心は何によって明らかにするのであろうか。
唯、「虚」であれば霊が働き、霊が働けば明らかとなり。明らかであれば、諸々の道理は皆、備わり、全ての事も兼ね備わる。
未だ心が動かない時には広大無辺であり、「織(知らず知らず)(是非善悪を知り分かる心)」無く「知」無く、内には、「思い(一切の念)」が出て来れないし、外からも「思い」が入って来ない。
唯(ただ)、光明の次元を超越して天理が有るだけで、心全体が光明に満たされて、「天理」そのものを自覚するだけで、万物ことごとく「この心」の中に包まれ、全てを体得することが出来る。
「心」と言うものは「物に触れて」動き、「感じる」ことによって通じる。
そこで円に遇えば、円(まる)く、四角に従えば四角に、と言うように、外の環境の変化に適応し、活発で囚われる事なく、自由自在に働く事ができ、その働きは計り知ることは出来ない。
そもそも、「静」であれば「元神」が働き、「動」であれば「真意」が動き、「神と意」は一つであり、ただ、「動と静」の区別があるに過ぎない。
これ故に「心と性」を分けて言えば、心と言うものには「性」が無く、性と言うものには「心」が無く、「依りどころにするもの」も無い。
心は性を載せてはいるが、しかし、性によって心は導かれている。
それが故に、心の高明な働きは、皆、性が本体となっている。
世の中の人は、この心を明らかにする事が出来れば、性が明らかになる。
ただし、性と言うのは、未だ人身の生まれて来ない前の「元神」であり、既に人身に生まれてからは、「元気」となる。
すべて「虚」であることを知ろうとすれば、無形(虚)であって、有形ではない。
皆さんが坐に心を用いる時には、必ずこの心を生き生きと活発にして、これを天に任せ、太虚に遊ばせて、はじめて一身の「鉛汞」が流通する。
外に天地の元陽を吸収し、長い間に「神」自ずから凝り、「息」自ら調い、丹田の一点が、渾然として浩大な働きをし、巡り巡って、有に似て無のようであり、また、無に似て有のような自覚を得る事が出来る。
(鉛汞…鉛と水銀、道家(道教)では、この二つの物を鼎(かなえ)に入れて丹薬を煉り、これを服用すれば長生きすると言うが、これは「外丹法」で、丹道派の「内丹法」では、精・気・炁などを意味する。従って丹薬も物質では無く、炁や気のこと。)
そこでこれを守り、これを照らし欲望を「欲しいままにする」ことが無ければ、内に感じ外に応じ、天地清和の気が一身に流行(めぐり)し、永遠に止む事は無い。
「性」(本体)の功がここに至れば、「命」(用[はたらき])の功は自ずから明らかになる。
故に吾が道院の修方が「静功」(坐による修練)よるには、必ず先ず、「明心見性」しなければならない。
そうすれば、おおむね邪な道に堕ちいる様な事はない。
各々が、勉め励む事を願う。