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カンチャン狂騒曲

日々の事をあれこれと、大山鳴動してネズミ1匹がコンセプト。趣味さまざまなどを際限なく・・。

図書館あれこれ

2015-11-21 08:56:38 | 本と雑誌
 図書館には返本と同時に次の本を借りてくるのでいつも数冊の本が家に所在する。

 目的の本を求めてというのではなく、本棚に並んだ中から適当に抜き取って借りてしまう。

 毎回私が2~3冊借りるのだが、配偶者は5~6冊でお気に入りのシリーズ物なら貸し出し制限の10冊まで借りる。

 ところが前々回の返却日に、身体の具合が悪くなった配偶者の本も合わせて返却した後、次の本を借りようとしたら係員から「返却された本の中に汚れた部分があったが、当初から付着していたものか?」と聞かれた。

 町の図書館は、今年度から指定管理者制度が導入され管理が民間に委託されたが、さすがに細部まで本の管理をしようとしているなと、感心したりもした。

 自分が借りて読んだものではないので分からないと答えると、再度借りて配偶者に確認して貰って欲しいという。

 持ち帰って配偶者に事情を説明すると、本の裏表紙に「汚れ有り」とシールが貼ってあったので、汚れたページの部分のことだなと思った、と返事か帰ってきた。

 取り敢えず今回は配偶者と共に返本に赴き事情を説明させ了解してもらった。

 そのときの配偶者の疑問・質問が当を得ていて面白かった。

 「裏表紙に汚れ有りのシールが貼ってあるのを確認して借りました。読んでいてここのページのことだなと分かりました。でも・・・折角シールを貼るなら、何ページに汚れ有りとしておかないと、このままでは又次の人が同じやり取りをすることになるのじゃありませんか?借りる方も貸し出す方も毎回ややこしくなりませんか?」

 回答は「はあ~・・・」だった。

 気分は優れなかったが、本は借りた。

 
 「街道をゆく(陸奥のみち、肥薩のみち)」司馬遼太郎(著)2005.4朝日新聞社(刊)

 「陸奥のみち」は、南部藩の変遷がとても興味深く、現在の青森・岩手の土地柄というものを想い描かせた。

 「肥薩のみち」は、地元ではあるし直接どの部分を説明しているのか直ぐ分かるし、説明の仕方によって司馬氏の立ち位置が確認出来た。

 いずれの道も、説明がやや断定的と思う人も多くいるのではあるまいかと思えた。

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秘境国

2015-11-16 09:07:11 | 本と雑誌
 「まだ見たことのない絶景」という副題と表紙の写真に興味が湧いて借りてきた。

 
 「秘境」(まだ見たことのない絶景)編集 森山晋平・諸隅宏明 2011・8バイ・インターナショナル(刊)

 写真の処理の加減もあるのだろうが、とにかく凄い風景ばかりで確かに「絶景」である。

 名前は何処かで聞いたことはあるといった程度の国、とか名前すら聞いたこともない国もある。

 ましてや未だかって保護領や植民地であったりすると尚更である。

 見たこともない素晴らしい景色が紹介されるが、同時に紹介されるそこに住む人々の虐げられた生活や秘められた驚きの事実を知ると、風景に喜んでばかりもいられない。

 風景に息を呑み、説明文にげんなりもさせられる部分も結構多い。

 秘境国には人間の問題点が集約されているようだ。

 
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超・反知性主義入門

2015-11-09 12:42:40 | 本と雑誌
 心配していた腰痛は最悪の事態は回避できそうな方向に向かって行くのではないかと推察できる。

 前夜の事態は、入院騒ぎまで云った時と似ていたのだが、翌朝の動けなくなっていたあの痛さが今回は小さかったので、内心ほっとしている。

 それでも用心して万歩計の歩数カウントが作動しない歩き方とか、能舞台で役者がすり足のような静かな足の運びをするのに似せた歩き方をしている。

 じたばたしても仕方が無い。リフォームの後片付け等こっちに置いといて、しばらくはノンビリ本など見ながら過ごすことにした。

 
 「超・反知性主義入門」 小田嶋隆(著)2015・9日経BP社(刊)

 昨年来「反知性主義」という言葉が、にわかに注目を集めている。・・・らしい。

 ただイメージとして描かれ易い「理論・合理性を無視する態度」というのとは異なる。・・・らしい。

 知性をまるごと否定するのではなくて「既存の知性」に対する反逆すること。・・・らしい。

 「今、主流の権威となっている知性や理論をぶっ壊して、次に進みたい」という、別の知性。・・・らしい。

 この知性を巡っては、米国と日本は根本のOSが異なる基本コードで動いているのだという。

 日経BPでの小田嶋氏のコラム「ア・ピース・オブ・警句」の殆どが、権威とか常識とか習慣とくに既存のマスコミ報道などに対する辛口のコメントばかりがちりばめられているので、これこそ反知性主義じゃないかと編集者が考えたようだ。

 巻末の方に「反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体」という著作を著した国際基督教大学副学長の森本あんり氏との対談が収められているが、米国社会と日本社会、宗教観などが分かり易く説明されていて、やっと「反知性」なるものの姿が朧気に見えてくる。

 にわかに注目を集めた言葉らしいが、その言葉さえ知らなかった私としては格段の進歩である。

 ただ、表題の「超」についてはまだわからない。

 
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ハリス・バーディック年代記

2015-11-02 08:49:23 | 本と雑誌
 図書館から借りた本なのだが、一風変わった趣向の本である。

 形や装丁も変わっていて本棚にすんなりと収まるタイプのサイズではない。

 
 「ハリス・バーディック年代記」C・Vオールズバーグほか(著)レモニー・スーケット(序文)村上春樹ほか(訳)
 2015・8河出書房新書(刊)

 「14のものすごいものがたり」という副題がついている。

 短編で、童話のようで、SFのようで(もっとも童話はほぼSFだが・・・)

 村上春樹が訳しているのは、「はじめに」の部分だけであるが、本の最後に「はじめに」が載っているのも奇妙だ。

 序文」とダブっているし、序文と・はじめに、の区別がよく分からない。

 その序文とはじめにの中に出てくる一節に・・・・こうある。

 ハリス・バーディックのお話は誰でも知っているのに、彼の正体は殆ど謎である。今から25年以上前、ピーター/ウェンダーズという人の所にハリス・バーディックと名乗る人物が訪ねてきた。彼は14枚の素敵な絵と、それをうわまわる、とはいわれないまでも、同じくらい素敵な短い説明文を見せ、翌日にはさらに数枚の絵とそれにふさわしい物語を持ってくると約束して立ち去り、それっきり杳として消えてしまった。
 ハリス・バーディックぐらいミステリアスな作家がいるだろうか?・・・・・(宇佐川昌子:訳)

 そして、作者と訳者がそれぞれ違う14の物語が、持ち込まれたという「絵」とともに展開される。

 それぞれが個性のある大人の童話である。

 
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秘島図鑑

2015-10-25 08:31:30 | 本と雑誌
 何処かに行きたいと思うとき「離島」を思い浮かべることが時々ある。

 何故だか知らないが十五少年漂流記的願望がどこかにあるからなのだろう。

 そんな折図書館の新書コーナーで「秘島図鑑」なる題名の本が目についた。

 
 「秘島図鑑」清水浩史(著)2015.7河出書房新社(刊)

 離島という表現なら無人島だというイメージは薄い。

 しかし、孤島から秘島辺りになってくるとだんだん無人島らしくなってくる。

 多分生活には厳し過ぎる環境ゆえに無人島なのだろうし、ましてや物理的に人間の生存に最低限必要な水や足場さえもなく植物もない単純な岩ばかりの島も登場してくる。

 また、かつては大勢が水産であったり鉱物の採集などで生活していた島も、資源の枯渇などで立ちゆかなくなり住民が全て離れてしまった島もある。

 日本で一番南であるとか北であるとか、とにかく一番と称される島も登場する。

 秘島図鑑は、無知のものに対する希望や漂流記的わくわく感とともに、歴史の中に滅び行くものの寂しさに似たような気分にさせられる島が沢山出てくる。

 独特の雰囲気に浸ってしばし絶海の孤島を想い描くのも悪くは無い。

 
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老いと死を伝える子どもの本

2015-10-20 12:09:07 | 本と雑誌
 前回は「大人のための児童文学講座」(ひこ・田中)を読んで妙に感心したものだが、その勢いで子どもの本についての著作をもう一冊読んでみた。

 
 「老いと死を伝える子どもの本」谷出千代子(著)2011.5改訂2刷 大空社(刊)

 「老い」に対して子どもの本の姿勢は、過去から現在へどう変遷してきたのかが主たる内容である。

 「老人と子どもの関わり」「死の描写へのアプローチ」「性役割の視点」「老人を取り巻く環境」といったものを、更に細部にわたって分析している。

 脇役であれ主人公であれ、高齢者が描かれる立場は、家族や地域の中で好々爺で尊敬と畏敬の念の対象として描かれ、子供達の良き話し相手であった。

 しかし、子供達の世界そのものにも厳しい現実が立ちふさがっている今日、こうした老人像は通用しない。

 大人のための児童文学講座でも指摘されたとおり、認知症、高齢者と家族の葛藤、人間の終焉を現実描写でまざまざと描き出すことの緊張感がみなぎった作品が多くなってきたと指摘されている。

 祖父母の「老い・老醜・死に至る過程」「死体そのもの」「家族の対応」など体験することがなくなった子ども達へどう伝えて行くのかは、確かに大切なことなのである。

 私は個人的には6歳のとき母親が死に、裸を他人に委ねて洗われる理不尽さと、無抵抗でなすすべもない母親の無念を、目の当たりに見せられて泣き叫んだことを今でも克明に覚えているし、生きることの認識はその時芽生えたと思っている。

 その後、私が成人したあと祖父母とも相次いで亡くなったが、「老人」と「死」は常にそこにあったわけである。

 翻って、私の子や孫はどうだろう。

 努めて醜いものとして、あるいは経験しなくていいものなら忌諱すべきものとして回避して来なかったか。

 「老い」の領域に立ち至ったいま、胸に応えることばかりである。

 「夭折の母は夢にも出てくれず」

 
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大人のための児童文学講座

2015-09-29 09:57:48 | 本と雑誌
 昨日は詩について右目からウロコで、今日は児童文学について左目からウロコだった。

 
 「大人のための児童文学講座」ひこ・田中(著)2005.4徳間書店(刊)

 「家族」と「子ども」という観点から大きくジャンル分けして、そのなかで家族像や子ども像がどのように変遷していったかを解説している。

 児童文学は基本的に児童を読者として想定したもので、そういうものがあった方が良いという社会的な要求から生まれたわけで、読ませたくない本と分類したかったのだろう。

 子供達にはこうあって欲しいという父母の要求や、その時代が求める家庭像・女性像・父親象などが色濃く反映され、もしもう一度読み返すならその辺りに視点をもってくれば、当時の大人社会が児童文学にどう反映されていたかが分かって、大人も興味がつのるはずだと著者は述べている。

 以前に「週刊子どもニュース」というNHKの番組があったが、子どもに分かり易いようにシンプルな構成に気が配られていて、何やら持って回った意味不明の大人のニュースよりよっぽどスカッと本質をついて面白いニュースだった。

 同じようなことが児童文学にも言えるのではないかと思う。

 「らしい・らしさ」が求められ、それに呼応する作品が多いものの、やがて価値観の多様化という現実が児童文学の分野にも影響を及ぼして、父は(或いは母は)死んで居ないという想定が多かった物語から、両親の離婚、あるいは親のどちらかの不倫、新しい親の虐待にまで進み庇護されるばかりの子ども達が、自分で判断し決定していくまでに変化している。

 弱い父や働かない父、優しくない母子どもを顧みない母が登場してくるのである。

 児童文学恐るべし・・・のようだ。
 
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詩はあなたの隣りにいる

2015-09-28 09:40:22 | 本と雑誌
 秋の夜長というが、この頃夜が短い感じがするのは年のせいだろうと思う。

 昨日は中秋の名月、そして今日は満月のなかでも特に大きく見えるスーパームーンだという。

 月はおとぎ話の世界から、アポロの着陸を経て人間の手の届くお伽噺とは無縁の物質になったと嘆く向きもあるが、本当にそうだろうか。

 童話や詩が今までのような書き方が出来なくなったことは確かだろうが・・・。 

 
 「詩はあなたの隣りにいる」井坂洋子(著)2015.1筑摩書房(刊)

 見上げた中秋の名月はやはり神秘の輝きを放っていた。

 ウサギもかぐや姫も昔は居たのだと言われれば、そうですねと思わず答えてしまいそうに輝いていた。

 
 (中秋の名月)
 詩と言えば、中学生の頃覚えた詩が3つあって確か「山のあなたの空遠く・・」とか「僕の前に道は無い・・」とかなら今でも暗唱できる。
 その貴重な3つの詩の中で、「月」に関するものがあって題は忘れたが中味は全部覚えているものがある。

 「高き空より照る月は 手に持つ金の絵扇を うかと落としぬわだつみの 青く湛えし敷物に・・(中略)・・汝大空を降り来なば 我大空に昇り得ば」という文章で、文語体の七・五調が当時の自分には新鮮で口ずさんでいるうちに覚えてしまっていたのだ。

 「詩は空を見上げて書き始めるが、詩人になるということは低い目線で世間を見るのを決意することだと、今の私は思っている。」と著者は書いている。

 そう言えば、読んでいて尻込みしてしまいそうな詩も世の中には沢山ある。

 「スマホの小さな画面に没頭するほとんどの人達の顔を見ていると、詩は人の生活に、というか、人の生涯にかすりもしないのだと思って暗い気持ちになる」とも著者は書いている。

 が、私はそうは思わない。

 別な形で自分の詩を(表現したいことを・・)始めたのだ。

 140文字に収まらず、次々ツイートしてみたり、絵文字だらけの不思議な文章であったりはするが・・・。

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ノベル11,ブック18を読む

2015-09-17 09:06:56 | 本と雑誌
 読書の秋ということで図書館へ・・・。

 
 「Noveol 11,Book 18」ダーグ・ソールスター(著)村上春樹(訳)2015.4中央公論新社(刊)

 本の題名がかわっているのと訳者が村上春樹氏だという理由だけで読んでみた。

 題は11冊目の小説で18冊目の著作だということでつけられているらしいと訳者は言う。

 ノルウェイの作家で日本ではあまり知られていないようだ。

 訳者もノルウェイ語が判らないので英訳されたものを許可を得て更に日本語に訳したらしい。

 とにかく文体が変わっていて、現実と心の中で思っている事・地の文の中にある言葉らしきものと現実の対話等がミックスされている。
 登場した人物がいつのまにか消え去り、自分の生き方を変えた出来事もあっさり葬られたり、あっと驚く展開で話の筋が破綻しそうでそれでいてそれこそが作者の表現しようとするところかなと思わされたり・・・。

 十分踏み外しているのに、踏み外していないような妙な錯覚に陥る作品ではある。

 
 「お~い 俳句」伊藤園お~いお茶新俳句大賞傑作選 2015.7 マガジンハウス(刊)

 季語はあってもなくてもよい、字余りでもよい、感じたこと思ったことを五・七・五のリズムにのせてのびのびと。

 と、いうことで平成元年に始まった「新俳句大賞」らしいが、いままで170万を超える句がよせられたらしい。

 入選作から厳選された107句が紹介されている。

 子供から年寄りまで年齢の幅は広いが、小中学生のものが多い。

 完全に川柳でしょうというのが多いが、まあ季語を抜けばほぼ川柳との垣根はないということか。

 季語・切れ字などで垣根をこさえたのは俳句の方だから、垣根を取り払えば短歌・俳句・川柳など皆短詩系の文芸だ。

 いいなと思う句がいくつかあった。

 「親心知る頃うましふきのとう」とか「父になる覚悟でネクタイ強く締め」とか「図書カードあの人もこれ借りたんだ」などなど・・・。

 とりあえず、「山眠るひいばあちゃんの黒電話」という10歳の子の句には負けた。

 さて恥ずかしげもなく一句・・・「文末が点点点になる迷い」。

 などと・・・・。

 
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「道」がつくということ

2015-09-10 09:41:14 | 本と雑誌
 図書館から借りた本2冊を読む。

 
 「小説の楽しみ」小島信夫(著)2007.12水声社(刊)

 実は2度借りていることに気がついたのは、読み始めてしばらくし経ってからのこと。

 この事から分かるように、もう一度読みたかったので借りたという話には程遠い動機である。

 著者なりの楽しみとはいえ、内容的には面白いのだがなにぶんにも話がくどい。

 口頭筆記なのか、とにかく同じ内容の話が何度も出てきてウンザリ感が・・・そこはかとなく・・。

 表題だけで選んでしまうのも悪い癖だが、表題さえも覚えていなかったのはいささか失態。

 さて、2冊目は・・・。

 
 「コラム道」小田嶋隆(著)2012.6ミシマ社(刊)

 これは文句なく面白い。 時々はつい声を出して笑ってしまった。

 数年前からネットのニュースサイトなどで記事を読んでいて、同じ話題なのに切り口がまったく違うので興味を覚えた筆者の著作物なので読んでみたくなったのだ。

 文章を書く人間が自分の携わっている作業に慣れを感じたら、彼は既にコラムニストを卒業しているということだ。なんとなれば、コラムは書き手にとって、常に挑戦であるはずのものだからだ。「慣れ」や「手順」から生まれる文章は、コラムとは別の規格品にすぎない。(文中「はじめに」から)

 コラムについて述べているが、明快な文章読本であってすべてに通じるものがある。

 とにかく、歯切れがいい。

 たぶん、私としては表題を忘れたりはしない一冊になるだろうと思っている。

 「天使にもヘソがあったら母がいる」

 観察力・洞察力・表現力・・・どれも大切なのですなあ。

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