先天は天もこれに違うことは出来ない。
天すらもこれに違うことは出来ないのであるが、ましてや人においてはなおさらのことである。
先天とは何であろうか、道だけである。
この道はまことに人が片時も離れることができないものである。
これを小にしては、日常に守るべき不変の道であり、これを大にしては、全宇宙を包んでここから、はみ出るものはなく、内と外との区別なく、その時、その時において常にはたらいており、少しも偏る事がないのである。
君子がこれを学べば、人を慈しみ愛するようになり、小人がこれを学べば、容易にこれを用いることができる。
これをもって道を修めれば、身が修まり、これをもって家を斉(ととの)えば、家が斉い、これをもって国を治め天下を太平にすれば、国は治まり天下は太平となる。
これをもって災いを化せば、災いは化され、これをもって刧をなくすれば、刧がなくなり、その効用をかえりみてみると、なんと大きいことではなかろうか。
そこで、これを成就させる方法について、諸方にこれを告げねばならないのである。
これを成就させるものとは何であろうか。
それは性を以ってするだけである。
そもそも性とは、人によって立ち、命によって存し、その明らかなことは、鏡のように、その清らかなことは、清水のように、不増不滅(増すことなく、減ることなく)不垢不浄(垢〔よご〕れることなく、浄まることなく)、これがその初めである。
それが、人の世に生まれてきて、日がたつにつれて、その本燃の明、本燃の性は、物欲のために覆われてきて、その初めのものを失ってしまうのである。
上古の人を見てみると、天真淳朴であり、知もなく識もなく、何も知らないが、その本燃の性は未だ失われておらず、その動、その静は、みな道に適合していた。
ゆえにその当時の人は皆長寿にして、健やかである。
中世に至っては私心や利己的な事によってその霊をみだし、争奪の端を啓き、災刧もまた、頻発するようになる。
近世に至って人心の私欲は、更にひどくなり、故にその性も道より、ますます遠く離れていき、その災刧の大きいことも、考え及ばないほどである。
これが吾が衆生の苦しんでいるのを見るに忍びず、そこで道を以って普く救うところの舟となすゆえんである。
しからば、本性は、何によって成就させることができるのであろうか。
それは、坐を以ってするのである。
そもそも坐とは、まことに物欲を取り去るところの最高の手段である。
坐して後に悟り、悟りて後に坐り、長期にわたって、力を尽くして、偏った邪念を除き、公平無私となる。
人欲が消失して、天理が回復し、全ては根源に帰するのである。
その時に至れば、精気神は、自然に霊に帰するのである。