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旅行記、世相独言

オッシーとベッシー - ポツダム&ベルリン - (異文化体験22 中東欧の旅5)

2009年03月22日 23時42分41秒 | 異文化体験_西欧
オッシーとベッシー -ポツダム&ベルリン- 1995.09.29

  ポツダムにて、同行者と。


 第2次世界大戦の戦禍を止めるカイザー・ヴィルヘルム記念教会を横目に、通訳兼案内人と共にポツダムに向かう。米英仏ソ4ケ国による宣言が発せられたポツダムには、フリードリッヒ大王が建造したサンスーシー宮殿と庭園が今なお年間200万人の観光客を集めている。

  米英仏ソ4ヶ国によるポツダム宣言が協議された部屋

 サンスーシーとは「心配なく生活したい」という意味があるという。丸屋根のある一階建てのロココ建築のスケッチはフリードリッヒ大王が描き造らせたようだが、階段状の庭園と青い丸屋根を有する褐色の壁を有する建築物の外観に加え、内部の寄木細工の床で続く臨終の間、コンサートの間等々豪華な装飾の部屋は強烈な印象を与える。

  サンスーシー宮殿の階段状名物庭園(下から)
  サンスーシー宮殿の階段状名物庭園(上から)
  ロココ調建築 SANS SOUCIの名も確認出来る


 ベルリンに戻って次に訪れたのは、ペルガモン博物館。古代ギリシャ、ローマ時代の壮大な建造物が再現されている。圧倒的スケールで驚かされるのは、ペルガモン祭壇とミレトスの市場門の遺跡(いずれも今日のトルコ共和国の町)、バビロンの行列通りとイシュタル門の復元(今日のイラク近郊)である。

 PERGAMON MUSEUM(ペルガモン博物館)
 持ち帰られたトルコやイラクの古代建築物が復元されている

 歴史的建造物は本来あった場所に復元されることが一番好ましいことだが、残念ながらいろんな理由から異なる場所で復元、再生、展示されていることが多い。人類共通の財産としてしっかり管理され学問的に有意義な利用がなされていれば、それもまた致し方のないことか。


  秋空にそびえるベルリンのテレビ塔

 昼食後、ベルリン市内の見どころをドライブ。ある通りを走行中、運転手が何か吐き捨てるように言った。前の車が黒煙をあげて走っている。「何て言ったの?」と通訳に聞くと「オッシーめ!」と言ったらしい。ドイツでは俗語であるが東ドイツの人達を「オッシー」、西ドイツの人達を「ベッシー」というとのこと。あまり良い意味で使う言葉ではなさそうだ。

 ベルリンの壁が崩壊して5,6年も経つと、当時の熱狂振りはおさまり、経済面などいろんな面で東西格差が実生活に顔を出してくる。前を走る車も東側経済の車だったようで環境対策もおろそかで黒煙を撒き散らしている。それを見て西側のこの車の運転手はつい「オッシーめ!」という言葉が口から出たのであろう。

  市内至る所で巨大クレーンが林立し、工事がなされている

 とは言え、ベルリンの街中は至る所で巨大なクレーンが林立し、再開発が進んでいる。かつて80人の生命が犠牲になったベルリンの壁は探して廻らなければ見つけるのが難しいほど姿を消し、その一部は土産物として売られている。

  ベルリンの壁も一部を残してほとんど取り壊されている

 ベルリン大聖堂、フランス大聖堂、赤の市庁舎等、歴史的建造物の多くが東側にも存在しているが、一方でソニータワーや外国資本の建物の建設もあちこちで始まっている。

  ベルリン大聖堂

  赤の市庁舎

 最期に訪れたのは、東西ベルリンを分かつ象徴的建造物であったブランデンブルグ門。今やこの門の周りも新たな建築のためのクレーンが立っている。東側はウンター・デン・リンデン通りに続き、西側は6月17日通りを経てティアガルテン、戦勝記念塔に続く、その接点にこの門が存在する。

  ブランデンブルグ門も今や観光名所に

 統一ドイツが、その内部経済格差を乗り越え、ユーロ経済圏の主要なリーダーとして21世紀の世界経済を牽引することを期待しつつ、ブランデンブルグ門を後にする。広大なティアガルテンと戦勝記念塔を車窓に、車は一路空港へ。

 夕刻、フランクフルト経由成田に向け帰国の途につく。

 6月17日通りの先に戦勝記念塔が見える



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幻のドレスデンからベルリンへ - プラハ、ベルリン - (異文化体験22 中東欧の旅4)

2009年03月19日 00時04分06秒 | 異文化体験_中・東欧
幻のドレスデンからベルリンへ -プラハ、ベルリン- 1995.09.28


  チェコ通貨 20チェコ・コルナ紙幣

 28日、早目の朝食を取りホテルを出発しようとしていると、朝食に向かう小生の大ボスR社長一行とロビーでばったり。R社長は東欧諸国を廻って帰国される由。小生はJGA同行者と共にいざ中央駅へ。


  プラハ-ベルリン乗車券

 発車30分前に駅に着いたものの、出発列車案内にそれらしき列車が見当たらない。チケット売場に行って聞けど英語が通じず、案内所を駆けずり回って別の駅から発車することが分かった。すわ!間に合うか!と重い荷物を引きずりながら言われた駅にタクシーで発車5分前に到着。しかし、この駅でも出発列車案内にそれらしき列車が見当たらない。どうなっているの?と再度問い合わせると、もう一つ別の駅から出ると言う。なんと3つも駅があるという。
 しかしである、時既に遅し! 諦めるしかしようがない。次の列車は12時18分とのこと。何と3時間近くあるではないか。

  朝の列車に乗り遅れてお昼の列車は12時18分初


 同行者の「ホテルでゆっくりしようや」という提案でホテルに戻るとR社長一行の出発と出くわす。「どうしたんや?」「いや、まあ、あのお・・」と逆に見送る羽目に。同行者が丁度ボヘミアングラスを買いたかったとかで、ホテルのグラス売場の物色を始める。本来ならドレスデンで途中下車し、3時間ほどマイセン焼の工房を訪ねる予定が、幻のドレスデンとなってしまった。残念無念。


  プラハ駅にて 3つもあるとは....


 お昼過ぎに出発したドレスデン、ベルリン経由ハンブルグ行きの列車は、プラハから西北に渓谷沿いの景色を車窓に見せながら定刻通りドレスデンに到着。本来なら街見物をしてこの列車でベルリンに向かうはずであったことを考えると、駅名と一緒に写真を撮らないとおさまらない。ベルリンまでは乗り過ごしては大変と午睡との戦い。ベルリン駅から市内のホテルまでは地下鉄を利用。無事ブダペスト通りのインターコンチネンタル・ベルリンにチェックイン。

  エルベ渓谷を車窓に列車は北上する

  本来ならここで途中下車するはずが....


 28年ぶりにベルリンの壁に穴があいたのは、1989年11月9日。12月22日には、東西ドイツを分離する象徴的なブランデンブルク門が開放され、当時の西独コール首相と東独ハンス・モドロウ大統領、そしてモンター西ベルリン市長が最初にこの門をくぐった際、熱狂的な歓喜の声が湧き上がったと新聞が報じている。あれから6年。東西330万人の人口を有するベルリンは、再び統一ドイツの首都として名乗りを挙げ、あちこちで都市改造が進んでいる。


 ベルリンは15世紀からおよそ5百年間、ホーエンツオレルン家が統治し、区別出来ないほど沢山のフリードリッヒ・ヴィルヘルムが誕生した。
 1740年から86年まで統治したフリードリッヒ大王は、今日のウンター・デン・リンデン通りを目抜き通りにし、オペラ劇場や王立図書館等の文化施設を整備し、この間人口も8万人から15万人に増加するなど、ベルリンを欧州の主要な都市に変身させた。

 1861年、ヴィルヘルムⅠ世がプロイセン王となり、1871年ベルサイユ宮殿「鏡の間」でドイツ皇帝になると、このシュプレー川沿岸の都市は人口82万人となり、文字通りドイツの首都となる。

 1920年にはグレーター・ベルリンとして人口380万人にまで膨れ上がったが、1933年から45年の12年間はヒトラー支配下で第2次世界大戦により焦土と化した。1945年東(ソ連)西(米英仏)ベルリンに分割統治され、1961年8月13日にベルリンの壁が初めて築かれた。そしてその28年後。

 さあ!! 明日はポツダムとベルリンの今日をつぶさに見て廻るぞ!


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中東欧の古都プラハ② - プラハ - (異文化体験22 中東欧の旅3)

2009年03月15日 23時45分34秒 | 異文化体験_中・東欧
中東欧の古都プラハ② -プラハ- 1995.09.25~09.28


 26日は理事会メンバーには、9時半から徒歩による観光プログラムが用意されている。

 1000年以上の長い歴史のほとんどを他国に侵略されながら、それでも民族の誇りと文化を守り続けてきた気高い精神が街の隅々まで染み込んでいる。

 まずはホテルから広場に向けてそぞろ歩き。

 広場には今日も沢山の市民や観光客が集っている

 最初の見学先は1380年に建造された3つのバシリカを持つ「The Church of Our Lady before Tyn」と呼ばれる教会。

 次いで6世紀に亘って街のランドマークとなっている機械仕掛けの時計を有する69.5mの旧市庁舎は1338年、時のルクセンブルグのジョン王が旧市街地の市民に独自の市庁舎建設を許可し、時計は15世紀初頭から時を刻んでいる。最上部の二つの窓から12人の国王が順に姿を現し、天使は市政の公正さを表している。

 旧市庁舎の有名な機械仕掛けの時計

 今や真っ黒に煤けた65mの高さを有する1475年建造のゴシック建築Powder Towerは、良く知られたRoyal Routeの出発点として使われた。隣接してオリジナルの王宮跡地に20世紀初頭に建てられた新市庁舎があり、スメタナホールや数々のラウンジを有する首都の文化の殿堂となっている。


 ブルタバ川にかかるカレル橋の橋塔

 Vltava川に架かる石造りのカレル橋(チャールズ橋)は、橋の欄干に合計30の石像を有する珍しい芸術橋である。1357年に着手され15世紀初頭に完成した橋は長さ520m、幅10m、16の橋脚で支えられている。両端には橋塔を有し、旧市街地の塔は14世紀のもの。ツアーはここで昼食に。

 橋の上から河岸を望む

 プラハを代表する景色(PRAGUE AN HISTORIC TOWNより)

 午後は、対岸のプラハ城(Hradcany)の見学。プラハ城は歴代ボヘミア王の居城で、世界一大きな古城。
 1918年からチェコ共和国大統領府がここに置かれている。聖ビート大聖堂(St.Vitus’ Cathedral)とお城の複合体はプラハのシンボルとも言える。広大な複数の宮殿を有するお城は、残念ながら共産圏支配の間に真っ黒に煤けて、本来の真っ白な大理石の面影はないが、それでもその偉容は圧巻である。お城からゆっくりと川向こうのプラハの街を眺めながら坂道を下り、バスでホテルに戻る。

 St.Vitus'教会とその塔(PRAGUE AN HISTORIC TOWNより)

カレル橋越に望むプラハ城と教会(PRAGUE AN HISTORIC TOWNより)

 建物は排気ガスや長年の埃で煤けて黒く洗えばさぞかし....

 しかし、その中に一歩入ると荘厳で煌びやかな雰囲気に...


 今夕は、プラハ城にてTransgas主催のガラ・ディナー。ディナーに先んじてのカクテルパーティでは、デンマークのWGC国内組織委員長と、日本で開催される世界エネルギー会議の情報交換を行う。ディナーは城内のBall-Game Hallでベルギー、スペイン等の代表とテーブルを囲んでの恒例のマラソンディナーに古都の夜がふけて行く。

 今宵の会食のテーブルを同じくする人達

 翌27日はコングレスホールで午前中理事会が開催され、お昼はダイアナサロンで各国事務局の昼食会。午後も理事会の続きとTransgasからチェコのガス事情の報告等がなされた。ロシアから欧州へのパイプラインガスはチェコ国内を通過するため、欧州のガスの大動脈の役割をTransgasが担っている。
 夕刻は、チェコガス連盟主催のプラハ醸造所でインフォーマルイブニングが予定されていたが、N氏の誘いで同行者と共に広場近くのレストランでチェコ最後の夜を過ごす。

 街のあちこちにフレスコ画に飾られた新ルネサンス様式の建物が....(写真はROTT HOUSE) (PRAGUE AN HISTORIC TOWNより)

 「ヨーロッパの魔法の都」プラハは、「プラハの春」以降かつての自由都市の息吹を猛烈に感じさせる都市に変身中。一方で街の佇まいは中世の玉手箱であった.

  (今回のブログには、理事会のお土産に貰った1994年V RAJI社刊「PRAGUE AN HISTORIC TOWN」より、一部写真を掲載しました)


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中東欧の古都プラハ① - プラハ - (異文化体験22 中東欧の旅2)

2009年03月12日 22時36分32秒 | 異文化体験_中・東欧
中東欧の古都プラハ① -プラハ- 1995.09.25~09.28


 1618年5月23日、ボヘミア王国の首都プラハは、静かな朝を迎えていた。午前9時を過ぎた頃プラハ城の王宮に集まっていた顧問官達は時ならぬ騒ぎに気づいた。200人ほどの武装したプロテスタント達がいきなり王宮に侵入してきたのだ。侵入者達は、時のボヘミア国王の宗教政策に抗議して、顧問官達に激しく詰めより、押し問答の末、激昂したプロテスタント達は突然、執務室の窓から二人の顧問官を外に放り出した。抗議した秘書官も同様に放り出され「プラハの窓外投出事件」として知られるこの出来事は、17世紀の欧州史上最も有名なエピソードである。これが欧州全域を巻き込んだ30年戦争の発端である。(世界の歴史17巻、ヨーロッパ近世の開花、中央公論社より)

 午後1時前、あこがれの初秋のプラハにロンドンからの英国航空機が着陸した。Vltava River(ブルタバ川)の湖畔に立つインターコンチネンタル・ホテルが今回のIGU理事会の公式ホテルである。対岸の小高い丘の上に「窓外投出事件」のプラハ城が見える。

 会議登録を済ませ、同行者とCedok(チェコの交通公社)の事務所に向かう。IGU理事会の後、ドレスデン経由ベルリンに行く予定で、列車のチケットを先に買おうというわけ。英語がなかなか通じないが、何とか目的の列車の指定席乗車券を確保し、夕刻のレセプションまで街を散策する。

 会議のオフィシャルホテル 通称「インターコンチ」

 チェコ共和国の首都プラハは、ブルタバ川沿いの斜面と丘に広がる人口120万人の小さな街である。しかし、そこにはゴシック、ルネッサンス、バロック等、数々の歴史的・文化的建造物が中世の面影を今日に伝え、街の中心部750haが1971年ユネスコによって世界最大の世界遺産に指定されている。ゴシック建築は14世紀、チャールズⅣ世(1346-1378)がチェコ国王(後にローマ皇帝)の時代、30年間でそのピークを迎える。プラハ大学やチャールズ橋の建設、Karlstejn城等がその代表作である。

 一方、バロック建築は17世紀、厳格なカトリック王朝であるハプスブルク家とその大部分がプロテスタントである臣民との間の数々の緊張関係(窓外投出事件や、その後神聖ローマ皇帝に即位したフェルディナントⅡ世とプロテスタントとの間の「白山の戦い(1620年11月)」)があり「ボヘミアの暗黒時代」の中でドイツ系領主の支配のもと再カトリック化が進み、修道院が再興ないし新設されている。

 夕闇迫るプラハの街角 客待ちの馬車

 夕刻の街の中心部にあるゴシック様式の教会と旧市庁舎に囲まれた広場は、西日に建物が黄金色に輝き、多くの観光客が旧市庁舎の仕掛け時計のパフォーマンスを待っている。広場からの帰路、日本では品薄で外国旅行する人のお土産定番、塗るだけで痩せると専ら評判のスベルトを化粧品屋で手に入れる。当地でも品薄状態らしく何とか2ヶゲット。

 西日を浴びる広場とゴシック建築

 夕刻7時からホテル・プレジデントでチェコ・ガス石油協会の主催による歓迎レセプションが始まった。理事会記録を制作するビデオ班が入り、何故か小生もターゲットになっているようで、他国の出席者と話をしている所を撮りに来る。チェコの協会事務局長オルガ女史の差し金かも知れない。何せ海外では日本ガス協会(JGA)の事務局次長は偉いようだ。

 ライトアップされた幻想的なプラハ城

 小楽団がチェコ民謡の演奏を始め、レセプションもいよいよ佳境に。テラスに出ると、川向こうにライトアップされたプラハ城の見事なシルエットが浮き彫りに。中世の古都プラハはJGA会長が珍しく自ら行きたがっていた街。今回は残念ながら国内の戦没者慰霊祭と重なり不参加となった。

 お気の毒様! である。


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シェイクスピアとブレナム宮殿 - ロンドン近郊 - (異文化体験22 中東欧の旅1)

2009年03月10日 20時50分57秒 | 異文化体験_西欧
《異文化体験21「LNG-11の旅」の次に、昨年12月に行ったエジプト旅行(五千年の時空を超える旅)を飛び入りさせましたが、本来の異文化体験22「中東欧の旅」に戻り新たにスタートさせます。》


シェイクスピア・カントリーとブレナム宮殿 -ストラッドフォード・アポン・エイボン&ウッドストック ー 1995.09.23~09.25


 夕刻のロンドン・ヒースローにロンドン事務所長の出迎えを受け、最近の定宿となったランガム・ヒルトンにチェック・イン後、夕食を共にしながら英国の規制緩和論議を交わす。今回の旅はIGUプラハ理事会への出席と英国公益事業の規制緩和に関する情報収集が目的である。

 翌朝、お城好きの同行者のためにストラッドフォード・アポン・エイボンのシェークスピア・カントリーとBlenheim Palace(ブレナム宮殿)観光をセットし、ロビーに9時半集合のはずがなかなか降りてこない。
 ロンドン事務所のT君とやきもきしていると10分ほど遅れて何とホテル玄関から現われた。どうしたのかと聞くとタクシーでロンドン市内お上りさんコースを廻って写真を撮って来たとの返事。なかなかのおじさんである。

ストラッドフォード・アポン・エイボンの街  

 

 ストラッドフォード・アポン・エイボンは2ケ月前LNG-11の際に訪れ2度目の訪問である。前回と同様のコースに加え、ホーニー・トリニティ教会の墓地や妻アン・ハサウェイの実家を観光する。3月も下旬と言うのに結構な人出である。

 昼食後、オックスフォードシャー・ウッドストックの名城ブレナム宮殿に向かう。1705年から1722年にかけてThe Duke of Marlborough(マールボロー卿)初代当主Johnとその妻Sarahのために建設された豪華なお城は、むしろチャーチルが生まれ育った所として良く知られている。

 世界遺産 ブレナム宮殿全景 

 一般観光客のゲートとなる東門にはマールボロー家の旗が紺碧の空に翻っている。北庭を取り囲むように東西に翼を広げたような宮殿の北側には女王の池とそれにかかるグランド・ブリッジに続く。更にその先には勝利の塔が垣間見える。お城の東側には9代目当主によって改築された中央にマーメイドのモニュメントが置かれた見事なイタリア庭園が配置され、一方、お城の西側には同じく9代目当主によって1930年に改造されたウォーター・テラス・ガーデンを見ることが出来る。

  宮殿正面玄関(by Wikipedia) 

   ウォーターテラスガーデン  

 中央と四隅に配置された噴水が無ければ、まるで鏡を敷き詰めたような錯覚に陥る見事な造形美である。お城の正面玄関にはワルシャワ門を真似て造ったと言う真鍮製のロックが装備され、サロンや部屋と言う部屋夫々に見事な装飾が施されている。また大理石のドアケースで飾られた55mもの長さを有する書斎書庫、1732年に完成したお城の中のチャペルには初代当主夫妻と若くして死んだ2人の息子のモニュメントや大きなパイプオルガン等々、全てに圧倒される。

 宮殿内部(パイプオルガンも見える)

 1874年Sir Winston Leonard Spencer Churchill(ウィンストン・チャーチル卿)はこのお城の中で生れ育ち、晩年もここで過ごしたようだ。1965年没し、ここに埋葬されている。5歳の時の頭髪カールが展示されている。まるでゴルフ場と見間違う程の広大な芝生と森、そして池。必見の城の一つである。

 手入れの行き届いた一面の芝生の庭 


 その夜、7月LNG-11の際、コンパニオンをやってくれたN嬢にFAXで再度ロンドンに行くこと、22時以降であればホテルに戻っているだろうと知らせていたが、来るかどうかは分からない。22時半頃フロントから来客の知らせ。ホテルのラウンジで2ヶ月ぶりの再会。その後の生活や身の上話に時間を忘れ、気がつくと午前0時半。バスも地下鉄ももはやなし!明日はプラハに移動するためポンド紙幣は手元にわずか。下宿先までタクシーでいくらかかるのか知らないが、とりあえず持ち金のポンド紙幣を全部渡して、彼女の留学の成功を祈る。 

 翌朝は、いよいよ大いに楽しみにしているプラハ行きである。



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