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旅行記、世相独言

「清流のすすり泣く町」② -グラナダ-(異文化体験30 灼熱のアンダルシアの旅6)

2013年05月26日 09時08分13秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

「清流のすすり泣く町」グラナダ② -グラナダ- 97.07.26-07.27

 アルハンブラ宮殿の象徴「ヘネラリッフェ庭園」

 アルハンブラ宮殿の東側、坂道を10分ほど上がった所にある夏の離宮「ヘネラリッフェ」。
 この離宮の「アセキアのパティオ」は、アルハンブラ宮殿の象徴としてよく写真に登場する庭園である。細い水路の両側にはほとばしる噴水、バラ、オレンジ、月桂樹の木、糸杉等で囲まれ、独特の魅惑的な雰囲気が漂よっている。空中庭園とも言われるこの庭園で国際音楽舞踏祭が開かれている。

 「空中庭園」の意味  

 暑い日中に、正直これだけ歩き回るともはや限界である。宮殿を後にして昼食・休憩、やれやれである。大司教館の脇の庶民的なビブ・ランブラ広場に近い所にラ・アルカイセリアというグラナダ名物のアンダルシア料理店が昼食の場所。昼食後は、少しの時間アラブ色の濃いバザール「アルカイセリア」を散策する。イスラーム時代は絹市場だったようだが、今は土産物屋に占領されてしまっている。

         
                 19世紀末に造られたアルカイセリアのバザール

 バザール横のビブ・ランブラ広場、暑い!暑い!

 午後の観光は、「カテドラル」と「王室礼拝堂」。キリスト教徒にとってレコンキスタはアメリカ大陸発見と同じ位の大偉業であったに違いない。イスラームをイベリア半島から追い出したイザベル女王とフェルナンド王の両王が、自らの墓地を偉業の象徴であるグラナダに築いたのは決して偶然ではなかろう。「カテドラル」は1528年にゴシック様式で着工、後にルネサンス様式を取り入れた5身廊式の落ち着いた外観に手直しされ完成した。

 カテドラルの主祭壇、祈りを捧げるカトリック両王の像

 カテドラル最大の傑作は何と言っても「王室礼拝堂」。エンリケ・デ・エガスが建造し、1521年にカトリック両王の遺骸が納められた礼拝堂である。両王の墓はイタリア産大理石で造られ、黄金の格子に囲まれている。礼拝堂には娘夫婦の墓もある。入場料250ペセタ必要。

   
(左)1505~07年に建造された王室礼拝堂の入場券   (右)美しい鉄格子に守られた両王の墓

 地中海、大西洋併せて800kmに及ぶ海岸線を有し、ジブラルタル海峡を挟んでアフリカ大陸モロッコまでわずか14kmという地理的条件から、アンダルシア地方は古来から様々な外的影響(文化的、宗教的、政治的)を受けてきた。
 その最大の影響因子がイスラームで、アンダルシアは正にイスラームとカトリック融合の地であり、その証を種々見聞して来た。これはアンダルシアに限ったものでなく、スペインが他の欧州諸国と決定的に違うのはイスラームの影響を強く受けている点だと人々は言う。

 グラナダの開城

 灼熱のアンダルシア観光もこれにて終了。夕刻19時55分の飛行機で一路カタルーニャの都バルセロナへ。21時05分の到着である。


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「清流のすすり泣く町」① -グラナダ-(異文化体験30 灼熱のアンダルシアの旅5)

2013年05月20日 18時19分31秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

「清流のすすり泣く町」グラナダ① -グラナダ- 97.07.26-07.27

 コルドバからバスでグラナダへ。ホテル・メシア・グランビアがグラナダの宿舎。今宵は食事付きのフラメンコショーが待っている。

 ホテル・メシア・グランビア

        
  本格的なフラメンコの踊りは、日付変更線が変わる頃に行かないと見れません

 サクロモンテの丘の洞窟タブラオというのを一度体験してみたかったが、今宵は街中のタブラオ。どのタブラオも宵の内は駆け出しのダンサー達。
 やはり日付変更線あたりからタブラオに行かないと真打の踊りは見れないもの。到底、グループツアーでは体験できないので、それはそうと割り切って、グラナダの夜を楽しんだ次第である。



 シエラネバダの峰から豊かな地下水脈がアルハンブラ宮殿に

 アンダルシアの詩人マヌエル・マチャードが「清流のすすり泣く町」と呼んだグラナダ、シェラネバダの高い山頂からの地下水脈が湧き水や小川となってグラナダの町、更にはアルハンブラ宮殿のアキセアのパティオを潤すのである。

 急斜面に白い家壁が並ぶアルバイシンの丘と、ダロ川を隔てて対峙する双子のような丘にアルハンブラ宮殿がそびえている。アルハンブラとはアラビア語で「紅色の城」を意味し、その名は城が建つサビーカス丘陵の赤土に由来するようだ。

 サビーカス丘陵のアルハンブラ宮殿(BONECHI社アンダルシーア)

 中世のレコンキスタの強まりの中、1492年イスラム最後の砦のアルハンブラ宮殿が落城、ここグラナダは500年に及ぶイベリア半島のイスラム支配終焉の地となった。ナザリ家最後の王ボアブディルは、1491年カトリック包囲軍に城を明け渡して去って行った。町に別れを告げながら目に涙した王を母后がたしなめたと言う逸話もある。
 ナザリ家が残した宮殿に林立する塔、鐘楼、修道院、宮殿、病院、そして清流を駆使した噴水庭園等を目にしたキリスト教徒は、さぞかし驚きとある種感動を覚えたのではなかろうか?
 また、これを壊すことなくこれほど違う異文化を受け入れたグラナダの人々の開放的で奔放で、それでいて愁いを帯びた性格もまた納得できる。

 カルロスⅤ世宮殿 

 カルロスⅤ世宮殿は、本人がイスラム宮殿に対抗して建造させたもの。スペインの伝統建築からかけ離れたイタリア・ルネサンスを模したもので、イタリア国外では最も美しい宮殿と言われている。1526年にペドロ・マチューカが着手したが、中断等もあり完成させたのは何と20世紀のフランコ政権。ただし、ファサードと中庭以外は未だに未完だそうだ。
 先ほど述べたように、この宮殿建築に際し、マチューカは回教時代の王家の墓を一部利用したものの、既存の建物の取り壊しは一切していない。

 早速、駆け足でアルハンブラ宮殿の主要な所を見て回ろう。

 まず最初に訪れたのが「孤塁」を意味する「アルカサバ」。宮殿の見張用の要塞で、「ヴェラの塔」からは眼下のアルバイシンの丘を埋め尽くす白壁の家々、サクロモンテの丘、シエラ・ネバダの峰々が一望できる。

   
(左)「孤塁」を意味する「アルカサバ」    (右)「ヴェラの塔」から見る白壁の家々のアルバイシンの丘

 王宮に入って最初の「メスアールの間」はレコンキスタ後にキリスト教徒の手が入り礼拝堂に改築された。

 その次に待っているのが「アラヤネスのパティオ」。長方形の池の両側に芳香を放つ天人花の生垣がある。パティオの北側にそびえる高さ45mの巨塔は「コマレスの塔」。
 明かり窓、銃眼、物々しい重量感がこのパティオが公式行事の場だったことを物語る。この中には大使の間と称される宮殿最大の部屋がある。反対側の柱廊の上にはハーレムがあったと推定されている。

 「アラヤネスのパティオ」と「コマレスの塔」
 

 次に待っているのは「ライオンのパティオ」。124本の大理石円柱が中央の12頭の黒大理石の獅子に支えられた噴水を囲むオアシス空間である。このパティオを取り囲む4つの間が「モカベラの間」「アベンセラッヘスの間」「王の間」そして「二姉妹の間」。

    
              (左、右)アルハンブラの象徴「ライオンのパティオ」

 とりわけバロック様式の「二姉妹の間」の装飾は宮殿の中でも最高傑作の一つ。蜂の巣状のドーム天井とそれを取り巻く鍾乳石飾りは必見に値する。蜂の巣の数は約5000、所々星型に穿たれた明り取りから光が射し込み、“天空の写し絵”となっている。

 「二姉妹の間」の蜂の巣状の見事なドーム天井

 「二姉妹の間」には二つのサロンがあり、これまた素晴らしい装飾である。

 一日では到底見切れないアルハンブラ宮殿、後半は次回に紹介することに!!

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コルドバのグラサン犬 -コルドバ-(異文化体験30 灼熱のアンダルシアの旅4)

2013年05月11日 11時42分28秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

コルドバのグラサン犬 -コルドバ- 97.07.25-07.26
 
 オキシデンタル・ホテルはコルドバの中心から約5km郊外にある。その分、緑も多く、暑いアンダルシアでは大いに気が休まる。早朝のホテルの庭園を散策する。

            
(左)涼しげな朝のホテル庭園の散策、昼ともなれば.....  (右)オキシデンタル・ホテル(ルームキー)

 コルドバはB.C.169ローマ帝国の貴族植民地から発展し、イスラム時代の10世紀頃には人口100万人、モスクは300以上と最も栄えたかつてのイスラム・スペインの首都である。その分、イスラム文化の影響が今なお色濃く残っている。


  
(左)カエサル時代の橋(ローマ橋)の向こうにカテドラル (右)LA MEZQUITA-CATEDRAL(BONECHI社アンダルシーア)

 グアダルキビル川に架かるローマ橋を渡ると、そこがメスキータ。もともとここには西ゴート王国時代にカトリックの聖ビセンテ教会があったところ。イスラム侵入によりモスクとして使われ、後ウマイヤ朝を興したアブド・アッラフマーンⅠ世は784年に新たにモスクの建造を始め、10世紀までその拡張が続き、結果2.5万人収容の巨大モスクとなった。レコンキスタ後はキリスト教の大聖堂に転用。16世紀に中央部を壊してゴシック様式とルネサンス様式の折衷の教会堂が造られ、現在の姿になったようだ。

 アルミナルの塔(塔上に大天使ラファエルの像)

 「アルミナルの塔」横のムデハル様式の「免罪の門」から「オレンジのパティオ」、更に「シュロの門」からモスクに入ると異様な光景が目に飛び込む。「円柱の森」と言われるイスラム独特の無数の馬蹄アーチが立ち並ぶ薄暗いかつ幻想的な空間が広がっている。

 モスク内オアシスに林立する800本もの円柱 

        
      モスク内キリスト教カテドラルの(左)見事な木彫内陣席  (右)祭壇

  見事な木造装飾のカテドラルを過ぎると、壁面の緻密な装飾が素晴らしいミヒラブ(ムスリムがマッカ(メッカ)の方角を知るためにモスクに設けられたもので、聖書コーランが納められた最も大切な場所)がある。音響効果が素晴らしく天井は一塊の大理石を彫像したものだそうだ。

            
(左)ミフラブ(メッカの方角に設ける壁がん、最も神聖な場所)(右)ミフラブの天井(貝形のキューポラ、一塊の大理石作品)


 「夏のアンダルシアはフライパンの底」とはよく言ったもの。この日の気温は43℃。もう、外を歩くのは沢山なのだが迷路のようなユダヤ人街を歩いて昼食レストランへ。
 ユダヤ人街には路地のような狭い道に白い壁の住宅が並び、沢山の花鉢が白壁を飾っている。小路の奥には「アルミナルの塔」が見える。

                 
(左)とある民家の中庭パティオを拝見        (右)雰囲気の良い昼食レストラン

             
(左)白壁に花一杯のユダヤ人街の小路(後方にアルミナルの塔)(右)街のどこからでも顔を見せるアルミナルの塔

 「花の小路」はまさにそのような中でもとりわけ美しい小路である。その小路にはお土産店もあるが、その奥まった所にある小さな広場に1匹の犬が伏せている。さぞかし犬も暑いことだろうと思い近づくと、何と!サングラスをしている。日射の強いアンダルシアでは、犬も目の保護をしているではないか。まあ、これは土産物屋の主人のお愛嬌だろうが、この日射しの強さは最終訪問地のバルセローナで思い知ることになる。

 「花の小路」奥のグラサン犬、目は大切だよ!と訴えている


  
(左)グラナダへの道中に立ち寄ったアンダルシア名物「白い村」 (右)車窓に広がるひまわり畑

 コルドバ観光の後は、一路グラナダへ。約3時間のバスの旅である。オリーブやヒマワリ畑に加え、時々白壁の家々が城塞のように密集したアンダルシア名物「白い村」が視界に入ってくる。アンダルシアのコスタ・デル・ソルに近づくとこの風景がより頻繁に見られるという。


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「カディスの赤い星」 -セビーリャ-(異文化体験30 灼熱のアンダルシアの旅3)

2013年05月05日 11時50分26秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

「カディスの赤い星」 -セビーリャ- 97.07.25

  逢坂剛の直木賞受賞作「カディスの赤い星」

 スペインへの憧れは、逢坂剛の直木賞受賞(1986)作品「カディスの赤い星」を読んだ時。ギターとフラメンコをこよなく愛しスペインを舞台にした作品の多い氏の小説は、私を一日も早くスペインへと駆り立て、1987年それはマドリード訪問という形で実現した。異文化体験9「カディスの赤い星の旅」もご覧下さい)

 今回訪れた「セビーリャ」とコスタ・デ・ラ・ルスの中心都市「カディス」とは、もはや至近距離。「カディスの赤い星」の匂いが今にも伝わってくる。

  
(左)温室の中のような緑一杯のマドリード・アトーチャ駅(右)マドリード・セビーリャ間を2時間半で結ぶAVE

 マドリード・アトーチャ駅は、それ自体植物園を連想させる緑の多い駅である。アンダルシアの中心都市セビーリャまではスペインが誇る高速鉄道AVE(Alta Velocidad Española 鳥の意)で2時間半。フラメンコや闘牛の本場で、「カルメン」の舞台でもある。

 グアダルキビル河畔に立つ黄金の塔

 黄金の塔(イスラム王国の監視塔)を左に見ながらグアダルキビル川を渡り、カルメンの煙草工場(現セビーリャ大学)のお隣がマリア・ルイザ公園である。1929~1930年イベロ・アメリカ博覧会が開催され、半円形のスペイン広場近傍に当時の建造物が沢山残っている。

  
           (左・右)イベロ・アメリカ博が開催されたスペイン広場

       
 (左)余りの暑さにスペイン広場の噴水の水を飲む馬      (右)スペイン広場にて

 さすがの暑さに観光馬車の馬も噴水の水を飲まずにいられない。我々もひとまず昼食にサンタ・クルス街を離れ、再びサンタ・クルス街に戻ってセビーリャのランドマークとでも言うべき大聖堂(カテドラル)と「ヒラルダの塔」を訪問する。


          
(左)アンダルシアの解説本(BONECHI社刊1995)  (右)スペイン最大の大聖堂、右の塔がヒラルダの塔
    
 8世紀以降、イスラムによって約500年間に亘り支配されていたスペイン。セビーリャはそのイスラム文化の中心地となり、多くのイスラム様式建造物が築かれた。1248年キリスト勢力はセビーリャを奪還、レコンキスタ(国土回復運動)は1492年のグラナダ陥落で幕を閉じた。
 セビーリャのコロンブスは、レコンキスタが幕を閉じた1492年インドに向け船出した。スペイン、セビーリャの黄金時代を築いた大航海時代の始まりである。

  
(左)セビーリャ大聖堂のコロンブスの墓(棺を担ぐ4国王)  (右)参考写真:イタリア・ジェノヴァの「コロンボ500」

 余談だがコロンブスが新大陸を発見して500周年の1992年、ここセビーリャで万国博覧会が開催され、来る時に乗ったAVEも整備され、4200万人近い来場者を得た。
 一方、この年何故かイタリア・ジェノヴァでも「コロンボ500」という海洋博覧会が開催され、一説にはレンゾ・ピアノ氏が本拠地ジェノヴァの活性化を願って提案したと言う噂もあったが、日本国や姉妹都市大阪も出展し小生も官民視察団の一員として訪れた。ただ、こちらは目標300万人に対し100万人強の来場と散々であった。 異文化体験14「港湾空間を巡る旅」を参照下さい)


                      
(左)ヒラルダの塔からの眺望(遠方に円形マエストランサ闘牛場)(右)塔回廊に24の鐘(塔頂にヒラルディーリョ=風見鶏像)

 大聖堂は1402~1506年、約1世紀の歳月を経て建造された世界で3番目に大きなカテドラル。12世紀に建設されたモスクを転用したもので、高さ98mの「ヒラルダの塔」と呼ばれる鐘楼も、モスクのミナレット(尖塔)に増築する形で作られた。24の鐘が並ぶ回廊からは市街が一望出来る。

 大聖堂の入場チケット 
 
 大聖堂の内部には、黄金で塗られた20mの祭壇衝立がある。この衝立は、中央に鎮座するのがキリストではなく聖母マリアだという点が特徴。スペインは4世紀からマリア信仰が盛んで、セビリアはその中心地であったそうだ。この衝立の装飾に3トンもの金が使われたと言う。新大陸との交易で栄えたセビリアを象徴する建造物である。

         
 (左)大聖堂の内部                     (右)世界最大(220㎡)の巨大祭壇衝立


 観光後は、コルドバまでバス移動。灼熱のアンダルシア、車窓に黄色いひまわり畑や緑のオリーブ畑を見ていると、突然大きな黒牛が現れる。この黒牛さん、あるアルコール飲料会社の広告用看板だそうだ。以前は名前が入っていたそうだが景観上禁止され、名無しの黒牛が突如平原に現れることになったとか。

 車窓に突如現われる黒牛

 コルドバのお宿は、ホテル・オキシデンタル。明日はあの有名なメスキータとのご対面である。

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