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旅行記、世相独言

五千年の時空を超えて現実世界に - エジプト - (異文化体験41 五千年の時空を超える旅12)

2014年06月09日 22時26分47秒 | 異文化体験_アフリカ
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5000年の時空を越えて現実世界へ ―エジプト― 2008.12.25-26

 ナイル川の流域に広がるカイロの街は、想像以上に近代都市と化し、5000年の時空を超える今回の旅も、高層ビル群に現実世界に引き戻される。エジプト最後の食事となる昼食は、ナイル川に浮かぶ「船のレストラン」でとることに。

            
(左)大河ナイルに開ける近代都市カイロ            (右)街中ではまだまだこんな姿が(自動車と馬車と人力車と)

 
            
(左)昼食場所の船のレストラン 雰囲気は良いが味はいまいち          (右)エジプト最後の食事 

 昼食後は、最後の訪問地「ハーン・ハリーリ」というバザールに向かう。
 14世紀に出来た巨大迷路のバザールで、ほとんどが土産物屋である。観光客以上に売り子が沢山いて、呼び声をかけてくる。
 しかし、各店とも置いているものはほとんど同じものが多く、残っているL.E.を使い切るほど買いたいと思う品はなく、小物を数点、15$ほどの買物をしてここを後にする。
 先月(2009年2月)、この場所でイスラム過激派による爆弾テロがあり、フランス人学生他多数の死傷者を出したことは極めて遺憾なことである。

                                          
(左)雑踏でごった返すバザール「ハーン・ハリーリ」      (右)ハーン・ハリーリへの入り口(何か所もあるが)


 今回の旅は、わずか8日間ではあるが古代エジプトを堪能する旅であった。

 BC48年にアレキサンドリア図書館が火災で焼け落ち、神官マネトの「エジプト史」が失われたのは不幸な出来事だった。
以後、14世紀頃までエジプトの記録は貧弱なもので、十字軍の時代になってやっと旅行記が現れ出した。
18世紀の末位から旅行者の数は次第に増えていったようだ。従って、砂漠の砂の下の遺跡解明は200年程度の歴史しかない

 ザキ博士曰く、まだ30%が見つかったに過ぎないと。
今も現代科学を駆使した発掘調査が粘り強く進んでいる。


                                     
                 (左・右)今回のツアーによる入場チケットの一部

 ところで、今回の古代エジプト遺跡を巡る旅で、沢山の遺跡巡りを行ったが、入場料も馬鹿にならない。
参考までに以下に示すが、全部で1065L.E. 約2万1300円。

王家の谷(3墳墓) 80L.E.        ツタンカーメン墳墓 100L.E.     ハトシェプスト女王葬祭殿 30L.E.
カルナック神殿 65L.E.         ルクソール神殿 50L.E.        エドフ神殿 50L.E. 
コムオンボ神殿 30L.E.         アブシンベル神殿 80L.E.       オベリスク石切り場 30L.E. 
ギザ3大ピラミッド 60L.E.        クフ王ピラミッド 100L.E.      階段ピラミッド 60L.E. 
屈折ピラミッド 30L.E.          ラムセスⅡ世巨像 35L.E.       ポンペイの柱 20L.E.
アレキサンドリア国立博物館 35L.E.   ムハンマド・アリ・モスク 50L.E.   カイロ国立博物館 60L.E. 
カイロ国立博物館ミイラ室 100L.E. 

 これに、オプションのカルナック神殿、ギザピラミッドでの音と光のショウー、7000円×2=14000円を加えると、なんと
約35000円が入場料、見物料という事に。

 
   思い出写真の数々


 カイロ発18時のMS962便は、定刻にテイク・オフ。爆睡したい所だが、お昼の食事か、夕食の機内食がいけなかったのか、どうも気分が優れない。しかし、朝食をパスして何とか収まったようだ。
 帰りの機材では戸扉が落ちることもなく、ビデオもちゃんと映って予定の12時40分より1時間早く11時半、関西国際空港の2本目の滑走路に無事着陸した。

 5000年前の時空を超えて現実世界へ。お疲れ様でした!

   5000年の歴史を見てきた大河ナイル 

次回は、異文化体験シリーズ、その42「微笑みの国の旅」が始まります。ご期待下さい。


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トゥトアンクアムン(ツタンカーメン)との再会 - カイロ - (異文化体験41 五千年の時空を超える旅11)

2014年05月30日 18時35分14秒 | 異文化体験_アフリカ
(写真はクリックで拡大します)

トゥトアンクアムン(ツタンカーメン)との再会 ―カイロ― 2008.12.25

 渋滞の始まらない時間帯にギザ郊外のホテルを出て、カイロのランドマーク 「ガーマ・ムハンマド・アリ」 に向かう。

 ← カイロのランドマーク 巨大モスク「ガーマ・ムハンマド・アリ」

 1857年に完成したこの大型ドームを持つモスクは、イスタンブールのモスク(537年に完成を見たアヤ・ソフィア大聖堂、大型ドームの起源)を手本にしている。
 ペンデンティブドームという建築手法が直径30mというアヤ・ソフィアの大ドームを可能ならしめたわけだが、ビザンチン形式の建築史における最大の貢献と言われている。
 ビザンチンの材料は煉瓦とモルタルが基本であり、ドームの工期短縮というメリットはあったものの、一方で滑落等による修復の繰り返しという短所もあった。このため、ベネツィアのサン・マルコ寺院(11世紀)の例もあるが、中期以降のビザンチン建築においてドームそのものは小型化していく。

                    
(左)フランス政府によるオベリスクの返礼の時計      (右)無数のランプに照らされた巨大空間       

 中庭北端にルクソール神殿のオベリスクのお返しに仏政府が贈った時計が飾られているが、今は動いていない。内部空間はシャンデリアや無数のランプ等の光が赤い絨毯に吸収され、荘厳な雰囲気を醸し出している。

  ← 「ガーマ・ムハンマド・アリ」から見るカイロ市街


 いよいよこの旅の最期の見学場所、「エジプト考古学博物館」にやってきた。それほど大きな博物館ではないが、見るべきものは多い。

  ← 多様な人種が訪れるカイロ考古学博物館 

 1Fの42号室は、おなじみの「書記坐像」。50cmほどの石灰岩で彫られた像である。かつら?を被り目は水晶、縁は緑青が塗られている。同室の「カ・アペル像」は無花果の木で彫った立像の僧。
 143号室は、クフ王坐像。象牙で出来た親指ほどの像に、大勢の見物人が群がる様は、あの最大のピラミッドを造った偉大な王と対照的である。さらに部屋は定かでないが、「神官セネプと家族の像」は往時の庶民的な家族像を推し量ることの出来るものである。ここまでが古王朝の展示品。

                
 (左)書記座像(約50cm大)  (中左)建築王クフ王座の像(親指大)  (中右)神官セネプと家族の像  (右)トトメス3世立像

 26号通路には中王朝時代の2mほどの大きさの「メンチュヘテプⅡ世坐像」がある。砂岩で足太に彫られ、下エジプト帽子を被り、赤、黒、白で彩色されている。
 12号室は新王朝「トトメスⅢ世立像」がある。エジプトのナポレオンと言われ領土をどんどん拡大、と共にビールとワインも拡げた王。鶏をシリアから持ってきた王でもある。紀元前1500年頃のことで、9本の足(当時の領土域の数)を持つ。


 さて、いよいよ2Fはお目当てのツタンカーメンとミイラ室である。

 ミイラ室に入るのに100L.E.必要という事前アナウンスが徹底されていたので、皆ドルではなくエジプト・ポンドを残していた。
 ラムセスⅡ世のミイラは有名だが、数十体のミイラが2部屋に分割展示されている。皆、それぞれの時の王や王妃である。まさか今日、こんな形で人前にさらされようとは思ってもいなかったろうに。

← ラムセスⅡ世のミイラ

 ツタンカーメンとの再会。これには二つの意味がある。日本が高度成長期を迎えた1965年。我が国に初めてツタンカーメンのマスクがやってきた。多くの日本人がその精巧な出来栄えに驚嘆したが、私もその一人であり、今回が43年ぶりの再会である。
 もう一つの意味合いは、王家の谷に眠るトゥトアンクアムン(ツタンカーメン)のミイラに会ったのが12月20日、5日ぶりのあの場所にあった副葬品の数々との再会である。

 ツタンカーメンの黄金のマスク(Funerary mask of Tutankhamun)にとどまらず、その周辺に展示されている副葬品の芸術的、工芸的、デザイン的、材料的、色彩学的出来映えは、とてもとても3500年前のものとは思えない。また、これだけの原材料を集めることが出来た当時の社会の仕組みとは、どんなものであったのだろう。
 博物館で購入した「ツタンカーメンの秘宝 48選」からいくつかを紹介しよう。

 ← 「ツタンカーメンの秘宝 48選」表紙

                     
(左)ツタンカーメン王の真ん中の棺(204L,78H,68W)          (右)日本にもやってきた「黄金のマスク」

                     
(左)ツタンカーメン王の王座(104H,足置きの長さ63.5cm)      (右)王座(椅子にくつろぐ王に王妃が香油を塗っている)

                        
(左)豹の背に乗ったツタンカーメン王(85.6H)            (右)太陽と月のシンボルを戴く胸飾り(14.9H,14.5W)

 「5000年の時空を超える旅」を締め括る素晴らしい作品とその背景を偲ばせる時空間であった。


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ピラミッド音と光のショー&エジプト雑話 - ギザ&カイロ - (異文化体験41 五千年の時空を超える旅10)

2014年05月24日 12時31分37秒 | 異文化体験_アフリカ
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ピラミッド音と光のショウー&エジプト雑話 ―ギザ&カイロ― 2008.12.24

 アレキサンドリアから往路と同じ道を戻る。今度は観光警察のお巡りさんは同乗していない。
 トイレ休憩に立ち寄ったドライブ・インにお土産の「ナツメヤシの実」(デーツというらしい)が置いてある。誰も手を出さないので売れそうにない。「試食させてよ!」と亭主に言うと、箱を一つ開けてくれた。食べてみると、結構いける。豊富なビタミンCと食物繊維、それに結構カロリーが高く、主食として古くから食べられているそうだ。一人が食べると皆、どれどれ?と手を伸ばす。結局、試食が功を奏して20箱ほど売れた。
 多分、ここの主人、今度日本人が来れば、きっと一箱つぶして試食させる商法で迫ることだろう。

ナツメヤシ(栄養豊富で高カロリー)

 夕刻になると、カイロ付近は大渋滞となる。エジプトの公務員の労働時間は朝8時から午後2時まで。週1日の休みで、給料も安いので、多くの公務員は夕刻から別の仕事に就くのだそうだ。それが余計にラッシュアワーを助長しているとか。
 さらにエジプトの道路は、まさに「世界の中古車見本市会場」、様々な車を見ることが出来る。

 確かにカイロ近くまで戻ると、さっぱり車が動かない。隣の車のナンバープレートでアラビア語の数字(正確には多分アラビア・インド数字と言うべき?)を勉強するのに丁度いい。10分もナンバープレートを見ていれば十分覚えられる。

          
    (左)高速道路の料金所                        (右)アラビア・インド数字    

 ホテル近くのニュータウンは、「10月6日」という名前の街だそうだ。1973年の第4次中東戦争・戦勝記念日の街で、小奇麗な家が建てられている。床面積は150~180m2程度、価格はガイドによると1500~2000万円程度、大体1m2=1万ポンドらしい。少し計算が合わないが、エジプトの国民の平均年収からすれば極ごく一部の人のみが住めるニュータウンなのだろう。
 最近、イラクからの難民流入で不動産が値上がりしたようだ。フセイン時代、イラクへエジプトから200万人が出稼ぎに行った経緯もあり、両国の関係は悪くない。


 今日はクリスマス・イブ! 当然、その夕食を皆が期待するのも無理からぬこと。
しかし、残念ながらここはエジプト。クリスマスは何ら関係ないらしい。ということで、今夕のツアーの食事は「ムサカ料理」。
 
 ホテルの部屋に戻ると支配人からクリスマスの特別メニューへのお誘いレターが入っていたが、今夜はピラミッドの音と光のショーを楽しむことに。

                    
(左)今日はクリスマス・イブ、そしてツアー最後の晩餐! でもこれ、ムサカ料理   (右)ホテル・ロビーのクリスマスデコレーション 

                                    
(左)ホテル支配人からのクリスマス特別料理のお誘いレター             (右)ホテルのルームキイ


 ピラミッドの音と光のショーは交通渋滞のため2回目のショーを見ることになった。
 水曜日の2回目公演は、午後7時半からのフランス語バージョン。3$出して日本語レシーバーを借りる。FMレシーバーとしてはデポジットもなく安い貸出かと思ったが、返却の必要性もなく、持って帰れと言う。3$で購入したことになる。一応FM放送が聞ける代物である。

          
(左)ピラミッドの音と光のショー チケット(約7000円)       (右) 3$で結果的に購入したレシーバ 

 ピラミッドの音と光のショーは、初日のカルナック神殿のそれとは違って、色彩も豊富で動きもあり、幻想的でもある。それにしても寒い。毛布を借り足元の冷える中、しばし幻想的な光景と物語に浸る。
 ところで、古代エジプトの人物の描き方は、「目」は前向き、「鼻」は横、「肩」は前、「胸」は横、「ウェスト」は正面、「足」は横というのが、美しい描き方だそうだ。同じような壁画を沢山見てきたが、古代の美意識を理解しないと何でこんな描き方をするのだろうと素朴な疑問が残る。

           
(左)赤く染まるスフィンクス                          (右)ピラミッドを背景に古代の物語

           
(左)フィナーレ近くのクライマックス                      (右)お帰りは楽団がお見送り

 ホテル帰着は午後9時半ごろ。明日帰国のため、荷物をまとめなければならないが、今回はほとんど大きな買い物もなく、逆にお土産に悩まされる。
買ったお土産は唯一カルトゥーシュデザインのT-シャツだけ。

 明朝は、モーニングコール5時15分、そして7時出発。 最期まで忙しい旅である。

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クレオパトラはいずこ? - アレキサンドリア - (異文化体験41 五千年の時空を超える旅9)

2014年05月18日 23時48分22秒 | 異文化体験_アフリカ
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クレオパトラはいずこ? ―アレキサンドリア― 2008.12.24

 今日はクリスマス・イブ。日本にいればジングルベルを耳にする日だが、ここエジプトではそんな雰囲気は全くない。
もっともエジプトの宗教は90%のイスラム教・スンナ派以外に7%のコプト・キリスト教がいるのだが。

 ← 今日はクリスマス・イブ ホテルのクリスマスデコレーション

 アレキサンドリアまでは220kmのバスの旅。
バスに何と観光警察の警官が1名乗り込んで小生の前の席に陣取る。全てのバスに乗るわけではなさそうだが、腰にはピストルが光っている。

 カイロの街を出るとそこは一面の砂漠(リビアまで続く西砂漠、正式名はリビア砂漠)。さすがに街道沿いは農地化され緑が多く、ナツメヤシが多く見られる。また金持ちのムスリムが寄進した立派なモスクが散見される。
 また、エジプトに行ったら鳩料理ばかりだったという話を聞いたことがあるが、沿道には沢山の食用の鳩小屋を目にする。

          
(左)カイロ市街を一歩出るとそこは広大なリビア砂漠       (右)あっちこっちに見られる養殖用の鳩小屋

 さすがに地中海近く来ると雨に遭遇する。午前中は雨のようだが、幸い移動中だけの雨であった。
アレキサンドリア近郊では石油や天然ガスが出る。貴重な国家の収入源である。ガソリンは30円/リットル程度とか。

 ← アレキサンドリア近郊の油田・精製(フレアスタッグが見える) 

 ところで、素朴な疑問だが「エジプト人は何人?」
 エジプトツアーも欧州、アジア、アフリカ等々、さまざまに分類されていたりする。ナイルデルタ地方では、シリアやパレスチナ方面の人々を古代エジプト人は「アジア人」と呼んだそうな。

          
(左)雨上がりのアレキサンドリアの街                   (右) 市内電車とパン売りのおじさん

          
       (左・右)午後は晴れ間も出始めたアレキサンドリアの代表的ランドスコープの海岸通り

 エジプト第2の都市アレキサンドリアは、BC330年アレキサンダー大王が創った町。
 マラリアの流行のため大王は完成を待たずに没っしてしまったが、遺体はミイラとなってアレキサンドリアのどこかにあるはずのようだが、まだ未発見のようである。
 大王の死後、部下のプトレマイオスがエジプト王となり、ここに首都が置かれ、1000年もの間地中海世界の文化の中心として栄えた。
プトレマイオス朝そのものは、BC30年クレオパトラⅦ世が自殺するまで続いた。

              
(左)カーイトゥベイ要塞                           (中)要塞に打ち寄せる波           
          
(左)海岸沿いは風も強く荒波の波しぶきが我々を襲う    (右)古代世界七不思議の一つ「ファロス灯台」(Wikipediaより)  

 クレオパトラがいかなる容貌であったか、諸説あるようだが、金髪のギリシャ系で9ケ国語を操る会話の巧みな才女というのが、目下の定説のようだ。
 カーイトゥベイ要塞の沖合いの海底に、クレオパトラとアントニウスが過ごしたとされる神殿跡が発見され、遺跡調査が進んでいる。
今日のカーイトゥベイ要塞は強い風のために大きな波しぶきをあげている。この要塞は、14世紀に地震崩壊した古代世界7不思議「ファロス灯台」跡に15世紀に再建されたもの。

          
(左)アレキサンドリア国立博物館                   (右)アレキサンドリア国立博物館入場券

 海から上がった数々のお宝がアレキサンドリア国立博物館に展示されている。個人邸が米大使館となり、2003年に博物館としてオープンしている。館内はフラッシュなしでの撮影は許されている。

    

        
(左)アレキサンダー大王の像という説も         (中)ファラオの像?    (右)アクエンアテン王の像

    
                  (左・右)海から上がったお宝たち(1)

        
                   (左・中・右)海から上がったお宝たち(見たことのある東インド会社の紋章も)


 アレキサンドリアでは、古代ローマ図書館のポンペイの柱も見学。400本はあったと言われる図書館の柱が1本残っている。
地元の小学校の遠足で、柱を背景に集合写真を撮っているが我々のカメラにポーズを取ってくれて、肝心の写真屋さんがいらだっている。地下に遺構が残っている。

              
(左)ポンペイの柱と周辺遺構                 (中)400本もあった図書館の柱の1本

          
(左)地下の遺構                                    (右)入場チケット


 昼食は、海辺のサアド・ザグルール広場に面したCecil Hotelのレストラン。
 カラマリ・マアリーというイカの唐揚げ料理。現地ガイドが、我々のグループの隣の席にエジプトの文化大臣と有名な歌手が食事中と言うと、またまた大阪のおばちゃん達、こぞって歌手に握手を求め記念撮影。歌手も人気商売はつらいもの。

          
(左)ダウンタウンに位置する洒落たセシルホテルのレストラン       (右)昼食はカラマリ・マアリー 

 きっと、帰る頃には歌手の名前は忘れられているでしょうが。気の毒に。

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ピラミッドと砂嵐 - ギザ&カイロ - (異文化体験41 五千年の時空を超える旅8)

2014年05月13日 00時09分16秒 | 異文化体験_アフリカ
(写真はクリックで拡大します)

ピラミッドと砂嵐 - ギザ&カイロ - 2008.12.23

 今回の旅のクライマックス ギザの3大ピラミッドとスフィンクス

 早朝のギザでナイル・エクスプレスを下車し、午前7時半まで、とあるホテルのロビーで休憩する。ギザのピラミッドは午前8時から見学出来るようだ。

 クフ王のピラミッドは、朝150人、午後150人、計300人が内部見学可能。あまりに市街地に近いので少し予想と違ったが、圧倒的な大きさで眼前にそそり立つ4500年前の建造物にただただ感嘆の一言。

         
          (左・中・右)クフ王のピラミッド(入場者の列、私の身の丈ほどある石段の大きさ)

 昔、盗掘者が開けたという入口から、トンネルを少し歩いてひたすら身をかがめながら回廊を昇る。結構きつい姿勢に、きっと明日か明後日来るだろうな、脚の筋肉痛。大きな空間に出るとそこは大回廊。大回廊には結構急な階段がついていて、玄室に至る。何度もTVで見た現場である。計算された石積みの美しさに感激しながら、外に出る。

  
(左)大回廊(見事な石積み、急な登り)        (中)王の間      (右)空っぽの石棺?(内部は撮影禁止、参考写真です)

 一辺230m、底面積5ha、高さ146m(現在は137m)の巨大な石造建築は260万個の石塊で構築されている。ナポレオンの計算では、幅30cm、高さ3mの城壁でフランス全土を囲むことが可能とか。

        
(左)ギザ地区ピラミッドコンプレックス配置図      (中)ギザ3大ピラミッド        (右)周辺の景色(風強し)

  
            (左・中)塩害で首が折れると心配されているスフィンクス           (右)風がますます強く!

 カフラー王のピラミッドは、その参道の先にスフィンクス、河岸神殿、河岸波止場がある。スフィンクスの視線の先に何があるか?正解はピザハット、KFCというのは有名な話。メンカウラー王を含むギザ3大ピラミッドを見渡せる展望台あたりから風が少し強くなってきた。


 今日の昼食はケバブ料理。レストラン入口ではダラボッカ等の民族楽器を奏でて客を迎える。どうも入口を借りてビジネスをしているようで、バクシーシを要求される。

        
(左)歓迎演奏かと思いきや、少し払ってよ!といった感じ    (右)入口横でのデモンストレーション

 メンフィスは古王国時代の首都。遺跡には1912年に発見された10mほどの雪花石膏製のスフィンクスや、巨大な横たわったラムセスⅡ世像が見られる。4500年前の建築王らしく、いろんな所に足跡を残している。

  
(左)メンフィスに至る道中の農村風景      (中)メンフィスのラムセスⅡ世像       (右)雪花石膏製のスフィンクス 

 ダハシュールでは、屈折ピラミッド、赤のピラミッド。サッカラではジョセル王の階段ピラミッドを見学する。しかし、この頃になると、もはや砂嵐状態。バスから出るのも躊躇する状態で、とにかく写真だけとってすぐバスに戻る。カメラやビデオには、多分微細な砂が入り込んでファインダーに異物が認められる。皆、マスクやスカーフで口を覆い、目だけを出すアルカイダ状態。

        
 (左)砂嵐に霞む屈折ピラミッド                         (右)階段ピラミッド 
 
                  
(左)砂嵐にアルカイダ状態の見学者達     (右)エジプト古代遺跡の80%はまだ砂の中、発掘作業があちこちで行われている。

 ハムシーンと言われる砂嵐は、3月頃から50日間続くと言われる夏前の砂嵐。だから12月は最高の季節、と思いきや、今日は貴重な経験?なのか。

 この辺りは桑畑・養蚕によるカーペットスクールという学校という名を借りた絨毯工場があり、16歳までの子供の労働力で新たな産業起こしをやっている。

            
(左)VIP車列通過で停車中に見た仕事帰り?の砂漠ラクダ隊       (右)観光客を待つ砂漠のラクダ隊  

 ギザ近郊の新しいリゾート開発地区にあるホテルHilton Pyramids Golf Resortにチェック・インし、とにかくシャワーを浴びる。一日中砂嵐のなかにいると、砂漠の砂パックをしたのと同じ。一息ついて、今宵のナイル河ディナークルーズに向かう。

  
        (左・中・右)ギザでの宿舎はゴルフ場併設のリゾートホテル(ヒルトン・ピラミッド・ゴルフリゾート) 

 ナイル・マキシムというクルーズ船。午後7時半から約2時間のビュッフェ・ディナークルーズ。
 この間にベリーダンスとタンヌーラ(回転舞踏)のショウーがある。タンヌーラは、かつてトルコで見たメヴレヴィー教団のセマーの1種。ベリーダンスの女性に卓上の花(造花だったが)を差し出すと横に来てサービスしてくれる。これはかつてインドネシアで覚えた常套手段。皆で踊ろう!とダンサーの呼びかけに関西のおばちゃん達が待ってましたとばかり応じる。さすが大阪のおばちゃん達。

        
(左)ディナー・クルーズ船ナイル・マキシム                   (中・右)少し色っぽいベリーダンス  
        
(左)タンヌーラ(回転舞踊・イスラム圏で見かける舞踏)     (右)ナイル河畔の夜景を夜風に吹かれて

 ナイルの夜景は船上から見るべきシンボルがないものの、夜風に吹かれると異郷の匂いが感じられる。
 ホテルに戻ったのは10時半頃。ロビーはすっかりクリスマス・デコレーションされている。

 
   ←今日の入場券

 明日のモーニングコールは、またまた5時半。なんとも寝不足が続く今回の旅である。
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ナイル・エクスプレス - アスワン&ギザ - (異文化体験41 五千年の時空を超える旅7)

2014年05月05日 16時23分01秒 | 異文化体験_アフリカ
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ナイル・エクスプレス ―アスワン&ギザ― 2008.12.22-12.23

 始発駅アスワン駅を午後5時に出発する「ナイルエクスプレス」。二人用コンパートメントを一人で占有する。ギザまでは、およそ12時間少々の旅。コンパートメントの設備はそれなりに整っているが、満足に機能するわけではない。幸い電源コンセントは生きていたので、VTRとデジカメの充電開始。各車両に車掌が張り付いて夕食やベッドメーキング等のサービス提供をしてくれる。

           
(左)アスワンからギザへ およそ900km 12時間の旅     (中)アスワン駅     (右)ナイル・エクスプレスの上り時刻表

            
         ナイルエクスプレスは、客車13両(各車両10室)とクラブ(ラウンジ)カー1両の構成

   
         (左・右)二人用コンパートメントの内部                    車内夕食の肉料理


 夕食後は、特段することもなく早々とベッドに横になって、5000年の時空を超えて古代エジプトの時代を空想する。
 それにしても、今まで見てきた数々の神殿のあのスケール感はどこから来るのだろう?
 エジプトはケメト(黒い土地:ナイル流域)とデシュレト(赤い土地:砂漠)が全ての国である。決して高い山や比較対象となる自然物はない。とすれば、この環境があのスケール感と何らかの関係があるのだろうか。砂漠の嵐やナイルの反乱は少々のものはすぐに掻き消してしまう。何も道具のない人力だけが頼りの時代に知恵と巨石と流動性の高い砂を駆使し、あのような巨大建造物を創った人々に畏敬の念を禁じえない。


        
(左)善王オシリス、イシス女神、ホルス神         (右)エジプトの神々(地球の歩き方(2008-2009)エジプトより。)

 古代エジプト人の「人間」とは、「カー、バー(霊魂)、影、名、肉体」の5つから成るという観念である。カーは、生命力を表す霊で、人間とカーは双子で生まれる。肉体が滅びてもバーは生き延びるがゆえに、ミイラが作られるようだが、「古代エジプト人の世界 村上笙子著」によると神話の世界のミイラの起源「オシリスとイシスの物語」だそうだ。

  ナイルに沈みかけたイシス神殿

 「善王オシリスは弟セト神に人気をねたまれだまし討ちにされ、海に流された。遺体の一部は妻のイシス女神のもとに戻るが、今度はセト神によってバラバラにされ、エジプト国内にばら撒かれた。傷心のイシスは妹ネフティス女神や知恵神で魔法の使えるトト神等、親しい神々に助けられ、夫の遺体を探し求める。やがて生殖器だけを残して集めることに成功。生殖器はナイルの魚に食べられたことになっている。イシスは死んだオリシスの肉体と交わり、ホルス神を生んだ。夫の肉体を集めたイシスは山犬の神アヌビスに白布を使ってもとの身体に作り上げてもらった」

 そんなことを本で読んだり、空想の世界を巡っている間に、いつしか眠ってしまったようだ。

        
(左)朝食                            (右)夜明け前のギザ駅に到着

 車掌が起こしにきたのは、午前5時前。朝食が配られる。といっても、パンとジュースだけの朝食だが。午前5時半、夜明け前のギザに到着。
 今日は、待望のピラミッド見物の一日だ。


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砂漠をコンボイでアブシンベル - アブシンベル - (異文化体験41 五千年の時空を超える旅6)

2014年04月28日 11時58分58秒 | 異文化体験_アフリカ
(写真はクリックで拡大します)

砂漠をコンボイでアブシンベル ―アブシンベル&アスワン― 2008.12.22

 ロビーでコーヒーと朝食バスケットを受け取り、ホテル出発は3時45分。バスは市内某所に向かい、各国の観光客を乗せた様々なバスと合流する。大型バスから小型バスまで10数台のバスを警察が護衛するコンボイ(Convoy=護送集団)で270km先のアブシンベルを目指す。我々を国際テロ集団や盗賊などから護衛してくれるのだそうだ。しかし、本当にその必要性があるのかどうか分からないが、その理由は後ほど。
 まずは、アスワンを4時15分に出発!

 真っ暗闇の砂漠の中を我々のバスは、後続のバスに次々に追い抜かれながら月明かりだけが頼りの道をひた走りに走る。2時間ほど走ると夜空が徐々に紅がさすように明るくなり、6時半砂漠にご来光が!!

   リビア砂漠のご来光! 

 一面の砂漠の中を制限速度80km/hr(バスの場合、乗用車は90km/hr)を頑なに守る我々のバスは後続の全てのバスに追い抜かれて、護衛もなくただ1台アブシンベルに向けて走っている。警察にも見捨てられたのか? コンボイの必要性って本当にあるの?
 アブシンベル到着は、午前7時50分。

            
(左)発見時の姿(図版ベルツォーニ「エジプトとヌビアでの活動の物語より)  (右)水没寸前のアブシンベル遺跡

 アブシンベルの岩窟神殿は、1813年スイス人ブルクハルトにより発見された。1815年ベルツォーニは入口の3/4を埋め尽くす砂に、中に入る希望を一度は捨てたが、翌年3人のイギリス人を連れて戻り3週間の除去作業で中に入ることに成功した。しかし、彼は失望せざるを得なかったようだ。思っていたような金銀財宝はなかった。

                            
       (左・右)アブシンベル大神殿正面(神格化されたラムセス2世の4体の巨像が印象的) 

                          
(左)正面左2番目の上半身は紀元前1250年ごろの大地震で崩落し、足元に。  (右)足元から見ると20mの巨像は圧倒的


 第19王朝(3300-3200年前)ラムセスⅡ世が、自らを神格化させた巨大神殿を何故この地に建造したのか不明だが、多分この地ヌビア地方(アフリカ奥地に続く渓谷地帯)は金、銅、閃緑岩等の石材が豊富にあり、軍事的、商業的に重要な場所で、そこにエジプトの力と王自身の威力を示すために建造したと思われる。

                    
内部は撮影禁止(アブ・シンベル神殿より)(左)大列柱室(8本の冥界の支配者オシリス像) (右)シリアの城塞を攻めるラムセス2世

 大神殿から北に100m離れた隣には小神殿がある。ネフェルタリ王妃とハトホル女神に捧げたもの。正面碑文には「ラムセス2世が偉大なるネフェルタリ王妃のためにこの岩窟神殿を造った・・・・永遠に彼女のために朝日が昇る」と彫られている。

        
(左・中)アブ・シンベル小神殿(正面像はラムセス2世とネフェルタリ王妃)  (右)神殿内部の柱に描かれたネフェルタリ王妃像


 アスワン・ハイダム建設に伴い、1964-68年にユネスコの支援で元の位置から距離約200mほど、高さ約65mほどの場所に移設された。このダム建設で神殿のみならず、100万人のヌビア人が移住させられた。


エブ・サンバル全景(移転後)(スイス人ブルクハルトの旅行記はこの地を「エブ・サンバル」と記載。


 エジプトの南端に位置するアブシンベルはカイロから1180km離れており、砂漠に囲まれた内陸気候。まだ朝早い時間帯で風があるため日陰は肌寒いが、日向はこれから暑くなるだろう。
 10時に再びアスワンに向けてコンボイの出発である。陽が高くなるにつれて砂漠の温度は急上昇、遠くに蜃気楼が出現。何もないのにオアシスでもありそうな小さな湖のようになって見える。

   帰路の砂漠で見た蜃気楼(湖のように見える:クリック拡大して下さい)


 アスワン・ハイダムは1970年ドイツ・ソ連の協力で完成し、210万kwの発電能力をもつ。ダムから見るナセル湖は海のように広い。ダム周辺で「砂漠の砂をペットボトルに詰めて記念に持って帰っては?」との現地ガイドの薦めに甲子園の土ならぬ砂漠の砂詰めを全員で行う。

   
(左)210万KWのアスワン・ハイ・ダム    (中)説明パネル(ダムの高さ111mと読み取れる)   (右)広大なダム湖を背景に

            
(左)ダム建設に伴い巨大な湖(ナセル湖)が出現           (右)ナイル川に移転されたイシス神殿

            
(左)堰堤上の記念碑(当時のナセル大統領の名も)          (右)ダム近くで砂漠の砂を記念に


 アスワンの街に戻って昼食。午後は、古代の石切り場に行く。

  アスワンのメインストリート 

 
 数千年も前にあの巨大なオベリスクがどのように造られ、建設されたのか、大いに興味があるところ。切りかけのオベリスクが見られるという石切り場に行く。40m級の最大級のオベリスクが、切りかけ途中で割れたため放置されたようだ。オベリスクは石の尖塔で、古代エジプト人は「ケテン」と呼んだ。切りかけのオベリスクは花崗岩で、石に切り込みをつけ、木のくさびを打ち込み、くさびを水で濡らし膨張させて石を割るという古代の技術が見て取れる。

     
(左)切りかけの40m級オベリスク(足元部から見る、割れているのがわかる) (中)同じく尖塔部から見る  (右)石切り場全景 

  今日の入場チケット

 さて、夕刻からは列車でギザに向かって北上する。その名も「ナイル・エクスプレス」。約12時間の列車の旅である。

(今回の参考図書:ジャン・ベルクテール著「古代エジプト探検史」、マグディ・ガマール編著「アブ・シンベル神殿」)


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ナイル河上の値切り合戦とバースディケーキ - アスワン - (異文化体験41 五千年の時空を超える旅5)

2014年04月23日 22時37分20秒 | 異文化体験_アフリカ
(写真はクリックで拡大します)

ナイル河上の値切り合戦とバースディケーキ  ―アスワン― 2008.12.21

 オム・コンボの神殿を後に、アスワンまでバスは一気に走って、少し遅い昼食をアスワン・ナイル中洲の島のレストランで取る。飲み物にヌビアコーヒーがあるというので、早速注文。まるでお猪口のような形状の小さな容器に入ったスパイシーな癖のある味のコーヒーであった。

        
(左)ナイル中流域のアスワンの街              (右)対岸を見るとまさに砂漠の中の街

        
(左)ほとんど黒色に近いスパイシーなヌビアコーヒー          (右)昼食(参考写真)

 アスワン上流は昔ヌーバ族という黒人支配の地域。ヌビア人と言われる色黒の人たちが多い。食後はナイル独特の帆掛け舟、ファルーカによるセイリング。ナイル川の運航は、帆の張り方で行き先が分かると言う。上流の奥地に向かう船は帆を上げて、北へ下る(カイロ方面)時は帆を下げて、ということらしい。

 ナイル名物のファルーカ

        
(左・右)アガサ・クリスティが『ナイルに死す』を執筆し、その舞台となったことで知られる名門ホテル「オールド・カタラクト」


 しかし、この日はあいにく風が全く無く、3人のヌビア人の船頭達が25名も乗った船の櫓を漕ぐも、遅々として進まない。
 そのうち、船頭が船底から土産物を取り出し商売を始めた。乗客は大阪のおばちゃん達が中心である。案の定、値切り合戦が始まった。
しかし、ヌビア人の船頭もおいそれとまけない。延々、1時間、船はほとんど動かず、白熱の値切り合戦も不調に終わってしまった。

        
(左)絵になるヌビア人の船頭                 (右)全くの無風状態、他の船頭達も漕ぐのをやめて休憩 

 気がつくと昼食場所と目と鼻の先の別の中洲にあるホテルが今宵のホテルだそうな。まともに漕げば15分とかからない距離ではないか。「イシス・リゾートホテル」、小奇麗な近代ホテルである。

        
(左)別の中洲にある「イシス・リゾートホテル」          (右)ホテル専用ボート

        
                         (左・右)イシス・リゾート・ホテルの船着場

 2006年の世界銀行発表のデータによると、エジプトの一人当たり国民総収入(GNI)は購買力平価基準(PPP)で137位。低位中所得国に分類されている。ちなみに日本は24位。
 サハラ砂漠以南のほとんどのアフリカ諸国は低所得国である。エジプトの主な歳入源は、石油・ガス、観光、スエズ運河通行料の3つ。
 バスの車窓から見る田舎の光景はとても貧しいものである。観光地で売られている小物は、そのほとんどが数百円程度のものばかり。売り子達はわずかの利ざや稼ぎで生活をしているのだろう。
 そう思うと値段を値切る駆け引きの面白さ・楽しさはあるものの、一方で「施しの精神」も必要なように思われる。特に個人売り子の場合には。

        
(左)部屋のテラスからの眺め                    (右)砂漠の中のまさにオアシス


 ホテルで1時間ほど休憩後、香水瓶の店に寄ってから夕食に行くと言う。ガイドが香水瓶屋での時間を決めなかったせいで、ここでも買う人の値段交渉で1時間近く買う気のない人が待たされて、ひと悶着。

  夕闇迫るホテルの正面玄関 これからボートで夕食へ

 夕食はコフタという細長いミートボール。
 ところで今日は小生の誕生日。内緒にしていたが添乗員が気を利かせてくれて、大きなケーキで誕生祝い。皆さんにもおすそ分け。それにしても甘過ぎるケーキであった。

        
(左)名物のコフタ(細長いミートボール)  (右)食後の誕生祝いケーキ カット後の小生分(元ケーキは巨大、何せ26人分のケーキ)

 「明日はモーニングコール 何と午前2時半です!」のアナウンスに、全員早々にホテルに戻ってお休みなさい!

    早く寝よ!と各自ホテルの部屋に (何せ、モーニングコールは2時半!) 


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ヒエログリフとカルトゥーシュ -エドフ & コム・オンボー (異文化体験41 五千年の時空を超えた旅4)

2014年04月18日 16時48分12秒 | 異文化体験_アフリカ
(写真はクリックで拡大します)

ヒエログリフとカルトゥーシュ ―エドフ&コム・オンボ― 2008.12.21

 今日はルクソールからアスワンまで230kmのバス移動。7時30分の出発である。

 古代エジプトの特徴の一つに、3000年の長きにわたって王一人が神々と人間との仲介役をしたことが挙げられる。
 ファラオは新王国以降の王の呼び名で、それ以前のペル・アア(大きな家)が転じたものと言われている。

 カルトゥーシュは、ヒエログリフの王名を囲んだ楕円形の王名枠。「永遠」を示す「シェン」(Ωとよく似た文字)という文字を引き伸ばして描いたもの。ヒエログリフを語る上で、ナポレオン、ロゼッタストーン、シャンポリオンといった所は良く知られた話である。

            
 ヒエログリフとアルファベット               マイネーム入りのTシャツ 

 バスの中で、カルトゥーシュで自分の名前を囲ったTシャツの注文取りが始まった。エジプト綿は毛が長く丈夫なことで知られている。
 プリントでなく刺繍で飾られるのが味噌のようで、1枚1500円の注文は好調である。ちなみに、皆さんもヒエログリフで自分の名前を書いてみては如何でしょう?。 小生も自分用に注文したのが上の写真のTシャツ。


                
(左)エドフ・ホルス神殿入場券とコム・オンボ神殿の入場券   (右)エドフ・ホルス神殿の塔門と見事なレリーフ        

 かつての上エジプトの州都エドフには、ホルス神殿がある。高さ36mの巨大な塔門にはスケールの大きなレリーフが刻まれている。神殿の主のホルス神は、はやぶさの頭部を持つ天空の神。オシリス神とイシス神の子供である。この神殿そのものは紀元前200年代に築造されたようだ。

        
(左) 巨大な列柱式神殿の正面                  (右)列柱式神殿前のホルス神像

        
(左)神殿至聖所の内部                      (右)見事なレリーフが残っている

               
(左)列柱式神殿上部の門には往時をしのばせる色彩が残っている    (右)別のホルス神   

 Tシャツ1枚で汗ばむ陽気である。見物を終えて時間待ちに休憩所に寄ると、「ドリンク類を買うとお釣りOK!」という店員の声。
早速、15L.E.のファンタに50L.E.札を出すと35L.E.が小銭になって戻ってきた。これでやっと1L.E.のトイレも大丈夫。
 バスの運転手もミネラル2本1$で提供しているが、暑さと乾燥で喉が渇くのか飲料水が良く売れる。

  エドフからコム・オンボへの道中にて(ナイルを行きかう船)


 コム・オンボはアラビア語でオリンポスの丘という意味だそうだが、ナイル河畔の丘に聳え立つコム・オンボ神殿は、プトレマイオス朝(紀元前300年代)の建物。ホルス神とソベク神(ワニの神)を祭るため2重構造の神殿になっている。ナイロメーター(水位計)やワニのミイラも見ることが出来る。

        
     (左・右)コム・オンボ神殿(左の入り口はホルス神を、右の入り口はソベク神=ワニの神を祀る)

          
(左)ここでも見事なレリーフが残っている            (右)干からびたワニのミイラも見ることができる


    
(左・中)ナイロメーター(ナイル川の水位計) (右)アスワンから北へ50km かつて水路の要衝であったコム・オンボ


 アスワンへの幹線道路には、いくつもの検問所がある。観光警察の警察官が銃を手に何することもなく時間を過ごしている。また、通りすがりの小さな集落では、ガラベーヤを着た男達が何するわけでもなくたむろしている。

  
(左)ナイル河畔・コム・オンボ神殿横の緑の農地    (中)沿道の女子学校、休憩時間?        (右)幹線道路の検問所

 5000年前から2000年前まで世界最先端の文化国であった誇りをこの人たちはどう思っているのだろうか? 郊外の生活スタイルは正直5000年前と何ら変わっていない。


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カルナック神殿、音と光の子守唄 - ルクソール - (異文化体験41 五千年の時空を超える旅3)

2014年04月12日 17時38分28秒 | 異文化体験_アフリカ
(写真はクリックで拡大します)

カルナック神殿、音と光の子守唄 ―ルクソール― 2008.12.20

 午前の王家の谷見物を終え、ルクソールに戻って昼食。アエーシという丸型パンと前菜として各種ペーストが出る。エジプトスープの定番モロヘーヤ・スープに続くメインは魚料理。この店はアルコールを置いていない。結構、置いていない店が多い。頼んだコーヒーが来たが、何とネスカフェパックとお湯。これがなんと15L.E.(300円)。
 空港両替で50L.E.札を沢山貰ったが、これがなかなかくずれない。3ドルくれと言う。どうも、L.E.の価値よりドルの価値を信じて値上がりした時に売ろうということだろう。小銭が手に入らないので、どのトイレに行くにも(1L.E.約20円必要)不便な国である。

        
      (参考写真 左・中)アエーシとモロヘーヤ・スープ               (右)これがないとトイレに...1L.E.コイン

 クラブ・ツーリズムのツアーは出発時点で各人にトランシーバーが手渡される。さすがに世界中から沢山の観光客が集まるエジプト。ツアー間で説明場所の取り合いで、雑踏にガイドの声も聞きづらいのだが、これは大正解。行く先々の観光名所でガイドからクリアに説明を聞くことが出来る。

 午後の最初の訪問地は、カルナック神殿。

       
(左)カルナック大神殿の正面入り口 両側にスフィンクスが並ぶ       (中・右)大神殿の平面図と航空写真

 カルナック大神殿。主神のアメン神は、テーベの地方神であったが、テーベの発展と共に太陽神ラーと結合しアメン・ラー神という最高神となった。王達はアメン・ラー神に国の豊穣を祈願した。神は勃起した性器に片腕を高く挙げ、その手に統治のシンボル「殻竿(からざお)」を持った姿で描かれている。

    数千年前の建造物とはとても思えない圧倒的迫力

  
                (左・中・右)大列柱室(上部の明かり取りも残っている。残存する色彩が往時の極彩色をしのばせる)

        
(左)神殿にはいくつもの塔門がある   (右)トトメスⅠ世とハトシェプスト女王の2本のオベリスク

 圧倒されるのはスフィンクス参道、二つの塔門に続く大列柱室。高さ23mもある列柱が134本整然と並び、上部空間にはあかり採りの窓まで残っている。更にトトメスⅠ世とハトシェプスト女王の2本のオベリスク、聖なる池へと続く。

                       
(左)聖なる池(航空写真上部にスフィンクス街道が延びルクソール神殿まで続く)  (右)カルナック・ルクソール各神殿チケット

 記録に残るカルナックを探検した最初のヨーロッパ人は1589年ヴェニスの人間であったとか。3500年前の123haの巨大神殿は、その復元作業が14ha進んだに過ぎないが、ゆっくりと着実に進んでいる。


 次に訪れたのは、ルクソール神殿。

        
(左)ルクソール神殿第1塔門(持ち去られたオベリスク) (中)神殿平面図   (右・参考写真)神殿がナイル川沿いにあるのがわかる

 パリのコンコルド広場にあるオベリスクはルクソール神殿第1塔門から1836年に切り出されたもの。ルクソール神殿はカルナック神殿の付属神殿として建設され、当時はスフィンクス参道が両神殿をつないでいた。第1塔門の前のラメセスⅡ世の坐像と1本となったオベリスクが印象的である。神殿の奥は、ローマ時代の砦跡や、コプト教会等が残っており、大いなる歴史を感じさせる。

        
(左)ラムセスⅡ世の中庭                        (右)カルナックから続くスフィンクス街道

 観光初日の最後は、「カルナック神殿の音と光のショー。(オプション)

 一人で参加した小生。夜の過ごし方が困るだろうと思い、「カルナック神殿の音と光のショー」というオプショナルツアーを出発前に申し込んでいた。土曜日の2回目のショーは英語版。第1幕から第5幕まで神殿内を移動しながらのナレーターの声と光のショー。
 
     
(左)「カルナック神殿の音と光のショー」チケット   (右)薄暮にライトアップされたカルナック神殿第1塔門

        
(左)ショーの日本文解説     (中)夜の幻想的な大列柱室を徒歩でめぐる    (右)第5幕は聖なる池の畔へ。

 参加費7000円に期待したが、時差や疲れから3500円分は夢の中、まさに「音と光の子守唄」となった。正直、ここのショーは動きもなく、個人的にはお奨めではない。




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