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SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

音楽って何語?

2007年09月25日 23時42分34秒 | ピアノ関連
★舟歌~フォーレ:ピアノ作品集
                  (演奏:クン=ウー・パイク)
1.無言歌 作品17の3
2.夜想曲 第1番 作品33の1
3.夜想曲 第3番 作品33の3
4.即興曲 第2番 作品31
5.夜想曲 第6番 作品63
6.舟歌 第1番 作品26
7.夜想曲 第11番 作品104の1
8.夜想曲 第13番 作品119
9.即興曲(8つの小品より)作品84の5
10.無言歌 作品17の1
11.前奏曲 作品103の2
12.前奏曲 作品103の7
13.バラード作品19
                  (2001年録音)

私は何かあらたまって本などを読んだりすると、すぐその主張するところに影響されることがあります。

もとより、このバックステージで妄言を吐きまくっているのにお付き合いいただいている方には、レコ芸の月評子のセンセイよりもなおディスクの演奏の内外を問わず言いたいことを言っている・・・何がしか当該演奏に影響されたことをホザきまくっているわけですから、そんなことは判っていると仰る向きもありましょう・・・。(^^;)

そんな尻軽な私ではありますが、一方では生まれた時からDNAに刷り込まれていたかのごとく中日ドラゴンズをこよなく愛し、ま、いちおうカミさんにも感謝の念を忘れずこよなく愛してることにしているのと共に、日本・日本語というものにもひとかたならぬ思い入れをもっているつもりの徒でもあります。


「人は言語で思考する」といえば全く当たり前のことなのかもしれませんが、実はこれって大問題なんじゃないでしょうか。

というのは、高島俊男さんという方が著されている「漢字と日本人」という文春新書から出ている本を読んでいろいろ感じるところがありました。
で、あっさり影響されちゃったんですが、ここは音楽関連のスペースといういことをわきまえることにして関連すると思われることだけを述べるにとどめます。
要するに細かいことはおいておいて、『音楽』っていうのもその存在意義においても何かを伝えようという目的を有しているものなんですよね・・・ということを改めて再確認したい、こういうことです。

かの楽聖ベートーヴェン先生も「心より出でて、心に届かんことを」とのたまわっておられるとおりですよね。(^^;)
じゃ、何を心から取り出してみせ、何を先様の心に届けたいのか・・・“音響”をなんていったら、はったおされるでしょうね。。。

それは“何がしかの気分”ではないかと直感的に思うのですが、これって言語、そしてそれを表記する手段である文字に置き換えるというのはとっても至難なことなんじゃないでしょうか?
(かく言う私はこうしてほとんど毎日それらしいことを続けているのではありますが・・・。)

作曲家は表現したい“気分”を惹起させしめうる音の配置やら強度やらを、そのセンスと呼ばれうるであろう自身にすり込まれたいわば“思い込み”との遠近感から巧みに採否を繰り返してひとつの曲をこしらえる・・・という作業をしているのでしょう。
ですから、作曲もひとつの翻訳作業といえると思います。

では、作曲家は常日頃なにで思考しているかというと当然ながらその日常使っている言語であります。
言語の背後には当然にその国の哲学・歴史があり、さらに細かく見ればその人(この場合は作曲家)のそれも概ね被さってくるんでしょう。

では、その音楽を真に理解し楽しむためにはその言語にも通じていなくてはいけないのか?

作曲家理解ということで、その作曲家について深く研究考察し、その作曲家が愛した本や思想などについても想いをいたしたうえで演奏をするとおっしゃるアーティストはいっぱいいますが、作曲家の思想などにもっとも大きな影響を与えているのは実は母国語なのではないでしょうか?
そうであるとすれば、音を楽しむのにもすくなからずその言語に通暁していないとその真意はわからないこともありうるのではないでしょうか?


フォーレは「女性的なところはあるが、少しも女々しくない」という作曲家でサロンなどでは人気者であったらしいのですが、そのことは当時のフランスにおいてどのような意味づけがあったのかももちろんですが、フランスではそれが是とされるお国柄なのか非なのか・・・そしてその理由は何なのかもわたしにはわからない。

実はそんなよく知らない人が作った楽曲を、その曲をよく勉強したであろうけれどその勉強の中身をほとんど知らされていない異国の演奏家がディスクを発表する場合には、例えばこのクン=ウー・パイクという韓国随一の大迫力のヴィルトゥオジティを誇るピアニストが演奏した場合には、それがしなやかで瑞々しくていかに私の心を打ったとしても、フォーレが正しく楽譜に書き落としたその気分を表現しているのであろうか・・・という点において不安になるのです。

リサイタルのプログラミングからこの上なく魅力的な、こんなディスクであればこそなおさらです。

実は母国であるフランスのピアニストによるフォーレ(コラールは聴いたことないんですが)よりも、ずっと自分の心の琴線に触れてくるのですが・・・。

ご存知かどうか判りませんがメラビアンの法則というのがあって、人が何かを話して伝えようとする時に何が影響するのかの研究結果があります。
それによると60%弱は態度・身だしなみ等、35%余が声のトーンなどに影響されるのであり、言葉それ自体は7%の影響に過ぎないといわれているようです。

音楽には言葉は声楽曲など以外はありませんよね。
そうすると先の“気分”を伝える要素って何によるんでしょう?

音楽もそんな伝達手段であるとすれば言葉の代替品という要素もあると思うのですが、これは果たして何語なんでしょう?
人間にある程度普遍的に備わっている共通認識に立脚しているのだとすれば、言語とは切り離して考えるべきなんでしょうかね?


好きな演奏家がいる、好きな作曲家もある・・・その方たちの思考には国籍をこえて私と共通する何かがあるんでしょうか?
ベートーヴェンの運命の第4楽章なんかを聴いて鼓舞されない人種はないんでしょうから、きっとそんな要素も在るにはあるんでしょうね。


確かにいろんな演奏に触れることで私の受け入れうる“気分”の範囲は広がっているのですが・・・それが作曲者のそれと、演奏者のそれとイコールといえるかどうかが心もとない・・・そして必ずしもそれでいいとは思えない。

繰り返しますが、パイクの素晴らしい演奏を聴くにつけ「これが本当のフォーレなのか?」と何度も自問自答してしまいました。(^^;)
本当のフォーレなんて知らないし、フランス人の弾くフォーレが本当なのかもわからないですけどね。
私の好むフォーレの演奏は、実は全然フォーレ的じゃなかったりして・・・。


ん~、なんか意味不明で、中途ハンパな記事になっちゃいましたね。
すんませんこってす・・・。


ところで、高島さんの本にもいろいろ考えされられるところがありました。
自分はこれまで中島敦のような漢文調の文体を非常にカッコよく思うものでしたが、日本語・とくに文字の生い立ちやこれまでの経緯、そして今後日本の文化をおもうとき、つとめてかなをつかうのが望ましいと考えるに至ったからです。

ただでさえダラダラ書くクセがあるので、漢字の熟語を廃してかなを多くすると余計に長くなるからいままでどおりに書いていこうと思っておりますが・・・。(^^;)

ヒゲ小父さんの悲喜劇~サントラ

2007年09月22日 22時50分42秒 | ピアノ関連
★ゴドフスキー:ショパンのエチュードに基づく練習曲「全曲」
                  (演奏:マルク・アンドレ・アムラン)
◇ショパンのエチュードの基づく練習曲 (全58曲)
                  (1999年録音)

この曲集を聴くたびに、何でゴドフスキーはこんなものをこしらえたのかと考えてしまいます。(^^;)

ゴドフスキーはポーランドの名ピアニストでありコンポーザーでもあった作曲家。
私のイメージでは、今や絶滅したかに見えるグランドマナーと言われるスタイルの演奏家にとって神のごとき存在であろうかと思われるヒゲ小父さん・・・って、ちょうどジャケ写の左下の人ですね・・・です。

ジャケットの話が出たところで、まず中央左上の○枠で囲ってある方はもちろんショパンであります。
死亡した人を新聞表示するときと同様の表示のしかたであることがイミシンであります・・・。
よく見ると、不機嫌そうだし「迷惑千万」といった表情に見えなくもない・・・。(^^;)

ゴドフスキーも文化人のように見えなくもないけど、実は下世話なおじさんに見えなくもないという写真であります。そして、この写真は○枠でない。。。
なんとなればゴドフスキーはこのCDでショパンの作品10および作品25、あるいは新練習曲をベースにして好き勝手をやらかしているからであります。
本人はもちろん故人ですが、彼の意志はアムランという稀代のパフォーマーを得て存分に生かされているのです。

その意味でアムランの写真が、その不可能を可能にする両手を印象的に浮き上がらせ、聴衆の信頼にたるような表情をたたえてこちらを向き、自らのチャレンジ(あえて芸術とはいわない)を世に問う姿勢を見せているのは、まことにこのディスクの性格上相応しいことであると感じ入っています。


要するにこのディスクでのレパートリーは、たとえばウルトラマン・ティガの場合であればV6の歌う主題歌があり、それが怪獣を追撃するときなどは行進曲風にアレンジされ、あるいはその回の目立つキャラの人が気弱になったときにはメランコリックになったり、回想シーンでは・・・と本編中でいろいろ形をかえて現れる曲たちを、ひとつの曲集に寄せ集めたようなものではないかと感じたわけです。
タイトルで『サウンドドラック』と称したのは、そんな仮説に基づいています。

繰り返しになりますが、こんな化け物みたいな楽曲から詩情すらただよわせる演奏ができてしまうアムランには、シャッポを脱ぐしかありません。
また、このミッションにこれ以上ない適任者であることは火を見るより明らかであります。


さて同邦の後進ヒゲ小父さんに自分の芸術を換骨奪胎されヘキエキした原曲の作曲者と、ヒゲ小父さんの自伝めいたトランスクリプション(?)をこの上ないパフォーマンスで聞かせてくれるピアニストの話はこれで打ち切り、肝心のヒゲ小父さんゴドフスキーが何をやらかしたかを申し述べねばなりますまい。

彼が主にしたことは、自作の旋律をショパンのエチュードに絡めて、あるいは両手は不要とばかり左手だけで演奏するようにアレンジすることにより独自のムードに現出させしめることであります。

まず、その絡める旋律というのはえてして装飾的な半音階的旋律であり、左手だけにする効能は、よりロマンを演出しなければというピアニストの意識を顕在化させることであります。
そしてそこから導き出される独自のムードというのは、両手のものは複旋律あるいは多声部をもつ楽曲のように思われ、左手のみのものはたいていの場合低い調に転調されておりより温かみが増すとともに、ヴァイオリンがヴィオラになったような安定感を伴うようになっています。

さて、個別に見ていくと冒頭の第1曲めのアルペジオの練習曲・・・若きショパンがワルシャワからパリへ移るに当たっての壮大にして精悍な勢いに満ち溢れた曲でありますが、ゴドフスキがいろいろ付け足すとスーパー戦隊の合体ロボットが、信じられない必殺技で相手の巨大化した化け物を成敗するような分厚さを感じます。
考えようによっては凄いのですが、私には蛇足というか滑稽ですよね。お笑いです。

そして別れの曲、革命のエチュードに至るまで、両手はは要らないとばかり左手一本なんです。。。
嫌がらせですよね・・・弾くほうも弾くほうですが・・・。(^^;)

2枚目のディスクの冒頭、エオリアン・ハープの3曲目の編曲は、星月夜・・・満天の星の瞬く下で女性と添い寝しているのを夢見るヒゲ小父さんのシーンのバックで流れてた曲ですね、これは。(^^)/

グリーグがモーツァルトのソナタに、変な2代目のピアノのパートを足してノルウェー語で合いの手を入れたと揶揄されたようなことが起こっています。
やはりゴドフスキーが足す旋律は、同じポーランド人によるものとはいえ言語が違うんですよね。。。
はっきり言うと、ここでショパンの曲に足している旋律の性質と、サン=サーンスの白鳥のトランスクリプションに足している旋律の性質は同じですもん。(^^;)

自分色に染めているだけ・・・なんじゃないかなぁ~。それが、自分のサントラだから・・・と私が主張する所以でもあります。

まぁ楽曲にいろんな旋律を忍ばせるというのは、かねてもいろんなケースがありますもんね。
たとえばショパンその人も、スケルツォ第1番などではポーランドの旋律をトリオに入れていますし、同様のことはドビュッシーが“ゴリウォーグのケークウォーク”や“ピアノのために”でも行っています。
さらにもっと確信犯なのは、グノーなんぞバッハの平均律の前奏曲を伴奏にして自分の“アヴェ・マリア”の旋律をつけちゃったりして。。。

ゴドフスキーは、これらのほとんどの手法をトランスクリプションに採りいれています。
それはあたかも清水みちこさんが右手で銭形平次、左手で水戸黄門(反対だったっけ?)を弾いてしまったのと同じノリです。

当然こんな行きかたは、一部のグランドマナーを標榜するピアニスト群(ボレットやチェルカスキーなど)には崇められたかもしれませんが、当時からしてそれとは一線を画す流儀の人たちにはあまり受けがよくなかったのではないかと思われます。

現にクラウディオ・アラウはチェルカスキー一派が内声を発見したように喧伝していることを快く思っていない意を表明しています。
こんな凄い演奏が出来ちゃうのに・・・ゴドフスキーにとっては悲劇だと思います。

繰り返しになるかもしれませんが、我らがアムランは当然にグランドマナーなどに拠って立つことなく、その独自のスーパー超絶な技術を駆使してこれらの楽曲を真正面から撃破しています。
ただただ、神業です。。。


★ゴドフスキー:ピアノ・ソナタ、パッサカリア
                  (演奏:マルク・アンドレ・アムラン)

1.ピアノ・ソナタホ長調
2.パッサカリア
                  (2001年録音)

ショパンの編曲もさることながら、コンポーザー・ピアニストのゴドフスキーのこと演奏時間45分を超えるとんでもないピアノ・ソナタをモノしています。

ロマンの香りあふれるといえば聴こえは良いですが、この時間これだけ分厚い音のカベでロマンの香りを投げ続けられると、ふつうの人なら鼻が利かなくなりますよねぇ~。(^^;)

果たして、アムランがアルカンの“ピアノ独奏のための協奏曲”を演奏したときと同様、最初の数分は、ジャケットの写真のように、その楽曲の持つ固有の風が頬を髪をすり抜けるときに沸き起こるロマンの感情に身を任せることが出来るのですが、暴風注意報から警報になるのにそれほど時間を要しないことも確かです。

結局はアムランの技術・精神両面の持久力にノックアウトされる・・・というピアニストが漁夫の利を得る感じになっちゃうんだよなぁ~。

それにしても、こんなレパートリーを次から次へとディスクで発表するアムランは、これらを紹介することが自分の天命とでもいう使命感を持っているんでしょうが、考えてみれば「単なる物好き」と大差ないですよね。

それを言っちゃおしめぇよ・・・かもしれませんが。

Fの饗宴 もしくは F.対 F.

2007年09月21日 00時00分00秒 | ピアノ関連
★セザール・フランク-ガブリエル・フォーレ
                  (演奏:ダヴィッド・ビスマス)
1.フランク:前奏曲、フーガと変奏曲 ロ短調 Op.18
2.フランク:ゆるやかな舞曲
3.フランク:前奏曲、コラールとフーガ ロ短調
4.フォーレ:夜想曲第1番 変ホ短調 Op.33-1
5.フォーレ:主題と変奏 嬰ハ短調 Op.73
6.フォーレ:夜想曲第13番 ロ短調 Op.119
                  (2003年録音)

このディスク、20日発売のレコ芸の巻末の海外盤の新譜欄に出てましたね。
2日前の記事でご紹介したスドビンも出てましたし、予算化された衝動買いの成果ですな!(^^)/
専門誌より先をいっているような気がして、なかなか気分がいいものであります。

ジャケットからするとゼッタイに手を出さないであろうこのディスクを買おうと思った理由は、絶妙な選曲と使用ピアノなんです。

フランクとフォーレ、ベルギー生まれで循環形式なんてのを広めたとされながら、どちらかというと旧い対位法ガチガチというイメージのある前者と、フランスのエスプリの権化、サン=サーンス以降ラヴェル以前といった感のある後者。
メチャクチャ乱暴な括り方ですけどね・・・でも、ビスマスの演奏で並べて聴いてみるとあまり違和感がないようにも思えます。

フランクは大曲が小曲を挟み、フォーレは小品が大曲を挟んでいますが、これも巧み。

まずはフランクという作曲家が十分にメランコリックであることを証明しています。
特にオルガンのために作曲された冒頭の“前奏曲、フーガと変奏曲”は昨今いろんなピアニストがこぞって採り上げるのがよくわかる名曲・・・という仕上がりであります。

もちろん、ビスマスの演奏も後ほど述べるファツィオーリ・ピアノの限界の中において十全に矍鑠としたものであり、彼のバスの音の巧みな色気が曲全体に独特の推進力を与えています。
この感覚だけは、どうしても聴いてもらわなくちゃわかりませんでしょうけどね。(^^;)

対するフォーレの演奏もこのピアニストの手にかかるとエスプリというイメージではなく、いささか生真面目に聴こえてきます。
そして“主題と変奏”はコルトーがこの時代のフランス音楽にあってこの1曲で同国のメンツが保たれるほどの出来だと激賞した、対位法などもこのうえなく生かされた曲・・・。

ビスマスは、わざとか芸がそこまでまだ練れてないのか判りませんが、やや一本調子なので、両者の違いは違いとしてわかりながらも、ディスクとしては1つのテイストが整ってしまったという、聞く人によって評価が分かれそうな演奏振りを世に問うています。

私は、曲ごとに聴いたら、あるいはフランクだけ、フォーレだけという風に聴いたら名演だと思います。
続けて聴く時は、ディスクを替えたと思ったほうがいい・・・。雰囲気にてるけど・・・冗長になっちゃうかもしれませんから。。。(^^;)



さて、タイトルを『Fの饗宴』としましたが、Franceはコート=ダジュール生まれのピアニストが、FazioliのF278でFranckとFaureのプログラムを弾いているわけですから、けっこうFが饗宴してるでしょ!(^^;)

それにしても最近、ファツィオーリで演奏されたディスクをよく聴くようになりましたね。
たしかにそれだけのことがある楽器だと思います。
素のままの音が美しいですし、チッコリーニはタッチの均質性を絶賛していましたが、音色もほんとによくそろっていますよね。

ですから、ピアニストが頭の中でイメージした音楽をちゃんとした技術を備えていれば、ピアノのところでバグが出ることがない・・・イメージを正確にトレースすることができるのでありましょう。

ただ美しい響きが立ち上る時、とても木目細かくて品位ある響きであるんだけれども音同志が攪拌されてというか、乱反射して交じり合ってというか、均質性があり精妙ではありながら、スタインウェイのようにやや金属的な音がカキーンと抜けて聴き手の頭の芯を直接刺激するようなインパクトには欠けることがありますね。

そんなシーンが曲中に何度か・・・それも「ここぞ!」で欲しい時には、チョッと工夫しないといけないかもしれません。

そうでないかぎりは、響きの超細密画を見るような麗しい音が約束されますね。ホントによくできた楽器だと思います。


さてと・・・。
総括するとビスマスの演奏はさすが録音時28歳だけあってややぶっきらぼうながら、逆にそれが唯我独尊の感を醸し出して、私には結構相性がいいものだと思いましたね。
巷の評判も聞いてみたいものです。


「おいおい、それじゃ『F.対 F.』ってなんだよ!?」という声が聞こえたような・・・。

そりゃ、フランク対フォーレに決まってるじゃないですか。。。


アラウさんはヴァーチャルの世界の人間ですから、某国のFukuda対Fukuokaの某の宰相争いのこととは関係ないですよ。

しかしご当人はともかくナンですか、あの取り巻きたちは・・・?

見苦しい。

ジミなイメージのフランクみたいなFukuda氏と、社交界では人気があったフォーレのようにオタクに人気のあるFukuokaの某氏、結局はビスマスの演奏みたいにそれほど違ってなかったりして・・・。(^^;)

ということは、やはり側近になる人が違うだけだとするとご当人より周りが大変というのも分かるような気がする。

でも、Fukudaさんが通っちゃうと喜ぶのは派閥・族議員ひいては官僚だけだと思うので、私は、あ、そうそう・・・FukuokaのAさんでしたね、そちらのほうに頑張ってほしいですね。
アラウのイニシャルもA(Arrau)だし・・・。


え、そのかたが宰相になることになってもいいのかって・・・?

総理大臣には、もうひとつの議会の選出するOさんの方が相応しいんじゃないかって?


んんんん・・・選択肢はどっちかしか無いんですか?

どっちもやだな・・・だって、私はB型だもん。
AでもOでもありません。

Bとすると、岐阜羽島駅の前に銅像が建ってる政治家みたいな人かなぁ~。(^^;)

舌ったらず

2007年09月20日 00時27分44秒 | ピアノ関連
★ブルカルト・シュリースマン・プレイズ・シューマン & リスト
                  (演奏:ブルカルト・シュリースマン)
1.シューマン:幻想曲 ハ長調 作品17
2.リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調
                  (1999年録音)

さて、今日は珍しくルックスが男前のピアニストを取り上げます。(^^;)
でも、これもやはり珍しくギブ・アップ宣言です。この演奏のいいところがわかりません。

ブルカルト・シュリースマンがどんなピアニストかも判りません。
でも、私の年代だったらリチャード・クレイダーマンを思い起こすような、ピアノの貴公子というルックスであることは認めましょう。
敢えてジャケットで顔をアップにしないのも、「オレは芸術の内容そのもので勝負するアーティストだ!」という気概を感じさせなくもないという意味では評価できましょう。

・・・とはいえ、ジャケット裏ではご婦人を惑わせそうなフォトもありますですけどね・・・。(^^;)


で、肝心の芸術内容なのですが、これがいやはやなんとも・・・敢えて評すれば“舌ったらず”としかいいようがない。

“幻想曲”ではそれなりに雄弁と思えなくもない出だしなんですが、まず恐ろしい甘口カレーを思わせる中音域の和声が違和感を感じさせるのです。
そして、フレージングに関してなんとも言いがたい「つっかえ感」が時折あるのです。リピートの同じところで寸分違わず同じようにつっかえるので、著しいテクニック不足ではないと思います。
クセ・・・って訳でもないでしょうし、解釈の帰結としてそれが妥当であるとピアニストが認めたんだろうと思いますけど・・・。

ホンモノのアーティストを志向しているであろうシュリースマンが、誠心誠意楽譜を読み込んで「これだっ!」と合点して弾いているのであれば、私ごときがケチつけることはできないでしょうが、これじゃさすがにチャチャはいれたくなるなぁ~。

行進曲風の中間楽章だって、おおらかといえば聞こえはいいけどここまで行っちゃうと“Too Loose”ですよね。
緩い・・・ユル過ぎです。逆に、テクニックが怪しいんじゃないかと思ってしまうほど・・・。

最終楽章も心地よい緊張感のなかで精妙に弾かれてこそ、妙味というか癒し効果が出てくるような音楽だとシューマンが苦手の私でも思うのですが・・・。
敢えて言えばノーテンキに聴こえます。
学生が弾いているといえばよく弾けてるねという印象にもなりましょうが、本物の芸術家が弾いていると言われては、私にはそのよさがわからない・・・あるいは相性が悪いとしか申し上げようがない演奏内容であります。


リストの“ロ短調ソナタ”でも残念ながら印象は変わりません。(>_<)
一言でいえば“弛緩した演奏”。
ネアカということもできましょうが、どっちかというとネクラの方に近いだろう私には冗長・退屈という感じがします。

どうせネアカに弾くんならもっと徹底的に天国的に聞こえるように弾くとか、いろんな聞かせ方があったと思いますがどうにももどかしく聴こえてしまいました。
ピアニストが言いたいであろうことが伝わらない・・・という意味でも“舌ったらず”ですね、やっぱり。

また、盛り上がってクライマックスで連打する音の最高音が違う・・・半音低い、それが繰り返しの時も低いのでここでもつっかえるんです。
楽譜の読み間違えなどということはありえないだろうし、内声の別の音を強調しているわけでもないし・・・そんな版があるんでしょうか?
謎です。。。(>_<)

お断りしておきますが、この感想はあくまでも私にとっては・・・です。(^^)/
ファンの方がもしいらしたら、ごめんなさいね。


ただ、このままルックス以外に何もシュリースマンを評価しないといかにも寝覚めが悪そうなので、ひとつだけ「その意気やよし」と認めておきましょう。

それはこのディスクのプログラムですが、ありそうでないもの・・・ですよね。

周知のことですが、シューマンが“幻想曲”をリストに献呈したことを受けて、リストが“ロ短調ソナタ”をシューマンに返礼として献呈しています。
真っ向からこの2作をセットで採り上げているピアニストって、俄かには思い当たらないですね・・・。

この2曲の内容も対照的ですよね。
シューマンの“幻想曲”が明確に3つの楽章に区切られているにもかかわらず、これとは別にピアノ・ソナタを3曲作曲しているシューマンをして敢えて“幻想曲”と名付けさせしめている楽曲であります。
これに対して、リストの“ソナタ”は確かにソナタの構造を内包しているとはいえ、チョー斬新な見てくれを呈しているがために物議をかもしたというイワク付きの曲目であります。

そうであればこそ、双方の曲ともが“妄想曲”と思えちゃうというか、ふやけてしまったというか、あるいは求心力の弱い糸の切れ掛かった凧のように聴こえてしまうことが口惜しいですね。

このピアニストには他にもシューマンやブラームス、スクリャービンの作品があるようですが、当面はチョッと・・・。(^^;)

メロメロドラマ

2007年09月19日 06時31分09秒 | ピアノ関連
★エフゲニー・スドビン・プレイズ・スクリャービン
                  (演奏:エフゲニー・スドビン)
1.練習曲 作品8-12
2.ピアノ・ソナタ第2番 (幻想ソナタ) 作品19
3.練習曲 作品2より
4.4つのマズルカ 作品3より
5.ピアノ・ソナタ 第5番 作品53
6.ニュアンス 作品56より
7.ポエム 作品59より
8.ピアノ・ソナタ 第9番 “白ミサ” 作品68
9.ワルツ 作品38
                  (2006年録音)

先日、銀座に所用があって出向きました。
山野楽器にふらっと立ち寄ったとき、何枚か気になる若手演奏家のディスクを衝動買いしました。前にも書いた、予算化された計画的な衝動買いってヤツね!(^^;)

これはその場でプログラムを見た瞬間に「欲しい!」と思いました。
スクリャービンのピアノ・ソナタ第2番・第5番・第9番という3つの代表曲を時系列に並べたものを軸に、後を小品で固めた魅力的なリサイタルになっているからです。

そしてもう一点、SACDのハイブリッド盤になっていることもBISレーベルの期待の程が伺えて「キットイイニチガイナイ」と確信するに十分であり、晴れてお買い上げとなったものであります。

結論だけ言えば、タイトルのようにメロメロドラマ・・・「きてます・きてます」状態のディスクで大当たりでした。
気に入らなかった点を強いて言えば(あくまでも私の好みという基準で)ジャケットのデザインだけですね・・・。(^^;)


プログラムは概ね作曲者の作曲年代順に楽曲が並んでいます。
心の中に小さな波風が立ったところから、風が心を吹き抜け、最後に狂気の嵐が全て飲み込んでいく経過を表しているかのように聴こえるのです。
それでは、それぞれの演奏の中身を順に見て参りましょう。(^^;)

ざわざわざわざわ・・・心の隙間に吹きすさぶ木枯らしのごときエチュードでディスクは始まります。

そして、早くも私にとっては最も気になる曲である“ピアノ・ソナタ第2番”が現われ、もの思いに耽るかのような第1楽章が始まり、そしてず~っとモノローグが続きます・・・。

この生き物のような演奏を表現するのに“装飾音”なんて言葉は使いたくないけれど、そのジャズ・ピアニストのような転がすような節回しは間違いなくチャゲアスの“SAY YES”に出てくる『恋人のフレーズ』そのものであります。
そこからは、「わが心ながらその“さざめき”を抑えることができない」というスポンティニュアスな衝動が感じられて、一瞬たりとも耳を離すことが出来ません。

もちろんタッチはロシア流のクラシックのピアニストのそれであり、決してべとついたりしませんが、やや暗いシチュエーションで妙齢の美男美女が薄着で隣り合って座っているときのお互いの心の中の風景をずっと描き続けるかのような・・・官能的な昂まりを内包したようなイメージを燃焼しています。

第2楽章ではピアニストの若々しい感性が鮮烈な心のわななきを表現しており、せきたてるようなリズムに乗ったここでも真珠を転がすような気まぐれなジャジーなフレージング、そしてキレのいい和音の強打の対比によって、決然と終局を迎えるまで恋する2人の心の推移をやはり風のように表現しきっています。

こんな“幻想ソナタ”ははじめてです!(^^)/
練りあがったという感じはしないんですが、ここまで感覚的に辻褄があって充実した奏楽はなかなかないと思うし、こんな表現をしおおせるこのピアニストが存在することに驚きを禁じえませんでした。
間違いなくスドビンとは、独自の解釈とテクニックを備えた稀有なピアニストであると確信しました。

続く作品2からのエチュードも、哀愁のメロディーをもった佳曲。
メロドラマのインタールードとしても誠に相応しい一曲であります。
作品3からのマズルカも、こんないい曲だったんですねぇ~。チクルスでもっていますが、プログラムの妙でこんなにそれぞれの楽曲も映え、全体におけるアクセントにもなるというのは本当に驚きです。
このピアニストの強みは、しなやかで特徴ある右手のフレージングもさることながら、和音を強打した時に毅然としながらけたたましく、そしてモヤーンとならないようコントロールする術を知っていること。
これにより表現の幅が凡百の演奏と比べて格段に広くなっています。恐るべき才能の出現です。

演奏家がスクリャービンを愛すればこそ、どのように聴かせたらリサイタルのプログラムが最大の効果を発揮し、各曲それぞれも生きるのかということを十分に考察した結果であるように思います。
とてつもなく魅力的な1枚であることが、ここまで聴いて確信できますねぇ~。

そして“ピアノ・ソナタ第5番”。
響きの綾から浮き出るピアノの音のアヤシさ、楽譜に書かれた音の全てに意味づけがありその全てが曲の構成上主役を引き立たせるように働き、主役の音は思いっきり自分を主張しています。
この曲からラヴェルの“ラ・ヴァルス”のような狂乱を感じるのは間違っているでしょうか?
沸き立ち浮き立つ心を表現する、なにかを待ちきれない・・・そんな感じです。
やはりせわしない心の中を、そして感情の昂まりを曲の進行を通して表現し続けついにイっちゃったっ!
・・・って感じでエンディングを迎えます。

今まで聴いた中で最もエキサイティングなピアノ・ソナタ第5番であるといってよろしいでしょう!(^^;)

ニュアンス、ポエムと神秘主義に傾いていくスクリャービンを追うようにプログラムは進んでいくのですが、いよいよメロドラマの佳境にさしかかるぞという前奏になっていくように思います。
エロス&タナトスを志向する人の心は、誰しも共通ではないでしょうか?
それを感じさせるスクリャービンの曲趣であり、スドビンの演奏です。。。
なにしろピアニストは表現が多彩で自由、圧倒的に真に迫った演奏はスクリャービンの本質をみごとに突き止めて我々に翻訳してくれており、とても得心の行く話を聞いたときのような納得感を持ちました。

“黒ミサ”はまた、愛の葛藤が過ぎて『狂気』まで到達しているのを感じさせます。
さながら“アイルケ”で主人公が冬香を殺害するに至った時のような、我を忘れた陶酔、めくるめく感覚の中にも少しだけ正気があって、だからこそ自分を律しきれない狂おしい感覚といったものが余すところなく音化されている・・・。
“心は本能のままのケダモノ”という感じでただならぬ状況で最後のクライマックスを迎えます。

本当にこんなわかりやすいスクリャービン聴いたことがない・・・このディスクの購入はまたしても大当たりでしたね。
(^^)v

ラストのワルツは口直し、カーテンコールのように始まりますが、決して単なるエンドロールではなくひとつの大きな盛り上がりを孕んでいます。
リズム的には、「どこがワルツなんだ?」と思えなくもありませんが、ひとしきりの盛り上がりの後、また例の抗しがたい魅力を持った右手のしなやかなフレージングが思わせぶりに曲を、そしてプログラム全体を終結させると、なんともいえない聴後感が心地よく沸きあがってきます。


珍しく断言してしまいましょう。(^^)/
プログラム、演奏、解釈・・・どれをとるにせよスクリャービン・ファンならはゼッタイこのディスクを聴くべきです。

ホロヴィッツの音?

2007年09月18日 07時57分51秒 | ピアノ関連
★巨匠たちの伝説 ~江口 玲 plays at Carnegie hall
                  (演奏:江口 玲(あきら))
1.愛の喜び (クライスラー/ラフマニノフ編曲)
2.愛の悲しみ (クライスラー/ラフマニノフ編曲)
3.メロディ (パデレフスキー)
4.悲愴前奏曲 (チェルカスキー)
5.J.シュトラウスの「こうもり」による演奏会用パラフレーズ (ゴドフスキー)
6.ロマンス~ピアノ協奏曲第1番より (ショパン/バックハウス編曲)
7.夜想曲~“モクセイソウ”より (ホフマン)
8.ハンガリアン・ラプソディ第2番 (リスト/ホロヴィッツ編曲)
9.白鳥 (サン=サーンス/ゴドフスキー編曲)
                  (2002年録音)

ずっと気になっていたディスクなんですが、ライヴ録音だと勘違いして手を出さずにいたのを、チョッと前そうでないと判ったとたんに欲しくなって買ってしまいました。(^^;)

欲しかった理由は概ね3つ・・・。

まず、作曲もモノするらしい江口玲というピアニストについてですが、高橋多佳子さんが先般リサイタルで弾いた「ラプソディー・イン・ブルー”のピアノ編曲版を出版している人物であります。
もとより、多佳子さんはその譜面に自身で手を入れていて、更に難しくして弾いているところもあるようですし(書込みのある譜面を見せてもらっちゃったもんね・・・だからどうなってるのかは判りませんでしたが)、そのとおりすべてを忠実に弾いてるわけじゃないようですが・・・。

でも、何種類もの譜面を見比べて「これだ!」と選んだのが江口版ということは、私にとっては凄いことであります。(^^;)

もとより江口玲というピアニストは、レコ芸でも独奏者、伴奏者として度々登場し好評価を受けていることは承知していましたし・・・。


第2の理由は、やはりここで使用されている楽器がホロヴィッツが大絶賛したというピアノである・・・ということ。

タカギクラヴィアという会社が所有する“スタインウェイ・ニューヨーク・モデル-D”、その社長によるプロダクションによりこのディスクは生み出されているのですが、コンセプトを知ったときに素晴らしい仕事だと思いました。
もちろん、音を聴いた後もその感想は変わることはありませんでした。(^^;)

プロデューサー、演奏者ともにこのディスクへの思いの丈をライナーにしたためていてそれはそれで感動的でありましたが、私にとっては、やはり音楽を聴いたときの気づきのほうが大きかったですね。(^^)/
それは、このお2人にとっても望ましいリアクションであると思ってよいでしょう。

そして、タイトルの「ホロヴィッツの音?」ですが、このディスクって曲ごとにマイク・セッティングをいじってないかなぁ~。
少なくとも、“愛の喜び”だけが艶消しのような気がして、ちょっと感じが違うんだよねぇ~・・・と気にしだすと、全部違うような気もしてきてしまいました。

とにかく、やはり現代のピアノと音がちがうんです。
現代のピアノのほうがスコーンと抜ける音がする・・・スタインウェイですから金属的な芯をきちんと捉えた野球に喩えれば「いい当たり」の音がするんです。そして、ペダルを踏むとどうしようもなく音が豊かに共鳴する・・・そんな感じがします。

対してここでのスタインウェイは、脱力して弾くとスコーンと抜けるけど現代ピアノのそれほどじゃない。
また、音色そのものに不純物がいっぱいまじっているけど、それが2級酒独特の旨味みたいななんともいえない味わいになっています。

そして、“ハンガリアン・ラプソディ”でのバスの音、ラッサン、フリスカいずれもで「ホロヴィッツの音」が聴かれました・・・と私は思います。
と思ったら、ホロヴィッツ編曲のヴァージョンだったのね。(^^;)

とはいえ、この音は私がホロヴィッツの演奏で音色的に最も印象に残っているフレーズ・・・ショパンの変ロ短調ソナタ・第1楽章のイントロが終わって第1主題が入る前の左手バスが“グヮァ~~ン”と梵鐘を共鳴する以上の力でひっぱたいた時に歪んだような音色・・・に酷似しています。

センテンス長いけど、わかりました?(^^;)

というわけで、ホロヴィッツのセンスは真似できないだろうけど、音だけならピアノの要素も結構あったのね・・・ということが判りました。


第3にして最後の要因は、この魅力的なプログラムです。
“クライスラー/ラフマニノフ”の2曲、冒頭からかの時代を髣髴させてくれる素晴らしい演奏。
“ロマンス”というショパンの第1番のコンチェルトのバックハウスによる編曲なんて、タメイキものでした。バックハウスのイメージが変わりましたね。
独墺系音楽系のいかついオジサン・ピアニストというだけではなかったようで・・・。(^^;)

そして“白鳥”・・・。
サン=サーンスの白鳥をゴドフスキが半音階を多用して多声部編曲をしたかのような、妙味ある音遣いがたまらない楽曲です。
江口さんはやや生真面目に弾かれていますが、だからこそ醸し出される美しさはたしかにある・・・。
このディスクにもその作品がある・・・ということはピアニストの巨匠のひとりと認識されている・・・チェルカスキーが最後の来日時にアンコールで弾いた曲目。。。
テレビでそれを見て、それからずっとディスクを探し続けた曲であります。
こうしていつでもディスクで聴けると思うと嬉しいですね。


ただ、江口さんの演奏はこの白鳥のみならず、全ての楽曲がピアノの持っている雰囲気をスポイルすることなく表現しえています。
この点からも、原題「LEGENDS OF THE MAESTROS ~ Piano Music from the Carnegie Hall's Golden Years」に恥ずるところのない素晴らしいディスクだということができると思います。

この世には、既にホロヴィッツその人はいないかもしれませんが、ホロヴィッツのように楽しませてくれるアーティスト(&プロダクション)はちゃんと存在している、そんなことを感じさせてくれたディスクでありました。(^^)v

そんなの関係ねぇ!!

2007年09月17日 00時00分21秒 | ピアノ関連
★ドメニコ・スカルラッティ:鍵盤ソナタ集
                  (演奏;ミハイル・プレトニョフ)
●DISC 1
1.ソナタ 二長調 K.443
2.ソナタ 二短調 K.1
3.ソナタ ト長調 K.283
4.ソナタ ト長調 K.284
5.ソナタ ロ短調 K.27
6.ソナタ ホ長調 K.380
7.ソナタ イ長調 K.24
8.ソナタ 嬰ハ短調 K.247
9.ソナタ ヘ短調 K.519
10.ソナタ ヘ長調 K.17
11.ソナタ ニ短調 K.9
12.ソナタ イ短調 K.3
13.ソナタ イ長調 K.404
14.ソナタ ニ短調 K.213
15.ソナタ 二長調 K.214 

●DISC 2
1.ソナタ 二長調 K.96
2.ソナタ ト長調 K.146
3.ソナタ ロ短調 K.87
4.ソナタ ト長調 K.520
5.ソナタ ハ短調 K.11
6.ソナタ ヘ短調 K.386
7.ソナタ ヘ短調 K.387
8.ソナタ イ長調 K.268
9.ソナタ ニ短調 K.141
10.ソナタ イ長調 K.113
11.ソナタ 嬰ヘ短調 K.25
12.ソナタ ロ短調 K.173
13.ソナタ ト長調 K.523
14.ソナタ ト短調 K.8
15.ソナタ ト長調 K.259
16.ソナタ 二短調 K.29
                  (1994年録音)

スカルラッティのソナタは比較的馴染みがあるかたが多いんじゃないでしょうか?

ホロヴィッツの魔法のような演奏もありますし・・・。ただ、彼の場合は何をやっても魔法のようでしたよね。ある意味では晩年のヒビの入った骨董品と称された演奏すらも・・・。(^^;)
なんでこんなのが人前に出てくるんだろう・・・という思いも無きにしも非ずで・・・。

ただ、スカルラッティやスクリャービンの頃の演奏は、マジでマジック!!
結局、このオチにもっていきたかっただけなのかもしれません。(^^;)

そのことについて何を言われようが「そんなの関係ねぇ!!」と、今日はバッくれるわけです。

さて、その後私にとって印象的なスカルラッティをその後弾いているピアニストといえば、ミケランジェリ、ポゴレリチ、ペライア、シフ、ワイゼンベルク・・・と正統派、曲者、奇人変人、巨匠を問わず枚挙に暇がありません。
誰がどれを指すかとかは考えなくてもよろしいですよ!
例示の順番が合ってないとか「そんなの関係ねぇ!!」であります。

ちなみに、昨今このネタでTV界を席巻しているらしい小島某という芸人を、私は今日(これを書いている今は9月15日なんです~)のIQサプリではじめて見ました。
私のこのバックステージをずっとお読みくださってる方は首肯いただけると思いますが、オヤジの私は親父ギャグは愛好しておりますが、あのテの笑いのとりかたにはいささか懐疑的であります。
何より醜悪じゃないですか・・・本人は「そんなの関係ねぇ!!」とおっしゃるでしょうけどね。(^^;)

さて、何が言いたかったかというと、いろんなピアニストによって弾かれているスカルラッティですが、チェンバロのために書かれているこれらのソナタをピアノで弾くこと自体がもはやチャレンジであるはずなのに、プレトニョフ(表記はこのレコードにあわせています。昨今はプレトニェフって表記されてるのが多いですよね)はCDのディスク2枚分もピアノで演奏してしまっています。

いくら聴き慣れた粒ぞろいの名曲たちとはいえ飽きちゃいはしないかと心配もしましたが、初めて聴いたときからそんなことは全然なかったですねぇ~。
今日、お昼近くに目覚めて何か相応しい音楽はと思ったときに思い当たり、久しぶりに聴きましたがブランチを作って食べてしてる間に2枚続けて聴いちゃいました。(^^)/

プレトニョフはさすがチャイコンの覇者であり、この頃から冴えた演奏をしてたんだなぁ~と感服することしきり・・・。
最近の演奏を知っている私としては、スケールが大きくなったというのがはっきり聴き取れるのですが、それがよかったかどうかはまた別問題。
この頃のプレトニョフならではの、才気にあふれた演奏ぶりにおおいに感激した・・・と書いておきましょう。

そうそう、誰だったか忘れたけどプレトニョフのお師匠筋が「プレトニョフの頭脳と、ポゴレリチの手が合体したら史上最強のピアニストができるのに」と言ったとか言わないとか。。。
真偽の程は定かではありませんけどね。(^^;)
そのポゴレリチのスカルラッティもキラキラした美しい音色が素敵な、個性的なものでしたっけ。

でも、やはり引っかかるのがその演奏ぶりなんですよね。
現代ピアノでしかできないことを、ふんだんに使っている・・・。
いちばん凄いと思ったのは、ディスク2の冒頭K.96の中程では、ペダルを踏みっぱなしにして音色をカオスにしているんです。もちろんタッチの仕方を細心の注意をもって行い霧吹きをかけたような音の交ぜかたなんですけどね・・・。

これじゃロマン派みたいじゃん・・・と思わず言ってしまう私にピアニストは「そんなの関係ねぇ!!」って言うんだろうなぁ~。。。(^^;)

続けてプレトニョフは「ブゾーニのバッハの編曲だって似たようなもんだろうが!」と言いいそうだなぁ~・・・でも、「そんなの関係ねぇ!!」と私はいいたいけどなぁ~。

ひとりで「そんなの関係ねぇ!!」のダイアログの応酬してても始まりませんが・・・。(^^;)

しかし、最後のK.29のピアノの連打はチェンバロじゃ絶対できないよなぁ~。
スカルラッティもスペイシーな技巧で仕えてたお姫様を楽しませたんだろうけど、こんな演奏のしかたをされていると知ったらなんと思うんだろうか?

さすが未来の楽器はスゴイと喜んだだろうか・・・?
それとも、こんなケッタイなことしやがってと怒るだろうか・・・?

いずれにしてもプレトニョフは自分のやりたいようにやったんであって、「そんなの関係ねぇ!!」なんでしょうね。
そういえば、どことなくこのピアノを連打するリズムが「そんなの関係ねぇ!!」に似てるような気がしないでもない。

あぁ、「そんなの関係ねぇ!!」に毒されてきた!!(>_<)
あの奇矯な半裸の踊りが夢に出てきたら・・・きゃー!!

ちなみに、このディスクは96年のグラモフォン賞を受賞しています。そういえば私がこのディスクを買った理由は「受賞盤だから」・・・だったんですよね。
ってことは、イギリスの権威もこの演奏のプレトニョフの才気溢れるびっくり解釈がバロック音楽っぽくないことについて、いいものはいい、「そんなの関係ねえ!!」と連呼したってことでしょうか?

あぁVISAカードの宣伝で、「ユーロ、ユーロ」と肩組んで連呼してるのと小島よしおがシンクロしてきた・・・。

小島よしおが何人もならんで「そんなの関係ねぇ!!」をあのフリで連呼されたら・・・

オッパッピー!!(>_<)

あまりにも・あまりにも

2007年09月16日 01時27分02秒 | ピアノ関連
★シューマン:クライスレリアーナ、幻想曲 作品17
                  (演奏:エフゲニー・キーシン)
1.クライスレリアーナ 作品16
2.幻想曲 ハ長調 作品17
                  (1997年、1995年録音)

先日タワレコで590円で買ったCDです。
はじめに断っておきますが、タイトルはキーシンの演奏に関して申し上げていることではありません。
そりゃキーシンの持ってないシューマンのコンピレーション・アルバムがこの値段で売っていれば、一度ちゃんと聴いてみようと思いますよね。

その演奏は今より10年前のものですから、20台半ばの若き巨匠・・・あるいは巨匠の卵・・・によるものということになります。
まさに巨匠らしい柄の大きい演奏です。
これをあえてスケールといわないところが、びみょ~なところではあります。(^^;)

さらに“才気煥発”と感じさせるフレージングも数々あって・・・あってというより自分から仕掛けて行っていて・・・大器であることは間違いなかったんだと改めて感じさせられました。


ところで、私は時折「偉人と呼ばれる人は果たして若い頃から偉大だったのだろうか?」ということを考えたりします。
例えば、彼等は決して最初から偉大だったのではなく、終始偉大であるかのような振り(偉人だったらどうするだろうかを模索して、意識してそれを忠実にトレースすること)をして、果たしてその最期の時まで偉大な“振り”をし続けえた人が偉人と呼ばれるようになりえたのではということじゃないのか・・・なんて思うわけです。

言い換えれば、常に背伸びをしていた人、そして最後まで背伸びしたままでいられた人が偉大な人なんじゃないだろうか・・・ということです。


キーシンの演奏を聴いていると本当にそう思うことがあります。

彼の偉いところは、テクニック的には常人離れしているとはいえ必ず“人間業”として聞かせてくれるということだと思っています。

とくにデュナーミクの振幅の大きさは、非常に聴きやすくわかりやすい解釈だという印象を聴き手に持たせることに貢献しているように思うのです。
キーシンはテンポもじっくりとることが多いですよね。
先ほどの“柄が大きさ”やデュナーミクと合わせて『横綱相撲』的演奏に思える所以となっているし、さらに求められる場面では超絶に速いパッセージをこなすこともできるので、まさに技術的な万全さをここでも誇っているといえます。

演奏に関する精神面においても、自ら演奏に仕掛けていくことで緊張感を表出することもできることから、やはり巨匠・大家と言って差し支えないと思うのですが、どうしても・・・なぜかどうしてもキーシンの場合、大家もどきというか偽大家という想いが頭をよぎるのを避けることができないんですよねぇ~・・・。(>_<)

後年に録音したショパンの“バラード集”、ムソルグスキーの“展覧会の絵”のディスクではエクスキューズなく真に天才だと思えるんですけど、才気ではむしろそれより勝っているこのディスクがなぜ・・・似非っぽく聴こえてしまうんでしょうね!?

確たる心証はないんですが、当方の気分によって同じディスクの受け止めかたが違うことが良くあるキーシン・・・。
その意味ではやはりこの頃の演奏は、大家然としていたとしてもいまいち練りあがっていなかったんでしょうかね。

同じような印象は、シューベルトの変ロ長調ソナタのディスクでも感じました。
やはりこれはまだまだ真の巨匠へ脱皮する途中という証なのか、単に得手不得手があるだけなのか。。。(^^;)


さて、ここからは「あのタイトルはなんじゃらほい?」というセクションです。

このディスクはクラシック・ライブラリーというシリーズで、RCAのスター演奏家の魅力的なレパートリーをコンピレーションにした廉価盤。
今、590円で売っていました。

でも、新譜案内で11月に同じプログラムの国内盤が1680円で発売されると出ていました・・・。

え・・・!?

これでビジネスとして成り立つんだろうか?
民間会社に勤めるものとして、率直にそう思いますね。

今後発売される国内盤というのは、私が求めたディスクと比して何が優位なんでしょうか?
ライナーが日本語であること?
日本盤のほうが何らかの品質が高いというのでしょうか?
この点はいつも私は違和感を持つところです。

そしてもう一点、「何年かすると廉価盤が出るのでは?」と思うと購入当落線上のディスクと永遠にご縁がなくなってしまう・・・かもしれない現状が納得いきません。
アシュケナージのブラームスのソナタの盤なんかその典型・・・まさか出ないなんてねって感じです。(^^;)

輸入盤と国内盤の値段の差を詰めること、廉価盤を出すとしてもどのように出すかを真に聴き手に不快感を与えないよう吟味すること、最初からそれを踏まえた適正な値段設定をするようにすればいいのに・・・そう思っているのは私だけでしょうか?

さらばピアノよ前夜

2007年09月15日 00時00分06秒 | ピアノ関連
★シューベルト:ピアノ・ソナタ D.960 ・ ベートーヴェン:バガテル 作品126
                  (演奏:ミヒャエル・コルスティック)
1.シューベルト:ピアノ・ソナタ 変ロ長調 D.960
2.ベートーヴェン:6つのバガテル 作品126
3.ベートーヴェン:ピアノ小品 変ロ長調 WoO 60
4.ベートーヴェン:アレグレット ロ短調 WoO 61
5.ベートーヴェン:アレグレット・クヮジ・アンダンテ ト短調 WoO 61a
6.シューベルト:ハンガリー風のメロディー D.817
                  (2003年録音)

非常に興味深いプログラムのリサイタルですよね。

ご存知の通りベートーヴェンのは1827年3月26日、ベートーヴェンを熱狂的に信望していたとされるシューベルトはその翌年の11月19日にともにウィーンで亡くなっています。
亡くなった年齢はそれぞれ57歳と31歳と大きく相違していますが、その晩年は・・・当たり前のことながら同時期です。
(^^;)

そしてここに収められた楽曲の作曲年とされている年は、シューベルトの変ロ長調ソナタが1828年9月26日とその死のわずか2ヶ月前、ハンガリー風のメロディーが1824年であります。
また、ベートーヴェンの作品126のバガテルは1824年、WoO60が1818年、WoO61は1821年、WoO61aが1825年ということから判るように、ほぼ両作曲家の晩年5年間の作品に集中しているのです。

ベートーヴェンのWoO60だけがチョッと早いかなとは思いますが、これまた変ロ長調の楽曲ということで、何気に座りのいい調性だと思えなくもないところがこれまた心憎いところ・・・というのは読みすぎかな。(^^;)


とても興味深く思われるのは、シューベルトがその晩年に変ロ長調ソナタという長大な4楽章のソナタを手がけたのに対し、1922年に作品111の2楽章のソナタを作曲した後は、ディアベッリ変奏曲を除けばここにあるようなバガテルのような小品に行き着いたベートーヴェンという対比が効いていること。
そういえばディアベッリも小品の連作・・・ちょっとこじつけでしょうか?(^^;)

シューベルトについては、やはりまだ年齢的に壮大な曲を目指す年配だったんでしょうかねぇ?
このほかにもハ長調の弦楽五重奏曲やミサ曲第6番、ピアノ・ソナタだってD958、D959と本作の3点セットですものね。

ちなみに30歳過ぎのベートーヴェンは、やっぱり“月光”“田園”といったピアノソナタをいっぱい書いているころですね。
他には作品18の6曲セットの弦楽四重奏曲、ヴァイオリン・ソナタ第5番“春”もこの頃ですね。
オーケストラものでは、交響曲第1番と第2番の間、ピアノコンチェルトの第3番のちょっと前ぐらい・・・。
よく考えたら“ハイリンゲンシュタットの遺書”が1802年でしたね。
やっぱり大小問わずに創作意欲満々ですね。

こう考えると、シューベルトにもう少し時間が残されていれば音楽史に残る作品をバシバシ遺してくれたかもしれません。
チョイと残念かも。。。(^^;)


さてベートーヴェンのバガテル作品126ですが、はじめて聴いたときにはフラグメント集みたいに思っていました。
余りにも気まぐれだし、何といっても本人がバガテル(ちょっとしたつまらないもの)と名付けてるぐらいだし・・・。

ただ、ベートーヴェン自身は「磨きぬかれた作品」とこの曲の出来映えについてなかなかの自信をもっていたような書簡があるようだし(ライナーノーツの英語を読んでそう思っただけなのでハズレてたらごめんなさい)、チクルスと銘打ったうえ調性がト長調→ト短調→変ホ長調→ロ短調→ト長調→変ホ長調と長3度下に循環するように作曲していますから、ちゃんと一生懸命こしらえたんでしょうね・・・。

そして先の小品を並べると、変ロ長調でちょっと着地失敗してずり落ちてますが、ちゃんとロ短調→ト短調と持ち直しているところにもピアニストのプログラミングの妙が見えるような気がします。

それらのベートーヴェンの楽曲を、シューベルトの民族色溢れる小品でサンドウィッチにして消え入っていく・・・コルスティックの粋な計らいですね。


ちなみに、このベートーヴェンの長3度を循環する連作というコンセプトは、シューベルトの“楽興の時”に踏襲されます。
(ハ長調→変イ長調→ヘ短調→嬰ハ短調→ヘ短調→変イ長調)
また、D.899とD.935の即興曲集でも関連調を循環する作りとなっており、シューベルトがいかにベートーヴェンを崇拝していたかを表しているんじゃないかなぁ~って、私が勝手に想っています。
真相は、もちろんわかりませんからシューベルトに聞いて下さい。(^^)/


おっと、作曲家とかプログラミングのことばかり書いてディスクの演奏についてのコメントを忘れるところでした。(^^;)


一言で言えば、とても丁寧かつまろやかでレガートが美しい演奏です。


変ロ長調ソナタの第1楽章に25分というじっくりした時間をかけていることで、私には至福の楽しい時間となりました。
絶妙な転調の効果もあってか、この世のものと想われない楽想を擁するこの第1・第2楽章にとっぷり浸かりましたね~。
この音楽をBGMにして似合う景色は世界中のどこにもないような気がします。心の中にあると言えばいいのか、絵にもかけない美しさの竜宮城なら似合うかもしれないというべきか・・・。

あと特筆すべきは第4楽章で、コーダの左手の上行走句に華やかさすら感じさせるような処理ははじめて耳にするもの。
棺桶に両足を突っ込んだぐらいにまで死が迫ったシューベルト、その最後のピアノ・ソナタの最後の最後に死に化粧を施すような気の効いた演奏です。


対してベートーヴェンのバガテルは、ガラッと雰囲気が違いますね。
ことに第1曲、および第6曲中間部などは瞑想的な曲とはいっても明らかに地球上の音楽ですね。
やや形而上学的なところはありますが・・・。

そして、アルバムの最後を締めくくる“ハンガリー風のメロディー”。
興味深いことに、この世から1番遠いと想われる音楽を生み出したシューベルトの音楽が、プログラム中最も人間臭い音楽を作っているんですねぇ~。

結果的に、あの世からこの世に帰還しながら、最後には両作曲家をこの世から懐かしむような作りになっている・・・。

やっぱりプログラムの妙が最も印象的かもなぁ~。(^^;)

ファツィオーリの幻影

2007年09月14日 00時00分35秒 | ピアノ関連
★ショパン:21のノクターン
                  (演奏:アルド・チッコリーニ)
1.《CD1》夜想曲 第1番~第10番
2.《CD2》夜想曲 第11番~第21番
                  (2002年録音)

私にとって現在活躍中の巨匠の筆頭といっていいチッコリーニ・・・。
アルド・チッコリーニが現代の大家であることは、好楽家にとっては「知る人ぞ知る」以上の周知の事実と言っていいのではないでしょうか?

もう1世代下にはクラシック入門時に名声を勝ち得ていた人たちの一群がいるのですが、最初にディスクを集めたブレンデルと並んで思い入れがあるといえるのは、比較的最近になって耳にして魅かれたこのピアニストひとりと言ってよいかもしれません。

このバックステージでも以前にアルベニス・グラナドスのスペイン音楽集、リストの作品集などをご紹介しました。
その他にもベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集やグリーグの抒情小曲集全曲のディスクなどを持っていますが、それら全てのディスクに出会うきっかけを作ってくれた(それらの出費を決意させてくれた)ディスクこそこの1組なのです。


はっきり言っちゃいますが、数あるショパンの夜想曲全集のうちでもっともセンシティブに私の心に響くのは、今もってこのセットです・・・。

この作品集は、単にショパンの夜想曲集という以上にチッコリーニにとって意義あるものとなっているのではないでしょうか?

『チッコリーニの人生そのもの』

まさにそんな形容が相応しい会心の作品・・・「愛」「憧れ」「諦観」「渋み」「空」・・・ありとあらゆる情感が楽曲およびその演奏の中に凝縮されているかのようです。
さらにさらに特筆すべきは、それらの全てにいささかたりとも曇りのない奏楽が展開されていること。
これほど澄んだ演奏には、滅多にお目にかかれるものではありません。

例えるなら、どこまでも深い闇をチラチラと蒼い月影が冷たく照らし出しているかのような、そんな微細な光彩の揺れを背景にして、冷ややかではあるけれど時に微熱を感じさせるピアノの音色がこだましていくという風情。
聴き進むうちに、そんな心象風景に吸い込まれてしまいます。(^^;)


そんな印象を与える最大の要因と感じられるのが、ピアノの音色であります。

ファツィオーリ・・・このイタリアの新進のピアノ・メーカーは驚くほど多くの愛好者を既につかんでいるようですね。

私が(もちろんディスクで)初めて聞いたのは、タール&グロートホイゼンのデュオのアルバムでした。
レコ芸の評者がその均一な音色に驚嘆し「電子楽器か?」と訝しがっていたことを今でもはっきり覚えています。
その後、アンジェラ・ヒューイット、ニコライ・デミジェンコなどもこのピアノを選択していますが、何といってもこの老チッコリーニのファツィオーリとの邂逅が私には福音でした。

チッコリーニ本人が興奮気味にファツィオーリの音の均質性を絶賛し、これまでに弾いたすべての曲をファツィオーリで弾いてみたいというほどの勢いで惚れ込んでいるのをインタビューで目にしました。

その言葉通り、このディスクにはチッコリーニの持てる技術のすべてが詰まっています。
その技術とはタッチ、ペダルの操作によりピアノに何ができるのかを知り尽くした老匠の、経験に裏打ちされた精緻な響きのコントロールにほかならず、ピアノは見事にその要請にこたえているのが感じられます。

ピアノの響きはまさに抜けるようにクリアで透明、そして月の光あるいは星の瞬きを感じさせる「微細な揺れ」を感じさせるもの、チッコリーニはそれをもコントロールして聴き手の心の内側に働きかけてきます。

個々の曲には敢えて触れませんが、これまでの説明の通りここにはチッコリーニの全てがあります。
冷え冷えとした月明かりの夜の虚空にこだまする音は、ピアニストの哲学を全て反映した幻影・・・その音色の「微細な揺れ」に、むき出しにされた心の中に広がる音の風景に共鳴した聴き手の魂・・・。

深い感動の淵から戻った時に心地よい聴後感を伴って、ショパンとチッコリーニに心からの感謝の気持ちを捧げたくなります。

もうひとつの立役者である、ファツィオーリのピアノにも。。。(^^;)


おっと、忘れちゃいけない・・・本当に驚くような演奏家のラインナップを擁する“CASCAVELLE”レーベルにもひとこと触れておかないといけないかもしれませんね。
ピリス、T.レオンハルトなど、どこに契約に繋がる伝があったんでしょうね。(^^;)
これからも、目が離せないレーベルのひとつですね。

もちろん老匠アルド・チッコリーニがこれからも残してくれるだろう人類の財産ともいうべき録音にも、大きな期待を寄せたいと思います。

ピアノによる鑑賞用舞曲集

2007年09月13日 00時00分07秒 | ピアノ関連
★プレイエル・ピアノによるショパン ~マズルカ、ワルツ、その他の舞曲集~
                  (演奏:アルテュール・スホーンデルヴルト)
1.ポロネーズ 嬰ハ短調 作品26-1
2.3つのエコセーズ 作品72-3
3.ワルツ ホ短調
4.タランテル 変イ長調 作品43
5.レントラーとトリオ 変イ長調
6.華麗なる大ワルツ ヘ長調 作品34-3
7.ポロネーズ 変ホ短調 作品26-2
8.コントルダンス ト長調
9.ワルツ 変二長調 作品64-1
10.ワルツ 嬰ハ短調 作品64-2
11.カンタービレ
12.ボレロ ハ長調 作品19
13.華麗なる大ワルツ イ短調 作品34-2
14.4つのマズルカ 作品6
                  (2002年録音 プレイエル・ピアノ使用)

舞曲を芸術音楽に取り入れている例は枚挙に暇がありませんよね。(^^;)
バッハ作曲の、ヴァイオリンやチェロによるそれぞれの無伴奏ソナタだってそうですもんね。

またポロネーズなんていう曲目は、このディスクでも演奏されているとおり何といってもポーランド所縁のショパンのそれらが有名ですが、バッハを初めとしてベートーヴェン、シューベルト、リストにだってあるわけです。

ただ、舞曲というからには本来は踊りの音楽なんでしょうが、どうもリズムを仮借しているだけの作品も少なくないようです。
つまり、実際に踊ることを想定していないものが多いということです。

さて、ここでピアニストは『舞曲としての』ショパンの(主に)初期作品に光を当てており、当時の楽器と思しきプレイエルを巧みに操って一様の成果を挙げています。

このような取組をするにあたって当然の帰結として、まずは踊れるテンポが設定され固有のリズムが強調された演奏ぶりとなっています。
これはピアノフォルテに近いプレイエルを使用しているからこそサマになっていることであり、現代のグランドピアノでやってしまうとトンでもない歪な演奏になるような気もします。(^^;)

インマゼールに学んだというこのピアニスト、名前が難しいのが難ですが、師同様になかなかのフォルテピアノの持ち主、いえ慧眼の持ち主であるとお見受けいたしました。


実際のショパンは、当然にポーランドの(実際に踊るための)舞曲に囲まれ親しんで育ったに相違ありません。
これは、遺作とはいえ実際には早い時期に作曲されたポロネーズやワルツなどを聴けば明らかです。
これらの楽曲の性格を考える時、いま我々がショパンの音楽から受けるイメージで思い浮かべる芸術作品にしようとして作曲したのではないように感じられるところがあるからです。

このように考えた場合、このディスクの聴き心地がこれだけしっくりくるのは当たり前かもしれませんけど・・・逆に、いかに楽曲の解釈が“楽器の発展”や“時代の奏者”の発見によって進歩したのではなく『歪められてきた』のかも感じられるような気がします。

舞曲を印象付けるためにリズムを常に意識していることによって、間違いなく地に足が付いた音楽が生まれているし、土着的なテイストが増しています。
このテイストこそがショパンが曲に込めたかったもののひとつ・・・。
もちろん、パリに出て社交界で花形の一人として活躍するようになってショパン自ら洗練を身につけてからは、リズムは既に仮借を飛び越え換骨奪胎されてしまっている曲も多いですねぇ~。(^^;)

ポロネーズに関して言えば、第5番以降はポロネーズのリズムがもたらすものの雰囲気を借りているだけで、実際は「幻想曲」ですね。
“英雄ポロネーズ”にせよポーランド賛歌をこしらえるために、象徴的にポーランドのリズムを使ったというコンセプトですよね。
“幻想ポロネーズ”に至っては、言うに及ばないでしょう。

個々の曲について感じたところを述べれば、冒頭のポロネーズ第1番は出だしから力強く刻まれたステップが印象的。
抑圧され陰鬱な舞曲が強調されればこそ、続くトリオの憧憬のフレーズが際立って、「こんな解釈もアリかな?」と思わされました。

ホ短調のワルツはその半ば、グランドピアノで聴くととても洗練されたフレーズに聴こえるところがとぼけたように聴こえる・・・人懐っこいといった方がいいのかな?(^^;)

タランテラはプレイエルで弾くことにより大変な曲という印象が、楽しく溌剌とした音楽になっていますね。
作曲経緯を考えれば、あんまり生真面目な曲であるとは思えませんしね・・・これが自然なのかもしれません。

コントルダンスは霊感に満ちたというより、これも誰かの要請に応じて思いっきりコケティッシュな曲を作ってみましたという仕上がりになってます。。。

晩年のワルツ2曲について、“小犬のワルツ”も踊るためには1分で終わっちゃってはならないわけでテンポが独特になってます。そして最後の高音からすばやく下ってくるフレーズにもこの演奏ならではの味わいを感じました。
嬰ハ短調のワルツはお約束どおりのメランコリックな曲ですが、やはり踊りの途中で男女が見つめあっちゃうような感じになっちゃいますよねぇ~。

いずれにせよ、こんな角度から捉えたショパンもすこぶる魅力的なものであります。(^^)v

果てしのない箱庭

2007年09月12日 00時16分14秒 | ピアノ関連
★ショパン:スケルツォ・即興曲全集
                  (演奏:ユージン・インジック)
1.スケルツォ 第1番 ロ短調 作品20
2.スケルツォ 第2番 変ロ短調 作品31
3.スケルツォ 第3番 嬰ハ短調 作品39
4.スケルツォ 第4番 ホ長調 作品54 
5.即興曲 第1番 変イ長調 作品29
6.即興曲 第2番 嬰ヘ長調 作品38
7.即興曲 第3番 変ト長調 作品51
8.幻想即興曲 嬰ハ短調 作品66(遺作)
9.リトアニアの歌 ~17のポーランドの歌 作品74-16 (ジョヴァンニ・ズガンバーティ編)
                  (2006年録音)

8月25日の記事にバラード集を特集したピアニスト、ユージン・インジック。
このディスクを買うかどうか迷ってた時に、そのクラーヴェス盤を聴いてハマったという内容を覚えてらっしゃるでしょうか?

そんなことはどっちでもいいんですが、そのディスクでは未だ紅顔の美青年(?)がちょっと疲れました・・・というジャケットの風采だったインジックも、15年余を経てご覧のように赤ら顔のオジサンになってしまわれました。(^^;)
時の流れのなんとむごいことよ。。。

しかしこのジャケット、手も赤いところをみるとただの酔っ払いではなく、印刷のかげんなのかもしれません。
それとも前日ゴルフかなんかで日焼けしたのかな?
もそっと考慮の余地があってもよかったかなぁ~・・・なんて思ったりもしています。


さてさて、時の流れはむごいばかりではなくて、その間に何を積み重ねてきたかという時間の使いかたいかんによっては、大変に実り多いものをもたらしてくれることもあります。
それを実証するひとつのケースがこの盤であるということに、ためらいはありませんが・・・。
でもねぇ、ピアノをそれなりに弾ける人以外で、初めて聴いた時にその良さがわかるというのならどうしようもなく『玄人』ですね。
そう思えるほどにこの盤は渋い・・・けど、深いし素晴らしい!(^^;)

自己矛盾したタイトルをつけてみましたが、インジックの演奏する世界は途方もなく柄は大きいのです。
しかしインジックの演奏はその広々とした箱庭を感じさせる中で完全に充足していて、一歩も外へ出ようとしない・・・そんな感じがするのです。

じゃ、つまんないかと言うと決してそんなことはない。
ゴルフコースを回るときに、とてつもなく上手でフェアウェイの真ん中を悠然と歩いていく人っていますよね。
彼はたとえそれが見慣れた景色であっても、いつも同じような花道でショットしてコースの同じようなところを歩いていても、周りの景色は移り変わっていくわけだし退屈するようなことはないでしょう。
むしろいつも同じコースを安定して辿るだけの力量があることに満足を覚えて、きっと楽しいんじゃないでしょうかねぇ~。

谷越えのコースも傍目にはわからない、仮にあったとしても技術的に何の破綻もなくクリアできちゃうから問題ではない・・・。
ドッグレッグのコースで「ショートカットできますよ」と言われても、決してショートカットしない。要するに、弾き飛ばすところは皆無。
涼しい顔で、コースなりのフェードをかけて滞空中もコースアウトすることなしにビッグドライブしているところも、もしかしたらあるのかもしれません。。。

自分で自分自身をコントロールできる一定の制約の中でしか弾いていないので、きっと余裕綽々で弾ききれちゃうんです。
ショパンのこれらの楽曲を前にして、こんな状態で演奏に臨めるというのはなんと恵まれたことか!

さらに驚くべきは、そんな安全運転の演奏であれば何らかの不足を感じさせてもおかしくはない・・・はずなのにそんな懸念がまったくあたらないこと。

要するにゴルフコースに喩えた箱庭が、途方もなく広大なスペースを感じさせるから・・・まぁどこに打ってもフェアウェイの花道といわんばかりの広さ・・・おしゃか様の掌のうちを縦横無尽に演奏しているみたいに聴こえてしまうんです。

ノーブルで手堅い自然さを感じさせる演奏ながら、テノールからバス・バリトンの音域の旋律などは、満々とたたえられた水面にわずかにさざ波が打ち震えているほどのセンシティブさを垣間見せ、非常に雄弁に物語を彩っています。
スケルツォのトリオなどで内声を浮き上がらせてみたり、ちょっとオシャレなこともしていますが、基本的には全く仕掛けのないガチンコ演奏を自然体で手堅く演奏していくという姿勢に貫かれているのです。

そして聴き手である私は、ここでもその完成された奏楽に突き抜けるスリルは感じませんけれど、一人の芸術家が時を重ねて研鑽するとこんなことができるようになるんだなという、充足感を感じました。


アルゲリッチの虚空に突き抜けていくようなパワフルショットでロストボール・・・という演奏も、ポリーニの堅実そのものでありながらスーパーな演奏も、メジューエワ等のアグレッシブな演奏も魅力溢れるものですが、このフェアウェイを悠然と歩いていく感のある「A型の確かさ+O型のおおらかさ」というB型の私にはゼッタイにない特性を備えた演奏にもとても憧れる私でありました。

そんなインジックに、即興曲がこれまた合わないわけがない!(^^;)
幻想即興曲などは、時としてパッショネートな曲だと解釈されてハデに弾かれることも多い中、ここでは憂愁・メランコリーな曲だと感じさせられました。
このことは、冒頭のテーマと中間部のイメージが違和感なく繋がるという効果をもたらしており、なかなか得がたい奏楽が聴けたなと思っています。

そして最後の歌曲の編曲がまた最高のデザート。
ショパンならではの旋律をもちながら、これまで聴いてきたショパン演奏からは聴いたことがないような和声の織り成す綾の繊細な美しさときたら・・・。

またまたインジックによる、素敵なリサイタルを堪能したのでした。(^^)v

雄渾さと甘美さと

2007年09月11日 00時00分57秒 | ピアノ関連
★ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番、第14番、第23番、第24番
                  (演奏:クラウディオ・アラウ)
1.ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調 作品13《悲愴》
2.ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調 作品27-2《月光》
3.ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調 作品57《熱情》
4.ピアノ・ソナタ第24番 嬰ヘ長調 作品78《テレーゼ》
                  (1962年・1963年・1965年録音)

いったい私は今までアラウのベートーヴェンの何を聴いてきたのか???・・・と、思わされたものです。(>_<)

先般アラウのドビュッシーを責任感の所産と称賛しましたが、そいじゃベートーヴェンも久しぶりに聴いてみようとおもったんです。
最初、いつものようにステレオでかる~く聴いていたんですが、その時はやはりそれまでどおりどこまでも素直に弾けちゃう大家の「円熟」と「バリバリ」がないまぜになった魅力的な演奏ぐらいにしか思わなかったんです・・・。

ところが、ディスクマンでイヤホンで聴いてぶったまげました。(^^;)
もとより音質というか、雰囲気はステレオの敵ではないです。空気中に広がる音の自然さを含めて評すれば、間違ってもイヤホンのほうがいい音だというつもりはありません。
しかし、アラウが実際にピアノの音をどれほどまでにコントロールしているか、そのナマ音に近い音源を耳元で放射しているのは言うまでもなくイヤホンであります。
アラウの音がいかにディスクに収まっているのか、空気中にそれが放出されることでどれだけそのニュアンスがスポイルされているか・・・もちろんナマだとキツくてスピーカーから出て部屋の残響が伴うから聴きやすくなるということのほうが多いです・・・が、よ~くわかりました。(^^;)


俗に3大ソナタと呼ばれる名前付きソナタ3曲に、“テレーゼ”を加えたプログラム。
調整がハ→嬰ハ→ヘ→嬰へとなることも“テレーゼ”を加えた所以かなというのは深読みが過ぎるのかなぁ~。(^^;)
もちろんこの時期に集中して録られた全集録音からの抜粋でありますが、やはりこの頃がアラウの絶頂であったのかと思わずにはいられません。

アラウの演奏の特長はすべての主語は“雄渾にして精悍な男性”であるということ・・・もちろん私の感覚によればですけど。
“悲愴”にせよいぶし銀というかくすんだ音を駆使してはいるものの、障害やプレッシャーを自分の試練としてポジティブに捉えている男性を想起させます。
そうでなきゃ、第2楽章の旋律をあのように甘美さ(艶っぽさ)を滲ませて歌えるはずがありません!

“月光”も静謐なところはとにかく静かに・・・でもわずかにリズムのニュアンスの様子が妖しいのです・・・逆に第3楽章の奔流などはとどまるところを知りません。
水の流れに喩えるならば、普通は一定の強さまで放出するとそれより水量は出なくなりそうなものですが、アラウの場合にはどれだけでも思いのままに圧をかけることができその水流は無尽蔵に勢いを増すことができるかのようなのです。
恐るべし・・・。
以前にも何かの記事で書きましたが、A級アンプの電源部の強靭さを思わせられるような馬力であります。

そういえば今年が出版200周年に当たる“熱情”も同じ・・・最近の若手の奇を衒ったような演奏も楽しいですが、何も特別なことをしないでここまで聴かせられてしまっては、これがホンモノだと思わざるを得ません。
第2楽章の変奏曲部分も、冒頭はペダルを殆ど控えて無骨に進め、次にわずかにペダルを踏んで弦を開放で一定の音色で鳴らす・・・これが絶美の響き・・・そして次の変奏ではペダルで積極的に音色・響きを創りに行っている。
そして冒頭部が回帰したときにはずっと自然に聴こえるように弾かれている・・・のです。
敢えて不自由な響きを生んで無骨な奏楽をした後に、極美の技を駆使するということで完全にノックアウトしてくれます。

第3楽章にしてもピアニストは、どのように楽譜からこのような感覚的に清新な響きを呼び覚ましてくることができるのかというぐらい素晴らしい演奏です。
弾いた音を操るのではなく、弾いた音がどのような効果をもたらすかを操る術を知っている、つまりその場のムード、聴き手の感情をコントロールしてしまうその技術はもしかしたら人智を超えて形而上学的・・・という言葉が当てはまるかというくらいに。。。

例の左手の音型ひとつとっても、アラウがそこにわずかの音を絡ませただけでドキッとするような刺激的な響きに塗り替わります・・・どうしてそうなっちゃうのか、全く判らないけれども雄渾・甘美でありながらルーティンに堕した音符はひとつもない。
そんなふうに思いました。

“テレーゼ”も先に書いたとおり女性の麗しさを表現した曲ではなく、麗しい女性への憧憬を抱く、否、エスコートする紅顔のポジティブな青年が描かれているようです。
まったく潔い解釈で、楽しく聴けます。(^^)/


また、こんなことも感じました。
よく晩年のアラウは音楽の本質のみを音にしている・・・といわれますよね。
この言葉は間違っていないけれども、60年代のこの演奏を聴くとちょっと違うように思われるのです。

この頃のアラウももしかしたら「音楽の本質だけを演奏しろ!」と言われたらできたんじゃないかなぁ~と思うのです。

それは、アラウほどのピアニストが弾き盛りのときはその本質にトッピングを50でも100でも乗っけることができ、それが自分の意のままに操れるのではないか・・・そう思ったのです。
逆に、そのトッピングするオプションの選択肢は300も500もあったかもしれません。
その中でピアニストが過不足なく解釈して表現しえたのが、この60年代の演奏ではなかったのでしょうか?

晩年の重厚な奏楽は、甘美なものも薄れたとはいえ確かに健在で、音楽の本質のみを表現したという文言に偽りはないけれども、正確に言うと精神が違うと思うのです。

要するに、アラウは世に問うのに最低限必要な『本質』の他に演奏に加えて表現することが技術的、体力的にキツくなったのではないかということ・・・です。
加齢のためオプションを乗せて演奏することが不可能になって、自分の美学を世に問うのに最低限必要な要素のみをなんとか発生させることができる音に託してリリースしたのが、晩年の一連の録音にほかならないのではないか、と思うのです。

先に述べたように、この音が出たら聴き手がどう思うかを読むことができるだろうアラウなればこそ、そのような境地の演奏が出来ることに間違いはないでしょうけどね。。。

あくまでも憶測ですが・・・。(^^;)


最後にこの演奏を聴いてもうひとつ考えたことですが、録音が私が生まれた頃・・・昭和40年のチョッと前あたりであるにも拘らず、アナログ録音で随分と味わい深く細部まで録れているなということ。

こんなに細かく取れているのに、ステレオで鳴らすとあくせくしたところが全くない・・・アラウだからという訳でなく、現にアラウはすごくいろんなことを奏楽中に織り込んでいるのに、非常に自然に聴こえるように鳴るのです。

ツィメルマンが、ポリーニやアルゲリッチと話していたという録音技術の進歩のしすぎはこのような細部がくっきりと録れるということが問題ではなくて、それが聴いたときに不自然に思えるぐらいに肥大化されて再生されてしまうことを問題視しているのではないのでしょうか?

ムードという言葉がありますが、今の録音は余りにも鮮明に録れてしまうために、むしろムードを録り切れなくなってしまっているのではないか・・・そのように感じた次第です。

難しいところなのでしょうが、感動・芸術性・アトモスフィアは数値では追いきれないですよね。
デジタル録音のクリアネスとそれらの雰囲気を両立できるような、録音システムができるとアーティストもストレスフリーに録音に臨めるのではないか・・・そんな気もします。

実は、私には“アーティスト側のわがままじゃないかなぁ~”と思っているところもなきにしもあらずなんですけどね。。。
(^^;)

何のことはない、このころのアナログをお手本にして録音すればすむような気もしないではありませんからね。(^^;)

後世に遺すに足る演奏家のレパートリーは、アーティストの意向を汲みながらぜひとも録音できるようにして欲しいものです。

端正なぬくもり ~じゎゎわぁ~

2007年09月10日 02時17分27秒 | ピアノ関連
★トゥルーデリース・レオンハルト
                  (演奏:トゥルーデリース・レオンハルト)
1.シューベルト:即興曲集 作品90 D.899
2.シューベルト:ピアノ・ソナタ ホ長調 D.157
3.2つのエコセーズ D.618b
4.6つのエコセーズ D.421
5.エコセーズ D.511
6.6つのエコセーズ D.697+D.145
7.10のエコセーズ D.977+D.145
8.エコセーズ D.158
                  (1999年)

トゥルーデリース・レオンハルトは、かのグスタフ・レオンハルトの妹さんです。

レオンハルト家がどんなだったかは知る由もありませんが、グスタフ兄さんの厳格な美学からしてさぞ厳しいお家柄だったのではないかと想像するのは困難なことではありません。

ご多分にもれず妹のトゥルーデリースの演奏からも“厳格”というと語弊があるので避けますが、端整、否、端正と漢字を当てたほうが相応しい質感が感じられるのであります。
これはシューベルトというロマン派の楽曲を演奏しているから・・・なのかもしれませんが。

彼女のレパートリーはディスコグラフィーを見る限りシューベルト、メンデルスゾーン、ベートーヴェンといったところなので、お兄さんが弾くそれとは重複することはなさそうです。
ただ、同じ家の同じ環境下で同じ作法を学びとってきたお二人らしく、演奏から感じるテイストには男女の差やレパートリーの差はあれ似たような空気が流れているのを感じます。

そしてこのシューベルトの特長は過度なロマンには浸らず、あくまでも素朴な語り口で弾き進められる中から“じゎゎわぁ~”とジャケットどおり木造の瀟洒な部屋から、木枠のフォルテピアノで奏でられたからこそ感じうる“木のぬくもり”みたいなものが感じられることであります。

繰り返し言葉を換えて言いますが、彼女の演奏は全く聴き手に親切な演奏であるとは思えません。(^^;)
お兄さん同様に聴きようによっては自分の信じるものに忠実に、誠実に弾いているだけなのであります。

何かを表現する・・・のではなくて、そのような流儀で弾いたものから“にじみ出る”もので勝負しているというべき演奏。。。
伝わりますでしょうか!?(^^;)

シューベルトの時代と同じ楽器を使用していればこその“シンパシー”もあるのでしょうが、とにかく楽譜を自分の信じるシューベルトにとって正しく再現しているという風情なのです。

そして、その結果はタイトルのとおりです。
このにじみ出てきた“ぬくもり”からは心から信頼できるという温かみが感じられ、ある種の前向きな明るさに惹かれます。


しかし、この即興曲集はいつも思うのですがなんと素晴らしい曲集であることか・・・そして、いかに多くの解釈を容認する奥深い曲であることか!(^^;)

私は特に第1曲のハ短調が好きですが、この演奏でもフォルテピアノのいろんな成分を含んだ音色がとても魅力的に響いてきます。
現代のグランドピアノで弾いた場合には壮絶な曲になることが多いですし、確かに壮絶な曲なんでしょうが、ここでは何かに充足しているような雰囲気もありとても救われます。

第2曲もフォルテピアノならではの乾いた音色を印象深く遣って、華美に陥るのを防いでいますし、第3曲も辛口とは言いませんが、品の良い婦人のたしなみといったものを感じさせる演奏です。第4曲もペダルを遣って音を溶かし込むようなところもありますが、ここも行き過ぎた表現になることはありません。

噛めば噛むほど・・・といったらいいのかなぁ~!?
あんまり適当じゃないかな。。。


続くソナタはあまり聴く機会のあるものではありませんが、明るく勢いもあり初期のシューベルトだということを即興曲と並べて聞くことで余計に強く感じるように思います。

そのあとが凄くて、エコセーズをよくもまあ並べたもんですね。
フラグメント集みたいな気もしますが、中にはきらりんと光るものも何篇かあったりして興味深かったですね。
もちろんピアニストはいずれの曲にも最大限の注意を払って再現しております。エコセーズ特有のかわいらしさが滲み出て来るよう努めているのでしょうか。
でも、最後の最後、エコセーズと銘打たれているものの30秒強の一篇は『確信犯』ですな。
気ぜわしいというか、エコセーズらしからぬ疾風怒濤(?)のイメージがある曲でアルバムを締めています。

衣装、装丁、レイアウトなどジャケットの雰囲気の統一性も含めて非常に練られたディスク・企画であり、ミス・マープルのイタズラという感じの茶目っ気の発露でありましょうか?

いずれにせよ大人の味わいのシューベルトでした。(^^)/


私はトゥルーデリース・レオンハルトをシューベルトの最良の解釈者の一人と思っています。
彼女によるシューベルトのピアノ・ソナタ集がジェックリン・レーベルから2枚組み2セット発売されており、一時期大変に愛聴しておりました。

もう少し寒くなったら、心の暖をとりたいときに聴いてみようかな。(^^)/
火がつくのには時間がかかるけど、じゎゎわぁ~・・・の方が長くあったまることができますからね!

ラヴェルの意識下に

2007年09月08日 23時25分07秒 | ピアノ関連
★シャブリエ:“絵画的な10の小品”他のピアノ作品集
                  (演奏:アンジェラ・ヒューイット)
1.即興曲
2.田園風のロンド
3.絵画的な10の小品
4.朝の歌
5.踊るように
6.奇想曲
7.アルバムの綴り
8.ハバネラ
9.気まぐれなブーレ
                  (2004年録音)

アンジェラ・ヒューイットは、ファツィオーリのピアノを使用したうえで精緻に旋律線を描き分けたバッハの演奏で名を馳せましたよね。
この切り口で考えた場合に、ヒューイットほど精密かつ繊細にアプローチして実績をあげることができているピアニストはいないといって良いかもしれません。

そのヒューイットは、フランス音楽にも造詣が深いというのはディスクのカタログを見ても明らかであると思います。
旧くはクープランから既に何枚かのCDをものにし、その完結編を発表した後にこのシャブリエの1枚、ラヴェルはピアノ曲の全集をそれ以前に録音していますし、そういえばメシアンのディスクまであったなぁ~といった具合。(^^;)

これらの作品群の評価にさまざまな見解があるようですね。
私はラヴェルの全集とこのシャブリエの作品集を持っていますが、はっきり言えばラヴェルは必ずしもそのよさがはっきりわからないというのが実感です。

そしてこのシャブリエは・・・パフォーマンス以前にやはり「楽曲が」やや脆弱であるように思えます。
でも、ヒューイットの演奏は非常に多くのことを示唆してくれるという意味で大変興味深く聴くことができました。


エマニュエル・シャブリエ(1841-1894)は代表作の狂詩曲《スペイン》によって広く知られるフランスの作曲家で、ロマン派からラヴェルやドビュッシーへの橋渡し的な役割を果たした人物、とディストリビューターのアナウンスにありますが、結果的にはそうなのかもしれませんが非常に特異な地位を占める作曲家であると感じました。
というのは、シャブリエの前にシャブリエのような作曲家はいなかったのではないかと思われるからです。

このディスクを聴いて初めてシャブリエに触れてみて、私の頭の中ではシャブリエはラヴェルがラヴェルになるための秀作を書いた人・・・という位置づけで捉えるのが相応しいという結論に至りました。(^^;)
むろん、一般的に正しいかどうかは別ですけどね。


私にはこのディスクから、いたるところにラヴェルのピアノ作品の閃きとも言える音響が聴こえるように思われました。
それは本当に響きの閃きともいえるニュアンスなんですが、最初の2曲からは“鏡”のなかの“蛾”や“悲しい鳥”の和声が、シャブリエの代表作らしい“絵画的な10の小品”の第4曲冒頭からは“ラ・ヴァルス”の雲間から旋律が聞こえるようなイメージが連想されたのです。

ラヴェル自身は自らの音楽の多くを師であるフォーレに負っていると述懐していますが、“亡き王女のためのパヴァーヌ”ではシャブリエからの影響が顕著だと述べていたりするように、シャブリエの音楽にはきちんとした距離感をおきたいと思いつつも知らず知らず自身の作品にそのエコーを聞くのを認めているようです。

“亡き王女のためのパヴァーヌ”へのシャブリエの影響は、正直私にはわからなかったのですが、実はラヴェルの作曲においてエレガンスや方法論はフォーレのそれを十全に吸収して、意識して自身の心の声との融合を図ろうとしたのかもしれませんが、「心の声」にはシャブリエの音響がかなり根深く棲みついているのではないかと感じさせられました。

ラヴェル独特の・・・とかねて思ってきた音の配合具合に酷似した感覚を味わうことが出来た、ということはその音響を聴いたときにどのようなキモチが惹起せられるかという点において同様の感触があったということにほかならず、シャブリエは明らかにラヴェルの先達であります。
ラヴェル自身も自らの意識下に刷り込まれてしまっているこれらの音響には、抗うことが出来なかったんでしょうね。

ですから、同じようなテイストは“高雅にして感傷的なワルツ”“クープランの墓”“ト長調の両手のピアノ協奏曲”などにも感じられます。
ただそこはラヴェルのこと、シャブリエよりはずっと洗練されて自身の音楽として消化吸収されているんですけどね。

このようにシャブリエが明らかにラヴェルのルーツのひとつであるということをヒューイットは意識して演奏したのでしょうか?
私は必ずしもそうではないと思うのですが、ここまで強く感じさせる要因は、やはりファツィオーリのピアノの均質で品位ある音色が、ヒューイットの精緻な指先によって緻密に空間に構成され放たれていることにあると睨んでいます。

このように新しい発見をさせてくれたピアニストとピアノの品質に、大いに敬意を払いたいと思うものです。

フランス音楽発展の歴史・・・だとか難しいことを考えず、ピアノの小品(ピース)を味わうつもりであれば、感覚的に楽しめる曲目も少なくないのでぜひとも一度は触れてみるといい曲集であり、ディスクであるのかもしれません。

未聴ですが、いろいろフランスのピアニストによる企画もあるようであります。
機会があれば別の解釈によるものも試しに聴いてみたい・・・そんなことを思いました。(^^)v