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玄徳道

道を語るブログです。

黙真人訓、病を未然に防ぐ道。

2021-08-02 05:26:00 | 道院
人生で最も予測しがたいものは疾病であり、また人生で最も嫌がられるのも疾病である。

しかしながら、疾病におかされるということは、人に嫌がられるが、だからといって、それによって疾病が減少するということはない。

実にこれを討論してみるだけの価値がある。

ある人がいうには、先天性の遺伝に属するものは、薬をもって治すことは難しいと。

また後天的な人為に属するものとして、空気が毒素によって汚染されて汚れるのも、人力では如何ともし難いのである。

もとより、このような不可抗力の要素もあるが、これらすべての理由ではないのである。

おもうに人身として生を受けてきた以上は、自然療能という自然治癒能力が存在している。

この種の自然治癒能力には限度があるけれども、人身の先天の氣や後天の気、さらに霊神が後天の傷害を受けることがなければ、その自然治癒力もまた随時強化され、効力を十分に発揮することができるが、しかし、多くの人々はこの点をおろそかにしていて、薬物による治療のみに専心しているのである。

時には薬物もその病気を治すことができるが、しかしその体力を増強させることは、出来ないのである。

時にはその欠乏している物質を補うことはできるが、その疾病を治療することはできないのである。

また時には、その補うことにも、程度が過ぎたり、及ばないという差が出てきて、身体に不必要な負担を掛け、バランスを失ってしまうのである。

また時には、薬を服用することによって、その病気はほとんど治り、後にはただ、自然の養生によって回復することができるのに、それを薬の効用と錯覚して、その薬を依然服用し、しまいには体の不調を感じるようになる。

それでもなおそれが薬の飲み過ぎであることに気が付かず、自分では以前に効き目があったのに、後には不快を感じるようになったのは、自分の病気に変化が起きたのではないかと思い込み、他の医者にかかり、その医者は薬の飲み過ぎによることを知らず、その不快な点のみ治そうとして、その根源を忘れているのである。

このように相互の無知と不明によって、本来軽く治る疾病も深刻にして不治の病になるものもいるのである。

これによっても分かるように、一つの病状によってよい医者を探すことは容易なことではないのである。

そこで、一体吾が身の疾病というのは、何故に侵されて苦痛をなめているのであろうか。

そこで自らその原因を尋ねることもなく、どうして医者の診断を求めるのであろうか。

医者は必ずしも、皆仁愛の心や仁術の志を備えているとは限らない、そこには、又賢い名医と愚かなヤブ医者の相違があり、しかも病人が多くて業務が多忙な場合には詳細な診断を求めようとしても、それは、出来ないのである。

ある時期に漢方の医者は薬に頼らないということが世俗で伝えられたが、最高の名医は未だ病気にならない内にその原因を取り除き、病気にならないで済むのである。

具体的に心臓を例として言えば、これを解剖してみれば、それは一肉体の血の循環器官に過ぎない。

しからば、その神は一体どこにあるのであろうか。それは無形にあるのである。

そこで有形と無形をつなぐはたらきが神経である。

神経の感応と運化のはたらきについては、科学的な解剖によってこれを明らかにすることは出来ない。

それは手術によって、神経の微妙なはたらきが、停止してしまうからである。

神経の中には三つの主要な生命線が心臓にも通じている。

したがって心臓と大脳の主要な神経は相互に感応し、お互いにみな影響しあっているのである。

現代の学説では、人の考えや貪欲などは、その要点みな、大脳と小脳の神経がこれを左右し、各臓腑に影響を与えていると言われている。

以前の漢方の古い書籍の中で心腎の二つの経絡は神経の無形の陰陽における気化のはたらきを指摘しているが、その妙なるはたらきを端的に指摘していないのは、それは人がこれを後天的な考え方でこれに執着し、偏り、とらわれることを恐れるからである。

もし、これを悟って修めることができれば、有形と無形の間に通じることができる。

そこで、名医に代わって病を治すのを神功(神のようなはたらき)というので、それは、陰陽が交わり、相生じ、相剋し、相化するところの道理に精通しているだけであるが、しかし、一般の人はこれに精通することは、難しいのである。

漢方医と西洋医学の比較は、西洋医学は系統的で学び易いが、しかし、無形の気の運行変化による疾病には漢方医には及ばない。

漢方医を初めて学ぶ人は難しい。

それは徒に自己の経験によって相伝えられた効果によってはじめて疾病を治すのである。

故に病気の特殊の変化や予測し難い疾病は、名医でなければ微妙なところを見抜くことが出来ないのである。

心が吾が身の主宰である以上、一身の安危もこれを主(つかさど)るのである。

それには、有形と無形、後天と先天を問わず、必ず心の平安と静寂によって、一身の気血の循環や、新陳代謝や、栄養細胞の正常な発育や、神経、筋骨、経絡などの正常なはたらきを主るのは、皆吾が一心に頼るだけである。

したがって、吾が道院の坐功ではただ坐を怠ることなく、続けることを重視し、一心の安静を求めるようにすれば、後天の仮の肉体の法則に合し、先天の無形の氣霊は活発にはたらき、充実し、有形無形の両面で、後天より、先天に返るのである。

先天における無形の交わり、これを竅といい、後天における有形の交わりこれを合するといい、先天の後天の交合するのを和といい、陰が平で陽が密にして、水火が相交わるのを化という。

最高の名医は未だ病気にならない内にこれを治すとは、すべてこの水火相済の化の中において、これを求めるのである。

また、根源的に疾病の根源を取り除こうとすれば、この中においてこれを求めるのである。

重ねて言うが、心を養うには、欲望を少なくするより善い方法はないし、欲望を少なくするには、静坐よりよい方法はないのである。

ある人が言うには、自分は静坐することは出来ない。

その原因は、一たび坐れば、心に妄念が起ってきて、想念が乱れ、安静になることが出来ない。

これはすでに長い間、放心(外の物にとらわれている心)が習慣となっていて、自分の心が一体どこにあるのか分からないからである。

孟子はその放心を求めて、不動心に至ることができると言っている。

我々はどうして、疾病の苦海より逃れようとすることを求めないのであろうか。

ただ、いたずらに一面では元気を消耗し、一面では薬餌によってつとめて、これを補充するようなことは、なんと危険なことではなかろうか。

コメント (4)
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