Anchor

旅行記、世相独言

異文化体験50 アメリカ大自然紀行の旅(その9)金と鉄道とカジノとホテル、そして核実験場 ラスベガス

2018年08月12日 00時30分55秒 | 異文化体験_北米
(写真はクリックで拡大します)

異文化体験50 アメリカ大自然紀行の旅

その9.金と鉄道とカジノとホテル、そして核実験場 ラスベガス(Benjamin Siegel)

2018.07.01


                      

 アリゾナ州ペイジ→ユタ州セントジョージ→ネバダ州ラスベガスと3つの州、総距離445kmのバス移動ともなれば5時間くらいはかかるだろう。
現地ガイドのF氏が、ユタ州はモルモン教徒が盛んな州、ネバダ州はかつての地下核実験場で地下水汚染のため土地の多くが国有地、等々皆を飽きさせない話で繫いでいく。

 そんな彼が話してくれたラスベガスの歴史を少々。(wikipediaで補足しつつ)
 スペイン語で「肥沃な土地」を意味するvegasが固有名詞となったラスベガスは、1820年代後半、ネバダ砂漠の中で窪んだオアシスとなっているのをモルモン教徒が発見。1840年代末にカリフォルニアでゴールドラッシュが起こると、砂漠の中の中継地点として定住者が現れ、1905年、ユニオン・パシフィック鉄道の開通に伴って、水の便の良いラスベガスは蒸気機関車の給水地となり、駅も造られた。
 ゴールドラッシュも終わり、1929年の大恐慌で産業のないネバダ州は税収確保のため1931年賭博を合法化した。丁度街の南東48kmにフーバーダムが着工され、1936年に完成。労働者の流入と安価な電力の供給で、街は大きく発展。第二次世界大戦中にはネバダ砂漠に軍事基地や核実験場(ネバダ核実験場)が続々と建設され、その関係者も町に住むようになった。街の北西約105kmの距離にネバダ核実験場がある。

 ネバダ核実験場(ラスベガスからわずか100kmほどの距離にある)

 人が集まるとギャンブルも盛んになる。終戦後の1946年、「ベンジャミン・シーゲル」が「The Pink Flamingo Hotel & Casino」を6百万ドルで建設、カジノが収益を上げることが判ると、マフィアが続々とホテルを建設し、集客のためにフランク・シナトラやサミー・デイヴィスJr.などのショーを行い、街の建設資金の大半をモルモン教徒が融資した。

    
 Benjamin “Bugsy” Siegel 1946年のThe Pink Flamingo Hotel & Casino  1952‐53年ころのホテル

          
  現在のフラミンゴ・ホテル               L.V.ストリップとダウンタウンの主要施設

 しかし1960年代後半頃から当局の取締りが厳しくなり、マフィアは次々とホテルの経営権を手放し、ハワード・ヒューズのような大富豪などがこれらのホテルやカジノの経営権を引き継いだ。その後も、限定的なマフィアの介入はあったが、ゲーミング・ライセンス(カジノ開設、運営の権利を定める一連の州法など)の厳格化に伴いその影響力は漸減し、1990年代にはほぼ払拭された。1980年代末頃から巨大テーマホテルブームが起こり、市街は南方に大きく拡張し現在に至っている。現在、客室数ベースで世界12大ホテルのうち11軒がラスベガスに存在する。一定規模以上のカジノの建設は、客室数200室以上のホテルの付帯施設としてしか認可されない。
 なお、ネバダ州の人口はわずか270万人、そのほとんどがラスベガス周辺に居住している。
ラスベガスの人、それはやはりフラミンゴのベンジャミン・シーゲルであろう。


 今宵のラスベガスの宿舎は、「サーカス・サーカス・ホテル・カジノ&テーマパーク」。ダウンタウンに近いストリップ大通りの北部にあり、ファミリー層をターゲットにした巨大ホテル。
 午後7時ころ、バス移動から解放され、ホテルチェックイン後、ただちにオプショナルツアーの「和食ディナーとイルミネーションツアー(何と$165、高い!)」に出発。
 まずは、腹ごしらえ。Oodle-Noodleという日本食の店。所詮はうどん屋なのだが、一応会席風の料理がすでに並んでいる。どう高く見積っても$30、残り$135は?と思いつつ食事を済ませる。

  
アンテロープ・キャニオンから5時間、L.V.に到着    今宵の宿舎サーカス・サーカス   サーカスのアトラクションを併設 

          
                   日本食の店「Oodle-Noodle」と店の名刺 

 最初に向かったのは、15号線に乗って右手にネオンキラキラのホテル群を見ながらダウンタウンのフリーモントストリート。お目当ては日没後1時間おき約8分の映像と音楽をハイテクアーケードで見るのだが、いやはや大変な人出である。丁度9時前に到着して、1260万画素、60フレーム/秒、2.2MW(発光体)、0.55MW(サウンド)、220台のスピーカーからなる芸術作品?を鑑賞。ストリートの人々の頭上を時折3列のジップラインが走る。

  
15号線でダウンタウン方面に(右手にサーカスサーカス) フリーモントストリートのジャズライブ  どこかで見たような海賊さん

          
ハイテクアーケードのショーの始まり     時折アーケードのジップラインを人が飛んでいく(写真の黒い人影がそれ)

 次なるは、高さ350mのストラトスフィア・タワー(Stratosphere Tower)からの夜景見物。インサニティ、エックス・ストリーム、ビッグ・ショットの3種類の高さを売りにしたアトラクションがあるが、お金をもらっても御免被るアトラクションだ。正直、東京や大阪の夜景と寸分違わない夜景だが、空中遊覧のヘリコプターが結構目線で飛んでいる。

              
高さ350mのストラトスフィア・タワー     夜のタワー            入場チケット

  
      L.V.の夜景        地上300mの3つのアトラクション  幸いこのアトラクションは乗客なし

 最後に向かったのが、ベラッジオの噴水ショー。コモ湖を模したというホテル正面の人造湖で夜は15分ごとに繰り広げられる。パリス、バリーズを背に見るのとベラッジオを背に見るのとでは、幾分雰囲気が異なるのかも。ショーの後はベラッジオのロビーに入りアメリカ人好みのけばけばしいイタリアン装飾を見て、11時頃ホテルに戻る。

          
パリス、バリーズを正面に噴水ショーを待つ       コモ湖を模したというホテル正面の人造湖

          
15分ごとに繰り広げられる噴水ショー         湖の周りはそぞろ歩きの人でいっぱい

  
ホテル・ベラッジオのエントランス   ロビーを飾る米国人好みにしつらえたきんきらきんのイタリアン装飾

 ちなみに1996年春、女房と行ったコモ湖から船で1時間、岬の突端の高級リゾート・ベッラージオとは似ても似つかぬL.V.のべラッジオ・ホテルであった。
 食事とタワー入場料(平日$20)以外は無料のショー、3時間半ほどの車と案内・手配で約1万円強、なかなかの商売である。

          
            1996年コモの町から船で1時間、岬の突端のベッラージオの町にて

 翌朝なんと4時にホテル出発、ラスベガス発7時20分のAC1899便でバンクーバーに。乗り継ぎで12時50分のRV-1951便で関空に無事到着。
バンクーバーでのトランジットの間、ワールドカップ・ノックアウトステージの初戦「日本対ベルギー」、後半日本が2点先取で大いに盛り上がっていたが、搭乗時刻となり機上の人に。お隣のH氏とこれで3点も取られことはないよね!と勝ちを信じて関空に降り立ったら、まさかまさかの結果。
 ラスベガス帰りだけに、カジノ同様一瞬喜ばせて最後はやはり負け。

 17名の皆さんと一緒にたくさんの写真を土産に50回目の海外渡航の旅を終えました。
 今回の国際線飛行マイルは11639マイル。生涯国際線飛行マイルは、469059マイルとなった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

異文化体験50 アメリカ大自然紀行の旅(その8)光の乱舞 アンテロープキャニオン

2018年08月11日 11時29分12秒 | 異文化体験_北米
(写真はクリックで拡大します)

異文化体験50 アメリカ大自然紀行の旅

その8.光の乱舞 アンテロープキャニオン(Tse bighanilini)

2018.07.01


               

 ホースシュー・ベンドからアンテロープ・キャニオンまでは車で10分の距離。正式名称はアンテロープキャニオン・ナバホ・トライバル・パーク。ロゥワー(Lower)とアッパー(Upper)の二つのキャニオンがあり、我々が向かうのはアッパーキャニオンのトレイルだ。
 ここは、モニュメントバレー同様ナバホ族居留地域内にある。予約時刻に事務所からキャニオン入り口までナバホ族のドライバー兼ガイドが運転するジープで、細かい砂状の凸凹道(多分川床と思われる)を砂煙をあげながら約15分ほど走ると、キャニオンの入り口に到達する。
 どんなところだろうと種々想像していたが、全く想像と違った形でその入口はあった。ここでは、いくつかの約束事がある。内部は狭いので右側通行、フラッシュ撮影は禁止、往路に撮影・復路は直帰、等々である。

  
Powell湖とペイジの町周辺MAP(赤枠が訪問地)川床砂地をアンテロープへ(別会社の車)  真っ青な空とおっぱい山

          
          アンテロープキャニオンの入り口(中央の岩の裂け目)

 一歩、その裂け目に足を踏み入れると、さんざん写真で見てきたあの光景が出現する。赤茶けた砂岩とは対照的な真っ青な空から降り注ぐ陽光が、渓谷内を照らすことで、様々な形の岩壁とその複雑な岩肌模様と入射光との三者のコラボレーションが幾千、幾万の芸術を生み出している。
 最高の芸術が見られるのは、夏場の晴天、正午前後の数時間の太陽が真上にある時というのをガイド本か何かで読んだが、今がまさにその時である。
運転手兼ガイドのナバホの男性が、ここぞというスポットで撮影条件を設定して写真を撮ってくれるというので、自らはデジカメ、ガイドには一眼レフを渡して、著作権無視の撮影に徹する。(解説は不要、沢山の自然アートをご覧ください)

  
     AC06         AC07            AC08

  
    AC09           AC10             AC11

  
        AC12             AC13            AC14

  
        AC15              AC16              AC17

  
    AC18             AC19              AC20

  
        AC21              AC22             AC23

  
    AC24           AC25          AC26

 それにしても、高さがおよそ20m、全長が約150mのこのキャニオンが、上流からの鉄砲水で多くの時間を経て創られたようだが、水の威力を再認識させられる。渓谷の中の岩の上部に枯れ木や流出物が引っかかっているのが散見される。(ちょっとピンボケですがAC18を参照)
ここアッパーではないが、1997年8月12日、ロゥワー・アンテロープ・キャニオンを訪れていた欧州からの11人の若者グループがこの鉄砲水に襲われ命を落としている。うち2人の男性の遺体は未だ見つかっていない。

  
 出口の外も川床のような景色       欧州11名の若者の慰霊碑         事故時の捜索風景

 我々は運よく来るタイミングが良かったのか、渓谷出口まで行って入口に戻る頃には、渓谷内は沢山のグループが撮影ポイントで順番待ちの状態になっている。
 想像以上の大自然の創造芸術に感動するとともに、沢山の写真撮影もできて満足のうちに渓谷を後にする。

 空腹を覚える時間になっている。Pageの街のLake Powell通りに面したGONE WESTというファミリーレストランで昼食をとる。夜7時からのカントリーウエスタンのライブを売り物にしているようだが、オーナー自らランチ時の我々に特別サービス。

  
ペイジの町のファミレス「GONE WEST」 結局お昼はハンバーガーの今回の旅  店主サービスのカントリーウエスタン

 さて、この地の人は?となると思いつかない。アッパー・アンテロープ・キャニオンは、ナバホの言葉で「ツェー・ビガニリニ(Tse bighanilini)」、「水が岩を流れる場所」という意味だそうで、ナバホに敬意を表してこれを充てることに。

さあ、いよいよこの旅行の最終目的地ラスベガスに向け、445kmのバス移動だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

異文化体験50 アメリカ大自然紀行の旅  (その7) 蛇行するコロラド川 ホースシュー・ベンド

2018年08月09日 22時59分50秒 | 異文化体験_北米
(写真はクリックで拡大します)

異文化体験50 アメリカ大自然紀行の旅

その7.蛇行するコロラド川 ホースシュー・ベンド(The Platters)

2018.07.01


          
                 蛇行するコロラド川が生み出したホースシュー・ベンド

 窓ガラスの破損したバスの代車がやってきて、午前8時に5日目のスケジュールがスタート。予定ではアンテロープ・キャニオン、ホースシュー・ベンドの順だが、逆になるという。両者の距離は10分ほどの距離だそうだ。

 Lake PowellとPAGEの町周辺の観光スポット(ホースシューベンドは左下赤囲い) 
 
 荒野を走ること約2時間、前方に町と発電所らしきものを視認。川が近くにあるのだろうと思っているうちにアリゾナ州ページの街に到着。

          
車窓に3本煙突の発電所(地図にも記載)            前方にPAGEと思しき町が

 ホースシュー・ベンド(Horseshoe Bend)は、グレン・キャニオン国立レクリエーション・エリアにあるコロラド川が蹄鉄(horseshoe)の形に穿入蛇行している場所の名前である。駐車場からなだらかな下りの赤砂の道を500mほど進むと、眼前に写真で見慣れたあの自然の造形が現れる。すべてをカメラに収めるのが難しい巨大な自然のアート作品だ。

          
駐車場からなだらかな赤砂の下り斜面を10分ほど      ホースシューベンドはまだ見えない

 馬蹄形の褐色の岩肌をコロラド川の緑青色で縁取った巨大なオブジェ。コロラド川にはボート遊びをしている人が小さな点となって見受けられる。過去、ここから落下して命を落とした人もいたとか。それでも、迫り出した岩の上に乗ってポーズする。若者が後を絶たない。それほどに、自らをこの景色で包みたい絶景なのだ。

          
眼前に広がる巨大なオブジェ(パノラマ写真)           川面に浮かぶボート

          
              全容を一枚の写真に収めるのが難しい

 そのためか、説明書きによると「目の前の岩はナバホ砂岩で米国でも指折りの大きさの砂岩層。ジェラシック期に生成され610mの厚さがある。ナバホ砂岩自体は非常に硬いのだが、脆いところもある。それは露出している上部と側部。あなたが立っている所は大丈夫と思うかもしれないが、個々の砂を凝結している炭酸カルシウムは水に溶けるので、岩を弱くさせ貴方を谷底に落とすかもしれない。決して岩の端に立たないで下さい。」との説明書きのような注意書きがある。

          
  岩の淵に立つべからず!の注意書き        それでも撮りたいこの景色 自己責任の国らしい光景

 ホースシュー・ベンドを情報検索すると、ホースシュー・ベンドの戦いという1814年クリーク族インディアンと白人入植者の間のクリーク戦争が終結した闘いがヒットする。ここでそのような戦いがあったのかと思ったが、これは間違いでこの「ホースシュー・ベンド」はアラバマ州中央部のタラプーザ川の屈曲部近くで、このような川の蹄鉄形の蛇行はあちこち見受けられる。

          
アラバマ州のホースシューベンド(クリーク戦争の場所)     四国祖谷渓の「ひの字渓谷」

 コロラド川(Colorado River)は、コロラド州ロッキー山脈に源を発し,ユタ・アリゾナ・ネバダ・カリフォルニア州を経て,カリフォルニア湾に注ぐアメリカ西部の大河。
 全長2330km。そのうち1600kmが深い峡谷をなす。その代表格がコロラド高原を浸食して最高1600mの絶壁をもつグランドキャニオン。峡谷出口に1936年に建設されたフーバーダムやその他のダムが建設され,電力や用水が遠くL.A.やS.D.などに供給されている。
 このホースシュー・ベンドに関連する人としてザ・プラターズ(The Platters)を挙げたい。高校生の時、初めて買ったザ・プラターズのLPレコードに収録されていたのが「コロラドの月(Moon Light on the Colorado)」。美しい民謡曲だ。

 高校時代に買ったThe Plattersのアルバム、コロラドの月を収録

 10分ほどで降りてきた赤砂道を、倍ほどの時間をかけて駐車場へ。温度は40℃を超えているようだが、湿度が低いので日本のように汗まみれにはならない。
          
            戻りは赤砂土のだらだら上り坂、結構暑いが湿度は低い

          
      遠方を目を凝らしてみると、コロラド川が見える。(右は左の拡大写真、クリック拡大)

 さあ、いよいよ大自然紀行・最後にしてお目当てのアンテロープ・キャニオンへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

異文化体験50 アメリカ大自然紀行の旅 (その6) モニュメントバレーのドライブ

2018年08月07日 16時11分14秒 | 異文化体験_北米
(写真はクリックで拡大します)
異文化体験50 アメリカ大自然紀行の旅

その6.モニュメントバレーのドライブ(John Ford & John Wayne)

2018.06.30


          
                  「モニュメント・バレー・ナバホ族公園」

 Cameronから2時間ほど走ると車窓にお馴染みの西部劇の景色が広がる。モニュメントバレーは国立公園ではなく、正式名称は「モニュメント・バレー・ナバホ族公園」。
 アリゾナ州北部からユタ州南部にかけての約1万2千haが1958年国定記念公園に制定され、そのうちナバホ居留地は約640haで年間を通じて約300人のナバホが住んでいる。

    
  代表的な景観             多国語解説書      ナバホ族の昔の丸屋根住居

 第一次世界大戦の終わりに、丸屋根住居のナバホ族の生活域にハリー・グールディング夫妻がやってきて交流が始まり、交易所の設立等を通じて信頼関係が構築され、夫妻は病院の設立や飲料水の確保等にも取り組んだようだ。
 大恐慌の折、ナバホの経済も大いに悪化し、夫妻が採った行動がモニュメントバレーへの西部劇のロケ誘致だった。これが実現し、ナバホの経済的危機も救われ、夫妻の名も世界的に知れ渡るようになった。かくて、1938年モニュメントバレー初の西部劇映画「駅馬車」が制作された。

  
    Mr. Goulding              John Ford        駅馬車の一場面(John Wayne)

 そのグールディング夫妻のロッジ(Mr&Mrs Goulding’s Lodge)から、モニュメントバレー・ドライブが始まる。勿論、最初の家や交易所を復元した出発点である。
 ロッキー山脈から浸食によって流出した沈殿物が低地帯に蓄積し、それが砂岩や石灰岩の間に流れ込んでセメント状態になり、その後その低地帯が約300mの高さに隆起し岩の台地となった。その後5千年もの間の様々な浸食・風化で今日のモニュメントバレーが形成されたとか。

  
(2)出発点グールディング夫妻のロッジ   今日のバレードライブ走路     赤土砂塵の中マスクをしているのは日本人

 ここでのキイワードは、メサ(テーブル上の台地)とビュート(岩峰)。様々な自然の造形が、生物や偶像の形を連想させる。年間降雨量200mmの乾燥赤土大地から巻き上がる砂埃の中をトラックの荷台に揺られながら通り過ぎるメサとビュートを観察する。(写真解説番号は地図上の番号と符合する)

   
(15)ビジターセンター辺りの景観        (18)Sentinal Mesa              (19)Left Mitten

 一番の見どころは、ジョン・フォード監督がこよなく愛したというフォード・ポイント。岩盤の上に馬に跨る西部の男が絵になるシーンということで、客待ちしている。モニュメントバレーの代表格の写真である。様々な西部劇やバック・トー・ザ・フューチャー等々の映画撮影舞台になったモニュメントバレー、最後にフォレストガンプポイントで記念撮影して、今宵の宿舎ヒルトン系の「ハンプトン・イン・カイエンタ」に。


(25)J.Fordがこよなく愛したという景色  絵になる写真(馬の客待ち、確か$10)   (21)Elephant Butte

  
   (7)Merrick Butte             (24)Three Sisters             (22)North Window


           
(27)Thunderbird Mesa方面                    (2)Goulding's Lodgeへの帰路

               
フォレストガンプ・ポイント(車が高速で通るので危険)   トム・ハンクス主演「フォレストガンプ」

 今宵の夕食はシーフード!と添乗のC嬢の説明に一瞬喜んだが、こんな砂漠の中でシーフード?、出てきたのはサーモンでした。明日は観光最終日。ラスベガスでの宿泊も、翌4時のホテル出発とあって、皆さん荷造りに忙しいのか、食事の後は早めに部屋へ。

  
Hampton Inn(左は代替バス)      生野菜が不足気味で有難い         メインの魚料理

  
   ヒルトン系のホテルロビー     ロビーの壁を飾るナバホの画         ホテルの名刺

 モニュメントバレー、今日の人は、Mr&Mrs Gouldingと、John Ford & John Wayneで決まり!

 明日は、ホースシューベンドとアンテロープキャニオン、そしてラスベガス。
 どんな撮影ポイントが待っているのか、楽しみだ!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

異文化体験50 アメリカ大自然紀行の旅(その5)奥行感が出せない! グランドキャニオン

2018年08月06日 18時07分33秒 | 異文化体験_北米
(写真はクリックで拡大します)
異文化体験50 アメリカ大自然紀行の旅

その5.奥行感が出せない! グランドキャニオン(Mary Elizabeth Jane Colter)

2018.06.30


        
            グランドキャニオンの航空写真(赤字Mhaマーサポイント、Dはデザートビューポイント)

 今まで雑誌やTVの映像で幾度となく見てきた巨大な崖が、圧倒的なスケールで眼前に広がっている。
 長さ446km、幅6km~29km、平均深さ約1200m(最深地点は1800m)に及ぶ巨大な峡谷が、どのようにして出来たのか、諸説あるようだが、一般的には「約6600万年前コロラド高原岩層の隆起が始まり、海底よりその姿を現した。 この岩層はグランドステアケース(大階段)と呼ばれており、 グランドキャニオン~ザイオン~ブライスキャニオンまで1連となっている。約1000万年前現在のコロラド川の源流を形成。 その後も侵食を続け、現在のような大渓谷となった。」ということらしい。
 しかし、年間降雨量はサウス・リム (South Rim) で380mm、最深部では年間200mm程度の雨量でこんな渓谷が形成できるのか、と不思議がる小生だが、これは今の話。1000万年というとてつもない長い間の地殻変動、気候変動や雪解け水等々、自然の力には想像を絶するものがある。

  
    MAP(赤枠が今回のビューポイント)             グランドキャニオンの地層図            公園入り口の車列

 グランドキャニオンの巨大な谷は、北の壁をノースリム、南の壁をサウスリムと言い、サウスリムはビレッジを中心にして西にウエストリム、東にイーストリム(リム、Rim:淵、崖の意)と続き、谷を見下ろす数多くのビューポイントがある。
 我々が最初に立ち寄ったのはサウス・リムのマーサ・ポイント(Mather Point)。マーサはこの公園誕生に尽力した初代アメリカ国立公園局長の名前で、Stephen.T.Matherの銘板が展望台に置かれている。

          
                     マーサポイントからのパノラマ・ビュー

  
基底部までは千数百メートル          カラスも一服            自らの立ち位置は知らぬが仏

           
窓ガラス破損で機敏に対応した添乗員のC嬢            初代アメリカ国立公園局長Stephen.T.Matherの銘板

 ここは1、2を争うビューポイントのようで、グランドキャニオンの実に1/4が見渡せるポイントのようだ。しばし静かに大自然の造形と息吹を感じたいところだが、声高のお隣の国の方々も到着してそれどころではない。自らの立ち位置を知らずに絶景に酔いしれているが、そこは谷底まで千数百メートルはあろうかという絶壁に張り出した岩の上。

          
ここからグランドキャニオンの1/4が見渡せるとか   写真では奥行感が出ない     ショットポイントの公園碑


 サウス・リムの東の端にデザート・ビューポイント(Desert View Point)があり、渓谷の底を流れるコロラド川の様子がよくわかる。ここには、先住民族の見張り塔を再現したウォッチタワーがある。高さ21mの鋼構造のタワーで設計者はメアリー・エリザベス・ジェーン・コルター(1869-1958)。1932年の作品だ。コルターの傑作の一つに、1923年建設したニューメキシコ州のナバホの砂の絵を取り入れた近代的なエル・ナバホ・ホテルがある。

         
先住民族の見張り塔を再現したウォッチタワー       コルター設計の高さ21mの鋼構造のタワー

   
    タワー最上部からの眺望          渓谷の底を流れるコロラド川の様子         基底部をちょっと拡大

 タワーの中には、ナバホ族伝統の織物ナバホラグ等の土産品も売られており、壁画を楽しみながら螺旋階段を上がり最上階からはグランドキャニオンと蛇行するコロラド川も一望できる。さすがに、ここまでは声高の隣人たちも来ていないので、静かに大自然を楽しむことが出来る。

          
螺旋階段を上がるタワー内部             ナバホ族等先住民の独特のアートが見れる

  
     パノラマ写真            断層の所々に穴住居のようなものが          複雑に断層が入り組んで

         
               デザートビューポイントからのイーストリム方向の眺め     

          
後方窓ガラスを破損した痛々しい我々のバス              環境問題に配慮した天然ガスバス

 1時間程走って、Cameronのギフトショップ兼レストランで昼食。メニューはスープととてつもなくでかい揚げパン。スープの味が出された皿ごとに異なっていたようで、隣のテーブルでは辛い!とひと悶着。

  
Cameronのギフトショップ兼レストラン         スープと揚げパンの昼食            レストラン内部の様子

 アメリカ・インディアンやカナダ・インディアンのファースト・ネーションの文化的アイデンティティーの象徴と見なされるものに、眠っている子供を悪夢から守ってくれる魔除けのお守り「ドリームキャッチャー」がある。クモの巣状の目の粗い網が組み込まれ、羽やビーズなど独特の神聖な小道具で飾られたものだ。悪夢は網目に引っかかったまま夜明けと共に消え去り、良い夢だけが網目から羽を伝わって降りてきて眠っている人のもとに入ると言われている。小さいのを一つゲット(8.11ドル)。

          
 ドリームキャッチャー($7~)         お隣のレトロっぽいCAMERON郵便局

 グランドキャニオンの人は、やはりこの人。建築家兼インテリアデザイナーの「Mary Elizabeth Jane Colter」。先住民の文化とグランドキャニオンをこよなく愛した人。

  
    Mary Elizabeth Jane Colter         ウォッチタワーの傍の解説銘板        コルターが愛したナバホの砂の画デザイン

 食事の後は、モニュメントバレーへ。此度の旅もいよいよ終盤戦だ。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

異文化体験50 アメリカ大自然紀行の旅 (その4) バスの窓ガラスをも打ち砕くセドナのパワー

2018年08月04日 17時15分27秒 | 異文化体験_北米
(写真はクリックで拡大します!)

異文化体験50 アメリカ大自然紀行の旅

その4.バスの窓ガラスをも打ち砕くセドナのパワー(ベンジャミン・ロントリー)
2018.06.29


 アリゾナ州とユタ州の境にあるパウエル湖を中心に半径約225km円をグランドサークルという。この中には、グランドキャニオンはじめ10近い国立公園が包含される。セドナは、このサークルの南端に位置する。

           
   グランドサークルとは                グランドサークルと国立公園

 午後5時過ぎ、バーストーから610㎞走って標高約1310mに位置する町、セドナに到着した。
 水や空気の渦巻きを一般的に「ボルテックス(Vortex)」と言うが、セドナには不思議なボルテックスがあり、パワースポットとして注目を集めている。また、「癒しの聖地」として世界中から芸術家、エコロジスト、宗教家、リタイア組などが集まり、生活している。

          
セドナのMAPと「ベルロック」「エアポートメサ」(赤枠)     ホテル提供のハガキ 
     
 
 ボルテックスの中でも一際強いエネルギーを放つボルテックスが4つあり、「ベルロック」「エアポートメサ」「カセドラルロック」「ポイントキャニオン」が4大ボルテックスと言われている。
 早速、その中の一つ「ベルロック」を訪ねる。小生の感度が鈍いのか正直パワーを感じることはないが、赤茶けた岩肌が織りなす景色には圧倒される。

          
         ボルテックスの中でも最強と言われるベルロック(1)(クリックで拡大)

          
         ボルテックスの中でも最強と言われるベルロック(2)

 自由時間に各自夕食を取り、その後もう一つのポイント「エアポートメサ」を訪ね、陽の入り(午後7時過ぎ)を見るというので、「Canyon Breeze」という店でピザを食して街を散策する。パワーストーンを扱う店が多く見受けられる。

          
                街を取り巻く様々なレッドロック

  
フードコート「Canyon Breeze」         店内の様子           店の奥のテラスからの眺望

  
       様々なお店が(左:パワーストーンの店 中:ロウソクアートの店 右:チョコレートのお店)

          
                  街を演出するアート作品

 エアポートメサはセドナの街を見下ろす高台にあり、すでに多くの陽の入り見物客が集まっている。ここエアポートメサは男性的なエネルギーがある場所と言われているが、空を赤く染めてゆっくりと太陽がフェードアウトする様は、女性的でもある。

      
               エアポート・メサから見るセドナの街

          
                エアポート・メサの日の入り

 セドナの宿舎は、「The Andante Inn of Sedona」。これまた、申し分のない宿舎である。セドナの名前は、当地にやってきた白人夫婦の夫人の名前であるが、先住民との物語は別に譲りたい。セドナを語るには、ベンジャミン・ロントリーを挙げたい。今日なおパワースポットの源泉・強度を探索継続中とか。成功を祈る。

  
セドナの宿舎「The Andante Inn of Sedona」     食事に期待は禁物           ホテルの名刺    

 しかし、パワーが強すぎるのも困ったもの。翌朝、バスでセドナのいろは坂を下山中、小生の座る窓ガラスが粉々に割れた。幸い2重窓で外側の紫外線除けの窓が破砕され、内窓はひびが走る程度だったので、けが人もなく事なきを得たが、セドナのパワーは強しである。落石説、突起岩接触説等々、一瞬の出来事に諸説紛々。

  
ホテル前を7時半に出発     いろは坂を一路グランドキャニオンへ、突然!! 二重窓の外ガラスは粉々、内ガラスには大きなクラック

 ノルウェイ人運転手の心理状態を心配しつつ、安全運転で、いざ!グランドキャニオンへ!!!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

異文化体験50 アメリカ大自然紀行の旅 (その3) マザーロード "U.S. Route66"

2018年08月01日 15時45分54秒 | 異文化体験_北米
(写真はクリックで拡大します)

その3.マザーロード “U.S. Route66”(John Ernst Steinbeck)2018.06.29


 バースト―からセドナにむけ、バスはひたすら荒野を走る。米国内の州間道路の番号は、偶数が東西、奇数が南北に走るhighwayだそうな。
 我々が走っているのは、highway40。この道とほぼ並行してかつてRT66が走っていたようだ。バースト―を8時に出発し、同じ景色の中をうつらうつらしながら、バスはいつの間にかアリゾナ州に入っている。


RT66:イリノイ州・シカゴ⇔カリフォルニア州・サンタモニカ  highway40の隣に時折RT66が   キングマン⇔セリグマンにヒストリックRT66が残っている  

2時間走ってトイレ休憩に立ち寄った駐車場に、「Camp Clipper Desert Training Center」の銘板があった。「第二次大戦の際、1942年に設置された12の砂漠訓練センターの一つで、ほぼ2年間設置され、およそ100万の兵士が戦場に送られた。ここでは第33&93歩兵部隊が訓練した。
NAZI GERMANY,FASCIST ITALY & IMPERIAL JAPANを終結させた、当地で訓練し、とりわけ戦死した兵士達に捧げるモニュメント」とある。こんな所に訓練場があったとは!

   
荒野のHighway40と車列      「Camp Clipper Desert Training Center」      砂漠の生き物

車窓にはサンタフェ鉄道であろうか、時折貨車列を延々と引っ張る機関車が見える。お昼前にコロラド川を越えると周辺の景色に緑が増え、ゴルフ場も車窓から見える。


(要 クリック拡大)貨物列車の長~い列  コロラド川を渡ります        緑が増え、ゴルフ場まで出現   

 お昼はウォールマート周辺で各自自由昼食。特段買うものもなく、ガイドお勧めのハンバーガーショップ「IN-N-OUT」に向かう。マクドナルドとは異なる新鮮・国産素材を売り物に、味も確かに美味い。店内は大いに流行っており、チーズバーガーオニオンを注文したが11番目の順番待ち。この商品の重さ、カロリー、飽和脂肪量、コレステロール、糖、プロテイン、ビタミン等々詳細成分が表記してあるのには驚いた。

          
ウォールマートでショッピング&昼食休憩      米国本土の南西部・中部に展開する「イン・アンド・アウト ハンバーガー」


ウォールマートから歩くこと10分       店内は大賑わい        メニューごとの成分数値表                 

 1985年に59年の歴史に幕を閉じたRT66だが、事の発端は第二次大戦でドイツ・アウトバーンを目にしたアイゼンハワーが、1956年連邦補助高速道路法にサインしたことに始まり、順次高速道路網が整備されHighway40の完成で正式に廃線となった。
 これから行くキングマンからセリグマンの間はヒストリックルート66が残っているようだ。今まで一日9000台通っていた車が一夜にして消えたことを憂い、この保存に尽力したのがセリグマンの散髪屋Angel爺さんとか。今は「Angel & Vilma Delgadillo’s Rout 66 Gift Shop & Visitor’s Center」としてRT66関連グッズの土産品等でRT66を懐かしんで訪れる人々をもてなしている。小生がゲットしたのはRT66の野球ボール(12.75ドル)。

           
                セリグマンのヒストリック・ルート66

  
          「Angel & Vilma Delgadillo’s Rout 66 Gift Shop & Visitor’s Center」

  
確かにAngels BARBER SHOPが実在       ギフトショップの内部        買って帰った野球ボール  

          
   Angelさんの活動紹介カード                お店のネームカード

 ちなみに、キングマンからセリグマンまでは、
RT66ルートの場合、137.6㎞(86マイル)約2時間
Highway40の場合、112.0㎞(70マイル)約1時間 とのことである。

          
14インチの白黒テレビで見た懐かしいRT66         路面に書かれている場所は限られているようだ             

 二人の若者が、カリフォルニア州ロスアンゼルスとイリノイ州シカゴを結ぶこの道路をコルベットのオープン・スティングレ-でドライブしながらその途中で遭遇する出来事をストリーにしたRT66を、白黒14インチテレビで見た世代にとっては、旅愁を誘う雰囲気が残っている。
 今日の人は、RT66を「マザーロード」と言わせしめた名画「怒りの葡萄(The Grapes of Wrath)」の小説作家John Ernst Steinbeckとしよう。

          
 パーキングエリアのアリゾナ紹介         ハート形のサボテンを見つけよう

 セリグマンを後に、最終目的地「セドナ」までは更に2時間少々のドライブが続く。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

異文化体験50アメリカ大自然紀行の旅 (その2) 生物多様性に富んだヨセミテ国立公園

2018年07月29日 14時37分09秒 | 異文化体験_北米
(写真はクリックで拡大します)

その2.生物多様性に富んだヨセミテ国立公園(Galen Clark & John Muir)2018.07.28



               ヨセミテ国立公園トンネルビュー(パノラマ合成写真)

 旅程二日目、ホテルを午前8時半に出発、これから最終旅程のラスベガスまで長~い長~いバスの旅が始まる。
カリフォルニア州シエラネヴァダ山脈中心部に位置するヨセミテ国立公園、面積約3千平方kmというからわが大阪府や東京都の1.5倍の広さである。年間来場者が約350万人で、そのほとんどの人がヨセミテ渓谷(18平方km)に訪れる。我々が訪れようとしているのも、まさにこのヨセミテ渓谷である。

        
ヨセミテ公園MAP(地図上切り出し部が今回訪問)      (主要なビューポイント)

 国立公園の入口は、National Park Serviceのゲートがあり、一般車両は20ドルを支払って中に入る。自然豊かな公園は、時として山火事を引き起こす。以前の管理はあるがままのスタイルだったようだが、焼失面積の大きい山火事等の発生で最近では消せるものは消すように管理スタイルを変更しているようだ。

            
         公園の入り口(National Park Serviceのゲート(左)とマーク(右))   

            
夏季、乾燥期に頻発する山火事(木が真っ黒)          このトンネルを抜けたここがトンネルビューポイント

 2時間ほど走って、最初のビューポイント「トンネル・ビュー」に到着。何がトンネル・ビューなのかわからなかったが、要はトンネルを抜けた先に広がるヨセミテ渓谷を一望できる最も人気のある写真スポットである。1944年写真家アンセル・アダムがここで撮影した写真がサザビーのオークションで3千万円以上の値がついたとか。一番奥にハーフドーム、左手にエルキャピタンの絶壁、右手にブライダルベールの滝など、これから行く主な見どころが視野に飛び込んでくる。


       トンネルビューからの眺め(左手:エルキャピタン 中央:ハーフドーム 右手:ブライダルベールの滝)

 ブライダルベールの滝。その名のように流れ落ちる水が風になびいて花嫁のベールの様にみえることから名付けられたようだが、陽光がまともに逆光で下からの写真はお箱入り。渓谷反対側にエルキャピタン(標高2307m)。高さ1000mの垂直花崗岩でロッククライマーにとっては聖地のようなもの。この日は残念ながら視野に認めず。


   ブライダルヴェールの滝(花嫁のベールのようには撮影が難しい)     エルキャピタン(垂直1000mの絶壁)

 渓谷をさらに奥に進むとヨセミテ渓谷ビジターセンターに至る。公園内にはマーセド川とトゥオルミ川が自然・景勝河川として管理されているが、ここを流れているのはマーセド川。カヤック遊びをする人の背景に巨大なハーフドーム(標高2693m)が見える。

            
マーセド川でカヤック遊び(背後にハーフドーム)      ヨセミテ滝の全容(3段だが2段しか見えない)

 この辺りから、ヨセミテ滝の全容が見える。と言っても滝自身3段の滝で真ん中は見えない。3段飛びではないが三つ合わせて北米で一番落差があるのだとか。ちなみに、アッパーフォール(436m)、カスケード(206m)、ローワーフォール(97m)、あわせて739m。雪解け水の頃は圧巻だそうだ。ローワーフォールまでは歩いて行けるので、丁度昼時、お弁当(サンドイッチ)持参で自由時間、自由散策となった。
一段の滝としてのローワーフォールの落差97mは、那智の滝の133mにはかなわないが、雪解け時には迫力において勝であろう。滝壺周辺には多くの人々が涼を求めつつ雄大な景色を楽しんでいる。昨夕の和食弁当といい、このサンドイッチといい、ツアー参加者の年齢構成には不向きなボリュームである。

               
    ヨセミテ滝               滝の解説模型                 下段の滝つぼ   

          
落差は97m 涼を求めて人々が滝つぼへ       緑豊かな公園には多様な生物が       

 ヨセミテ公園の自然と景観を十分楽しんだ後は、今宵の宿舎カリフォルニア州バーストーのホテルに向かう。今日のバスの走行距離は608km。
夕食に立ち寄ったのは、Roadhouse LOGAN’s. ステーキハウスである。ツアーガイドから「今回のツアー目的地を考慮いただき食事には過大な期待をしないように」という前触れがあったが、二日目にしてステーキハウスなので期待したが、確かに確かにであった。

  
                ROADHOUSE ROGAN'sでの夕食(パンが美味かった)

     
 ROGAN'SのNAMECARD   今回ツアーの皆さん(ぼかしてます)と店の雰囲気    

 バーストーは、東カルフォルニアのモハベ砂漠にある都市。銀山開発で栄えルート66の宿場町である。
今宵はモーター・イン「QUALITY INN BARSTOW」に投宿。
 「今日の人」は、ヨセミテの保存活動に尽力した二人:Galen Clark & John Muir

  
         今宵の宿舎「QUALITY INN BARSTOW」 ここも小奇麗なモーターイン

 明日は、いよいよ内陸部へ。ルート66とセドナ観光!!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

異文化体験50 アメリカ大自然紀行の旅(その1)わが心のS.F.とBOUDIN

2018年07月26日 21時42分00秒 | 異文化体験_北米
異文化体験50 アメリカ大自然紀行の旅 2018.06.27-07.03

 かつて私は1983年~92年にかけてアメリカ大陸西海岸の都市を6回訪れている。シアトル、サンフランシスコ、ロサンゼルス、サンディエゴ、メキシコのティファナ等である。しかし、残念ながら大自然を擁するに内陸部に足を延す機会はなかった。

 今回はそんな大自然を7日間で巡る17名のグループツアーに参加して、写真撮影を楽しむことにした。昨年南イタリアに同行した女房は、既に大自然を空から遊覧飛行しており、長時間のフライトは結構ということで、単身参加となった。

 今回の旅のブログは、スケジュールに合わせて以下のように掲載することにする。
その1.わが心のS.F.とBOUDIN(Tony Bennett)
その2.生物多様性に富んだヨセミテ国立公園(Galen Clark & John Muir)
その3.マザーロード“U.S. Route66”(John Ernst Steinbeck)
その4.バスの窓ガラスをも打ち砕くセドナのパワー(ベンジャミン・ロントリー)
その5.奥行感を出せない! グランドキャニオン(Mary Elizabeth Jane Colter)
その6.モニュメントバレーのドライブ(John Ford & John Wayne)
その7.蛇行するコロラド川 ホースシュー・ベンド(The Platters)
その8.光の乱舞 アンテロープキャニオン(Tse bighanilini)
その9.金と鉄道とカジノとホテル、そして核実験場 ラスベガス(Benjamin Siegel)


 
(写真は、クリックで拡大します)
異文化体験50アメリカ大自然紀行の旅(その1)わが心のS.F.とBOUDIN(Tony Bennett)2018.06.27


 関空午後5時15分発、エア・カナダルージュ1952便でカナダ・バンクーバーに。バンクーバーからはエア・カナダ0566便でサンフランシスコに至るフライトである。このため、米国ESTAに加えてカナダeTAが要求される。  カナダ・バンクーバーで米国入国審査を受けるのだが、その前のトランジット検査場で検査係員の女性が小生の搭乗券にSSSS(Secondary Security Screening Selection)マークを印字し、詳細検査が始まった。SSSSは、搭乗者に対しては衣類から持ち物まで十分すぎるほどのチェックを行ったほうがよいという意味でカウンターからTSA職員に申し送る隠語のようなもの。保安当局の言い分では、抜き取り検査的なものと言っているが、どうも怪しいと睨まれたようだ。
 小生の前の女性は手荷物に規制を上回る液体を持っていたようで、廃棄処理に同意するかどうかでもめている。小生はカメラのバッテリーチェックを要求されたが問題なく10分ほど余計に時間がかかって入国の自動チェックイン機へ。幸い同行ツアー客も慣れない機械に手間取っており追いつくことが出来た。 しかし、ここでまた問題が。自動チェックインの操作はすんなりパスしたが、出てきたカードはNO2. 思い当たるのは眼鏡。写真撮影の際、眼鏡を外さなかったからだろう。

           
(左)バンクーバー経由サンフランシスコ着      (右)チケットのSSSSマークは、要詳細検査の意味

 ツアー客のバッゲージロスが発生し、夕刻のサンフランシスコ観光は午後5時をまわってのスタート。曇天かつ肌寒い陽気である。  サンフランシスコは過去3度訪問している。郊外にメンロパークと言う学園都市がある。全米でハーバードと1,2を争う名門スタンフォード大学の街である。かつて、スタンフォード研究所(SRI)と共同リサーチを行うため、「マーメード・イン」と言う今回のツアー宿舎と同じようなモーター・インに投宿していた。30数年前の話である。

  
約35年前の写真です(左:スタンフォード大学、  中:スタンフォード研究所   右:マーメード・イン)

 ゴールデン・ゲート・ブリッジは、今回は珍しくその全容を見せてくれている。過去、いずれも上層部が霧に覆われた橋を見てきたが、唯一全容を見たのは機内からであった。沖合には世界で最も有名な刑務所と言われたアルカトラズ島が霞んでいる。1962年の脱出劇実話がクリント・イーストウッド主演の映画「アルカトラズからの脱出」で描かれている。金門橋は、確かIN時が有料で、OUT時は無料だったと記憶しているが、橋を渡った所からのS.F.の街の景色が記憶に焼き付いている。

             
バスの車窓から(左)カリフォルニア・シールを掲げる会議場 (右)おなじみサンフランシスコのケーブルカー

 
約35年前の写真です(左)機窓から見る金門橋 (中)霧に身を隠す金門橋 (右)橋脚の最上部は常に隠れていました

 
夕刻のゴールデン・ゲート・ブリッジ(クリックで拡大します、主スパンは4200フィート=約1200mだそうです)

 フィッシャーマンズワーフのPier39は、昔の面影はどこへやら巨大なアミューズメントエリアと化していた。Pier39の突端に以前はなかったように思うがK-Dock Sea Lionsが出来ている。この日は天気もいまいちなのか、あしか君たちも姿を見せていない。

  
(左)アルカトラズ島を望遠で   (中)Pier39の蟹のモニュメント    (右)Pier39突端から見たアルカトラズ島

         
       (左)今日のK-Dock Sea Lions      (右)本来ならこんな感じ

  フィッシャーマンズワーフの本流は、Pier45とその根元周辺であったように思う。私の好きなBOUDINの大きな店はそこにある。S.F.に来ると下り専用の曲がりくねった花の道ロンバードストリートをドライブし、フィッシャーマンズワーフのBOUDINであのサンフランシスコ名物の酸味の強い「すっぱい」パンで知られるサワードウ・ブレッド(Sourdough Bread)を買って、マーメードインで毎朝食していた。夕食はメンロパークのマッカーサーパークという駅舎を改造したステーキハウスで、やや甘めのソースを冠したリブステーキを食していたが、ここのリブステーキを凌駕する味は未だ経験していない。お薦めである。

  
約35年前の写真です(左)S.F.名物ロンバードストリート (中)フィッシャーマンズ・ワーフ (右)メンロパークのマッカーサーパーク

  有難いことにPier39の入口右手にBOUDINの店があり、the smallest oneと言うと写真の大きさのパン(3.39ドル)だそうで、とにもかくにも30数年ぶりに味わうことが出来そうだ。

         
(左)Pier39入口付近の雑踏(BOUDINは右手に店が)  (右)一番小さいサワードウ・ブレッド(Sourdough Bread) 

今宵の宿舎は、ヨセミテエリアのOAKHURSTのCOMFORT INN。小奇麗な設備も満足できるモーター・インだ。翌朝、朝食に事務所棟に行くと先発するJTB旅物語の御一行様で小さな食事処が大混雑。とりあえず持てるだけを持って部屋食で済ませ、BOUDINのパンを持って第二ラウンドで再訪し、給仕のおばさんにこれをカットしたいと言うと「オー!サンフランシスコ」と親しみのある顔で、こちらにおいで!と小さな厨房の中へ招き入れ、パン切ナイフを出してくれた。かくしてあの味の再現が実現した次第である。

   
     今宵の宿舎 ヨセミテエリアのOAKHURSTのCOMFORT INN

  
(左)食堂大混雑につき第1ラウンドは部屋食 (中)35年ぶりに味わうサワードゥ・ブレッド(右)ピグミーヤギのお見送り

 私にとってS.F.と言えば、Tony Bennettの「I left my heart in San Francisco」とBOUDINの「Sourdough Bread」。
 さあ、次なる訪問地「ヨセミテ公園」に向け出発!!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ディベート合戦、煙草は場外で -ワシントン-(異文化体験15 日米舌戦の旅2)

2011年08月21日 13時08分52秒 | 異文化体験_北米
(写真はクリックで拡大します)

ディベート合戦、煙草は場外で -ワシントン-  1993.8.27

 ディベート合戦の場 ワシントンDC

 ラガーデイア空港を午前8時半に飛び立ったデルタ航空のシャトル便は、1時間後にワシントン・ナショナル空港に着陸。アメリカ・ガス協会(AGA)の理事長は、ロビー活動も含めなかなかにやり手と聞いている。副理事長は私の交渉の相手で、気の良いおじさんである。AGAから今夕の食事の誘いも無かったし、こちらも気の進まない出張だけに夕刻には早々とワシントンからニューヨークに戻るつもりである。

     
(左)ワシントン・ユニオン駅(AGAの建物はこの近く)   (右)AGAのロゴマーク

 10時にAGAとのミーティングがスタート。デリケートな問題だけに通訳を用意して貰った。そもそも何故日本で縦断パイプライン(PL)の入札が始まろうとしているという情報がAGAにもたらされたのかが、はっきりしない。会員の一部からそのような情報が寄せられ、実態調査もせずに日本に圧力を加えようとするあたりが米国らしい行動である。

 そんな事実はないと説明すれども、相手はなかなは信用する気配も無く、日本の天然ガスパイプライン網の実態説明から始めることにした。今回は少しお硬い話で恐縮です。

 1)東京、大阪、名古屋周辺を中心に、ローカルなパイプライン網しか存在しておらず、縦断パイプライン網を整備するためには、経済性を確保するためにエネルギー業界が賛同し、共同PJとして整備、運用する必要性があり、必ずしも足並みが揃っていないこと。

 日本の国内パイプライン網(網には程遠い)

 2)米国のPLと違って日本のPL整備は、太平洋ベルト地帯の都市部を繋ぐだけに、保安コスト等も乗っかり工事費が少なくとも米国の数十倍以上はかかること、

 
         原野を伸びるロシアの天然ガスパイプライン敷設工事風景

 3)また過密地帯を通るだけに一日あたりの工事進捗がパイプを転がすだけの米国と違って数十分の一以下であること。

     
(左)ロシア~ヨーロッパへの天然ガスパイプライン網 (右)カナダ国内の天然ガスパイプライン網

 4)更にライト・オブ・ウエイ(敷設ラインに対し公益を優先させる権利)を有する米国に対し、日本には似たような概念として土地収用法があるが、発動された例が極めて少ないこと、等々時間を忘れての議論となる。

 日本より遥かに遅れて天然ガスを導入した韓国のパイプライン網

 JGAの専務理事は大学で弁論部出身とあって、日本語同士のディベートであればそれなりの迫力はあるが、何せここはワシントン。通訳を介してのディベートでは効果はいまいちか?

 昼食をはさんで、延々6時間半に及ぶ議論に、最初に降参!まいった!と言ったのは通訳!、朝から夕刻まで休むことなく続く議論に音をあげた。
 次にまいった!のは喫煙家の小生、全館禁煙とあって1時間ごとに小休止を提案すれども、あまりの議論の堂々巡りに一人席を抜けて建物の外で、その都度2服。

 16時半になって、相手方理事長も「分かった!動きが出れば米国も参画出来るよう配慮して欲しい」でやっとけり。


 シャトル便の元祖 シャトル・イースタンの初期広告

 17時半のシャトル便で、ワシントンからニューヨークにとんぼ返り。46番街の「AWOKI(青樹)」という日本レストランで「ああ、しんど!」と一応の所期の目的を達成した慰労会を催す。

 それにしても、米国人とは何といい加減な人種なのだろう。AGAだけがそうなのかなあ?


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする