人吉を訪ねるに人吉城趾は外せない。
場所は市街地と球磨川をはさんで南側に位置する。
球磨川が大きく蛇行し、その南に流れる支流(胸川)との合流点付近に築城されている。

球磨川は天然の要害として機能すると共に、船による人や物の運搬にも大いに利用されていた。
球磨盆地の年貢米等は川船によって運び込まれていたという。

大手門とは別に、船着き場から入る水の手口という門が設けられ、今でも米蔵の礎石は門の近くに残っている。
入口付近の石垣がとても特徴のある形をしている。

武者返しの目的で、最上部に切りそろえた石を並べて突き出た造りにしている。
熊本城の武者返しの石垣よりずっと後の時代の西洋の工法が取り入れられているのだとか。
中に入って三の丸から本丸にいたる経路は枡形の構造になっていて各地の城に似ている。

ただ正面から半分くらいは石垣を使った近世の城だが、東側は中世の山城となっていて急峻な自然の崖等で防御している。
相良藩は火災や水害等天災による災いの他比較的平穏で、700年以上にわたり独特の文化を育んできた。
ただ西南戦争の折には、薩軍として戦ったので官軍の攻撃により町全体が相当の被害を受けた。
人吉市の観光案内ボランティアの説明と、郷土史家の楽しくかつ詳しい話がふんだんに聞けた一日だった。
人吉城趾の後の話は、また明日のこころだあ。

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場所は市街地と球磨川をはさんで南側に位置する。
球磨川が大きく蛇行し、その南に流れる支流(胸川)との合流点付近に築城されている。

球磨川は天然の要害として機能すると共に、船による人や物の運搬にも大いに利用されていた。
球磨盆地の年貢米等は川船によって運び込まれていたという。

大手門とは別に、船着き場から入る水の手口という門が設けられ、今でも米蔵の礎石は門の近くに残っている。
入口付近の石垣がとても特徴のある形をしている。

武者返しの目的で、最上部に切りそろえた石を並べて突き出た造りにしている。
熊本城の武者返しの石垣よりずっと後の時代の西洋の工法が取り入れられているのだとか。
中に入って三の丸から本丸にいたる経路は枡形の構造になっていて各地の城に似ている。

ただ正面から半分くらいは石垣を使った近世の城だが、東側は中世の山城となっていて急峻な自然の崖等で防御している。
相良藩は火災や水害等天災による災いの他比較的平穏で、700年以上にわたり独特の文化を育んできた。
ただ西南戦争の折には、薩軍として戦ったので官軍の攻撃により町全体が相当の被害を受けた。
人吉市の観光案内ボランティアの説明と、郷土史家の楽しくかつ詳しい話がふんだんに聞けた一日だった。
人吉城趾の後の話は、また明日のこころだあ。

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