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SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

フーガの技法3種

2008年04月26日 13時19分31秒 | ピアノ関連
★J.S.バッハ:フーガの技法
                  (演奏:ピエール=ロラン・エマール)
1.フーガの技法 BMW.1080
                  (2007年録音)

いわずと知れたJ.S.バッハの絶筆となった名曲であるこの曲集。
これをピアノで演奏したディスクは、かねてよりソコロフ盤、ニコラーエワ盤を持っていたのだが、先般発売されたエマール盤を加えて3種になった。

いずれも名演奏だと思う。ホントにそれぞれに凄い・・・。
いつもながらピアニストの研鑽、信念に基づいた仕事ぶりは尊崇に値すると感じないわけにはいかない。
そして興味深いことに、同じ曲であるにもかかわらず受ける印象がことごとく相違する・・・これもいつもながらおもしろいところである。

詳細に言い出したらきりがないので、どのように楽しんだかだけ簡単に記しておきたい。

まずは、ピエール=ロラン・エマール。
私は最初はリゲティの練習曲集でこのピアニストを聴き、聞きしに勝る演奏振りに舌を巻いた覚えがある。
ブーレース主催のアンサンブル・アンテルコンタンポランのピアニストに登用され、現代音楽のスペシャリストと目されていた人であると記憶する。

とはいえその後、ベートーヴェンやシューマンなんかも録音している(未聴)ので、決して現代音楽ばかりじゃないのだろうけど・・・ただ、彼のラヴェル“夜のガスパール”などでは、音響のみを恃んだ音作りに聴こえてしまい、少なからぬ違和感を覚えたことはある。
良くも悪くも現代音楽のピアニストだと・・・。

まぁこれも日をおいて聴いたなら、こっちのコンディションも違うからまた受ける印象もかわるんだろうけれど・・・。(^^;)

さて、肝心のバッハなのだがやっぱり強靭な音響だと思った。
いいかたはヘンだが、ばねのあるしなやかさ・粘り強さを持つ響きをウルトラマンのスペシウム光線のように放射してもらったら、周りにいる人の肩こりが治るんじゃないかと思えるような・・・。
響きには艶も潤いも充分・・・そして、曲も演奏も構成が堅固であるからこりゃ効くよぉ~って感じ。

ただしこちらに立ち向かうとまではいかなくても、その音響を浴びに行こうとする気力があるときに聴かないと、ちとツライかもしれない・・・そんな気もする。

もちろん音楽的には文句のつけようはないし、解釈の是非を云々する力量も私にはないから鮮やかで素晴らしい演奏である・・・というほかない。(^^;)


★J.S.バッハ:フーガの技法・パルティータ第2番
                  (演奏:グリゴリー・ソコロフ)

1.フーガの技法 BMW.1080
2.パルティータ第2番 BMW.826
                  (1982年録音)

長崎にいるときにその一連のディスクに邂逅し、近所のピアノの先生に紹介して盛り上がっていたのでソコロフとの付き合いも長くなったものだ。
Opus111レーベル・・・ルートで知ったのだが、その後日本でも直輸入盤が日本語装丁のうえ発売されて広く知られることとなり、宝物のありかをばらされたような気がしていた。

とはいえチャイコン優勝者だから、知る人ぞ知る・・・という存在ではありえないんだろうけれど。。。
フェルツマンといい、こういう人材って案外いるんだなぁ~と妙に感慨深くなってしまう。
「でも、見てる人はちゃぁ~んと見てるからね・・・」と、唯我独尊の道を精進することの重要性を再認識するおじさんの私がいる。(^^;)

そんなソコロフをこのバックステージで紹介するのってもしかして初めて(!?)と思うと、これも不思議。
記事にしようと準備したことは何度もあったんだけれど・・・採り上げていなかったような気がするな。。。

このソコロフ、高橋多佳子さんのフェイバリット・ピアニストの一人でもある。

そしてこのバッハだが、とにかく哲人か音楽の権化か・・・というべき存在の何かが、そこでバッハと同化してややロマンティックに(平均律のリヒテルほどではないけど)とにかく美しい音でひとつになっているのを聴く思いがする。

いずれにせよ、エマールもソコロフも素晴らしい音楽を聴かせてくれる。
とりわけソコロフはそこに精神性というものも色濃く伴っているのである。


★J.S.バッハ:フーガの技法
                  (演奏:タチアナ・ニコラーエワ)

1.3声のリチェルカーレ 音楽の捧げ物 BMW.1079より
2.6声のリチェルカーレ 音楽の捧げ物 BMW.1079より
3.4つのデュエット BMW.802~805
4.フーガの技法 BMW.1080
                  (1992年録音)

ニコラーエワ女史もバッハの一大権威であった。
彼女が演奏旅行途上、サンフランシスコで客死した報を聞いたときには本当に残念に思っていた。
私がCDを聴き始めたころ、女史がビクターに残していたバッハの小品集、そして平均律の演奏などいずれもとても素晴らしいものであったから。

でも近年になってハイペリオンにこれとゴルドベルク変奏曲の録音が遺されていることを知り、それを耳にして本当によかったと思ったものである。

とにかく女史のバッハは深い敬愛の念にあふれている・・・それよりも、彼女のかもし出す音響は幻術のように私をバッハの世界に連れ去ってくれるのである。

前の2人の演奏のように崇高なあるいは親密なバッハの世界を見せてくれるのではなく、いざなってくれる・・・その意味で唯一無二の演奏といえる。
だから、これを聴き終えた後は癒された気がするし、疲れていてもスッと心の隙間に入り込んで心の中いっぱいに広がってくれる。。。

演奏技術とか言い出せば、前の2人の方ガ客観的に見て高いといえるのかもしれない。
でも、普段の私はきっと女史の演奏に心を委ねるだろう。

音楽の捧げ物の2曲も本当に静謐な美しさをたたえており、バッハの音楽の楽しみの極みを聞かせてくれる。
文字通り「遺産」といえる録音だが、人類にとって、音楽文化にとっての「至宝」であると信じられる。

彼女のベートーヴェンには当りハズレがあるけれど・・・・バッハ・ショスタコーヴィチは掛け値なしに凄い。(^^;)

EMIの新進ピアニスト

2008年03月27日 23時24分09秒 | ピアノ関連
★ドビュッシー:映像第1集、第2集、子供の領分、月の光、他
                  (演奏:サイモン・トルプチェスキ)
1.2つのアラベスク
2.子供の領分
3.映像第1集
4.映像第2集
5.月の光
6.喜びの島
                  (2007年録音)

先月のレコ芸で特選盤となっていた2人のEMIレーベルの新進ピアニストに触れたい。
もちろんメジャーの一角・・・どころか個性派アーティストを数多擁するこのレーベルに認められたアーティストが悪かろうハズはない・・・ハズ。(^^;)

確かに両名ともよく弾けている。
でも、私には全く対照的な心証を与えられる結果となったのが興味深かった。

結論から言えば、このトルプチェスキは『開いた音楽』をする人である。
その演奏振りの特徴については、特に下に紹介するショパンに関しては引っかかるのではあるが・・・なぜかしら肯定的に受止められちゃうのである。

それに対し、いまひとりのピアニスト、ビスは『閉じた音楽』に留まって残念ながら私には入口が発見できなかったといわざるを得ない芸術家ということになる。

まずはこのドビュッシーなのであるが、聴き始めはガッツがないのでは・・・という懸念を持った。
しかし聴き終えた今となっては、なんともいえないシンパシーを感じる演奏であり、珍しく何度も聴き返し味わうこととなった。

率直にいって、きめの細かいテクニックがものを言っており、粒立ちはきちんとしていて必要以上にもやぁ~んとしていることはない。
とはいえ、モニク・アースのようにカーンと鳴らしながらニュアンスを感じさせるというものでもない。
繊細極まりないニュアンス付け、仄かな香りが立ち顕れているような気がするほどの微細な気配を嗅ぎ取る耳と、それを実現できる神経組織と指先を持っている類稀なピアニストなのだろう。

ドビュッシーの名演奏は枚挙に暇がないが、ミケランジェリやツィメルマンのような緊張感を強いない中で、ピュイグ=ロジェほどの緊張感も感じさせない中で、音の香りが立ち上っちゃうものにはそうそうお目にかかれないと思う。

何と表現しようか迷ったのだが、この演奏は「天真爛漫」・・・それを実現できる才覚を持ったピアニストであり、幸せな結果がこのアルバムなんだと思う。
「天衣無縫」とまでは言い切れないところに、びみょ~な私の心のうちを表している。

とはいえ、今年出逢った中では出色の一枚であると言い切ることにいささかもためらいはない・・・などと語数が多くなっているところも心なしかびみょ~ではある。
言葉だけで伝えることの限界である。


★ショパン:ピアノ・ソナタ第2番、4つのスケルツォ 
                  (演奏:サイモン・トルプチェスキ)

1.ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 作品35 『葬送』
2.4つのスケルツォ
                  (2006年録音)

さて、ドビュッシーの前に録音されていたショパンである。
これも非常に流暢に弾き表されている。
このうえなくシームレスに楽曲の表面を磨きあげているにもかかわらず、摑もうと思えばちゃんと指に馴染むかのようにも思える仕上がりである。

ただ、このプログラムがショパンなんだよなぁ~。
さらにさらに・・・変ロ短調ソナタとスケルツォという激情の横溢する作品ばっかし・・・。

で、天真爛漫に流暢かつシームレスに弾かれちゃったらどうなるか・・・?




・・・こうなる。 (^^;)



「困ったなぁ~」と言いたいところだし「問題なしとはしない」し「決してこんなのありとは思わない」のだけれど、なぜかわからないがこのピアニストや演奏について悪い気がしないのである。

やっぱりここでも演奏スタイルが「天真爛漫」だからかな・・・とは思う。

例が突飛だが、「お馬鹿キャラ」で売り出している幾人かのタレントに私はいい思いを持っていない(馬鹿は隠せよという気持ちでいっぱい)のだが、ただ1人、上地雄輔さんだけには天真爛漫な爽やかさを感じている。
野球人だから・・・かな?

とにかくそんな雰囲気にも似た・・・要するに「場違い」だけど爽やかだからいいか・・・と私の中でしらずしらず捉えられてしまう麻酔かポワゾンみたいなものを振りまいているのは確か。。。(^^;)

そんなトルプチェスキの音楽をどう表現したらいいのだろう。
必ずしも解釈や演奏のスタイルは私のストライクゾーンを捉えているとは言いがたいのだが・・・「開いた音楽」・・・鍵穴が探り当てられるというか、聴き手の私の心を開かせるような音響が聞き取れるからそう言ってみよう。

繰り返すが、この感覚が何故だか本当のところはわからない。(^^;)
今後の活躍も期待したい・・・とも言っておきたい。


★シューマン:クライスレリアーナ、幻想曲、アラベスク 
                  (演奏:ジョナサン・ビス)

1.幻想曲 ハ長調 作品17
2.クライスレリアーナ 作品16
3.アラベスク 作品18
                  (2006年録音)

翻ってジョナサン・ビスである。
このピアニストもトルプチェスキと特に運動性能の発揮のされ方においてタイプは違うが、繊細で微細な表現もできるし、十分にピアノを鳴らし弾き込める実力を備えたピアニストであることは疑いがない。

でも、この人の音楽は少なくとも私の方向には「閉じて」いる。
私にははっきり言って魅力的に思われなかった。

決してシューマンが苦手だからではないと思う。
しかし、幻想曲から熱狂、偏執、情熱・・・といった良い意味での歪み(ゆがみ)が感じられなかったら、何を聴いたらいいのだろうか?

表情付けに関しても非常に作為的に感じる。
言い方は悪いし、決して実際はそうじゃないんだろうが、「先生がこうしろと教えてくれましたのでそのようにやった・・・」と的なゴタクが聴こえてくるような演奏なのである。

もしそれが真実だとすれば、先生になりかわって「よくぞそこまで達者にできるようになったなぁ~」という賞賛なら惜しまないが、ゲージツを楽しもうという時にそんな態度ではチョイとわたしゃ許せんのだが・・・という思いを禁じ得ないのである。

男性であれば賛同いただけるかどうかは別として、私のじれったさの類をわかっていただけると思うがいかがだろう。

彼の音楽との愛称、あるいは目指すところ・・・彼が重要視していることと私のそれとの齟齬としかいいようはない。
いやしくもメジャーレーベルの有望株なのだから、彼の志向しているところに私の感性が追いついていないだけだろうけれど、私はこのアルバムには失望したといわざるを得ないのである。

残念だが。


★ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ集
                  (演奏:ジョナサン・ビス)

1.ピアノ・ソナタ 第8番 ハ短調 Op.13 『悲愴』
2.ピアノ・ソナタ 第15番 ニ長調 Op.28 『田園』
3.ピアノ・ソナタ 第27番 ホ短調 Op.90
4.ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 Op.109
                  (2007年録音)

果たしてレコ芸で特選となったベートーヴェンである。
流石に特選、シューマンよりははるかに「らしい」出来映えだ。

自然だし、よく言えば人間味ある(人間的な弱さが感じられる)入念な演奏なのであるが、気に入ったかといわれると全然そうはいえない。

やっぱり「アパッショナータ」ではないにせよ、毅然としたパッションが欲しい。
はにかみ、恥じらい・・・というならまだしも、控えめを通り越してハッキリしていないと聴こえるし、音だけがすたすたと流れていってしまうようである。
否、すたすた行っちゃってもいいのだが・・・何かそこに心を残していってもらえないか・・・。

聴き取れないお前が悪いといわれればそれまでであるが、少なくともここでもこの音楽は私向きには開いていない。

私のチャンネルが彼向きに開いていないともいえようが、それは受容する側の私の責ではないし、誓って感じ取れなければいけないという義務はない。(^^;)


ただ、作品109の表現については新鮮な感性を味わえたことを報告しておく。
音色的には悲愴の最終楽章の潤いあるそれと共通なんだけど・・・全編これで通しちゃったから、繊細さを認めながら食傷気味になっちゃったんだろうか?

どうしても気になるのはかくもひどく端正に弾かれているにせよ、強音で盛り上がったところで音楽があばれてしまっている・・・これは狙い通りの解釈なのか、若気の至りなのか?

まぁいろいろ書いては来たけど本日ただいま鑑賞した時の「私の」印象はこうだった・・・ということで。。。
5年後、10年後に聴いたらまた印象なんて大きく変わっているかもしれないから・・・。(^^;)

結局結論としては、独特なテイストをもったアーティストということは認めながら、研鑽を積んだ尊重すべきパフォーマンスであることは認めながら「好みではない」と言わざるを得ないというところに落ち着いてしまうんだろうな・・・。
勿論これは私のせいでもないけれども、ビスのせいでも断じてない。

しかし、このジャケットだけはもの凄くシュミ悪いと思う。
ジノ・ヴァネリのナイト・ウォーカーのジャケットをふと思い出してしまった。
あの音楽ならまだしも、ベートーヴェンのソナタ集のジャケットにしては???である。
シューマンのも、何故に猫背で写ってるんだろう?
いずれの写真も表情に緊張感や張りが感じられず、「しゃきっとせんかい!」である。

音には関係ないけど、きっと深いところで心証に影響してるんだろうな。


暫く昔のゲルネルをはじめ、EMIの新人ってオモシロい人が多いように思うのでディスクを購入するかは別にして動向くらいはチェックしていきたい・・・ということにしておこう。

新進といえば、このバックステージで採り上げて絶賛したズドピンのディスクが、どこかの国の鍵盤楽器部門で賞を射止めたように書いてあったなぁ~。
私も「さもありなん」と思われる出来映えだったもんなぁ~。
それから比べると、トルプチェスキのドビュッシーなんかもイイ線行くとは思うけど・・・どうだろう?(^^;)


ディスクをこれだけ採り上げてさんざん言いたいこといった挙句に恐縮だが、この2名もさることながらEMIの新人といえば4月にショパン作品集でデビューするイングリッド・フリッターに、もっとも注目しているというのが私の本心かもしれない。

最後のオチが「ナンのコッチャ」であるが、本当だから仕方ない。(^^;)

投げ売り

2008年03月06日 01時12分12秒 | ピアノ関連
★リスト:巡礼の年
                  (演奏:SEUNG-YEUN HUH)
1.巡礼の年 第1年:スイス
2.巡礼の年 第2年:イタリア
3.巡礼の年 第3年
                  (2005年録音)

時間がない。
最近はとにかく時間がないのだ・・・。

というわけで、音楽を聴いている時間が食用に供されるトウモロコシのごとく減少していくのを黙って認めることを余儀なくされている昨今。
いきおいCDの新譜を購入するのもご無沙汰となってしまっていた。

ただ、新しいCDを手に入れたい・・・必ずしも聴きたいというのとは違う場合があるかも知れない・・・という煩悩・物欲がそうそう簡単に退散してくれるはずもなく、何かの拍子にCDショップなんかを覗いてしまうと、気がつけばどっさり手にしてお帰りあそばすなんてことにもなってしまう。

本来買いたかったのは、ここに記載したものではないただ1点だったのに、ワゴンのうえに【半額セール】早い者勝ち・・・などと謳われると、ついつい覗き込んでしまうクセがある。

そして、この3点を予定とは別枠でお買い上げになったのだが、具合が悪いことに本命より自分の感性にフィットしてしまってとまどっている。

音楽に限らず芸事というのは、数値で量れるものではない。
資本主義などという全く自然とはかけ離れたロジックを崇拝して久しい現代人は、これらの芸術さえもコマーシャリズムに乗っけて、金銭価値に還元しようと図っているようであるが、聴いたときのパフォーマンスを考えると全く購入金額の多寡が品質に影響しているフシがない。

売れ残ったから値段を下げる決定をした・・・のであろうが、ホントにナンセンスだなぁ~。

いくばくかのチャレンジ精神を持って・・・というとカッコいいが、要するにスーパーよろしく賞味期限間近、半値のバーゲン品に飛びついた私が、製作者の心情を云々というつもりはないが、どうも割り切れないものを感じるのは事実。

経済的には、まことにめでたく喜ばしいことに違いはないので在るが・・・。

どうも、最近ますます資本主義がキライになってきた・・・といって、社会主義はもっとイビツであると思っているので、どうしたものかよくわからないが。。。

少なくとも「資本主義は正義ではない」・・・そんな気がする。


ここに紹介した韓国人女性ピアニストの手になるリストの巡礼の年は、非常になにか心に引っかかりを残してくれる意味で秀逸である。
音楽に感動できさえすれば、演奏者の名前が読めるかどうかは関係ない。(^^;)

一言で言えば呼吸のタイミングが合っている・・・ということになろうか。
ことにスイス・イタリアの前2集については、テンポといいフレージングといい、どこか乾いて褪めたようにも思えるピアノの音色といい、違和感が全くないといってよい。
えてしてリストなどの技巧的ロマン派の曲にあっては表現過多に陥り、えげつなくなることがありがちであるが、一回限りのライブならそれでもよろしかろうが、繰り返し聴くことになるCDではインパクトはほしいがケバくなっては都合が悪い。

その点、このディスクにおいてピアニストは非常に大きな説得力を持って筋を通して行ってくれる。
平凡なる非凡・・・思い入れは深く、表現意欲は高いけれど、奇を衒わず演奏の背景にそれら自分の志をすかして見せるような好演が聴かれる。

第3年もいい演奏だが、エステ荘の噴水を除くと個人的にはリストのこのテの晦渋な楽曲を楽しめない・・・はっきり言っちゃえば「玉石混交の石」だと思える作品もあるので、ピアニストのせいではないことにしておきたい。

器用ではないし、煩悩もいっぱいあるピアニストだろう。
でも、それを全部受け入れたうえでリストの楽曲への献身を惜しまない姿、妙にフレッシュに弾いてみたりする演奏家も少なくない中、自然体でフィーリングが合うことが嬉しい一組(二枚組)であった。


★ベートーヴェン:ピアノソナタ第2番・第26番・第32番
                  (演奏:ギャリック・オールソン)

1.ピアノ・ソナタ第2番 イ長調 作品2-2
2.ピアノ・ソナタ第26番 変ホ長調 作品81a
3.ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 作品111
                  (2006年作品)

BRIDGEレーベルのピアノ作品には個人的に注目している。
かのギャリック・オールソンがここからベートーヴェンのピアノソナタ集を継続して発表していることは承知していた。

一昨年のディスクがこうしてワゴンに乗っかってたならば、そしてそのプログラムに作品111が入っていたならば、謹んで半額をお支払してお持ち帰りさせていただかないわけないはかないではないか!?

実はオールソン初体験であったが、彼の経歴になんらウソ偽りがないことは一聴して明らかである。
これも奇を衒わず、単にあるものをあるように弾いているだけなんだと思う。
もちろん、過去にはこのように表現しなくては・・・という試行錯誤をすべての作品に対してやってきたのだろう。
でも、ここまで手についてしまっているのであれば、最早ベートーヴェンのソナタというよりも、主客転倒しオールソンを表すのにたまたまこの楽曲が選ばれているという感すらある。

つまらないわけでも、オールソンが恣意的に演奏しているわけでもない・・・どうしようもなく内面からスケールの大きさや全人的な魅力が滲み出て来る・・・本当に聴くほうにもその素養がないと聴き取れない味わいってあるんだと思う。

もちろん、ジャケットの写真と同様、演奏もとっつきにくいものではないが、本当の旨味を感じ取るためには相当のピアノ音楽を聴いてバックヤードをいっぱい持っていないと難しいはずだ。

オールソン、彼もまた崇敬さるべき芸術家のひとりであり、ワゴンに載ってたからといって彼の、そして彼の演奏の価値には微塵も影響はない。
かけがえのない、ワンアンドオンリーの円かな境地をいく巨匠というのに、いささかもためらいはない。

個人的にはかのコンクールで優勝を分け合ったアーティストよりも、現段階に及んでは素直に根を深く下ろした・・・という感すら漂うように思える。


★ブラームス:ピアノ・ソナタ第3番 ヘ短調 作品5ほか
                  (演奏:エフゲニー・キーシン)

1.ピアノ・ソナタ第3番 ヘ短調 作品5
2.間奏曲 イ短調 作品76-7
3.カプリッチョ ロ短調 作品76-2
4.5つのハンガリア舞曲集
                  (2001年録音)

これは説明の必要はないでしょう!
これまで半値でワゴンに乗っちゃうんだから、どうしたものか!?

演奏は確かに巨匠風に聴こえ、ソナタの内面性も聴こえるけれど、キーシンはやっぱりハンガリア舞曲のような小品をスペイシーに楽しく聴かせる人というイメージどおりですね。

テクニックのすごさを超人的にすごくエキサイティングに表現できるエンターティナーなんでしょうね。本質的には。。。

もちろん、この先さらに円熟して本編のソナタなどももっとスケールや耳障りのいい音だけではなく、自らの人間性の奥底に眠る追い込まれた何かを引き出してくることができるようになるかもしれませんけどね。
そうなったら鬼に金棒のような気はしますが、どうしても彼の人間性というものが作られたものであるような印象が拭えません。

彼のバッハは神々しくてよかったんだけどなぁ~。

BMGともめて、EMIに移ってからを聴いていないからなんともいえませんが、彼の旬はこのアルバムの前後ぐらいがピークだったような気がします。

ショパンのバラードやムソルグスキーの展覧会の絵などは、まさに当代を代表するピアニストを思わせますよね。
その後のシューベルトの変ロ長調ソナタとかの盤ぐらいから、ちょっと趣がちがってきた・・・そんな気がします。(^^;)


いずれにせよ、ディスクの値段と品質は一致しない・・・これは真理でありましょう。(^^;)

アナログな音

2008年02月18日 21時37分38秒 | ピアノ関連
★シューベルト:ピアノ作品集
                  (演奏:ギルバート・シュフター)
※シューベルトのピアノ作品12枚組
                  (1970年代録音)

これでいい。
シューベルトのピアノ曲集は数多あれども、資料的にも演奏的にもこれがあればいい。(^^;)

もちろん変ロ長調ソナタはじめ、それぞれの曲にそれぞれの演奏家の思いの詰まった名演奏に迷演奏、快演奏に怪演奏、洗練されたのからイモいものまでいっぱいあってよいし、それはそれで楽しい。

中にはシフのように演奏は洗練の極みなのにもかかわらずジャケットはイモいとか・・・まぁ私のは彼のもソナタ全集であるからして、ひとつのイモいグリーンのケースに宝物がいっぱい詰まっているみたいなものだけど。


さて、このセット。
シューベルトのピアノ曲全集と謳われているものの、本当に全曲かどうかは専門家じゃないからわからない。
漏れもあるだろうし、ピアニストとて共感できないものは外しているに違いないと思うのだが、何せ31歳までしか生きていなかった人であること、他にもシンフォニーも歌曲も室内楽も霊感吐き出しまくりみたいに作り倒した人でもあることから、流石に12枚分も録音したらフラグメントとかを除けばだいたい入っちゃってるんじゃないか・・・とか。
要するにわからない。(^^;)

中には他愛もなく聴こえる曲から、ホントに30歳ぐらいで死んじゃった人が書いたのかといわんばかりの晦渋な曲まで明るいの暗いの、長いの短いの・・・あらゆる楽曲が収められている。

例外なく言えるのは、このシュフターというピアニストがシューベルトに心の底からの共感をいだいてこれらを演奏しているということである。
そしてそれが余りにも自然であり、気負いのないものであるために、聴き手である私も知らず知らずそのシューベルトの世界に引き込まれ同化しているような錯覚に陥っている・・・ことに気づく。
音量の大きな箇所であっても決して居丈高になることなく、必要な箇所で絶妙なピアノの音の芯の輝きを伴った周りの気配が、私に心を開くよう促してくるのである。

ネコにマタタビを嗅がせたようなもの・・・かな!?

どんな小品に至るまで、ピアニストは肩に力を入れずにさりげなく提示してくれる。
当方は決してワクワクドキドキするようなこともないかわりに、注意を殺がれることもない・・・非常に理想的な弾き手と聴き手の間合いが、時間を忘れて引き込んでくれるのである。


フレージングは自然ではあるが、決して作為的な工夫がないわけではない。
呼吸が絶妙なので気にならないばかりか、旨味、妙味に感じてしまうのだ。
これがなければ、シューベルトの曲を弾いた場合、多くは冗長ダラダラ演奏でいつ終わるとも知れず・・・という感想になってしまうに違いない。
その点、このピアニストにとって最早自分の血肉となっているこのシューベルトの全体感は、彼が今いま楽しんで弾いていることをもってして、聴き手にもその瞬間ごとの楽しみを与えずにはおかない。

とても幸せな全集である。


そして、もうひとつ感じるのは『隙間』である。
ピアノの音の繊細な軽い輝き、微温的でありながら悲しみさえ湛えていそうな音色、フレージングの自然さにはこれらのファクターも重要な要素を占めているだろう。
こんな分析的なことをいっても詮無い事ではあるけれど・・・。

ただ、これがアナログ録音であるということを考えるとき、その最良の部分がこの聴感に影響しているのではないかということを思わずにはいられない。
すべての隙間が1か0で埋め尽くされているように感じられる、高品位なデジタルな音では考えられないぐらい風通しの良い音・・・翻って言えばすかすかな音であるのかもしれないが・・・が、私の体を鮮やかに通り抜けていくような感がある。

アナログの音ではなく「アナログな音」とでもいうべき、このサウンドにただただ身を任せているとき、いろんな名手のシューベルトの演奏のうちの、もっとも人懐っこい部分だけを取り出して作曲者の意図している世界へ誘ってくれているのが感じられる。

ただただ黙って聴く・・・考えることも忘れて聴く・・・眠っちゃってもいいから聴いているという状態で今を過ごせることが、無上の喜びであると思える全集である。

12枚・・・どの曲がどうだ・・・ではなく、それなりにバリエーションはあるが、それなりに彼独特の規則性も特長もあるシューベルトの世界に遊ぶ。。。
還って来れなくなりそうなトリップである。

幻想ソナタや変ロ長調ソナタの冒頭・・・自力か他力かわからない音がただ在る状態を、ちゃんと音を鳴らしているのに静かさが際立つところなどは、この演奏にしかない白眉といえよう。
そんな温さはまさに今の時期にちょうどいい。

独特のクラルテ

2008年01月12日 23時22分34秒 | ピアノ関連
★Plainte calme
                  (演奏:アレクサンダー・ロンクィッヒ)
1.フォーレ:即興曲第3番 変イ長調 作品34
2.メシアン:ピアノのための8つの前奏曲
3.フォーレ:即興曲第1番 変ホ長調 作品25
4.フォーレ:即興曲第4番 変二長調 作品91
5.フォーレ:即興曲第2番 ヘ短調 作品31
6.ラヴェル:夜のガスパール
7.フォーレ:即興曲第5番 嬰へ短調 作品102
                  (2002年録音)

まずは、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。(^^;)


さて、今年初の投稿はECMレーベルの作品となった。
ひととおり聴いて、直ちにこれは投稿せずにはいられないと思いたったディスクであり、以前ほどではないにせよ少なくない盤を耳にしている中にあってそれだけの魅力がすぐに聴き取れた作品だといえる。

アレクサンダー・ロンクィッヒというピアニストは、本日まで全然知らなかった。(^^;)
出逢いのきっかけは、たまたま秋葉原に行く用事があり、普段は行かない販売店に行ったときにこのディスクを偶然見つけただけ・・・である。

それも、期待して買ったのは今一枚のほうであった。
そちらは、聴いた感想も「いまいち・・・まい」であったが。。。(^^;)
そちらもこの後聴きこんだらもしかしたら好きになるかもしれないという余地はある。ただし、ひょっとしたら一層キライになるかもしれないという懸念もあるという、危うい魅力が収まった録音である。
ともあれ、そちらは結果が出たころにまた報告することとして、ロンクィッヒのこのディスクの話に戻ることにする。


それではなぜこのディスクを購入したかというと、まず今年は「夜のガスパール」作曲100周年の記念年であり、タイムリーにそれが収録されていること。

次にレーベルがECMであり、このレーベルの作品に通じる独特の音場の雰囲気が「夜のガスパール」に適しているのではないか・・・また、プロデューサーであるアイヒャーの慧眼にはいつも驚かされているため、ECMブランドの作品、アーティストであれば間違いないという思いが働いたことがある。

最後にプログラムの魅力である。
フォーレの5曲の即興曲が、メシアンの前奏曲集とラヴェルの“夜のガスパール”をサンドイッチしているという凝った構成であるが、いずれもフランスを代表する作曲家であり、1世代ずつずれた作曲家群による近(現)代フランス音楽俯瞰的な意味合いが見て取れる・・・。
考えただけで知的ではないか。。。

店頭で手に取った時点で、「後は演奏さえよければ!」という思いに駆られるディスクはやはり中身もよい!(^^)v



演奏を通して感じた特長は、一言で言えば「明晰」という言葉であらわされるものと思う。

突然だがフランス製のオーディオ製品を説明する際、評論家の船木文宏氏が次のように言っておられるので引用したい。


日本の多くの人がもつ、“フランスらしさ”というものは軽やかで、デコラティブなイメージがあるかもしれないが、本来のフランスらしさは、“クラルテ”つまり明瞭さにある。議論をしてもフランスの人は納得できるまで徹底的に論理的に追求する。


ロンクィッヒはドイツのピアニストだそうだが、このフランスの楽曲の演奏に関しては(ECM独特の録音の音場とも相俟って)この文章における“クラルテ”を感じさせる明瞭さを誇っている。

どの演奏にあってもまずは確固として自分のピアノの音色、音楽設計(解釈)の存在感を自己主張するのである。
設計された音楽の構造はこのうえなくしなやかで、素晴らしく見通しがよい・・・先ほども触れている音場のすーっとした拡がりも併せて秀逸であると思わされた。

作曲家個々の捉え方に触れれば、まずフォーレは演奏の柄が大きい。
少なくともこのような細心でありながら大胆なスケールのフォーレは聴いたことがない。
音色もペダルを控えめにしているようで、直裁である。
最初聴いた時は「ガサツ?」と思ったが、音色・解釈には繊細な目配りが施されており決してそんなことはない。

メシアンも放たれる音の気分は似ているのだが、やはり音響設計が風通しのいいものであるので、緊張感なく音楽の響きの中にうずもれることができた。

そしてラヴェル。
「夜のガスパール」では「繊細さを内包し、何処までも明晰」という図が一転して、「明晰でありながら繊細」の感覚が前面に出た演奏となった。
それでもクレッシェンドして盛りあげるところはタメも効いて壮大に聴こえたし、絞首台における音色、表情付けなどは生々しく聴き込めたし、スカルボにおけるテクニックも十分に水準をクリアしていると思えたし・・・スカルボにはもうちょっと生気がほしいと思わなくもなかったが・・・十分に楽しめた。

お師匠さんの中にはヤシンスキ教授の名があったが・・・。
そうか・・・ツィメルマン。。。
ピアニストとしての性格はぜんぜん違うけれど、どことなく音の見通しのよい作り方に共通するところがあるような気もする。

いずれにせよ、今日は前途あると信じられるピアニストとの邂逅を果たした日となった。
ヴァイオリンのツィンマーマンとモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ全集を作ったりしているようだが、ソロの活動についても注目したい逸材だと思う。

1960年生まれというから、私より4歳年上か。。。
確かに音楽が練れているところからも、私と同年代の人物で当たり前なんだろうな。

今いまの現象だけが・・・

2007年10月20日 15時34分46秒 | ピアノ関連
★ショパン:ピアノ・ソナタ第2番・第3番
                  (演奏:マウリツィオ・ポリーニ)
1.ピアノ・ソナタ 第2番 変ロ短調 作品35 《葬送行進曲》
2.ピアノ・ソナタ 第3番 ロ短調 作品58
                  (1984年録音)

昨晩久しぶりにオンタイムで投稿しようと思って、このディスクの記事を書き送信ボタンを押したら消えた・・・。





ワードで下書き推敲してコピペするといういつもの手順を怠るとこれだ。。。
ショックの余り不貞寝して・・・ショックでなくても寝る時間ではあったが・・・気を取り直してなんとかもう一度打ち込気力を奮い起こしました。

しかし、あの打ち込んだ記事はどこへ消えてしまったのだろう・・・ともういちど言ってみる。(^^;)

まさしく諸行無常ですな。
ならいいけど、徹底的に一部大乗仏教的虚無主義に陥った記事になりそうでやだな。


行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず・・・


さて、このディスクはほぼ新譜としてオンタイムで手に入れました。
当時はまだクラシックを聴き始めたばかりで、それまでに耳にしていたショパンのピアノ・ソナタといえば、変ロ短調ソナタがアルゲリッチとポゴレリチ、ロ短調ソナタがアルゲリッチのみという状況でありました。

1987年版だったかのクラシック・ディスク一覧の特選記事をみて、チェックしていた中にあったこの盤も「聴きたいな」という感じで手に入れたと思うのですが、当代最高のピアニストはアシュケナージとポリーニでそれぞれの持ち味を遺憾なく発揮したディスクを活発に発表している・・・という雰囲気だったと思います。
ちょうどシンディ・ローパー派とマドンナ派に分かれてたように・・・というと語弊がありますでしょうか?(^^;)

そして私のポリーニ初体験は、数ある特選盤の中からシューベルトの後期ピアノ・ソナタ集とこのショパンのピアノ・ソナタ集を選んで手に入れて聴いたのがはじめですね。


ことショパンの変ロ短調ソナタに関して言えば、それまでに聴いていたのが霊感をダダ漏れのように垂れ流すアルゲリッチと、インスピレーションをそのままオトにしたようなポゴレリチだったので、「なんと地味な音楽なんだろう」と感じましたですね。
かっちりまとまっているんだけど、どこが面白い聴かせどころなんだろうかわからない・・・って。(^^;)

そのころはガイドの文献の評が頼りで、アシュケナージは穏健で万人向きの演奏であり、ポリーニはそれに対して硬派の本物志向の聴き手にこそ良さがわかるピアニストというイメージができあがっていました。
当時から第一人者との呼び声高かったふたりでありますが、ご本人同志の関係にかかわらずそれぞれの陣営からすると正と邪、他方の音楽をいいと認めることは踏み絵を踏むことにほかなりませんでしたね。

それこそこれまでの経験を経て、私は今なら両方いいとはっきり言えるんですけどね。
もちろん、いずれにも首をかしげたくなるところもありますが・・・。

で、「本物志向」を志向していた私は、ポリーニ派にならなきゃいけないような気がしたんで、アシュケナージを聴くことが大幅に遅れました。(^^;)
アシュケナージを認められるようになるまではエラく時間がかかったんですが、考えてみればポリーニのよさに気づくまでも結構時間がかかったような・・・。(^^;)

たしかに喧伝されていたポリーニの美質、「完璧な打鍵による磨き抜かれた音」というのは当時の私にもわかったんですが、クラシック音楽というより“変ロ短調ソナタ”そのものを聴き慣れていなかったことからアルゲリッチの奔放な演奏や、ポゴレリチの悪魔のいたずらのような演奏のほうがピンと来ていたのは間違いありません。

今回ポリーニによるこの2曲のソナタを聴いて、ピアニストは曲の構造を明らかにしつつ完全な音の世界を再構築することにこそ主眼を持っているのであって、曲の感傷にあるいは雰囲気に耽溺することを徹底的に忌避しているんだなということを感じました。
テクニックも音色も彼の持っている技術のすべてはまさにその目的に適ったモノであるとも感得しました。

その際に、近年の演奏で気になったアクセントやシンコペーションのキツさ、唐突さはありませんし、それがポリーニだと感じていればこそ近年の演奏の変化に驚いた・・・そういうことであるようです。


でも、以前感づかなかったことを気づく私がいる・・・。
ポリーニも変化していますが、私自身も変化している。
ディスクの中の音は変化していないはずなのに、それを感じる私の感覚は変化しているということです。


諸行無常だの、行く川の流れ・・・だの、同じことをしているようでいて感じ方はその時々に違う、20年という年月を経れば事ほど左様にこれほど違う。
1年でもこれの20分の1、もっと細かく切っても・・・今日と明日でもいくばくかは違うことになるはずです。

では、以前聴いたことから得た「知識」というのは何なんだろう・・・感覚からきているこれらの経験知は、もしかしたら「邪念」以外の何者でもないかもしれません。
先に述べたアシュケナージを聞くのが大幅に遅れたなどという件も、予断であり邪見の極みであるといわざるをえませんよね。
それを「ご縁」などと言ったりすることもあるようですが、結果的には誤った判断をしていたと思います。

話が大きくなってしまいましたが、結局は「いい音楽」にめぐり合うのかどうかではなく、今いま聴いている音楽をどのように聴き、そこで音の現象をどのように認識するかという問題だけ、昨日わたしが「捌きかた」といったことにも通じるのだと思いますが、そこにいかに集中するか・・・それしかないと思うようになりました。

ポリーニのショパンは全部、他にも多くのディスクを持ち、聴いて思うのは、これほどまでにテクニックばかりが喧伝され精神がたたえられているために、期待感が高まりすぎているんじゃないかということです。
何を聴くのかをハッキリさせて臨まないと、その「現象」の認識レベルでの捉えられ方の差が大きくなってしまう典型タイプのピアニストだと思います。
ある意味では、やはり玄人受けするピアニストという評価が正しいということになるのでしょうか?

このころのポリーニが「めちゃくちゃうまいけど、よさがわからない」という方、ポリーニだと思わずに聴かれることをお勧めしたいです。

「(あれだけすごいと騒がれている)ポリーニの、この演奏のどこがいいんだろう?」と思っている人もポリーニじゃないと思えば、「なんて凄い演奏なんだ」と思われると思いますよ。

今いま、目の前で鳴っている音響だけで音楽を味わえば・・・ね。(^^;)

捌きかたの問題

2007年10月19日 00時00分00秒 | ピアノ関連
★ショパン:夜想曲集
                  (演奏:マウリツィオ・ポリーニ)
《DISC1》
1.3つの夜想曲 作品9
2.3つの夜想曲 作品15
3.2つの夜想曲 作品27
4.2つの夜想曲 作品32
《DISC2》
5.2つの夜想曲 作品37
6.2つの夜想曲 作品48
7.2つの夜想曲 作品55
8.2つの夜想曲 作品62
9.夜想曲 作品72-1
                  (2005年録音)

前記事に引き続きポリーニのショパンです。
近年のポリーニのパフォーマンスにかつての輝きを見出せないと思っていたが、虚心に聴いたらよかったというようなことを昨日書きました。
そして、別のポリーニ作品も聴きなおさなければならないというようなことも・・・。

はたして、このノクターン集に関しても昨今のポリーニ観を改めないといけないと思わせられる結果でしたね。
(それなりに)素晴らしい。ちょっと、引っかかっているのは確かですが・・・。(^^;)

最初に聴いたときには、統一感のない地味なアルバムというイメージと、作品37の1などで見られるハイドンのびっくり交響曲のような大音響とか、作品9の1ではゆとりのない急き込んだようなテンポとやはり不意を突かれるアクセントなど、パーツ・パーツの解釈が自分が考えているものと相違することがフラストレーションの素になっていたんだということがよくわかりました。
・・・そうそう、作品9の2のトリルの音の選択も特異ですよね。「なんで、そんなところでおかしなことするんだよ!?」って思いましたもん。

でも、ポリーニならではの統一した美点もいっぱい認識してはいました。
例えば作品55の2の歌の強靭さはこの人以外に弾き表せるもんじゃないような「張り」と湛えているし、イタリア人ポリーニならではの深~いベル・カントを感じさせます。
この曲のみならず、毎度毎度ポリーニのバスの音の存在感はしなやかで屈強。
これが生きる曲であれば、このピアニストならではの味わいが楽しめるというものです。(^^)/


このアルバムの感想をざっくばらんに記していくと、朴訥としている、不器用に思えるところがある、自分の思うところに誠実に真剣に拠って立っている、その意味で潔くすがすがしい、音響の強靭さに似合わず突き抜けて透明に思えるところがある・・・こんなところでしょうか。

最初に聴いたときの、「統一感のなさ」はきっと曲ごとの対比を明確にすることを狙っているためではなかろうかと思います。
やたらうら悲しいノクターンがあったり、作品62の1なんて私のイメージではもっとあの世に近く、他で発揮している透明感がある表現を駆使して演奏したらさぞかし素晴らしいのに、案外生気のあるお肌の色を呈しているような感じで、その辺も私の感覚とのミスマッチなんでしょうね。

ミスマッチといえば作品27の2曲はいずれもそう・・・。
作品27の1は、もっと微熱を深奥に湛えて、そんなマグマがあるのは判っているんだけど絶対に表に出さずに“じれった~く”進行するべき曲というのが私の曲の捉え方です。
一方ポリーニは、底光りしてて欲しいのに光沢を湛えているような感じ・・・。

作品27の2でのギャップをひとことでいうと、さばさばしすぎということになりましょうか。
味付けで言えば、私は関東風を求めているのに、ポリーニは関西風を提供してくれているという感じ・・・。(^^;)
よくよく聴けば確かに味わい深いのはわかったんですが・・・それも渾身の旨味を込めているのはわかるんですが・・・なかなか聴き取れない。
なにより、ゆったり感がもっと欲しいかな・・・。


さて、まとめてみましょう。
ポリーニはこのアルバムでノクターンそれぞれのキャラクターを描き分けたいと思っていた・・・と、実はライナーに書いてありました。
統一感のなさはそんな点から感じたのかもしれません。
なにぶん彼はムードとか雰囲気ではなくて、現実の音響でもってそれらを表現するアーティストですからなおのこと・・・であったかもしれません。

さて、もっとも大きな問題はきっと私側にあったんだと思います。
つまり、私はポリーニのディスクを聴いていながら、ポリーニの演奏を聴いていなかった。

自分の頭の中にあるノクターンを聴いていて、ポリーニの実際に奏する表面ツラをそれと照らし合わせ、やれ速いだ、音の使い方が違うだ、アクセントが唐突だ、うらぶれてる、生気にあふれすぎてる・・・この違いをあげつらっていただけだったのではないか?

何かと対比するんじゃなくて、ポリーニの演奏を楽しみに聴いているんだからポリーニの演奏をただ聴けばよかったんでしょうが、そうではなかった・・・。

あろうことか、この天下の1・2を争うといわれる大ピアニストが世に問うた渾身の演奏と対比したものがなにかといえば、さしてこの世界のことがわかっているわけでもない私の頭の中にもやぁ~んと存在するかしないかのそれぞれの曲の印象であります。

先般、タワレコ渋谷でご尊顔を拝し奉ったときに非礼を詫びておけばよかった。

そう、演奏の善し悪しを演奏で判定していない・・・これは私の「捌きかたの問題」だったのです。

とにかく「こうだったらいいのに」とポリーニの演奏に注文をつけるばっかりだったんですね。
こんな聴き手の要請に応えられている演奏なんて、どこにもないでしょうね。(^^;)
なまじポリーニがショパンのノクターンを弾くというのが、私にとってはサブライズだったのでどんな演奏かの見当付かなかったから、余計に出てきた音を懐疑的にみてしまったのかもしれません。

ポリーニのノクターンが聴きたかったんだから、ポリーニ以上にポリーニらしくノクターンを弾ける人はいないしイメージできる人もいないんだから・・・。
ディスクから出てくる音をすべからく受け入れて、是非や善し悪しでなくそれを味わいつくすように聴いていれば・・・ディスクの印象、そして聴後の認識も大きく変わっていただろうなぁ~と思います。

「こうだったらいいのにな・・・」などとはポリーニ様にむかって不遜極まりなかったと反省することしきり。。。

聴きなおしてみて、すこし引っかかるところは残るといいながら、ポリーニのアーティスティックな面に感服しました。
旨味と効能がこれからじんわり現れることを期待したいと思います。(^^)/

あたりを払う存在感

2007年10月18日 00時14分59秒 | ピアノ関連
★ショパン:4つのバラード、前奏曲第25番、幻想曲作品49
                  (演奏:マウリツィオ・ポリーニ)
1.バラード 第1番 ト短調 作品23
2.バラード 第2番 ヘ長調 作品38
3.バラード 第3番 変イ長調 作品47
4.バラード 第4番 ヘ短調 作品52
5.前奏曲 第25番 嬰ハ短調 作品45
6.幻想曲 ヘ短調 作品49
                  (1999年録音)

ショパン忌の昨日は、高橋多佳子さんの“ショパンの旅路”全6集7枚の連続演奏会を堪能して・・・といっても途中Ⅳの後に寝て、会社から帰ってきてⅤ以降を聴いたんですが・・・すでに自分の血肉となりつつあるだろう音楽をさらに刷り込んだかなという感じであります。(^^)v

ただ、彼女の演奏はよっぽどパワーがあるときに聴かないと、こっちが負けちゃう演奏だとも思いました。
それほどの一途な想いが、ディスクに込められているということなんだろうと理解しています。
間違いなくその演奏家の、少なくともその演奏に対してどのような想いをもっているかという心の奥底は、12cmのぺらぺらの盤を通してすら感じ取れるものであることを信じています。

そして多佳子さんはあらゆる点でストレート一本槍、聴き手の私はたまたまでしょうがそれがツボにドンピシャでハマルので、心地よいキリキリ舞いを楽しむことができるというわけです。


そうはいっても、この記事も書かなきゃいけないんで「多佳子さんの後を引き継いで聴いても負けない人は誰じゃいな?」という観点から選んだのがこれ・・・。(^^;)
連日のDGのディスクって、このバックステージでは珍しいかもしれませんね。
別にメジャーのディスクを避けてるわけじゃないし、いっぱい持ってますけど・・・聴き始めたころは当然国内盤メジャー・レーベルの演奏家のものばかりだったわけですから。。。


実はこのアルバム、発売日に期待満々で購入したもののあまりしっくり来ていませんでした。
ポリーニのショパンのディスクであれば、世評の高い(全部高いけど)スケルツォ集とか、ピアノ・ソナタ2曲とかは諸手を挙げてブラヴォーと騒いでいましたが、ここ最近のディスクには名状しがたい微妙な食い違いというか「違和感」を感じることが多かったのです。

ポリーニが屈指のピアニストであることには、私はまったく異論がありません。
シューベルトの変ロ長調ソナタを初めて聴いたのもポリーニだし、1980年代から90年代初頭にかけてのポリーニは無敵だったんじゃないかと思います。

でも、最近は・・・?
ぎこちないというと変ですが、確かにぎこちないものでも平気で、否、敢えてそのまま世に問うているのではないかと思えるぐらいです。

それを確信したのは、アバドと組んで再録音したブラームスの第2番のコンチェルト。
冒頭のホルンの始まりにすぐつけるピアノの上行音階のタイミングが、どうしてもズレてる(?)ように思われてならない、これを引きずって聴いてしまうと、確かにハードボイルドに弾かれているのに、何故か引っかかりを感じてしまうというのがトラウマになってしまったような気がします。


翻ってこの演奏は、やはり冒頭のバラード第1番のイントロの最初のハ音が十分伸びきらないうちに変ホ音に焦っているようにつんのめっていく・・・私は自分がこの2音目で引いてしまうのが判ります。
きっと最初に聴いた時もそうだったんでしょう。
このように前のめりになる瞬間は、この演奏中に何度かありました。

しかし、この曲ならずともバスの音の強靭な存在感というか幅のきかせかたたるや、このポリーニの質実剛健な信条が顕れているのが判ります。
そもそも、このバラードもミツキエヴィチの「コンラッド・ヴァレンロッド」の詩に着想をえたものであるとするならば、流麗な曲であるわけがないわけですし・・・。

そして、とかく取り沙汰されるポリーニのタッチについてですが、音の出のコントロールの見事さを称揚しながらも、指の離し際(音の消え際)のぞんざいさという点についてもそう思えなくもない箇所は確かにありました。
でも、私はこれはポリーニがわざとやっていると思いましたけどね。
ペダルで音色を作ることはあっても、やはり正確なタッチでの音作りが主であるポリーニの演奏法にあってはペダルで音を繋ぐという感覚はそれほどないんじゃないでしょうか?
先の評価はそのような帰結としてあるもののような気がしました。

これはツィメルマンが全曲を通じてルバートを意識したという、バラ4にあっても同様です。
特に流麗に弾くということもなく、ルバートするところはルバートしてるんでしょうが、解釈上ルバートしている箇所は極端に少ないんじゃないでしょうか?
ですから、私が偏愛しているこの曲のコーダ前の経過部にあっても、終始意を用いて弾かれているのですが、そこにエロス&タナトスといった要素は感じにくい・・・戦車が通り過ぎていくような感じで、戦艦大和が横切っていくような感じがしないというとわかんないでしょうか(^^;)・・・のであります。
逆に5つの和音の後の音の奔流も、恐ろしく込み入った楽譜をものともせずに何事もなく、ただ重々しく質実剛健に進んでいくのです。


それでは私はポリーニのこの演奏が受容れがたかったかというと、実はそうではありません。(^^;)
私のほしいものをポリーニの演奏に求めたんだとしたら、確かに少ないし気がかりな点も多かったかもしれませんが、この演奏に何があるかと切り替えたとき厳然とあるものに気づきました。

言葉として浮かんだのは「睥睨(へいげい)」、タイトルのあたりを払う存在感というのはその言い換えであります。
考えてみれば、このディスク全体を貫くひとつの気分については、これほど統一感を持っているディスクはそんなにないんじゃないでしょうか?

この曲はこんな曲だからとか、ここの箇所はこんな気分だからという弾き方ももちろんよいんじゃないかと思います。
でも、ポリーニの場合はこの曲に限らず「作品の造形と音像を描き出す(帯の謳い文句より)」ことがライフワークですから、見事にここでもその仕事をやり遂げていると言えましょう。

ポリーニのありったけの知情意を込めた対象がその方面であるならば、そればぺらぺらな盤を通して確かに私の胸に刺さっていたのです。
やはり、流石はポリーニというべきでありましょう。(^^;)

実はこの後、さる技巧派ピアニストのディスクも試しに聴いてみたのですがムチャクチャ軟派に聴こえました。
聴くべきものがそれぞれのディスクにあって、その言わんとする心の在りかを探り当てた時にこそ、ディスクを聴く楽しみは得られるんだなと、またまた感じ入りました。

ポリーニの他の盤も聴きなおさないといけないでしょうね。ノクターン集とか・・・。


そしてもう一点、最近のディスクは往々にしてヘッドフォンで聴いた印象と、ステレオで聴いた印象に大きな隔たりがあることを感じています。
もしかして音決めするとき、ヘッドフォンの音色を以前より重きを置いているのではないかという推測をしていることも記しておきます。

この点は個人的に、ちょっと気になります。

ショパン忌

2007年10月17日 00時00分00秒 | ピアノ関連
★ショパン:4つのバラード/舟歌/幻想曲
                  (演奏:クリスティアン・ツィメルマン)
1.バラード 第1番 ト短調 作品23
2.バラード 第2番 ヘ長調 作品38
3.バラード 第3番 変イ長調 作品47
4.バラード 第4番 ヘ短調 作品52
5.舟歌 嬰ヘ長調 作品60
6.幻想曲 ヘ短調 作品49
                  (1987年録音)

今日、10月17日はショパンの命日ですね。
といっても、私が特段のイベントを考えているわけではありませんが・・・強いて言えば朝食はトーストにしようと思っているぐらいでしょうか。(^^;)

それにしてもこのディスクが新譜だったのを昨日のことのようにとはいわないまでも、はっきりと思い出す私は紛れもなくオジサン。
もう20年も前の録音になるんですね・・・。
ツィメルマンがショパンコンクールで勝ったのが75年ですから、キャリアとしてはプロとしての経験も十分に積んだ時分の録音でありまして、私はこのディスクを以ってツィメルマンの演奏が完成したと見做しております。

本当にこのディスクの解釈は考え抜かれているうえに、奏楽そのものもしなやかでみずみずしくて文句のつけようがありません。
といいつつ1つだけ注文をつけますが、舟歌のラストの前で最高音まで盛り上がった後のアチェレランドがきつすぎるように思うのです・・・何回も聴いてると気にならなくなるといわれれば確かにそうですけどね。

先だってのシューベルトでもそうでしたが、このツィメルマンの醸し出す音の気配(雰囲気ではなく)がグールドを聴くと一部の人が自制心を失い熱狂しちゃうのと同様なメカニズムで、私を虜にしちゃってくれるんですよね。

ホントにこのころのツィメルマンは、批評家に「若いくせに大家のような演奏をする」といわれていたのですが、どうしてどうしてこの若々しさは決して大家に求められるものではありますまいて。(^^;)

一時ちょっと軽くないかと訝しがった時もありましたが、いや~やっぱりスンバらしい。。。
魔法の音を自在に操って、バラード第1番のイントロのたっぷりしていながらむくみのない重みに目を見開かされて、幻想曲のこれも重過ぎずきつすぎない最後の和音に至るまで一瞬として極度に緊張したり、あるいはダレてしまうところはありません。

バラードが1枚に全部入っているディスクであれば、間違いなくこれが私のファーストチョイスでしょうね。
高橋多佳子さんの“ショパンの旅路”からバラードだけアンソロジー的に抜き出してディスクを作ったら、もちろんそっちを採りますが。(^^;)
ないもんをどうこう言ってもしょうがない。


でも繰り言になりますが、ツィメルマンがソロのレコーディングをしないのは、しないのではなくてできないのではないかという疑念を持っています。

赤ちゃんを寝かせようと思っているときに聴いても、おかあさんもうるさがらず赤ん坊もすやすや眠れるショパンのスケルツォなんてありえないんだから、できる範囲で録音をしてくれちゃったら世界中が喜ぶと思うんだけどなぁ~・・・というのが私の考えですが、ツィメルマンは多分自分の完璧を期した録音をしたら世界中のだれも理解してくれないような気がしているのではないでしょうか?

たとえばイチローなら世界最高の打撃技術(精神力もだけど)の発露は、ヒットの数という形で反映しますが、ピアニストの場合、ヒットかどうかを判断するのは他ならない私たちでありますからして・・・。

さらにさらに喩えるなら、きわどい事件を判断することを要請されたシロート裁判員みたいな私たちが、世界の第一人者の芸術を裁いちゃうことになるわけですよねぇ~。
それに関して、ツィメルマンが下々のものにはわかるまいというような不遜な物思いをする人じゃないことはわかっています。
でも、彼はライヴでこそ・・・正確にいいましょう・・・ライヴというシチュエーションにあってこそ、“そこに居る”聴衆の御心に適う演奏が出来、聴衆も納得する演奏ができると思い込んでしまっているからこそ録音ができないのではないか・・・私はそう推理するわけです。


私にとって、ツィメルマンのこのディスクひとつとっても、その端々には常に惹かれるものを見出しつつも、全貌をすごいと判断できるまでには実に20年近くかかったわけです。
詳しくいうと同じDGにミケランジェリのショパン・アルバムというものがあって、どうしてもツィメルマンのこのディスクをショパン演奏の筆頭とすることはためらわれた・・・みたいな思い込みがあったんですね、きっと。
それが「いいものはいい」と率直に聴けるようになるまでに随分時間がかかったというわけです。そしてもちろん経験の蓄積によってストライクゾーンが広まったことも素直に聞ける要因となっているのは疑いない・・・。


実は今では、「聴いたその時にいいと思える演奏がいい」という考えに至ったのであります。(^^;)
「なんだこれは?」と思ったディスクを何年も寝かしておいて、また取り出して聴いてみると案外よかったりする・・・そんな経験も度々しました。

だからツィメルマンさんにお願いしたいのは、いつか必ずきっとその芸術を理解できる日が我等衆生にも来ると信じて、ぜひとも今至っておられる演奏の境地をソロ録音で下賜してくだされ・・・ということであります。


そのときを虚心に聴く。
当方もこれがCDを聴く時の極意だと悟りました。
音楽内外の経験を経て、きっと自分のストライクゾーンはもっともっと広くなる・・・そんな気がします。(^^)v


さてと、これを書き上げたところでいろんなピアニストのショパン演奏を今日は楽しむことにしましょう。(^^)/

上善如水

2007年10月15日 00時41分10秒 | ピアノ関連
★シューベルト:4つの即興曲 D899 & D935
                  (演奏:クリスティアン・ツィメルマン)
1.4つの即興曲 D899(作品90)
2.4つの即興曲 D935(作品142 遺作)
                  (1990年録音)

ツィメルマンのソロ・レコーディングは1991年のドビュッシーの前奏曲集以来発表されていないらしい・・・。
このシューベルトが発表された前後には、ショパンのバラード集、リストのソナタ、先のドビュッシーと決して数は多くないけれど、ツィメルマン独自のソフィスティケートされたというか、スタイリッシュにして玄妙な響きを駆使して気骨あり~の、気位たかい~のととても気持ちよさげなアルバムを立て続けに世に出してくれていました。
ウェーベルンのソロの曲が、ブーレーズによる全集に“つまみ”みたいに入っているにはいましたが、独立したソロの作品集ということからするときわめて寂しい現状といわざるを得ません。
まぁ数は少ないとはいえ、コンチェルトのディスクはそれなりに出ていますが、やっぱり彼のソロによるアンソロジーがほしいところですよね。

しかしながら、この症状はなにもツィメルマンに限ったことではなく、アルゲリッチが83年にシューマン(クライスレリアーナと子供の情景)を録音して以来、こちらも基本的にソロ録音をしておらず、この2人はいずれもDGのアーティストというのはどういうことでありましょうか?

インタビュー等でツィメルマンは、ポリーニもアルゲリッチも「録音技術が進歩して音を録るのは結構だが、余り綺麗に録音できるのも音楽が死んでしまうから望ましくない」と人のせいにしようとするかのようにのたまわっています。(^^;)

デジタル・アナログの話であれば、「とっととアーティストが望む環境での録音をせんかい!」という話なんですが・・・。
古くはミケランジェリやチェリビダッケなども録音嫌いとしてならしていました(?)が彼等の主張とは少しく違うような気がするんですよね。

何よりポリーニも文句いってる人の中に加わっていながら、ちゃんとソロの録音を折々に発表しているし・・・。
ツィメルマンにせよ、ピアノ・録音についてもエキスパートたるべき知識を勉強して、折りに触れて自宅で録音をしているという話も伝わってきてはいたように思います。

それがなんで、最後に録音以来20公演ちかくのプログラムを録音してもいいレベルまで(=ディスクに残して発表してもいいレベルじゃないんでしょうか?)勉強したにもかかわらず、録音をしていないという話になっちゃうんでしょう?
濱田滋郎先生は、ツィメルマンに「人類の財産」とまで言わんばかりの勢いでライブ録音でもいいからしてちょうだいというリクエストをしたのに・・・お返事がチョイとつれなかったですね。(>_<)


このディスクはシューベルトのディスクの中ではちょっと毛色が違う・・・ツィメルマンのシューベルトの捉え方が独特なのかもしれませんが・・・でも、このうえなく魅力的なディスクです。

まず、シューベルトにありがちな孤独感や悲壮感がない。
少ないじゃなくて、「ない」んです。(^^;)
理由はどの場面も必ずはっきりくっきり弾いていて、翳ったところがないから・・・。
ツィメルマンが他の演奏をするときもそうであるように、歌心に溢れ、ロマンティックに綿々と歌われる中に優しさやぬくもりや憧れはあるんですけどね。

それにしてもこのピアノの音には参ってしまいますな~。
この方はデビューしたころはどっちかというとイモっぽかったですが、ブラームスのソナタ辺りからなんか独特な音をピアノから引き出すようになってきて、先のショパンなんかの音は完全にチョウに羽化しましたという感じですもんね。

もちろんこのシューベルトにおいても、この音色をもっていればこその解釈で演奏を展開しています。
音符を普通のピアニストが表現する際よりやや短く区切ったり、パッセージを速く弾いてみたりという独自の表現が試みられているのがそれです。
往々にして、そのように弾いて聴き手の耳を引きつけて、リピートされたところでは通常のテンポで纏綿と歌っているように聴こえるようにという複線の場合もあるような気がしますけど・・・。
普通の人がこれをやったらぶつ切れ、あるいは混濁というのが関の山という解釈なんだろうと思うんですけどね。

ツィメルマンの最大の魅力はこのように音自体が美しく、それを使ってやることなすことすべて自然に瑞々しくなされるというところでありましょう。
それはまるで水が流れるように自然で、激しいところはちゃんと水流が強いように迫ってくるし、時として氷のようにクリスタルな響きでメロディーを奏でてウットリさせるし、場合によっては内声部のアルペジオをペダルで霧みたいにして・・・。

タイトルを『上善如水』としたのは、以上のような理由によるものでして、別にツィメルマンから老子とか道教思想をイメージしたというわけではありません。
だいたいツィメルマンは気さくな人であると専らの評判ですが、特にショパンの音楽なんかを演奏するときは気位の高さが非常に目に付く(耳につく?)人ですから、ゆめゆめ道を歩く時に「水は目立たないように一段低いところを流れている」なんて考え方とは相容れないと思います。


さて、高橋多佳子さんもツィメルマンの直近の来日公演を聴いて(あたしゃ聴いてません)「素晴らしい完成度」だと仰ってましたが・・・。

私にはこの言葉がどうしても引っかかるんです。

最近のツィメルマンのコンチェルト録音のピアノの音を聴くと、限りなく美しくはあるんですが硬いような気がするんです。
要するに、生真面目で一生懸命自らの理想を追求した結果たどり着いた(彼にしてみればまだ道半ばでしょうが)現在の彼の音からすると、このシューベルトを録音したころの音は「ヌルイ」と思えるようになってしまっているのではないでしょうか?

自分の美学であり自分の到達点の音(解釈)で録音をしたい・・・けれど、現在の録音技術がもたらしたクリアな収録はその音だと何らかの不具合が在る・・・こういうことではないでしょうか?

コンチェルトであれば、ラフマニノフにせよバルトークやラヴェルにせよオケとの拮抗があったり協調があったりで、その音色を駆使することができるのでしょうが、ピアノ・ソロだとその音色を使うと音楽が死んでしまうというように固まってしまうということなんでしょうね。
もっとユルい音を使ったらいいのにというのは素人考えで、アーティストの良心に照らすと少なくともそれは自分のベストではないといわざるを得ないということかもしれません。

我等からすれば、ツィメルマンの現在の力量であれば「完成度90%」ぐらいで流してくれたほうが、普通の聴き手には与しやすい演奏になるような気がします。

彼が最高に満足した作品を録音できたとして、我々はついていけるのか・・・?

もしも実現したら、疲れそうですね。(^^;)

爛熟した後期ロマン派末期の音楽?

2007年10月11日 21時57分01秒 | ピアノ関連
★ラフマニノフ:2台ピアノ&4手のための作品集
                  (演奏:ジョス・ヴァン・インマゼール、クレール・シュヴァリエ)
1.組曲第1番「幻想曲」Op.5 (1893) 1.バルカロール2.夜-愛3.涙4.復活祭
2.組曲第2番 Op.17 (1901) 1.序奏2.ワルツ3.ロマンス4.タランテラ
3.6つの小曲 Op.11 (1894) 1.舟歌2.スケルツォ3.ロシアの主題4.ワルツ5.ロマンス6.栄光
                  (2005年録音)

インマゼールとその弟子のシュヴァリエによる、エラール製のピアノを使用したラフマニノフの2台ピアノと4手のための作品集であります。
輸入元(?)のアナウンスによると、「ここに収められている作品は演奏に使用されているエラール・ピアノとほぼ同時期に作曲されたものなので、ラフマニノフが本来イメージした音色が再現されているのではないでしょうか」・・・ということなんだけどホントかな!?(^^;)

ラフマニノフといえば、やっぱり現代のスタインウェイの音色で弾かれているものを想起してしまいますよね~。
現に若きホロヴィッツとも親交がありその録音からはちょっと矍鑠とした現代ピアノという響きが弾きだされていたはずで、自身のコンチェルトの録音も遺していますが、それにしたってここでのエラールで聴かれる音とは性質の違う音を導いていたように思うのですが・・・。

確かにただでさえ音符の数が多そうなラフマニノフの音楽が、2台のピアノを盛んに鳴らすわけですから、こまごましたアルペジオなどの音が否応なく溶け合って、緊密で親しげな会話を思わせるという点は同意できます。
木綿の柔らかさを思わせる優しい音楽になっていることは認めましょう。

でも、ちょっと貧相なんじゃないかなぁ~。(^^;)
組曲第1番の第1曲、第2曲なんかであれば、やっぱりもっと壮麗にこゅ~くのたうってもよさそうな気がしますよねぇ~。
でも、第3曲はミニマル・ミュージックのような反復効果が醸し出されて、現代ピアノにはないミステリアスなムードがありました。
同じことは第2組曲のワルツやタランテラなんかにも言えるかな・・・。
でも、これもやはりなのですが、第4曲はやはりどうしようもなくパワー不足に思えちゃいます。

てなわけで、ラフマニノフであるならば、もっと濃密にグチュグチュして妖しさいっぱいの方が私は好きかもですね。
私が幼少のみぎり子供音楽事典みたいなもので作曲家をつらつら眺めていた時、ラフマニノフは『爛熟した後期ロマン派末期の音楽』であると評されていたんですから。
ショパン・コンクールに入賞した某邦人女性演奏家はラフマニノフを「ロマン派の終着点」みたいなことを仰ってましたし・・・。もちろん多佳子さんじゃないですよ。(^^;)

そう思って聴いちゃうもんだから、とても親密でいい演奏かもしれませんけど、私にはちょいとこれじゃ淡白なのよね。
(^^;)


★ラフマニノフ:2台のピアノのための作品集
                  (演奏:マルタ・アルゲリッチ、アレクサンドル・ラビノヴィチ)

1.組曲第1番 作品5 《幻想的絵画》
2.組曲第2番 作品17
3.交響的舞曲 作品45
                  (1991年録音)

で、現代ピアノによるラフマニノフのデュオ・アルバムを引っ張り出してみたんですが・・・。
このディスクは8月に多佳子さんとりかりんさんのコンサートの際にも写真レスで引き合いに出しましたが、アルゲリッチとラビノヴィチによるラフマニノフの2台ピアノ曲集であります。

そのときには、
「デュオ・グレースとアルゲリッチ&ラビノヴィチとでは曲の捉え方がまったく違うようにも思われてなりません」
「ラビノヴィチはロシア人なんですが、我々日本人が思うロシア音楽的な濃密さはデュオ・グレースの演奏のほうにより多く感じました」
「アルゲリッチ&ラビノヴィチは、もっと響きをスリムに整理してスポーティというかスタイリッシュに弾き上げたという感じ」
そして、アルゲリッチの霊感の濃やかな閃きといったよさをスポイルすることなかったが、もう少しワイルド&タフというか華やかさがあってよいという感想をご紹介しましたね。(^^;)

今も同じ感想でして、必然的にこのディスクも濃密グチュグチュではなかったということになります。
でも、アルゲリッチはいつもどこででもアルゲリッチなんだなぁ~と痛感しましたです。
それは、ツィメルマンがラフマニノフを演奏するということは「自分がラフマニノフを生きるということなのだ」みたいなことを言っていましたが、アルゲリッチはツィメルマン以上にそれを体現しているように思えると言い換えることもできましょう。

まぁ乗ってるときのアルゲリッチはいつも、楽曲の精神と同一化して凄いことをやっているのに衒いも何にもないんですが、それはここでラビノヴィチと一緒に演奏しているときでも例外ではありませんでした。
ラビノヴィチの力量にあわせて本来のパワーはセーブしているんでしょうけど、トータルでもの凄く有機的な音響作品としてこちらの耳に届けてくれるということに関しては、保証書つきという感じですもんね。

アルゲリッチにとって演奏するということは呼吸をするようなものなんでしょうね。
敢えて「何かするぞ」と気負いこむこともなく、自分の血肉となった楽曲に霊感を込めて魂を吹き込むだけ・・・天才ってそんなもんなんでしょう。
きっと・・・。(^^;)

至上のマズルカ

2007年10月10日 22時15分40秒 | ピアノ関連
★ショパン・リサイタル
                  (演奏:ピョートル・アンデルシェフスキー)
1.3つのマズルカ 作品59
2.3つのマズルカ 作品63
3.バラード 第3番 変イ長調 作品47
4.バラード 第4番 ヘ短調 作品52
5.ポロネーズ 第5番 嬰へ短調 作品44
6.ポロネーズ 第6番 変イ長調 「英雄」 作品53
7.マズルカ 第49番 ヘ短調 作品68-4
                  (2003年録音)

はじめてアンデルシェフスキーを聴いたのは、以前このバックステージでも特集したムローヴァによるブラームスのヴァイオリン・ソナタの伴奏者としてでした。

メジャー・レーべルに所属していたムローヴァが指名するぐらいだから、もちろんひとかどの腕は立つピアニストなんだろうなと思いつつ、そのころはムローヴァのヴァイオリンの音色ばかりに耳が行っていたように思います。
ただ、聴き返してみると音色の煌きに既にただならぬ個性を漂わせた演奏でしたね。(^^;)

その後、リーズ国際コンクールで自身の演奏に納得がいかないとして本選を棄権してしまったとか、モンサンジョンの監修によるベートーヴェンのディアベリ変奏曲のDVDを出したりとか、さまざまな武勇伝的な情報が断続的に入ってくるようになった中現われたのがこのディスクでした。

それはもう、衝撃的な印象を受けたものです。
もちろん全般的に抑制された解釈をとっていながら、生々しいまでの音色を縦横に駆使して有機的な演奏を展開していることに驚かされると同時に大満足を覚えたものですが、本当に驚いたのは冒頭の6曲、すなわち生前に出版された最後のマズルカ6曲の演奏であります。
ことこの6曲については、この演奏より私の心に働きかけてきたヴァージョンは金輪際ないと敢えて言ってしまいましょう。
それくらい、この演奏には感じ入るものがありました。(^^;)

作品59のマズルカには、DGにアルゲリッチのスタジオ録音になるインスピレーションに溢れた名演奏もあるんですけどね~・・・。
もとよりそれを聴いて、私はマズルカに関しては作品59-2が最も好きになったという歴史をもっているのですが、曲の終わりの転調間際でちょっと跳ねてみせるあそびを織り込んだりしておりますが、チョイと端正めに弾いているアンデルシェフスキーの演奏のほうにシンパシーを感じます。

順番に言うと、作品59-1は出だしからすぐこの世界に耳どころか体中を虜にされてしまうような哀愁を漂わせ、しなやかなメランコリーを立体的な音の響きの中から浮かび上がらせており、その点でこの演奏の右に出るものはないと思います。

ところで、このリサイタルを通してピアニストがここぞと思う本当に限られた部分しか音が前面に攻めてこないんです。
しかしながら、アンデルシェフスキーの手にかかると音色のみはその場に生々しく立ち上がる・・・という感じ。録音のせいかもしれませんけどね・・・。(^^;)
否応なく傾聴させられてしまいます。

作品59-3もえてして勇ましいといえるような始まりかたになる演奏も少なくない中、絶妙なニュアンスを湛えています。
作品63もしかりなのですが、特に2曲目のテンポと繊細な曲の表情付け、3曲目の詩情なんて他ではついぞ耳にしたことがないという解釈であります。
そしてそれが自身の息吹というか、完全にアンデルシェフスキーの音楽として消化されきっているので、とても洗練されたものとして響きます。

もしかしたらこれは「ポーランドの心」を体現したものなのか・・・アンデルシェフスキーがポーランド人のピアニストであるがゆえに、そこまで思わせてしまうという説得力のある演奏。。。

ただ実際には、これが正しいマズルカかどうかはわかりません。
聴き手である私にパワーがあるときには本当にしみいる音楽なのですが、ブルーというか心のエネルギーが少なくなっている時に聴くとさすがにこれだけの表現をされては追尾不能になること・・・それはピアニストのせいではありません・・・もありますから・・・。

このようにいろいろな工夫を織り込んでいることについては、眉をひそめる向きさえあるかもしれませんが、やはり私には「正統」とか「真理」とかいうことを抜きにして、純粋に向き合って讃嘆したくなるしなやかさを持った演奏である、それ以上でもそれ以下でもないとしか言いようがありませんね。(^^;)

バラードとポロネーズについても、テンポ・解釈共に他にはない独特な雰囲気を漂わせた佳演を繰り広げていますし十分に聴き応えはありますが、この盤はなんといってもマズルカ・・・です。(^^)v

絶筆のそれも、彼のマズルカ特有のメランコリーの表出があって最高に素敵!!


このアンデルシェフスキーの演奏に目を開かされた私は、他のディスクも買い求めてしまいました。
シマノフスキはまだ当方が勉強中ゆえなんともいえませんが、他のディスクからは残念ながらこのショパンで受けた啓示ともいうべき心証までは得られませんでしたね。

モーツァルトは才気が勝ちすぎているように思われましたし、ベートーヴェン(ディアベリ変奏曲”はこれも私にレセプターがないレパートリーであるし、バッハは確かに音色的にも独自の洗練というか爽やかさを感じましたが、これもこれから感覚的理解を深めていく必要がある演奏でしたね。

まぁショパンのマズルカ数曲というのであれば、私は迷わずこの盤を採る(次点はミケランジェリ)ということだけは、はっきりいえるディスクである・・・そういうことです。(^^;)

ムキダシの内面

2007年10月08日 21時15分25秒 | ピアノ関連
★ベートーヴェン:6つの後期ピアノ・ソナタ
                  (演奏:ピーター・ゼルキン)
 《DISC1》
1.ピアノ・ソナタ 第27番 ホ短調 作品90
2.ロンド 作品51の1
3.ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 作品109
4.ピアノ・ソナタ 第29番 変ロ長調 作品106 “ハンマークラヴィーア”
 《DISC2》
5.ピアノ・ソナタ 第28番 イ長調 作品101
6.ロンド 作品51の2
7.ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110
8.ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 作品111
                  (1980年代半ば録音)

この記事の話題は今をときめくピアニストの一人であるピーター・ゼルキンが「何故コンラード・グラーフのフォルテ・ピアノを使用してこのような作品を録音したのか!?」という1点に尽きるといってよいと思います。

ご承知のようにピーター・ゼルキンは父にルドルフ・ゼルキンを持ち、祖父にはにはヴァイオリニストのアドルフ・ブッシュとかもいたりして、斯界ではどこぞの国の宰相はじめとするお歴々のような毛並みをお持ちのピアニストであるといえましょう。

そうであればこそ、逆に本人のプレッシャーも相当なものだと察することは難くありません。
現にピーター・ゼルキンも大変な苦労や努力を重ねて、現在あるべきところにあるという状況であることははっきりと見て取れます。

前にも触れましたがNHKでのブラームスの第1番のコンチェルトの熱のこもった誠実な演奏には、まさに現代の巨匠による演奏であると鳥肌が立ちましたし、バッハやベートーヴェンなど近年出されたCDでの充実振りを見るにつけ、いよいよ親の七光りではない新の自分の境地を切り開いたなという思いを強くします。

シューベルトの“幻想ソナタ”などの最初期の演奏からは、触れただけで血が滴り落ちるような繊細なこころを聞き取ることが出来ていましたが、今般のこのベートーヴェンもまたしかりであります。

一口にフォルテピアノと言っても、どうも3種類ぐらいの楽器を弾いている(もしかしたら録音の方法を変えているだけなのかもしれませんが、ハンマークラヴィーア・ソナタだけはゼッタイに楽器が違うと思います)ようにも思われるので、結構演奏のみならず楽器の選別に至るまで気を配っているんだろうと思わされますね。


さてさて、当然ルドルフ・ゼルキンの息子とあればそのベートーヴェンには特別のまなざしが注がれることになるわけでしょうし、実際注がれているわけですが、だからといってフォルテ・ピアノでの演奏で違いを際立たせたということでは断じてないでしょう。
この演奏を聴けば、必然的にそのように感じることができます。

とにかく中身について述べれば、まずこれらの中で特に印象深いのは第28番と第30番、そして第31番ですね。

第28番は一部のベートーヴェンの音楽の中には、シューベルトの音楽にこれほどまでに近いテイストのものがあるということに、はじめて気づかされました。
これはフォルテピアノで弾かれていることによる気づきであると思いました・・・。

そして、白眉ともいえる第30番・第31番(ディスクを分けて、なおシンメトリックになるような曲順にしているところも、いかにもこの頃のピーター・ゼルキンらしいですね)の演奏は、フォルテピアノであることもあって、すこぶるテンポが快速であります。

ただ、ここで聴こえてくるのは・・・たしかに本当に細部までとことん神経を張り巡らせた、そしてその尋常じゃない表現力は音楽的という意味でも最高度に完成されたものだとは思いますけれど・・・ピーター・ゼルキンのナマの声というか、それこそムキダシになった内面そのものであります。

それはテクニック的には余裕がある表現といっていいと思うのですが、とんでもなく切羽詰った印象を与えられる演奏なのです。
何か巨大なものに・・・もちろん、ご先祖様系もその一因だとは思いますが、それよりもなお大きなもの、音楽のありかたがこれでいいのかとか、自分の存在の仕方がこれでいいのかといったような哲学的なことを考えすぎて、あるいは考えあぐねているような印象すら覚える演奏。。。

言い切ってしまえば、どの演奏も確かにその曲を演奏しているのですが、本人が気づいているかどうかは別にして、聴き手に届けているのはすべて楽曲の内容ではなく「ピーター自身」の内面・・・これを判ってくれと声にならない叫びを上げているだけである、そう思えてしまうのです。
そりゃそういうのもアリでしょうけど・・・そんなの聴かされているほうはつらくなりますよね。

繊細な感覚をもつピアニストにとって、この楽曲の持つあまりにも多様な表情をたった一回限りの演奏で表現しきることはムリだったんじゃないでしょうか?
曲から感じる波動を自分のイマジネーションにより近づけて表現するためには、そのタッチが現代ピアノよりもさらに自分の意志同様に打ち震えて聴こえるフォルテピアノのほうが相応しいから、少しでも自身の目的に適うようにするための楽器選択だったのではないか・・・そんな風に推理してみましたが、どうなんでしょう?(^^;)


ところでピーターはこの後一度消息を断ち、チベットなどを放浪したりしたことで(結果的に)精神的な何かを修養したようですね。
私にはその必然性が判るような気がしました。

これだけまじめな人が、まじめに結果を求めて演奏の一回性ですべてを表現することができないということに思い悩んでしまったら、発狂するしかないでしょうからね。

とかく、欧米の考え方は真か偽かの二元論に陥ることが多いように思いますので、ピーターも楽曲をそのように捉えようとしたではないかと思います。
現実には作曲家はこれが正である(言い換えればそうじゃないのは邪である)ということを想定して作曲したケースもあるのでしょう。

しかし、楽譜と若干の指示、背景情報から判断した場合にはそこからなん通りもの考えうる解釈が発生してしまうのは当然だと思います。また、その違いをこそ我々は楽しませてもらっているのですが、ピーターは自らが責任を持って聴き手に提供する音響については「ただひとつの真実の解釈を完全に再現したい」と思いつめてしまったのではないでしょうか?

となると精神的にも参ってしまって何かの妥協をするか・・・というとそれも彼の性格ではできるはずもないでしょう。
というわけで、二元論ではなく特に仏教などにも影響を与えた考え方「真理などはない」万物は諸行無常といわれるとおり日々流転していて、完成というものなどなくその時々のスタイルでその途上を精一杯表現するというスタンスに傾倒することは十分に考えうることだと思うのです。

あるいはフォルテピアノによる奏楽も、そういった試みをはじめた中でのなんらかのトライであったのかもしれませんが、とにかくムキダシの放電状態の電線みたいなこころから「なくすべき緊張感」を排除する努力を営々とピーターは続けてきたのではないんでしょうかねぇ~。


そしてビクターのアーティストとしてゴルドベルク変奏曲でシーンに戻ってきたときには、情熱的、誠実という以前の印象は確かに理想的に残しつつも、実際にははるかにスケールを異なった対象(私個人から楽曲に内包されている表現さるべきトピック全般)に切り替えることで、リラックスも出来ながらも、さらにその真摯な芸風に一目置くことのできるような演奏の可能な巨匠に殆どなっていたといってよいと思います。

このピアノに念を送りながら演奏しているかのような名手の、これからの更なる充実への期待はいや増すばかりですね。(^^;)

理詰めと抒情

2007年10月03日 16時53分27秒 | ピアノ関連
★シューベルト:ピアノ・ソナタ D.960&D.664
                  (演奏:高橋 アキ)
1.ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D.960(遺作)
2.ピアノ・ソナタ 第13番 イ長調 D.664 作品120
                  (2007年録音)

高橋アキさんの演奏に初めて触れたのは、一柳慧さん作曲の“ピアノ・メデイア”でした。
当時はまだクラシックを聴き始めてまもなくの頃で、その曲にもすごく驚かされましたが、こんな曲を生身の人間で演奏できる人がいるとは思いません・・・という程驚かされました。
この高橋アキという人はサイボーグじゃないかって・・・マジで思いましたモン。(^^;)

まさかそんな人が普通のクラシック音楽、それもシューベルトをお弾きになろうという心境になられるとはいかがしたものか・・・また当方とてそんな方の演奏を聴こうと思う気になるとは・・・怖いもの見たさがそうとうあったことはいうまでもありません。

果たして、他には決してないその音楽の淵に、深く感じ入ることになるとはさらにさらに思うはずもなく・・・こんなしっかり大地に根を下ろしたシューベルトが聴けるとは大誤算でしたね、いいほうに。(^^)/

「大地に根ざした」などというと、シューベルトにはハンガリー風のメロディやアレグレット、楽興の時の第3番などでも顕著なように民族色が濃厚なものを想像されるかもしれませんが、ここでは違います。
健康的(かどうかはホントはわからない)で、野にすっくと立つ下半身の強靭さというかそういったイメージの演奏なんです。
それは、楽曲の構造をしっかり理解したうえで、堅固に再現しているところからくる印象なのでしょう。

そして、特徴的なのが使用されているベーゼンドルファー・モデル290・インペリアルとクレジットがある楽器についてですが、本当に不思議な響きがします。
旋律と中声部が立体的になる場面など、クラッと立ちくらみするような感じになる・・・。
全般的に音が乾いているうえ中音域が張り出した音色になっている(録音の関係かもしれません)んですが、これを高橋さんが絶妙なペダリングでしっとりとした響きを混ぜこんでいかれるんです。
もっとも魂を持っていかれるのは高音の透明な響き・・・。
現代音楽の巨匠だけあって、音色のグラデーションの幅が精密でムチャクチャ広いからこそなせる業なんでしょうけど・・・いやはや、音だけでこれだけ痺れさせる技術をもっている人はなかなかいないんじゃないでしょうか?(^^;)

さらにフレーズの『間』の取り方に旨味があるんですね。
それも、時間的な間のみならず音色や強さにも絶妙のズレというか差を織り込みながらじっくりと弾き進めていった・・・という感覚。。。
強調する音には、聴感上もきちんと強調されましたという印が付いているんですが、先のピアノの特性もあってエキセントリックなものにならない・・・こんなところにもこの聴き心地のヒミツがあるような気がします。


いずれにせよ現代音楽の最先端をサイバーに廻ることをライフワークにしてきた彼女が、古典(初期ロマン)派に回帰すると、非常に構造をはっきり意識した地に足の付いたものになり、ピアノの音色はもとより構造まで熟知してその求める音のシルエットを探求していることがつぶさに感じられる仕上がりになる・・・ということがよく判りました。

頭でカヴァーできることは、流石に、ほとんどすべて理詰めで押さえ切っているんだなというのが、率直な想いですね。彼女の経歴をよく考えれば、またお兄さんのことまで考えれば、この帰結はある意味当たり前と言えるかもしれませんけど。(^^;)

さて、あらゆるレコーディングにおいて音響上のこと、ピアノ選択のこと、そして楽曲の解釈のことに至るまであらゆるロジカルに処理できることは(スタッフの力を借りての部分も含み)、事前に最善のことを準備された上で臨まれたであろうレコーディング・・・。
後は、彼女の解釈に関して「いかにそれを音に換え、聴き手が感動できる内容になっているか?」だけが試されるのみとなっていたんでしょうね。


で、プロデューサーノートを見たら高橋さんは大学時代にヴァシャヘーリというお師匠さんにシューベルトの論文まで提出しているぐらい、また、今年の頭のリサイタルには自らこの変ロ長調ソナタをプログラムに組むほどシューベルトに親しんでいらしたとのこと。
決して俄かにシューベルトに入れ込んだり、先祖がえりしたわけではないということだったんでしょう。
心配して損した・・・。(^^;)

シューベルトを演奏するときにはそんなにキーを押し込むモンじゃない・・・という声もありそうなぐらい、しっかり深いタッチで終始弾ききっておられますが、そこまでの深い理解と愛情、何よりも深い思い入れを表現しきることができる証といわんばかりに聴こえてきました。(^^;)

私はタイトルに『抒情』と書きましたが、プロデューサーが高橋さんの持ち味を「優しさ」と表現しているものとほぼ同様のものと思っています。
この独特の楽器の特性を余すところなく・・・あるいはその最良のところが記録されるように工夫され、その堅固な構造表現に根ざした奏楽から件の「優しさ」を十全に引き出すことに成功している、録音スタッフの仕事にも大いに敬意を表したいと思います。

私の所有する46種類目の変ロ長調ソナタのディスクは、かくも印象的なものでありました。(^^)/

ブラームス3題

2007年09月26日 22時01分10秒 | ピアノ関連
★ブラームス:ピアノ作品集
                  (演奏:ホアキン・アチューカロ)
1.シューマンの主題による変奏曲 作品9
2.3つの間奏曲 作品117
3.6つの小品 作品118
4.4つの小品 作品119
                  (1998年録音)

ヒマさえあれば音楽を聴いている私ですが、バックステージに登場願うディスクは聴いたときに何がしかのインスピレーションが沸いたもの・・・ということになります。

中にはそれがなかなか沸かないものもありまして・・・。(^^;)
ブラームスのディスクが3枚たまりましたので、聴いたというご紹介だけさせてもらいましょう。


以前にも私の音楽殿堂入りしたピアニストの一人としてご紹介したアチューカロ。
オジサマ的な奏楽はセンスと味わいを感じさせながら、スペインの紳士らしくネガティブなところをまったく見せずに楽しませてくれる奏楽を特徴とするピアニストです。

ここでもネアカでありながら、ごく若いときの作品と創作末期の作品の気分を見事に引き分けています。
ブラームスがシューマンの弟子であるということを、これほどはっきり聞き取れる演奏はなかったように思いましたが、それ以上の感想がわかずに記事にできませんでしたぁ~。

細身でも輝きを失わない美しい音で終始弾きあげられていて、それなりには味わい深い演奏であるとは思うのですが・・・。(^^;)


★ブラームス:ハンガリー舞曲集・ワルツ集
                  (演奏:ヤアラ・タール&アンドレアス・グロートホイゼン(ピアノ・デュオ))

1.ハンガリー舞曲集 (全21曲) (ピアノ連弾版)
2.ワルツ集 作品39 (全16曲) (ピアノ連弾版)
                  (1992年録音)

しかし、このデュオは本当に1人で弾いているように弾きますねぇ~。(^^)/
プリモ担当と思しき女性のタールはやや煌びやかに弾きあげることに長けていて、セコンドのグロートホイゼンは本当に温かみのある精妙な音色であらゆるリズムを表現できちゃう技の遣い手ですね。

ハンガリー舞曲には強烈なジプシー色も民族色もありませんが舞曲集であることを十分に意識させてくれるものでした。
そして、純粋に2人で奏でる楽しい音楽をご一緒させてもらったという感じであります。ですから、ワルツ集はさらに楽しいものになっていないはずがありません。

で、ひとこと感想はハンガリー舞曲の第2曲、第4曲をはじめとしていくつかの曲が“タンゴ”みたいだと思ったこと。(^^;)
高音での旋律なんかバンドネオンの粘り強い音に聴こえちゃったりして・・・なんか耳がおかしいのかなと思ってしまいました・・・以上ってかんじで、これも1枚だけでは記事にしようがなくって。。。(>_<)


★ブラームス:ピアノ・ソナタへ短調、ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ
                  (演奏:オリヴィエ・ギャルドン)

1.ピアノ・ソナタ へ短調 作品5
2.ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ 作品24
                  (2005年録音)

さて、ピアノ・ソナタ第3番とヘンデル変奏曲ですがこれはたっぷり脂の乗った演奏ですねぇ~と、とにかくこれだけは感じました。

園田高弘さんの演奏を聴いたのと前後して聞いてたんですが、園田さんのがどちらかというとストイックというか武骨で、喩えるなら「骨付き肉(^^;)だ、食いごたえあるぞ」という感じであるのに対して、ギャルドンの演奏は「ゴージャスで肉汁たっぷりジューシーなロース肉」という感じ・・・。
火をつけたらよく燃えそう・・・とか思ったんですよね。(^^;)

とにかくピアノの音が鳴りきって余裕が感じられる、ゆとりに溢れた演奏なのです・・・感想、ザッツ・オール。。。


いつも申し上げますが、私が何を書こうが、演奏自体の価値は変わらないですよ。
そもそも演奏自体変わるわけではないんだから・・・。
私とて全ての演奏に反応できるわけではありませんし、聴いた音楽しかここに書けないので・・・。

「ムリして書かんでよろしい」といわれれば返す言葉はございませんが・・・。