北斗七星は北を指している。
天の気は上昇し、地の気は下降し、上下通じる事が無ければ、冬となる。
冬のことを至ると、謂うのは、どう解釈したらよいのであろうか。
冬至とは、冬がその極みに至って、一陽が来復することである。
そこで陰は子(ね)の中(北)に極まって陽が生じる。
陽は午(うま、南)に極まって陰が生じる。
故に、陰は陽より生じ、子(ね)に極まり、陽は陰より生じ、午(うま)に極まる。
これを陰が極まり、陽が復(かえ)り[冬至]、陽が極まり、陰が復る[夏至]と、いうのである。
これが天地本来の軌道であり、陰陽自然の変化でもある。
人がこの世で生きていく上においても、各々その軌道があり、各々その変化がある。
また、全ての事を為す上においても、各々その軌道があり、各々その変化がある。
故に、道によって行う者は、人としてその常(不変の徳)を失うことなく、事を為してもその順序を失う事が無いのである。
その明らかなことは日月と並び称され、その仁は春と同じくするのであり、それが聖人である。
そこで天に順(した)がうものは生き、天に逆らう者は滅びるのである。
これが、即ちいうところの、人の一行一動、事の一推一挙は、均しく、天道を違えて自ら功行を眛(くら)ますような事があってはならないのである。
そこで、願子(孔子の弟子、願淵)の四勿(論語に、非礼見る勿(なか)れ、非礼聴くなかれ、非礼言うなかれ、非礼動かすなかれ。)、曾子(孔子の弟子)の三省(論語に、吾日に三たび、吾が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか、友と交わりて信ならざるか、伝えしを習わざるか)とは、みな天意を違えて常軌を逸することを恐れるゆえんである。
今の人は軽薄であって、心中偽りが多く、道徳は失われ、日、一日とひどくなっている。
もし、急いで収拾しなければ、壊滅に帰してしまうのである。
吾が道院がこの世に設立されてから、僅な期日の内に広まったのは、或いは、そのよい機会に恵まれたのかも知れないが、しかし、この道というものは、人によって行われ、人によって生まれてくる。
そこで道にその人を得ることが出来なければ、以て道を窺うにも、その入る門が無く、人にしてその道を得ることが出来なければ、更に生存することも、出来ないのである。
この故に、孔子は道とは片時も離れることは出来ないと言い、また、中和を致して、天地位し、万物を育むと言っている。
これは、人が道の本体について、不明であって、道の所在を知ることが、出来ないことを恐れる故に、道のはたらきを明らかにし、道の実を行うことを示して、中と言い、和と言っているのである。
おもうに中とは、人の本心であり、即ち道の本体である。
人が能(よ)く、中を極めれば、即ち七情(喜、怒、哀、懼、愛、悪、欲)に節度が出来て、内には、神を損なうことなく、外には情に流されることなく、道が確立されるのである。
和は処世の本であり、又、命を養うところの根底でもある。
もし能く、和を以て内に蓄えれば、上は、能く天の智慧に接し、下は能く、神の明に合して、内外みな、通じるのである。
そこで経文にも、和とは天下の定まった道理と言っている。
ただ、人は道を行ってもこれを、省察する(反省すること)がないので、これを左に失うので無ければ、これを右に偏り、みな、中正和平の定まっている道理を得ることが出来ないのである。
吾が道院の坐は、即ちその心を平にし、その気を和に導き、心を明らかにして、中を致す所以である。
人の習坐も、雑念によって失われることが、無ければ、また、枯木死灰(心に熱い情熱が無く、死んでいるような状態)によって、失われることになり、これらは、大いに悲しむべきことである。