のコレクションを誇っている。世界的名声を得ている様々なイースター・エッグには、私も釘付けとなった。更に、今回見学していないが武器庫半地下にあるダイヤモンド・フォンドは、宝石芸術の傑作が多数あるようだ。

      
(左)武器庫見学後、振り返ると大クレムリン宮殿⑱ (中)ボロウィツカヤ塔⑯の外から見た城壁 (右)クレムリンの星

さて、以上でクレムリン・ツアーは終了だが、武器庫を出ると青い空が一面に広がり、大クレムリン宮殿から武器庫に至る石畳を清掃車が走っている。ボロウィツカヤ塔⑯からクレムリンを離れ、ドモジェドヴォ国際空港に向かう。その道中でランチ会場に立ち寄るようだ。

               
(左)クレムリン解説書    (中)詳細解説書(クレムリン内で販売)  (右)イワン3世時のクレムリン(Wikipediaより)

           
(左・右)違う角度(赤の広場)から見たクレムリン(鳥瞰図と写真は対応しています)  手前はグム百貨店

 ランチ会場は、道路サイドのボリソフスキーというボーリング、ビリヤード、レストランの複合施設。メインはシャシリクという肉の串焼き料理、デザートはブリヌィというロシア版クレープのメニュー。久々にしっかりとした食事を取った。


(左)ランチで立ち寄ったボリソフスキー          (中)スープ            (右)シャシリク(串焼き肉)半分既に胃袋に

           
(左)デザートのブリヌィ(ロシア版クレープ)             (右)ベテラン添乗員のS嬢と 

 ドモジェドヴォ国際空港は、近代的な新しい空港だが、空港への道路整備と空港での車両交通整理が追い付いていないようで、渋滞と大混雑となっている。残っているルーブルでお土産のチョコレートを買い、空港のクラブ・ラウンジで出発までのひと時を過ごす。

           
(左)ラウンジから見たドモジェドヴォ国際空港           (右)クラブ・ラウンジの内部

 定刻に成田に到着し、すぐさまリムジンバスで羽田に移動する。快適なロシアから暑い湿度の大きい日本、すぐにじわっと汗が噴き出る。羽田のサクラ・ラウンジで2時間弱の時間調整。いい天気で富士山が遠望できる。また、機内から富士の全容も間近に捉えることが出来た。大阪市内上空を順調に下降し、いつものようにそのまま伊丹空港に着陸するものと思っていたら、何故か伊丹空港の南側から西側(六甲の山側)に回り込んで着陸した。機内には沢山の私服CAが乗っており、ちょっとしたらパイロットの非日常訓練だったのかも。それが証拠に後続の機は通常ルートで着陸している。

  
(左)羽田さくらラウンジから見た富士山   (中)機内から見た富士山  (右)伊丹へのアプローチがいつもと違う(右手に伊丹空港)
 
 ロシアの旅も無事終了。予想以上に見どころのある旅であった。
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ロシアの新婚さんと赤の広場 -モスクワー (異文化体験47 ロマノフ王朝文化に浸る旅9)

2015年10月08日 19時16分33秒 | 異文化体験_中・東欧
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ロシアの新婚さんと赤の広場  2015.07.11

 5時半のモーニングコールがあったのか、なかったのか、定かでないが、気が付けば6時半。大慌てで6時50分ロビー集合に間に合わせる。昨夜、配られた朝食を空港へのバスの中で食するが、お腹の具合に不安要素が発生。

 サンクトペテルブルグの新しいプルコヴォ空港からモスクワ・シェレメーチエヴォ国際空港へは、9時25分発のエアロフロートSU007便で。ONE WORLDサービスを期待したがエアロフロートは加盟していない。

    
(左)新しい明るいプルコヴォ空港     (中)ロシア土産の民芸品ショウウィンドウ     (右)エアロ・フロート機

 お腹の具合は、徐々に切迫感を増してきた。モスクワ到着後、荷物が出てくるまでの間トイレに駆け込む。絶対数が少なく、かつさほど綺麗なトイレではない。バスに乗り込み、次は市内の昼食レストランまで我慢、我慢。

 ランチ会場への道中、モスクワ川中州に建つピヨートル大帝記念碑

 昼食レストランは、Easyという比較的若者好みのレストラン。到着するや早速トイレに駆け込む。ランチメニューは、前菜にサリャーンカという具沢山スープ、メインが魚料理で食後はジャム入りロシアンティー。しかし、ここは誘惑を断ち切ってランチをパス!。一人カウンターに座って熱い紅茶を貰う。添乗員のS嬢やお店の店員もケーキでもどう?と気にかけてくれるが、ここは我慢、我慢。

  
(左)ランチ会場「Easy」の名刺   (中)具沢山スープのサリャーカ(残念、食べれず)   (右)お店の雰囲気


 午後は、今日のハイライト「赤の広場」。
 モスクワ・オリンピックのマラソン中継で赤の広場やクレムリンの空撮が印象的で、一度見てみたいと思っていたのが実現した。

              
(左)クレムリンと赤の広場の鳥瞰図             (右)赤の広場の空撮写真(参考)


 ロシア語名「「クラスナヤ広場」。「クラスナヤ」は、ロシア語で「赤い」の意、一方古代スラヴ語では「美しい」の意。どちらか言うと「美しい広場」が原義に近いとか。
 1493年、モスクワ大公国のイヴァン3世が、居城のクレムリン前の市街地を広場として整備させたのが起源と言われており、1991年クレムリンと共に世界文化遺産として登録されている。

            
(左)1801年 Fedor_Alekseev作 ロブノエ・メストが強調されている   (右)現在の広場(聖ワシリー大聖堂から見た広場)

 バスを降りると、広場に向かって緩やかな登り傾斜の石畳が続く。長さは695m、平均道幅は130m、面積は7万3,000㎡で、天安門広場ほど広くはない。様々な国家行事が行われる広場で、この日は撤去されていたがクレムリン側には行事スタンドが配置される。
コの字型の広場は、南西側(左手)にクレムリン (明日行きます)の城壁と城壁に近接するレーニン廟 (レーニンの遺体が保存展示)、北東側(右手)にグム百貨店、北西端(一番奥正面)に国立歴史博物館ヴァスクレセンスキー門 、南東端(右手前)に葱坊主屋根で有名な聖ワシリイ大聖堂 (対モンゴル戦勝記念でイヴァン雷帝が1560年に建設)と処刑場・布告台だったロブノエ・メスト (ステンカ・ラージンもここで処刑)がある。

  
(左)広場への登り石畳              (中)南西側 クレムリンの城壁        (右)城壁に沿って建つレーニン廟

            
(左)北西側 国立歴史博物館 右隣に広場入口ヴァスクレセンスキー門   (右)カザンの聖母聖堂

  
(左)北東側 グム百貨店(3階建て、3つのアーケード)  (中)グム百貨店の内部    (右)歴史博物館側から広場を見ると

          
(左)南東側 聖ワシリー大聖堂(ポクロフスキー聖堂) (中)ロブノエ・メスト  (右)対ポーランド軍解放英雄の像 

 午後の広場は多くの観光客で賑わっており、特にグム百貨店は私のイメージを一新させるほど明るく、楽しいショッピングアーケードを形成している。ここ、グム百貨店でもトイレを拝借、半ドア(ドア下部がオープン)タイプのドアはソ連時代の名残??。ビオフェルミンのお蔭で、少し切迫感がやわらいできた。

 土曜日とあってか、広場には挙式前後の新婚さんが多数みられる。ここ、赤の広場はモスクワで結婚式を挙げたロシア人カップルが、挙式後に 訪れる定番地の一つのようだ。
 広場で出会った新婚カップルの話によると、最初に結婚宮殿に行って結婚証明書にサインし、ここ赤の広場や雀が丘、戦勝記念公園など市内数ケ所を大型リムジン車でまわり、記念撮影をして、レストランやカフェあるいは自宅で披露宴を行うのが一般的だそうな。

  
(左)広場で出会った新婚さん         (中)百貨店内部でも記念撮影         (右)大型リムジンで市内名所を巡る

 赤の広場を後にして向かったのは、新婚さんの言っていた雀が丘。モスクワの街を見下ろす名所のようだが、木々が邪魔をして眺望はいまいち。ここにはモスクワのセブン・シスターズの一つの建物を持つモスクワ大学がある。
セブン・シスターズとは、スターリンが米国の摩天楼に負けじと建設させたスターリン・クラシック様式と呼ばれるビル群で市内に7つある。ソ連時代は官僚や市民のアパートメントとして利用されたが、現在は様々に転用されている。モスクワ大学のそれはその中でも最大級で1953年完成、236mある。

        
(左)雀が丘に建つモスクワ大学(セブンシスターズの一つ)(中)市内に建つ外務省もその一つ (右)雀が丘からの眺望はいまいち

 次に向かったのは、ノヴォデヴィチ修道院という女子修道院。クレムリンの出城の役割を担い城壁に囲まれている。この修道院に隣接する墓地にフルシチョフ、グロムイコ、エリツィン、チェーホフ、ゴーゴリ等著名人が眠っている。

 市内各所でよく見かけるのが、レンタル自転車のステーション。修道院前の公園にもステーションがある。ネット予約し、最初30分まで無料、以降課金のようだ。日本より進んでいますね。

            
(左)ノヴォデヴィチ修道院(クレムリンの出城、城壁に囲まれている)   (右)レンタル自転車のステーション

 滞在中、一日に一度は雨が降らないと気が済まないらしく、この後の夕食時にタイミングよく雷雨があった。今夕は「スヴォロフ」というお店でキエフ風カツレツをメインとする食事。お腹と相談して外の衣は食べずに中のお肉だけを食べていると、事情をご存知ない人は、どうしたの?と質問攻め。何とかお腹は回復基調になったようだ。

            
(左)レストラン「スヴォロフ」                    (右)前菜のサラダ?

            
(左)メインのキエフ風カツレツ(ナイフを入れると肉汁が)   (右)ロシアンティーとマロージナェ(アイスクリーム)
 
 モスクワでの宿舎は、コスモスという2000室近い部屋を持つ巨大ホテル。様々な人種が宿泊しており、私の部屋の近隣のインド人はパンツ1枚で廊下を闊歩している。ホテルロビーでフェンシングの世界大会のポスターが提示してあったが、帰国後太田選手の優勝を知る。部屋のバスタブに湯栓がないので、湯に浸かることが出来ない。どうもこのホテルでは部屋の湯栓は全て撤去されており、シャワーのみでの利用となっている。

            
(左)ホテル「コスモス」の名刺                  (右)2000室近くある巨大ホテル

            
(左)ホテルのロビーも広い                    (右)部屋(設備はいまいち)

            
(左)翌日から開催される世界フェンシング大会のポスター  (右)こんなショーもやってるそうです

 明日はいよいよこの度の最終日。クレムリンの探訪だ。完治を願いビオフェルミンを飲んでGood NIght。
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本場でバレエ(白鳥の湖)を初体験  -ピーテルー (異文化体験47 ロマノフ王朝文化に浸る旅8)

2015年09月17日 15時46分30秒 | 異文化体験_中・東欧
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本場でバレエ(白鳥の湖)を初体験  2015.07.10

 ペテルゴフの噴水芸術を堪能し、ピーテルに戻る車中、今宵のバレエ観賞の説明があった。料金は旅行代金に含まれているが、公演内容や劇場は定かでなかった。説明によるとミハイロフスキー劇場での白鳥の湖を観賞、開演は7時半、39名ものツアー客だけに席はばらけるとのこと。とりあえず、早く市内のレストランに着いて、夕食を済まさなくては。

            
(左)ペテルゴフからの帰路の高速料金所           (右)ネフスキー大通りのカザン聖堂

            
(左)ネフスキー大通りのゴスチーヌイ・ドヴォール      (右)同じくポールチク

 フォンタンカ河畔のサーカス(改装中)向いのレストランで、壺焼きシチューをメインとする夕食だが、スタッフが少ないのか食事の提供にムラがあり、開演時刻が迫ってきているので食後の飲み物をパスして、ミハイロフスキー劇場に向かう。

            
(左)フォンタンカのサーカス                     (右)夕食のレストラン「デジャヴ」

  
                  (左・中・右)壺焼きシチューをメインとする夕食

            
(左)ミハイロフスキー劇場近辺の施設:グランドホテル        (右)同じくロシア民族学博物館


 1833年創設のミハイロフスキー劇場は、1783年創設のマリインスキー劇場には及ばないが、ピーテルでは2番目に歴史のあるオペラ・バレエ劇場である。

  
(左)ミハイロフスキー劇場                (中)白鳥の湖(イメージ)            (右)マリインスキー劇場

 「白鳥の湖」は、チャイコフスキーにより作曲されたバレエ音楽、およびクラシックバレエ作品、1877年にモスクワ・ボリショイ劇場バレエ団が初演した。今でこそ「眠れる森の美女」、「くるみ割り人形」と共に3大バレエと言われるが、初演当初は極めて不評で一度はお蔵入りした作品。チャイコフスキーは1893年に没するが、その2年後1895年 サンクトペテルブルク・マリインスキー劇場バレエ団が蘇演、その後演出家たちによる様々な版が誕生し、今日的名声を得るようになったのだが、チャイコフスキーは残念ながらこのことを全く知らない。

        
(左)劇場演目ポスター前で記念撮影のロシア娘 (中)演目ポスター(SOLD OUTの襷が)    (右)今宵のチケット

 通常、清純な白鳥オデットと妖艶な黒鳥オディール役は、同じバレリーナが演じる。衣装(オデット=白、オディール=黒)が違うが如く、全く性格の違う2つの役を一人で踊り分けるのはバレリーナにとって大変なこと。特に32回連続のフェッテ(片足はつま先で立ち、もう一方の足をむちのように蹴り出して旋回する技法)など、優雅さと演技力、表現力、技術、体力、スピードすべてに高いレベルが要求される役である。

            
       (左・右)1833年建造のミハイロフスキー劇場

  
(左・中・右)愛称はマールイ劇場(小劇場) ちなみにボリショイ劇場(大劇場)はマリインスキー劇場

            
(左)お隣ボックス席には跨いでいける              (中)幕間の小休止・売店コーナー

            
(左・右)ボックス席の扉は、オートロック。そのカードキイ。なのにボックス席同士の境界は跨いで行ける

 今宵のオデット/オディール役は、第12回モスクワ国際バレエコンクールのメダリストで、ボリショイバレエで3年経験を積み昨年ミハイロフスキーに移籍、今はファーストソリストとして活躍する「アナスタシア・ソボレワ」。ジークフリード王子役は期待の若手「ヴィクトル・レベデフ」。

      
(左)「アナスタシア・ソボレワ」 (中左)今宵のキャスト  (中右)「ヴィクトル・レベデフ」  (右)20ルーブルの英語パンフ


 帝室ミハイロフスキー劇場として誕生し、ソ連時代はレニングラード国立歌劇場と呼ばれ、ピーテルの人々に愛され続けているこの劇場。小生は3階のボックス席から観賞。定員3人のボックス席、部屋の扉は何とオートロック式。しかし、隣のボックス席へは境界を跨いでいけば難なく行ける。カードキイを貰ったがどういう意味があるのだろう。正装して観賞する人もいれば、我々のようなラフな旅行姿のものもいる。

            
(左)幕後の拍手・喝采に答える舞台       (右)左よりミハイル・ベンシチコフ アナスタシア・ソボレワ ヴィクトル・レベデフ

 全4幕、2時間半の公演がブラボーの嵐の中で終わったが、今宵のミハイロフスキー劇場バレエ団、何と2016年新春来日公演が決まっているそうだ。

            
(左)終演後の劇場前広場(NOフラッシュ撮影)             (右)白夜の中をホテルに戻る

 10時過ぎのミハイロフスキー劇場前には、興奮気味の人達が次々出口から出てくる。サンクトペテルブルグの夜はまだまだ薄明りの白夜状態だが、バレエ鑑賞の余韻に浸りながらホテルに戻る。

 明日の朝は早い。次なる目的地モスクワに移動だ。
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噴水の都 ・ ペテルゴフ   -ピーテル- (異文化体験47 ロマノフ王朝文化に浸る旅7)

2015年09月10日 17時49分46秒 | 異文化体験_中・東欧
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噴水の都 ・ ペテルゴフ  2015.07.10

 サンクト・ペテルブルグから西へ29km、噴水芸術の都「ペテルゴフ」がある。
 今回の旅行でエルミタージュに次ぐ訪問してみたいサイトである。土木工学の語源が築土構木なら、さしずめ築土構水、土水工学という言葉があってもいいのではと思うが。
しかし、原理は芝居小屋の水芸と何ら変わらないので、それを広大な大地をキャンバスに描いたところに面白さがある。

⇔ 噴水を詳述した日本語解説本 (黄金像は「獅子の口を裂くサムソン」) 

 フィンランド湾の南岸に夏の離宮としてピヨートル1世自らが宮殿建築のみならず、噴水庭園の設計・建設に加わったというペテルゴフ。創設以来、200年をかけて様々な時代に10棟を超える宮殿や1000㏊に及ぶ庭園と150基に及ぶ噴水が建造されてきた。

 ⇔ ペテルゴフ入口 夏宮の宮殿教会側から入る(宮殿内撮影禁止)

宮殿はエルミタージュ(冬宮)やエカテリーナ宮殿同様、夏の離宮として供せられ、よく似た内容だが撮影禁止である。

夏の観光客の興味は、やはり宮殿の外の世界にある。そこで、300年にわたり動き続けている噴水、そのメカニズムと水遊びの精神に少しでも触れてみたい。

まず、ペテルゴフの全体を鳥瞰してみよう。宮殿のある高台に設けられた庭園を上庭園、高台の下の庭園を下庭園と呼ばれている。
この地をペテルゴフ建設に選んだ理由は、南およそ20kmのところに地下水脈を源とする泉が沢山あること、そこから水を引き寄せることが可能であること、が主な理由。

            
(左)ペテルゴフの案内図                     (右)ペテルゴフの上空写真 (いずれも日本語本より)

1721年、ロプシャ高地の泉から上庭園の貯水池へ水を引き込む閘門と掘割の工事が始まった。全く人為的力を加えることなく、水が流れ込み、上庭園の噴水に配水されるが、上庭園で創り出せる水柱高さは水圧の関係で大したものではなかった。 一方、高台の下庭園では16mの落差を利用した水圧で、多くの噴水にもかかわらず見事な飛沫となって空高く舞い上がっている。

15m高さまで噴き上がる噴水、一見贅沢の限りに見えるが、ここには節約の技術も取り入れられている。水柱の中は実は空洞となっており、噴射部の水管に円錐が逆さに嵌め込まれ、高い水圧の水がこの噴射部水管と円錐の間の円形隙間から勢いよく出る仕掛けになっている。

  
(左)「大滝とペテルゴフ大宮殿」1845水彩画      (中・右)宮殿前のテラスから大滝、海の運河を望む

 何といっても圧巻は、カスケード「大滝」。現在我々が見ている大滝になるのに、100年ほどの年月が費やされているようだ。「海の運河」は1715年の宮殿建設と共に工事が始まり、離宮への海からの玄関として当初から構想されたもの。1723年ロシア宮廷付フランス大使は以下の言葉を残している。
「ピヨートルは我らを運河の岸で迎えり。この運河、宮殿と海を繋ぎ、長さが1000歩、横が20歩、伸びること一直線をなす。石を組んで作られしものなり。水門も擁す。船団の出入りに極めて便利なり。水は素晴らしき噴水よりとうとうと流れ込み、この噴水もまた、様々な金箔の像にて彩られし様、運河に相応しく豪華なり。」

  
(左)撮影スポットに必ずいます   (中)16mの高低差を持つカスケード「大滝」  (右)大滝 下半円形プールからの眺め

            
(左)大滝の中心は5つの下洞窟(写真では3つが見える) (右)「獅子の口を裂くサムソン」下公園の最強噴水(解説本表紙)

                               
(左)金色に輝く装飾彫像の一つ「カリビゴスのヴィーナス」    (右)時間をかけてゆっくり近くで見たい芸術作品です

 海の運河によって102㏊の下庭園は、便宜上東・西サイドに分けられる。我々は、時間の関係で東サイドを中心に見学した。
 大滝から東に進むとすぐに噴水「碗(フランス噴水)」がある。ここから斜めに海側に進むと噴水「アダム」があり、これは海の運河の反対側の噴水「イヴ」と対をなすものである。

            
(左)東公園の噴水「碗(フランス噴水)」(後方は宮殿教会)  (右)噴水「アダム」(西公園には噴水「イブ」がある)

ここから更に森の中を東に進むとピヨートル1世像のある十字路に着く。不思議なことにこの辺りに生息するカラスが何と灰色と黒のツートンカラー。十字路の近辺には悪戯の噴水がいくつかある。「パラソル」や「小さなエゾマツ」等がそれである。

            
(左)この公園に生息するカラスは、ツートンカラー         (右)ピヨートル1世像

            
(左) 悪戯の噴水「パラソル」                      (右)悪戯の噴水「小さなエゾマツ」    

また、東側海の突端のモン・プレジール宮殿近くの噴水「太陽」は、極めて珍しい技術的にも複雑な噴水で、弧を描いて水を放つ16頭のイルカに囲まれた柱の頂部には黄金の回転円盤がありそこから放射状に飛沫が上がり太陽光線を思わせている。

            
             (左・右)  噴水「太陽」  技術的にも複雑な回転噴水

 ピヨートル像を南へ、離宮側に戻ると二つの「ローマ噴水」がある。大理石台座の上に巨大な円盤が鎮座し、5筋の水飛沫が上がっている。噴水に気を取られてスリの被害に会わぬよう注意看板が目につく。

         
(左・中)「ローマ噴水」大理石台座の上の巨大円盤から5筋の噴水(対で形成している)  (右)スリに注意の看板

 そして、そのすぐ南側にカスケード「チェス盤の丘」がある。ローマ噴水に水を送っているのもこの「チェス盤の丘」だ。上下両端に洞窟への入口があり、上の入口は3頭の龍で護られている。一瞬バルセローナ・ガウディのグエル公園が脳裏を横切った。両脇階段にはイタリア製の古代神の大理石像10体が立ち並ぶ。

            
          (左・右) カスケード「チェス盤の丘」(上のローマ噴水に給水している)

 ここから離宮出口方面に向かって坂を上っていくと、右手下の方に大温室が見える。この温室の前に温室庭園が整備され、その中央に「温室噴水」がある。トリトンに口を割り裂かれた海獣の口から勢いよく噴水が上がっている。

            
(左)大温室と温室庭園 中央に温室噴水            (右)出口すぐの売店 アイスクリームもよく売れる 

 午前のエカテリーナ宮殿、そして午後のペテルゴフと結構歩いた。今宵はこれからサンクト・ペテルブルグに戻り、夕食の後、本場バレーの観賞である。

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ツァールスコエ・セローとエカテリーナ宮殿 -ピーテル- (異文化体験47 ロマノフ王朝文化に浸る旅6) 

2015年09月03日 18時50分56秒 | 異文化体験_中・東欧
写真はクリックで拡大します

ツァールスコエ・セローとエカテリーナ宮殿  2015.07.10

 ホテルを9時半に出発し、ピーテルの南約25kmのツァールスコエ・セローに向かう。ロシアの高速道路は最高速度規制が110km/hだが、日本同様+20km位で走るのでどの車も130km以上のスピードが出ている。しかも結構年季の入った車も多いので衝撃映像を集めたTV番組でロシアの交通事故が多いのに納得する。

 ⇔ ロシアの高速道路制限110km/h, ゆえに130~140km/hで走行。

 公園宮殿ツァールスコエ・セローは、エカテリーナ公園とアレクサンドル公園という2つの巨大(300㏊)な公園に展開される公園芸術で、様々な宮殿は歴代皇帝の夏の住まいとして利用されてきた。その宮殿の代表格がエカテリーナ宮殿である。

             
(左)ツァールスコエ・セローの日本語本     (右)300ヘクタールに及ぶ広大なツァールスコエ・セロー

 最初の宮殿は1724年ピヨートル大帝の妃、エカテリーナ1世のために建設され、その名が宮殿名となっているが、その後何代にもわたって増改築がなされ、美術的全体像が出来上がったのは19世紀初頭とのこと。
 宮殿への入口は宮殿教会の横のゲートから入るが、ゲート前の路上には各国の音楽を奏でて小遣い稼ぎをする演奏家たちがいて、幸い我々のグループには日本の音楽を奏でたので中国人と間違われなかったと一安心。安心できないのは空模様。黒い雲が迫ってきて時折大きな雷鳴が聞こえる。

           
(左)エカテリーナ宮殿正面                (右)エカテリーナ宮殿内部構成(右の宮殿教会の上が入口) 

           
(左)入口切符売り場横で小遣い稼ぎの演奏家たち      (右)宮殿教会の金色に輝く円屋根

  
(左)外壁300mとも言われる宮殿中庭を入口へ  (中)宮殿正面入口             (右)宮殿の外壁装飾

 早速、宮殿内部を見てみよう。現在30のホールが見物対象になっているが。最大の見どころは初期17の間で構成された「黄金のアンフィラーダ」。見どころは、特に「大広間」と「琥珀の間」の2つである。

 まず、中央階段を2階に上がっていく。エルミタージュの大使の階段ほどではないが、白壁に様々な装飾や時計が見事である。

           
(左)正面階段                            (右)正面階段北側壁の装飾時計

 まず最初の見どころの一つ「大広間」。ここは、井上靖著「おろしあ国酔夢譚」の大黒屋光太夫がエカテリーナ2世に謁見した間として知られている。映画もここで撮影されたとか。大きな窓と鏡の連続性に風変わりな黄金の室内装飾、更にロシアの勝利をモチーフにした天井画、寄木細工の床等々、見事な大広間である。更に、これに美しい女帝(女帝とのツーショットは1枚につき200ルーブル=600円必要)まで加わると、当時の雰囲気が伝わってくる。しかし、この広間には長蛇の列が出来ていて、この広間の先の「琥珀の間」への入場クッションに使われもいる。

           
(左)大黒屋光太夫がエカテリーナ2世に謁見した大広間         (右)黄金に輝く彫刻装飾

           
(左)黄金のアンフィラーダの中心 860㎡の大広間          (右)天井画(ロシアの勝利)

           
(左)左壁側に次の間見学の順番待ち列              (右)女帝との記念ツーショットは200ルーブル

 琥珀の間への間に、目覚める天使、眠れる天使の像や騎士の食堂の間、皇族の肖像画等がある。

  
(左)騎士の食堂の間             (中)眠れるキューピッド像        (右)白の主食堂

                     
(左)エリザヴェータ・ペトローヴナの肖像画(1758)      (右)エカテリーナ1世の肖像画(1726) 

 もう一つの見どころ「琥珀の間」は、部屋全体が琥珀で覆われた珍しい部屋。この琥珀は1716年プロイセン王がピヨートル大帝に贈ったものをエリザヴェータが冬宮からここに運び、装飾の手を加えて琥珀の間を作成したが、第2次大戦時ナチス・ドイツ軍が持ち去り行方不明となった。しかし、2003年5.7tの琥珀を用いて、琥珀細工、琥珀モザイク画が再現され、大きな話題を集め、今日の観光スポットとなった。

                  
(左)琥珀の間(写真撮影禁止ゆえ部屋に入る扉の前で撮影)    (右)モザイク装飾された琥珀の間(解説本より)

 絵画の間やアレクサンドル1世の客間等を経て、宮殿の外、エカテリーナ公園側に出る。このツアーでは公園を散策する時間はないようだが、宮殿の真正面にフランス式庭園が広がり、その先にエルミタージュも遠望できる。

   
(左)絵画の間    (中左)アレクサンドル1世の肖像画  (中右)緑の食堂     (右)給仕の間 見事な寄木床

 ⇔ 戦時中ドイツナチスにより荒れ放題の宮殿

  
(左)宮殿を出てエカテリーナ庭園側に出る    (中)宮殿正面のフランス式庭園    (右)庭園奥のエルミタージュの一部


 雲行きが怪しくなってきた。小雨がパラつき出し、依然として時折雷鳴も聞こえる。バスの駐車場に向かう途中で大粒の雨になった。一時避難で全員土産物屋に入っての雨宿り。しかし、路上には合羽や雨傘をさして大勢の人が入場待ちしている。何と辛抱強い人達よ!と感心して見ているが、雨は更にバケツをひっくり返した状態に。これが30分近く続くと、さすがに列も縮小したが、それでも頑張る人がいるのには驚いた。

 ⇔ 雨宿りのお土産屋で買ったキイホルダー

 昼食は、公園近くのお店で「ポルシチ」と「ピロシキ」それにご飯ものを食す。ピロシキは、大阪ミナミのグリコの看板で有名な戎橋南詰にロシア料理屋があり、ここのピロシキが美味くてよく買って帰ったが、日本では揚げパンのピロシキも本場では焼きパンだ。

           
(左・右)公園近くのレストランでランチ 店の名前は「ロシア紅茶?」 右写真がお店の入口です

           
(左)ビーツのスープ「ポルシチ」と焼きパンの「ピロシキ」     (右)メインのようです 名前不詳

 雨も上がり、午後はあの噴水芸術で有名なペテルゴフヘ、いざ出発。
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ピーテル あちこち ーサンクトペテルブルグー (異文化体験47 ロマノフ王朝文化に浸る旅5)

2015年08月30日 18時28分40秒 | 異文化体験_中・東欧
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ピーテル あちこち  2015.07.09

エルミタージュ美術館におよそ5時間ほどの滞在の後、向かったのは「血の上の救世主教会」。公式名:ハリストス復活大聖堂。

    
(左・中・右)グリボエードフ運河沿いに建ち、色とりどりの玉葱坊主を持つ「血の上の救世主教会」 

 モスクワ赤の広場の「ワシリー寺院」(ポクロフスキー聖堂)とよく似ているので混同されるようだが、ワシリー寺院は古く16世紀半ばの建設。血の上の救世主教会は、農奴解放令を出し解放者と言われたアレクサンドル2世が1881年テロリストの爆弾に倒れ、その息子アレクサンドル3世がその現場のグリボエードフ運河沿いの道路上に建設したのがこの教会。従ってワシリー寺院より先進の建築技術が駆使され、明るく広い内部空間となっている。

      
(左)総面積7000㎡と言われるモザイク壁画の内部  (中)天井にもびっしり  (右)中央クーポラの「全能者ハリストス」

      
(左)中央の主祭壇               (中)右側祭壇       (右)ネーステロフの原画による復活したキリストのモザイク画

                  
(左)保存されているアレクサンドル2世の暗殺現場   (右)皇帝、女帝姿のモデルたちがあちこちにいます

 玉葱坊主の石と煉瓦の色とりどりの外壁もさることながら、内部に入って圧倒されるのが総面積7000㎡と言われる全ての壁や柱を覆い尽くすモザイク壁画。とても幻想的な雰囲気を醸し出している。主祭壇の右側にネーステロフの原画による復活したキリストのモザイク画がある。また、中央クーポラ丸天井には「全能者ハリストス」と大天使が見下ろしている。
 大混雑の教会内、見事なモザイク壁画を見上げているうちに大事なものが無くなる名所でもあるとか。しっかり用心して観賞するべし。


  
(左)芸術広場前のお土産屋「ONEGIN」 (中)我が家の昔買ったマトリョーシカ   (右)今は店頭に多種多様な人気者マトリョーシカ

 次に向かったのは芸術広場近くのONEGINというお土産屋さん。ロシア土産と言えばマトリョーシカ、最近はプーチンや有名サッカー選手のものもある。皆さんがお買い物中、土産物屋の前の「芸術広場」を散策する。ここには「プーシキンの銅像」が立ち、その奥に「ロシア美術館」(ミハイロフ宮殿を使用)がある。この美術館には是非見たかったレーピン作の「ヴォルガの船曳き」があるのだが、残念ながら入口までで観賞する時間はない。

          
(左・右)ロシアで一番人気、芸術広場のプーシキン像(後方の建物がロシア美術館)

          
(左)ミハイロフ宮殿を利用した「ロシア美術館」       (右)見たかったレーピンの「ヴォルガの船曳き」


 次に向かったのは、宮殿橋の北詰「ストリェールカ」と呼ばれる場所。ここは広大なネヴァ川の左サイドに「ペトロパブロスフク要塞と122mの鐘楼が一際目立つその聖堂」、右サイドに「4つの建物がつながるエルミタージュ」を望む絶好のビューポイント。
 ここにはまた「ロストラの燈台柱」がある。船首を意味するロストラ、戦勝記念に敵の船首を切り落とし柱の飾りにしたという古代ローマの習慣だそうな。ここの柱には、4つの彫像がありロシアを代表する4つの大河(ネヴァ、ヴォルガ、ドニエプル、ヴォルホフ)を表している。

  
(左)ストリェールカから見るネヴァ川と両岸  (中)左岸の「ペトロパブロスフク要塞」     (右)右岸のエルミタージュ美術館

 ⇔ 「ロストラの燈台柱」 4つの彫像はロシアの4大河川


 最後に向かったのが、海軍省河岸通りから「青銅の騎士像」を左に見て「デカブリスト広場」の先の「イサク聖堂」。青年貴族たちが起こした反乱、デカブリストの乱に由来する広場には、ピヨートル大帝の後継者たるエカテリーナ2世が立てた大帝の有名な銅像「青銅の騎士像」がある。台座には「エカテリーナ2世からピヨートル大帝へ」と彫文されている。一方、イサク聖堂はロシアのシンボル的な大聖堂。写真撮影だけの小停車で見学は出来なかったが、この巨大聖堂建設に数万本の杭が打ち込まれ土台工事に5年を要したようだ。このイサク聖堂の前には、「ニコライ1世の馬上像」がある。

  
(左)「デカブリスト広場」と青銅の騎士像  (中)イサク聖堂とニコライ1世の馬上像   (右)ロシアのシンボル的大聖堂「イサク聖堂」

 どうしても青銅の騎士像の写真を撮りたい私は、写真小停車の間に500m離れた像まで駆け足。往復1kmを走って息せき切ってバスに戻ると、添乗員のS嬢が行方不明の私を探し回っている。少し、皆さんを待たせたようだ。というのも、この後は夕食レストランへ行く予定。美術館では軽食の昼食しか取れなかったので、皆さんお腹を空かせている様子。待たせて御免なさい!である。

  
(左・中)台座に「エカテリーナ2世からピヨートル大帝へ」と彫文されている「青銅の騎士像」  (右)夕陽の要塞を背景に記念写真? 

 今日の夕食、メインはサンクトペテルブルグのストロガノフ家の家庭料理、ビーフ・ストロガノフ。肉ときのこをホワイトソースでじっくり煮込んだ料理、マッシュポテトと共にいただいたが、お腹が空いていたので量がもうちょっと欲しいねとテーブルを同じくする者同士囁きあう。

          
(左)前菜と思われるピクルス類            (右)肉ときのこをホワイトソースでじっくり煮込んだビーフ・ストロガノフ

 明日は、郊外のエカテリーナ宮殿の大黒屋光太夫謁見の間、またペテルゴーフ(夏の宮殿)のポンプを使わない噴水芸術が待っている。
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エルミタージュ2 王朝文化と買い漁った名画 -ピーテル- (異文化体験47 ロマノフ王朝文化に浸る旅4)

2015年08月22日 22時16分31秒 | 異文化体験_中・東欧
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エルミタージュ(2) 王朝文化と買い漁った名画   2015.07.09

 早速、エルミタージュ2階の名画たちを見てみよう。
 ほとんどの入場者が名画を何とか写真に収めようとするのだが、額縁のガラスに外陽が反射して多くの場合真正面からの撮影が出来ない。また、その数も多過ぎて最初は撮影に熱心なのだが、そのうち撮影をやめてしまう。かく言う私もその一人。

      
(左)冬宮2階のの空中庭園          (中)レンブラント「放蕩息子の帰還」   (右)初期イタリアホール

              
旧エルミタージュ レオナルドダヴィンチの間       ダビンチ「聖母と幼子」(左:ベヌアの聖母 右:リッタの聖母)

          
(左)ティツィアーノ「悔悟するマグダラのマリア」 (中)ラファエロのロッジア  (右)ラファエロ「聖母と幼子(コネスタービレの聖母)」

    
(左)作者? イルカと少年        (中)ミケランジェロ 「うずくまる少年」   (右)新エルミタージュ 大天窓の間

         
(左)ゴヤ「アントニア・サラテの肖像」  (右)エル・グレコ「使徒ペトロとパウロ」


 さて、比較的新しい19~20世紀の名だたる画家の名画は、一度エルミタージュから外に出て、旧参謀本部の中の新たな展示スペースでこれらの名画を観賞することになる。 
 これは、エルミタージュ250周年のプロジェクトの一つのようで、現在も展示スペース設置作業が進められている。

 ここに紹介した写真撮影された作品群で作者、作品名、画題がわからないものがあります。もし、ご覧になった人の中でご存知の方がおられれば、是非是非お教えいただきたいと願っています。ブログ・コメントでお願いします。

  
(左)冬宮を離れ旧参謀本部の新展示場へ     (中)ロシアの若者達の集団            (右)旧参謀本部の建物

              
(左)ドガ「踊り子」          (中)セザンヌ「煙草を吸う男」        (右)ピカソ 作品名?

        
(左)マチス 作品名?     (中)マチス「赤のハーモニー」             (右)ゴーギャン「パラウ・パラウ」

          
(左)ゴーギャン 作品名?             (中)ルノアール 作品名?     (右)ルノアール 作品名?

          
(左)モーリス・ドニ 作品名?   (中)アンリ・エドモンド・クロス 作品名?      (右)作者? 作品名?

          
(左)旧参謀本部内に整備されつつある新展示場  (中)宮殿広場            (右)冬宮 宮殿教会のクーポラ装飾


 エルミタージュの美術品、芸術品は、他の多くの美術館や博物館のように戦利品、戦勝品として持ち帰ったものではない。何故、これだけの品々が王朝コレクションとして集められたのか、その背景を考えてみよう。

     
(左)新エルミタージュの男像柱のある柱廊玄関   (右)エルミタージュ劇場

         
(左)ロマノフ王朝 系図                      (右)エカテリーナ2世

 エルミタージュ美術館の中核をなす冬宮は、1754-1762年ピヨートル大帝の娘エリザヴェータ女帝の依頼でイタリア人ラストレッリが建設、エリザヴェータはその完成を見ることなく他界するが、以降歴代皇帝の居城となった冬宮には8人の皇帝が住んだ。
特に、大帝の孫嫁にあたるエカテリーナ(エカチュリーナと同じ)2世が、1764年に225点の西洋絵画を購入、これが今日のエルミタージュ美術館の創立日とされている。
その背景には、タタールの軛(くびき)によってヨーロッパ文化から切り離され、ヨーロッパからは野蛮な国とみなされたロシア、一方国内的にも依然としてごく少数の貴族と大多数の農奴の国であったロシアを一流国にしたいという想いがあったのだろう。

ピヨートル大帝そのものが、「ロシア的なもの」が充満するモスクワを離れ、サンクト・ペテルブルグ(ピーテル)をヨーロッパへの窓口とし、ヨーロッパへの仲間入り、西欧化政策を開始したが、そのような背景思想が受け継がれたのであろう。しかし、これらは貴族と農奴の国、かつ専制君主の国だからこそなせる業であったのであろう。
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エルミタージュ1 王朝文化と買い漁った名画 -ピーテルー (異文化体験47 ロマノフ王朝文化に浸る旅3) 

2015年08月18日 16時59分28秒 | 異文化体験_中・東欧
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エルミタージュ(1) 王朝文化と買い漁った名画  2015.07.09

 「エルミタージュ(隠れ家の意)」を博物館というべきか、美術館というべきか。私はあえて博物館と言いたいのだが。300万点とも言われる美術工芸品もさることながら、かつての宮殿建築の素晴らしさも加味すれば、博物館が適しているように思う。しかし、一般には美術館で知られているので、ここでもエルミタージュ美術館と呼ぶことにする。

  
(左)宮殿広場右側に冬宮(エルミタージュ)      (中)エルミタージュ全景          (右)宮殿広場左側に旧参謀本部

 ホテルを10時に出発し、「宮殿広場」に到着したのは10時半ごろ。右手に「エルミタージュ」、左手に「旧参謀本部」の巨大な建物に囲まれた広大な広場の中央には、ナポレオン戦争の勝利記念の「アレクサンドルの円柱」がそびえている。

          
(左)美術館案内書(上から旧参謀本部、アレクサンドルの円柱、エルミタージュ)  (右)1階の案内

          
(左)2階の案内(見どころ沢山)               (右)3階の案内(多くは旧参謀本部内に移設展示)

 エルミタージュ美術館は、4つの建物から成り立っている。ピヨートル大帝の娘エリザヴェータ女帝によって建てられた「冬宮」を中心に、「小エルミタージュ」、「旧エルミタージュ」、「新エルミタージュ」からなる巨大複合美術館である。
ヨーロッパを訪問する機会の多かった私は、各国の名だたる美術館、博物館を見て回ったが、これほどの展示空間と展示内容が多彩な美術館は初めてである。

 エルミタージュ美術館の誕生は、一般的にエカテリーナ2世が1764年ベルリンの商人ヨハン・エルンストから西欧絵画コレクション225点を購入した時とされており、美術館では現在250周年記念行事が続いている。
(IBM支援による立派なHPが出来ている。ホームページ:http://www.hermitagemuseum.org/wps/portal/hermitage/)
 (左)エルミタージュ美術館のホームページ

 美術館入館に際し、いくつかの注意点がある。一つは大きなバッグ(A4大程度やリュックサック)は持ち込めずクローク預かりとなるので小型バッグを利用すること、写真はノーフラッシュであればほとんどの場所が撮影可能。宝物庫の見学には一般入場券とは別にチケットが必要、等々。

       
(左)美術館入館チケット(宝物庫11時予約)   (中)入口装飾             (右)日本語解説書(何種類かあります)

 我々の宝物庫の見学予約時刻が11時。それまでの間、新エルミタージュ1階の古代エジプトの間やユピテルの間を見学。これらの常設展示の説明は資格を持った外部説明員が可能のようだが、11時からの宝物庫の説明は美術館員が直接行う。我々のグループの美術館員は極めて熱心に長時間の説明をしてくれた。宝物庫の写真撮影は禁じられており、HPから一部ピックアップして掲載した。

  
(左)1階 ユピテルの間       (中)ローマ神話の大神ユピテル像   (右)アルタイ・コルィヴァニの大装飾瓶

  
(左・中・右)宝物庫(写真撮影禁止)の所蔵品の一部(ホームページより)

 エルミタージュ美術館には、レストランと称せられるものがなく、カフェで簡単なサンドウィッチと飲み物程度で済ますことになる。お昼時はインターネットカフェ周辺は、人でごった返しており、ゆっくり食事・休憩することも出来ない有様だ。

 (左)インターネット・カフェ(軽食しかない、お昼時は大混雑)

 午後は、いよいよ2階の華麗な宮殿装飾とイタリア・オランダ・フランドル・スペイン等の世界的名画との出会いが始まる。4つの建物は複雑につながっており、正直説明員なしで効率的に見て回るには技能や経験が求められる。

  
      (左・中・右)圧倒される絢爛豪華な冬宮の正面玄関(大使の階段ともヨルダンの階段とも言われる)

          
(左)ピヨートルの間(小玉座の間)     (右)イタリア人画家による「ピヨートル1世とミネルヴァ(女神)」)

      
(左)ロシアの美少女       (中)美術館から見たネヴァ川の風景      (右)1000㎡超の冬宮最大のホール「紋章の間」

                  
(左・中)1812年祖国戦争(対ナポレオン戦争)の間とアレクサンドル1世の肖像(正面奥)  (右)当時貴重な孔雀石の装飾品

          
(左)大玉座の間(ゲオルギウス(ロシアの守護聖人)の間)  (右)玉座(ロマノフ朝の紋章 双頭の鷲)

  
(左)パヴィリオンの間            (中)ジェームス・コックス(英)の孔雀時計     (右)床の見事な8角形のモザイク 

 (左)旧エルミタージュの階段(この隣の間から名画が始まる)

 3階には19~20世紀の著名な欧州美術作品(セザンヌ・ゴッホ・ルノアール・モネ・ゴーギャン・マティス・ピカソ等々)が展示されていたが、現在旧参謀本部の建物に新たな展示場所が整備されつつあり、そちらに移動しての観賞となる。これら2階の中世および旧参謀本部の近世の世界的名画については、エルミタージュ(2)で紹介します。
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ヨーロッパへの窓 -サンクトペテルブルグー  (異文化体験47 ロマノフ王朝文化に浸る旅2) 

2015年08月16日 23時11分33秒 | 異文化体験_中・東欧
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ヨーロッパへの窓 -サンクトペテルブルグ-   2015.7.08-11

 自宅を朝5時前に出て8時伊丹空港発のJAL機で成田、そしてモスクワに、更にS7航空S7043便でサンクトペテルブルグ、プルコヴォ国際空港に到着したのが、午後19時30分。時差を考慮すると、約20時間強が経っている。LADOGAというこじんまりしたホテルにチェック・インし、バスタブで疲れを癒し、寝床についたのは丁度一昼夜経った午後11時半頃。

      
                (左・右)ホテル・ラドガ(LADOGA)外観と場所

    
(左・中・右)日本人にとってウォッシュレットのない外国のトイレは辛いが、ここは多分ビデ(右写真)がその代用に。

 時差の関係で夜中に何度か目を覚ますが、北極圏までわずか700kmの当地では、窓外は白夜のようにいつまでも薄明るい。


  
(左)ピヨートル大帝時代のヨーロッパ  (中)上空写真        (右)ピーテルの初期の街づくり(1703年~)

 サンクト・ペテルブルグ、レニングラード、ペトログラード、沢山の名前を持つこの町も、今は「ピーテル」という愛称で市民に愛されている。
 200年間(1713-1918)、ロシア帝国の首都として栄えたピーテルも、その誕生は1703年のことである。当時の強国スウェーデンの勢力圏内にあったネヴァ川河口三角州の湿地に、ヨーロッパに通じる窓口を造ろうとした人物がいた。それが、ピヨートル1世(大帝)である。タタールの軛(くびき)によって長らくヨーロッパ文化から切り離された国がヨーロッパへの窓を造ろうとしたのである。

        
(左)ピヨートル大帝         (右)大工姿に扮したピヨートル帝(通称:王様の船大工)      

 バルト海の東部、フィンランド湾の最奥部のこの地は、バルト海、ネヴァ川、ラドガ湖、更にロシア内陸部への水路網の形成という意味で戦略的重要性を有しており、更にノヴゴロド等ロシア発祥の地とも言える重要な場所で、それに目をつけたのがピヨートル大帝である。彼はどことなく織田信長に似ている。若い頃、西欧大使節団を送りながら自らも身を隠してその一員に加わり、オランダで船大工として技術取得を図るなど、やや天衣無縫な行動が見られる。

    
(左)初期のサンクト・ペテルブルグ     (右)うさぎ島のペテロパブロフスク要塞と尖塔が特徴のペテロパブロフスク聖堂

 街づくりは、まず、うさぎ島にペテロ・パブロフスク要塞を建設することから始まり、ペテロ・パウロ寺院等を建立、その後のピヨートル在位20年間に首都にふさわしい街に成長した。お手本にした街が水の都アムステルダムというのだが、ヴェネツィアにしろアムステルダムにしろ、ピーテルのスケール感とは比べ物にならない。ただ、この荒地での急な街づくりは多くの犠牲者を出し、更に松杭上の街は他と同様に今日でも沈下や洪水に悩まされ続けている。

    
(左)宮殿橋から見たネヴァ川(さしずめベニスで言えばグラン・カナル) (右)多くの橋は中央部が可動橋

    
(左・右)アムステルダムが手本という街中のカナル 多くの船が行き交う

    
(左)(冬宮の)宮殿広場(正面エルミタージュ)  (右)メインストリート「ネフスキー大通り」の百貨店

    
(左)ネフスキー大通りのカザン聖堂    (右)デカブリスト広場の青銅の騎士像とイサク聖堂

ロシアの文豪と言えば、日本ではトルストイ、ドストエフスキー等々が有名だが、ロシア国内で圧倒的人気を有するのが国民詩人プーシキン。彼の叙事詩「青銅の騎士」は、ピヨートルの街づくりへの想いを以下のように詩っている。

    
(左)芸術広場のプーシキン像   (右)青銅の騎士像 台座に「エカテリーナ2世からピヨートル大帝へ」

荒涼たる河の岸辺
壮大な想いを充ちて 彼は立ち 遠方を見つめていた。 彼の前を広びろと 河は流れ
流れに沿って ただひとつ 見るかげもない丸木の舟が走っていた。 
苔むした両岸の湿地帯には 赤貧のフィン族の住む丸太の小屋が そちこちに黒ぐろと見え 
霧にかくれた太陽の 光もとおさぬ密林が あたり一面 ざわめいていた。
彼は思った。 ここにこそわれわれは都市を築こう。 われわれがヨーロッパへの窓をあけ 
海辺にしっかと足をふまえて立つのはここだと 自然がきめてくれているのだ。 
やがて とりどりの旗を挿した客人たちが 未知の波濤を越えてここにやってくる。 
そのときは心のどこかで宴を張ろう。

(プーシキン「青銅の騎士」木村彰一訳(抜粋)、「サンクトペテルブルグ」小町文雄著 中公新書より)

日本の俳句や和歌の調べのように、このプーシキンの叙事詩はロシア語の流れで独特の調べがあるとロシアの人々が言うが、残念ながらロシア語を解さない私にはわからない。

さあ、明日からはロマノフ王朝、ピヨートル大帝が創った街をしっかり見てみよう!
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玉葱坊主とモスクワ空港今昔 -モスクワー (異文化体験47 ロマノフ王朝文化に浸る旅1)

2015年08月10日 15時22分04秒 | 異文化体験_中・東欧
(写真はクリックで拡大します)

玉葱坊主とモスクワ空港今昔 - モスクワ -  2015.07.08-13

 書店の旅行本コーナーでロシア本を探しても「地球の歩き方」か「るるぶ」程度で、このあまり人気のない旅先を選んだのには理由がある。

      
(左)モスクワの玉葱坊主「聖ワシリー教会」  (右)サンクトペテルブルグの玉葱坊主「血の上の教会」

 退職後、近隣大学の聴講を始めた初期に選択したのが、それまであまり勉強したことのないロシア文化であった。7年前のことである。聴講生は期末試験やレポート提出の義務はないのだが、ロシア正教会のあの玉葱坊主に興味があって、簡単なレポートを提出した。そのレポートが「玉葱坊主の一考察」で、私のブログにもアップした。
アドレスは、 http://blog.goo.ne.jp/skhr0247/e/c3a0d4d515bcafa6a02514191405a903
 この時、将来必ずこれらの教会建築を見てやろうと思い、それがやっとこの夏に実現した。


      
(左)1981年1月機窓から撮影したシェレメーチエヴォ国際空港    (右)同 空港

 さて、私が初めてモスクワに、正確にはモスクワ空港に降り立ったのが、今から35年前の1981年1月のこと。ルフトハンザ・ドイツ航空でフランクフルトに行く途中で給油のため降り立ったわけだが、当時はソ連上空を飛ぶ北回りヨーロッパ線は全てモスクワで一度降ろされていた。同様にアメリカに飛ぶ場合はアンカレッジで給油させられていた。

 当時のモスクワ空港は、シェレメーチエヴォ国際空港(現ターミナルF、1980年オリンピックに向け供用開始)で、その時の様子を書いたブログによると、
 「駐機場への移動の間に見えるターミナルビルは、どこかくすんだ感じの中に赤い色だけが異様に鮮烈である。見慣れぬ赤く塗装された飛行機も共産圏という先入観を掻き立てるに相応しい小道具となっている。給油の間の約1時間は、ロビーで待てという。通常貴重品は携帯するよう指示されるが、ここではカメラは携帯しないほうが良いらしい。
 なにはともあれ、狭い機内から開放された人々は広いトイレで用を足したいのが人情。しかし、数ヶ月前にオリンピックを終えたはずの空港ではあるが、まともな便器が半数とない。しかも、照明は薄暗く、閑散としたビル内に銃を肩にした警察か、軍隊か知らないが、コツコツ足音を響かせて巡回する様は、非常な圧迫感をツーリストに与えるものである。ロビーの売店には、重厚かつ実用的な毛皮製品、ウオッカ、タバコ、民芸品等が何の飾りもなく置いてある。2人の女性従業員は積極的に売るでもなく、ただただツーリストのリクエストに応じて通貨両替に余念がない。
 総じて暗いイメージの空港は、長い重い厳しい冬のなせる業だけでもなさそうな気がする。乗務員交代で当地に留まるはずのルフトハンザの若いスチュアデス始め、ほとんどの乗務員が何故か機内一番後方座席に私服で乗ってフランクフルトへ向かう。聞くと、「ここには泊まりたくない」。それほどにモスクワとフランクフルトは近くて遠いのである。」


 ⇔1992年7月のシェレメーチエヴォ国際空港

 その11年半後の1992年7月、再びシェレメーチエヴォ国際空港に降り立って見た驚きを当時のブログに書いている。

「ここが本当にモスクワかと疑いたくなる様相である。まず、目に飛び込んでくるのが「Duty Free Shop」の鮮やかな色彩の看板。外貨獲得のために色とりどりの多彩な西側商品が所狭しと並んでいる。値段は多少高い気がするが、ロシア土産にと手頃な10~20$程度の商品が結構売れている。レジに座るロシア娘までが明るい制服に身を纏い、笑顔を絶やさない。ちょっと奥まった所には何と!日本のうどん屋まであるではないか。
 経済の自由化は、ここ空港では西側とほとんど変わらないが、市内では勤労者の平均月収2000ルーブルの厳しい物不足の生活が続いていると言う。前回のフライトでは、誰も降りたがらない当地であったが、今回は当地での乗り換え客が沢山あったことを見ても、身近な存在になったことが窺い知れる。ペレストロイカ、それは10年後のロシアをどのように変えていくのだろうか?」



  
(左・中)老朽化に伴う新国際空港窓口のドモジェドヴォ国際空港             (右)乗り継ぎ便のシベリア航空(参考写真) 

 そして、今回のモスクワ空港。空港は新しい玄関口として整備されているドモジェドヴォ国際空港に変わったが、もはやどの先進国の空港と何ら変わらない賑わいと設備で、この後の国内観光を期待させるものであった。

  
(左)シベリア航空機   (中)搭乗券(13D⇒1D席に変更)とラウンジ券   (右)ワインリストの一部(私には無縁のリストだが)

 今回のツアーは、関空からではなく成田からモスクワへのJAL直行便利用である。関空からはソウル経由便があるが、お隣韓国は今伝染性ウイルス病で混乱しているためそれを避けての出発である。ツアーは、サンクトペテルブルグからスタートするので、ドモジェドヴォ国際空港で入国後、シベリア航空(S7ロゴ)のフライトに乗りかえる。S7はJALグループと同じワンワールドメンバー航空会社ということで、JGC・サファイアの小生は座席と機内サービスがアップグレードされ、得した気分でサンクトペテルブルグに向かった。
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