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SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

天使か悪魔か~カメレオン的グラデーション

2009年12月31日 23時59分59秒 | ピアノ関連
★革命のエチュード ~プレイズ・ショパン
                  (演奏:ジャン=マルク・ルイサダ)
1.ワルツ 第1番 変ホ長調 作品18 「華麗なる大円舞曲」
2.マズルカ 第12番 変イ長調 作品17-3
3.マズルカ 第13番 イ短調 作品17-4
4.マズルカ 第15番 ハ短調 作品24-2
5.幻想曲 ヘ短調 作品49
6.ノクターン 第8番 変二長調 作品27-2
7.スケルツォ 第2番 変ロ短調 作品31
8.プレリュード 変イ長調 作品28-17
9.プレリュード ト短調 作品28-22
10.バラード 第3番 変イ長調 作品47
11.ノクターン 第17番 ロ長調 作品62-1
12.エチュード ハ短調 作品10-12 「革命」
13.プレリュード イ長調 作品28-7
                  (1999年録音)

いや、この演奏はアブナイ。

ジャン=マルク・ルイサダ・・・
彼こそは、私にとってシチュエーションを変えて聴くたびに印象が異なるという鬼門の演奏家なのであります。
機会は違えどもおんなじCDを媒体として聴いているわけで、鳴っている音が同じであるからには、その演奏の心証が違うということは、当然に受け手の私の受止め方の軸がぶれているとしかいいようがありません・・・
そんな自分の拠り所のなさを思い知らされるという意味では、とっても悔しいピアニストといえましょう。

彼のディスクはショパコンで入賞後にDGから出たショパンのワルツ集ではじめて触れました。
当時手許にあったショパンのワルツ集のディスクは、ディーナ・ヨッフェのそれ・・・とっても素直で屈託のない演奏・・・ぐらいだったと思いますから、ルイサダ盤は一聴して演奏上の工夫を念入りに凝らしている解釈が顕著だと感じました。

その工夫・・・
彼の音楽は美しいピアノの音色も含めて彼自身の工夫の積み重ねの賜物であり、天啓が閃いたとか、音楽の神が降臨したといったものとは無縁に思えます。
あくまでも私の感じ方ではですが・・・。

最初は多少イビツに聴こえたとしても、一生懸命さというか人智の及ぶ範囲で持てる力を尽くしてパフォーマンスをしている態度ははっきりしており好感して聴いていたのですが、いつしかその工夫は「確信犯で行っている操作」、つまりは『罠』であると感じるようになっていきました。
そう思い込んでしまうと・・・工夫はあざとさを思わせるようになっていき、不幸なスパイラルに陥ってしまうようになっていってしまったのでした。

しかるにその後・・・
いろんな楽曲で「ルイサダ」の印がついたと知った演奏を小耳に挟むと、言葉は悪いですが先の工夫の成果が、ヤクザの鉄砲玉が精一杯のタンカを切っているような印象を生んでしまって、私にはどんどん馴染めなくなっていったものです。

この盤の演奏にせよとっても丁寧に奏されていると思うには思うのですが、例えば最後のマズルカ(前奏曲第7番)の終止前の和音に普段聴きなれない音が強調されているたった1音それだけで・・・楽譜に異稿があるかもしれないのに・・・「やりやがったな、このやろう!」という気にさせられます。
もちろん引っかかるところはその都度いろいろ・・・
普段であれば、これらを意に介せず風流と聞き流せるのに、ルイサダ印だとどうにも許せない気持ちになるのが自分でも不思議なのですが。。。


ただ、それが・・・
ルイサダ印がついていることを知らずに聴くと、彼の演奏にはどうしても耳を吸い寄せられるような現象が起きてしまうのです。
チョッと聞きには、美麗な音色、そして例の「工夫」が「おいでおいで」をしている。
どうしても言葉が悪くなりますが、他のピアニストとは明らかに違う『誘拐犯』のような手練主管であります。。。

ところで、ピアニストの中には他にも、ザラフィアンツやアファナシエフなどこれも強烈に楽曲を自分流に解釈する輩がおりますが、彼らは自分のためあるいは楽譜に忠実に尽くすためにそのように振舞っているように聴こえます。
その結果、自分の演奏や世界観に陶酔するという現象を素直に聴き取ることができるのですが、憎たらしいことに、ルイサダは誠心誠意を尽くしていながらも「効果を狙っている」ように聴こえてしまい極めて自然な世界に浸っているように見えながら「醒めた目」「薬(麻薬?)の効き具合を観察しているような目」を感じてしまうのです。

そして・・・
先の演奏者不明の奏楽を種明かしされ、果たしてルイサダの演奏とわかると「なぁ~んだ」と思ったり、ちょっとなりとも耳を奪われたことを恥じ入る・・・とまではいいませんが、気の迷いだったと思うか、どうせ長く聴いていたら鼻について飽きると見切ってしまう、そんな「予断」を抱くことが多い気がします。

もちろん、音楽を聴く際に「予断」は禁物。。。
それならば・・・
先入観を完全に排除してルイサダの音楽に向かい合った場合に、どんな真価を見出すのか・・・?
心のコップを空にするよう努めて何度もトライしたのですが、コイツの演奏はそのたびに『怪人20面相』のように違う表情を示すので本当に悔しいのです。


ルイサダのCDのオビにはえてして「ピアノの詩人」と謳われており、かねがねどうも印象が違うと思ってきました。
しかし、よくよく考えていくと「推敲に推敲を重ねて、極めて自然に響く、あるいは聴こえるように自らの解釈の力、演奏の力の及ぶ範囲を尽くして練り上げられている産物」がディスクに収められているのであり、その点「詩人」と言われればそりゃそうだと首肯しなければならない、これまた口惜しい奏楽を提供する演奏家であるわけです。

そんなに悔しいなら聴かなきゃそれまでなのですが、どうもそれも潔くないような気がする。
ここまで書いてきたことだけで、すでに二十分に潔くないのは重々わかっているのですが、切るに忍びない気持ちはあります。

当のルイサダさんはきっと極めて真面目で努力家でいらっしゃると思います。
そして私の態度にも・・・
「何をそんなに躊躇することがあるのですか?素直に私の音楽に耳をかたむけてくだされば・・・」ぐらいのことを願われるのだと思うのですが、その素直に耳を傾けることがどうしてもできないので困ってしまっているのですから・・・。

彼の流儀はともかく、演奏の仕上がりの品質の高さには敬服をします。
ジャケットのセンス(とくにBMGに移ってから)にはかねがね疑問を持っているのですが・・・これらはオトには全然関係ないし・・・。
男性的な演奏を展開しながら、女流にも通じる濃やかさを演出することもできる・・・。
普通ならば、何の文句もない賞賛の嵐となるはずなのに・・・
署名がルイサダとしてあると・・・
何故だろう?

ごめんなさい。(^^;)

ヨッフェの2種のスケルツォ

2009年11月24日 23時30分00秒 | ピアノ関連
★2つのスケルツォ、マズルカ、夜想曲集
                  (演奏:ディーナ・ヨッフェ)
1.夜想曲第4番ヘ長調 作品15-1
2.スケルツォ第1番ロ短調 作品20
3.夜想曲第15番へ短調 作品55-1
4.マズルカ第46番ハ長調 作品67-3
5.マズルカ第13番イ短調 作品17-4
6.マズルカ第44番ト長調 作品67-1
7.夜想曲第6番ト短調 作品15-3
8.ポロネーズ第2番変ホ短調 作品26-2
9.マズルカ第47番イ短調 作品67-4
10.マズルカ第45番ト短調 作品67-2
11.マズルカ第5番変ロ長調 作品7-1
12.夜想曲第5番嬰ヘ長調 作品15-2
13.夜想曲第18番ホ長調 作品62-2
14.スケルツォ第4番ホ長調 作品54
                  (2008年8月録音)

ディーナ・ヨッフェ・・・。
これまで昔々に発表されたショパンのワルツ集のCDを1枚手にしていただけのピアニスト。
印象としてはまったく奇を衒ったところのない素直な演奏で・・・そうであればこそ・・・まったくそれ以上には私の記憶に刻まれていないという感じだった。

詳しくは知るよしもないが、1975年のショパンコンクールでかのクリスティアン・ツィメルマンがいなければ間違いなく優勝していたといわれているとの記事をどこかで読んだことがあるような気がする。
そこではツィメルマンはまだまだ若く、歌心に溢れてはいるもののポーランドの聴衆の圧倒的な声援を味方につけた優勝のように評されていたものだった。。。
要するに“あの時点”での実力だったら、このヨッフェが優勝すべきだったという論旨だったのである。

今をときめく稀代のカリスマピアニストの筆頭と目されるツィメルマンだから、そのときのショパンコンクールの審査員の先見性、見る目は確かだと称賛されてよいのかもしれないが、コンクールのカウンターパートにしてみれば「将来性」なんてものを織り込んで評価されてしまってはたまったものではあるまい。

マラソンで5位だった選手が、それよりも上位の選手よりも将来いい記録を出すだろうから優勝とか、フィギュアスケートでいつか5回転を跳べる器だから優勝なんてことはありえない。

現在の進境や活躍ぶりを知りツィメルマンの優勝は至当であると思いつつも、そんな記事を目にしたときの違和感は今でも覚えていたりする。

そこでヨッフェが言っていたと記憶していることばも振るっていて、ツィメルマンがいまや素晴らしいピアニストに成長しているからまったく文句がない・・・ようなセリフだったと思うのだが、これはなかなか言えるものではないと思った。

長々と記憶に基づいて書いてみたのだが、ここでの演奏振りを聴くにつけて2つのことを思ったから・・・である。

ひとつにはヨッフェは、言葉通りまったく素直にそう思っていたのだろうなということ。
先のワルツ集でも思ったことだが、演奏の巧拙なんてものは彼女あたりのレベルに達すればそれほど大した問題ではなくて、むしろいかにその演奏の世界の中に一体化して充足できているのかが唯一気にかけていることなのではないだろうか?
何の奇を衒わなくとも、どうしたら楽しめ満足できるのか?

この人間味が持ち味の彼女であればこそ、神がかり的な何かを持ち合わせたツィメルマンと鉢合わせたのは、ある意味アンラッキーだったのかもしれない。


いまひとつは、そんなヨッフェのようなピアニストでもショパンの時代のピアノを弾くと、かなりやりたいことを自由に表現すると思ったし、そうしないとこのピアノによる演奏はおもしろくない・・・そして果たしてヨッフェの奏でるこのショパンの味わい深いことといったら想定外だったということ。

おとなしいように思われている彼女のバックグラウンドにも、夥しい演奏経験に裏打ちされた引き出しが無尽蔵にあってどのように弾いたら、どのように聴かせたらもっとも効果的なのか、浸りきれるのかを、ご自身でも味わいつくしながら弾き進めている光景が思い浮かび、こちらまで引き込まれてしまう。。。
彼女の演奏からはこれまで感じなかったことだし、スケルツォ第1番の鬼気迫る迫力などは爽快ですらあった。

録音も秀逸なこのシリーズにあって、低音が効果的に感じられることも味わいにひとつアクセントを加えている・・・。

まこと、このシリーズにはハズレがないと改めて思った次第。

現代ピアノだと響をセーブしてコントロールしなければという意識が感じられるところを、この時代のピアノの場合、能動的にやりたいことはこうだという感じで弾き進めないと聴けたものじゃなくなるからかもしれない。

オレイニチェクのピアノ・ソナタ第2番、ポロネーズ集の2作など意識的にフレーズを作っている気もするけれど、先の理由によるものなのか、ぜんぜん趣味悪く聞こえないし、カ・リン・コリーン・リー嬢による幻想曲へ短調、幻想ポロネーズなども何度聴いてもおもしろい。
タチアナ・シェバノワによる舟歌は、フォルテ・ピアノの演奏では勿論、数ある現代ピアノによる演奏の中にあっても指折りの演奏に数えられると思う。

そういえば以前の記事で、ケヴィン・ケナーの演奏が楽しみだと書いた。
もちろんケナーの演奏もよかったのだが、それ以外にも聴き所満載のシリーズだと思う。

どこまでこのシリーズが続くのかわからないが、注目していきたいと思わずにはいられない。


★ショパン:4つのスケルツォ&シューマン:ピアノ・ソナタ第1番
                  (演奏:ディーナ・ヨッフェ)

1.ショパン:4つのスケルツォ
2.シューマン:ピアノ・ソナタ第1番嬰へ短調 作品11
                  (2008年11月録音)

今月の記事を書くに当たり、実はNIFCによるこのシリーズのどれを題材にしてもいいと思っていた・・・もっと言えばSuperflyの“ボックス・エモーションズ”にしようかとも思ったのだが・・・ヨッフェのそれを採り上げたのは、実は2曲スケルツォの演奏がダブっているこの盤と併せて聴いたからである。
それも8月にフォルテピアノで演奏し、11月に現代ピアノでの演奏をしているという・・・
こんな聞き比べはなかなかできるものではないと思う。

(ジャン=イヴ・ティボーデが一枚のアルバムの中で同じ曲を現代ピアノとフォルテピアノで演奏していたケースなどもあるけれど・・・)


ここでのヨッフェはかねてからの印象どおりの、それでいてやはり私の記憶するところからははるかに進化もし、こなれた演奏を聞かせてくれていると思った。

スケルツォ第1番の冒頭の不協和音の抜け方ひとつとっても、ただものではないと思わせられるし、その後極めて流麗かつ立体的に展開されていく演奏も、奇を衒ったものではないけれどそれでいて退屈に陥ることはない、確かに音色もフレージングもピアノが暴れすぎないようにコントロールされているけれど、だから表現の幅が狭まっているとはあまり感じない・・・というもの。

この行きかたを選択したピアニストで、ヨッフェの境地まで達している人はたしかに見当たらないように思う。

でも・・・
フォルテピアノの演奏の方が、今の私にはどうしても魅力的だと感じられちゃうんだよな。。。


160年あまり前に・・・
ショパンは確かにこの音をイメージしながら作曲していたんだろうから、その意味では楽譜に合った楽器による演奏というわけだ。
当たり前といえば当たり前のような気もするが・・・はてさて。(^^;)

ショパンを素朴に、地に足が付いたように演奏すると・・・

2009年09月13日 00時00分00秒 | ピアノ関連
★プレイエル・ピアノで弾くショパン2 ~四つのバラード・四つの夜想曲・・・
                  (演奏:アルテュール・スホーンデルヴルド)
1.前奏曲第25番 嬰ハ短調 作品45
2.バラード第1番 ト短調 作品23
3.夜想曲第3番 ロ長調 作品9-3
4.バラード第3番 変イ長調 作品47
5.夜想曲第1番 変ロ長調 作品9-1
6.バラード第2番 ヘ長調 作品38
7.夜想曲第2番 変ホ長調 作品9-2
8.バラード第4番 ヘ短調 作品52
9.夜想曲 嬰ハ短調 (遺作)
                  (2008年録音)

ショパン生誕200年は来年のはずなのに・・・
メンデルスゾーンのそれよりも、既に瞠目すべき新譜事情はショパンの方がはるかに勝っているように思えるのは私だけであろうか?
ショパンの新譜が夥しくリリースされることは、なにも特別な年に限ったことではないから、別にそのことをどうこう言う必要はないのかもしれないが・・・それにしてもいろいろ出てくるなぁ~。


このアルトゥール・スポーデンヴルトによるバラード集もそのひとつなのだろうか?
数年前にショパンの音楽のダンス・ミュージック的側面に着目したコンセプトによる、他に類例を見ない興味深いディスクをリリースしていた。
選曲も独特なら、演奏・・・特に、リズムのつかみ方がダンスを意識しているというだけあって本当に独特だったことを覚えている。
街中のショップでこのディスクを不意に見つけたときに、思わず思い返されててしまうほどのインパクトだったのだが、正直に言えば、この第2集がバラード集でなければ購入しなかっただろう。

そしてこのバラード・ノクターン集でも唯一無二のテイストを楽しむことができた。(^^;)


ところで・・・
店頭にてこのジャケットをパッと見た瞬間に“あの絵だ”と閃いたものだ。
民衆を率いる自由の女神・・・ドラクロアの代表作の一部。。。
平野啓一郎さんが長編「葬送」で精彩に描き出しているとおり、ショパンとドラクロアは親交があった、要するに、同じ時代、サロンなどで同じ空気を吸っていた芸術家による作品だと知れば、誠にジャケットを飾るに相応しい作品ではないか?

しかし、こと私に関しては・・・この作品はいけない。
笑っちゃうのだ。

ピンクリボンのポスターで、この鉄砲を持った男性は“自由の女神”とこんな会話をしている。
女神)ちょっと私、乳がん検診に行ってくる!
男性)い、いまですか?

このノリは私がまったく愛する類のものである、が、そうであるがゆえにこのような芸術性を問われる作品のジャケットにあると、笑っちゃっていけない。。。
ご丁寧に、この絵の全体はインナージャケットに美麗に収められている。

いつものことだが、アルファ・レーベルの丁寧な装丁作りにはいつも敬意を評さずにはいられない。
パッケージも含めてCDは作品なのだ・・・
デジパックの装丁よりケースのほうが取り回しもいいので好きなのだが、ここまでの手の込みようであれば嗜好品らしくてよいと納得もできる。

それだけに、この紳士の顔を見た刹那に「い、いまですか?」という言葉が脳裏を駆け巡ってしまうのは残念だ・・・。
製作者側の責任はまったくないわけだが。。。

しかし・・・
この絵のみならず、レンブラントなどの作品にも豊胸の女性が忠実に描かれている場合に、乳がんが疑われるケースがあるらしい。
何もそこまでキチンと描くことないのに・・・
とも思うのだが、なぜ女性のバストにしこりがあるのかが判っていなかったのだろうか?

しかし、件のポスターは傑作である。


装丁に同時代人の絵画作品を使っているのと同じく、ここでピアニストが使用しているピアノも1836年のプレイエルと同時代のもの。
今の時代のファツィオーリ、ベーゼンドルファー、スタインウェイ・・・がそれぞれ独自の音を奏でるように、当時のフォルテピアノもメーカーによる音色の特徴はもちろん、個々の楽器の音色の特徴もそれぞれに独自のものがあっただろう。
今回のピアノにせよ、これまた丁寧な録音で生々しい音を聴かせてくれる・・・きっと当時も同じ音色で響いていたことだろう。


しかし・・・
この盤のリサイタル盤のプログラム立てを見ても痛切に感じることがある。
バラードなどの4曲セットで遺されている曲間にノクターンなどの別の曲主を挟む構成・・・は、いまや流行となった感がある、というのがそれだ。

ゲルネルのショパン協会によるバラード盤がそうであった、先だって紹介したレオンスカヤの盤もスケルツォを挟んで・・・という構成。
ショパン協会といえばケヴィン・ケナーによる即興曲集も間に各種作品を挟んでいるという点では似たようなものといえるだろうか?

バラードとスケルツォを全曲アンソロジーで順番どおりそろえたものには比較的お目にかかるのだが、思えば、スティーヴン・ハフがこれらを交互に配してディスクを発表したのが、プログラムへの工夫の始まりだったろうか?
いずれにせよ好ましい効果が認められることは疑いないし、ここにも奏者のこだわりというかセンスが垣間見れることは楽しい。

ともあれここにはバラード4曲と、夜想曲作品9の3曲が独自の工夫を凝らした並び順で披露されているのである。



肝心の演奏だが、これまた非常に濃い演奏、灰汁の強い演奏だといって良いのかもしれない。
個人的に同じフォルテピアノであれば、ゲルネルの演奏を採るけれど・・・これはこれでとても興味深く聴くことができる。

奏者じゃないんで詳しいことはわからないし、正しくないかもしれないが、フォルテピアノは鍵盤に指を叩きつける弾き方をすることも表現の一種として有効に機能する・・・のではないか?
現代ピアノだと腕や肘、もちろん指などの使い方で脱力して弾かないとスコーンと抜けたクリアな音は望めないと聴くのだが、フォルテピアノなので歪に混ざった音でもそれを音楽的な音だと聴かせることができるというメリットがあるように思えてならない。
スタインウェイだったら、音響が濁っちゃって聞き苦しくなるだろうなという表現が、意図的になされているような気もする。

そして、演奏のバスの音を強調するのは舞曲ではないバラード・ノクターンにおいても同じであった。
確かにこれにより曲のリズム、流れは担保されるし、ところによってはビリー・ジョエルの曲ごとき伴奏のリズムパターンがあることも発見できたりした。

ショパンの生きた時代は、ドラクロアの絵に象徴されるように民主化・自由化の真っ只中だったのだろうか・・・
先に述べた激しい打鍵がそれを感じさせ、さらに独特のリズム感覚に乗って思わず引き込まれる思いがする。
そして強調されたバスの音は決して重くないのだが、全力でジャンプするべく踏み切るのだが脚が地面から何故か離れない・・・そんなイメージの演奏でもある。
地に足が付いているといえば、まさにそのとおりなのだが・・・。
そういえば・・・素朴・・・という言葉が思い浮かぶ。
現代基準の洗練度からすれば田舎っぽいのかもしれないが、だからこその聞き甲斐もあろうというもの。。。
先だってのピリスによる後期作品集もそうだったが、大地に根ざした境地のショパンも昨今の流行なのかもしれない。

ただ、いささか異形のショパンである故にハマったらたまらないだろうけれど、素直に聴こうと思った場合には、もっと他にも採るべき演奏があるのだろうと思う。

私はたまに聴くのであれば、こんなショパンもあってよいと感じた。


フォルテピアノのショパン・・・
エラート・レーベルが健在なころにアレクセイ・リュピモフがバラード集をこしらえていたはずである。
あのとき何故入手しなかったのか・・・?
いま、ゲルネルやスホーデンヴルトの奏楽と並べて聞けたなら・・・と思うと残念でならない。

レコ芸月評子の品格

2009年08月03日 00時00分00秒 | ピアノ関連
★ショパン:夜想曲全集 
                  (演奏:マウリツィオ・ポリーニ)
《DISC1》
1.ショパン:夜想曲 第1番~第10番
《DISC2》
2.ショパン:夜想曲 第11番~第19番
                  (2005年録音)

このところレコ芸をまともに読めていない。
時間とお金があれば今もって購入してちゃんと読みたい雑誌なのだが、正直なところ立ち読み、つまみ読み、斜め読みして済ませてしまうことが多くなってしまった。

理由はいろいろある。
まずは先にも書いたとおり私自身に極端に時間が無くなったことと、家族にかかる費用が甚大になってきたのでこれまでのようにディスク(音楽雑誌ほか娯楽一般)にかける金銭の枠が極端に緊縮していることがある・・・
というよりそれに止めを刺す。

それに付随するように、CDを所有する量が膨大になってチャレンジで様子のわからないディスクに手を出すことにためらいを覚えることが多くなるなかにあっては、新たに買い求めるディスクを物色するためのガイドはあまり意味をなさない・・・ということも当然に出てくる。

つまみ読みするにせよ、ネットでチェックしたディスクの評を後追いで確認する場合が多くなった。
国内盤では気になるディスクのみ濱田先生、那須田先生の評を参照させていただくほか、“海外盤のレビュー全般と巻末の発売一覧”を追うことのみ・・・記事を読むとなるとツィメルマンクラスのアーティストのインタビューでもなければ目もくれない・・・って感じになってしまっている。

もちろんレコ芸の質のあがったさがったという話ではない(と思う)。
これまで述べたとおり読者としての私が、ある意味レコ芸を必要としなくなってしまったことが尤も大きな要因であることは疑いないからだ。

そりゃ、少しはもっとこうしてもらえれば・・・という期待もあるにせよ、私だけのための雑誌ではないわけだし、他の冊子を以って替えられないアイデンティティをもっていることに相違ないわけで、今後とも情報源として私の期待を担ってもらうことにはなろう。。。

回りくどい言い方をしたが、要するに『レコ芸』の内容が現在の私のニーズから乖離してしまったということ・・・なのだ。


今回の企画にしてもそうだ。
何年か置きにやってくれている名曲のナンバーワンディスクを、多くの評論家のポイント制で決定するという企画自体は“ある層には”このうえなく有用だし、欲しい情報の筆頭にも挙げられよう。

私とて思いおこせば・・・
87年(ぐらいだったかな?)の結果を反映した評の載っていたCDガイドが、私の最初の入手すべきディスクの羅針盤だった。
その後93年ぐらいに同種の企画がまとまったと記憶しており、つい先だってまではそのときのレコ芸の本体から抜き出して(切り出して)綴じたものをずっとバイブルのように持っていた。

いまや膨れ上がった私のCDの山がこのようであるのも、レコ芸のガイダンスがあったればこそ。
強力な恩恵を受け、影響を被ったわけである・・・いい意味でも、悪い意味でも。

しかし・・・
これはビギナーころの私だったからこそ有効な企画であり、今ほどにスレて来ると、多くのセンセイ方のチョイスを足しこんでしまって得られた結論(順位)には、全く意味は見出せない。
普遍性を楽しむものではないのだから。(^^;)



ところで・・・
ポリーニってそんなに凄いピアニストなんだろうか?

いやいや・・・
当代を代表するとてつもなく凄いピアニストであることに間違いはあるまい。(^^;)
それは私も認める!
いや(特に80年代から前世紀の末頃までの)ポリーニがいかに凄いピアニストであったかは、最近あらためて思い知らされてもいる・・・再評価ってやつを自分でせざるを得なかったことは正直に告白しておきたい。

しかし・・・しかしである・・・
それほどまでに普遍性をもって、遍く魅力的に受け止められてきたピアニストであるとは、私にはどうしても思えないのだ。

はっきり言ってしまえば、彼の芸術や生き方に関係なく“通であればあるほど理解できるピアニスト”とメディアによって必要以上に権威づけられたピアニストというのが私の【ポリーニ評への評価】である。


アシュケナージなら凄みはポリーニに一歩譲っても人気という面でポイントが高位になってると考えるなら・・・そうあっても仕方ないかなと思うけど。。。

当初(80年代末ごろ)、私が参考にしていた文献ではショパンといえば猫も杓子もアシュケナージだったものだ。
そのころアシュケナージによって成し遂げられたショパン全集は、もともとはリサイタルの形でプログラムが組まれていた。
つまり、当初アンソロジーの形で出されていなかったものをアンソロジーに組みなおしてバラード&スケルツォだとか、即興曲+24の前奏曲なんて形で・・・まるでベスト盤を選ぶために出しなおしたように思えたものだ。

もとより音源は変わらないし、普遍的に高い完成度を持っていた(私が好んでいるかは別、聞きやすいけどね)わけだから評価が高いのは当然だとは思っていたけれど。。。

そして、その「人気のアシュケナージ」に唯一比肩できる男性ピアニストとしての「実力のポリーニ」とでもいう、プロ野球のセ・パ両リーグのような、あるいはVHSとベータの戦争のような構図が現われた・・・。


話を戻そう・・・
いかにポリーニがスーパーでスペシャルなピアニストであるにしても・・・
ショパン・コンクールで圧倒的な勝利を収めたピアニストであるにしても・・・
だからショパンに卓越した境地を聴かせることができるピアニストであるにしても・・・

今回の企画における“あの票の集まり方”は尋常ではない。
ソナタでこそアルゲリッチの後塵を拝していたが、バラード、スケルツォ、ノクターン・・・
いずれもトップ当選とはどういうことだろうか?

私もスケルツォ・・・だけは頷ける。
バラードだってレコード・アカデミー賞を獲っている名盤であるのだが・・・果たしてここまで票は集まるものなのだろうか?

またノクターンに至っては、確かにポリーニだからこそ開拓しえた新境地の演奏だといって差し支えないにせよ、その「新境地」がここまで見事に普遍性を獲得してしまっている現実は・・・私にはアンビリーバボーなのである。

うまく言葉にできないのだが、重くなく淡白な中に清々しさみたいなものは感じるし、かといって含蓄というかコクがないともいえないし・・・
でも、圧倒的に何かが足らないような、私が聞き取れないだけなのかもしれないが・・・
本来ノクターンになくてはならない何かがないように思えてならない。。。

ことに私がもっとも重きを置く作品27の2曲、ことに1曲目になくてはならない焦燥感というか心がじれて焦げ付くような火照り、熱さ・・・というものが・・・込められているのかもしれないが・・・感じ取れない点において、どうしても「すごいけどピンとこない」・・・となってしまわざるをえないのが私の評。
ましてやこのディスクについては、若書きながら人気の遺作の2曲も含まれていない。。。


いやいや・・・
「これが音楽のプロたる評論家の耳であればこそその総合的な凄さがわかり、しかるに屈服せざるをえないのだぞよ・・・」といわれるのであれば、「左様でございますか、恐れ入りました」と申し述べるほかない。

ただ、これとて数多ある“ピアニスト”各位がそう仰るなら納得もしようが、実際には“弾かない”評論家各位が技術面、印象面・・・いずれも同じように脱帽するというのであれば、なんと画一的な世界であることよ・・・としらけちゃう人がいてもおかしかないんじゃないか!?

というわけで、シロート向けのおすすめガイドの企画にその基準建てでよいのかどうか、甚だ疑問を提示したくなる衝動を抑えきれない・・・からこんな記事を書いちゃうのだが。。。(^^;)


ざっくばらんに書いちゃえば・・・
評論家各位が自分の良心に立脚しておのおのの好きな演奏を採るのだとすれば、もっと好みがバラけて不思議ではないはずではなかろうか?
ましてや、相手はショパン・・・
星の数ほどとは言わないまでも、夥しい選択肢があり、それぞれのセンセイがたにマイ・フェイバリット・ディスクが存在するはずなのだ。

ハンで押したような候補盤に集中するのでは、評論家の先生方が、そもそも選ぶために十分な量のディスクを聴いているのかどうかから疑問視したくなる。


なぜなら・・・
これらのディスクの新譜にもっとも多く触れておられるであろうかた・・・私が信頼する器楽曲部門の月評子のおふたり・・・濱田先生、那須田先生は、私同様にスケルツォを除き必ずしもポリーニを推してはおられないのだから。

濱田先生のアラウへの思い入れ、那須田先生のノクターンでのチッコリーニへの一位票にはおふたりの良心を感じたし、私の感性に照らしても全く同感で快哉を叫びたい。

もとよりおふたりの嗜好される奏楽のありかたや録音の傾向みたいなものも、正しいかどうかは別にして、私の中にはイメージがある。
私自身のそれとの誤差というか距離もある程度測ることができている・・・と思える。
そしてそのご自身のありようを常に堅持して、月評を展開してくださっていると信じられる。

だからこそ・・・
お2人の評は常に信じられ、器楽の新譜に関するレコ芸での月評は私にとってレコ芸の看板足りえるのだ。



オマケにちょっと提案なのだが・・・

レコ芸ならずとも音楽誌において、もしこのような企画を展開するのであれば、面倒でも階層別に情報を取ってもらわないと信用に足るデータになるとは思えない。
つまり、素人向けには読者アンケート、ちょっと通向けに音大の学生アンケートをとるとかしないとおもしろくない。

そして・・・肝心なこと・・・
少数でも、あるいは知られていない盤でも熱狂的なポイントを稼いだものは紹介してもらうこと。。。
案外、隠れた名盤というのはそういうところに潜んでいるものであるから。

艶熟のエレガンス

2009年07月02日 01時02分39秒 | ピアノ関連
★ショパン:ピアノ作品集
                  (演奏:エリーザベト・レオンスカヤ)
1.夜想曲第14番 嬰へ短調 作品48-2
2.スケルツォ第1番 ロ短調 作品20
3.夜想曲第5番 嬰ヘ長調 作品15-2
4.幻想即興曲 嬰ハ短調 作品66
5.スケルツォ第3番 嬰ハ短調 作品39
6.夜想曲第13番 ハ短調 作品48-1
7.スケルツォ第4番 ホ長調 作品54
8.夜想曲第20番 嬰ハ短調 (レント・コン・グラン・エスプレッショーネ)遺作
9.スケルツォ第2番 変ロ長調 作品31
10.夜想曲第8番 変ニ長調 作品27-2
                  (2008年録音)

1月に投稿した記事で、ネルソン・ゲルネルによるショパンの時代の古楽器を使用したバラード集をここで紹介した。
その出来映えからすれば当然のことながら、いろんな賞を獲っているらしい。

このディスク成功の大きな要因のひとつに、ショパンの全4曲のバラードを曲順にならべ、それぞれの曲間に静謐かつ秀逸なノクターン(夜想曲)を配したプログラミングが挙げられるのではないか?

ショパンにしては大規模(10分前後)の譚詩的な曲であるバラードに、インタールードの小曲を導入するというのはリサイタル等ではよく行われているにもかかわらず、ありそうでなかった。
レコード(記録)としてのアンソロジーとリサイタル性を両立させたコンセプトで、好感度が増し聴き心地のうえでも効果はテキメン・・・と、私は評価していた。

  

さて・・・
今ここにドラクロアの筆になるショパンの肖像画をジャケットに配したディスクが届いた。
高名なロシアの名女流ピアニスト、エリーザベト・レオンスカヤによる最新盤“ショパン作品集”のSACDである。

テルデックの看板アーティストのひとりだったレオンスカヤは、現在ではドイツのレーベルMDG(エム・デー・ウント・ゲー)レーベルに移籍しているようだ。
充実の活動を続けているようで喜ばしい限りである。(^^;)


そして・・・
なんとこのディスクのプログラムは、先のゲルネルのコンセプトの上をいくのだ!

すなわち・・・
メインはバラードと同じく全4曲が存在するスケルツォ・・・ピアノによる劇的な詩をハイライトとするものであり、ゲルネルはメイン・ディッシュのバラード4曲でノクターン3曲をサンドウィッチしていたのに対して、レオンスカヤは厳選5ノクターンと有名な“幻想即興曲”の計6曲によりスケルツォを包んだ構造になっているので3曲もお得なのである!!

一見なんともケチ臭い表現に見えよう。
しかし、このプログラムはゲージュツ的にも大成功していると感じられるのだから、くれぐれも私のことを吝嗇家だと思わないでほしい。
事実はどうあれ。。。

  

さて、レオンスカヤといえばロン=ティボーやエリーザベトといったコンクールで頭角を現し、かの同胞大ピアニストであるリヒテルの連弾相手として指名された(モーツァルト=グリーグによるピアノ・ソナタ連弾のディスクもここで採り上げたことがある)ほどの名手である。

数えてみたら7種ほどディスクを持っていたが、曲を大所高所から捉え、アルゲリッチとはちょっと違った意味で女流離れした大柄な演奏振りと、濃やかな表情付けが特徴のピアニストだと思っていた。
だからブラームスやシューベルト・ショパンの演奏が多いのも頷けるし、たいへんに共感できる表現を聞くこともしばしばだがその凡てをうけがうことはできないように感じられてきたのもこれまた事実・・・といったイメージで捉えてきたピアニストであった。

ただ、このディスクは別格だ!
全ての曲が完成している(言い切っちゃう!)のだ。
その証拠に、音の大小の身振りを携え言いたいことは全部言い切っているのに饒舌ではない。
したがって音楽的にも聴きやすいうえに、非常に高い境地にあると信じられる。
彼女の芸術のピークと評しても過言ではあるまい。
四の五の言わずに一言で『艶熟のエレガンス』と言っておこう。(^^)/
当て字だが感じは伝わるだろう。。。

一曲ごとの出来映えもすばらしいし、トータルで考えてもバランスが非常に良い。
チョッと聞きで聴きやすいうえに、よくよく聴いても、どこまで聴いてもとことんまで行き届いている演奏、それも普遍的なスタイルで奇を衒ったところがまったくないなんて・・・
めったにないことだと思う。(^^;)



そして・・・
このディスクは、先にも書いたとおりSACDである。

繊細な気配までも再現できるこのフォーマットだからこそ、振幅がかなり大きく隈取りもキツイ彼女の演奏を、若干距離をとることによって適度な響をからませてなお濃やかな心遣いも音として拾いきることができている。
これは演奏者にとっても聴き手にとっても幸せなことだと言わねばなるまい。


ところで内ジャケで非常に濃い目のメイクの彼女が、表現意欲たっぷりの顔をして大写しされていて、どーっと引いてしまった。
レオンスカヤ自身はややお年を召したとはいえ美人なんだから、ここでももっとパンアウトしてソフトフォーカスにすれば、演奏同様の好感を持って迎えられたかもしれないのに。。。

装丁デザインについても同じコンセプトでいくことは譲れなかったのだろうか?
これこそ余計なお世話だが。。。



このドイツのMDGというレーベル・・・
一昨年の6月6日に紹介したクリスチャン・ツァハリアスによるシューベルトのD.959の名盤をはじめ我が家にも何枚かのディスクがある。
最近どさくさで情報に疎くなっているが、オーディオファイル向けレーベルとしても名の通ったレーベルなんだそうで、さすがにピアノの音色からして一聴して素晴らしいと感じていた。

ツァハリアスのシューベルトも、バウゼのラヴェル全集も、そしてこのレオンスカヤのショパン作品集も、なんでもレーベルが所有する1901年のスタインウェイDを遣っての録音だそうで、高音質であることはもちろん音楽の質感の秘密の一端が飲み込めた気がした。

すなわち、現代のグランドピアノは構造上低音弦と中音弦が胴体の中で交差しているのだが、この時代までのピアノは大きなホールと言っても現代ほどではないから交差していないはず・・・。
だから音がストレートで濁りにくい・・・のではないか。


ただ・・・
いや、だからこそそれをそれとして活かせる弾き手の技量の高さ、録音技術・トーンマイスターの耳のよさが浮き彫りにされることになる。

このレーベルからディスクを世に問うことができるピアニストは、自身の表現能力の高さもさることながら、そんなレーベルのコンセプトも高い次元で具現化できるだけの力量を備えている信頼に足る人たちなのだろう。

そしてなにより当分、このレオンスカヤのディスクは何度も私の耳を楽しませてくれることだろう。
演奏はもちろんのこと、プログラムのおトク感までもが抜群だからして・・・。(^^;)

さらに私は知らなかったのだが、彼女はツァハリアス以前にシューベルトの小イ長調のソナタをこのレーベルに録音しているようだ。
入手可能であれば、来月のお小遣をはたかねばなるまい。

突然の進境

2009年03月02日 22時20分37秒 | ピアノ関連
★ハイドン=モーツァルト・ピアノ作品集 [3]
                  (演奏:クレール=マリ・ル・ゲ)
1.モーツァルト:ピアノ・ソナタ第13番変ロ長調K.333
2.ハイドン:ピアノ・ソナタ第60番ハ長調Hob.XVI.50
3.モーツァルト:ピアノ・ソナタ第7番ハ長調K.309
4.ハイドン:ピアノ・ソナタ第31番変イ長調Hob.XVI.46
                  (2008年録音)

先日オンラインショップに発注しておいた何枚かの一枚だが、これだけ入荷遅れで1枚だけポツンと届いた。
何気にターンテーブルに載せたこの1枚・・・
これを何度も繰り返し聴いているだけで、終日飽きることなく楽しめてしまった。

これはジャケ写からも明らかなとおりのフランスの美人女流ピアニスト、クレール=マリ・ル・ゲの手になる“ハイドン=モーツァルト:ピアノ作品集”としてシリーズでリリースされているディスクの3作目。
リリースを重ねたびにますます快調・・・が実感される。

この演奏はとびきりハイセンス!
テンポは比較的じっくり取っていながら、もったり感は皆無。
近接録音と思われピアノ直接音を生々しく取り込んでいるから、強靭な打鍵によるはじけるような音が上品に録られているように聴こえる。
そんなこんなでハイドン・モーツァルトともに分け隔てなく、古典音楽特有の闊達な感じにも事欠かず、キレもコクも申し分ない。。。

演奏解釈もオーソドックスでありながら、愉悦感、華やかさ、絶対に弾き飛ばさず細心の注意で音を選んでいながら生き生きしている・・・とこれまたベタ褒めするしかない仕上がりなのである。

それと判るような装飾はなされていないようにも思えるのだが、音の出し入れが艶やかに聴こえるのはきっとタッチの多彩さによるものに違いない。
華やぎもあり、愉悦的でもあり、淡い影すら感じさせるその演奏ぶりは聞けば聞くほど引き込まれていってしまう。
前2作と比して、格段の進境を示しているのでびっくりしてしまった。。。

コンセプトアルバムであるだけにプログラムは凝っている。
副題は「ミラー・ゲーム」というらしい・・・。

ハイドンとモーツァルト。
私にとってはお茶目なところがあるぐらいしか共通点は感じにくかったものだが、曲調の似た2人の作品を交互に配し、演奏することでハイドンの作品がモーツァルトのように、モーツァルトのそれがハイドンのように聴こえるような気にもなる・・・。

ハイドンは当初モーツァルトの師でありながら、後年モーツァルトの影響を受けるようになったわけだが、ル・ゲの手にかかるといずれも統一的にチャーミングに仕上げられてしまうから不思議なものだ。

頑なな心に率直にじんわりと沁みてくるのは、きっとこんな音楽なのだろう。
癒され、幸せになれる1枚だった。(^^;)

  
★ハイドン=モーツァルト・ピアノ作品集 [1]
                  (演奏:クレール=マリ・ル・ゲ)

1.ハイドン:ピアノ・ソナタ第11番変ロ長調 Hob.XⅥ:2
2.モーツァルト:ピアノ・ソナタ第4番変ホ長調 K.282
3.モーツァルト:ピアノ・ソナタ第17番変ロ長調 K.570
4.ハイドン:ピアノ・ソナタ第59番変ホ長調 Hob.XⅥ:49
                  (2004年録音)

本シリーズ1枚目はモーツァルト・イヤー(生誕250周年)だった2006年に世に出ている。
ル・ゲは、それまでは美貌のテクニシャンとの喧伝しか聞かれなかったので敢えて手を出さずにいたものの、書評のあまりの絶賛ぶりと仏アコール・レーベルのアーティストだということで購入していたものである。

一聴したときには、あまりに端正だったのでそのよさが実感できなかったが、繰り返し聴き込むとじんわりその清澄なよさが感じられるような気がした。
しかし、今第3集まで聴き進んでみるとこれはこれでよいとは思うものの、第3集の突き抜けたニュアンスの豊かさなどは、このシリーズ中に獲得されたものであることは明らかであり、今、もう一度このディスクを制作したならば・・・という気がしないでもない。

そのときそのときで全力投球しているのだろうから、「このときゃこれで精一杯」と言われればそれまでだが、第3集には演奏・録音あらゆる面で格段の進境が感じられるので、そう言うことも許して欲しい。

さて、この作品も「ミラー・ゲーム」プログラムであり、2人の作曲家の変ロ長調・変ホ長調の作品が交互に配されている。
アイデア賞ものの企画・・・それだけで非常に興味深い。


★ハイドン=モーツァルト・ピアノ作品集 [2]
                  (演奏:クレール=マリ・ル・ゲ)

1.モーツァルト:ピアノ・ソナタ第14番ハ短調 K.457(1785)
2.ハイドン:ピアノ・ソナタ第33番ハ短調 XVI:20(1771)
3.モーツァルト:幻想曲ハ短調 K.475(1785)
4.ハイドン:ピアノ・ソナタ第58番ハ長調 XVI:48(1789)
                  (2006年録音)

そしてこれが第2作・・・
副題は「ハ短調、或いはドラマの色調」である。。。
やはり魅力的なコンセプト・・・といわざるをえまい。

ここでの演奏流儀も古典派の則を越えないが、ドラマティックな憂いを含んだ艶のある演奏が展開されている。
この人の演奏はよく機知に富んでいると評されるとおり、ここでもいわゆるロマン派音楽の演奏に多くあるようなドロドロの感情表現になっていないところが清々しい。

この2人の作曲したハ短調の楽曲は、同じく主要曲(「運命」交響曲、ピアノ・ソナタ「悲愴」、最後の作品111のピアノソナタなど)にハ短調をチョイスしているベートーヴェンとは一線を画した粋なハ短調・・・
このディスクもいっとき愛聴したものだ。

ただ・・・
ジャケットがやや爬虫類チックに写っているのが残念・・・ムードはよく出ているんだけどねぇ~。
チョイとこれはいただけないかも。。。

そういえば、このシリーズはジャケットだけでなく、CDケースも丁寧に作られた仕様のものが使われており、そんなところにも大切にはぐくまれた企画なんだということがわかる。


そしてこの3枚のアルバムは先にも記したとおり、マルク・ヴィニャルという古典音楽研究家とのコラボレーションアルバムであるとのこと。
私より10歳年下のル・ゲであるが、こういう参謀がいることも高いパフォーマンスを示すことができるヒケツなんだろうな。。。

そういえば我が国でもピアニストの仲道郁代さんが、埼玉県芸術文化振興財団・芸術総監督である諸井誠氏と組んでリリースしたベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲集が極めて高い評価を受けていた。
やはり企画・計画の立案が大事なんだ。


ところでル・ゲのこのシリーズ第1作の録音は2004年であり、最新作が昨年録音。。。
その間、他のアルバムはリリースされていないということは、足掛け5年で制作枚数3枚ということである。
慎重に作り込んでいる一大プロジェクトなのだとわかる。
音楽家の良心の所産・・・言い過ぎではあるまい。

寸詰まりの雄弁

2009年01月26日 21時30分01秒 | ピアノ関連
★ショパン:バラードと3つのノクターン
                  (演奏:ネルソン・ゲルネル)
1.バラード  ト短調  作品23
2.ノクターン 嬰へ短調 作品48-2
3.バラード  ヘ長調  作品38
4.ノクターン 嬰ハ短調 作品27-1
5.バラード  変イ長調 作品47
6.ノクターン 変二長調 作品27-2
7.バラード  ヘ短調  作品52
                  (2005年録音)

NIFCというレーベルが立ち上がったらしい。
HMVの解説によると、なんでもNIFC自体が“国際ショパン協会”の意味で、ポーランドはワルシャワの国営ショパン研究所が製作しているんだそう。。。
さらに、ショパン愛用の当時の楽器を使って、ショパンの“全作品”(!)を来年完成を目処に刊行するというのだから瞠目に値する。

しかるに、この作品も1848年製のプレイエルを使用して、非常に芳醇な残響を最大限に生かした総合力の勝利とでも言うべき、雰囲気豊かなディスクに仕上がっている。
ま、ディスクの内容の話はとりあえず後に譲って・・・。


NIFC・・・
極めて魅惑的であり、思わず全部買い漁っちゃいたい・・・という衝動に駆られるのだが、折からの不況もあり漠とした不安が世の中を覆っているために私とてかつてのように財布の紐を無くしてもいられない。。。

財布そのものを失くすよりははるかにキズは浅いが・・・出費はやはり痛い。
吟味をしたいという気持ちも抑えられないという板ばさみに陥っているのが悲しい。


私がいろいろこだわるのにはもちろん理由がある。

20年近くも前にポニーキャニオンが企画したポーランドのピアニストによるショパン全集・・・ポグミウ・パワーシュという当時のワルシャワ・ショパン協会本部会長がお洒落な讃辞を冒頭に贈っていた・・・は、今でも私が第一に指折る演奏であるスメンジャンカ女史の“舟歌”、ポブウォッカのノクターン全集を含むなどきわめて秀逸なディスクがあったと言って良い。

10年余を隔てて、こんどはポーランドのべアルトン(BeArTon)レーベルの一連のショパン・ナショナル・エディションによる全集シリーズが、同じくポーランド所縁のピアニストによって出されている。
ポブウォッカはここでもノクターン全集ほかを担当し、例のヴァリアンツを含んだヴァージョンでの演奏も披露している。。。

ポブウォッカについては、こちらの耳が慣れているせいか、重複があってもますます深化が進んだ、否、魅力の見つけどころが違った解釈を披露してくれている絶品の演奏だと認められたのだが・・・

私には、いや、どうしても日本人向けにはハズレ(いいところが摑みにくい演奏)も多いように見受けられてならないのである。。。
なんでこんな“ウィ・アー・ザ・ワールド”のような継ぎはぎにするのか?
まぁディスクの中で、ピアニストがくんずほぐれつ入り乱れたりしていない分だけまだマシなのか?

(そういえばポーランド以外のピアニストもと、ブーニンの24の前奏曲だったかが出て以来、そのシリーズの新譜を目にしなくなったがどうしたのだろうか?)


とにかくただでさえ夥しいショパンのディスクが出まわっている中にあって、このシリーズ・・・結局何巻になるかわからないのだが・・・を、いくらショパンの聖地の肝いりだからといっても、根こそぎ買い求めるような価値が果たしてあるのだろうか。。。

他人の評はアテにできないことはこれまでの経験で知っているが、かといって、聴いてみなければわからないという態度で開き直るにも先立つものが必要だ。
いやいや・・・
そもそも趣味だ余暇だに、金銭感覚が真正面に入ってしまっては楽しめるものも楽しめまい。
ヤバイ傾向である。


ちなみに、現在このシリーズからはこのゲルネルのバラードとダン・タイ・ソン&ブリュッヘンのコンチェルトの2種を買い求めた。

魂のピアニストとでもいうべきフー・ツォン(私が最初に手に入れたノクターン全集がフー・ツォンのもので、浮き沈みの激しい演奏に魂を揺さぶられた)、新星らしいコリン・リー嬢ほかの演奏にも心魅かれるが、そして現在所有する2枚の素晴らしいできばえから察するに、聴いて損はないと信じるに足るのだが・・・かの地では有名なのかもしれないが、よく知らないピアニストの名によるディスクもいくつかある。

その中にあって、なぜこの2名のものを買い求めたかといえば、彼らの現代ピアノによる演奏を聴いて今般の古楽器との比較を楽しみたかったからである。
ゲルネルはバラ4、ダン・タイ・ソンはマクシミウク/シンフォニア・ヴァルソヴィアとのコンチェルト・・・いずれも絶品だった。
そういってしまうとフー・ツォンのマズルカもまずまずだったと思っているので、入手しないのは不公平なのだが。。。

ウダウダ書いたが、とにかく迷っているのである。
・・・といいながら、今月末に出るらしいケヴィン・ケナーの即興曲を中心としたリサイタル盤はきっと手に入れるのだろうけれど。。。


さて、いよいよ当該ディスクの感想なのだが、とにかく雰囲気のよさに感動しまくった。
プレイエルの音は、当然現代ピアノのようにスコーンと抜ける音ではないのだが、このどこか抜け切らない寸詰まりの音(特に中高音部)が速い走句などで目の摘んだ運指で連なって“響”となるとき、中低域の雲のようなベースのあわいに不安定であるにもかかわらずなんとも有機的な空間がホログラフィックに立ち現われる。

これは奇を衒わないピアニストのお手柄であり、楽器の性能(性能が低い・・・ということかもしれないが)を信用したムラを、不作為によりほどよくコントロールしているという結果を生んでいる。
もちろん、それを余すところなく捉えるコンセプトの録音も目の付け所がシャープである。

楽譜どおりに弾いて雰囲気よく録音したら、ショパンの時代の空気がふんだんに感じられるものに仕上がった・・・
そんなイメージなのである。

もちろんピアニストは弱音にも自然でありながらよく吟味された音をしなやかに与え、響として必要になる要素を注意深く紡ぎ出しているなど、大変に完成度の高いいいディスクだと思う。
真に静かな場所でこころもちボリュームを絞って聴くことで、なおのことサロンの典雅ともいうべき魅力が現われる楽しいディスクであった。
ノクターンの選曲も楽曲や雰囲気にまこと相応しいものばかり・・・
そういえば作品の表記にも何番というのを入れないことにも、何か意味があるのだろう。。。
これまた雰囲気作りに一役買っているようだ。

ゲルネルはかのアルゲリッチにも称賛される才能であり、ポブウォッカの薫陶も受けたらしい。
ポブウォッカがBMGに録音したバラードが、華麗だがかなり力の入った演奏で伸びというかヌケが感じにくかったのとは好対照。
素直にリラックスして弾いているし、聴き手もきばらずリラックスして臨みたい・・・
そんな思いを抱かせるいいディスクだった。


★ショパン:ピアノ作品集
                  (演奏:ネルソン・ゲルネル)

1.ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 作品58
2.幻想ポロネーズ 作品61
3.ノクターン 作品48-1
4.スケルツォ第4番 作品54
5.舟歌 作品60
6.バラード第4番 作品52
                  (1996年録音)

ゲルネルのEMIへのデビュー録音である。
このショパンのバラ4が頭に在ってNIFCのディスクを求めたのだが、確かに数段聞かせ上手になっているのではあるまいか?

このディスクでも破綻のない演奏を聞かせており、素性のよさを示している。


★リスト作品集
                  (演奏:ネルソン・ゲルネル)

1.ピアノ・ソナタロ短調
2.バラード第2番 ロ短調
3.調整のないバガテル
4.イゾルデ愛の死(ワーグナーのトランスクリプション)
5.メフィスト・ワルツ第1番
                  (2007年録音)

これが現在のところゲルネルの最新作だと思われる。
私が持っているのはこの3枚だが、どうも知らないところでディスクをいっぱい出しているようではある。

レーベルは“CASCAVELLE”。
チッコリーニのショパン夜想曲、ピリスのシューベルト変ロ長調ソナタなどなど・・・
またとない企画を打ち出してくれている期待度抜群のレーベル。。。
マイナーのこういった活躍はなんとも応援したくなる(・・・けどやはり不景気だ)。

ここでもゲルネルはそのどこまでも素直な、ただし強靭な技巧で美しくしなやかにリストの世界を現出して見せてくれる。
決して五月蠅くないフォルテ、そして弱音部での神経質にならずに聞けるのに細かいところまで行き届いた奏楽には、目立たないかもしれないが、不作為のファインプレーが随所にあるのだと思う。
名手である。

ただし・・・
そのように解釈しているのだと思うが、ロ短調ソナタの中間部でどうしても指が突っかかっているように思える部分が1箇所だけある。
それが気になるのは如何ともしがたい。
惜しい!

心なしかの華やかさ

2008年12月11日 22時00分00秒 | ピアノ関連
★ヴェデルニコフの芸術―12 ~ベートーヴェン・3
                  (演奏:アナトリー・ヴェデルニコフ)
ベートーヴェン
1.ピアノ・ソナタ第30番 ホ長調 作品109
2.ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調 作品110
3.ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 作品111
                  (1976年、1969年、1974年録音)

今まで・・・
何をこの演奏から聴き取ってきたのだろう?
さりげない、しかしやや華やかさを感じさせるこの演奏から。。。

そのさりげなさから、無臭というより無味乾燥を思ったことがある。
その華やかさから通俗的であると思ったこともある。

そして今聴いてもさりげなく、やや華やかなのだが・・・なんで滑稽なほどに沁みるのだろう。
宇宙人ジョーンズになったような気分だと思わず茶化してしまいたいぐらい、ヘタすると落涙しそうになるぐらいハマってしまった。

これまで聴いた中では、コヴァセヴィチのもう魔法としか言いようのないぐらいめくるめく閃きの只中に置かれた演奏、私のピアノ演奏視聴において「初めて見た親鳥」的存在であるブレンデルのまさに彼ならではの音色と語り口、ソリッドで梃子でも動かないぐらい堅固に思えるポリーニ、そのポリーニよりピアノの響きだけなら堅固でピカピカのピッツアーロ、整っては居ないのに何故かこちらの心の中も整わせさせてくれず打ち震えさせてくれる感動モノのヨウラ・ギュラー、むき出しの銅線のようなピーター・ゼルキン、そして重鎮アラウの60年代の演奏なんかが、私の中では意味深いものとして思い起こされる。

その中にあって、鳴り物入りで喧伝され耳にしたこの演奏には、あまりにも普段着でありふれた最後の3大ソナタがあった・・・という記憶がある。

親しみやすいといえば、親しみやすい演奏。
しかし、先に書いた「心なしかの華やかさ」がどうしても通俗性と結びついて、神のごときあるはずのこれらの曲のありようとは相容れないような思いの呪縛から逃れられずに居た。


でも、今こそ気づいたような気がする。
真にヴェデルニコフがこれらの楽曲に込めようとした思いを。。。

それは、神聖な音楽であっても、決して人間的なぬくもりや日々の日常性の生活臭を剥ぎ取ったものではない、日々へのささやかな感謝の思いをこめての奏楽であるに違いないということを。

この読みが別に違っていても構わない・・・。
ピアニストがこれらの曲をそうして弾いたものだと考えれば、こんなに据わりのいい、そして泣ける解釈はないからだ。

泣笑い劇場、否、海外だから悲喜劇とでもいうべきか。
その休憩時間などに通奏低音のように人の気持ちを載せた音楽を奏でるのであれば、まさしくこのような音楽がいい。


110番の末尾を大伽藍のように壮麗に築き上げることに血道をあげる道をいくピアニストであったり、例えばブレンデルのごとく111番のアリエッタに関して無に収束させて昇華させるなどという神々しい奏楽を構想している人であればヴェデルニコフのそれは「ヌルい」ということにもなろうか・・・。

でも、ウルトラマンが怪獣を超人的な能力で撃破する人であると考えていればブレンデルやポリーニ、必殺光線ならコヴァセヴィチのタッチから繰り出される音色ということにもなろうが、ウルトラマンは地球人に親愛の情を抱く慈愛の人でもあると知ればヴェデルニコフはまさにその点での最右翼の解釈をしてくれている。。。

そこへいくとギュラーなんかウルトラの母みたいだが、実はそんなに強くない・・・気もするのが惜しい。
が、ヴェデルニコフについては、実はとっても強いんだと確信できるものがある。。。

というのは、これも喩えが素っ頓狂だが女子プロゴルフの岡本綾子プロの絶頂期のビデオを見たとき、全身を使ってどこにも力など入っていなさそうなスィングに見えて、上半身を隠すと屈強な下半身、何がぶつかってきてもびくともしそうにないぐらい大地に根の生えた下半身が、やはりしなやかに、もちろんスウェーなどするはずもなく仁王立ち(?)していたのを思い起こさせるぐらい、この演奏のポテンシャルには安定感がある・・・のだ。

いずれにせよ、この演奏を再発見できて嬉しかった。
折りに触れて、また聴きなおしてみたいものだ。


なお、ヴェデルニコフのショパンのピアノソナタ第2番のディスクも持っており、こちらもディスカヴァーするべく聴いてみた。

驚いたことに、ふつういかめしく弾かれることの多いベートーヴェンを親しみやすく弾いているヴェデルニコフは、ショパンではむしろ武骨に毅然とした態度でピアノと対峙しているように思われる。
これも出色の演奏であるとは思われたが、厳選された・・・うそ、たまたま思いつきで耳にしてアップする機会に恵まれた・・・ディスクについて述べるようにしているので、詳細はまた機会を改めることにする。


今年の予定を鑑みるに、アップできるのはきっと今日が最後になるだろうと思われる。


言いそびれるといけないので、今述べておく。

みなさん、めりー・くりすます&良いお年を。
来年もよろしくお願いします。(^^;)

不協和音に慰撫されて

2008年11月27日 00時13分41秒 | ピアノ関連
★プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ全集 Vol.Ⅱ
                  (演奏:フレデリック・チュウ)
1.ピアノ・ソナタ第5番 ハ長調 作品38/135
2.ピアノ・ソナタ第6番 イ長調 作品82
3.ピアノ・ソナタ第7番 変ロ長調 作品83
                  (録音:1991年)

しばらくピアノ演奏を聴くことから距離があったように思う。
別に他意はない、ジャズ・ボーカルやア・カペラの宗教曲みたいなのを気持ちが欲しがっただけなのだろう。
以前にもピアノはアタックが強いので、それが気に障るときがないではなかった。
無理して聴くまでのことはない・・・
そんな感覚がしばらく続くと、またいつしか受け入れ態勢ができるらしく、以前と変わらずピアノ音楽をしゃにむに求める自分に戻る、そんなことを繰り返している。

さて、今回ピアノ音楽のシャバに戻ってくるきっかけとなったのが、他でもないお題に掲げたチュウのプロコフィエフのソナタ集・・・それもこの第2集・・・である。

このディスクは随分昔に手に入れたもの。
このピアニストの手になる、「反映」と題されたラヴェル“鏡”、そしてシェーンベルク、ドコーという同時代の作曲家の同時代の作品をプログラミングしたディスクに感銘を受けたのがきっかけだ。

それはレコ芸の海外の記者による連載記事で、フレデリック・チュウの類稀な軽やかな指捌きに敬意を表している内容だった・・・果たして購入してすぐわたしもその魅力の虜になったと記憶している。

今でもこのディスクの“鏡”は、数あるこの曲のディスクの中でも白眉たる存在だと思っている。

彼の演奏の特徴は、軽やかで鮮やかな指捌きであるものの相容れない2つの要素・・・さりげなさと濃密なロマンティックさ・・・を両立できていることにある。
この結果、ロマンの糖衣錠とでも形容するべき一風変わった個性を誇る、それでいて非常に共感できるラヴェル演奏となっている。

このロマンの表出に関しては、ドビュッシーの鬼才として随分前に記事にしたゾルターン・コチシュのドビュッシー演奏にも通じる・・・しかしロマンの表出のしかたはぜんぜん異なるが・・・濃ゆさであり、ほとばしりでる訳ではないものの、パッションが内包されていることは如実に感じ取ることができるものであった。
この糖衣錠状態のロマンに関しては、後に彼が世に問うショパン・・・これもロマン派の雄・・・でも存分に発揮されているように感じる。
当初はいささか異形の解釈と思われて、これも印象には残るが自分の中で温め続けた感もあるが・・・昨今の例えばルイサダの最新盤を耳にしたりすると・・・今ではスムースに聞こえたりするから不思議でもある。
(ルイサダの(ショパンの)演奏には、レッキとした別の存在価値があると認めていることは付記しておく。)

作品10の練習曲集と初期の高名ではないロンドなどの作品集、作品25の練習曲集と子守唄、舟歌、幻想ポロネーズなどの最後期の泣く子も黙る決定版の曲集。。。

いずれの作品においても、その唯一無二の素晴らしさを堪能することができたものだ。


さて、話をプロコフィエフの作品に戻そう。
彼のプロコフィエフのピアノ・ソナタ集はこの第2集と第3集を持っているのだが、購入当初は「やはりプロコフィエフは私にはダメだ、向いていない」という念を強くさせただけであった。

プロコフィエフの作品は、以前に何回も記したとおり私にとってはシューマンなどと並んで、否、それよりも強烈に共感を感じにくいシロモノである。
苦手意識は今でも持っている・・・といったほうが素直だろう。

しかし、少しの間、ピアノ曲を聴かなかった耳になぜか10年以上もあまり耳にしていなかったこの演奏は非常に爽やかに新鮮に響き、不協和音の塊のような箇所からも涼やかな風を受けたように癒されたりすらした・・・という体験を積むことができた。

戦争ソナタの2曲などは、冒頭の動機が全曲を貫いているということをはじめて認識できるような解釈になっていたし、ラヴェルで感じさせた相反する要素を両立させるごとき音色。。。

ピアノがヤマハとクレジットされていることも、ピアニストのこだわりというか創意を感じさせるファクターである。
スタインウェイでもベーゼンでも、この音は出なかっただろうし、この音が彼のプロコフィエフの表現にとってとても具合のいいものであることは、火を見るより明らかである。

ヤマハのピアノって私のイメージでは、残響の響が強烈だと言うものがあるが、録音の加減か、ここで鳴っているピアノの音はまことに曲調に相応しく響も整理されていて好ましい。

そして演奏ではどこまでも鮮やかでありながらさりげない、パッションは感じるのだがそれは曲中の生命力とでも言うものに変換されていて、微温的には感じられるけど決してラヴェルのようにロマンティックを前面に出さないのは作曲家の相違によるだろうからか?

この音色でこのように奏楽されたら、やっぱり不協和音にさえ優しく頬を撫でられたようなそんな爽快さを覚える。

そして、プロコフィエフの一般的な魅力とされている前衛的なダンダンダン・・・と鳴らされる和音、これも決して乱暴に輝かしく弾かれるのではなくノーブルな意味づけがなされていることが、この人ならではでうれしい。
第7番の最終楽章7拍子に関しても、決してドハデではなく、軽やかな指捌きをノリノリで演奏しているという感じ。

そこにはいっさいの権威も虚飾もなく、ピアニスト本人の普段どおりの姿がとてつもないテクニックに裏付けられて現前に表されている・・・そんな気がした。
この相容れないものを両立させる指捌き、ぜひいろんな作品で確かめて楽しみたいと思っている。

安定した唯一無二のファンタジー

2008年08月04日 21時35分41秒 | ピアノ関連
★ドビュッシー:前奏曲集第2巻 ほか
                  (演奏:ジャン=フランソワ・アントニオーリ)
1.前奏曲集 第2巻
2.英雄的な子守歌
3.アルバムの一葉
4.エレジー
                  (1986年録音)

こうして転勤族をしていると、引っ越すたびにいくつかのCDが失われてしまっているように思われてならない。
それは、「あれ?あったはずなのに・・・」と思ったディスクがどうしても見つからないことがあるので、そう思うだけなのだが。。。

とにかく、現在の東京の潜伏場所に移り住むまでは全ディスクの収納ルールを決めていなかったし、現在に至るまで10年来、手持ちのディスクをカードにせよ、データ・ファイルにせよ図書館的に管理したいと思いつつ、実現に至っていないことからアヤシイ限りじゃないかと思わずにはいられないというわけなのである。


実はロック&ポップス系のディスクは、いちど相当数を手放したことがある。
そのときの印象は、みごとに二束三文で引きとられてしまったものだ・・・というもの。

さらにその後、あろうことか手放したハナからもういちど聴きたくなるという、とんでもない自分の性癖にも気がついて、やはりご縁があったのだから、一度入手した以上はそれを聴くと耳から出血するとか、体中に蕁麻疹が出るとか・・・そこまでいかなくとも、サンソン・フランソワがブラームスの楽曲や楽譜に対して抱いたような「触ったら手を洗わなきゃ・・・」と思われるぐらいの嫌悪感でも湧くようなら手放すのをためらわないとしても、基本的には自分の側に置いておこうと決めた。

だから、収納場所にはとっても苦労をしているのだが・・・。
また、2000枚はあろうかというこれらすべてのディスクを、もう一度すべて聴きなおすということも物理的に困難であろうから、何らかの形で社会に戻してやったほうがディスクも幸せなんだろうなと思うこともあるけれど。。。


だが今回、やはりそれは一寸待っとこう・・・と思われることが起こった。

それは、冒頭のアントニオーリのドビュッシーのディスクがありえないところから出てきたことによる。。。
ありえないところ・・・とは、ありえないところなのでそこへの突っ込みはなしにしていただきたいのだが、とにかく、どこへ行ったのかと永年思っていたディスクとの邂逅を果たすことができたのである。

本当は第1巻も持っていたはずなのだが、それは出てこなかった。
しかし、1枚出てきたのがより世評の高い第2巻であったことは、誠に慶賀すべきことがらであった。

それはそれとして、私がクラシックにのめり込むきっかけとなったディスクを1枚挙げろといわれれば、ミケランジェリのドビュッシー“映像”のディスクである。
無論、ドイツ・グラモフォンに録音された彼のドビュッシーはすべてディスクで持っている。
件の“映像”は結婚前にかみさんに贈ったので(あまり聴かれなかったと思われるが・・・)2枚あったりもする。

ただ、ドビュッシーの前奏曲集第2巻をはじめて聴いたのは、実はこのアントニオーリ盤なのである。
そのときは、長野県に住んでいて片田舎の日本の歌謡曲や演歌が主体のレコード屋に注文して、怪訝な顔をされたものである。
まさに「あんた・・・ナニモノ!?」という感じであった。

そりゃ、こちとらクラシック初心者で、インターネットもまだまだまだ普及していなかった時期であり、何を聴いたものか相談相手もなく皆目見当がつかなかった。
そこで、1993年だったかの国内で発売されている鍵盤楽器、声楽、音楽史のCD全点を“解説・寸評付き”で網羅した電話帳バリの一冊を頼りに、クラシック音楽の大海にまさに漕ぎ出そうとしていたところだったのである。

そうなれば、そのガイドに「特選」の文字があるものを注文するしかあるまい。

ミケランジェリの録音も88年だったはずで、相前後していたが件の本では推薦どまりだったように記憶している。
とにかく、私はアントニオーリ盤を選び注文して、案外程なく入手できて聴いた・・・・・・・・・・・が、今、私がシュニトケの音楽を聴くより戸惑ったような気がする。
これが練習曲集だったら、二度と聴かなかったかもしれないが・・・アントニオーリ盤をして、まったくなんだかわからなかった。

しかし、きっと15年ぶりぐらいに聴いたこのアントニオーリ盤には、私は魂を奪われた。
なんと安定して充足した演奏・・・そして驚嘆すべきは響やテクニックといったことではなく、音色あるいは音楽の佇まいで無限のファンタジーを感じさせること。

きっとこれは魔法だ・・・ピアノが座りよく鳴っているだけなのに、心の中にある独特の雰囲気がほのかに匂い立ち、この音楽にはこのありかたが最も相応しいのだと信じさせてくれる。。。

ツィメルマンの遠くから聞こえる煙ったような独特の音使いも魅力的だが、あれはツィメルマンを聴く演奏であって、この曲を聴くのはこの演奏のほうが相応しいと感じるのである。
もちろん、ドビュッシー・・・をイメージして聴く演奏でもない。。。

やはり『特選』だったんだ・・・それをオレは感じ取ることができるまでの耳、あるいは心を持つに至ったんだ、などと、超楽天的な想いに耽って何度も聞き返すことになったのであった。

私の中で、ずっと寝かされていて馴染んでいたのかな・・・いずれにせよ、幸せなことである。

やはりこの人は・・・

2008年07月10日 22時06分33秒 | ピアノ関連
★リスト:ピアノ作品集
                  (演奏:シモーヌ・ペドローニ)
1.コラール:「われらに、救いを求める者たちに」 による幻想曲とフーガ
2.“巡礼の年 第1年 スイス” ~ オーベルマンの谷
3. "超絶技巧練習曲集” ~ 第4曲 マゼッパ
4.“6つのコンソレーション” ~ 第3番・第4番
5.演奏会用パラフレーズ:リゴレット
6.変奏曲
                  (2005年録音)

やはりこの人は私との相性がいい。
そう思わせられるペドローニの新作ディスクであった。

一昨年(!)の12月に、彼のシューベルトの最後の変ロ長調ソナタのディスクをここで紹介した。
レコ芸の海外盤レビューで喜多尾センセイが紹介していたのを何気に聴いて、打ちのめされるぐらい感動したことが記憶に新しい。
爾来、そのディスクが変ロ長調ソナタの最もお気に入りのディスクとして、私の心のうちではまさに『君臨』しているのだが、その彼の新作となれば期待はいや増すばかりである。

HMVのオンラインで未発表の新譜で紹介されていた時分に、なぜか新宿のタワレコの店頭にあったのでとっとと買って早4ヶ月・・・しょっちゅう聴いているのにいささかも期待を裏切られることがない。

すぐにアップしたいと思っていたのだが、何せ忙しいのと、べた褒めしたディスクを後々聴いたらチョッと違っていたということになってもなんだからと、いろんな理由をくっ付けて遅くなってしまった。

でも、もうハッキリいえる。
このディスクとは一生お付き合いできる・・・と。
つまり、一発屋としてではなく、私にとってコンスタントに『とびきり』フィーリングのピッタリ合う演奏を期待できるアーティストとして認知できた、ということである。

この『とびきり』がミソ。
これを付けるに相応しいアーティストは高橋多佳子さん、B=ミケランジェリのレベルにあり、きっと10人もいないと勝手に思う。

演奏はすっかり手の内に入っているばかりでなく、とても説得力のあるもの。
フレージングなどで少し作為のあとが見えるところもあるが、なぜそのように弾かれるのかすべてに納得がいく。
要するに、私にはとても自然に思えるのだ。

冒頭の“幻想曲とフーガ”ははじめて聴く曲だったが、キーシンのバッハ(ブゾーニ編曲)の“トッカータ、アダージョとフーガ”を聴いた時に感じた神々しさに勝るとも劣らない感激を味わった。
どちらかというと、キーシンの演奏は余りに神々しいのがまぶしくて御神体の本体が見えにくく感じられる・・・それもいい・・・のだが、ペドローニのそれはしなやかなうえに威厳が感じられ、神の実存が見て取れる。

“オーベルマンの谷”はさすがにアラウのそれに比するというわけにはいかないが、アラウのどうしようもなく動かしがたい存在感という路線以外の方法では、もっとも私にとってしっくり来る演奏といっていいだろう。
テンポとしても、表現としてもじっくり型だと思うのだが、先にも書いたとおりしなやかでいささかも不自然なところがない。
音楽は流れるし、そこに置かれた音がどんな心もちを担っているのかが、私にはクリアにつかめるような気がする。
全体の構成もしっかりし、ドラマ性も十分、精神性だってバランスよく配合されている・・・本当に感覚、感性が私と共通の部分が多いのであろう。

フロイト、ユングのいう無意識という意識の底に横たわる部分で普段意識していないところの構成とか、遺伝子の配列とか・・・なにかが決定的に似ているように思える。

“マゼッパ”のスケールの大きさ、これは高橋多佳子さんにも通じるのだろうが、無理しなくても音楽のスケールが大きく飛翔する・・・。
ムリしなくても、というところがミソで、ガタイを大きく取ってしまうと中がスカスカになってしまったりする演奏が多い中、見通しはよくても際限なく高揚させてくれるような展開を期待できるものはまれである。
思いっきり、鍵盤を叩いているように聞こえる箇所も多いのだが、普通だとそういうところが五月蠅く聞こえるのに、この人の場合はなぜかそういうことがない。

蒸し返すようだが“オーベルマンの谷”のクライマックスに於ける、表現、表情付けなども、思いっきり弾きあげていながらまったく五月蠅さを感じない、鳥肌立ちまくりの感動もの。
聴き栄えのする・・・否、むやみに派手な大曲をこのように続けて並べて、聴き手をひきつけずにはおかないという力量は目覚しい。

そして逆の意味でのクライマックスが、“コンソレーション第3番”の静謐な、そしてこれまたしなやかな美しさである。
ジルベルシュティンをはじめチッコリーニなど、テンポをじっくり取った聴き応えある名演奏もないではないが、どうしてもショパンの作品27-2の焼き直しみたいな解釈であったり、BGM風のかる~い流れていくだけの音楽に聞こえたりという憂き目を見がちなこの曲が、かけがえのない『なぐさめ』を与えてくれる看板に偽りのない曲、ショパンのそれとは趣を異にする佳曲であることを実証できる数少ない実例である。

プログラム上、この2曲の選曲は頷けるが、是非全曲を聴いてみたい・・・と思わせる内容。

そして、“リゴレット”は逆にこんなに地味に弾かれているものをはじめて聴いた。
それも、彼の演奏の特徴であるしなやかさがあるゆえなせる業。この曲の別の魅力全開と思わせられるところが不思議なくらいである。

そんな不思議な充足感を感じながら、まさに余韻を残すだけ・・・という趣の最後の変奏曲。
アンコールというか、アフターアワーズというか、深呼吸してクールダウンしかかったところで、小気味よくディスクを終える。

何回聞いても満足感を味わうことができる絶品、名盤!
ことしの私のレコード大賞ノミネート決定、ブラヴォーという声を上げることすら忘れそうなこの1枚。
高橋多佳子さんがディスクを作らなければ、受賞が確実視されるまでに気に入っている。


★バッハ:ゴルトベルク変奏曲
                  (演奏:シモーヌ・ペドローニ)

1.ゴルトベルク変奏曲
                  (2001年録音)

やや以前のこのディスクも求めてみた。
やはり前述のリストや先般のシューベルトほどの訴求力は感じられなかったが、それでもなお私との相性の良さを感じさせるものだった。

工夫・・・悪く言えば作為を感じさせるような解釈をところどころ取りながらも、絶妙に私においしいところを気づかせてくれる。
現在の彼の曲解釈に練られていく過程にあることが如実に感じられる演奏。

・・・ん、何だ今のは?
と思っても、思わず愛好を崩してしまうような演奏ってたまにある・・・。
ノー文句とは言わないけれど、どうして私がこのひとの演奏が好きなのか、それがわかるような演奏である。

演奏は、ややもちっとしていながら粘着かない感じの音色、個性的で工夫いっぱいでありながらイヤミは感じないというもの。
もっとも、これは私との相性が良いということだけなのかもしれないが。


それにしても、シューベルトのディスクも含めて、ジャケットが作曲家の顔の右前からのカットであるのはなにかポリシーがあるのだろうか?
どうでもいいことだが。。。

詩的でフレンドリーな調べ

2008年06月10日 22時37分34秒 | ピアノ関連
★リスト:詩的で宗教的な調べ、バラード第2番、愛の夢-3つの夜想曲、ロマンス、忘れられたロマンス
                  (演奏:パスカル・アモワイヤル)
1.バラード第2番
2.詩的で宗教的な調べ(全曲)
3.愛の夢-3つの夜想曲
4.ロマンス
5.忘れられたロマンス
                  (2007年録音)

シフラが見込んだ弟子、パスカル・アモワイヤルの最も最近の芸境を示す一枚。
もっともタイトルで書いたとおり、真にまごうかたなき“芸境”を示しているのだけれど、その響きはとてもフレンドリー・・・演奏側としては至難の業を達成しているんだと思う。


もともとこの記事投稿の動機は、凝りもせずにASVレーベルがらみの話題を・・・と思ったわけで、だとすれば日を措いて投稿する訳にもいかず。。。

名前はずっと前から知っていたものの、実際に聴いたのは比較的最近というこの名匠も、以前にASVレーベルにこのディスクに収録している曲のいくつかを・・・・・モトネタのミゼレーレだの、ミサ曲の旋律だのの声楽曲とともに・・・・・収録していたらしい。

ASVがあんなこと(もう復活は絶望的なんだろうな・・・)になったと知り、あらためてカタログを見ていたら、このピアニストもそこに貴重な企画のディスクを録音していたことが判り、残念に思っていた。
しかし、ここに、なんと新譜として疑いなくさらなる研鑽を遂げたであろう達演が聴かれることになって、嬉しい限りである。


総じて、パスカル・アモワイヤルという、さりげなく偉大なピアニストの特質をひとことで言ってしまえば、「人懐っこく親しみやすい」ということになろうか。

シフラの弟子なのに、水際立ったそのテクニックが外向的なものとなる瞬間はただの一瞬足りとてない・・・踏み外す寸前、否、水の上を走ってしまうがごとく踏み外しながら強引に驀進してしまうお師匠さんとは正反対のテクニックの質である。
それが穏やかで爽やかな知己が、しなやかに楽曲を仕上げているのを聴くような・・・何の細工もないように聴こえるのに、耳を思わずそばだててしまうことに繋がっている。


要するに、私はこのピアニストがいたく気に入っているのだ。(^^;)
こういった実直堅実なさりげない人が、老成すると現在私にとって最も崇高なピアニストと信じられるチッコリーニのような存在になる、と信じて疑わない。


ところで、この2枚組みのディスクのキーワードはズバリ「詩的にあれ」だと断言できる・・・ホントそれに尽きると思う。

だから、メインディッシュたる楽曲の演奏について結論をめかして言うなら「詩的で“あんまり宗教的じゃない”調べ」って感じである。

ハートの奥のほうのパッションはあっても演奏者その人が決して耽溺していないから“詩的”というのもないのではないか・・・?
そんな感想もありかもしれない。

判らなくもないけど、まぁとかく詩人といわれる人種は、すべからく冷静に耽溺している感情を客観的に表現しているわけだから、そういう意味でなら「詩的」といっていいかなと思ったまで。(^^;)

この演奏、実にストライクゾーンが広いと思う。
お師匠同様、エンターティナーであることには違いないが、ものすごく謙虚だけどやはり凄い超絶技巧の持ち主であることに疑いはない。
そして、すべての技巧はほんのわずかの・・・あえかな・・・といっていいほどの香りを演奏に施すために遣われている。
きっと「やろう!」と思えばドギツイ表現もできるんだろうが・・・彼は洗練された爽やかな、一聴なんでもないような弾き方の中に、恐ろしく手の込んだ聴かせどころを仕込んでいる。
けっして素振りの中には見せないけれど、心のうちには濃厚な集中力を秘めているのだろう。

こんなにさりげなく聴き易い演奏の中に、どこにも破綻した箇所がないのはつくづく驚異だと思う。


演奏内容には宗教的ないかめしさ、教条的な箇所は皆無。
すべてがしなやかで親しい友人が演奏しているのだから興味深く聞けちゃうかのように聴かせてくれる。。。


「詩的」を指摘したくなるプログラムの妙もニクイ。(^^;)
まず“バラード”とは「譚詩」である。このディスクの嚆矢として、もっともこの曲がこのピアニストとしては野心的、作為的に弾かれているが、それであっても多少のアゴーギグが効いている程度。
あらゆる性能の高さを知らしめてメインの曲集にタスキを繋ぐ。

“詩的で宗教的な調べ”は先にも述べたようにとても親しみやすい。
こんなんじゃ宗教的とはいえない、もっと精神的に深いものがなければという向きもあるかも知れないが、この演奏に精神性って表立っていないだけですごく深いと思っているので、私にはこの批評は当たらない。

テクニックが鮮やかなリストの演奏といえば、アシュケナージの超絶技巧練習曲集の抜粋盤が私には印象深い。
ただ、この人のテクニックは、ごく若い頃のアシュケナージがリスト演奏時にそれを発揮する時のような華々しく、聴き栄えのするそれでは断じてない。
ただし、テクニックというものは、このように発揮されるために存在するような気がしないでもない。
やはり出色の演奏であり、この曲集全曲をはじめて最初から最後まで退屈させずに聴かせてくれたといってもいい・・・かもしれない。
否、チッコリーニのそれに続いて2枚目・・・かな。(^^;)

そして続く“愛の夢”については3曲並べるところがニクイ。このセットになっている盤って久しぶりのように思える。
これらはキャサリン・ストットのディスクで聴いたときに、これほど詩的が他にあるだろうかと思った曲。
きっとピアニストも楽譜を読む中でそう感じての選曲だろう・・・。

そして、入れ込みすぎないのが特徴のこのピアニストも、さすがに第3番ではこのうえなくロマンティックに歌っている。
ほんのわずか急き込むように、愛の夢を歌い上げているのである。
ふと、このディスクは人口に膾炙したこの曲を、さんざんお膳立てして、ここまで想い通りに謳い上げたいからこそ、このディスクを作ったのかもしれないとの思いが頭をよぎった。
さすがにそれは思い過ごしだろうけれど。

後に続き、静謐にアルバムを閉じる“ロマンス”2曲も小品ながら、このうえなく詩的・・・本当によく考えられた構成である。


★ショパン:夜想曲全集と子守歌
                  (演奏:パスカル・アモワイヤル)

《DISK1》
1.子守歌 変二長調 作品57
2.夜想曲 第1番~第10番
《DISK2》
3.レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ 変ハ短調 (遺作)
4.夜想曲 第11番~第18番
5.夜想曲 ホ短調 (遺作)
6.夜想曲 ハ短調 (遺作)
                  (2004年録音)

ショパンのノクターンとは、人間の“孤独”あるいは“命の有限性”に問いかけ、我々の存在の神秘を探り当てたものと信じられるようなミニアチュールなのです。

The Noctunes are miniatures which seems to express
   the mystery of existence by questioning man's solitude or finitude.

とライナーノーツに書いてあった。
断ってないが、多分本人のものであろう・・・と思う。
ありったけの語学力の直感を駆使して意訳してみたが、自信がないので英語の原文を載せておいた。
ちがってても指摘しないでほしい。(^^;)

この訳が正しいとして、ここでの演奏は確かに深いけれどもそんなに聴き手が臆することはない。
やはりアモワイヤルの演奏なのである、フレンドリーでないわけはない。
親しみやすく、わかりやすいのに、それでは何が不足かといわれると何も足らないものはないように思われる。

ここでもごくごく正統的なショパン演奏が、ただ繰り広げられているだけなのになんの構えるところもなく深い充足感を味わわせてくれる・・・好個のディスクである。
改めて作品27の2曲はいい曲だな・・・と思い知ったことだけ報告しておく。
そろそろ打ち込むのに疲れてきたから。(^^;)


★スクリャービン: 詩曲(全曲)
                  (演奏:パスカル・アモワイヤル)

1.2つの詩曲 作品32
2.詩曲 変二長調 作品41
3.悲劇的詩曲 作品34
4.詩曲-夜想曲 作品61
5.詩曲 作品51-3
6.詩曲 作品59-1
7.詩曲 作品36
8.詩曲 作品52-1
9.ワルツ風に ヘ長調 作品47
10.ワルツ 変ロ長調 作品38
11.詩曲 作品52-3
12.詩曲 作品45-2
13.2つの詩曲 作品44
14.アルバムの一葉 作品45-1
15.2つの詩曲 作品69
16.2つの詩曲 作品63
17.2つの詩曲 作品71
18.詩曲『焔に向かって』 作品72
                  (2005年録音)

スクリャービンといえば神秘和音とか妖しいとか・・・特に詩曲の類は中期以降に書かれているものだから、ほとんどが神秘になっちゃうんだろうが。。。

何故だろう・・・アモワイヤルにかかると、親しみやすいというか聞きやすい曲に聴こえてしまう。
確かにスクリャービンの音楽なのだが、決してありがちな「狂気」の権化のような不可解な音楽ではない。
でたらめにエロティックでも、神がかった演奏でもない・・・もはや中庸としか言いようのない、それでいて不足を感じないフレンドリーな演奏なのである。

これから入って、スクリャービンの深い深い世界にどっぷりつかってもよし、そういう意味では小学校のプールにある消毒槽のような演奏と言ってよいのかもしれない。

決して嫌われる演奏でないし、冒頭の言葉に戻るが本当にストライクゾーンの広いピアニストであると舌を巻くほかない。

ここに紹介したディスクはカリオペ・レーベルから発売されているものばかりだが、ディストリビューターにあってはそれぞれのディスクがクラシカ-レベルトワール誌、ルモンド・ラ・ムジーク誌、ディアパゾン誌で最高級の評価を得たとの勲章みたいなのをペタペタ貼ることに余念がない。
確かに貼ることができることだけですごいと思うし、内容も納得である。

そして、改めて1971年生まれというこの『プチ全曲集マニア』(この3作はいずれも「誌的で宗教的な調べ」「ショパンの夜想曲」「スクリャービンの詩曲」の全曲にフィルアップを入れた構成になっている)が、次回作には何の全集を編んでくれるのか・・・楽しみでならない。

つくづく貴重なピアニストだと思う。

ジャケットを最初に見たとき、よもや私より年下とは思わなかったのだが・・・
すべてに自分の顔写真をあしらっていることには、自らの意思か、レコード会社の思惑かはわからないが・・・私は、ちょっとだけ疑問を持っている。
絶賛しすぎたので、意地で少しだけ注文をつけておこう。
リストとショパンはともかく、スクリャービンでのポーズとにやけた表情が・・・それだけでこんな印象を持ってしまったのかもしれないが。

フォーレ:夜想曲全集

2008年06月07日 22時02分58秒 | ピアノ関連
★フォーレ:夜想曲全集
                  (演奏:エヴァ・ポブウォッカ)
1.フォーレ:夜想曲第1番~第13番
                  (2000年録音)

ポブウォッカといえば、ショパコン入賞者。
確かに彼女のショパンも「農婦」的なたくましさ、女性としての繊細さなどが漂ってきて、聴き込むだに味わい深さが増す・・・という性格の奏楽だと思う。
ポニー・キャニオンにおける夜想曲全集やピアノ・ソナタ全集を聴くと、良くも悪くも彼女の特質が明確に打ち出されていて、いいぞいいぞと思ったり、ファンタスティックじゃねぇ~と思ったり。。。(^^;)
BMGにもバラードと即興曲全集や、小品集を録れていて“軍隊ポロネーズ”などは私にとっては屈指の演奏に思えたりするものの、バラードはイモいねーちゃんがムリしてドレスを着たようなちぐはぐなファンタスティックファンタジーを感じてしまうところもある。

ポーランドのナショナル・エディションの全集録音にも当然のようにマズルカや夜想曲に顔を出し、純国産(ポーランド産)のショパンを聴かせてくれている・・・というところも彼女のショパン演奏に関して特筆すべきところだろうか?


でも、実際はデビューはシューベルトの即興曲集(発売当時はケンプの再来の音色と言われていた・・・と思う)だった。これまた名演奏で、楽しい演奏だったけれども、今の耳で聴くとポブウォッカのその後の精進というか、飛躍が感じられもするディスクであった。

その後バッハの小品集もあったし、出色のパルティータ集も私には忘れられない(こんなに素晴らしい演奏なのにリピートを多く省略してしまっているのが残念)、最近でもインヴェンションなどを出し、ここでも円熟してきたことを如実に実感させてくれて堅実な歩みを誇っているピアニストだと思う。

こうして書いてくるととんでもなくいっぱい聴いているような気がするが、彼女のキャリアの白眉は実は一連の夜想曲(とその類似曲)集のコンスタントな録音にあるのではあるまいか?

ショパンの夜想曲全集は先に2種を紹介したとおりだが、その後、メンデルスゾーンの“無言歌集”全曲、フィールドの夜想曲全曲、グリーグの幻想叙情曲集全曲なんてものまでものにしている。
もちろん私はすべて持っているし、折りに触れて聴いては楽しんでいるのだが・・・。


前置きはここまでで、ポブウォッカのディスクを一枚といわれれば迷わず挙げるのがこのフォーレの夜想曲全集であろう。

どこがいいかと言われれば、すべていいと答えるしかないのだが。(^^;)
“現代的な”安定した解釈、輝きと艶のある音色、そしてかぎりなくしなやかなエコー(残響)・・・すなわち録音まで相俟って、本当に夢の中でさらにまどろんでいるかのような・・・とろけちゃいそうなまでのこの雰囲気・質感は、余のディスクをもって代えがたいものがある。

しっとり系が好き、録音のシッポリ感が気にならない人であれば、この楽曲の座右の一枚になること請け合いのディスクだと思う。
そして俄然、フォーレを私にとって身近な作曲家にしてくれたディスクでもあるし、私もあと少なくとも100年はお付き合いできるディスクだと確信できる。
生きてれば・・・ね。


ポブウォッカによるブラームスの晩年の小品集を中心としたディスクが新発売されたようだ。
未聴だが、聴かずばなるまい。


★フォーレ:夜想曲全集
                  (演奏:エミール・ナウモフ)

1.フォーレ:夜想曲第1番~第13番
                  (2006年録音)

私はドラゴンズ・ファンである。
かねてナゴヤドームのマスコットだった“ドアラ”が、“キモカワイイ”ユルキャラとしてブレークしているという話を耳にして「世の中変わったな」とひとりごちている・・・。
“ドアラ”にはラップに精を出すより、ドラゴンズの応援をしっかりしてもらってタイガースを追撃する急先鋒となってもらいたいものだと思う。

たとえば藤川投手が投げるときにバク宙を失敗して、会場の笑いを取って集中力をなくすとか・・・いろいろユルキャラとしての実力を遺憾なく発揮する場はあるのではないか。。。という話はどうでもよい。


要するに“ドアラ”の“キモカワイイ”に対して、これはなんという“キモ気持ちワルイ”ジャケット。(^^;)
エミール・ナウモフとは、どんなピアニストかは全く知らなかった(実は今もこのディスク以外は全然知らない・・・)けれど、ジャケットのセンスを見る限りとんでもない何かフテキな勘違いをしている人であるかもしれない。

女性でもここにこの形で自分のアップの写真を採用するのには相当の勇気が要るのではないか?
1962年生まれというのだから私と2歳しか違わない・・・そんな、若い男子の溌剌さも、ロマンスグレーの味わい深さもない中途半端なオヤジのくせして・・・これだけピアノが弾ける人だからそのディスクを世に問うのは慶賀すべきことだと思えるが、このジャケットはあつかましいというほかない。

このジャケットのありようこそKYじゃないかなぁ~・・・と、すでに私の身の回りでは死語になりつつある言葉を敢えて遣って表現しておこう。


前置きばかり長くて恐縮だが、演奏は「いいよ!」。

これで終わったら怒られそうだからさらにダラダラ書くけれど、概ね何事においても中庸を行く演奏。
でも、ときおり想いの底にフッと沈み込むような間の取り方があって、そこは同年輩のおじさんとしては、あるある・・・と思ったりする。

とにかく旋律線はデリケートにしてやわらかで、とことんやさしい・・・優しいと感じにするのもはばかられるほど細やかなやさしさに覆われている。
音色もとにかくうっとりするほど美しい・・・。

でも、ポブウォッカに比べると間接音が少ない録音であるせいもあるかもしれないけれども、音価のグラデーションに意を用いたセンシテイィブな演奏・・・確かにピアニストはフォーレの世界に耽溺しているのかもしれないが・・・である割に、明晰な演奏としてきっとピアニストの感覚の一部と同様に耽溺した世界の仲間では誘ってくれないように思われてならない。

ポブウォッカの空気・雰囲気全体を味わう楽しみ方とは違い、美しさに耽溺した状態を客観的に観る・・・という観点からすればこちらのほうがいいのかもしれない。
とんでもなく美しい音楽をBGMとして聞き流す・・・というなら、ナウモフ盤を推す。
もちろん私はしっかり聴きこんで楽しむこともをできてもいる。

ジャケットで余計な先入観を持ったが、ジャケットを見ずに聞いていたらもっと諸手を挙げて歓迎する文章になったかもしれない。

いずれにせよこの2セットは、全13曲のみを1枚のディスクに収めきれないで2枚組にしてある・・・つまり、タップリと歌いこまれている聴き応えのあるディスクなのである。

読み返してみて自分でもいいのか悪いのかよくわからないと思ったが、ハッキリ書けばナウモフ盤への私の評価はポブウォッカ盤同様に最高度に高い・・・そのように解してもらってよい。

冒頭に「いいよ!」と書いたとおりである。(^^;)


★フォーレ:夜想曲全集
                  (演奏:ジェルメーヌ・ティッサン=バランタン)

1.フォーレ:夜想曲第1番~第13番
                  (1956年録音)

古色蒼然というのがふさわしいのだろう。
そして、本来の正統な(・・・というものがあるとするなら)フォーレの演奏というのはこのようなものをいうに違いない。

それぐらい特別の説得力がある演奏だと思う。
何も特別なことを施さないのに、フォーレを常に感じることが出来るように思われる。

前2者がそれぞれピアニストの旨みを聴くべきアルバムであるのに対して、これこそはフォーレの正伝するものを感じるためのディスクだと思える。

この薫りこそ、英国テスタメントが復刻したかったものなんだろうな。



フォーレは作曲家としての人生の最初から最後期までピアノ曲の作曲を続けた。

最初期の夢見るような旋律といささか躍動感を伴った楽曲、中期の華やかで思わずクラッときちゃいそうな色彩感、フォーレ独特の不安定な安定感を伴った曲集、後期のどこまでも沈潜していく晦渋な音楽・・・それぞれに魅力的であり、そのすべてがかけがえのない音楽史上の財産であるように思える。

ドビュッシー、ラヴェルが大家であるのは論を待たないが、少なくとも同位以上に数えられてもおかしくない作曲家だと思うんだけど・・・弾き手を選ぶのが問題なのかな。(^^;)

でも、小さな声でつぶやいておく。

フォーレ万歳!!

オトが聴けるまでの楽しみ

2008年06月03日 22時15分46秒 | ピアノ関連
★ラヴェル:ピアノ曲全集 vol.1
                  (演奏:ゴードン・ファーガス=トンプソン)
1.高雅にして感傷的なワルツ
2.夜のガスパール
3.水の戯れ
4.クープランの墓
                  (1992年)

このディスクを採り上げようと思ったのは、先日の高橋多佳子さんのリサイタルでベーゼンドルファーによる素晴らしいラヴェルの演奏を聴いたからである。
果たしてこのディスクでも、俊英と言われたピアニスト、ゴードン・ファーガス=トンプソンによって聴き応えある奏楽が繰り広げられている。


ところで、このディスクを手に入れるにあたっては本当に往生した。(^^;)

まぁ蒐集家を自認する人にとっては、入手までのプロセスにも鑑賞することと同様以上の楽しみがあることだってある。
まずあらゆるショップ(店舗、オンライン・ショップを問わず)にモノがあるかを確認することから始まり、オンライン・ショップにおいては首尾よく見つけられたとしても“available”かどうかこそが問題なのだ。

殊に海外のオンライン・ショップにあっては、仮に“in stock”と記されていたとしても油断できない。(-"-;)
「販売元から入手できたら・・・ごろ発送する」というメッセージのあるアイテムと一緒に発注したのに、「在庫あり(in stock)」のほうが一向にやってこないことだって珍しくない。

当初は「いい加減だ!(-"-;)」とめっちゃんこ腹が立ったが、腹を立てたからといってモノが送られてくるわけじゃなし、ほどなく腹を立てるのに飽きてしまった。
つくづくわが国はちゃんとしておるわいと、こんな点で得心できてしまうところが我ながらお手軽な性格で愛すべきところである。

とにかく、ファーガス=トンプソンによるこれらのディスクはドイツのオンライン・ショップの“jpc”を通じて手に入れることができた。
聴く前からとっても感激していたことを、今でも懐かしく覚えている。(^^;)


しかし、そもそも販売網がしっかりしてさえいればこんなことは起こらないはず・・・と思ったのだが、今回は英国ASVレーベルがユニヴァーサルだかに買収されてしまったことが入手困難の原因であるようだ。

もともとファーガス=トンプソンのディスクは、どのディスクだったかは記憶にないものの、石丸電気の輸入盤売り場で結構見かけていたような気がする。
それが現在では、ドビュッシーの全集はクロスリーのラヴェル全集と一体化して販売されているものの、それ以外・・・すなわち、ファンに根強い人気があると思われるこのラヴェルや一連のスクリャービンに関しては、根こそぎ店頭から消えてしまっている。

オンライン・ショップを当たっても、国内ではカタログのロングテールの中に見当たらないことが少なくないだけでなく、仮にカタログにあったとしても発注は壊滅的に困難といわざるを得ない。
哀しいことだなぁ。。。(T_T)

ところで、ユニヴァーサル・レーベルがASVレーベルのどの録音に興味があったかはわからないが、これらの録音はレーベルだけの財産ではないのだから、すべからく世に出してくれるように計らってほしいものである。
芸術作品であるこれらのディスクは単なる商品ではない・・・われわれがそう思う以上に、そのディストリビューションに関わる人たちにはその意義を認識してほしいなぁ~。(^^;)
・・・と、勝手なことを言っておく。

資本主義社会のビジネスを念頭に置くと、無茶な要望かもしれないが・・・。(^^;)


さて、タイトルのとおり入手してオトを聴くまでの苦労=楽しみを綴ってきたが、こんな苦労を経て聴いた音楽にはたいてい大きな感慨をいだくもの。(^^;)
果たして、このディスクも大きな満足感をもたらしてくれた。

冒頭の“高雅にして感傷的なワルツ”こそ、何回聴いてもわずかにおっかなびっくりの気がするが、“夜のガスパール”以下“水の戯れ”“クープランの墓”と極めて入念でよく弾けた演奏だと思う。

ことにベーゼンドルファーの乾いた音が、録音の妙味とも相俟って煌々とした光のように放射されるさまは、他のどこでも聞かれない特質。
バランスもいいし迫力もそこそこある・・・。

そもそもどうしてこのディスクを手に入れようと思ったかといえば、FM放送でファーガス=トンプソンのこのディスクの演奏を聴いたからだ。
エアチェック時に感じた特徴はディスクを通じても大いに感得することができたし、演奏の結果にも満足なんだけど、どうしても後ひとつ・・・いや、後二つ望みたいものがある。

それは「抜いたところ」と「色気」。

こんなに凄くセンシティブな演奏とはいえ、ピアノの音色とともに“終始”放射しまくっていればどうしても単調に聴こえてしまえなくもない。
もとより腕の立つピアニストの為すことだから、デュナーミク、アゴーギグはもちろん細心の注意で自然になされていることはわかる・・・。

でも、それは技術的な対比ができているだけであって、(ピアニスト・聴き手双方の)気分にかかわるものとはいささか違うのではないだろうか?

要するに、一生懸命表現しなくては・・・という余裕のなさあるいは、頭で考えた表現への欲求の(高次の)レベルの平坦さといえばよいのだろうか?
感じようと努めているけれども、その曲と一体化できていないが故のよそよそしさが感じられる場合がわずかに見受けられるのだ。

そして「色気」だが、生真面目なこの演奏からは艶っぽいところがほとんど感じられない。
それを敢えて表出していないのか・・・といわれると、この人のスクリャービン演奏などを聴く限りは、もともとこのピアニストのパレットには艶っぽい色が載っていないかもしれないという仮説を持っている。
だから必然的に多佳子さんが目指していた「ファンタジー」を感じる場面は少ない。

いい悪いは別にして、もったいないことだと思う。
ピアニストは実直で素晴らしい人物なのだろう。

この点において、他にない特徴を備えた俊秀な演奏に大いに共感をいだきながらも、1%未満とはいえ注文をつけないわけにいかない・・・。
もとより、どのように私が評価しようがこの演奏の価値にはいささかも影響はないこと・・・お気に入りの演奏であることに相違ないことは、蛇足ながら、断っておく。


★ラヴェル:ピアノ曲全集 vol.2
                  (演奏:ゴードン・ファーガス=トンプソン)

1.前奏曲
2.鏡
3.ハイドンの名によるメヌエット
4.古風なメヌエット
5.グロテスクなセレナード
6.ソナチネ
7.ボロディン風に
8.シャブリエ風に
9.亡き王女のためのパヴァーヌ
                  (1993年)

ラヴェルのピアノ曲全集の後半である。
ここでもベーゼンドルファーの特質を生かした演奏が繰り広げられている。
第一集と比べると、わずかに表現に「まろみ」とでもいうべき膨らみ、あるいはしなやかさが感じられはするものの、全体的な印象はかわらない。

でも、“鏡”における“洋上の小舟”などでは温度感も少し顕れ、私は楽しく聴くことができた。
もっとも温度感のある“鏡”であるなら、フレデリック・チュウのそれには敵わない・・・といって、この曲をそのように弾かなければならないかどうかはピアニストの解釈上の課題もあろうからこれ以上深入りはしない。

いずれにせよ演奏全体の透明感、主張のある音色に特徴がある、優秀なディスクである。
聴き応えも十分だし、いつの時代にも広く世にあり入手しやすい状態が確保されるべきディスクに違いない。(^^)/


なお、私が入手したいと思っていて、発注すらままならないピアノ曲のディスクの筆頭2種を書くだけ書いておく。
カタログから消えた理由はレーベルがなくなっちゃったからであろうが、現在版権を持っている組織においては、努めて復刻していただくよう切に望みたい。(^^;)

◇パウル・バドゥラ=スコダによるシューベルトのピアノ・ソナタ第21番 (ハーモニー・レーベル盤)
◇アレクセイ・リュビモフによるショパンのバラード集ほか (エラート・レーベル盤)

入手できそうなルートをご存知のかたがいらっしゃれば、教えていただけるよう、あわせてお願いしたい。m(_ _)m

どうしても・・・

2008年05月12日 00時10分23秒 | ピアノ関連
★ショパン:4つのスケルツォ ほか
                  (演奏:ジャンルカ・カシオーリ)
1.スケルツォ第1番 ロ短調 作品20
2.スケルツォ第2番 変ロ短調 作品31
3.スケルツォ第3番 嬰ハ短調 作品39
4.スケルツォ第4番 ホ長調 作品54
5.ポロネーズ第3番 イ長調 作品40-1
6.ノクターン第2番 変ホ長調 作品9-2
7.ノクターン第5番 嬰ヘ長調 作品15-2
8.ワルツ第1番 変ホ長調 作品18
9.ワルツ第3番 イ短調 作品34-2
10.ワルツ第7番 変二長調 作品64-1
11.子守唄 変二長調 作品57
12.即興曲第1番 変イ長調 作品29
13.幻想即興曲 嬰ハ短調 作品66
                  (2004年録音)

どうしてもこのカシオーリという人のポートレートを見ると、ハリポタが頭に浮かんでしまうのは何故だろう・・・?
やっぱ似てるよね。(^^;)

あのルチアーノ・ベリオにエリオット・カーター、そしてかのマウリツィオ・ポリーニ肝いりのウンベルト・ミケーリ国際ピアノ・コンクールで優勝したのが1994年・・・って、私も年取るわけだ。
でも今年まだ29歳だってことは、彼は15歳で優勝しちゃったってこと!?
今だったらゼッタイに、なんとか王子って名前がついていそうですね。(^^;)


この演奏から感じること・・・。

専制君主的、理不尽、不条理、バイオレンス、スペクタキュラー、やたらバス音を鳴り響かせちゃっている、か細いくせになかなかしぶとい正義、ヒロイックな美学、軟弱(軟体動物的)な柔軟さなどなど。
そしてそれらはスケルツォの解釈にとっては決して誤っていないようにも思われます。
(その他の楽曲については甚だ疑問ですが。。。(-"-;))

これらになじめるかと言われると拒絶したくもなるが、「そんなのアリ?」かどうかを冷静な目で見てみるとどうしても「ない!」とは言い切れない。(^^;)
コセコセした登場人物や心証も現われることがあって、彼の解釈中それは同一人物なのか、別のキャラクターなのかわからないけれど、聴いている私には映画の展開を見ているような錯覚に陥るぐらい生なましい。

それにしてもこの演奏、ピアノの表現力(ありとあらゆる音色・フレージング)を駆使しそれを最大限に発揮している点については、どんな立場のオーディエンスであっても認めないといけないでしょうね。
ホントに不思議なくらい従順にピアノが音を発散している感じがします。
もちろん、それを引き出している「主語」はピアニストに他なりませんから、彼カシオーリの魔術・力量であるとはいえます。

やや破滅的で、オタク的、かつ許せないまでの優柔不断なキャラクターが続々と顕われるので、体育会系の人や、質実剛健・教条主義的な人にはどうしても“うにょ~っ”と感じられてしまうかもしれませんが、芸術家それぞれにいろんな捉え方があるわけで、最高度の技術をもって何を表現するか・・・これだけはアーティストの特権ですから黙って聴くほかないでしょう・・・。

ようするに、私はこの解釈にはやはり注文をつけたいところがある・・・そういうことです。
ここまで濃密に格調高く確信犯で与太られてしまうと、どんなにすごく可能性や説得力を感じたとしても・・・ね。

こういった自分の感覚とのズレがあったとしても、風流に受け流して聞けるようになりたいなぁ~。(^^;)

否、ここまで新鮮な感覚で自在に表現する力のあるひとに、自分の考えたとおりの解釈で曲を再現してもらえたら・・・でもそんなんじゃピアニストが乗り気にならないか。。。(^^;)

彼らへの報酬(お金だけじゃないだろうけど)も提供できそうにないしね。
ありものを楽しんで聴かせてもらえる・・・それだけでありがたいことと思わなきゃ!

聴くに耐えない・・・ものも中にはなくはないから・・・ね。(^^;)

てなわけで・・・ご立派!!