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旅行記、世相独言

我が開発地はモナコになりえるか?-モナコ-(異文化体験14 港湾空間を巡る旅8)

2011年06月27日 15時47分59秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

我が開発地はモナコになりえるか? -モナコ-  1992.7.26~28

 イタリア・リビエラ海岸に沿って列車が通る 

 ジェノヴァを定刻14:13に発車したDiretto2157は日本で言えば準急列車。1等車両は6人乗りのコンパートメントであるが、乗客は少なく独占状態。列車はティレニア海沿いに西にひた走る。進行方向左手にはイタリア・リビエラのリゾート海岸が続く。民宿に毛が生えた程度のホテルと色とりどりのパラソルが延々と続く。海岸はトップレスの陳列会。モナコ国境に近づくとリゾートの様相が一変する。音楽祭で有名なサンレモは高級リゾートの感が拭えない。

 イタリア・リビエラ海岸の民宿、プチホテル

 列車がヴェンティミリアに着くと沢山の人達が列車を降りる。隣のコンパートメントで一人旅の女子学生に「モナコはこのままで良いのか?」と聞くと、彼女も分からないらしくイタリア語で数人に聞いてくれた結果、我々の車両が切離されるので前の車両に乗り換える必要があると言う。

 大慌てで移ると、2等車両は若い学生で満員。ギターを弾きながら歌の合唱。そのうち国境警備隊の検札が始まるとパスポートチェック。小生には「ヤポーネ?」と言うので「シー」と言うとチェックもなし。

 
(左)断崖を切り開いたようなモナコの街(遠くALPSの冠雪峰々が) (右)棚田のような都市的風景

 列車内は何の放送もなく駅で止まり降りる人は自分で扉を開けて降りるといった具合で、小生の目はひたすら駅に着く度に駅名を追う。予定では19:28到着だが列車が遅れていて良く分からない。写真で見た記憶の景色が車窓に映り列車が止まる。駅が短すぎて駅名が分からない。例の女子学生に「Monte-Carlo?」と聞くと「そうだ!」と言う。慌てて降りると、他の旅行者が「Monte-Carlo?」と小生に聞く。こっちが聞きたい位なのに「たぶんね」と言って、やっと駅名を確認すると「MONACO Monte-Carlo」。やれやれ。

          
(左)新たにオープンしたABELLA HOTEL (右)ホテルの裏には断崖が迫る

 タクシーは何とベンツ、比較的新しい「Abella Hotel」へ。リラしか持ち合わせがないので運転手にリラでも良いかと言うと15000リラも請求してくる。フランではせいぜいその半額なのに。でも、ここは世界的な高級リゾート、チップもそれなりに・・・。

 案内役のマドマゼルYからの電話が午前10時丁度に部屋に入る。運転手付のベンツと彼女が2日間の視察に付き合ってくれる。早速モナコ市内に繰り出す。

 
モナコの代表的な景色(左)50haの内水面を取巻く市街地 (右)カジノ(左側)とホテル・ド・パリ(右側)

 モナコ湾内水面と我が開発地の泊地が丁度同じ大きさとあって、モナコのイメージを我が開発地に造ろうと構想している。しかし断崖にへばり付いた建物の立体感、海の綺麗さ、マリーナに浮かぶ豪華ヨット、蛇のようにくねる道路、下の建物の屋上が上の建物のテラスや公園、それらを利用した歩道とエレベータ、公共空間と私的空間の融合、どれをとっても研究素材に事欠かない。

 
 夜のグラン・カジノ周辺 正装した大人達が高級車で乗り付ける(Wikipediaより)

 わずか195haに人口32000人、しかもSBM(海水浴会社)がその1/12を所有し、その76%が庭園、11%が公道という。収入の50%が間接税、20%が国家専売権使用料、25%が輸出税、残りの5%がカジノ収入と、最近はカジノ依存率が極めて小さい。

 
  (左)モナコ大公宮殿の衛兵交代式            (右)海洋博物館

 財政規模は25億フラン(1000億円程度)の小国家は、その社会的ステイタスの高さでコンベンションと世界の富豪のリゾート地として活路を見出している。今から約100年前、19世紀末から第1次世界大戦の間を欧州では「ベル・エポック」と呼んでいる。古き良き時代、美しい時代として文化的頂点を極めた。当時そのメッカがここ「モナコ」であり、「モナコには手を出すな!」が彼等の合言葉であった。

       
(左)現大公(アルベール2世)の母、グレース・ケリー (右)彼女のために開発されたバラ「Princess de Monaco」

 Hotel De Paris, Hotel Mirabeau, Hotel Hermitage, Hotel Monte-Carlo等々、壮麗な建築美と社交界、レニエⅢ世とグレース・ケリーの世界、これらに匹敵するハードとソフトを我が開発地は造り出せるのか?

 
(左)街の中心 モナコ・モンテカルロ地区  (右)周辺部では建設の槌音があちこちから・・・・

 それにしても中産階級の一人旅ではどうしようもない街、モナコである。



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Colombo500とダイブ&キス -ジェノヴァ-(異文化体験14 港湾空間を巡る旅7)

2011年06月22日 00時46分18秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)


Colombo500とダイブ&キス -ジェノヴァ-  1992.7.24~26

       
(左)国際船と海の博覧会 入場チケット(コロンブスの肖像画が)  (右)博覧会のマスコット

 水上バスで再びベネツィアの玄関口サンタ・ルチア駅に戻り、特急列車IC656でロンバルディア州の首都ミラノまで3時間。リグーリア州の首都ジェノヴァまではバスで更に100km。

 
(左)EXPO会場のシンボル Bigo(ジェノバ方言で船の積荷を下ろすクレーンの名称) (右)会場風景

  
(左)ポルト・アンティーコの会場の鳥瞰図         (右)コロンブスの紹介パンフ

 今年はコロンブスが新大陸を発見(1492年)して500周年。これを記念してここ生誕の地ジェノヴァの旧港(ポルト・アンティーコ)で「国際船と海の博覧会」が開催されている。日本からは政府館として「羊蹄丸」、東京・大阪・愛知の各行政が共同ブースに出展する等、随分な力の入れ様である。

       
(左)Port Anticoに係留された日本政府館の羊蹄丸  (右)日本のパビリオンガイド

 しかし、スペインのセビリア万博や間もなく開催されるバルセロナ五輪等もあって、人出は目標300万人に対し100万人と芳しくない。この博覧会はレンゾ・ピアノ氏が本拠地の活性化を願って提案したと聞くが、元々港町のためホテルや他のインフラが質・量共に弱く、イタリア国内博の感が強い。

       
(左)坂の上の宿舎「Vittoria Hotel」 階段が・・・・  (右)階段を上がりきったロビー前の休憩?椅子

 宿舎「Vittoria Hotel」も一応三ツ星ではあるが、シャワーのみ。当然エアコンはなく、おまけに坂の上にあるホテルがゆえにそこそこ身にこたえる段数を上り下りしなければならず、暑いことこの上なし。ジェノヴァでは星勘定は一つ引き算をするのが常識だそうな。
 しかし、この家族的なホテルで味わったペスト・シュノベーゼ(バジリコにマツの実を加え、すり潰し、羊のチーズやオリーブ油で練った緑色のソース)のパスタは最高に美味かった。

      
(左)サン・ロレンツォ大聖堂   (右)現在のジェノヴァの中心 フェッラーリ広場
 

 ティレニア海に面するジェノヴァから西一帯の海岸はイタリアン・リビエラと呼ばれ、アルプスとアペニン山脈によって造られた渓谷地帯が続く。お昼に会場から車で10分程東に「Ponta Vagno」という岬の小粋なレストランが最高という情報を仕入れ数人で出かける。海に面した席に座ると直下の磯では海水浴を楽しむ人達が歓声をあげている。オリーブの味付けが気に食わないが海鮮料理に一応満足した後、もう少し先の海岸まで行こうと2台の車でNerviの海岸まで遠征。

 Ponta Vagnoの海辺のレストランにて

 いるわ、いるわ、小さな岩礁にへばりつくように日光浴する人、磯遊びする人。この辺りはいずれもこのような地形で、少しでも砂浜(と言っても小石まじりであるが)があると陣地の奪い合いになるのではないかと思う。

 上の道路から眼下のそのような人達を見ていると、下から若い男女がしきりに手を振ってくれる。その内の一人が「下りて来い」と言う。小生がビデオ撮影していたので難癖でもつけるのかと思いつつ下りていくと、「今からあの岩場からダイビングするから撮れ」と言う。

 ダイビングが得意のおじさん?、若者?年齢不詳

 本当かいな!と思いつつ見ていると、男は岩場をよじ登って行く。高さ30mはあろうかと思われる踊り場から、「行くぞ!」と言うなり、直下の青い海に真っ逆さまにダイビング。大サービスである。やんやの喝采を浴びて岩場に上がって来た男にVTRを巻き戻して見せてやると、大満足。もう一度やる!と本人が言うのでOKを出すと、今度はカメラを十分意識して再ダイビング。上がって来ると仲間のビキニの女性に抱きつき熱烈なキスまでサービス。いい加減にせい!

 岩場で日光浴の陽気な仲間たち
 
 でも、陽気なイタ公であった。海岸線にはリミニの海岸以上にトップレスが多く、明日のコートダジュールが待ち遠しい。

 コンテナ化の波がかつての港湾都市ジェノヴァを衰退の一途に追い込んでいる。Vittoria Hotelでの2晩に及ぶ博覧会事務局、レンゾ・ピアノ事務所の諸氏との懇談会も活性化の話に終始する。
 明日から調査団メンバーとはしばしのお別れ、モナコへの単独行となる。

 See you again in Paris!


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Canal Grande -ベネツィア-(異文化体験14 港湾空間を巡る旅6)

2011年06月13日 17時51分40秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

Canal Grande -ベネツィア-  1992.7.22~24


         
(左)ベネツィアへの入口サンタ・ルチア駅 (右)駅から歩くか、水上バスか、水上タクシーか

 ローマ広場でバスを降りると、今回の宿舎「Bauer Grunwald & Grand Hotel」までは水上バスで行く。狭い運河に行き交うゴンドラを避け、橋に身を縮め、路地の観光客に手を振りながら楽しむこと15分程で、サン・マルコ広場近くのホテルに横付けされる。今宵も有志でサン・マルコ広場に面した「Quadri」という由緒あるレストランで食事を楽しみ、食後はレストラン前の広場のカフェで音楽を楽しみながらジェラートで酔いを覚ます。

 
(左)「Bauer Grunwald & Grand Hotel」     (右)ホテル(左横)の船着き場の水路

 
(左)サンマルコ広場のレストラン「Quadri」    (右)レストラン内部、赤を色調の重厚な内装

 初めて訪れたベネツィア。カナル・グランデを中心に幾つもの迷路のようなカナル群。ゴンドラが行き交い、そこに響き渡るカンツォーネ。地上はサン・マルコ広場を中心に旧市街の狭い路地がカナル同様迷路のように伸び、土産物屋が軒を並べる。この街全体が正に巨大なテーマパークと言える。

 街の中心 カナル・グランデに架かるリアルト橋

 アミューズメント空間としてこの旧市街地を捉えると、一見成功しているかのように見えるが、生活排水の垂れ流しによるカナルの水質悪化、水位上昇に伴う膝までの冠水(最近では年に1回は発生するという)、カナル交通量の増大に伴う通行制限等、水上都市としての機能が揺るぎ始めている。
また、生活空間として見ても、400の橋で各地区が結ばれているものの、海上輸送手段しか持ち得ない現実、カナルが故に寸断される都市基盤施設等々、かなり効率の悪い都市活動が余儀なくされる。過去15万人が住んだこの街も、就業機会の減少や観光客の定住で、今や7万人弱になっていると言う。

 
(左)リアルト橋から見たカナル・グランデ     (右)ベネツィア名物ゴンドラ遊び


 過去、外敵から身を守るためにラグーン上に建設されたこの街は、今やショーアップされた観光都市へと変身した。大勢の観光客を過去の栄華に酔わせしめるこれほど楽しい街は数少ないが、この街の全ての建物、いや街全体を下支えする何万本、何十万本もの松杭や街のあちこちから、大改造を求める悲鳴が私には聞こえてくる。

          
(左)リアルト橋の袂に広がる露店市場街  (右)そのうちの一つ、魚屋さんの店頭

 けたたましい電話の音で叩き起こされ、電話に出ると添乗のS氏が「皆さん、お揃いですよ」と言う。時計を見るとなんと10時!「適当に先に行ってて!」どうも寝過ごしたようだ。どうせ今日は一日中この狭い旧市街の見物なのだからどっかで出くわすだろう、とゆっくり身支度して一人で散策に出る。

 二月のカーニヴァルの仮装仮面、仮面屋さんも沢山ある

 リアルト橋(Ponte di Rialto)から大運河でゴンドラ(30分で80000リラ程度)を楽しむ人々を見つつ、近くの市場を見物。見慣れぬ魚とそのさばきを見物し、スイカで喉を潤し、2月のカルナヴァーレの仮面や屋台の店を覗いていると時間の経つのも忘れる。
 小さなカナル沿いの路地裏で撮影中の建築家安藤忠雄氏にもばったり会う。「こんなとこで、何してまんねん?」「あんたこそ、なにしてんねん?」 久々に聞く大阪弁だ。

 
(左)街のもうひとつの中心、サンマルコ広場    (右)「Quadri」の前の「Cafe Florian」
 
 夕刻からはベネツィア国際水都センター事務局長を囲んでベネツィアの都市問題の懇談会。会食後、通訳をしてくれたお嬢さんがこれからミラノに帰るというので、有志がサン・マルコ広場の「Café Florian」で列車の時間調整。18世紀のプレイボーイ、カサノヴァがここの常連であったとか。同郷のO氏が張り切って駅までお嬢さんをお送りすると言う。
全員曰く「お年寄りだから、まあ、良いか!」

 海軍博物館の前に広がるベネツィア・ラグーナの景色


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柔らかい「チン・チン!」とトップレス -リミニ-(異文化体験14 港湾空間を巡る旅5)

2011年06月07日 13時56分02秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

柔らかい「チン・チン!」とトップレス -リミニ-  1992.7.22

 リミニへの道中 サンマリノ共和国「グアイタの塔」
 
 バスはフィレンツエからアペニン山脈を越えて、エミリア・ロマーニャ州の首都ボローニャを通過。ここからベネツィアへ向かう道をそれて、サンマリノ共和国方面に進路を取る。サンマリノは世界で5番目に小さな国家で最も古い共和国である。人口が2万人強で、切手・コイン・観光で知られた国。最近ではF1レースも行われ、集客に躍起である。
バスはサンマリノを更に東に走り、アドリア海の海岸にぶち当たる。そこがリミニ。

     
          アドリア海に面した一大リゾート地、沢山のリゾートホテルが。

 リミニは、夏の観光地としてヨーロッパからたくさんの人がバカンスに訪れ、「イタリアのマイアミ」とも呼ばれる国内最大の海水浴場だ。
 また、6月~9月は当地の語学学校にヨーロッパ各国から若者が夏休みを利用してイタリア語学習にやってくるので、若者の街ともなるようだ。
 海岸沿いにはホテルが並び、観光客は月単位で契約を行い長いバカンスを楽しむ。各ホテルはきちんと区画された海岸を所有しレンタル式のパラソルやチェアーが整然とビーチ一面に配置されている。

 イタリア映画界の巨匠フェデリコ・フェリーニの出身地

 ここリミニにローマの植民地が築かれたのは、紀元前3世紀半ば。旧市街には一見の価値ある歴史的建造物も多いようだが、残念ながら今回は時間がない。イタリア映画「甘い生活」「誘惑」「カサノバ」等、イタリアが誇る映画監督のフェデリコ・フェリーニの出身地でもある。

 
        白砂の海岸に見渡す限りビーチパラソルが並ぶ光景は圧巻である

 数十kmに及ぶ白砂の海岸線にぎっしりとパラソルが並んでいる光景は圧巻そのもの。プライベートビーチもあるようだが、パブリックビーチが大半。背広を着た集団がビーチに入ってきたものだから、ビーチで寝転んでいた人はビックリ。トップレスを見つけると一斉にカメラのシャッターが切られる。でも、そこは結構陽気なイタリア娘、怒ることもなく笑顔でポーズ。

 
  (左)ビーチのレストラン    (右)さすがにトップレスの女性を撮る勇気もなく・・・    

 海岸に面したレストランでボロネーゼ(ボローニャの人という意)お勧めの「スパゲッティ・アラ・ボロネーゼ」と魚料理を食する。ハウスワインで乾杯という時に、隣に座ったバスの運ちゃんが「チン・チン!」と言う。「チン・チン!」は、柔らかい表現の「乾杯!」の意だそうな。これ以来、食事時になると大きな声で「チン・チン!」が続くことになる。グラスの触れ合う音が語源のようだ。

 
(左)ビーチバレーなど、様々なインフラが整ったビーチ (右)リミニは港町でもある

 食後、出発までビーチをうろうろ。水着姿でバカンスを楽しむ人達を恨めしそうに見入っている。整備された屋外ロッカールーム、シャワー設備、ビーチバレー場や卓球場。これらの施設が1ブロック単位で実に数百と続いている。しっかり番号を覚えていないと大変なことになる。しかしパブリックでこれだけの施設整備がなされた海水浴場、日本のそれとは大違いである。これも社会資本の一つなのだろうか。
ことのついでに、イタリア水着ファッション情報。ほとんどがセパレーツ。しかも下はハイレグでカラフルなものが多い。上と下が色違いというのも結構多い。トップレスは全体の1割程度であろうか。うつ伏せに焼いている時は、皆さん跡が残らないように上を外している。

 ポー川、水溶性天然ガスと巨大な蚊の一大産地。

 リミニを後にバスは一路ベネツィアへ。ロンバルディア平原を流れてアドリア海に流れ込むポー川。河口は一面の湿地帯。一帯には世界最大の水溶性天然ガスが埋蔵されている。この辺りは蚊が多く、大きさも半端じゃない。刺されると痛いこと、この上なし。バスはいよいよ小生にとっての処女地、ヴェネト州の首都ベネツィアに入って行く。


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苦悩する古都 -フィレンツエ-(異文化体験14 港湾空間を巡る旅4)

2011年06月01日 17時26分47秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

苦悩する古都 -フィレンツエ-  1992.7.20~22

 
             ローマ~フィレンツェは、インターシティで2時間の距離

 ローマ、カフェ・ド・パリ4階のS社を訪問後、出発までの時間、夏物ファッションのお買物。原色のコットン地のドレスを素肌に着る大胆さが当地のファッションの原点。汚職問題でマフィアと警察が本格的対決姿勢を見せ、テルミニ駅には夥しい数のパトカーと警官が捜査中。駅でサンドウィッチと飲みものを買ってIntercity通称Rapid530のコンパートメントに乗り込む。トスカーナ州の首都フィレンツェまでは2時間の旅。

    
(左)快晴のミケランジェロ広場からフィレンツェ市街を望む (右)今回の宿舎サボイホテル(HPより)

 夏の盛りのミケランジェロ広場は花の都に相応しく花々が咲き乱れ、アルノ川とフィレンツェの街が一望出来る。今回の宿舎は繁華街の中央に位置する「サボイホテル」。

 夕食後、観光客で混雑する花の聖母教会・ドウモ周辺を散策。広場で似顔絵描きを見物していると「次にどう?」と誘われる。「いくら?」と聞くと「70000リラ」(5000円程度)、ちょっと高いと思い値下げ交渉、結局50000リラで成立。

     
        モデルもじっとしていると夕食時のワインが眠気を誘いついコックリコックリ。

 小生の担当はアントーニオという黒い髭を生やしたミケランジェロの再来を思わせる若者。20分ばかりで済むという話でスタートしたが、画材が良かったのか、アルコールが回ってうつらうつらするモデルに手こずったのか、描き上げた時には、同行の諸氏はとっくに終わってホテルに引き上げた後。

    
(左)ウフィッツ美術館前の通り    (右)Sandro Botticelli作「 La Nascita di Venere」

 翌朝はメディチ家の財力を結集したルネサンス芸術の殿堂Uffizi美術館とブルネレスキーの設計による175年の歳月を費やして建設されたDoumoの見物。ボッティチェリの「春」「ヴィーナス誕生」、ミケランジェロの「聖家族」等々と2年ぶりの再会を果たす。

      
(左)かつての政治上の中心シニョリーア広場 (右)宗教上の中心サン・ジョバンニ広場とドウモ広場

      
  (左)サン・ジョバンニ洗礼堂              (右)ジョットの鐘楼

 Doumoのクーポラ(天蓋)には、464段の階段で上がる事が出来る。午後一人でチャレンジ。旋回しながら徐々に勾配を増す急な階段を登り切るとフィレンツェの街の360度の展望が眼下に広がる。灼熱の太陽が照らし出す古都は、午睡を楽しんでいるかのように物音一つしない。心地よいアルノ川に沿って吹く風。薄い褐色に染まった屋根屋根。数百年の時間がまるで止まったかのような錯覚を覚える。

       
(左)ブルネレスキによる直径45m、高さ114mの巨大クーポラ (右)天蓋上部からの眺め(1)

 
 天蓋上部からの眺め(2&3) 午睡しているかのような街の静けさである
 
 どの建物もそれなりの歴史性を持ち、街そのものが美術館と言えるこの都市が、単なる観光古都だけでその維持も含めて都市活動を営むことが出来るのであろうか、2年前に訪れた際に市の都市計画官は維持費の増大に苦悩していたが、全世界の重要文化財の70%を持つイタリアの共通課題でもある。

     
(左)エノテカ・ピンチオーリでトスカーナ料理を味わう (右)最近、東京にも店を出したそうな

 二日目の夜は、有志で世界的にも有名な最高級レストラン「Enoteca Pinchiorri」でトスカーナ料理を体験する。10万リラのコース料理のみという案内であったが、見事な店のつくり、銀器でのサービス、本格的トスカーナ料理に大満足。野兎、Tボーンステーキのビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ、ボルチーニきのこ等々。東京にも最近店を出したそうだ。

 「Caffe Concerto」の野外ライブ

 食後ぶらぶらとホテルの方に歩いて行くと、何やら軽快な音楽が聞こえてくる。「Caffe Concerto」の庭の舞台でカンツォーネもどきのライブ。我が団員も何人かいる。我々もと陣取り、やんやの喝采で盛り上げると、超ミニのボディコン服に身を包んだ女性歌手が歌いながら寄って来ては、頬にキス、甘い香りに腕に伝わる彼女の体温。
 ああ、今夜も寝つきが悪くなる!




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