五つの福とは、どうすれば訪れて来るのでありましょうか。
人間の一生には、五つの福があり、それは、例え南に面(昔、中国の天子は臣下に対面する時、陽の方位である南に面していた。)している王様といえども、これを得ることは、容易では無いのです。
それをどうして、この五つの福を以て全ての人間の富貴に比較することが出来ましょうか。
この五つの福とは、富み、長寿、康寧(安寧無事)、好徳(徳を好む)、天命を全うすることを言うのです。
この五つの福は、代々積み重ねた修行が無ければ、これを得る事は出来ないのです。
人はただ、富がありさえすれば、何でも出来て万能であると思っていますが、例え富があっても寿命が無ければ、どうして、福の利益を得る事が出来るでありましょうか。
例え長寿を得る事が出来たとしても、身体が健康で無ければ、また安寧の福を得る事が出来ないのです。
その家庭が不和であれば、その人倫の楽しみを享受することは出来ないのです。
それでは、たとえ富みと長寿の福があったとしても、そこには真の楽しみが無い事は当然でございます。
父母の慈、子の孝、兄姉の友、弟妹の恭、夫唱婦随にして、その楽しむ事は、はじめて天然の真楽ということが出来るのでございます。
人として最も得難い事は、ただ、天命を全うすることでございます。
何代かにわたる修道を以てしても、この天命を全うするということは、出来ないのであり、これは古今の事についても、明らかに実証することは出来ないのです。
これは例え億万の金銭があったとしても、この一結果を買うことは出来ないのであり、また、孝行の子や賢い孫がいたとしても、代わる事は出来ないのです。
この生死の関頭(物事の重大な分かれ目)は、刹那の間の事でありますが、しかし、人生の修養と甚(はなは)だ関係があるのです。
この天命を全うすることが出来れば、無量の福に至ることが出来ます。
それと相反して、臨終に苦悩する者は、その輪廻によって幾千万丈の底に堕ちるか、分からないのです。
この終わりを全うするか、それとも苦悩するかは、善悪と苦楽の分かれるところであり、それには、個人が心性を善く修め、善く養うのでなければ、この上乗(宇宙の真理を悟ること)に至ることは、出来ないのでございます。
この上乗を修めるには、人無く、我無く、貪り、愚痴妄念、愛欲などを無くす事です。
故にその富にめぐり会うにしても、それは、人と異なっているのです。
果たして、その真意というのは、これを求める事によって、この富を得たのでしょうか。
それは、自ら求めたのでは無くて、自らやって来たのです。
それは自然の修養によって、自然の幸福を得る事が出来るのでございます。
そこで、中乗の修(ある目的をもって自然では無く、人為的に修めること)は、終日、懸命に努力しても、この万分の一の結果を得られるとは限りません。
そして前日の苦しみは、必ずしも真の苦しみでは無く、前日の困難は必ずしも真の困難では無いのです。
そこで自然の造化(上乗)を以てし、自然の源流を以て修養すれば、不可思議なものがあります。
故に吉凶悔吝、これ常の道でございます。
そして、この道にしたがって行えば、如何なる境遇(吉凶)に出会っても、そこに安泰している事が出来ます。
人が物事を為す上に於いて僥倖(偶然得る幸せ)の心を持ってはいけないし、また、いっぺんに飛び越えて進もうとする心を持ってはいけません。
これらの心があれば、必ず、その禍(わざわい)に会うので、それが無ければ幸せとなります。
例え一時的に逆境に出くわしたとしても、それを善く解釈して素直に受け取れば、必ず自然の好感を得る事が出来ます。
これが一定の理でございます。
世の中の修道する人たちに勧告することは、上乗(悟りへの乗り物)の修を以て着手すれば、必ず、上乗の結果を得る事が出来、もし、中乗を以て進修すれば、例え修めても修める事が出来ず、養っても養う事が出来ず、必ず良好な結果を得る事が出来ず、最後にはまた、中乗の道を得る事も難しいのです。
これもまた。自ら知らなければなりません。
めいめいは、永年に渡って修めているので、自ら点検を加え、せっかく修めても、それによって堕落し、挫折することが無いようにするのです。
これを修めるところの方法は、必ず相(すべての人、また、すべての物)に着(執着)することが無いようにし、相に着することが無ければ、求めるところが、無く、求めるところが無ければ、為すところが無く(後天の人為を以て為すことが無い)、為す事が無ければ、必ず上乗に至る事が出来るのでございます。
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